はてなキーワード: ノイジーマイノリティとは
はっきり言っておきたいのだが、子ども自身に罪はない。全くもって。
問題はその親である。一部の特殊な親が、子どもを使って免罪符のようにして社会に迷惑をかけるのだ。
子どもは親から下された指令に逆らえない。Twitterなどでいうファンネルのような存在として扱われている。
何か言われても「子どもがしたことなのに!」だとか「少子化問題に貢献しているのに!」だとか「子どもを攻撃する大人ってやばー」だとか「子どもは迷惑をかけるもの!」だとかで反撃できるからだ。
赤の他人などどうなろうが知ったこっちゃない、自分のために我慢しろと考えている。
だから本来は親に怒らなければならない。親を殴らなければならない。
親に「おたくはどんな教育をしてんだ?自分の子どもを愛していないのか?」と圧をかけられるような大人の大人のような存在がいなくなった。模範となるような大人が少ない。
もうガキがガキを育てているようなものだ。
子どもの声は騒音ではないとかなんとかというのは、次元が異なる問題である。子どもの声がうるさいのは親がうるさいのと同じである。親は「うちのがうるさくてすみません」と我が事として責任をもって謝り、受け手は「いやいやいいんですよ。子どもは騒ぐのが仕事ですから」といって我慢することで、うるさいけれどまああそこの感じのいい親の子どもだから仕方ないなと、双方が丸く収まるのが本来あるべき姿だ。それが逆になっていれば、いくら法律で保護されていようがバチバチと恨みはできる。
ましてや嫌いな家のクソガキの金切り声など、家を燃やしたくなるのも頷けるだろう。人生で最も嫌いな人物でシミュレーションすればそれは容易に想像つくはずだ。
今の世の中の風潮は「子育てしている者はエラい」という、なんだかおかしなことになっている。子どもがいるというだけで権力を得ているかのようだ。
「おうおう、そこを通せぃ! この子どもが目に入らぬか! 将来のお主等を支える偉大なる存在であるぞ! 図が高い! 控えおろう!」とこの調子である。
ハッキリ言って、こういう輩はウザいのである。そして、そういう輩がバカそうであればあるほどウザいのである。世の中、バカやクズが偉そうにしているのが一番ムカつくのだ。
だいたいバカの子どもはいくら少子化とはいえ治安が悪くなるだけなのでいらんのではないか。我々がほしいのは親の余裕資産によって完成された次世代型戦闘サイボーグであって、ろくに税金も払えないような無教養足引っ張り治安悪化貢献人材ではない。
バカがパコパコした結果、なんか権力っぽいものを手にしてしまって、その刀を振り回している姿は現代の喜劇だ。
こういう親を「子ども使い」などのようにちゃんと蔑視しておかなければならない。
だというのに、なぜかその子ども自体の存在について議論されていることが多い。子どもに罪はない。その子どものイカレ親こそが問題なのである。
これは子育てしている家庭ほどしっかり考えなければならない。「チーム子育て」と考えて彼らと同一化して考えてはならない。彼らはモンペである。
「しっかり子育てしているあなた」とは全く別の人間なのである!
彼らは子どもに愛など持っていない。
彼らにとっては、子どもなどただの自分のストレスを発散するための道具でしかない。全然愛でもなんでもないものを愛と名付けて子どもから尊厳を収奪し、子どもの自立精神を妨げるモンペである。
そういう毒親は「わたしたちもチーム子育てですよ〜!」と入り込むのが非常に上手だ。そして弱者ぶる、被害者ぶる、ノイジーマイノリティなのだ。
注意して見分けなければならない。
出来ることはコール否定派はコール肯定派と、コール肯定派はコール否定派と距離を置くことしか無いと思う
お互いの考えを変えることは出来ない
お気持ち表明の対象が否定派は否定派同士、肯定派は肯定派同士で話が閉じる分には問題ない
志がある人が新しいコールをしてもアイマス最高コール否定派からも指を刺され叩かれることになる
ただたいていの人は黙っている。いわゆるサイレントマジョリティ
意見表明するのはごく一部だ。ノイジーマイノリティの望む形を実現しようとしても、サイレント否定派・肯定派ともに幸せにはならないと思う
前提:この日記は一個人の考察である。この日記で言及する人が全員そうという訳ではないことも十分承知している。その上でこれを読んでほしい(そうでもしないと「自分はそうではない!」というコメントで溢れかえるだろうから)
「絵の作者に価値を見出すか否か」でかなり分断が生まれていると考察している。
自分の価値観が他人にはないということはよくあることだ。(「え、街中で綺麗な文字見かけた時にどのフォントが気になりませんか!?」「え、便利なサービス見かけた時にバックエンドのフレームワーク何使ってるかとか気になりませんか!?」と書けばわかりやすいだろうか?)
おそらく、見出さない人はイラストがAIイラストでも気にしていない。「別にかわいい/萌えるからいいじゃん」と言った感じ。
もしかしたらマイナーなジャンル/CP/性癖なら「供給が増えた!!」となっている可能性もある。
その絵を描いたもの=AIイラストのモデルに対してマイナスの付加価値が設定されており、さらにはそのユーザー=AI術師に対してマイナスの付加価値を設定する。「こいつAI使ってたからこの人の絵嫌い」と言った感じだ。
もしモナリザを描いた人が完全に無名なひよっこだった場合、今ほどの価値は生まれていたのだろうか?もし大罪人だったら?自分はそうはならないと思っている。ダヴィンチが描いているからあそこまでの価値が一般に広まっていると思っている。(正直、自分はあの絵のARG要素くらいしか魅力を感じない)
今のツイッターランドで起こっているであろうことの一つに、フィルターバブルやエコーチェンバーによって「全ての人は絵師を気にしている!」(またはその逆)という幻想が生まれていることがある。絵師界隈、さらにその中の反AI村という村社会の中で情報が更新されていないように見える(一部の過激派のせいで対立が激化している原因の一つにも思われる、こっちはノイジーマイノリティとかの効果もあるが)
もちろんこれは反々AIに対しても言えるが。
小池都政は都庁プロジェクションマッピングを始めとした無数の失策を起こしている癖に、百合子がそれを「やりたいことリストが一つ埋まったぜ!やったー!」と喜んでいるっていうバカの毎日記念日みたいな政治で最悪の極みだった。
PDCAサイクルを回すつもりが最初からなくP「百合子ちゃんがやりたいこと100」→D「達成!良かった!じゃあ次やろ」で終わる地獄の世界。
蓮舫は機能していた行政をぶっ壊した前例を持っているし、それについて反省の色がないだけじゃなく「ぶっ壊しまくったらなんか目立って皆喜ぶらしいぞ!」みたいに成功体験として扱っているフシがあるので全力マイナス。
石丸も調べていくと似た部分があるが、まだまだ未知数な部分があるので減点は半分で留める。
4位以下の有象無象に投票した場合、上記の大幅マイナス二人が当選するリスクがあるので小池に投票するしかない。
同じような人が沢山いたからこの結果が出たんだろうな。
面白みもなければ、あっと驚く「真実」も披露できなくてごめんね。
こういう無難な意見はネットで語った所で新規性もないから全くバズりもしないけど本当の所は多くの人が思っていることだよ。
まさしくサイレントマジョリティだ。
インターネットはノイジーマイノリティが大手を振って歩き回りさもそれこそがメジャーであるかのように見えるけど、リアル社会では今更口にする必要さえ誰も感じてないようなサイレントマジョリティが支配している。
https://www.nhk.or.jp/minplus/0121/topic101.html
こう言う記事あるけどさ。。最初に「地方女子プロジェクト」なる偏った思想の連中から話を聴いて煽るのやめない?
そんなのより、地元で暮らしたいけど就職先がないとか、働く場所が無い人たちに力を入れようよ。
取材を受けた人々がノイジーマイノリティであること、これは本人も認めていて、記事にはこうある。(強調は増田による)
「地方から女性が出ていってそれが人口減につながっている、みたいな課題を見たときに、投げかけられているのは『地元に戻って子どもを産め』ということなのかなみたいな。
そういう圧みたいな、あおりみたいなものに感じ、地方が女性にとって生きづらい場所になっているのではないかという疑問があって。
でも報道とかレポートとかを見ていても、そこに当事者である女性の声が全くない。私たちの思いは統計や数字になっていない感じがするので、それを示したいです」
個人の感想を言うのはいいよ。そりゃ大事な意見だ。だけどそれがまるで主流か何かの様に報道するのって何がしたいわけ?
悪質なプロパガンダじゃん。
「私たちの思いが統計や数字になってない」のは、あなた方が「当事者である女性」を代表できるような存在ではないからであって、主語を「女性」ではなくて「私」に置いて活動しろと。
典型的なノイジーマイノリティではないか。
自分たちが主流だと主張するならちゃんと統計とってこい。話はそれからだろ?
彼女らはは田舎を捨てて外にでること、外に出たら結婚もせず子どもも作らないことを決めてるわけだよ。
それは別に悪い事じゃないよ?好きにすりゃいいのよ。好きに生きたらいいのよ。そんな人たちが作ってきた文化や世界は間違い無くあるから悪くはない。
でも、こいつら主流派じゃないでしょ。典型的なノイジーマイノリティ。
たぶん彼女たちに少子化問題予算はもちろん、人口減少対策の金をつぎ込んだって何にも起こりゃしないよ。コスパ悪すぎ。
地元を離れた女性たちからは、国や自治体が行う支援は結婚や子育てを前提にしたもので、独身女性へのサポートが少ないのではないかという声も
逆に言おう。「独身女性」という属性だけでなぜサポートをしろという話になっているのか?
例えば貧困であるとか、病気をしているとか、そういう話があるならがそちらの属性は当然社会的支援がいるだろが、そのような話が一切なく、なぜ突然字独身女性はサポートするのが本来であるというような謎の概念が出てくるのか。
男女逆にして「独身男性へのサポートが少ないと言う声」なんぞNHK絶対記事にしないだろ。
取材したやつはこの記事を書いていて何の疑問も感じなかったのか?
記事への突っ込みはこれぐらいにして、ではどうしたらいいかを考える。
実は、若者の地元志向というのは、ほとんど変わらないというか、徐々に増えているという事実がある。
https://www3.nhk.or.jp/news/special/news_seminar/syukatsu/syukatsu927/
https://career-research.mynavi.jp/reserch/20230509_50051/
これを見るとわかるのだが、定量的に見ると、都会に出て就職を希望する人は増えている訳ではないのだ。
これは記事中でも一応出てくる。統計では主因なのになぜか扱いが小さいが。
東北圏から東京圏に移動した理由を複数回答で尋ねたうえで、インタビュー調査で最も重要視する項目を順位付けしてもらったところ「やりたい仕事・やりがいのある仕事が地方では見つからない」ことが地方から転出した主要因だということが分かりました。
実は有効求人倍率と地方就職率は緩やかな相関があって、有効求人倍率が上がると地元で暮らす人が増えるという関係にある。事実、数ではなく率という点では地元に就職する人は、わずかではあるが増えているのだ。
示されている、本当は地元で暮らしたい、地元で家族を作っていきたい人を支援することが最優先であって、地元を捨てて出ていったノイジーマイノリティに金を流し込むことではない。どうせ連中はひとり暮らしになる高齢期にじゃぶじゃぶ社会福祉費を使うのだ。今銭を食わせる理由はない。
産む機械扱い? 誰が言ってるのかそれは。妄想じゃないのか。統計に載ってこない声とやらを発するノイジーマイノリティではない。彼女たちが極端に偏ったおかしな話をばらまいて分断を煽る事ではない。好きに生きて好きに死ね。ただ少子化・人口減少対策の予算はお前らには出ない。それだけ。
いい加減にしてほしい。
追記:
初デートサイゼ論争はことごとく議論が噛み合っていない様子である
サイゼ論争を眺めるにつけ、みんな明後日の方を向きながら演説しているだけなのに距離が近いから議論ぽく見えてしまっている……といった印象を毎回抱いている
この噛み合わなさの要因は一体何なのか
議論を観察するうちに気づいたことだが、実は「初デートにサイゼ」という事象には3つの捉え方があるようなのだ
初デートサイゼを語っている人間は大きく3つのグループに分類され、それぞれ常識や経験、世界観が全く異なっているために同じ「初デートサイゼ」を語っているように見えても実は全く異なるデートの事象を取り上げている
ここでは初デートサイゼ論争を繰り広げる層を3つに分類し、それぞれの層が指す初デートサイゼの正体について深堀りしてみようと思う
それぞれの誤解が解きほぐされ「初デートサイゼ」にまつわる相互理解に少しでも繋がれることを願っている
まずは初デートサイゼに対して激烈な嫌悪感を示している層である。
概ね下記のプロファイリングに該当する層であり、初デートサイゼ論争においては否定派に回っている
・結婚願望が強い
・恋愛経験があったとしても自分の理想の恋愛経験ができた経験はなく、過去の恋愛を黒歴史だと思い込む節がある
・相対的な価値観で幸せを感じる傾向がある(自分が好きかどうかではなく周りからどう見られるかを重要視している)
・「〇〇すべき」「〇〇しないとみっともない」といった「べき思考」を内面化している
こういった層が想定する「デート」とは、マッチングアプリ等によって知り合った人間との初めての顔合わせである
婚活をしない層からすると信じられないことだろうが、彼女らの思うデートとは「相手のスペックを品定めするための場」であり、純粋に恋愛の過程を楽しむためのものではない
さながら、事前に定められた規格に対してその製品が合格できるかどうかを確認する試験のようなモノなのだ
そういった層からすれば当然のことながら「初デートでサイゼ」はナシとなる
この層における初デートサイゼとは、「相手の男性の給料は相当低い」「自分を魅力的に見せる努力を怠っている無能力者」「こちらを舐めている、足元を見ている」「こちらを楽しませようという甲斐性は一切ない」などといったことを意味する符牒となるのだ
故に初デートサイゼ肯定派を見たとき彼女らは自身の価値を毀損させられたかのごとく怒り狂うし、あるいは「初デートにサイゼ悪くないじゃん」的なことを言う女性に対しては「穴モテのクソ女!!」といった反応を寄越すのである
初デートサイゼを支持する層ではあるが、こちらもこちらでデートに対する認知は歪みまくっている
プロファイリングは下記の通り
・基本的に恋愛の知識はネットやアニメや漫画から得たものしかない
・ルーティンから外れることを嫌う特性がある上に周りの目を過度に気にする
・そのため外食はもっぱら通い慣れたチェーン店しか利用しておらず、恥をかくのが怖すぎてひとりで行きつけのお店を開拓することができない
・恋愛や幸せに対する考え方が幼稚で独善的(自分が好きなことと相手の好きなことが一致することが幸せだと思っている、相手の喜ぶことに合わせるといった思考がない)
この層はデートを「恋愛関係に至ったあとにする行為」だと思ってる
より正確に言うなら、「好きです!付き合ってください!」などという告白によって交際がスタートし、その後初めてふたりで出かける行為を「初デート」だと思っている
しかも、基本的に女性に対して歪んだ幼児的な見方しかしておらず0か100かでモノを考えているうえ、「ありのままの自分をそのまま認めてもらえるのが良い恋愛」だという幼児的な世界観に脳みそが支配されている
「初デートがサイゼになるのは仕方ない(他にお店を知らないし怖いから)」
↓
「理解のある彼女ならこちらの事情を察して初デートサイゼに文句は言わない」
↓
「っていうか初デートで高い飯奢られようとするとか普通に性悪ビッチなのでは?」
↓
↓
「初デートサイゼは何もおかしくない!むしろ初デートサイゼに文句言ってんのは性悪のクソビッチ!」
と思っている
彼らからすれば層1の主張をする人はみんなビッチになるというわけだ
ネット上の初デートサイゼ論争は主に層1と層2が噛み合わない議論を延々と繰り返すことによって形作られている
が、実は層1も層2もノイジーマイノリティであり大半の人間が思う一般的な初デートサイゼの印象からはだいぶ外している
ではここでいう一般人とはどんな人なのかというと、
・自己肯定感もそれなりにある
といった人だ(逆に言えば層1と層2にこのような要素はない)
「趣味で知り合った間柄だと初デートサイゼも普通にあるよね、好きなバンドのライブ行ったときの食事とか簡単なものになりがちだし」
「あとから振り返って「そういえば俺達の初デートってサイゼだったねー」ってなることあるよね、友達以上恋人未満のときにノリでファミレス行ったりすることあるじゃん」
などと、個々の事情次第でそういうのもあるよね、といった反応になる
層1や層2と異なり「こうなるべき!!」といった思考には支配されていない
またそうであるが故にネットのレスバに参加することも少なく、仮に参加しても過激なことは言わないので意見は埋没しがちである
サイゼ論争を実りあるものにしたいならまずは相手の過去ツイートなどを漁って相手の人柄が何なのかを把握するべきだ
また、その姿勢を自分に向けて「なんで私は初デートサイゼにここまで感情が高ぶっているのか」を分析することも重要だろう
ここで紹介したプロファイリングも全部が全部当たるわけではなく、例えばこの間話題に乗っていた「女性をサイゼに連れて行って試すことの何が悪いんだ!」みたいなこと言っていた人は層1の異性版といえる
いずれにせよ、初デートサイゼに口角泡を飛ばしている時点で恋愛に対して歪んだ認知を持っていると言えるのでカウンセリングを受けたほうがいいかもしれない
珍しく女性に偏重した男女不平等だったけど、これも男女平等への重要な一歩だ。
たしかに導入直後は混乱もあるだろうが、根本的な仕組みとして不平等な仕組みだったので長期的に見れば良い改正だと思っている。
少なくともオレは安心して結婚して子どもを持てるな、と思ったよ。
海外でも日本人女性と結婚すると子を連れ去られるから結婚してはいけない、という呼び掛けを時々見かけていたがそういうのもだんだんと減っていくだろう。
共同親権という枠組みは維持したまま、細かい調整を随時加えていけば十分実用的で安全な仕組みになるはずだ。
あとは夫婦別姓などの他の男女平等施策も進んでいってほしいところ。
誰かが反対でもしようものなら論理ではなく、全く別の過去の行動を取り上げて人格批判や印象論での批判ばかりで、ほぼ誹謗中傷といっても良いレベルだった。
そのせいで賛成派はSNSでは怖くて声を上げられず、ノイジーマイノリティがSNSを跋扈する状況となった。