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はてなキーワード: ルックとは

2022-05-17

anond:20220514105830

ルックバックの時と完全に同じ流れだな

知りもしない人が障害当事者の事を勝手に決めつける

2022-05-10

Netflix】AJ&クイーン

ゴールデンウィークにみた

ドラッグクイーンの人、足が長すぎて一話に付き1回は「足が長すぎて腰の位置常人のそれではない」ってなった

ストーリー王道だけどそれがよき

ロケット団みたいな2人も面白かった

孫持ちの美魔女?悪役おもろ

・AJちゃん滅茶苦茶顔綺麗

 短髪ルックかわいい

最後ちょっと駆け足かな?ってなったけどまあズルズル続いてダレるよりかはいいかってなった

・歌ウマすぎぃ サントラに収録されてる?

・8話?くらいの幼なじみと踊るノリノリダンス、色々すごすぎる 良ッ

2022-05-06

創作なるものをしたいのだが、絵もプログラム音楽も出来ない

文章が書けるかといえば書けないのだけど、今から絵の練習をするぐらいなら文章練習をしたほうがマシな気がする。

文章練習というと「気に入った作家のいいと思った文章を真似してみろ」なんてのが有名だけど、問題になるのは私が文章を読むのがあまりきじゃないってことだ。

自分が件の練習法を聞いて思いつくのは梶井基次郎の「桜の樹の下には 屍体が埋まっている!これは信じていいことなんだよ。」ぐらいのものだ。

梶井基次郎教科書に乗っていたから知っているだけで全文読んだことがあるのは教科書に全文載っていた檸檬ぐらいだ。

好きな作家といわれても恒川光太郎ぐらいしか思いつかないが、彼の世界観は好きだが文章が好きかと言われるとそうでもない。

練習のための資料探しに大して好きでもない本を必死に読むというのもなんだか阿呆らしい。

基本的に娯楽で本を読むとき漫画を読むし、勉強のための本は挿絵が多いものを選ぶ。

文字だけの本は苦手なのだが、文字による表現を学びたいなら文字だけの本を読んで気に入った文章を探す必要がある気がする。

私は趣味として創作がしたいので、出来ることならその行程の大部分は楽しい時間を過ごす形にしていきたい。

漫画を読むなら漫画を描けばいいという発想もあるのだが、前にそれをやって絵の練習で完全に躓いた。

とにかく手先が器用ではないので線がまともに引けなかったし、モノの輪郭や特徴の捉え方がよく分からない。

自分美術の成績は概ね「2」だったこから才能がないのは知っていたが、まさか本当にモノを見るという機能自体がここまで劣っていると思わなかった。

そもそも絵を見ていいと思ったこ自体が実はあまりなく、自分の中で絵の美味い漫画家は大暮維人荒木飛呂彦なのだが、それがどう上手いと感じるのか分析しようとしても「綺麗な線が沢山描かれてるから」ぐらいしかからない。

美術芸術を見てもピンとくることはなく、せいぜいがミュシャを見て「アニメの絵みたいで可愛い」と感じるのが精一杯なのは流石にどうかと思うがそうなのだからしょうがない。

眼高手低とはよくいったもので、こんな自分が「漫画を描いてみたい」と考えると脳裏に浮かぶのは藤本タツキのようなとんでもない作品だ。

藤本タツキがその昔新都社で描いていたよく分からない漫画ではなく、今現在描いているルックバックのような作品だ。

でも自分がアレを作ろうとするなら一生かかっても無理だろう。

もし突然神様が同じレベル技術をくれても、背景を描くのがしんどくて無理だろうし、フリー素材の張り合わせで背景を代替しようとしても選ぶのが面倒で投げ出すだろう。

自分のやる気の範囲で出来るのはせいぜい背景が真っ白で棒人間が何かを喋っているような漫画しかない。

そういったいわゆる「白ハゲ」とされるような漫画を描く場合は、たいてい世の中に訴えたい事がなければいけないと思うのだが、それがあるわけでもない。

何か作りたいものがあるのではなく「創るということをやってみたい」という気持ちけがあるのだ。

行き詰まっている。

消費するという行為に飽きが来ているので創作を始めたいというただそれだけの動機から次はどこに行けば良いのかが分からない。

キャンプ釣りなんかは試したが、あれも結局は消費活動一種であることに気づいてしまうとなんだか虚しくなって今は退屈さしか感じない。

そもそこれは鬱なのではないだろうかという気さえある。

行き詰まっている。

タコピー原罪ルックバック、さよなら絵梨、100日後に死ぬワニ←もう誰も話題にしてない

一瞬流行って一瞬でオワコンになったね

持ち上げてた連中の見る目の無さがバレちゃったね

2022-04-30

マンガ理解できないんだけど

ゴールデンカムイは、最初数巻はいいんだけど、途中から関係性が全く分からなくなってきた。

ルックバックは、結局何がなんや分からんかった。

約束のネバーランドは、外でて少ししたら意味不明になってきた。

 

1日外出録ハンチョウみたいなのし分からん

2022-04-29

ルックバックでわからなかったとこ

さらルックバックの話なんだけど、ファンの人が感動しているポイント自分はまったく感動できなくて、逆になんで感動するの?と思ったので、教えてほしい

 

藤野京本小学校卒業式出会い一緒に漫画を描くことになった世界世界A)では、二人は数年一緒に活動したのち道を違えることになり、美大に進学した京本キャンパス侵入してきた通り魔に襲われて死ぬ

藤野は、京本自分出会っていなければ美大に進学することもなく、ひいては通り魔によって命を落とすこともなかったと思って自分を責める

一方卒業式出会わなかったほうの世界世界B)でも京本世界Aと同じ美大に進学し、同じように通り魔に襲われるが、たまたま藤野に助けられる

藤野小学校ぶりに漫画を描くのを再開したと京本に話し、雑誌に連載することができたらアシスタントになってくれと彼女に頼む 二人の友情がここから始まることを示唆して世界Bのほうのエピソードは終わる

 

藤野京本卒業式出会っていようといまいと、いずれ京本引きこもり自発的にやめて美大に進学して通り魔に襲われていたのだから藤野自責の念を抱く必要はない、という結論はわかる

しかし、それと同時に、卒業式出会っていようといまいといずれ藤野漫画を描いていたし、二人は出会って友情を育んでいた

藤野漫画を描くことになった」「二人は友達になった」はどっちも藤野人生にとってトップクラス重要出来事

世界Aと世界Bのどちらでもその二つの出来事は起こる ただし世界Aでは京本死ぬ

だったら世界Bの方がよくない?

卒業式の時点で二人は出会ってなければよかったんじゃないの?

なので「じゃあ藤野ちゃんはなんで(漫画を)描いてるの?」という京本の問いかから始まる一連のエモいシークエンス(はっきりと言葉にされるわけではないが、「京本に読んでほしかたから」という藤野気持ち表現されている)も萎えしかなくない?

世界Bでは「京本に読んでほしい」というモチベーションがなくとも漫画を描いているのだから世界Bの話を挿入することは、世界Aにおける「京本に読んでほしかたか漫画を描いてきたし、これからもそうする」という決意を感動的なものにするどころか「え、じゃあ出会ってなくてもいずれは漫画描いてたし、京本通り魔に襲われた時点で藤野漫画家になってなかったら京本は死んでなかったんじゃん、後味悪〜」と思わせるだけなのでは

少なくとも自分はそうだった

みんなあれの何に感動したの?

2022-04-17

anond:20220417232940

今まで怖い目には何度も会ってるけどそういう運転をする女性共通点って、周りを一切見てないんだよね。

前だけを見て運転して、前だけを見て交差点に入ってくる。

ノールックなのが共通

やっぱりそうなのか。

anond:20220417232714

俺も気になって、いろんな人に聞いてみたことあるんだけど、

女の人から見ても女の人の運転は怖いというか、警戒するってさ。

ノールック車道に飛び出してくる場合ほとんどは女の人だと同性からも思われてるらしい

要するに、女の人の運転がまずいのではなく、女の人の中には飛び抜けてやばい運転をする人がいるってことだな

anond:20220417153846

漫画ルックバック」を読んで追い込まれ犯人大阪クリニック事件を起こした

anond:20220417133607

そもそもルックバック燃やした奴が異常だっただけ

異常者はどんな対象でも燃やすことができる

きのう放送されてたスパイファミリー見てたら血まみれで現れた主人公が「いやぁ患者さんが暴れましてね、精神科医にとってはよくあることですよ」みたいな嘘で言い逃れるシーンがあって

「あ、ルックバックは燃えたのにこれはセーフなんだ」って思った

2022-04-15

anond:20220413104739

ルックバックみたいに他人の死をネタのように消費するのは違和感あるね

自分の事ならともかく

2022-04-13

anond:20220413104414

ルックバックもさよなら絵梨も「創作者が創作によってどのように人の死を受け容れることができるか」ってのがテーマから

創作者の話をしてるのに創作者以外のことはどう思ってるんだって言われても仕方がないでしょ

anond:20220413103952

ルックバック→ストーリーを作る漫画家が生き残って背景描きは死んだ

さよなら絵梨→撮影編集もやる監督が生き残って周り全部死んだ

ストーリー創作する人間以外はモブ存在無視)と養分死ぬしかおらん」がタツキの世界

anond:20220413103420

ルックバックのどもり女のほうは「死ぬ用のキャラ」だけどそれなりにキャラ立ってた。

台無しにされた「さよなら絵梨」

※「さよなら絵梨」および作者の過去ネタバレあり

個人の感想です

結論から言うと「さよなら絵梨」は、丁寧に積み重ねた(積み重ねられた)物事台無しにする気持ちよさ、台無しにすることによって生まれオモシロとそこへ向かう衝動を抑えることができない人間のままならなさを描いた作品だと増田は読んだ。

主人公は病に侵された母を追う感動ものドキュメンタリーラスト病院を爆破することで台無しにする。

さらに読み進めていくと「さよなら絵梨」という(ダサいタイトルの)物語も丁寧に積み重ねられた末に爆破オチ台無しになる。

たとえ現実に実行できなくとも、自ら創り出したフィクション世界で辛い出来事トラウマを爆破しオモシロに転化することが癒やしになることもあるだろう。

以下は余談として作者の別作品の話を交えるが、藤本タツキWJ連載作品チェンソーマン」は実に巧みに「台無し」を演出物語を彩っていた。

それはゲロキスであり、キンタマを蹴る最強の大会であり、コベニの車であり、ファミリーバーガーであったりした。

さよなら絵梨」の冒頭で主人公映画はボロクソに評価されていたが、絵梨に言わせればそれは技術問題であり、「チェンソーマン」が現実に受け入れられたのはまさに作者の漫画力の賜物だろう。

さよなら絵梨」の前作「ルックバック」にも台無しにする人物が登場した。通り魔の男である

彼は劇中において現実他人人生台無しにしてしまった。(まどろっこしい表現だが伝わってくれ)

ルックバック」が発表された当時、自分も一歩間違えれば通り魔の男のようになっていたかもしれないとか、通り魔の男は一体どうしたら救えたのだろうといった感想増田は何度か目撃した記憶がある。

と言うより、増田自身にもそれに近い感覚があるので印象に残っていたのかもしれない。

さよなら絵梨」はあの通り魔を気にかけてしまった人間への一つの回答としても読むことができる。

作者が意図的にそうしたのかどうかは作者のみぞ知るところではあるが。

さよなら絵梨の論点を整理したい

追記:整理と言いながら大分とっちらかってしまったので要約。

・少なくとも、スマホ主観視点になっていないシーンは編集済み=虚構。ほかのシーンについては解釈余地あり

・どこが虚構でどこが現実かについては作者にとって重要ではない。重要なのは読者が気持ちよく思い出を残すこと。

・爆発オチや、思いつきそうな感想を先回りして潰して大量に予防線を張ることで、まじめに言及したら負けのような状態を作っている。多少の言い訳なら鼻につくところだが、やりすぎることによって逆に面白くなっている。

■本作は五重構造になっている

母親最期を看取る主人公

②を映画にして上映したが、盛大に失敗。謎の女と共にリベンジ映画作る主人公

③の出来事を振り返る中年主人公

④に爆破オチを追加した主人公

⑤という映画体裁にしたマンガ

あとは無数の映画オマージュそれから作者の過去作や実体験も重なってくる。

■どこまでが虚構でどこから現実か?

身もふたもないことを言ってしまえばすべて虚構。なぜなら最後の爆破オチ現実ではありえないから。また、マンガなんだから全部虚構だろともいえる。ただ、それだと何も言っていないのと同じなので、作中世界で起こった事実を基に編集によって脚色されている、と捉える。じゃあどこが事実でどこが脚色なのか?これは作中でわかりやす表現されている、主観/俯瞰視点と、手ブレ表現を手掛かりにする。この二つを抑えておけば切り分けできる。

■①

最初主観視点スマホ撮影している。全体を通してだが、移動シーンやシーンの切り替えの際は、いちいち手ブレ表現を入れている。このへんはいわゆるドキュメンタリー映画王道表現なだがマンガでこれをやって読者に伝わるのか?

18P、主観視点になっていない=スマホで撮っていないので編集シーン。ここテストに出ます

P19、雑な爆発シーンは後付けであることが容易にわかるのだが、P18の構図には映像を取っているはずの主人公が映っている→誰が撮影している?→後撮り。さらに、P123において優太は車から出ていないことが示されており、そうするとP16からすでに父親が演技していることまで疑えてしまう。

■②

P21の俯瞰視点、これは何をどうやっても後撮りでないと撮影できない。P23も怪しい。P27はスマホ隠し撮りしているとすれば後撮りでなくても可能。そして最初作品批評がここ。読者の思ったことをわざわざ言語化してくれているのが、逆にこの作品の非常に批評しづらいところ(どういう感想をつぶやこうとしても、作品内で先取りされてしまう)、そのまま引用

★"母親の死を冒とく"”あん映像流して母親申し訳ないと思わないのか”そして極めつけの"ラストなんで爆発させた?"

続いて自殺シーン。P32のメメントモリ、は死を思え、という慣用句だが映画文脈では映画メメントを思い出させる。いっそメメントみたいに時系列シャッフルすればよかったのに、と思うところだが、実は時系列編集によって巧みにシャッフルされているという捉え方もできる。実際にリアルタイムスマホで撮った映像と、後撮りした映像シームレスに混ざっているが、普通にマンガを読んだだけでは気づかないようになっている。もちろん全部後撮りの可能性もあるが、それだと考察のしようがないので手ブレしてるところは本物と考える。

P39、作中で言及されている通り本来眼鏡かけてて矯正もしているので、A.めちゃくちゃ頑張って撮りためた映像ソフト編集した、B.わざわざ撮影のために演技して撮り直した、C.完全なる創作かの三択となる。中学生技術力を考えるとBかC。

P45、プロジェクターの真ん前にカメラを置いているから、完全に後撮り。ちなみにここで映っているのは映画ファイトクラブファイトクラブは、本作のどこまでが現実空想かわからないというネタ元の一つになっている。話がそれるが、ファイトクラブといえば選挙演説で有名な外山恒一批評が異様に完成度が高く、未視聴でも必読。ほかにメタ構造ネタでヒットしたカメラを止めるな!も思い浮かぶ。あとニューシネマパラダイスとか、そもそも本作のタイトルとページ数の元ネタであるぼくのエリ 200歳の少女など、挙げればきりがないと思うし俺なんかより作者の方が100倍くらい映画をみてそうなんでネタ元を挙げ切るのは不可能だが、個人的にはこのへんの映画を思い出した。

★P52、作品批評"どこまでが事実でどこまでが創作かわからない"。

P63、二人はしばらくずっと映画見ているが、ここもプロジェクター視点になってる。ちなみに、このひたすら映画を見て感想言う特訓だが、これは作者自身過去編集と似たようなやりとりしてたことを過去インタビューで語っていた。

★P79にて、これも一応作品批評になるのか、一見意味不明な爆発シーンを入れた動機主人公の口から言語化されている。

★P82で、作品テーマである"ファンタジーひとつまみ"=吸血鬼と爆発要素。

P84で、①のネタばらし。実は母親の嫌なところは編集でバッサリカットされていることが判明し、作中描写編集ウソが混ざっていることが明示される。

★P86にて自己分析という体で、①を批評している。"主人公の抱えている問題は…多分…映画バカにされた事じゃなくて…母親の死を撮らなかったこと"そして、吸血鬼死ぬシーンの説明

P87で絵梨が意味深沈黙しているシーン、ここで彼女の死期が近いことが偶然にも主人公提案したプロットと被ってしまい、その動揺を表すために意図的に同じコマが挿入されている。動揺しているからこそ表情が動かないというのは逆説的だが、P85の喜怒哀楽表現との対比により、余計に目立つ。P85~86過去回想シーンのため、編集

P90~P93もそう。意図的沈黙を配置することで画面に緊張感を作っている。さっきの彼女沈黙と比べるとわかりやすい。こういう間を作る表現は、週刊連載のページ数に囚われないからこそやりやす表現で、電子掲載特性が生かされていて良い。

★P93~の父親の名演技。これも作品批評になっている。"自分面白いと思って作った作品馬鹿にされオモチャにされたらまともじゃいられないんだ"。

前のルックバックに対する批判を思い出す。ちなみに作者の自伝的要素としては思い当たるふしがもうひとつあって、チェーンソーマンの前作ファイアパンチでも作中のある印象的なコマが切り取られて海外(主に4chanの/a/)でネットミームというおもちゃになっている。"kino meme"で検索したらたくさん出てくる。

P97、この父親の怒りすらも演技という体。父親作品批評をそのまま言わせてしまうのとわかりやすすぎだが、あえてそれを"演技ですよ、本当はそんなこと思っていませんよ"と自虐的ネタにしてアピールすることで、ネタマジレスを防ぐと同時に、この作品テーマの一つである虚構現実の境目がわからない状態を作り出していて一石二鳥となっている。

★P99、ここで批評をもう一発かましてくる。"創作って受け手が抱えている問題に踏み込んで笑わせたり泣かせたりするモンでしょ?作り手も傷つかないとフェアじゃないよね"

ここは非常に巧妙で、さっきの作品批評がわざとらしい感じだが対比してこっちは本音を語っているように見える。傷つきはするけどしょうがないよね、そしてなにより、創作ってのは受け手も傷ついてなんぼのもんだろ、という主張を相当オブラートに包んで発言している。

P100、"今のセリフいいでしょ?"とこの本音を語っているように見せた発言すらメタってしまう。これすら本音ではないと言っており、さすがに照れ隠しじゃねーのと思うが予防線になっている。

P108。最初出会い病院なわけで、何らかの病気であることは元々暗示されていたが、ここで絵梨が倒れこみ、病気存在が劇的な形で示される。手ブレにより躍動感が表現されていて気持ちがよいがこれ伝わるのか?(2度目)。

P109、病院では一切手ブレがなく動と静の対比。P117、①のような素人臭い動きの画面が続き、主人公の動揺する心理が表れている。この漫画ほぼモノローグがない代わりに、マンガなのにもかかわらずこういうカメラワークでの映画表現をうまく使って心情を表現していて、作者はやはり天才か?となる。

P122、お母さんの性格の悪さが開示され、①はかなり編集が入っていたと判明する。ただし、嘘だったとしても、思い出を美化するのはいいことだと主張している。

★P130、作品批評。"優太はどんな風に思い出すか、自分で決める力があるんだよ それって実は凄い事なんだ みんながどういう風に絵梨ちゃんを思い出すのか 絵梨ちゃんは優太に決めてほしかったんじゃないかな……"

ここは今までと違って、一切茶化していない。編集により現実が捻じ曲げられる恐ろしさというネガティブな側面を前もって提示しておきながら、でも思い出を美化するのもいいよね、と肯定する流れ。否定的にしたいなら順序を逆にすればいいだけなので、これは割と「作者がほんとうに伝えたかった事」としてとらえていいんじゃないかな?と思う。

P131、編集シーンが入ることで、②もまた生の現実ではなく、美化された思い出、編集された虚構ということが暗示される。

P133廃墟主観視点でないので、後撮り。

■③

P151にて場面転換。

P155、本来の絵梨は矯正している、眼鏡をかけていることが明らかになり、②のネタばらし。P130~132に対するわかりやすい答え合わせになっている。

P164、ここから主人公モノローグ。終盤の展開がモノローグではしょられるの、低予算あるあるで笑える。本筋じゃないし時間内の200Pに収まらいかカットされたのかもしれない。そうなると、ディレクターズカット版の単行本では未公開映像流れるのかな?

P167、低予算映画あるあるの、父親役と本人役が一人二役なんじゃないのかという考察を見たが、見た目違うとはいえ割とありそう。

■④

P177、ここにきて見開きばーん。P151以来のタメがあるのでとても気持ちが良い。①~④の間の場面転換すべてに共通して、見開きが挿入されたタイミングで、作中作現実メタ構造が切り替わる仕組みになっている。そして、さんざん言ったように主観視点になっていないので、これはすべて後撮り。よって吸血鬼実在しない。Q.E.D. あとこれ面白いのが、絵梨がメガネしてないし矯正もしてないところ。この吸血鬼映画の美化された絵梨を真似しているため、見た目も現実ではなく映画準拠になっている。

★P180、"そうかっ 夢か…… それか僕のイカれた幻覚で…"とわざわざ口に出して言う。

映画タイトルだけ羅列してもわかりにくいので、夢か現実かわからない状況を読者向けに解説する。あとシックスセンス定番ネタバレなんでしょうがないけど笑うわこんなん。

★P181、作品批評。"恋人が死んで終わる映画って在り来りだから後半に飛躍がほしいかな… ファンタジーひとつまみ足りないんじゃない?"

恋人が死んで終わる映画って在り来りだよねーという批判が飛んでくることがわかっていて予防線を張っており、後半の飛躍をまさに今行っている最中なので、言うまでもなく非常にメタい。

★P191、最期作品批評、"見る度に貴方に会える… 私が何度貴方を忘れても 何度でもまた思い出す それって素敵な事じゃない?"

作中の元になった出来事が忘れられても、作者が死んだとしても、作品が残れば思い出は受け継がれていく。たとえそれが美化され、脚色され、編集されたものだったとしても。つまり映画の内容がどこまで虚構でどこまで現実かはどうでもよく、受け取る観客がいい思い出を残してもらうことが大事、という壮大なちゃぶ台返し最後の爆破オチで壮大に茶化されているとしても、作者の伝えたい主張にウソはないだろう。

P199、ここは皆さん一番好きな映画の爆発を思い浮かべながら。予防線をあまりにも張り巡らしているせいで作品予防線の塊になっており、最後に爆発オチを持ってきてすべては創作だと主張することで、主客転倒が完成。終幕。

すべては爆発のための前振りととらえることもできなくはないが、ルックバックで思ってもなかった方向からダメージ食らったので、思いつく限りの主張を先回りしてそれ自体作品にしてやろうというところなのではないか脚本作る労力を考えると本当に頭が下がる。

2022-04-12

anond:20220412195535

ルックバックとさよなら絵梨だけ読んだけど、よくわからないのにやたらもてはやされててモヤっとした。

かに自分理解できないものメジャー扱いされてるのがついていけてない感あって嫌なのかも。

タツキはハイコンテクストからという割には、

ルックバックの時にネタ元の一つであろう、手塚治虫八角形の館に触れなかったり、

今回も脳内ニューヨーク等の入れ子構造映画名前が出てこないっていうのが、なんというか…。

anond:20220412155921

やりたかったのは「映画による死の受容と超克」かなと思った。

ルックバックはそれを漫画という手法を使ってやったけど、全く同じテーマを被してきたってことはタツキって人が今相当書きたいテーマなんじゃないかな?(それかルックバックであーだこーだ言われて腹立ったかリベンジしたのかもしれんが)

ルックバックでは漫画過去を遡ることで、友人が助かったかもしれない世界に思いを馳せることで主人公は友の死を受容し、超克した(ぶっちゃけあんま覚えてないけど)

今回は映画手法パロディを用いることで、映画の中の絵梨に吸血鬼という設定をつけて永遠の命を授けた。

絵梨が映画の中で生き続けてる存在になることで主人公は絵梨の死を超克した。

たぶん、絵梨もそれにより自分の死を受け容れることができた。

ただ、それは現実逃避でもあるので、ちゃん主人公にとっての餞別であり、これがファンタジーだと目を覚ますことができるひとつまみのファンタジーである爆破という表現最後に加え死を受け容れ、ちゃんと彼なりのさよならを告げた。

(あ、これは絵梨のラストシーンは親父さんを使ってあらかじめ撮影していた説を適用してます

パロディに拘っていたのも映画によって死を克服するというテーマだったからだと思う。

世間ではよくわからんとか放り出しとか爆破wwwとか言われてるけど、そんな難しいことや謎はなく、長いけど無駄は少なくちゃん筋道を立てた物語だな、って気がしたよ、ワイの脳内では。

anond:20220412153407

個人的ルックバックより凄いと思ったけど、多分こんなに普遍的な喜ばれ方する作品じゃないとは思った。

だし、集英社あげてどかーんと広告打つよりも、個人HPに上げてジワジワ口コミ広がっていく様な作品とも思った。

ストーリー単体で見た時には、例えば吸血鬼設定するなら「長生き」だけじゃなく色々な所で肉付けしていった方がよかったと思うし、卒業以降の苦悩の描写もあるべきだった。と思う。(読み切りでページ数が、オマージュ作品が、というのは分かるけど)

さよなら絵梨のすごいところは、

映画手法POV漫画描写

・かつ、映画下位互換じゃなくて漫画しか表現し得ないところに昇華している

漫画からこそ、1人称→3人称の切り替えに違和感が出ない(ことに気付いて取り入れてる)

コマがあるからこその多重構造とその気付きにくさ

一定コマ割りをベース物語の大小を表現する為に大きさを変えている

みたいな、いわゆる超絶技巧披露が主だと思う。失礼だけど読者全員がこの凄さに気付ける訳ないし、殆どの人は「タツ作品」で、もしくは作中のオマージュが、みたいな点で絶賛してるわな。

「あえての爆発オチすっげえっす!w」も的外れだと思ってる。漫画太郎トラックオチと同系列感想言ってる人いるけど、この漫画の爆発は複数感情の消化先としての爆発であって、「オチにちょけて見ましたw」じゃないと感じた。

さよなら絵梨』についてのメモ

●『さよなら絵梨』の表現手法について

①横長固定四コマ

・「横長固定四コマ日常を描く」手法自体はよくあるが、それ1本で最後まで走りきる漫画は珍しい。

・「横長固定四コマ日常を描く」手法で一番多くの人が目にしたことがあるのは、たぶん『幽遊白書』の海藤の日常

・近年は定点カメラ時間を表す表現として、主に成人漫画一般化している

難病モノ、かつ固定四コマ最期まで走りきる読み切りとして『肩幅の未来(やまむらはじめ)』がある。泉信行氏がやまむらはじめファンサイト運営していたこともあって、一般的な知名度と比べてマニア人気のある短編

しかし、『肩幅の未来』再読すると『さよなら絵梨』とはかなり雰囲気が異なることに気付く。

・『肩幅の未来』における固定四コマは、あくま淡々と続く日常(そしてそれがある日突然終わることを予感させる)を表す。終わらない日常を描く日常四コマと同一の効果を狙ったもの

・これに対して『さよなら絵梨』はより固定カメラ及び手持ちカメラ画角表現するための意識が強い

・『肩幅の未来』より、アメコミ表現藤子・F・不二雄の諸作によくみられる時間経過を表す連続コマ表現に近い

手ブレ表現

・手持ちカメラのブレを表現した人物の線

・どこかに元ネタがあるのかもしれないけど、あまり見ない表現

●『さよなら絵梨』は何にオマージュをささげられているかのか

・爆発オチファイトクラブ

・ページ数、主人公名前吸血鬼という設定→ぼくのエリ?

メタフィクション

表現論?

・『ルックバック』の反響への回答?

●『さよなら絵梨』は何をしようとしたのか

・たぶん漫画フェイク・ドキュメンタリーをやりたかったのだと思う

念頭にあったのは、白石晃士フェイク・ドキュメンタリー作品

・『チェンソーマン単行本作者コメントにも、『コワすぎシリーズ』や『貞子vs伽椰子』についての言及がある

・以下、「映画の生体解剖 VS戦慄怪奇ファイルコワすぎ!(高橋洋稲生平太郎白石晃士)」より引用

フィクションドキュメンタリーの違いは(中略)フィクションキャメラ存在を消していくもので、ドキュメンタリーキャメラがそこにあるということを顕在化させていくもの

”そんな馬鹿なことがあっていいのかというぐらいのことが起きてても、「だってキャメラの前で起きてるんだから、『イッツ・オールトゥルー』じゃないの?という”

自分フェイドキュメンタリーを撮っててすごく魅力を感じてるのは(中略)フェイク・ドキュメンタリーという手法を使えばそういうことをすっ飛ばして、映画表現ものすごく原始的ものに戻せると思ってるんです”

●『さよなら絵梨』の感想

めっちゃおもしろかった

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