はてなキーワード: 小ネタとは
特定業界の話かつネタ元の分母がそう多いわけではない話なので小ネタ程度に読んでくれ。
親会社からちゃんと守れ、法改正に対応しろとお達しがくるから。
ちゃんと法律守ってくれる会社が良いと思うならでかい親の子としての中小企業は割とおススメだったりする。
ちなみにそういう意味で一番のお勧めは財閥系の子会社だったりする。
親会社側から同じまたはやや劣る程度の基準にしろとお達しがくるから。
何故なら親会社からの出向・転籍の人間がちょいちょい発生するため、極端に劣る福利厚生ではそういう人間が可哀そうだと親会社の偉い人が言い出すのである。
だったらそれにかかる費用を何らかの手段で補填してもらいたい。
縦割り的。中小だと「やれるやつ・部署がやればいいじゃん」的なノリがあったりするものだが、そういうのが無い。
親会社(から来る役員)の承認無しでは、特に大きな案件は一切進まないため。
だから業務のスピード感みたいなのは一切ないし、越権行為にやたら敏感に反応する人が多い。
なので役員や親会社向けの根回しや資料作りの達人ほど出世しがちである。
部長以上の多く(俺のいたとこは約7割)が親からの出向・転籍で占められるため、プロパー社員は本当にごく一部の奴しか出世できない。
慣例的に、特定部署の部課長は必ず出向組がやることに決まっていたりもするので、そういう部署に配属されると、異動しないと出世できない。
中途で入ったらマジで管理職扱いにならない係長どまりとかだったりする。
親会社より低い水準なことを求められるため。
似たような業務をしていた親会社の10歳くらい年下の子が自分とほぼ同じ給料だと知って内心ビミョーな気分になったり。
だからバリバリ主力なはずのプレーヤー年代の人が実質的にルーチンワークしかしてなかったりする。
中小にありがちな、なんかあったら会社が飛ぶ的な心配はほぼ不要。
ただ本当にヤバいことを数回やらかすと親が怒って潰されることはあったりする。
上記の理由で、基本的に既にある仕事をこなしていく感じになるため、大幅な売上増とか見込めないし、コストダウンにうるさくなる。
よく言えば安定はしているし、大卒新卒で入社して淡々と定年まで勤めたいみたいな人なら、上司ガチャ次第ではあるが天国のような環境。
ただし欠員補充的に中途で入るとそもそも出世コースに乗れなかったりするし、給料を上げたいなら原則転職するしかなかったりする。
もうかなり前の話になるんだけど、掲示板かなにかで「○○というキャラがSNSとかでは××というニックネームで呼ばれていますが元ネタはなんでしょうか。ネットで確認出来る情報を教えてください」みたいな質問があって、俺が知ってる一番古い例が少し昔のゲームだったので「△△というゲームの似た立ち位置のキャラが同様のニックネームで呼ばれていたのでそれじゃないかと思います」みたいに答えたんだ。
そしたら「それネット上で確認出来ないんで良いです、はい次」みたいになってなんじゃそりゃみたいになったけど今となってはよくわかる。特にサブカル的なブームみたいなのだとネットで確認出来ない場合ほかの方法で調べることは極めて困難なのだ。
だからネット以前の記憶を元にこういうことだろ?とか言われても本当かどうか調べるのが困難なのである。
もちろん古い雑誌とかを収集してそれを元に調査するような立派な人もいるわけだけどそれをやるにはかなり大量のリソース(金、時間、情熱・・・)が必要となる。ネット掲示板に書くようなちょっとした質問にはなかなかそこまでの労力をかけられない。
だからサブカルネタの歴史関係だと90年代後半あたりで特にメインストリームから少しはずれたファンの間の小ネタとかは大きな断絶があったりするきがする。そしてそういうところにたとえばオタキングとか映画秘宝的な与太が入り込む余地が生まれているのかなあとおもう。
今のソシャゲとかサービス終了で跡形もなくなったりするのも結構あるし、それらベースのネットミームとか由来不明のまま残っていくのもあるんだろうなあ・・・となんだか妙な気分になった。
俺も酒場で色んな人の話を聴くのが好きだ。色んな人に色んな人生があって、そういうものは興味深い。
しょぼくれたおじさんが昔は一流企業のバリバリ企業戦士だったけれど、そのレールから外れた経緯とか、中年女性の語る「今までつきあった男のアブノーマル逸話ベスト10」とか、普通のサラリーマンに見える人が若い頃世界を旅してびっくりした思い出とか、そういうの。
もっと地味な「あそこの酒場は良い」とか、「あのスーパーの仕入れ担当は優秀」みたいな小ネタさえ面白い。
酒場というのは皆、誰も彼も、少し誰かと話したい。というか、誰かに自分の話を聞いてもらいたいんですよね。だから俺とか増田のような「聞きたい」という人は聞き上手として好かれるのです。多くの人は聞きたいのではなく話したいから。
書籍でそういう色んな人生を体験できれば酒場に通わずに済むので、多くの人は小説を読む。そこには嘘の話ではあるけれど、誰か参考にしたモデルがあったりして色んな人生を疑似体験できるから。
小説でないものなら岸政彦さんの『東京の生活史』なんていうのは、色んな人生を知ることができる稀な本だと思うが、これも岸さんが酒場をお好きなのと関係しているのではないかと思っている。まあ、その分野の専門家だからってのが一番でしょうが。
増田の質問にもお答えしなければいけないな。俺が話したいことばかり書いてもいけない。増田は聞きたいのだから。
一例を申し上げると、俺は少しの間だけヤマハの大人の音楽教室でヴァイオリンを習っていたのですが、グループレッスンのそこには色んな人がおられました。最初は「ヴァイオリン意外と難しいですよね」みたいな話で仲良くなって、なんでここに通うようになったのかとか、その人の人生譚みたいなのも聞かせてもらえるようになった。これはアルコール抜きで話ができる場所ではないだろうか。でも毎週違う酒場に行って色んな人と出会って話を聞かせてもらうというわけにはいかないですね。メンバーが固定してるかもね。毎週違う楽器を習いに行くわけにも行かないし。
もう一つはボランティア。市のボランティア事務所のようなところに登録しておくと色んなところに行ける。そこで出会う人は様々です。
ボランティアの作業をしながら少しずつ仲良くなって、やがてその人がどうやってこの活動に参加したのか、どんな人生を歩んできたのかを話してくれる人もいる。それも興味深い。
ただし、ボランティアに参加している人はやっぱり優しい人が多いんですよ。労力を無償提供してくれるくらいだから。土木会社の社長みたいな人はいない。社長と名のつく人にボランティアで会ったことはないですね。あいつら自己利益に邁進してるから。
まあ、それ以外だと病者の会とかかな。『ファイト・クラブ』って映画であったでしょう?俺は精神障害者だったことがあるので、そういう場所で色んな人の話を聞く機会にも恵まれたけれど。映画みたいに嘘ついて潜入するのは、やめた方がいいかもね。
ぜんぜん違う話で締めくくるけど
冒頭で「分かりみが深い」と書いたんだけど、あれって「分かり身」?「分かり味」?
どっちなの?
シン・ウルトラマンで盛り上がっているが、かつて同じようにそれまで全くウルトラマンが存在しなかった世界でのリブート作品が作られた事がある。それが2004年に公開された映画「ULTRAMAN」。
残念ながら興行的には全く振わなかったのだけど、とても良い映画なので語りたい。
ストーリーなどの概要についてはWikipedia の記事参照。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ULTRAMAN_(映画)
初代ウルトラマン第一話のプロットをもとにした「始まりの物語」である。オリジナルから借りてきたのはプロットの部分とウルトラマンと敵の姿だけで旧作と繋がる部分はほとんどない。目配せ程度の小ネタは入ってはいるけれど、分からなくても問題ない。
主人公の真木は巨人の力を宿しても意識は人間のままであり、ずっとヒーローとしてではなく、怪異に巻き込まれてしまった妻子を持つ普通の男性として描かれている。そんな彼が子供の言葉をきっかけにして、自ら災厄に立ち向かう決心をし、そして目の前で危険にさらされている人を巨人の力を使って身を呈して助ける。この映画は宇宙よりやってきた異形の巨人が、地球人にとってのヒーロー、ウルトラマンになるまでを時間をかけて描いているのだ。
この後のウルトラマンが初めて空を飛ぶシーンも素晴らしい。ウルトラマンは空を飛べる、なんてのは観客にとっては常識だけど、真木は知らない。だから初めはすんなり飛ばないんだ。攻撃をよける→あれっ飛んだ?→飛べるのか?→飛んでる!!という感じで空に上がって行く。「ウルトラマンが空を飛ぶ」ってシーンは今までいくつも見てきているが私はこれが一番好きだ。その後の空中戦のシーンもいい。真木が戦闘機パイロットだったという事がこのシーンの説得力を生んでいる。
じっくり描写を積み上げて行く映画なので、シン・ウルトラマンみたいなお祭り感は無いし、人によっては前半は退屈に感じることもあるかもしれない。でも、コドモオトナ向けではなく、ちゃんと大人向けに作られた今のところ唯一の作品だと思っている。
ただ、今見ようとするとDVDを買うか借りるかしないといけないのがもどかしい。円谷さん、ネクサス共々配信始めてくれませんか?
本当に浅い。そしてウルトラマンをぜんぜん知らない人間の感想。
・Mなんとか星雲からやって来た正義の宇宙人で、怪獣と戦ってくれている。
・日本の怪獣対策室(地球防衛隊?)みたいな組織に在籍している隊員がウルトラマンに変身する。
・必殺技はスペシウム光線と八つ裂き光輪(うろおぼえ)なんかギザギザの輪っかが飛ぶやつ。
・3分経つと戦えなくなるので、それを知らせてくれるカラータイマーが胸についている。
・ジュワッ! と言う。
・兄弟がいっぱいいる。父と母もいる。タロウもいる。(でもウルトラマンの性別が男性なのかはちょっとよくわからない)
・最初のロゴがくるくる回るやつ → ”懐かしのアニメ”みたいな番組でウルトラマンのOPとして見たことある気がする。
・「怪獣が以前のものと似ていてパーツ挿げ替えみたい」……的な発言 → 怪獣のスーツを使いまわしていた的な話を聞いたことがあるのでそれかも。
・Y軸固定でビュンビュン回転するウルトラマン → 人形っぽいのでそういう特撮の撮影技法があったのかも。
・手が痛い素振りを見せるウルトラマン → 妙に人間っぽい仕草なので、原作でそういうシーンがあったのかな?
・顔のアップが妙に近い → 意識してそういう撮り方をいているのはわかる。
・戦闘シーンがもっさりしている → 特撮の戦闘シーンを意識しているんだと思う。中に人間が入ってる感をわざと残しているのかも。
・カラーターマーが無い → そのかわり3分というリミットは提示されないが、活動時間が短い旨とその理由は語られていたので納得できたし違和感はなかった。
・なんで緑になるの? → エネルギー不足なのか、カラータイマーが無い代わりなのか?
・原作(昔のウルトラマン)の音楽がたくさん使われていたこと。 → 当たり前ですがぜんぜん気づきませんでした……が、違和感みたいなものも無かったです。
・庵野監督の名前がいろんなところにあって(ありすぎて)笑ってしまった。色々な意味でこだわりを感じた。
・変身モーションをした神永の下からウルトラマンの巨大な手のひらが現れ、ぎゅっと握りこぶしに包まれてウルトラマンが登場するところ。めちゃくちゃかっこいい。
・車の座席の隣から怪獣の手がにゅっと出てくるところ。びっくりして声が出そうになった。なんかほかにもドッキリシーンがけっこうあった気がする。
映画を観終わってTwitterで感想を漁るまで、そんな可能性には思い至らなかった。
そもそもウルトラマンは外来生物(宇宙人)という認識なので男女の機微があるとは思えないし。
個人的には浅見が神永に対して「(コーヒー入れないなんて)気が利かない」というめちゃくちゃ古風なパワハラムーブをしている方がよほど気になったかも。
めちゃくちゃ面白かった。地球を愛し、人類のために身を粉にして戦ってくれるウルトラマン最高。好き。かっこいい。劇場で泣いた。
人間めちゃくちゃ脆弱だし情弱だし、移り気で強欲で未熟だけど、それでもそんな人類に希望を見出してくれるウルトラマンマジ天使だし、そういうウルトラマンに胸を張って愛してもらえる人類でありたいと思った。
ウルトラマンが人類をこんなにも愛してくれるようになった原因(要因)の部分があんまり描かれてないところ。
たぶん融合した神永さんがめちゃくちゃ良い人だったからなんだと思う(子供助けてくれてるし)んだけど、禍威獣特対室の面々との絡みがあんまり無いのも相まって、自己を犠牲にしてまで人類を愛してくれた理由がちょっと薄いように思えた。
でも監督的にわざと省いたのかもしれないとは思う。
・斎藤工さんの表情があまり動かない感じが宇宙人っぽくて良かったし、そんななかでも要所要所で内に秘めた心を映す正義の瞳を感じ取れた気がした。
・それに対してめちゃくちゃ表情豊かなのに、その表情に見合った感情を一切感じさせない山本耕史さんの怪演が凄かった。
・観終わってから「そういえばジュワッ!」て言ってなかったかも? と思った。
・高層ビルにぶつかるウルトラマンを見ると、意外とサイズが小さい気がした。昔はあんまり高い建物無かったからかも。
・宇宙人さんにはもうちょっと「鍵」とか「ドア」とかの存在を尊重してほしい。
・グッズが大人の男性向けなのか、わりと普段遣いできそうで品が良いと思った(でも売り切れてた……)
・シンゴジのときも思ったけど、怪獣が出ても会社に行くし、学校にも通う日本人。でも実際そんなもんなのかもしれない……と昨今の世界情勢も踏まえ感慨深かった。
・ウルトラマンファンのひとだともっと小ネタが拾えて面白いんだと思う。なにか「これを観とくと良い!」という作品があったら教えてほしい。
・また観に行きます!
「T島さんと関わらない方が良いですよ。調べてみてください」
絵描きあるあるや日常系の小ネタ漫画を描いている人で、向こうからフォローしてくれたのでなんとなくフォロバした。
わけがわからなかったが、DMをくれたのが仲の良いフォロワーさんだったので一応調べてみることにした。
この時点であー…となった。
そしてその下にT島さんが5chを批判したことによるまとめサイトが続いていた。
意外だった。
T島さんはフォロワー三千人弱でそこまで有名ということもなく、
Twitterを見た感じだとアンチスレが立つほど問題があるようにも思えなかった。
有名イラストレーターのさいとうなおきさんや漫画家のつくしあきひとさんへの誹謗中傷、
全然似ていない漫画を自分のパクリだとフォロワーを巻き込んだ大騒ぎをしたこと、
フォロワーを晒上げて攻撃するような漫画を描いていたこと、虚言の多さ、女性のフリ、その他書ききれないほど色々。
特に衝撃だったのは5chに晒されたことへのアンサーと思わしき漫画だった。
「親も死んでほしいと思ってるよ」というどうしたら思いつくのかわからないレベルの暴言。
病的なまでの攻撃性。とんでもない人をフォローしてしまったと思った。
現在のアカウントは作り直したもののようで、そういった過去が何一つわからなかった。
少し前もセクハラリプが問題になっていたようだがすでにツイ消しされていた。
正直ゾッとした。
DMで教えてもらわなかったら今もT島さんをフォローしたままだっただろう。
今後はほいほいフォロバするのはやめる。知らないって怖い。
私はラジオが好きだ。
特に深夜ラジオが好きで「オールナイトニッポン」も、もうかれこれ10〜15年くらい聴いている。
今でこそ、Twitterとの連動やお笑いブームもあって人気コンテンツになりつつあると感じるが、当時はまだラジオはマイナーな趣味だったと思う。
だがなんとなく聴きはじめてからすっかりハマってしまい、ここ10年くらいは深夜に頑張って起きて聴いたりごくたまにだがメールが読まれたり、いわゆるヘビーリスナーと言ってもいい立場だと思っている。
そんな自分だが、先週配信されたニッポン放送55周年記念「あの夜を覚えてる」にどうしても違和感というか、冷めた気持ちを感じてしまった。
長年好きなコンテンツのはずなのにどうしてそう感じてしまうのか、自分の考えをまとめたい気持ちもあって今これを書いている。
一応書いておきたいのが、ニッポン放送やオールナイトニッポンと分けて考えれば、物語自体はとても面白かった。
例えばこれが普通の映画だったり漫画だったりしたら、とても好きな作品になっていたと思う。
なのになぜモヤモヤしてしまうんだろうかと考えてみて、一番感じたのは「"エモ"は公式から押し付けられると冷める」ということだ。
これはこの作品だけでなく他のコンテンツにも感じたことがあるのだが、私は公式から「エモ狙い」の宣伝や発信をされて冷めてしまうと感じる。
深夜ラジオを長い間聴いていると、いわゆる「神回」に出会うことや、「エモい」というか、テレビや漫画など他のメディアでは味わえないような感動を味わったこともある。
でもそれは、公式から「神回ですよ」「エモいですよ」と言われているのではなく、聴いているリスナー側がそう受け取っただけのことだと思っている。
10年以上続く人気番組「オードリーのオールナイトニッポン」が「部室」と言われているのもそうだが、パーソナリティのトークを、それぞれのリスナーがそれぞれの感覚で受け取る。
それがラジオの好きなところだと、私は思っている。
だから、公式から「あの夜」と言って深夜ラジオというコンテンツのことをドラマチックな「エモい」物として発信されてしまうと、なんだか違うと感じてしまうのだと思った。
また、劇中にいくつもあった普段のリスナーならわかるような「小ネタ」のひとつを、公式Twitterで「元ネタはあのラジオのあの回です」とツイートしていたことも「なんでそんなことをするんだろう」と思って不思議だった。
そういった「小ネタ」は伝わる人にだけ伝わればいいものだと思っていたので、公式から声高に解説されたことに違和感を感じてしまった。
公式Twitterは他の宣伝ツイートも謎のポエム調のツイートばかりで、終始「酔っている感」というか、さきほども書いたが「エモ狙い」をすごく感じてしまうものだった。
長々と不満を書いてしまったが、結局はあくまでも私の一人よがりな「深夜ラジオ」のイメージや今まで約10年間の印象と、今回公式から発信された「深夜ラジオ」に対する価値観が違いすぎて勝手にがっかりしてしまっただけなのだと思う。
また、一リスナーの意見だが、こういった作品を作るような金銭的・人員的余裕があるならば、もっと今放送している番組の企画やイベントに力を入れてほしかったとも思う。
あまりにもネットやTwitterで絶賛の声しかなかったので、「本当にずっと深夜ラジオを聴いてきたような人がみんなそう感じているのだろうか」と思って書き始めてしまった。
タイトルの時点でいないとは思うが、この作品が好きでこれを読んで不快にさせてしまった人がいたらごめんなさい。
やっぱりこんな風に感じたのは自分だけなのかな。
最初に言っておくと、あれだけ話題になるマンガを作り上げた作者はすごい。そしてそのマンガのファンを責めたいわけではない。
ただ、俺には本当に合わないし、「だったらnot for meでしょ」とか言い出すしたり顔のクソはてなとケンカしたいからこの文章を書いている。
つまり、「マンガの好みなんて人それぞれ」という前提のもと、それでも「そんな絶賛されるマンガじゃねえだろ」という嫌悪感を言語化し、同士を求めることで救われたい。
俺はタコピーの1話を読んでキレたし、その後話題になる度に最新話を読んで、読む度にキレてる。
なんでキレてるかって、あのマンガで表現したいことが「おれが考えた最強の胸糞展開をお届け☆」だと思ったから。
「無知な宇宙人が人間の心を学ぶ」とか「不幸な主人公が異星人との交流で境遇を打開する」とかじゃないわけ。
キャラも設定も、全部胸糞悪い展開を作る装置なんだよ。いじめ描写も、家庭の虐待も、全部ただの装置。
ちょっと前に、不幸の描写にリアリティが無いなんて指摘のnote?が挙がってたけど、胸糞展開を作り出すためだけのご都合主義なんだからそりゃそうだよ。
言ってみりゃ、メンタルリョナ作品なんだよな。ジャンプ+の限界に挑みますってか。
で、それ自体はいいわけ。表現したいもの趣味が悪いなんてよくあることだし、お上品なコンテンツなんて十分すぎるほど溢れてるから。
ここまでならただのnot for me。沙村広明と一緒。
だけどさあ、それ見て絶賛してる読者がザコすぎて辛い。
作者がオブラートに包んで散りばめた趣味の悪い小ネタ拾ってキャッキャキャッキャと考察まつり。
なぁ~にが「ぞくぞくするほど圧倒的なファム・ファタールっピ!」だよ。キモすぎて逆に好きだわ。
上の褒め言葉探すためにブクマ漁ったけどどいつもこいつも褒め言葉すらセンスねえな。
毎週毎週いい年齢の大人が寄ってたかって虐待児眺めてバカ騒ぎしてるのが本当にダサくて無理。
そりゃまりなちゃんやしずかちゃんは非実在青少年なんで何してもいいですよ?表現の自由なんで。
だけどザコセンスのクソ読者くんたちさあ、その醜悪な精神性を本当に直視できてる?自分の体が巨大な虫になっていることに。
これが大体言いたいことだ。
本当はもっと解像度高く言語化してボコボコにしたかったんだが、結局俺も大したタマではないのでこんなもんだろう。
で、俺の主張を読んだ上で「趣味が悪いことは分かってるけどいいじゃん面白いんだから」って言う開き直った露悪趣味のバカはしょうがない。
自分の欲求に貪欲なのは俺は好きだね。お前と会うことがあったら笑顔で殴ってやるよ。
ただ、「増田の言ってることなんて最初から言われてるし、そういうの引っくるめて楽しむマンガでしょw」みたいな論点ずらしのクソ冷笑野郎だけは許さん。
まあ俺が許す許さないなんてないんだが。俺は「頭いいフリしてる馬鹿」が死ぬほど嫌いなんだ。つまり俺より頭が悪いお前が嫌い。
次にお前が何て言うか当ててやるよ
「ブーメランw」だ
ファック
でも大怪獣が気になって!!映画館行って帰ったら半日潰れるのに!我慢できなくて!行った!
したら!
サイコーだった!
まず主演の山田涼介!燃えよ剣の沖田も良かったけど、こっちもよかった!
土屋大鳳!ヒロイン!しらない人だったけど良かった!この二人はなんかしらんが好感度めっちゃ上がった!
なんか知らんいい声したハゲ!なんか既視感あるな~?ってエンドロールみたら濱田岳!?鎧武じゃん!すげーいい味してた!燃えよ剣でウーマンラッシュアワーの山崎丞がよくて!それに匹敵するよさ!
西田敏行!いいに決まってんだろ!
あとスナイパーの人、時効警察の人だと思ったら違う人だった!でも良かった!
ブルース!かっけー!でさぁ、オダギリジョーはジオウには出なかったのにこっちには出んのな。三木聡にライダー撮らせれば五代も客演してくれる…?
あと、閣僚にサカナクションの忘れられないのとショックのPVに出てる魔人加藤に似たおっさんが いて良かった!で、パンフ買ったら本人でたまげた
六角精児も変な貫禄があってよかった!
松重豊はパンフ見るまで松重豊なの気づかなかった!一発で分かる笹野高史とかもいいけどこういうのもいい!あとパンフでMEGUMI出てるの気づいたり、隊長も知らない俳優だったけど声もかっこよくてよかった!パラサイトの社長もいい声してて好き!関係ないけど!
内容については、まぁいつもの、という感じ。全体的に小ネタ満載で、ゆるく楽しめた。政治ネタは気にしなくていい。笑点の時事ネタみたいなもんだし。でも、政治家がアホな雑談してたらウケるやろなぁ~wみたいなノリなんだろうけど、政治家を茶化してる風刺みたいに取られてるかもな、ってのはアリ。あと、「怪獣がグェー!って死後硬直してたらウケる、って監督は考えてたみたいだが、クソつまんねーよ!」って叩かれてたが、個人的には怪獣がグェー!って死後硬直してるのが面白かった。股間が膨張、ウンコ・ゲロ・ギンナン問答、股間のキノコ、尻から放流あたりは好き。下ネタを下品になりすぎずサラッと流すのは三木聡の利点だと思うが、もっとガッツリやった方が面白かったと思う。それをやらない緩さがいいのはそうなんだけど。特撮への侮辱と評判の特撮パートは個人的に楽しめてしまった。ワイがまだシンゴジラ見てないからかもしれない。ネタバレみちゃってたからオチは知ってたけど、ちょっとアッサリすぎる。全身像映すくらいの悪ノリは欲しかった。濱田岳の義足とかキノコはもうちょい深掘りしてもよかったような。岩松了が無駄に投げ飛ばされるとこは全てが無駄で好き。でもダレるのはダレてた。細切れにして深夜ドラマにしてたら評価も違ってたかも。個人的にはスゲー癒されて元気出た。帰りに休日出勤の予定だったけどどーでもよくなってさぁ、帰りに風俗行こっかな?みたいな。週明け地獄だけど。
追記1
ワイの中で鎧武=濱田岳で間違えて覚えてたので
ゾルダも年取ったらああなったし鎧武も老けたらこうなるんだな…でも何となく面影あるな?とか思ってたんだよ
アザゼルさんで体はいいけど顔は濱田岳の女ってネタがあったとき、あの顔なら別にいけるだろ?とか考えてたんだがあれも勘違いだったんだな…
追記2
最近ははてブの象徴(アイドル)として自己顕示欲全開でファンサービス(公開オナニー)してるんだけど、やればやるほど引かれてる感じはセックスなんだよね
追えば逃げるってこういうことなんですかね
でも徳光呼ばわりされるのは流石に…グスッ(嘘泣き)
追記3
もっと分かりやすく・過激にした方がいいんじゃないか?ってのはメジャーデビューに際してやたらポップにキャッチーにプロデュースするみたいなもんで、持ち味を殺しちゃうってのでもあるんだよな。唐十郎だったかつかこうへいも、ファンサービスでギャグを増やしたらギャグ目当ての客ばかりになったみたいなことを言ってたとか言ってないとか。
しかし、これまでの三木作品だと真面目にやってるようでヘンなギャグにまみれてたり、主人公の近くをヘンな奴らがウロウロしてたりするけど、現場組がシリアス担当、閣僚組はシュール担当みたいに分かれてて独特のノリが伝わりにくかった感じもする。山田涼介に臭いがつくとか土屋大鳳がバカみたいに手を振るみたいなギャグはあるんだけど
よむのに体力がいるからよんでて疲れる
教科書よんでるみたいな感じがする
めっちゃ原作読み込んでリスペクトして原作の小ネタも拾いまくってなおかつノベライズなのにオリジナリティアピールするような野暮なこともなくて、ノベライズとしては出来がいいほうだと思うんだけど、
とにかく疲れるんだよなあ
多分マンガならさらっとよめるはずなのに語りすぎてるからだろうなあ
まあマンガなみにスカスカにしたら小説でそれやっちゃうと読みてはしんどいけど
単純にラノベ読む体力がなくなってるってのもありそう
ごくふつーの小説よんでるととくにそうおもう
まあ独自の世界観とかあるってのもあるんだろうけどそれ抜きにしても、ゼロから10まで全部説明してる感じ
はーしにたいわ
反対意見の奴がブスで何かを喚き散らします→イケメン美少女に描かれた主人公がスパッと論破!みたいな漫画、もう相当前から定期的に見かけるけどよく廃れないよねこのネタ?画法。
ブス(無能)な奴を美形(優秀)な奴が余裕で出し抜く!ってのは何となくなろうにも通じるところがある気がするし、こういう一連の流れが好きな層が一定数いるってことなんだろうか。
別に小ネタでやってる分には好みじゃないからブロックするけど勝手にどうぞって感じなんだけど、偶に政治とか権利争いとかの主張でこの描き方で漫画描いてる奴いるから怖くなるんだよな。
自分と同じ意見の人は美形で素晴らしくて反対意見の相手はブスでバカです!って言ってるのに気づいてないのか、それともそういう主張を普通にして大衆から好感が持たれて自分の意見に共感してもらえると思ってるのか。どっちにしろ怖いし多数の人間が返ってマイナスイメージ持つだろうから、誰か止めてあげた方がいいんじゃないかなと思うなどした
趣味が読書でサン・テグジュペリとかヘッセとかヘミングウェイ読んでたから現代文の教師が授業で喋る小ネタ拾えて周りから「めちゃくちゃ頭が良い奴」だと思われてた
なお、俺自身の頭が悪すぎてコミュニケーションが苦手だったから休み時間本読んでただけで、実際のところ趣味は読書と言いつつ家帰ったら蒼井そらとか麻美ゆまとか浜崎なおでシコってばっかだったし、執筆趣味で文書くどころかマスしかかいてなかった。今は三十路フリーター。
読書(それも何故か小説しか読まない)してるだけで頭いい認定される学生時代の風潮ってあれなんなんだろうな。JK物で抜いてからふと思った。
ディズニー映画に埋もれた名作などというものは存在せず、有名なやつは出来がよく、無名なやつは出来が悪い。
以下、備忘録をかねてウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ制作の長編アニメ映画史を概観したい。
『メイク・マイン・ミュージック』以外はディズニープラスで全部見れる。
おすすめの作品:『白雪姫』『ファンタジア』(ミッキーのやつだけ)『ダンボ』
ディズニー長編アニメの歴史はアニメ史に残る傑作『白雪姫』とともに幕を開ける。この作品はとにかく作画が凄まじく、戦後の日本人が衝撃を受けたという逸話も納得の出来である。著作権が切れているのでYoutube等でも見れるが、できるだけきれいな画質で見たほうがいい。7人の小人たちの非モテ自助コミュニティ描写もピカイチで、増田を見ているような人々は目を通しておいて損はないと思う。
ディズニー映画はこの頃から一貫して「教育的で」「社会的にただしいとされる」物語を描こうというはっきりとした意思を見て取ることができる。そのため、作品の背景には常に制作された時代の価値観が垣間見える。
例えば『白雪姫』の3年後に公開された『ピノキオ』では、主人公ピノキオを導く良心の象徴としてジミニー・クリケットという名前のコオロギが登場する。この「ジミニー・クリケット」という名前はジーザス・クライストの言い換え語らしく、つまりここでは創造主の似姿として作られた人形が様々な誘惑と戦いながらも最終的にはイエス・キリストに導かれ、ただしい人間性を獲得するという物語が展開されるわけだ。
『ピノキオ』自体は退屈な作品ではあるものの、歴史や時代背景を含めて見ていくと別の発見があり、それはそれで豊かな体験である。ちなみに当時のディズニー自身はむしろできるだけ宗教色を薄めたいと思っていたらしく、この辺は社会に要請されてやむなくという側面が強いのかもしれない。
ほか『ファンタジア』中の「魔法使いの弟子」と『ダンボ』は見ていて単純にたのしい良作。『ダンボ』のお母さんの健気さは泣ける。
『バンビ』のあと『シンデレラ』まで長編の物語映画はなく、とくにおもしろい作品はない。とはいえ日本人としては、バリバリに総力戦をやりながらアニメを量産していたアメリカの国力にむしろ驚くべきかもしれない。
この頃の作品群には「丁寧な植民地主義」とでも呼ぶべき傾向があり、具体的にはアメリカ開拓時代の美化とラテンアメリカへの観光的関心、キリスト教的な価値観が三位一体となった教育映画が制作されている。この辺はおそらく当時のアメリカの外交・安全保障戦略と密接に結びついており、いわばアメリカ流の国策映画だったのではないだろうか。
丁寧な植民地主義的な傾向はこの後も非常に根強く、形を変え品を変え、ディズニーらしさの1つの要素として受け継がれていくことになる。
『シンデレラ』は物語の大半を出来の悪いトムとジェリー風ドタバタ展開が占め、あまりおもしろくはないものの興行的には大成功を収め、低迷期の脱出に成功する。
『眠れる森の美女』は『白雪姫』以来の超絶作画であり、これ以降の作品と見比べてもダントツでクオリティが高い。一方で興行的には制作費の回収すらできず、総じて失敗作と見なされたようだ。ディズニー作品の作画技法は『眠れる森の美女』でひとつの頂点に達し、以降はべつの方法論を模索していくことになる。
ほか『ふしぎの国のアリス』のチェシャ猫や芋虫の悪夢的な描写は見たものに強いインパクトを与える。一方で登場人物にだれ1人としてまともに会話の通じるキャラがおらず、集中力の維持が非常にむずかしい作品でもある。
『ピーター・パン』では全能感と成熟の拒絶というYoutuberの原型のようなヒーロー像が描かれる。ピーター・パン症候群とはよく言ったもので、本家ピーター・パンも未成年淫行で炎上する未来を強く予感させるキャラクターだった。
『わんわん物語』では都市的自由を謳歌していた野良犬がペットとして不自由な幸福を手に入れて物語が終わる。ここで描かれるペットたちのむき出しの奴隷根性は、前述の植民地主義と無関係ではない。『ピーター・パン』『わんわん物語』ともにおもしろくはないが、それぞれ見どころのある作品となっている。
おすすめの作品:『101匹わんちゃん』『くまのプーさん 完全保存版』
『眠れる森の美女』のアーティスティックで洗練された描線から一転、『101匹わんちゃん』以降はえんぴつで描かれたかのようなラフな描線で作品が構成されていく。『眠れる森の美女』以上のものを作り出すことが現実的に不可能であり、見劣りを避けるという意図があるのか、あるいは端的に制作資金が枯渇しただけかもしれない。
技法的にはやはり『くまのプーさん 完全保存版』でひとつの完結を迎え、以降ディズニー映画は再び模索と低迷の季節を迎えることになる。
『おしゃれキャット』は金持ちのペットが使用人をブチのめす話で、一方『ロビン・フッド』は貧乏人が金持ちをブチ殺す話だ。この時期のディズニーは節操のなさがすごい。
この時期の作品群の特徴を一言で言い表すならば、「リアリティへの接近」ということばになるだろう。それは一方では作画技法への3DCGの導入というかたちで現れ、他方で物語上では善と悪の単純な二項対立の脱却が図られることになる。
前者は『コルドロン』の奥行きのある大胆なカメラワークや作画法、『オリビアちゃんの大冒険』『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』での部分的な3DCGの導入に見られる。後者は『きつねと猟犬』での人種対立のメタファーとして描かれた動物間の争いや、多人種が共生する複雑な現実を猫の姿を借りて描いた『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』に象徴的である。
『きつねと猟犬』はこれまでのディズニー作品に見られた家畜たちの奴隷根性を初めて批判的に描いた作品であり、『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』と合わせて「社会的にただしいとされる」物語像の変容を見て取ることができるだろう。ただしこの時期の作品群は総じて地味で魅力がない。どうやら創業者ウォルト・ディズニーの死や主要スタッフの大量離脱の影響があったようだ。『コルドロン』は興行的にも大コケし、ディズニーの低迷を象徴する作品となった。
シャーロック・ホームズの翻案である『オリビアちゃんの大冒険』がかろうじて見ていられるという程度で、単品の映画作品としておもしろいものは少ない。『オリビアちゃんの大冒険』では、冒頭からネズミ女児のパンチラという一体どこに需要があるのかわからない謎サービスカットがあり、視聴者の集中力が乱される。
おすすめの作品:『リトル・マーメイド』『美女と野獣』『アラジン』
この時期ディズニーは批評的評価・興行収入の両面で復活を遂げ、一般に「ディズニー・ルネサンス」と呼ばれているらしい。本稿でもその表現に従う。
たしかに作品のクオリティは過去10年とは比べものにならないほど高く、ルネサンスと呼ばれるのも納得の時期である。一方で技術革新や価値観の変容は停滞気味で、歴史の流れとしてはさほどおもしろくないというのが正直なところ。ルネサンスの言葉通り、ある種の保守回帰の時代に当たる。
おそらくこの時期、真に革新的だったのは、作品の表層に現れる技術やテーマ設定ではなく、安定して高品質な作品を量産する社内の体制や組織づくりの技術にあったのではないか。
個別の作品として語れる部分は非常に多く、『リトル・マーメイド』は作画がよく、『アラジン』は見ていてたのしい。
『美女と野獣』でははっきりと他者理解をテーマに打ち出し、また女性主人公が男性からの求婚を拒絶する主体性を獲得するなどプリンセスものとして出色の出来栄え。他者を尊重することを覚えた野獣が救われ、他者の存在を最後まで容認できなかった村のヤンキーは破滅する。主人公が読書好きでヤンキーと話が合わないインテリとして描かれる点も珍しい。ただしこの他者理解はプリンセス側に一方的な負担を強いるかたちとなっている側面が強くあり、なかなかむずかしい部分もある。
『ポカホンタス』は白人によるアメリカ侵略・植民地化を矮小化し美化するかなり最悪のお話で、案の定ネイティブアメリカンの民族系団体にかなり怒られたようだ。引き続き怒られてほしい。
『ターザン』もインディアンをゴリラに変えただけで『ポカホンタス』とほぼ同類型のお話ではあるが、最後に白人研究者たちがゴリラの部落に居残ることでギリギリのバランスを取っている。ここにはターザンとポカホンタスの男女差が絡んでおり、単純にターザンのほうがいいとも言いがたい。
『ノートルダムの鐘』は強引にハッピーエンド化されているという不満はあるものの、子供向けの大作映画で障害者の活躍を描いた点は積極的に評価されてよいだろう。そもそもディズニー作品には『ノートルダムの鐘』以外にも障害者がやたらとよく出てくる。アメリカ社会には障害者を積極的に受け入れる土壌があるからできるのだとは思うのだが、日本のコンテンツおよび社会全体でも頑張ってほしいポイントである。東京ディズニーランドでもべつに障害者見かけないし。
そのほか『ムーラン』『ターザン』ではそれぞれ3D技術の進歩を見て取ることができる。
みたび低迷期である。『ダイナソー』に代表されるように3D映画への本格的な移行が始まり、2D映画最後の全盛期に当たる。
作品としては『リロ・アンド・スティッチ』がずば抜けてすばらしい仕上がりで、商業的にも大成功を収めた。『リロ・アンド・スティッチ』は王子様に救われるというプリンセスものの物語類型とは異なる、弱者同士が助け合う疑似家族モデルを明確に示した重要な作品である。
自分の欲求をうまくコントロールできない少女リロと、破壊衝動を植え付けられ誕生した人工生命体スティッチが、貧困家庭のネグレクト問題とSFアクションを背景に成長していく姿が描かれる。キャラクターデザインはかわいらしく、作画から細かい小ネタに至るまで非常に丁寧に作られており、娯楽作品としてもすばらしい。リロの姉・ナニの恋人もいいヤツで好感が持てる。
残念ながらディズニー映画ではこのあと疑似家族的な想像力は発展せず、プリンセスものという旧来の枠組みのなかで無理やり「価値観のアップデート」を図ることになっていく。
『アトランティス 失われた帝国』はディズニー映画には珍しく人がバンバン死ぬ作品で、ふしぎの海のナディアや宮崎作品みたいなものをアメリカ人が真似して作るとこうなるのかといった印象。ガバガバ設定とご都合主義が目につき、リアル路線なのかファンタジー路線なのかどっちつかずの失敗作だった。ただし主人公にオタク青年が採用されている点は注目が必要で、これ以降ディズニー主人公はイケメン・マッチョではなく非モテ・オタクが主体となっていく。
『白雪姫』で人間扱いされていなかった非モテの小人たちが「社会的にただしいとされる」物語の主人公となる時代を迎え、しかもそれが日本のアニメの強い影響化で発生しているわけで、価値観の大きな変化を感じ取ることができる。ただし、『白雪姫』の王子様はあれはあれで人間味のかけらもない平板なキャラクターではあるので、モテ非モテという面ではそこまで単純明快な話ではない。
『ブラザー・ベア』は殺した相手の子を育てるというなかなか攻めたお話ではあるのだが、最終的にファンタジーに着地するせいでどうも軸がブレる。
続く
4ヶ月前、僕は合同誌の誘いを受けた。
内容はSさん原作のアンソロジー本、ようは「うちの子二次創作合同」だ。少しイヤミっぽい書き方だが作品名をボカす為、何卒容赦いただきたい。
「うちの子」とは大抵の場合その人が創った一次創作キャラクターの事である。それの二次創作本を原作者主催で作るのだから公式アンソロジーと呼べるかも知れない。
かなり内輪ネタ感はあるがSさんとリプライを交わしたこともない自分に声がかかったのは意外だったし嬉しかった。
数年前にHPにあったイラスト、ショートストーリーに強く惹かれ何枚かファンアートを書いたことがある。それを見て招待してくれたのだという。
自分の作品が見られ評価されるというのは創作者にとって一種の麻薬である。僕は気分が高揚するのを感じながら了承の旨を伝えた。
自分で言うのは変だが僕は二次創作が得意だ。真骨頂と言ってもいい。
映画、小説、漫画、動画、あらゆるコンテンツを見ても一番最初に考えるのは「自分ならどんなストーリーを作るか」だ。
原作者が組み上げた土台の上で自分の思うがままにストーリーを展開させるという楽しみ方。オリキャラを出すわけではないのでメアリースーとは違うと思う。
子供の頃から日常的にやっていた事だが、多種多様な作品を見てネタの引き出しもバラエティに富んだ今、考え出すと止まらなくなる。
久しぶりに物語を読み返し、設定を思い出したところで僕の頭の中では無数のアイデアが浮かんでいた。
シリアス系、ギャグ系、まったり系……どれも捨てがたいが一番得意としているギャグで行く事にした。
構成を整える為、メモ帳に思いついたネタを書き出していったのだが珍しく指が止まった。
僕はネタ出しの際、とにかく頭の中のものを全て出し切ってから取捨選択を行うので何故この段階で固まっているのか自分でも分からなかった。
最後に入力した行を見返した時、自分の異常さに無意識のうちに反応したのだと理解した。
ニュアンス的には銀河鉄道999のメーテルが「行くわよネジ!」と言っているようなネタだった。
Sさんの作品は人の生き死にが関わってくるシリアス系の作品だ。こういった作風に対する二次創作ではブラックユーモアや軽いノリを入れるのが僕の好みだった。
商業で展開してる作品(同人だが東方Projectも含む)の二次創作を行っていたときは気にしていなかったが、ここで初めて原作者の存在を思い出した。
このネタを見たとき、Sさんはどう思うのだろう。怒るだろうか悲しむだろうか。
自分が原作で主催の合同誌だ。載っている作品は全て見るだろうし、第三者からしても「Sさんはこの人の作品を認知している」という事になる。
それは僕にとって非常に不都合だ。
今までやってきた二次創作は原作が手の届かない大手だったからこそ自由にやれていたのだ。
少々グレーではあるが二次創作者は同人即売会などでひっそりと本を出し、原作サイドは見て見ぬふりをする。この暗黙のルールに僕は守られていた。
だが今回は違う。原作者に認知され、認知されたことも認知される。同人であって同人ではないのだ。
二次創作ということに変わりはないが僕がやっていた二次創作とは全く異なるものである。
咲の天江衣が手足を折られている絵も描いた。東方のミスティアローレライが呪歌を歌う本も描いた。
原作ファンから嫌悪感を抱いたコメントをもらった際は「嫌なら見るな」のAAと同じポーズをして全く気に留めなかった。
何故なら悪意を持って絵を描いているわけではないからだ。後ろめたさや罪悪感は微塵も無い。
ただ思いついたから描いただけ。絵のメッセージ性を考察するだけ無駄だ。何も考えてなどいないのだから。
思い返すと僕は一次創作をやった事がない。だから一次創作者、原作者の考えが分からない。
以前エヴァンゲリオンの最終章を観に行ったが映画館を出て考えたのは二次創作のことだ。
作品が織り成す表現、意図、メッセージは頭になかった。ただボケっと観ていただけで精々CGのクオリティにビックリしただけだ。
その後暫くするとYouTubeに考察動画がアップされ、それを観て理解した気になった。作品の深みが分からないまま。
一次創作において一番大変なのは世界観、キャラクターの設定だと思う。優れた設定さえあればほぼ自動的に物語が出来ていくというのを作家の誰かが言っていた気がする。
Twitterで見たのは複数のキャラクターを何もない部屋に閉じ込めた時、どういった反応を示すかが瞬間的に思いつく作品は優れているというものだ。
自分の好きな作品をいくつか試してみたところ面白いようにキャラクターが動き出す。個性豊かで磐石な設定が築かれている証拠だ。
個人の感性が関わってくるので同じ作品でも結果が異なるのは当然だがキャラクターの性格上ありそうなアクションを起こすはずだ。
何もない部屋ですらちょっとした物語が始まるのだから二次創作というバーリトゥードでは無限に話を広げられるだろう。
二次創作しかしてこなかった僕は一次創作における土台の作り方を知らない。コツなどではなく根本的なものから知らなかった。
やっと絞り出した設定を見返しても有名作品の劣化コピーか、足して割ったような歪なキメラで作品としてのまとまりが無い。
他人の作品を利用して楽な工程だけやっていたから至極当然の結果と言える。
僕は感受性、0から創りだす発想力に乏しいのかもしれない。曲がりなりにも長いこと創作活動を行っていた人間が創作に向いていないとは皮肉なものだ。
つい最近ニコニコ動画で面白い作品を見つけた。『【クッキー☆ボイスドラマ】魔理沙とアリスの自己矛盾☆』という動画だ。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm36353098
例のアレ、と呼ばれるジャンルのクッキー✩という作品をテーマにしているらしい。
時が流れるにつれ変化していく界隈や情勢を風刺したドラマ、だと思う。
元ネタの名前こそ聞いたことはあるものの、詳細は知らないので内容に関してはあまり理解できなかった。
ただ主人公の女の子が二次創作ならではの悩みと葛藤するシーンに少し共感を覚えた。
元々一次創作を行っていた女の子が、甘い誘惑に誘われ二次創作に手を出すところから物語は始まる。
作品の看板を借りるだけで今まで伸び悩んでいた絵の閲覧数が増えたことに気を良くした主人公はどんどんと沼に嵌っていき、二次創作に依存していく。
ある日描いた絵を見返すのだが「本当の自分が描いた絵」が一つも無いことに絶望し二次創作からの脱却を図る…という話。
特に主人公が序盤で一次創作をしていた時は左利き(ペンを左手で持っている)だったのに、二次創作を行うようになってからは右利きになり、
クライマックスでの本当の自分を取り戻したシーンでは左利き(マイクを左手で持っている)に戻ったりと主人公の心情が視覚的な対比として描かれていたのが印象的だった。
動画は立ち絵を手や足などの細かいパーツに分割し動かす切り絵アニメーションをメインで使っているようだ。
小規模の制作グループで45分以上あるアニメを作るなら確かに合理的である。それでも膨大な手間暇がかかっていることに違いはないが。
今まで見てきた作品とは違い、鑑賞後は何も考えられなかった。ある意味生まれて初めて心の底から作品を楽しめたのかもしれない。
コメントを見る限り様々な小ネタが含まれているようで理解できなかったことが一層悔しく思う。知っていれば多角的に楽しめるのかもしれないが今の僕には十分面白かった。
作品の表現、演出一挙一動に注目し、感想が出てきた事に自分でも驚いたのを覚えている。僕にとってそれくらい強烈な体験だった。
これまで僕がやってきたのは作中の言葉を借りるならば「安易な二次創作」に該当するだろう。中身がなくハリボテみたいな創作だ。
話を戻すがSさんの合同誌の誘いは断ることにした。昨日謝罪のメッセージを送信し納得してもらった。自分の無責任さと幼稚さで迷惑をかけてしまったこの事は二度と忘れないだろう。
僕なりに考えたが健全な創作には感情が必要なのだと思う。嫉妬、欲望、勿論熱意でもいい。プラスでもマイナスでも構わないから感情という名の原動力がいる。
問題はそれが狂気的でなければならないことだ。中途半端な嫉妬心、欲、熱意では筆を折ってしまうだろう。イカれてるくらいがちょうどいいかも知れない。
そして健全な二次創作には矛盾が付きまとう。原作設定との矛盾、創作においての矛盾、先程挙げたコミケの暗黙のルールだって本来は矛盾している。
その矛盾を上手くコントロールしバランスを取らなければ良い結果には繋がらない。狂気がエンジンで矛盾がアクセルブレーキ、どちらも故障したらダメだ。
狂気と矛盾、この二つを安定させられる人間はほんの一部しかいないと思う。筆を置いて時間が経たないとやる気が出ない人がほとんどだ。
僕はRTやいいね数はどうでもいいと思っているし、フォロワー数が数万人の絵師に対して特に何も思わない。原作は二次創作のツールとしか思ってないし考えなしに描きまくった。
だから失敗した。こうなってしまった。自分が創作活動で過ごした日々は空白だったのだ。
あなたの二次創作はコピーペーストを繰り返したパロディまみれになってませんか?成人向けなら自分が好きな性癖を詰め込めていますか?本当に創りたいものが創れていますか?
二次創作には二次創作だけにしか味わえない面白さ、奥深さがある。創作に携わる人間なら知っているはずだ。
ただ楽しいからといって自分を見失ってはいけない。思考を止めてはいけない。創作者としての軸を保ち続けなければならない。