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はてなキーワード: 総督とは

2021-09-21

大和朝廷に従わない土蜘蛛の族

日本書紀曰く、土塁に住み、胴は短く、手足が長く、力が強いという

どこか要塞都市に住んだオランダ人のようだ

  

そしてイザナギイザナミが生んだとされる神にスサノヲ(素戔嗚)がいる

天照大神宮殿に馬の死体を投げ込んだ異色の神で、出雲大国主命がその息子

スサノオという響きは和語には珍しいうえ、漢字は「戔:わずか 嗚:嘆きの声」の当て字

  

欧州では1世紀、トイトブルクの森の戦いがあり、ゲルマニア軍がローマ軍を撃退したものの、

結局のところ総督ローマ人になってしまい、ゲルマニア軍を率いたアルミニウス暗殺されたらしい、ということがあった

 

実はスサノヲは Susa, Noah というゲルマニア人で仲間たちとはるばる亡命してきた

なんてことはないのかね(のちに土蜘蛛たちは天皇に征伐されてしまったのだが…)

2021-09-11

高山右近キリシタン大名秀吉から棄教を迫られるが拒否。以後、前田家の客将などで過ごすが江戸幕府キリシタン禁止を強固に打ち出すと再び棄教拒否してフィリピンへと海を渡る。老齢のためか気候の変化のためかまもなく現地にして死亡する。なおフィリピンに渡っときにはすでに有名人セレブリティだった模様で現地の総督から大歓迎される。

2021-07-07

圧倒的な戦力差にも関わらず勝利善戦した戦い

 戦力差が10倍以上のもののみ取り上げています。随時更新中 ★は(戦術的)勝者側  

 多くのコメントブクマありがとうございます。 コメントで私が知らなかった戦いについて教えてくださった方ありがとうございますhttps://anond.hatelabo.jp/20210708183653こちらも参照ください

古代

テルモピレーの戦い

 B.C.480 ペルシア戦争 ギリシア軍7000vs★ペルシア軍30万以下

 スパルタレオニダス指揮下のギリシア連合軍ペルシア軍の大軍と激突した。狭い地形を活かし、3日間の激戦を繰り広げるが、背後から攻撃され敗北した。この戦いでギリシア軍は1000人、ペルシア軍は2万人の兵士を失った。

 参考作品「300(ザック・スナイダー監督)」

・彭城の戦い 

 B.C205 楚漢戦争 ★楚3万vs漢56万

 漢軍が彭城を制圧した事を知った項羽精鋭部隊を率いて漢軍を襲撃した。攻略成功したことから油断し、酒宴に明け暮れた漢軍は突然の事態太刀打ちできず20万人以上が戦死した。

昆陽の戦い

 23年 ★緑林軍1万vs新43万

 劉秀率いる緑林軍が新軍に包囲される。劉秀は脱出し、外側から新軍を襲撃して壊滅させた。

・ワトリング街道の戦い

 60年 ★ローマ軍1万vsブリタニア23

 ブーディカ女王率いるケルト人ローマ支配に対して反乱を起こした。ローマ軍は反乱軍を狭いワトリング街道に誘い込み、これを破った。ローマ軍の死傷者はわずか400人であったのに対し、反乱軍の死傷者は8万人であった。

・博望坡の戦い

 203年 三国時代 劉備軍4000vs曹操12

 劉備軍と曹操軍が宛で対峙する。劉備撤退したと見せかけ、誘われた夏侯惇撃破した。李典の援軍が来るとみた劉備は兵を引き、曹操軍も撤退した。

淝水の戦い

 383年 五胡十六国時代 ★東晋軍8万5千vs前秦軍117万

 華北統一成功した前秦東晋征服のために大軍派遣する。前秦軍は敵軍を誘うため、先鋒を退却させる作戦をとるが、兵が混乱して退却を止めなかったため、そこを突かれて敗北した。

中世

・チェラーミの戦い 

 1063年 ★ノルマン軍136vsムスリム5300

 アラブ人支配下にあったシチリアにルッジェーロ1世率いるノルマン人が侵入イスラム教徒撃退した。アラブ軍は戦力の7割を失ったとされる。

・黄天蕩の戦い

 1130年 宋金戦争 ★南宋8000vs金10万 

 韓世忠とその妻梁紅玉率いる南宋軍が金軍を打ち破り、2万5000人を討ち取った。

志度合戦

 1185年 治承・寿永の乱 ★源氏80vs平氏1000

 屋島で破れ、志度寺に立て籠もった平氏源義経が追撃した。平氏大軍が後に続くとみて敗走した。

・下赤坂城の戦い

 1331年 元弘の乱 楠木軍500vs★鎌倉幕府1万

 楠木正成は下赤坂城に籠城し、幕府の包囲にゲリラ戦で1ヶ月以上抵抗した。城は陥落したものの、幕府楠木正成護良親王を討ち損ねた。

千早城の戦い

 1333年 元弘の乱 ★楠木軍1000vs鎌倉幕府2万5000

 千早城に立て籠もった楠木軍は幕府軍に包囲されるも、3ヶ月に渡って抵抗した。気が緩んだところを奇襲するなどの奇策で消耗した幕府軍は攻略を諦め、撤退した。

・船上山の戦い

 1333年 元弘の乱 ★後醍醐天皇軍150vs鎌倉幕府3000

 後醍醐天皇隠岐の島から脱出すると伯耆国武将名和長年挙兵し、隠岐守護佐々木氏攻撃した。名和軍は数百の軍旗を見せつけて威嚇する、暴風雨に乗じて攻撃するなどの戦法で幕府軍を破った。

応永の外寇

 1419年 ★対馬国600vs李氏朝鮮1万7000

 倭寇に悩まされた朝鮮はその本拠地と見なした対馬へ討伐軍を派遣するが、宗氏の抵抗に遭い撤退する。対馬側は100~200人、朝鮮軍は3000人ほどが戦死した。

ビルスの戦い

 1444年 旧チューリッヒ戦争 スイス軍1500vs★フランス軍3万~4万

 スイス軍チューリッヒを包囲したことにより、フランス戦争突入した。スイス軍は数で勝るフランス軍死闘の末に壊滅するが、フランス軍2000人の損害を被った。この戦いによりスイス人の勇敢さがヨーロッパ各地に知れ渡った。

土木の変

 1449年 ★オイラト軍3万vs明軍50万

 明の正統帝は自ら大軍を率いて、オイラトの征伐に向かう。しかし、食料配達の困難や大雨により明軍は士気が低下しており、そこをオイラトに奇襲された。明軍はほぼ全滅し、皇帝捕虜となった。

近世

九頭竜川の戦い

 1506年 戦国時代 ★朝倉軍1万5000vs一向宗30万

 越前制圧を目論む一向宗朝倉軍が九頭竜川を挟んで対峙朝倉軍は夜襲により一向宗撃退した。

セントラの戦い

 1519年 スペインメキシコ征服 ★スペイン軍410vsマヤ軍1万~4万

 征服コルテス率いるスペイン軍がマヤ大軍交戦マヤ軍はスペイン人の軍馬に恐れをなして敗北した。スペイン軍の犠牲わずか2名だが、マヤ軍は800の犠牲を出した。この戦いでコルテスは後の妻にして翻訳者としてアステカ征服に貢献するインディオ女性マリンチェを得た。

・オツンバの戦い

 1520年 スペインメキシコ征服 ★スペイン・トラスカ連合軍 7~800人vsアステカ軍4万

 アステカ軍はスペイン軍の侵略を一度退けることに成功した。その後、大軍を率いて追い打ちを試みる。しかし、初めて見る軍馬威力に恐れ戦き、指揮官を含む大勢戦死したため敗走した。この戦いの後コルテスはアステカを滅ぼした。

・プナの戦い

 1531年 スペインペルー征服 ★スペイン軍168vsプナ先住民3000

 スペイン軍がインカ帝国征服へ向かう途中、プナ島で先住民交戦するが、銃と馬の威力でこれを打ち破る。

・ディーウ包囲戦

 1538年 オスマンポルトガル戦争 ★ポルトガル軍600vsオスマン・クジャラー連合軍2万2000

 ポルトガル軍が連合軍に包囲されるも、3ヶ月の籠城戦の末にこれを退けた。ポルトガル軍の死傷者は40名に対し、連合軍の死傷者は3000名。

・スィゲトヴァール包囲戦

 1566年 ハンガリー軍2000~3000vs★オスマン10万~30万

 ウィーン遠征へ向かうトルコ軍クロアチア総督リンスキ率いるハンガリー軍を包囲。1ヶ月にも及ぶ激戦の末に防衛軍ほとんど全滅したが、トルコ軍にも2万人の犠牲者が出た上、スレイマン1世が陣没したため、撤退余儀なくされた。リシュリューはこの戦いを「文明が救われた戦い」と称えた。

今山の戦い

 1570年 戦国時代 ★龍造寺軍5000vs大友軍6万~8万

 佐賀城に籠城した竜造寺隆信を大友宗麟率いる大軍が包囲する。攻防戦は4ヶ月にも及び、落城は目前に迫ったが、大友軍が勝利確信して宴を催したところを奇襲し、これを破った。

木崎原の戦い 

 1572年 戦国時代 ★島津軍300vs伊東軍3000

 島津軍は数で勝る伊東軍を伏兵に背後を突かせることで破った。島津軍は275人が犠牲となったが、伊東軍は指揮官伊東祐安含む800人以上が戦死した。この戦いは後の島津軍の戦いにおいて参考にされ、九州制覇に貢献した。

信長第一回雑賀攻め

 1577年 戦国時代 雑賀衆2000vs織田10

 信長石山本願寺に味方する雑賀衆の討伐を試みるが、雑賀衆は1ヶ月にも及ぶゲリラ戦でこれを退け、両者の間に和睦が成立した。

天目山の戦い

 1582年 戦国時代甲州征伐 武田軍43vs★織田軍3000~4000

 織田軍に追い詰められた武田軍の最後の戦い。武田軍は奮戦虚しく壊滅し、武田勝頼は自害したが、織田軍にも900人近い死傷者が出た。

・沖田綴の戦い

 1584年 戦国時代 ★島津有馬連合軍6000vs龍造寺軍6万

 連合軍は数で勝る龍造寺軍を釣り野伏せで破った。この戦いで総大将竜造寺隆信は戦死した。

・岩屋城の戦い

 1586年 戦国時代 高橋軍763vs★島津軍2万~5万

 島津軍は筑前を攻めた際、高橋軍の籠城する岩屋城を攻略した。高橋軍は講話提案にも応じず、激戦の末に全滅した。島津軍は4500以上の死傷者を出した。

忍城の戦い

 1590年 戦国時代小田原攻め 成田2000vs★豊臣軍2万~5万

 石田三成ら率いる大軍忍城を包囲し、水攻めを行うも、成田軍はそれに耐え、北条氏が滅亡した後に降伏した。 

四川の戦い

 1597年 慶長の役 ★島津2000vs明・朝鮮連合軍10

 島津義弘率いる日本軍が明軍に包囲されるも、これを返り討ちにした。日本軍の勝因として、鉄砲使用したこと、明軍の食料庫を焼くことで短期決戦に持ち込んだこと、連合軍の統制がとれなかった上に圧倒的な兵力差故に慢心していたことが挙げられる。

田辺城の戦い

 1600年 戦国時代 東軍500vs★西軍1万5000

 田辺城に立て籠もった東軍西軍が包囲するが、東軍には文化人細川幽斎が居たため、西軍積極的な攻勢が出来ず、2ヶ月ほど釘付けになった。最後後陽成天皇の命で開城したが、西軍関ヶ原の戦いには間に合わなかった。

・第二次上田合戦

 1600年 戦国時代 西軍2500vs東軍3万8000

 関ヶ原へ向かう徳川秀忠指揮下の東軍真田昌幸率いる西軍交戦した。足止めを食らった東軍関ヶ原に間に合わなかった。

・リオ・サン・フアン・デ・ニカラグアの戦い

 1762年 七年戦争 ★スペイン100vsイギリス軍2000

 イギリス軍ニカラグア処女降誕要塞を包囲するが、スペイン軍は19歳の少女ラファエラ・エレーラの指揮下で奮戦し、砦を守り抜いた。

近代

アラモの戦い

 1836年 テキサス独立戦争 テキサス200vs★メキシコ軍4000

 当時メキシコ領であったテキサス移住したアメリカ人メキシコに対して反乱を起こした。アラモ砦に籠城したテキサス軍はメキシコ軍の包囲に対し13日間持ちこたえた末に全滅した。

 参考作品アラモジョン・ウェイン監督)」

・雨花台攻略

 1862年 太平天国の乱 ★湘軍2万vs太平天国20

 湘軍によって要塞化された雨花台を太平天国軍が5ヶ月にわたって何度も攻撃するが、落とせず1万の兵力を失った後に攻略を諦めた。

・第二次サビーネ・パスの戦い

 1863年 南北戦争 ★南軍50vs北軍5000

 サビーネ湖とメキシコ湾を繋ぐサビーネ・パス防衛する南軍北軍攻撃を受けるも、これを撃退する。北軍100名が死傷し、350名が捕らえられた。

カマロンの戦い

 1863年 ナポレオン三世メキシコ出兵 フランス外国人部隊65vs★メキシコ2000

 65名の外人部隊現金300万フラン輸送する部隊の護衛を任されていた。メキシコ軍の大軍の前に破れ、43名が戦死、19名が捕虜となったが、輸送部隊目的地へ現金を届ける事が出来た。

・ロルクズドリフトの戦い

 1879年 ズール戦争 ★イギリス軍150vsズールー軍3000~4000

 ロルクズドリフト伝道所跡に築かれたイギリス軍の砦をズールー族の大軍が襲う。イギリス軍は2日間の激戦に勝利し、ズールー軍は800名以上の死傷者を出した。

・アブ・クレアの戦い

 1885年 マフディーの乱 ★イギリス軍1100vsマフディー軍1万2000

 ゴードン将軍の救出に向かうイギリス軍とマフディー軍が激突し、マフディー軍は1100人の死傷者を出して敗北した。

・アブ・クルの戦い

 1885年 マフディーの乱 ★イギリス軍1200vsマフディー軍1万4000

 ゴードン将軍の救助に向かうイギリス軍がマフディー軍と交戦し、勝利した。マフディー軍の損失は明らかではないが甚大であるとされる。

現代

盧溝橋事件

 1937年 日中戦争 ★日本軍5600vs中国軍10

 盧溝橋付近日本軍の夜間演習中に日本兵一人が行方不明になる。日本軍がこれを理由中国軍攻撃し、破った。この事件が熾烈な日中戦争きっかけとなった。

タラワの戦い

 1943年 太平洋戦争 日本軍2600vs★アメリカ軍3万5000

 タラワ環礁ベティオ島を防衛する海軍部隊アメリカ海兵隊が激突した。島は3日で陥落し、守備隊は玉砕したが、米軍も3000人が死傷し、軍への志願率が一時的に減少した。

・拉孟の戦い

 1944年 日中戦争 日本軍1300(うち傷病兵300)vs★中国軍2万

 日本軍中国軍が3ヶ月にわたって交戦し、日本軍が全滅した。中国軍8000人が死傷した。

・騰越の戦い

 1944年 日中戦争 日本軍2800vs★中国軍5万

 日本軍中国軍が3ヶ月にわたって交戦し、日本軍が全滅した。中国軍は2万人が死傷した。

アンガウルの戦い

 1944年 太平洋戦争 日本軍1250vs★アメリカ軍2万1000

 日本軍歩兵第59連隊第1大隊守備するアンガウル島をアメリカ軍第81歩兵師団攻略した。1ヶ月以上にも及ぶ激戦の末に日本軍玉砕したが、米軍2000人死傷した。

 参考作品英霊の絶叫(船坂弘著)」

・一江山島戦役

 1955年 第二次国共内戦 国民党軍700vs★共産党軍7000

 人民解放軍が一江山島に侵入、2日で占領した。台湾軍は全員が戦死するか、捕虜となったが、解放軍にも2000人の死傷者が出た。

・ロングタンの戦い

 1966年 ベトナム戦争 ★オーストラリア軍108vsベトコン2500

 ベトコンオーストラリア軍を襲撃するも、撃退された。オーストラリア軍は42名、ベトコンは600名が死傷し、双方が勝利を主張した。

 参考作品デンジャー・クロース 極限着弾(クリフ・ステンダーズ監督)」

・ロンゲワラの戦い

 1971年 第三次印パ戦争 ★インド軍120vsパキスタン軍2000

 ラジャタンのロンゲワラ村でパキスタン軍インド軍守備隊が交戦インド軍航空機支援を得て、パキスタン軍を破った。パキスタン軍の死者200名に対し、インド軍の死者は2名ほどであった

モガディシュ戦闘

 1993年 ソマリア内戦 ★多国籍軍160vsソマリア民兵2000

 アメリカマレーシアパキスタンからなる多国籍軍が、民兵リーダーであるアイディード将軍の側近二人を逮捕すべく派遣され、民兵交戦状態になった。民兵は数百人が死傷し、多国籍軍目的を達成したが、100名以上が死傷した。

 参考作品ブラックホーク・ダウン(リドリー・スコット監督)」

  

 

2021-04-14

悲報ジェンダーギャップ指数デタラメすぎる件

アイスランドのジェンダーギャップ指数についての記事を読んでて、まさかそんなことはと思って調べてみたら本当にデタラメ指標だったので書く。

要約

  1. 国家元首」と「政治的リーダー」はまったく別の概念である
  2. ジェンダーギャップ指数は「国家元首」と「政治的リーダー」の区別がついていない
  3. したがってガバガバすぎてまったく使いものにならない
  4. それはそれとして、元のnoteにもおかしい点があるのでそこは突っ込む

前提:国家元首(head of state)ってなに?

簡単に言えば「その国で『形式的に』一番偉い人」。

形式的に」というところがミソだ。たとえば多くの立憲君主制国家では、形式的には君主が一番偉い。君主首相を任命し、議会招集し、軍の最高指揮権を持っている(自衛隊の最高指揮権首相にある日本例外的)。

でも、実際には、君主に実権はほとんどない。日本イギリスノルウェーのような民主的立憲君主国では、議会多数派を握った人物首相に任命し、内閣に言われるがままに議会招集し、実際の軍の指揮は首相国防相といった政治家に任せている。

まり、そういった国では、「その国で『形式的に』一番偉い人」」と「その国で『実際に』一番権力を持っている人」とは別になる。

後者、つまり「その国で『実際に』一番権力を持っている人」のことを、「政府の長」という。

アメリカのような大統領制の国では、「国家元首」と「政府の長」は同一人物だけど、議院内閣制の国では、この2つは別人だ。

まり、こういうこと(天皇元首かどうかというややこしい議論はここでは措いておく。実務的にはどう見ても国家元首なので)。

国家元首形式上一番偉い人)政府の長(実際に一番権力がある人)
アメリカジョー・バイデン大統領ジョー・バイデン大統領
イギリスエリザベス2世女王ボリス・ジョンソン首相
日本徳仁天皇菅義偉首相

で、オーストラリアニュージーランド、それにカナダは、いわゆる英連邦王国だ。つまりイギリス国王オーストラリア国王ニュージーランド国王カナダ国王を兼ねている。そうすると、こういうことになる。

国家元首形式上一番偉い人)政府の長(実際に一番権力がある人)
オーストラリアエリザベス2世女王スコット・モリソン首相
ニュージーランドエリザベス2世女王ジャシンダ・アーダーン首相
カナダエリザベス2世女王ジャスティン・トルドー首相

まり、これらの国の「直近50年での国家元首の男女比」を調べたら、ここ半世紀以上ずっとエリザベス女王国家元首をしているのだから、全期間にわたって「女性国家元首」と判定されないとおかしいはずなのだ

ジェンダーギャップ指数デタラメ

で、ここで最新のジェンダーギャップ指数の報告書を見てみよう。

ドキュメント内を“head of state”で検索すると、最初に出てくるのは次のような文章だ。

...Across the 156 countries covered by the index, women represent only 26.1% of some 35,500 parliament seats and just 22.6% of over 3,400 ministers worldwide. In 81

countries, there has never been a woman head of state, as of 15th January 2021... (p.5)

……思い切り、なんの留保もつけずに「国家元首」って書いとるやん……

いや、普通、こういう文書を作るときはさ、「政府の長」とか「政治的リーダー」とか「選挙によって選ばれた最高位の役職」とか、そういう言い回しにしておくものなのよ。だって、「国家元首性別」っていうのはジェンダーギャップを考える上で無意味まりいから。オーストラリアニュージーランドカナダイギリスもこの半世紀以上ずっとエリザベスウィンザーさんっていう女性国家元首だけど、それって政治におけるジェンダー平等においてはなんの意味もないでしょ?

そして、読んでいくとこういう表現にも行き当たる。

...However, in Canada, a woman has been in a head-of-state position for only 0.3 years over the past 50 and in the United States, there has never been a woman as president. (p.30)

……やっぱりこの報告書、「国家元首」と「政府の長」を区別してない! カナダはこの半世紀以上ずっと女性国家元首だって言っとろーが!

なぜその区別重要

そんなの些細な言葉の使い方の間違いじゃん、と思うかもしれない。でも実は、これは重要問題なのだ

現在民主主義国家政体を分類するにあたって、国家元首政府の長がどのように権力を分担しているか、という指標重要だ。それに従うと、民主的政治システムは概ね次のように分けられる。

システム名称内容代表的な国
大統領制直接選挙された大統領政府の長となるアメリカ合衆国
半大統領制直接選挙された大統領議会の支持を得た首相権力を分担するフランス
議院内閣制国家元首形式的存在で、議会の支持を得た首相政府の長となる日本ドイツインドイギリス

ここで大事なのは同じ「大統領」でも、大統領制議院内閣制では持っている権力全然違うということだ。アメリカ大統領国民から直接選挙され、連邦行政権を握っている。いっぽうドイツ大統領は、議員たちを通じて間接的に選ばれ、国政に関する権能をほとんど持たない。これはどちらかというと戦後憲法下での天皇に近い存在と言っていいだろう。違いは世襲されるか選挙されるかという点だけだ。

サミットを開いたときに、なんでアメリカフランス大統領が出てくるのに、日本ドイツカナダイギリスイタリア首相が出てくるのかといえば、後者の5カ国は議院内閣制の国で、国家元首天皇国王大統領)より首相の方が権力を持っているからだ。なんでオリンピック開会式では首相ではなく天皇国王カナダ場合国王代理たる総督)が挨拶するのか? 形式的には彼らの方が偉いということになっているからだ。

(ところで、太平洋諸国アフリカには、「議会から大統領を選ぶ」タイプ共和国がけっこうある。南アフリカボツワナナウルマーシャル諸島といった国々だ。こういう国の場合議院内閣制でありながら大統領が実権を握っているということになるので注意されたい)

なので、「大統領女性」とだけ言われても、どのくらい権力を持っているのかがわからなければ意味がない。仮に、大統領がなんの権力もない完全なお飾りで、首相がすべての権限を握っている国があったとして、大統領がずっと女性首相がずっと男性だった場合女性政治的平等立場にいると言えるだろうか?(インド大統領がこれに近いかもしれない。10年ちょい前のインド大統領女性だったんだけど、覚えてる人ってどんくらいいます? まあ覚えてないよね、インドではここ数十年ずっと首相男性だったので……)

から、本当に大事なのは大統領制における大統領」や「半大統領制における大統領あるいは首相」、そして「議院内閣制における首相」の男女比のはずなのだジェンダーギャップ指数はそれをカウントするべきだ。

それなのに、無邪気に「国家元首」の男女比を出してきて「ニュージーランドでは過去50年間のうち14年間は女性国家元首でした」なんていうデタラメをぶっこくような報告書を、どうして信用できるだろう(なんでデタラメなのかはわかるよね? NZ国家元首は50年以上前からずっとエリザベス女王からです)。この報告書は「この国は過去何年にわたって女性国家元首でした」という数字を羅列してはいるが、「国家元首」の定義デタラメ融通無碍なのにその数字ハイそうですかと受け入れることはできない。本当に国家元首を数えたのか? 国家元首政府の長を混同してないか? それらの数字は別々に数えたのか、それとも合算したのか? このことがちゃんと注記されていない数字をどう使えというのだろうか。

まさか、こんな基礎的な事柄について、こんな雑な数字を出してくる統計だとは思ってもみなかったよ。国家元首政府の長の区別なんて、政治制度を分類する上でのイロハのイじゃねーか。その程度のこともわきまえてないやつが数えた数字になんか意味あんの?

それはそれとして、元のnoteにもおかしい点があるのでそこは突っ込む

まず、「二元主義議院内閣制」と「一元主義議院内閣制」と言っているが政治学ではそんな分類は使わない議院内閣制とは政治権力議会で選ばれた首相に一元化させる制度のことである。仮に分立しているならそれは半大統領制という別の制度であって、議院内閣制ではない。

二元代表制」という言い方はあるが、これは日本地方自治を指す言葉だ。日本地方自治は、首長知事市長)を直接選挙で選び、首長県庁市役所を率いて行政を取り仕切るシステムになっている。上で書いた類型に当て嵌めれば大統領制になるが、知事市長大統領と呼ぶのは変なので「二元代表制」と呼ばれている。「二元」というのは、首長議会がそれぞれ別に選挙されるからだ(議院内閣制では、行政トップ議会多数派から選ばれるので「一元」になる)。

(余談だが、現代日本政治がグチャグチャに混乱している原因の一つが「中央議院内閣制地方大統領制」という政治制度のちぐはぐさだろう。議院内閣制大統領制では「権力の握り方」が違うから中央地方システムが違うと政党組織を1つにまとめることが難しいのだ。ある組織の内部に異なる論理で動く複数組織が混在していると一枚岩になりにくいのは、感覚的に理解できるところだと思う。この点、中央地方大統領制統一しているアメリカや、連邦と州のどちらも議院内閣制統一しているカナダドイツと比べてみると日本のちぐはぐさがわかる)

2020-07-15

[] キリストバラバか

マタイによる福音書の一節。

どちらを釈放するのかと、総督ピラトが人々に投げかけた問い。

人々はバラバを選び、キリストは例の十字架にかけられることになる。

2019-10-24

anond:20191024193658

そういえば、英連邦諸国総督(Governor)は、名誉職としての国家元首代行でしたっけね。オーストラリアなんかは今は選挙で選ぶんだっけな。実質的には名誉職としての大統領に近いですね。(正式国家元首英国君主のままですけど)

2018-10-03

anond:20181003184620

明治維新原理主義」か「西洋のケツ舐め総督気取り」か、単にご本尊が違うだけなんだよね

どちらに依ったとしても、無学な大衆は単に従う対象しかない

2018-07-27

[]エドワード・ブルワー=リットン

1803年、イギリスロンドン生まれる。政治家であり小説家

政治家としては1858年から1859年までダービー内閣において植民地大臣を担い、コロンビア統治などで成果を挙げて男爵位を授与された。

息子のロバートインド総督となって伯爵となり、孫のヴィクターは「リットン調査団」の団長として知られる。

一方、小説家としては1834年に発表された歴史小説ポンペイ最後の日』が名高い。

1839年に発表された戯曲リシュリュー』での「ペンは剣よりも強し」という台詞もまたよく知られている。

彼はケンブリッジ大学在籍時からオカルトに傾倒し、フランシスバレットの魔術教室で教えを学んだとされる。

秘密結社薔薇十字団に入団たか、あるいはパトロンとしてその活動を支えた。

魔術師エリファス・レヴィとも親交があり、その降霊実験を手引きしたとも。

オカルト思想をふんだんに盛り込んだ『ザノーニ』『不思議物語』といった小説執筆している。

さらに、彼の執筆したSF小説『来るべき種族』では、

超古代文明エネルギーヴリル」を保有する地底人が描かれ、

これに影響を受けてドイツヴリル協会という秘密結社設立されたという。

この作品で描かれる地底人たちは、自らの文明の優位を確信し、地上の劣等民族統治することを当然としていた。

その思想が、ヴリル協会を通して、のちにナチス人種差別政策オカルト趣味に多大な影響を与えたとも言われている。

1873年に死去。

2018-07-24

anond:20180724204124

密告者に報奨金を与えてLGBTあぶり出したほうが効率的ではないですか

増田総督殿

2018-03-23

天皇制必要ない

最近ちきりんという人が天皇制は素晴らしいという記事を続けて書いていて、多少納得する点もあるけど、ここであえて反対の論陣を張ってみようと思う。

天皇制はいらないという理由は以下の通り。

身分制度肯定

まあこれは全ての君主制に言えるけど、

まれた時から一部の人が何らかの特殊ステータスを持っているというのは

今の日本平等民主主義人権擁護原則にそぐわないよねという話。

性差別的な継承制度

歴史的女性天皇がいたにも関わらず現在ルールでは女性天皇になれないし、

女系ダメというのも歴史的文脈以外の合理的理由づけはない。

女系男系君主としての資質に差が出るのか?

国の「象徴」が性差別イデオロギー生産し続けるのはどうなのと。

天皇制非人道性

皇族は各種基本的人権保障されていないため、言いたいことも言えず

まりにも責任の大きい仕事をしなくてはならない。

今の日本平等民主主義人権擁護原則にそぐわないよねという話。

さらに、日本独自の状況として皇位継承者とその妻は子供を産めというプレッシャーも相当なもの

皇妃と皇太子妃に期待されている素質は文字通り「産む機械」となること。

精神を病む人が続出するのも頷ける。

将来の天皇資質

今上天皇君主としての資質国民に寄り添う姿勢歴史的にも世界的にも最高レベルなのは疑いない。

だが将来にも渡って彼のような国民から支持される天皇及び皇族が出てくるのか?

歴史的精神を病んだ王族は多く、日本はすでに皇太子妃がダウン。

これから皇族の子供たちは現代社会監視プレッシャーに耐えられるのか?多分無理。

摂政を置いてもいいがそれで国民の支持が得られるのか。

皇室外交意味がない

日本民主主義国、他の君主制国家も大体民主主義

間接的とはい国民意思政策決定されるのに、王室同士で付き合う意味が本当にあるのか?

1913年にはロシア皇帝イギリス国王ドイツ皇帝の娘の結婚式に一緒に出席して仲良くしていたが

全く意味はなかった。ちなみに彼らはいとこ同士である。100年前の半独裁国家でさえこれ。

日本皇室世界で支持されている?まとめサイト以外のソースplz

歴史的価値をどう評価するか

ちきりん氏はとにかく歴史けが正統性の源であり、

それゆえ昔から続いているものを変更するなんてありえないという主張だが、

そもそも現状の天皇制自体明治憲法戦後体制ミックスで作られたもの

それ以前の歴史を見れば極めて異質な制度になっている。

女性天皇複数いたのもそうだし、過去天皇はみな仏教徒で、好き勝手引退し、好き勝手継承者を選んでいた。

もし昔の天皇が今と同じように後継者問題に悩まされていたら女系だってなんだってありだったろう。

政治的にも親政院政、なんかよくわからんが偉い人、神聖不可侵大元帥コロコロ変わっている。

女系男系議論にも関わってくる話だが、天皇制正統性歴史的文脈だけから来るものではない。

天皇現在地位国民の総意に由来するもので、天皇がどのように職務を務めるかという点が今の国民天皇制への支持の大きなポイント

その点を今の天皇は非常にうまくやっている。平成になって天皇廃止論が鳴りを潜めたのも現在天皇国民に近づこうという姿勢があるから

阿呆天皇になったらいくら歴史があってもだれも支持しない。

逆に言えば今の天皇職務をうまく果たせる人なら役割を果たせる。

天皇制以外の元首可能

ちきりん氏は「『民主的な、差別のない方法天皇を選ぶ』なんてことをしたら、誰もそんなもの価値を認めなくなる。」と書いているが、

実際そうとは言い切れない。いい例がカナダ総督(ガヴァナジェネラル

カナダ総督憲法君主役割をはたしていて、任期は五年、実務上は首相が選ぶわけだが、

現在は元宇宙飛行士女性フランス語話者、その前は英語話者の高名な学者

その前は元ハイチ難民フランス語話者黒人女性ニュースキャスター

その前は中国系女性が任命されている。

民主的な、差別のない方法天皇を選ぶ」を地で行っているわけだが、

価値が認められなくなるどころか逆に多様性とその理念から幅広く支持されている。

歴史こそすべて!英国王室最高!ならカナダもそうできた。

まあ日本カナダでは歴史社会も全く違うわけで、いきなりカナダ風人選を日本に持ってくると

向井千秋滝川クリステル、CWニコルのような人選となり支持されるとは思えないが

無党派である程度業績と知名度のある人を

日本人の代表」として天皇が今やっている職務外交被災者慰問等を

任期を区切ってやってもらうというのは十分可能ではないか

さら現代価値観に配慮した人選、世界活躍した人の人選は他国からの人気も天皇以上に十分期待できる。

2018-02-28

東ヨーロッパ(+バルカン半島南コーカサス諸国歴史的英雄

中東アフリカはすっ飛ばしました。

anond:20180223194300

ウクライナボフダン・フメリニツキー(1595-1657)ウクライナコサックを率いてポーランド・リトアニア共和国に反乱を起こし、ウクライナ自治権を勝ち取った。その後、単独での防衛は難しかたこからロシア保護下に入ったことで、後のロシアによる支配を招いたとも言われる。ユダヤ人虐殺したこともあり、毀誉褒貶が激しい。
ベラルーシタデウシュ・コシチュシュコ(1746-1817)現在ベラルーシ、当時のリトアニア大公領に生まれアメリカ独立戦争に参加し、ポーランド独立のためにロシアと戦った英雄。なにがなんだか。一般には「ポーランドリトアニア英雄」とされるが、ベラルーシも「うちの出身やで」と主張している。ベラルーシ人特に民族意識希薄なため、他に民族的英雄があまりいないようだ。
モルドバシュテファン三世(1433-1504)モルドバ公国の公。その統治モルドバ歴史上で最も繁栄した時代だとされる。またフニャディ、スカンデルベグ、ヴラドらと並ぶ「反オスマン」の英雄であり、特に「ヴァスルイの戦い」での大勝が名高い。ヴラド・ツェペシュとは従兄弟同士で、親友だったとも言う。
ロシアアレクサンドル・ネフスキー(1220-1263)ウラジーミル大公国大公モンゴル帝国に臣従しつつ直接的な被害を免れ、むしろ敵対していたスウェーデンを「ネヴァ河畔の戦い」で、ドイツ騎士団を「氷上の戦い」で打ち破って勇名を轟かせた。スターリン独ソ戦の際に「かつてドイツを打ち破った」アレクサンドルを英雄として持ち上げたために有名になったとも。
アルバニアカンデルベグ(1405-1468)オスマン帝国支配下にあったアルバニア軍司令官だったが、フニャディ・ヤーノシュの反乱を鎮圧するために差し向けられると、逆にフニャディに同調して造反し、オスマン軍をアルバニアから追い払って独立を達成した。
ギリシャアレクサンドロス三世言わずと知れたアレクサンダー大王大王の出生地現在ギリシャにあるなど、古代マケドニア王国の大半はギリシャ領に含まれており、ギリシャは「マケドニア共和国マケドニアと名乗るべきではない」と主張している。しか地域としての「マケドニア」にマケドニア共和国が含まれるのも事実である
マケドニアアレクサンドロス三世言わずと知れたアレクサンダー大王現在マケドニア共和国に住んでいるのはスラブ民族であり、古代ギリシャ人との血統的繋がりは無いとされる。しか古代マケドニア王国ギリシャ人国家だったものの、都市国家形成せず、政治体制も異なるなど、アテネスパルタにとっては「辺境」「蛮族」の感が強かった。
クロアチアシップ・イェラチッチ(1801-1859)オーストリア帝国支配下にあったハンガリーの、さら支配下にあったクロアチアにおいて、クロアチア人たちの総督として独立志向し、オーストリア皇帝の命でハンガリー独立運動鎮圧するなどした結果、一定自治権を獲得した。独立運動先駆者評価されている。
セルビアミロシュ・オビリッチ(?-1389)セルビア王国騎士セルビアオスマン帝国惨敗したコソボの戦いの後、オビリッチは寝返ったふりをしてオスマン帝国皇帝・ムラト一世に近づき、そして刺殺した。コソボの戦いで戦死した王や騎士たちは後世英雄とされ、多く叙事詩の題材となったが、オビリッチもまたさまざまな伝説主人公となった。そらこんなんおったらオーストリア皇太子暗殺するわな。
ブルガリアワシル・レフスキ(1837-1873)革命家オスマン帝国統治下にあったブルガリア独立を目指して、国内革命組織ネットワークを作り、外国武力によらない独立を構想したが、オスマン帝国によって拘束され、処刑された。
ボスニア・ヘルツェゴビナリン(?-1204)ボスニアの「バン首長)」。もとは東ローマ帝国に属していたが、セルビアのステファン・ネマニャと共に離反し、ハンガリー王国庇護を得つつ、実質的独立を果たした。彼の統治のもと、ボスニア文化民族の土台が築かれ、いまなおボスニア歴史上で最も平和繁栄した時代と称される。
モンテネグロペタル二世ペトロビッチ・ニェゴシュ(1813-1851)モンテネグロ君主国家近代化に貢献し、オスマン帝国との軍事衝突を凌いだ。しかしそれよりも大きいのは詩人としての名声で、彼がものした叙事詩モンテネグロ文学史上の傑作と目されている。いくつかは日本語訳もされているらしい。
ルーマニアハイ勇敢公(1558-1601)ワラキア公。オスマン帝国敵対し、「カルガレニの戦い」でこれに大勝した。また、トランシルヴァニアモルダヴィア併合し、ルーマニア統一一時的にでも成し遂げたが、その翌年に暗殺されてしまった。
アルメニアヴァルダンマミニアン(387-451)アルメニア貴族アルメニア支配していたササン朝ペルシャによるゾロアスター教強制改宗に反発し、寡兵ながらササン朝大軍に立ち向かった。戦いには敗れ、ヴァルダン戦死したものの、ササン朝は譲歩してアルメニア宗教自由を認めた。
アゼルバイジャンスマーイール一世(1487-1524)サファヴィー朝建国者。サファヴィーとは教団の名前で、その狂信者兵士としたイスマーイールの神憑り的な軍事能力によって勢力を拡大したが、「チャルディラーンの戦い」でオスマン帝国に敗れ、意気消沈して晩年を過ごした。ちなみに当時のアゼルバイジャン現在アゼルバイジャン共和国領土はけっこうズレているらしい。
ジョージアタマル(1160-1213)ジョージア王国女王セルジューク朝の影響を排除して、ジョージア王国の最大版図を築き、文化的にも黄金期を現出した。中世グルジア文学最高傑作『豹皮の騎士』はタマ女王に捧げられた長編叙事詩である

2018-02-20

anond:20180218105559

JKだけの町、真面目に考えてみたけどどうやって町長を選出するんだろう。

いや、候補者はいいのよ。ヨソの自治体住民票があっても公職選挙には出られると思う。町役場職員も別の自治体の人で構わないはず。でも住民の多く(高1・高2の全員と、高3のうち選挙当日に誕生日を迎えていない者)が選挙権を持っていない状況だよね? 一部の住民けが選挙権を持っている選挙、すげーいびつになりそうな。普選運動が起きそう。

選挙を何月にするかも大きな問題。たとえば3月31日執行する場合4月1日執行する場合を考えてみると、3月31日執行町長選挙では4月1日まれを除いたほぼ全ての高3生に選挙権があるけど、4月1日執行だと1人も選挙権を持っている人がいなくなると思う。新高3で一番初めに18歳になるのは4月2日まれの人たちなので。あれ? ということは4月1日まれJKには永遠にJK町での選挙権がないのか? かわいそう。

高校3年生のあいだで2つの派閥があり、1つの派閥構成員の多くが5月6月まれで、もう1つの派閥11月12月まれで占められていたりすると、選挙実施日程から既に揉め事の種になりそうな。前者の派閥は当然7月あたりに選挙実施することを要求するし、後者は年明けの実施要求する。

それと、この構造だと(生徒会選挙とかと違って)高1や高2の要求を汲み上げるインセンティヴがなくなるので、ひたすら受験対策就職対策予算をばらまくのが選挙必勝法になるはず。そうなったときに、学年のあいだで深刻な対立が起こりそう。

気になるのは、JK単一学校の生徒なのか、それとも複数学校の生徒なのか、という点。前者だとしたら、当然その学校では生徒会選挙なども実施されているはずなので、学外の権力者である町長学内権力者である生徒会長あいだで権力闘争が起きて町政が麻痺しそう。先程述べたように、町長選挙勝利だけを優先してひたすら高3生のみを優遇する施策を打ち出した場合、対抗して生徒会長選挙では高1・高2が結託して下級生候補当選させようとするのは自然な流れだと思う。仮に複数学校の生徒だとしても、複数生徒会長同盟を組めば同じ結果になるはず。そうか、これが町長にとって全学年を公平に処遇するインセンティヴになるんだな。生徒会選挙のおかげで権力の均衡が保たれている状態になるわけか……

生徒会選挙には、生徒会長のみを選出し残りの役員会長が任命する形式と、生徒会長とその他の役員がそれぞれ選挙される形式があると思うんだけど、どちらにせよ下級生が選挙連合を組めば下級生が執行部を独占できるよね)

そして町議会をどうするのかだけど、そもそも首長と違って議員は当該自治体住民であることが必要であり、被選挙権が25歳以上に限定されているので、JK町では議会を設置できない。町村総会を置くしかないと思うけど、町村総会を置いたとしても18歳以上じゃないと参加できないので、やっぱり一部の生徒に政治的パワーが集中しそうな。4月まれ5月まれは年度末まで町村総会への参加ができるけど、2月まれ3月まれJKから出ていく直前になってようやく参加権を得るわけで。ただ年度末が近づけば近づくほど4月5月まれ人口比が少なくなってくるので、自分たちマイノリティになった時のことを思えばあんまりムチャクチャなことはできないという抑止力は働くはずだけど……。しかし後輩たちからすると自分たち要望を町政に反映させるためには2月3月まれの3年生よりも4月5月まれの3年生に話を通した方がやりやすいわけで、後輩への影響力という点で学年内に不均衡が生まれそうだけど、そこは生徒会という対抗権力是正すればいいわけか。JK町、なんかうまく権力分立できてるような気がしてきた。

追記

……って気づいたけど、JK町には「A校(とB校とC校……)の生徒全員」じゃなくて「A校(とB校とC校……)の生徒の一部」しか居住していない可能性があるのか。その場合高校が町内にあるにせよ町外にあるにせよ、町長4月5月まれの高3生に権力が集中しそう。

もし高校が町外にあるなら、生徒会は町外の団体ということになるので町政には無関係になり、町長町村総会権力掣肘する者がいなくなって、結果として高3生のみが優遇され、さらにその中でも4月5月まれの生徒に町政の権力が集中するということになりそう。

高校が町内にあるとすると、分断工作がしやすくなる。生徒会は確かに町内の団体ではあるのだけれど、非町民生徒も参加しているので、人口比にもよるけど非町民と高3生の町民を優遇すれば簡単多数派形成できると思う。どちらも単独では多数派形成できない場合町長が介入しやすくなるし、町村総会を掌握している高3生は校内では学年の平等を謳うしかいかもしれないけど町内で独裁権力行使できる可能性が強まりそう。なぜなら非町民の下級生にとって、町民下級生と連帯して高3生に対峙するインセンティヴがないからだ。結果として町民下級生がひたすら冷遇される構図に。

JK町にはA校の全員と、B校とC校の一部の生徒が通っている」場合、それぞれの学校生徒会性格の違ったものになってくるはずなので(A校では下級生が執行部を掌握しているけど、他の学校では普通に高3生が執行部入りしているとか起こり得る)、結果として生徒会どうしの連帯しづらくなり分断統治されそう。

JK町の政治に透明性や公平性をもたらすためには、単に「JKばかりが町に住んでいる」だけでは不十分で、「ある高校(群)の生徒全員がJK町に居住している」ことが必要だということになるのだろうか。

ブコメに応答

kido_ari 漫画アニメじゃないんだから生徒会にそんなに権限はないのでは。意外と増田の話を全部無視して若くてかわいい町長当選しそう。

被選挙権が25歳以上なので、ふつうJK町長になれないんですよ。スロウスタートでも無理です。JKけが住む町という設定上、必然的に町外に在住する人間町長にならざるを得ません(議員と違って町長住民じゃなくてもよかったはず。もちろん、25歳を過ぎた人間でも高校入学できますので、町長を町民から出すために一定数そういう人たちが入学してくるというのならJKから町長を出せますが、元増田が望んでるJKってそういう意味じゃないですよね)。

生徒会権限がなくても、生徒総会で下級生が多数派を占めていることには変わりないので、割と民主的正統性をもって町の行政権力と対峙できるかと思います。ただ学校運営に関しては教師たち、ひいては校長に最終的決定権があるはずなので、そこは弱いですね。なんか本国から総督によって統治される植民地議会みたいな感じ。しかし小中学校と違って高校都道府県管轄下にあるはずなので、町長に首根っこを握られているということにはならないと思います

2018-01-27

リスクに向き合えない出羽守の皆様へ

http://b.hatena.ne.jp/entry/354117909/comment/shinonomen

フランスの状況は知らないが、日本ではMe Too運動入り口に立っただけで、行き過ぎの弊害が出るような段階には程遠い。

例の問題に限らない話だけど、なんでもかんでも海外デワーってうるさい出羽守のくせに、

当の海外問題が起きたり、疑問の声が上がった時に、素直に過ちを認められない奴がいる。

なんで? 植民地ジャップ総督気取りの奴が? スターつけてる奴らもこの際だから考えてみ?

藁人形論法」と言われるのもアレなので、特定個人idを「屏風から出」さざるを得なかったが、

別にこの特定個人を叩くつもりはない。絶対こいつだけじゃねえんだもの

叩きたいのは個人集団ではないし、彼らの掲げる主義でもない。

自説の瑕疵に目を向けようともしなければそれを恥とも思わない、その傲慢自体だ。

心当たりのある奴は自分のことだと自覚するように。metooですよ。

お前らにもわかりやすいように、原発で例えてやるよ。めっちゃ不謹慎だけどさ。

あるところに、日本製原発を導入しようと考えている国がありました。

そしたらある日、日本にあるどっかの原発事故を起こしちゃった。

トータルで考えたら、それでも利益の方が大きいかもしれないけど、皆ビビりすぎなほどビビってる。

そんな時、原発リスクとリターンについて、その国の民衆説明すべきなのは誰?

原発を導入したがってる人」でしょ?

そこで「我が国にはまだ日本製原発はないし、事故も起きてないんだから議論する段階じゃない」

とか言って、通ると思う?

あんまりにも不誠実じゃない?

というか「原発リスク原発建ててから考えましょう」って、不誠実以前に、ただのアホでしょ?

2017-09-03

スターウォーズEp4に関する比類なき新たな発見考察

デススターは、建造されたばかりなので、

ターキン総督とか、

絶対新築匂いを感じてたと思う。

2017-05-19

ルジャンドルフランスウラン(Oullins)に生まれランス大学およびパリ大学に学んだ[1]。父親のJean-François Legendre-Héralは人物像を得意とした古典主義彫刻家エコール・デ・ボザールの教師[2]。24歳のときニューヨークの著名な弁護士の娘であったクララヴィクトリア・ミュロックブリュッセル結婚した。結婚後すぐに米国移住し、帰化した。

南北戦争[編集]

1861年に南北戦争が勃発すると、ルジャンドルは第51ニューヨーク志願兵歩兵連隊兵士募集に協力し、1861年10月29日に同連隊少佐に任官した。その後ノースカロライナでの戦闘従事し、1862年のロアノーク島の戦いにも参加した。しかしながら、1862年3月14日、ニューバーンの戦いで重傷を負った。

負傷にもかかわらず、ルジャンドルは軍を離れず、同年9月20日には中佐に進級。1863年には第9軍に配属され、多くの戦闘に参加した。1863年3月14日には大佐に進級。ヴァージニア荒野の戦いではユリシーズ・グラント将軍の指揮下にあったが、その最中の1864年5月6日ルジャンドルは再び重症を負った。今回は顔面を撃たれ、左目と鼻を失った。アナポリス病院入院したが、その間にも南軍最後攻撃から街を防衛するための準備を手伝った。その後ニューヨーク移送され、そこで第9軍の兵士募集を手伝った。1864年10月4日名誉除隊したが、1865年3月13日には准将名誉進級した。

中国[編集]

1866年7月13日ルジャンドル厦門米国領事に任命された。7月ニューヨークリバプールに向けて出港し、その後ヨーロッパアジア大陸旅行12月厦門に到着した。領事として、ルジャンドルは5つの条約港、すなわち厦門基隆台北、淡水および高雄責任を持った。そこでは、年季奉公人の不正取引抑制に尽力した。

1867年3月12日米国ローバー号が台湾遭難し、その乗員が台湾原住民殺害されるローバー事件(en)が発生した。ルジャンドルは福州へ赴き、台湾中国側当局問題解決圧力をけるように、福建・浙江総督を説得した。福建総督は自ら行動は起こさなかったが、ルジャンドル台湾に行く許可を与え、台湾知事が協力するように紹介状を書いた。

ルジャンドルは、遭難現場訪問のために米国船アシュロット号を雇い、台湾当局に行動させようとした(これは失敗した)。その後アメリカ合衆国海軍ヘンリーベル少将懲罰作戦実施したが、これも失敗した。さら情報を集めるため、ルジャンドルは再び台湾に出向いた(このときは、紹介状は無しであった)。

中国へ戻ったルジャンドルは、南台湾に軍隊派遣するよう福州の総督を説得し、ようやくこれに成功した。ルジャンドルは400〜500人の規模を希望したが、これよりはかなり小さな遠征隊が、1867年7月25日台湾に送られた。ルジャンドル砲艦派遣ベル提督要請したが、これは拒否された。このため、武装商船ボランティア号が雇われた。ルジャンドル9月4日台湾上陸したが、上司に対しては全くの傍観者として行動したと報告している。

ルジャンドル直ちに本来任務を開始した。南台湾の険しい山岳地帯を通りぬけ、原住民酋長と難破した欧米の船員の安全保証するための条約協議した。

1871年9月6日琉球宮古島)の船が台湾沖で遭難したが、ローバー事件と同様に、多数の船員が殺害された(宮古島島民遭難事件)[3]。1872年2月29日ルジャンドルは先に結んだ条約日本人船員にも適用するよう拡大するため、台湾に出向いた。任務は不成功に終わり、またルジャンドル北京駐在米国公使フレデリックロウ(en)とも不仲になってしまった。

日本[編集]

1872年厦門から米国へ戻る途中、ルジャンドル日本に立ち寄り、明治政府台湾問題武力解決提唱した。これは副島種臣外務卿意見とも一致しており、ルジャンドル米国領事の職を辞し、1872年12月12日外交および軍事顧問として明治政府雇用された[1]。1873年2月、副島は2年前に台湾で起きた宮古島殺害事件の処理交渉特命全権公使外務大臣として北京派遣されたが、ルジャンドルもこれに参加した。この交渉部分的には成功であったが、引き続きルジャンドル1874年台湾出兵の準備を手伝った。台湾問題に関して、ルジャンドル駐日米国公使チャールズ・デロングの支援を受けており、また個人資格でこの遠征に参加するつもりであった[4][5]。加えて、2名のアメリカ軍人が雇用された。ところが、デロングの後任の米国公使ジョン・ビンガムは、ルジャンドルを支持せず、1874年4月19日台湾出兵は一旦延期とされた。ルジャンドルらは長崎で出征準備を整えていたため、大久保利通長崎に向かった。結局遠征部隊5月18日長崎を出港したが、ルジャンドル大久保と共に東京に戻った。その後、ルジャンドル交渉のため福州に派遣されることとなったが、アメリカ総領事職場放棄の罪に問われ、短期間ではあるが上海収監されてしまったため、遠征には参加できなかった。1875年には日本政府から勲二等旭日重光章を授与されたが、これは外国人としては最初のものであった[1]。その年の末には顧問を辞任した。

ルジャンドル1890年まで日本滞在し、大隈重信個人的顧問を務めた。

韓国[編集]

1890年3月ルジャンドル日本を離れ、朝鮮王高宗顧問となった。1899年9月1日漢城(現 ソウル)で卒中により死亡するまで、その職を務めていた[6]。

2016-12-04

死の収容所へ 1

ヨーロッパユダヤ人絶滅の準備

 ドイツ軍ソ連侵攻は「特別行動隊」(Einsatzgruppen :アインザッツ・グルッペン)によるすさまじい組的殺作戦をともなっていた。侵攻から数週間を経ずしてナチスは他のヨーロッパ地域に住むユダヤ人絶滅作戦の準備に着手した。1941年7月31日、ゲーリング( Herman Göhring 空軍相、元帥)はラインハルトハイドリヒ(Reinhard Heydrich SS上級部隊隊長、SS大佐)に次のような命令を伝えている。

「次を命ずる‐貴官は、ヨーロッパドイツ支配圏におけるユダヤ人問題の『最終的解決』に関する組織、実務、そして財務上の必要なあらゆる準備にかかり、… さらに、ユダヤ人問題の『最終的解決遂行にかかわる準備組織、実務、そして財務上執るべき手段計画の全容を、本官に対し速やかに提出せよ」

 この任務遂行の準備を調整するためハイドリヒは1942年1月20日、ヴァンゼー(ベルリン郊外)に会議召集した。会議にはドイツ帝国閣僚の面々、ヨーロッパ占領地域各国のドイツ総督、そして、ゲシュタポ本部ドイツ移民ユダヤ人局長・アドルフ・アイヒマンを含むSSの上級将校たちが出席した。

ヴァンゼー会議」の決定はやがて、政治および軍事面において、全世界に重大な展開を引き起こすことになる。

 1941年12月11日日本軍による真珠湾攻撃を受けてドイツアメリカ合衆国に対し宣戦を布告した。戦争はすでに人類を連合国側と枢軸国側に隔て、全世界を巻き込む総力戦様相を帯び始めていた。この新しい局面は、ドイツ戦争遂行上の衝害から解き放った。ドイツにはもはや政治的配慮や「ユダヤ人の大量殺戮がもう始まっているのではないか」という世界世論に気がねをする必要が全くなくなったのだ。

 ヴァンゼー会議の進行は詳細にわたって記録され、議事録ニュルンベルク国際軍事法廷証拠として提出されている。それによれば、ハイドリヒはまずヨーロッパにおけるユダヤ人問題の最終的解決について自分ゲーリングから全権を委譲されていることを告げて会議を始めた。会議の中でハイドリヒは次のように述べている。

総統意向により、ドイツ移民は目下ユダヤ人をことごとく東方追放し、その跡地に対して行われることになった…

ヨーロッパにおけるユダヤ人問題の最終的解決の中では、各国に散在する約1100万人のユダヤ人が考慮されなければならない。次のとおり…」

 ここでハイドリヒはヨーロッパ33の国と地域ユダヤ人口をリストに揚げている。リストにはドイツ占領国や同盟国とは別にイギリスソ連ヨーロッパ地域、また中立国ポルトガルスペインスウェーデンスイスアイルランドトルコといった、ドイツ占領する予定だった国も含まれていた。

 ユダヤ人大量虐殺の実際の準備はハイドリヒによる組織の準備と同時に進められた。1941年夏、ハインリヒ・ヒムラーアウシュヴィッツ強制収容所所長ルドルフ・ヘスを呼んだ。ヘスは戦後証言で「ヒトラーユダヤ人問題の最終的解決の実行を決断したことを、このときヒムラーから知らされた」と明らかにし、さらに次のように述べている−「事実東部で行われているようなやり方(ソ連地域でのユダヤ人殺害特別行動隊による狩り込みと射殺)では与えられた任務対応できなかった。絶滅という任務のためには、特にアウシュヴィッツ収容所対応させる必要があった」。

 この会談の直後、アイヒマンアウシュヴィッツを視察している。二人は、ソ連で行われている射殺は大量の人間を短時間のうちに皆殺しにするには不向きであり、大量殺戮はガスを使う他はないとの結論に達した。

 ガスを使った殺害ナチドイツにとって初めての経験ではなかった。すでに「安楽死計画」において、ガスが使用されている。この計画1939年9月から1941年8月末まで実施され、7万から9万人にのぼる精神病者と重度の障害者がガス殺された。わずかにユダヤ人も含まれていたが、このとき犠牲になったのはほとんどがドイツ人だった。ナチスはこの「安楽死計画」を、「役立たずの穀つぶし」—ナチは彼らをそう決めつけた—を国家から駆逐し、アーリア人種の優性を高めるための手段だと考えていた。ヒトラーはこの計画にあたり「T-4」という秘密組織を発足させている。「T-4」は総統直属の正式組織として医師を擁する医療関係の諸機関大学研究所病院等)を支配した。不治の病に苦しみ死を待つばかりとなった病人たちの命運が、かれら医師たちの手に委ねられた。

 かくして犠牲者たちはそれぞれの医療機関に用意された気密構造の部屋へ案内され、ガスによって窒息したのだ。死体特殊な焼却炉で燃やされた。このガスを使った安楽死はすぐに外部に露見し、ただちにこの殺害行為をやめさせるための抗議行動が‐特に犠牲者の遺族と教会から‐起こった。ヒトラーは譲歩し、1941年8月末、これら医療をかたる殺人を当面中止するよう命じた。

 しかしこの安楽死計画の中で蓄えられた経験は、「最終的解決」の準備をしていたSS当局に役立つことになったのである

絶滅作戦

 絶滅作戦としての最初のガス実験は1941年9月アウシュヴィッツで行われた。ソ連軍戦争捕虜たちが実験台に選ばれた。彼らは密封された地下室に閉じ込められ、チクロンBによってガス殺された。非常な短時間捕虜たちは窒息死した。以後続けられた一連の実験で、ナチスはガスという新しい殺害方法を開発するめどを立てるに至った。同じ頃「特別行動隊」も、ハイドリヒ指揮下のSS技術局の援助を受けて同様の方法を開発している。ここでは「ガス室」の代わりに「ガス・トラック」が用いられた。この車の外見は救急車冷蔵車に偽せてあったが貨物室は気密構造となっており、マフラーから貨物室まで 延ばされた特殊パイプ排気ガス中の一酸化炭素を密閉された貨物室に直接流し込むようになっていた。犠牲者たちが貨物室に入れられるとドアが閉まり、鍵が下ろされ、そしてエンジンがかけられた。

 「ドライブ」は、全員が死亡するまでに30分も要しなかった。所定の場所に着くとドアが開けられ、死体は運び出されて埋められた。この「ガス・トラック」は、大型のものでは150人を、小型のものはその半数を収容した。ソ連ドイツ占領地域では1941年12月だけで、数千にのぼるユダヤ人が「ガス・トラック」で絶滅させられている。

 1941年12月8日。占領ポーランドのロッヅ管区ヘルムノ村(ポーランド名ウッヂ市ヘウムノ)近郊で最初絶滅収容所が稼働を始めた。殺害には「ガス・トラック」が用いられた。犠牲者たちは主に列車で運ばれ、収容所の近くで降ろされた。そこは一部を公園に囲まれ崩れかかった古い宮殿の中央広場で、人びとは垣根に囲まれ区域に通されると「労働に就く前にこれから車に乗ってシャワーを浴びに行く」と告げられ、次のように言い渡された。「衣服を脱いてこの車に乗るように」

 「ドライブ」が始まった。車が4キロメートルほど走ったころには、排気ガスによって全員が毒殺されていた。「終点」は森の中の柵で囲まれ場所で、そこにはこの仕事のために特別に殺されずにいるユダヤ囚人の一団が待機していた。彼らが死体を車から降ろし、そして埋めた(後には死体は焼却処理されるようになっている)。ヘウムノではこうした「ガス・トラック」が3台稼働し、当局員として150人ほどの警察官とSS隊員を擁して1943年4月に一旦閉鎖されるまで稼働し続けた(その後1944年から3ヵ月あまり再稼働)。ここではロッヅ管区他から連行されたユダヤ人と少数のロマ・シンティヨーロッパ語名ジプシー)の集団、合わせて30万人近くが殺害されている。

 1941年11月ポーランド総督管区内でユダヤ人絶滅作戦の準備が始動した。ヴァンゼー会議ハイドリヒの挙げたポーランド在住ユダヤ人口は228万4千人であるハイドリヒは1942年5月にチェコレジスタンス暗殺されたがそれ以後この暴挙は彼のファーストネームに因み、ドイツ政府より「ラインハルト作戦」のコードネームを与えられた。作戦指揮官には後のルブリン管区SS司令官警察長官、オディロ・グロボチュニクが任命された。グロボチュニクは3つの絶滅収容所計画を実行に移した。1942年3月中旬、まずベルゼック(ポーランド名ベウゼッツ)収容所、次いで同年5月ソビボル(同ソビブル)収容所が、そして7月末には第3の収容所、トレブリンカが大量虐殺を開始した。ドイツ東方植民地に設置されたこれら3つの収容所はいずれもガス室を備えていた。ここでは一酸化炭素ガスが使用され、ガスは屋外に設置されたガソリンまたはディーゼルエンジンからパイプで引き込まれた。それぞれの収容所には2、30名のSS隊員と、90から120名のウクライナ人(もとソ連軍捕虜で、ナチス・ドイツに協力を申し出た者)が 当局員として駐在した。SS隊員のほとんどは「安楽死計画」の要員から抜擢された者たちで占められ、後者ウクライナ部隊はルブリン近郊のトラヴニキにあったSS錬兵場で編成・訓練を受けたので、付近住民からは「トラヴニキ・マン」と呼ばれていた。

 ヘウムノ、ベウゼッツ、ソビボルそしてトレブリンカの各絶滅収容所は、文字に違わぬ殺人工場だった。連行された人々は、そのままガス室直行させられたのだ。何百人かのユダヤ囚人処刑を免れていたが、これは当局員と囚人たちの身の回りの世話のためであり、こういったグループはすべて数週間あるいは数ヵ月ほどで殺され、随時交代させられていた。

 ルブリン近郊のマイダネク収容所ユダヤ人、非ユダヤ人双方を収監する完全な構造を備えた強制収容所で、この地区にある他の収容所は全てマイダネクの補助収容所として機能していた。おびただしい数のユダヤ人がここで殺され、あるいは移送中に通過し、あるいは囚人として収監された。この中にはポーランド軍属のユダヤ人戦争捕虜も含まれている。マイダネクを生き残った者は数えるほどしかいい。

 強制収容所および絶滅収容所のうち最大の規模を持つアウシュヴィッツ収容所は、第三帝国ポーランド南部シレジア地方建設された。1940年、早くもアウシュヴィッツ村(ポーランドオシフィエンチム町)に近い旧ポーランド陸軍兵舎敷地強制収容所が設置されている。これは元々ポーランド軍将校政治犯収容するためのものだったが、I.G.ファルベン社などドイツ軍工業囚人労働力を提供するため、収容所近辺に多数の労働収容所が補助収容所として置かれるようになった。1941年にはビルケナウ村(ポーランド名ブジェジンカ)に最大の規模を持つ絶滅収容所アウシュヴィッツⅡ(ビルケナウ)収容所建設が開始された。ビルケナウはアウシュヴィッツ基幹収容所アウシュヴィッツⅠ)から西へ約3キロメートルの地点にあり、1942年5月に稼働を始めている。チクロンBを使用するビルケナウの4つのガス室は一度に1万2千人を殺害する能力を備えており、死体ガス室に隣接し連動する焼却炉(ナチはクレマトリウム火葬場と呼んだ)で 焼却された。焼却炉は24時間あたり8000人分の死体処理が可能だったが、1日で殺害される人数はこれを上回っており、残りの死体ガス室近くの森の中で野積みで焼かれた。アウシュヴィッツでのガス殺は1944年末まで続けられた。2つの収容所は約2500名のSS隊員を擁して1945年1月まで稼働し、その間に130万から150万のユダヤ人を含む、180万から200万人が殺害された。

 アウシュヴィッツビルケナウ収容所絶滅収容所と同時に強制収容所としても機能していた。殺されるために収容所に到着した人々は「選別」を受けるよう命じられることがあった。若く屈強な男たちは絶滅の集団からはずされ強制労働に就かされるか、他の収容所移送された。他に子ども双生児脊髄障害を持つ遺伝病患者などが選別の対象となった。彼らはドイツ人医師たちの医学実験用に選ばれていたのだ。医学博士ヨーゼフ・メンゲレは、医師団の中でもとりわけ悪名高い。

 生き残った囚人たちも「選別」を免れたわけではなかった。1日に何度も行われる点呼で衰弱したり病気にかかった者、または労働に適さない者が見つけ出され、彼らはガス室に送られた。

 厳格をきわめる制度の下に束の間の余命時間が貸与され、囚人たちはそれを生きていた。飢餓さらす、むち打ちなど懲罰の苦痛を与える−この種の非道所業はすべて囚人たちの心身を消耗させ死に至らせることが目的であり、SS隊員でもなければ思いつかないようなものばかりだった。 恐怖は、囚人たちの日常だった。囚人バラックから毎日、何十体もの死体が運び出されていた。 アウシュヴィッツビルケナウ−ここで心身を全うし得た者は、ごくわずかにすぎない。

2016-09-07

[]ドノバン珊瑚礁

シナリオ教科書に失敗作の例として載せるべきなくらい支離滅裂な話だった。

 

戦後日本軍と戦った南の島にそのまま住み着いた医師ディダムの元を、故郷ボストンからアメリアが尋ねて来る。ディダム実家海運業の株が相続されることになったのだが、彼がもし現地で家族などを作っていると「ボストンの慣習に照らして」道徳的問題があるため、遺言状の条件により相続資格を失う。それを暴いて相続権を取り上げるのが目的である。娘が来ると聞いたディダムの仲間は、彼の家族を隠そうとする…。

 

というと、まるで相続権を争って秘密を守り通す紆余曲折という話になりそうなあらすじだが、違う。まずもって、ディダムの仲間たちは相続の話は最後まで知らない。ディダムが回診で近隣の島へ出掛けているうちに、なんとなく「娘には新しい家族とか隠しとかなきゃいけないよね」で隠すのである。ディダムは島に帰って早々、娘に直接「株とかそういうの要らないし」と、自分いかにこの島が好きかを語る。この時点でメインプロットは終わったも同然だが、何故かその後も惰性でディダム医師の3人の現地子(娘ふたり息子ひとり)の存在は隠されたままになる。

 

そもそも島の仲間は株のことなど何も知らないのだから相続権を巡って必死秘密を守る話にはならない。代わりに、ディダムの子供たちの偽の父親役を引き受けたドノバン珊瑚礁(店名)店主ドノバンとディダムの娘アメリアロマンスが途中から話の中心になる。相続の話は知らないくせにアメリア資産があることは「調べ」ただけで突き止めたフランス人総督微妙ちょっかいを出してきたりもする。

 

しかしこれもよく見ると変な展開であるドノバンはディダムの子供たちを隠すために父親役をやりながら、何故かアメリアの案内役のようなものも同時に務める。他に人材がないなら仕方ないが、隠すなら極力近づかないようにする方が良いのは当然である。このせいで、ディダムの子供たちと交流を深めたアメリアが、子供たちをディダムの家(つまり子供たちの家)のパーティーに招待したりして、変な感じになったりする。

 

結局のところ、この映画においては全ての出来事ドノバンアメリア交流を無理矢理作り出すためのヘタクソなお膳立てなのであるアメリアが島に来るために相続の設定をつくり、アメリアドノバンに惚れるために、ドノバンがディダムの子供たち相手に「良い父親」を演じる状況を作り出す。

 

あげく、アメリアは島のそこここで見た「マヌラーニ(姫?)」の名前から、これが子供たちの母親であり自分の父の妻である事を勝手推理し、そもそも相続問題もなければアメリアに新しい家族に対する抵抗もなかったので、そのまま家族和解し、本当は独身とわかったドノバンプロポーズされて終わる。(この「マヌラーニ」の名前も、父親たちと一緒に戦った記念碑名前がある、父親病院マヌラー病院となっている、マヌラーニの墓を教会で見かけた、だけで父親プライベート手紙名前があったとかですらないので、よく当たり前に推理したもんだと感服せざるをえない。)

 

こんな「父親現地妻がいたらすわ大問題、かと思ったらそんなことはなかったぜ」的尻切れとんぼな話が、脈絡のない乱闘シーンや、おっさんたちの「俺たちはよゥ…ここで戦ったんだよゥ…」という郷愁ポリネシア?のエキゾチック儀式とむりやりシャッフルされて映像化されたのがこの映画なのである

 

長々書いたが、実際この映画のめちゃくちゃさを実感するためには、見た人の大半がストーリーを間違って理解している、という事実を指摘するだけで十分なのかも知れない。ともあれ、何がしたいのか理解するのに苦労する映画だった。

 

南の島の風景はよかった。

2016-05-27

[]「亡国の双子姫」

20年前、まだ彼女達が赤ん坊だった頃、彼女達の親は独立戦争の指揮をとっていた。

その結果は敗北、彼女達の親は戦争犯罪人として処刑されてしまう。

小国は再び、大国支配下におかれることとなるが、再起を狙う独立派は、赤ん坊の姫を次の旗頭に据え、潜伏を続ける。

その際に、姉は独立派と共にゲリラと共に、妹は大国支配下に置かれた国の中枢で生きて行く事になる。

それから20年間彼女達は一度も会うことはなかった。

大国の国としてのあり方を根底から覆すマクガフィン的な物の位置発見した独立派は、それを手に入れるため再び戦いを仕掛ける。

しかし、双子姫の姉は幼き頃から続いていた戦いの日々を辞めさせるため、マクガフィン的なものを奪い逃げ出してしまう。

そして、逃げ込んだ先で偶然、双子は再開する。

戦いを辞めさせたい姉と、大国に苦しめられ息も出来ない国民を救うために戦いを続けたい妹と、2人の意見はすり合わない。

2人は争いながらも、自分たちを慕い、何より今苦しんでいる民のために何が出来るのか苦悩する。

ところが、ある日彼女達は気づきを得る。

自分たち国民を、国を、ひいては自分たち支配する大国を、何よりそうしてしまった世界を、俯瞰で見ていることを、あたか自分たちけが特別な外側にいるような考えでいることを。

たかも、時の流れ全てを知って、自分たちけが正解を知っており、それ以外の全員が間違っているのだと、思い込んでいた事に気付く。

改めて、自分たちが何をすべきなのか、ではなく何をしたいのかを2人で話し合う、

離ればなれだった20年間を埋めるように、2人は話し続ける。

人類革新ニュータイプと呼ばれ宇宙適応し、オールドタイプではなし得ない、超常の感覚によるコミュニケーション可能とする2人であっても、たった2人っきりの姉妹家族合意すら得られない。

所詮、人が宇宙に出て一世紀。

人類史における進化の速度の例から見ても、そんなことは当然のことなのかもしれない。

ジオンデラーズフリートティターンズネオジオンシャアの逆襲。

幾多の戦争経験してもなお、連邦の”高官”という地位は守られ、そしてそれは次の戦争火種になっていく。

そう、木星総督に”高官”の娘をあてがうことが発端になる争いには、人類革新コロニー独立などのお題目とは関係ない、ただの「差別された」ことへの不快感しかなかった。

その不快感が、ドゥガチを、カリスト兄弟を、ギゾを、凶行に走らせる。

とどのつまり、人が人を支配することは、今この瞬間の平和を生む事はできても、10年、20年先の、100年続く平和を生む事はできない。

から、ミネバはフルフロンタルを否定するのだ。

から、ベラ・ロナは貴族主義を否定するのだ。

からシャクティマリア主義を否定するのだ。

だけれども、その先に待つのは何だろう?

人が人を支配しないのなら、何が人を支配するのだろう。

誰もが誰も支配しない世界理想郷なのだろうか?

結局、ミネバ・ザビミネバ・ザビになれなかった者は、そんな答えのでない議論を朝まで続け、気付くと眠っていた。

そんな、2人に何時か彼女達なりの黄金の秋が来る場合


ゲリラと一緒にいた姉は浅野真澄さん、

国に残った妹は川澄綾子さんに決定です!

みなさんのキャスティングをお待ちしておりまーす!

2014-11-27

ノストラダムス予言の方が遙かに素敵

さすが本家ノストラダムス

ナポレオン・ボナパルト皇帝イタリアの近くで生まれるだろう・・・」「・・・短髪が総督の座につき・・・十四年間暴君として君臨する」
●ナチスドイツマモンの大教主ドナウ川の両岸を征服するだろう・・・かぎ型の十字を・・・」
●真珠湾攻撃1941年)
「真珠の港は火で焼き尽くされるだろう」
●広島長崎原爆投下1945年)
「港のそばの二つの都市にはかつてない災いがあるだろう・・・」
●ケネディ大統領暗殺1963年)
「偉人の上に屋根から不幸が襲う・・・無実の者が告発され、犯人は隠される・・・」
●ベルリンの壁崩壊1989年)
「東の壁は崩れるだろう・・・」
●湾岸危機以降のサダム・フセイン1990年以降)
「卑しく、邪悪で、忌まわしいメソポタミア暴君となる者・・・」
●ダイアナイギリス皇太子妃事故死(1997年)
「預言者名前最後から二番目がダイアナをとるだろう・・・」
●アメリカ同時多発テロ事件2001年9月11日)
「ヨーク都市では大きな倒壊があるだろう・・・

これに比べるとまだまだだな。http://anond.hatelabo.jp/20141127014724

2014-09-07

[]9月6日

○朝食:朝マック

○昼食:漫画喫茶ポテト三種盛り(フライドポテトハッシュドポテト、ざく切りの奴)

○夕食:ちゃんぽん野菜色々と豚肉少し)

調子

最悪の一歩手前。

理由は思い出しくもないから書かない。

ゲーム配信

今日も配信をした。

コメントをくれた方ありがとうございました。

はてな以外からも来てくれた人もいてくれたようです、ありがたいことです。

本当にありがとうございます楽しい嬉しいです!

○ズータイクーン

チュートリアルを少しプレイ

実況配信向けじゃなさそうなので、少しやって辞め。

○Forza5

全くもって旨く運転できなかった。

ダメダメダメダメだったー。

マインクラフト

鉄を採掘できる程度には進めた。

何を目的にするか悩み中。

実績解除? うーんでもなあ、360版を結構やり込んでるしなあ。

と何かいアイデアはないか考え中。

○Ryse

総督の息子を解放し、和平が結ばれた、と思いきや蛮族の王を殺すという暴挙に出た総督

これで戦争はまだまだ続くことに。

そして、主人公「アリウス」は真の復讐の相手は、蛮族ではない指揮官であると決意する。

うーむ、滾る!

これは滾るよ!

面白いなあ、興味深い。

暴君ネロを倒し人民ローマを倒すことを誓うシーンで今日は終わり。

あと二章!

もう少しでクリアだぜ!

XboxOne初クリア作品はこの作品になるかなー。

2012-09-02

諸葛亮は稀代の詐欺師

孔明は嘘を吐かせると右に出る者はいない。

かつて劉備の代理として孫呉に訪れた際、共に赤壁を打ち倒しましょうと言ってすり寄った。

実際には漁夫の利を得た形で約束違反である荊州簒奪した。漢朝廷にすら許可を取らなかったため、後に曹操に利用されて公式に周瑜を南郡太守、荊州総督を任せる等として荊州統治を孫呉に委ねたのだ。そうなると当然荊州の正当支配者は孫呉になり劉備違法にそこを占拠してるに過ぎなくなる。そこで孔明は一計を案じて周瑜を誅殺し孫権から荊州を借りる形を取って劉備を統治者とした。当然条件付きで蜀を取れば荊州を全て返還するという劉備孔明両名のお墨付きであるしかし蜀、そして漢中を奪っても返さなかった。孔明は嘘吐きである。これがきっかけで荊州争奪戦および関羽刑事件に繋がるのである。また、後継者問題では自身の優位を絶対にするため、劉備信者魏延らをあることないこと誹謗し続けたのである。これは一政治家としてあるまじき愚行であろう。ともすれば、これを手本とする日本の某政党は嘘吐きであることを肯定しているも同じである

孔明は人を見る目が皆無。

嫁に関して「孔明の嫁選びを真似るなかれ、阿承(黄承彦)の醜い娘をもらう羽目になるぞ」という諺が存在するほどで人を見る目が全くない。

後に重用された悲劇の名将魏延も反骨の相(史実では不明)としており、一方で劉備が重用するなと言っていた登山家馬ショクへは自身の片腕以上の待遇だった。また、後蜀将として蜀漢を直接滅ぼす原因を作り滅んだ後も劉禅迷惑を被って死んだ姜維へも彼は特別待遇にしていた。そう、孔明は老練の将軍よりも口先だけの若造を重用する傾向にあったようだ。だがそんな彼でも老練を重用することがあったのである名前李厳。後に李平と改名する政治家である。彼は孔明いわく「陸遜匹敵する名相」だったが、才覚は確かにあったらしい。しか性格に難があり、孔明はたびたび彼への諫言を聞くことになるが無視し重用し続けた。その結果231年の北伐の大惨敗を引き起こすことになる。とんだ見立てである。実は李厳だけではない。後に魏に投降したのち蜀に再び寝返り新城の戦いで司馬懿に瞬殺された孟達孔明は重用した。実は孟達も才能はあったが、李厳同様性格に難があった。日本プロ野球選手に例えると中村紀洋である孟達面白い所は劉備に信任された上庸を守らず更に関羽からの援軍要請を無下に断り見殺しにした所であろう。彼は李厳と同じく才覚はあったが考えるところは常に目先の小利だけである。その結果、関羽は死にその責任を負わされることになった孟達曹丕の元へ逃げそこで厚遇を受けた。しか曹丕死ぬ冷遇された孟達は蜀に帰りたいという非常に自分勝手な判断のもと蜀に保護を求めて降伏してきたのである。それを大いに喜んだ孔明は自らドツボにハマる事に気付かず結局孟達の死をきっかけに北伐は失敗に終わる。逆に彼が冷遇し続けた魏延は殿軍を務めるなど蜀を守る役目に徹して彼以上に功績を挙げてしまった。孔明自分が貶めようとした者が成功するのを見ていられなかったのだろう。死の間際にこれまた後に蜀を滅ぼした姜維に後事を託して五丈原で病没した。その託した後事が問題で当時重用していた文官楊儀確執のあった名将魏延を排除したのである。これを機に蜀は滅ぶ道を辿ることとなる。オチとしては魏延を廃した楊儀も後に謀反を起こして流刑となったことくらいか

結局孔明は人を見る目が皆無で、結果として劉備に信頼されておいて蜀を守りきれず滅ぼす遠因を作ったのである

孔明は内政は超一流だが外交軍事も他国どころか身内にも劣る

漢の四相と称される孔明だが、それは内政だけの話でこと軍事においては亡きホウ統法正に劣る。後の「死せる孔明、生ける仲達を走らす」で有名になる司馬懿電撃戦を得意とし曹操にも警戒された天才普通な孔明では太刀打ち出来ない相手なのだがここでも孔明は嘘吐きの才覚を遺憾なく発揮するのだ。また、火刑オタク陸遜孫武に勝るとも劣らないと称された天才孔明も対呉では慎重論を唱えたほどだ。実際には孫呉派閥政権なので内側から崩せば安易に滅ぼすことも可能だった。また曹魏にしても司馬懿の専横を煽る批判文を口先だけは超一流の馬ショクがやって見せたように続けていたら内部亀裂は免れておらず面白いことになっていただろう。孔明は情勢音痴だったのだ。また地理にしても荊州益州では無双だった孔明長安への道についてはこれまでにない慎重な姿勢を貫いていた。これを地理に詳しい魏延にたびたび批判されていたことは有名で、子午谷を通る国士無双の名将であった韓信攻略法を提案し続けたものの、却下し続けた。その結果が成果の見えない3度の北伐であるしか孔明は人を見る目がなかったので要所要所を劉備にすら諫言された将を大将に据えて任せており、その都度名将魏延を殿軍にするなどして引き離すといった愚行を演じている。こと軍事においては後世の学者からしても魏延の方が上回っていたと指摘されることがあるが、実際その通りだったのかもしれない。孔明は何も成果を挙げられていないのだからしかも北伐にかまけて劉禅教育を怠り漢王朝滅亡の原因である宦官制を敷いていたことが後に蜀を滅ぼすのだから孔明は実は内政も言われてるほど優秀ではなかったのかもしれない(宦官劉備提案かもしれないが)。

結論として孔明は、無能だが口先だけは一流の人間を重用し、まともな武将を片っ端から左遷ちゃうクソ政治家である。ま、そんな政治家を神としちゃう政党も流石だとは思いますけどね。

以上、孔明歴史捏造が生んだ最大の恩恵者であり、また稀代の嘘吐きである。某政党もこれを真似たのだから面白い。後に筒井康隆がその政党政権を取ると日本が終了するといった旨の小説を書いているが、これは単なる偶然の一致なのだろうか。

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