はてなキーワード: 整合性とは
こういう緊急時に自分の行動の論理的整合性をキッチリ考えながら動いてるわけないだろw あれやこれや考えながら迷いながら行動してるんだよ。
それに加えてこの文章が本人の考えや感じたことを論理的整合性をもって整理されたもののはずだという前提もおかしい。書く時点でもあれやこれや思い出しつつ考えつつ迷いながら書いているに決まってるんだから。むしろそういう過程を読み解くべき対象としての文章と見るのが妥当でしょ。
反出生主義の人間は「新たな苦しみを同意なく生みだすので生殖に反対」と言っているのだが、そもそも人間は生きているだけで必ず誰かを同意なく苦しめるものである。
例えば受験でも就職でも恋愛でもいいのだが、反出生主義の人間が受験に受かったり、就職をしたり、恋人を作ったりすることで、落ちたり付き合えなかった人間を苦しめているわけだが、全員に同意は得たのかね? 生殖と同様、お前の行動のせいで新たな苦しみが発生しているんだが、それはガン無視なの? なんで?
お前が反出生主義を唱えることでそれを不快に思う人間が苦しむかもしれない。お前が電車に乗ったり牛丼を食ったり外を歩くことで、なんらかの形で苦しみを生んでいるかもしれない。彼ら全員に同意を得たのか? 私が歩いていることで皆さんを苦しめてしまうかもしれませんが許してくださいと、道端の人全員にサインしてからオンモを歩いているのだろうか。そうじゃないなら整合性が取れないよね。
山奥に引っ込んでひとりで暮らす? 自殺する? それも他人を苦しめる行為であるかもしれない。その可能性がある人全員に同意を得たのか?
人間のあらゆる行動は、それがどんなに些細なものであっても、必ず誰かの苦しみを発生させる可能性がある。ヒトが生きるというのは本質的原理的にそういうことである。生殖だけを問題視して自らを無謬の存在だと主張するのは欺瞞だろう。生殖が子供の苦しみを生むのと同様に、あんたのあらゆる活動も誰かの苦しみを生むのだ。なぜ生殖だけを問題死する?
相手に与える苦しみの過多の問題なのだろうか。確かに子供は生まれることで多くの苦しみを得るかもしれない。でもそれは生殖に限らず、あなたの何気ない行動で、他人がめちゃくちゃ苦しんで死んでしまう可能性もあるよね? それは問題ではないわけ? 例えばあんたが女をつれて歩いていたとして、それを見た失恋直後の女性が傷ついて自殺する可能性だってあるよね? それは同意を得たの? 生きていればそういう危険性は24時間あらゆる局面にあり、完全に除去することは不可能である。ある程度歴の長いはてなーなら、荒らしを通報した結果悲惨な事件が起きてしまったこととか、覚えてるよな。
「大きな苦しみを与える可能性」が「高い」という、ふたつの変数の掛け合わせの問題だろうか。確かに犯罪で規制されているのは、この掛け合わせが高いものであろう。ただ殺人がほぼ100%の人間を苦しめるであろうことに対し、「自殺を考えたことがある」人間は25%程度しかおらず、うつ病になるほど苦しむ人は人口の7%ほどである。どの程度の大きさの苦しみが、何%あったら問題になるの? そしてその根拠は何?
ワイも岸田嫌いやないけどコロナ鎖国とかロシア制裁とかでやるべき時はやれるタイプで優柔不断な印象はないやで
野党側はウクライナがあって外交安保は争点化したくないしコロナ感染者や失業者は煽れる水準になくて
キシダインフレくらいしか叩けるネタないからネガキャンやりにくいんやろうなという気がするやで
「アベノミクスで雇用が増えたのは海外経済のおかげ」とか言っておきながら海外のせいでインフレになっても政権叩きにつなげるから見ててうんざりするやで
あと数量ベースで輸出が増えてないとかインバウンドの効果小さいとか言いつつ「アベノミクスで雇用が増えたのは海外経済のおかげ」というのも同時に主張したりして論理的整合性皆無な批判が多い印象やで
windowsアップデートの影響で共有サーバー上のACCESSやExcelのマクロが使用できなくなったんだけど、その相談を受けた「職場のパソコンの先生(単なる事務員)」が「ローカル環境にコピーしてやればいいですよ」ってアドバイスをしまくったのね。
あのね、共有サーバー上にあるってことは、それを共有する必要があるからそうしてんのね。
みんながローカルで動かしまくった結果、現時点でデータの整合性が取れなくなって月末の締めがガタガタになってるし、データのアップデートが共有されずに古いデータを使用した計算結果がばらまかれて収拾がつかなくなっちゃってんのね。
なんで職場のパソコンの先生って、こう、自分の域を超えたことを平気でやっちゃうの?
前にもExcelが壊れた!って相談を受けて割れOffice勝手に入れてめちゃくちゃ怒られたし、
PCの挙動が遅いって相談を受けて勝手にいじって動かなくしてめちゃくちゃ怒られたよね?
今、緊急部長会開かれてるけどどうすんの?
※ネタバレ注意
前作の『オトドケモノ』は、細かく見ていったら多少の曖昧さや一貫性のなさはあったりしたものの、
大筋では破綻はなく、最終的なオチまでの伏線は作品内で描写されていた。
しかし、今作のオチはすごくご都合主義的な後付けな上にSF的な整合性もかなり怪しい。
その副作用として謎空間でない過去の時点に元の姿で戻すのは都合が良すぎると感じた。
しかも絶妙に未来にいた記憶は残っているので、翔太はこの後アキラに対して丁重な対応を取るから、
ブラックボックステスト (英: black-box testing)は、内部構造や動作を覗き見することなく、アプリケーションの機能を調べるソフトウェアテストの手法のこと。アプリケーションを見えない箱として扱い、入力と結果の整合性を確認する。このテスト方法は、ソフトウェアテストのすべてのレベル(単体テスト、統合テスト、システムテスト、受け入れテスト)に適用できる。仕様ベースのテストと呼ばれることもある[1]。
「ブラックボックス?飛行機に付いてるやつ?」という反応が多かった。
ドッグフーディング (英: dogfooding) または「自社のドッグフードを食べる」「ドッグフードする」(Eating your own dog food、Drinking your own champagneとも言う)は、コンピュータ業界において、自社製品を開発して利用する組織の習慣で[1]、組織が実際の使用法で日々自分たちで製品を利用しながら製品テストを行うことである。日本語では単に「ドッグフード」ということもある。そのため、ドッグフーディングは品質管理として機能し、開発者自身による製品の自信を表す証言広告となる[2][3]。尚、日本企業では自社実践(じしゃじっせん)という言葉が相当する意味の言葉として使われている。
反出生寄りだけど同意というか整合性?で考えてることが多いかもしれない。でも同意に近いのかもしれないこれも。
要は自分ですら納得していないものを子どもに押し付ける理由はなに?という感じ。
例えば消費税が高いとか色々社会制度に文句を言いながらそこに子どもを産み落とすのはひどくない?自分ですら納得してないものを押し付けてるけど、嫌なものを押し付けたくて子ども産んでるの?虐待願望?みたいなの。
自分がクソまずいと思ってるレストランに大切な人連れていきますか?どういう論理で連れて行ってるの?言ってることとやってることが食い違ってない?みたいな。
自分の見た目に不平不満言ってるのに子どもを産むのも不平不満だらけの遺伝子を押し付けてるわけだけどどう自分の中で整合性を取ってるの?そういうことしといて「子どもは大切」と言ってしまえるのはなぜ?
同性婚が認められないことに文句を言いながら子どもを産むのは子どもが同性愛者で将来的に同性パートナーとの結婚を望むかもしれない未来を無視しているけどその点についてどうお考えですか?という感じかなあ。
この考え方だと少なくとも自分はAEDを使用されることに納得してるから他人にも使用する、だし、自分はいついかなる場合もAEDを使われたくないから使わない、になるのかな。
https://anond.hatelabo.jp/20220617164653
おやおやあ~?
ワイはジャンボ宝くじ当たったけど
銀行からトラッシュケース(笑)もらったってはっきり書いてるねえ
残念だねえ
アタッシュケースにしろトラッシュケースにせよトランクケースにせよ
「持参していった」なんてお前は一度も書いてねえの
なにこの短い間に嘘を塗り重ねてんだよ?
あとな
馬券の勝ちとは違うの
だからね?
お前がしたり顔で語った
今度は
「別に税金逃れするなんて書いてない!ちゃんと申告するつもりだった!」とか言い出すかな?
それなら口座に放り込めばいいわけで益々現金持って帰る意味が分かんねえな?w
お前の話はこんな短い内容でボロがありすぎなんだよん。
なあ、俺が何言いたいかわかるか?
別にお前がネットで嘘ついて束の間楽しい妄想に浸ることは罪でも何でもねえよ
ウソのクオリティにお前と言う人間のショボさの原因出まくってんだわ
モノを知らない・ちゃんと考えない・やること行き当たりばったりで整合性が無い
でないと爺になるまでネットで嘘つくしか安らぎのない人生になるぞ
https://moriishi.com/entry/nobel-prize-in-literature-early20c
面白かった。ウィンストンチャーチルも受賞してたの知らなかった。
日本人は
受賞講演 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%84%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%A7%81%E2%80%95%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%BA%8F%E8%AA%AC
詩趣に富む表現力を持ち、現実と虚構が一体となった世界を創作して、読者の心に揺さぶりをかけるように現代人の苦境を浮き彫りにしている
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1903年 ビョルンスティエルネ・ビョルンソン(ノルウェー)
その感化の鮮度と精神の希少な純度の両方において名高い、高貴で壮大、且つ多彩な詩に敬意を表して
プロヴァンスの言語学者としての重要な業績の他、自然景観と人々の土着の精神を忠実に反映した、彼の詩作の新鮮な独創性と真の触発に対して
1904年 ホセ・エチェガライ・イ・アイサギレ(同時受賞)(スペイン)
1906年 ジョズエ・カルドゥッチ(伊)
念入りな学究とその成果を評価するとともに、創造的なエネルギー、スタイルの新鮮さ、詩的な傑作を特徴づける叙情的な力に敬意を表して
1907年 ラドヤード・キプリング(英)
真実のための本格的検索、思考の一貫した力、視野の広さ、表現の暖かさと強さによって、数多くの作品の中で人生の理想主義的哲学を実証したこと
叙情詩人、作家そして世界的に知られた短編小説家としての長年の創作活動を通して世に送り出してきた、無上の芸術性、理想主義の浸透を賞賛して
多岐にわたる文学活動、特に戯曲の数々を評価して。豊かな想像力と詩的な空想は、時に御伽話の形を装いながらも、それぞれの作品が神秘的な方法で読者ひとりひとりの感性に訴え想像力を刺激する間、深い創造的発想を明らかにする
1916年 ヴェルネル・フォン・ヘイデンスタム(スウェーデン)
崇高な理想に触発された、彼の多様で豊かな詩に対して
1917年 ヘンリク・ポントピダン(同時受賞)(デンマーク)
1921年 アナトール・フランス(仏)
1926年 グラツィア・デレッダ(伊)
彼の豊かで活発な発想と、それが表現された鮮やかな技巧に対して
ブッデンブローク家の人びと
1931年 エリク・アクセル・カールフェルト(スウェーデン)
林檎の樹
呪われた日々、チェーホフのこと
1934年 ルイジ・ピランデルロ(伊)
月を見つけた
楡の木陰の欲望
1944年 ヨハネス・ヴィルヘルム・イェンセン(デンマーク)
車輪の下で
1950年 バートランド・ラッセル(英)
哲学入門
バラバ
テレーズ・デスケルウ
我々の時代の状況を先見的に反映した、彼の詩の高らかな飛翔と喚情的な形象に対して
1962年 ジョン・スタインベック(米)
1964年 ジャン=ポール・サルトル(受賞辞退)(仏)
静かなドン
1974年 エイヴィンド・ユーンソン(同時受賞)(スウェーデン)
1974年 ハリー・マーティンソン(同時受賞)(スウェーデン)
アニアーラ
偉
『「女はいいよな〜」っていう男、顔が良くて社会性のある女しか女として認識してなさそう。』っていうツイートに対して必死で
逆も同じだと言い張る引用が湧いているが、
逆は成り立たないでしょ
女の場合どんなに不細工だろうがコミュ障陰キャだろうが、男は男として認識しているし視界に入れているもの
寧ろそういう不細工コミュ障の男こそ「弱者男性」として注目され、同じレベルの非モテブスと違ってネット言論で注目されて同情されるという事に対して批判しているよね
引きこもりの調査対象が長年男性に偏っていた事とかもその一例だよね
女はちゃんと不細工で社会性の無い男の事も認識してるよ、男の場合とは全く違う
ていうか女が本当に「下位の男を男として認識していない」のなら、「フェミは叩きやすいオタクばかり叩く」という主張と矛盾してるんだけどそれはどう整合性をつけるつもりなのか
本指摘を受けて元増田を修正頂いた事を確認しました。対応ありがとうございます。
元増田自身も最初にBhuller, Havnes, Leuven and Mogstad (2013)についても記載されていたと誤解していたことが分かって良かったです。個人的にはそこが一番もやもやしていたので。分かってスッキリしました。
誤解について明記、修正したものの主要な意見に変更は無いとのことで、
個人的に思うところは無いでは無いですが
(元増田は私の指摘を受けて修正を詳細化、明記したのだから、それでセーフ判定を貰えると思っているという事は、
手嶋氏が今後Bhuller, Havnes, Leuven and Mogstad (2013)に関する記述を詳細化すれば「論文を扱う資格はない」は撤回するんだよね?この期に及んで自分はセーフだけど手嶋氏はアウトなんて判定はしないよね?という疑念だったり。
そもそも「論文を扱う資格はない」という非常に強い表現って、そんな容易く撤回できるほど軽いものなのか?という疑問だったり。
やはりどうにも元増田が手嶋氏に対する程には自分自身に対して厳しい態度を取れておらず、またそうしようとする意識も感じ取れず、結果的に自分に甘く他人に厳しい人間になってしまっていないか、という懸念だったり)
まぁその辺りは当事者抜きでごちゃごちゃ言っても仕方ないでしょう。
せめて元増田氏が自身の信念と規範に照らし合わせて、自分を裁ける範囲の基準で他人も裁く誠実さを持つ事を期待します。
(追記を冒頭に持って来たのは、追記を読み逃す人が出る事を防ぐ意図です。元増田が今回の修正を冒頭に持って来たのも同等の意図と推察します。誤解をなるべく防ぐよう対応してくれた事、感謝します)
(追記ここまで)
まず手嶋氏の論考でのKendall (2007)とBhuller, Havnes, Leuven and Mogstad (2013)の扱いについて、手嶋氏のnoteの更新履歴にはこう書かれている。
2022/6/5 Kendall(2007)が批判されている論文があった為、それの紹介および信頼性に嫌疑があることを付記。
2022/6/6 Ferguson(2022)の翻訳文を一部訂正(趣旨に大きな変更なし)。
2022/6/7 Kendall(2007)の信頼性に関する嫌疑を受け、本文および「まとめ」の文言を修正。uncorrelated氏が検討したブログ記事へのURLを追記。
つまり元々はKendall(2007)の記載しかなく(そして恐らくBhuller, Havnes, Leuven and Mogstad (2013)の存在を知らず)、
第三者からの指摘でBhuller, Havnes, Leuven and Mogstad (2013)を追加した、という時系列と思われる。(あくまで更新履歴からの推測なので正確かは分からないが、以下この前提の下に書く)
手嶋氏はなぜかKendall (2007)という査読されずに15年も経っている論文を子細に扱いつつ、Bhuller, Havnes, Leuven and Mogstad (2013)という経済学のトップジャーナルに掲載された論文を無視しています。
というように「手嶋氏はBhuller, Havnes, Leuven and Mogstad (2013)を最初から知っていながら、と意図的に無視した」と誤認させるような文章を書いているように私には見える。
元増田は手嶋氏にどういう規範を守るべきと考えているのだろうか?
時系列から考えて、「査読有りの論文と査読無しの論文を両方知っている状態で、前者を無視して後者を紹介するべきではない」ではあり得ない。
手嶋氏は論考を書いた時点ではBhuller, Havnes, Leuven and Mogstad (2013)の存在を知らなかった可能性が残っているからだ。
従って元増田の求める規範は、論考を書く際の規範ではなく「指摘をされて論考に追記する際の」規範という事になるだろう。
つまり「査読無しの論文を紹介して、その問題点を指摘する査読ありの論文を出されたら、その扱いを(手嶋氏がしたより)大きくするべきだ」といった感じになるだろう。
さて、元増田は論考を書く際ではなく指摘を受けて修正する際の規範を手嶋氏に求めた訳だが、元増田自身はこの規範を守っているだろうか?
この点が非常に怪しく見える、何故なら元増田自身も上記の時系列の問題含め様々な指摘を受けているが、その修正は冒頭の追加増田と、元増田への少しの追記に留まるからだ。
修正に関する過ちは「論文を読む、ましてやそれを基に文章を書く資格などない」とする程非常に重い物であると考えるなら、元増田自身も指摘への修正は非常に手厚い物でないと整合性が取れないのではないだろうか?
と書いている事だ。
実は私は元増田の方を先に読んで、そのあと手嶋氏の論考を読んだ、その際、かなり驚いた。
何故なら私は元増田を読んだ時点で、手嶋氏はKendall (2007)とBhuller, Havnes, Leuven and Mogstad (2013)を最初から並置していて、最初から後者の扱いが軽かったのだと誤解していたからだ。
まさか「指摘→修整」という経緯で後者の記載があとから追記されたものだとは思いもしなかった。
勿論私の読解力の問題である可能性もあるが、私にとって元増田の文章は「読者の誤解を誘うように書かれて」いたし、その後の修正もこの点を明記しておらず、
「間違った印象を読者に与えることに固執し」「この追記はあくまでお茶を濁し、読者の誤解を誘うように書かれて」いるように見える。
元増田は手嶋氏に求める規範を当然自分にも適用するべきなのではないだろうか?
ただ、実は私は、元増田は少なくとも最初は意図的に誤解を誘ったのではなく、元増田自身も私と同じ誤解をしていた可能性もあるのではないかと思っている。
つまり元増田自身も、指摘されるまで「Bhuller, Havnes, Leuven and Mogstad (2013)は指摘されて追記したのであり、最初は無かった」ことに気付かなかった、だからああいう書き方になった可能性もあるのでは?
しかしだとするなら、その事をちゃんと書くべきではないだろうか?元増田が手嶋氏に指摘している問題点が「指摘を受けての修正」にあるのなら猶更自ら範を示すべきだろう。
私の目から見て、時系列の違いを今なお明記しない元増田は、Bhuller, Havnes, Leuven and Mogstad (2013)をとりあえず取り上げはした手嶋氏よりも杜撰な対応に見える。
追加増田の「Possibly」の訳の問題にしても、手嶋氏は指摘に対する修正をその該当箇所の近くに置いているのに対し、元増田は追記として最後に置いたり、増田を分ける等、修整対象の個所から大きく離れている。さらに元増田の
それはBhuller, Havnes, Leuven and Mogstad (2013)がポルノの消費の増加によって性犯罪が増加したことを示唆する論文だからです
等の記述は修正されないまま残っている。これでは元増田は読んでも追加増田は読まない人が大量に居た場合、誤解を残す結果になるのではないか。これは元増田の手嶋氏への指摘と整合性は取れるだろうか?手嶋氏よりも杜撰ではないだろうか?
元増田自身には「論文を読む、ましてやそれを基に文章を書く資格」が有るのだろうか?
元増田自身が他者に求めている以上、元増田もそれらの指摘を受けた修正に誠実に尽力する事を期待する。
ただ、これだけの数の指摘に全て対応するのは現実的ではないと言うかも知れない。
という強い重み付けをとるべきか、一度考えてみるべきだろう。
また、現実的には指摘の全てに対応できないので、指摘の中から自分が重要だと思ったものを抜き出し、自分が十分だと思う修正を加える、というのが現実的な対応だと元増田も考えるのではないだろうか?
しかしこの「自分が重要だと思ったもの」「自分が十分だと思う修正」の内容は自明ではない。人によって基準が異なるだろう。
しかし元増田の規範はこの「自分が重要だと思ったもの」「自分が十分だと思う修正」を自明視または論点先取し、自明では無い基準をもとに
と表現したものだった。この行いが適切だったか、元増田自身の規範に問い、元増田自身の規範に基づいて修整なり追記なりされる事を期待する。
最後に、ここまで書いたものの、私の手嶋氏の論考を読んだのが元増田の後であり、修正後の内容であったため、自分の理解がこれで合っているか少し不安がある。
(例えばBhuller, Havnes, Leuven and Mogstad (2013)の記述は本当に最初のバージョンでは無かったのか?等)
一応何度か読み返したが、読解力に自信がある方でも無いので、もし認識誤りの部分があればあらかじめ謝っておきたい。
私は修正や失敗に対して何らかの資格を問うほど強い規範は持っていないので・・・(これはつまり、人間は失敗する生き物なので、失敗した時の為の逃げ道は作っておいた方が良いし、他者に不必要に強い規範を求めない方が良い、という範を示したつもりである)
指摘を受けてどういう修正をするべきか、なんて人によってかなり基準が変わりそうなんで、変に厳しくするより、大きめにバッファーをとっておいた方が良いですよ、何かと。