はてなキーワード: 格言とは
なぜか?
結局、青葉という存在を生み出した経緯も、青葉自身がやったことも同じで、単なる「弱い者イジメ」でしかなかったからだ。
青葉は京アニに突撃するのではなく、プーチンと対決すべきだった。それなら少なくとも「弱い者イジメ」とは言わないだろう。
それができないのは、基本的に人間は、というよりも生物は「弱い者イジメ」しかできない構造(弱肉強食)になっているからだ。
青葉に人間としての知性が、矜持が残っていたならば、言論によって京アニへ抗議すべきだった。
私にはいかなる点においても、青葉の言動を肯定し、青葉を賞賛することができない。
青葉の言動を否定できない人は、弱い者イジメを肯定していると言わざるを得ない。
弱肉強食の動物の真似をして、暴力を行使して弱い者イジメを行っても、人類の課題は解決できない。
https://anond.hatelabo.jp/20230928010329
京アニ放火事件の青葉被告の、裁判での言動が日々メディアを騒がせている。
ヤフコメやXで見られる反応では青葉被告を徹底的に断罪したいようだが、私は公の法廷に現れた存在としての青葉被告を応援しているし、彼が無罪になればいいとも思っている。
少なくとも、青葉被告が、予定調和的に死刑になることは絶対に望んでいない。
被害者(=京アニ)についてはよく知らないし、遺族ほかを非難するつもりもない。これはただ私の思い入れこみによる勝手な文だ。
「もしお前やお前の家族が殺されたらどう思う」みたいな質問はここでは意味をなさない。そんな質問しかできない時点で、大きな断絶があるのだ。
青葉被告の死刑を容認する人々でさえも一部が指摘しているように、世間には「青葉」的な者がいる。そしてそれは、どんどん増えている。
魔の82年生まれとか発達障害の増加とかそういうお茶の濁し方ではなく、明確に、「青葉」被告的な苦痛に満ちた者が増えているのだ。
世間は少なくともそれをずっと認知して来た。それも、机上のグラフの上の数値ではない。
クラスに一人はいる彼。職場に一人紛れ込む彼女。近所や親戚に一人いるあいつ。
青葉の体験を一般化することはできないだろうが、あえて広く「彼等」の問題として考えたい。
彼等がコミュニケーションに行き詰った時、あなたはどう振舞っていたのか。
彼等がコンビニの列の最前列で何かにつっかえた時、あなたは舌打ちしなかったか。
彼等が同じ教室・職場で、教師・上司に何度も叱責される中で、ただ「そう」であることで評価を下げていなかったか。
私は、平均とか標準という考え方で言えば、「青葉」側の人間である。
ただ、例えば、世間の人々が得られる「幸せ」をあきらめることには納得はいく。
しかし、世間の人々に与えられる「逃げ道」をなぜか私が使えないとなったとき、その惨めさは何百倍にも何千倍にもなる。
私は青葉被告のどうにもならない体験を見て、そんな説明をひねり出すことができた。だが過去のいろいろな事件の時点でひねり出すべきだった。
小学校・中学校を通して、本人でもうまく説明が出来ない様な過ちをして、しょっちゅう教師にクラスメイトの面前で厳しく叱責されている、今でいえば学習障害とか自閉症なのだろうか、そんな同級生がいた。
この男子同級生はとても「愚か」「間抜け」ということになっていて、実際何を考えているのか、私達にもわからなかった。いや、わからないようになっていった。教師の度重なる叱責や軽視によって。彼が精いっぱい受け答えを捻りだすたびに、教師はその言動を叩き潰した。
今考えれば、教師は彼を叱責すべきではなく、話をゆっくりと聞くべきだった。もっと言ってしまえば、もはや「赦す」べきだった。教師こそがこの同級生の代弁を私達にすべきだった。
大げさに言えば、人に生きる意味を考えさせ、死の世界から遠ざける、ということをこの教師や社会はしていなかった。健全な市民を育むとかそんなのはどうしようもない建前だ。
そしてそれが為されないとき、この同級生が、教師を刺し殺したり私たちごと教室に「理不尽に」「逆恨みで」放火したとしても、私はもはや文句は言えない。これは一言で言えば「窮鼠猫を嚙む」という格言であり、逃げ場の許されない中で当然生じうる人間のむしろ正常な反応だとおもう。
そうできないならば、世間が彼を徹底的にバカにした通りに、彼はナイフやマッチの使い方もわからないまま見当違いの人を刺して燃やす。それは自然なことでしかない。世間が彼をそうさせた。
人を大切にしない社会は、そのどこをやりかえされてもしょうがないとおもう。
私は、あの同級生やそれと同じ人々が何千人と重なって一人となり、被告となって証言台に立っているのだとすら思う。
監禁された人間が「ストックホルム症候群」を起すことには同情されるのに、なぜ狭い世界で逃げ場を失った人間の行動には同情がされないのか。
そこで世間の人々は目を逸らし、「仕方ない、悲惨だけど、死刑」などという。
私は堂々と「青葉は無罪だ。無罪にすべきだ」という。それだけの問題提起をすべき理由がある。青葉を診療し死の淵から回復させた医者は「生きて裁かせる」という信念があったそうだが、直接関係ない私は「生きて無罪になれ」といいたい。
そして99%くらいの確率で青葉が死刑になったとしても、私はいい続ける。似た様な事件がまた起きればその被告を擁護する。
世間は、事件を繰り返させる前に、「青葉」的なものを真摯に今度こそ見つめ、「赦し」、我々の社会の要素として自然に見なすべきだ。それが達成されるまで、世間が目を背けた回数の分だけ事件が起きても、無罪にすべきだ。
十九世紀末のヨーロッパでも、社会の矛盾に対し、富裕層の集まる場所や公務員への爆弾攻撃で答えたアナーキストたちがいた。彼らは少なくとも自分の言葉と道具があった。
今は自分の言葉も道具すらも持てない時代が来ている。少しでもそんな時代から遠ざかるために。
私の匿名の日記は世間には何の影響も与えないだろうが、たくさんある非難に対して一つでもこういう意見があったと、どこかで思い出してもらえればいいなとおもっています。
https://gigazine.net/news/20230304-voltaire-quotation-investigation/
I disapprove of what you say, but I will defend to the death your right to say it.
京アニ放火事件の青葉被告の、裁判での言動が日々メディアを騒がせている。
ヤフコメやXで見られる反応では青葉被告を徹底的に断罪したいようだが、私は公の法廷に現れた存在としての青葉被告を応援しているし、彼が無罪になればいいとも思っている。
少なくとも、青葉被告が、予定調和的に死刑になることは絶対に望んでいない。
被害者(=京アニ)についてはよく知らないし、遺族ほかを非難するつもりもない。これはただ私の思い入れこみによる勝手な文だ。
「もしお前やお前の家族が殺されたらどう思う」みたいな質問はここでは意味をなさない。そんな質問しかできない時点で、大きな断絶があるのだ。
青葉被告の死刑を容認する人々でさえも一部が指摘しているように、世間には「青葉」的な者がいる。そしてそれは、どんどん増えている。
魔の82年生まれとか発達障害の増加とかそういうお茶の濁し方ではなく、明確に、「青葉」被告的な苦痛に満ちた者が増えているのだ。
世間は少なくともそれをずっと認知して来た。それも、机上のグラフの上の数値ではない。
クラスに一人はいる彼。職場に一人紛れ込む彼女。近所や親戚に一人いるあいつ。
青葉の体験を一般化することはできないだろうが、あえて広く「彼等」の問題として考えたい。
彼等がコミュニケーションに行き詰った時、あなたはどう振舞っていたのか。
彼等がコンビニの列の最前列で何かにつっかえた時、あなたは舌打ちしなかったか。
彼等が同じ教室・職場で、教師・上司に何度も叱責される中で、ただ「そう」であることで評価を下げていなかったか。
私は、平均とか標準という考え方で言えば、「青葉」側の人間である。
ただ、例えば、世間の人々が得られる「幸せ」をあきらめることには納得はいく。
しかし、世間の人々に与えられる「逃げ道」をなぜか私が使えないとなったとき、その惨めさは何百倍にも何千倍にもなる。
私は青葉被告のどうにもならない体験を見て、そんな説明をひねり出すことができた。だが過去のいろいろな事件の時点でひねり出すべきだった。
小学校・中学校を通して、本人でもうまく説明が出来ない様な過ちをして、しょっちゅう教師にクラスメイトの面前で厳しく叱責されている、今でいえば学習障害とか自閉症なのだろうか、そんな同級生がいた。
この男子同級生はとても「愚か」「間抜け」ということになっていて、実際何を考えているのか、私達にもわからなかった。いや、わからないようになっていった。教師の度重なる叱責や軽視によって。彼が精いっぱい受け答えを捻りだすたびに、教師はその言動を叩き潰した。
今考えれば、教師は彼を叱責すべきではなく、話をゆっくりと聞くべきだった。もっと言ってしまえば、もはや「赦す」べきだった。教師こそがこの同級生の代弁を私達にすべきだった。
大げさに言えば、人に生きる意味を考えさせ、死の世界から遠ざける、ということをこの教師や社会はしていなかった。健全な市民を育むとかそんなのはどうしようもない建前だ。
そしてそれが為されないとき、この同級生が、教師を刺し殺したり私たちごと教室に「理不尽に」「逆恨みで」放火したとしても、私はもはや文句は言えない。これは一言で言えば「窮鼠猫を嚙む」という格言であり、逃げ場の許されない中で当然生じうる人間のむしろ正常な反応だとおもう。
そうできないならば、世間が彼を徹底的にバカにした通りに、彼はナイフやマッチの使い方もわからないまま見当違いの人を刺して燃やす。それは自然なことでしかない。世間が彼をそうさせた。
人を大切にしない社会は、そのどこをやりかえされてもしょうがないとおもう。
私は、あの同級生やそれと同じ人々が何千人と重なって一人となり、被告となって証言台に立っているのだとすら思う。
監禁された人間が「ストックホルム症候群」を起すことには同情されるのに、なぜ狭い世界で逃げ場を失った人間の行動には同情がされないのか。
そこで世間の人々は目を逸らし、「仕方ない、悲惨だけど、死刑」などという。
私は堂々と「青葉は無罪だ。無罪にすべきだ」という。それだけの問題提起をすべき理由がある。青葉を診療し死の淵から回復させた医者は「生きて裁かせる」という信念があったそうだが、直接関係ない私は「生きて無罪になれ」といいたい。
そして99%くらいの確率で青葉が死刑になったとしても、私はいい続ける。似た様な事件がまた起きればその被告を擁護する。
世間は、事件を繰り返させる前に、「青葉」的なものを真摯に今度こそ見つめ、「赦し」、我々の社会の要素として自然に見なすべきだ。それが達成されるまで、世間が目を背けた回数の分だけ事件が起きても、無罪にすべきだ。
十九世紀末のヨーロッパでも、社会の矛盾に対し、富裕層の集まる場所や公務員への爆弾攻撃で答えたアナーキストたちがいた。彼らは少なくとも自分の言葉と道具があった。
今は自分の言葉も道具すらも持てない時代が来ている。少しでもそんな時代から遠ざかるために。
私の匿名の日記は世間には何の影響も与えないだろうが、たくさんある非難に対して一つでもこういう意見があったと、どこかで思い出してもらえればいいなとおもっています。
交通事故などの即死だと、死ぬ前にお世話になった人たちへの挨拶とか、遺品整理をする時間がありません。
しかし、癌など余命がある場合は、死ぬまでに多少時間が残されているので、お世話になった人たちへの挨拶とか、遺品整理をする時間が持てます。
もしも、病気になっても即死ではないなら、時間的な余裕があることぐらいでしょうか?
(即死と比べて病気だった場合のメリットが他にもあれば教えてください。)
もしも、癌になると寿命が10倍、100倍…と延びるとするならば、みんな癌になりたがるはずですし、医師も「誰でも癌になれる方法」とかの本を書いてベストセラーになってないといけませんね?しかし、現実にはそんなことは起こりません。
最初にかかった医者がヤブだと、真の原因に気付かず、適切な治療が選択できないので、病気が進行しますね。
世の中の大半の医者は金儲けのためにやってます。無償のボランティアではありません。
ぶっちゃけ患者が死のうが生きようが、自分が儲かればOKという割り切りがあります。医療事故で訴えられなければラッキーな職業です。
もちろん、このようなサイコパスの医者は一部ですが、他の医者も全員が優秀というわけではありません。東大医学部とFラン医大では、頭の程度が同じとは言えないでしょう。(もちろんFラン医大でも優秀な医師はたまにいます)
要するに病気診断で誤る場合があるので、一人の医師だけに頼るのではなく、複数の医師に分散した方が安全の確率が高まるという話です。(株でも「卵は一つのカゴに盛るな」という格言がありますね)
どうもおかしいと思ったら、セカンドオピニオン、サードオピニオンを得ましょう。
他ならぬ自分自身のためです。
医者に失礼だからと言って、セカンドオピニオン、サードオピニオンを他の医者に聞きに行くのは良くないと遠慮する人は、ハッキリ言ってアホです。残念ながら、アホは死ぬしかありませんね。それがアホの運命です。(ファイナル・デスティネーション)
医学の知識、とりわけ解剖学の知識は全ての人に必要であり、役立つ知識だと思います。
この増田を読んだ方で、自分の本棚に解剖学の本が1冊もない方は、今すぐ解剖学の本を買って勉強しましょう。
https://www.amazon.co.jp/-/e/B004L4AKYM
坂井 建雄について
大阪府生まれ。大阪府立天王寺高校卒、1978年に東京大学医学部医学科卒、東京大学医学部解剖学教室助手、1984~1986年に西ドイツ、ハイデルベルク大学にフンボルト財団の奨学生として留学、1986年に東京大学医学部助教授、1990年に順天堂大学医学部解剖学第1講座(現在は解剖学・生体構造科学講座)教授、現在に至る。
処女作の『からだの自然誌』(東京大学出版会, 1993)は解剖学を人体についての自然誌としてとらえ、生物の形態を意味づける視点と生物の階層性との関係を論じた、解剖学の基礎論である。
解剖学の学習に不可欠な解剖学の教科書・図譜を多数手がけており、代表的なものとして『プロメテウス解剖学アトラス』全3巻(監訳、医学書院, 2007-2008)、『カラー図解 人体の正常構造と機能』第2版、全10冊(総監修、日本医事新報社, 2012)、『臨床のための解剖学』(監訳、MEDSi, 2008)、『解剖実習カラーテキスト』(医学書院, 2013)などがあり、いずれも良質で分かりやすい解剖学書として高い人気を集めている。
医史学の研究者としても活躍しており、ヴェサリウスの伝記の定番である『ブリュッセルのアンドレアス・ヴェサリウス1514-1564』(訳、エルゼビア・サイエンス・ミクス, 2001)、『ガレノス解剖学論集』(共訳、京都大学学術出版会, 2011)、『日本医学教育史』(編、東北大学学術出版会, 2012)などがあるが、なかでも『人体観の歴史』(岩波書店, 2008)は原典に遡って古代から現代までの解剖学の歴史を俯瞰した傑作で、日本医史学会の矢数医史学賞を受賞している。
このような医療職あるいは専門家向けの教科書・専門書ばかりでなく、一般向けの著作もきわめて多数あり、いずれも明確で分かりやすい文章により人気を集めている。とくに『ぜんぶわかる人体解剖図』(共著、成美堂出版)はこの種の本として異例の爆発的な売り上げを示している。
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もしも、現代療法で治る見込みがなければ、新しい治療法の実験台になって、効果の検証に参加してみてはいかがでしょうか?
光免疫療法(ひかりめんえきりょうほう、英: Photoimmunotherapy)は、癌(がん)に対して、光線力学療法と免疫療法を組み合わせた、開発中の新たな治療法の候補の一つである。
2015年4月にアメリカ食品医薬品局(FDA)から臨床試験開始許可を受け、現在は臨床第3相試験を実施中。
光免疫療法に使われる医薬品の第一号が2020年に日本において製造販売の承認を得ている。
昔の日本では、50歳を超えると「翁(おきな)」(おじいさん)と呼ばれていました。
食事や医療が現代ほど発展していなかった時代だと50年も生きれば長生きの方だったんですね。
栄養や医学が改善された現代では、健康に気を付ければ100歳以上生きることも可能です。世界各地に長寿村とかありますね。
しかし、50年生きようが、100年生きようが、相対的な違いでしかなく、どっちみち終わりが来ます。死なない人間はいません。人類の歴史が証明しています。
(不老不死の可能性について、これ以外の反論があればトラックバックで紹介してください。死んだ人間を復活させるゾンビはNGです)
どっちみち死ぬのであれば、死を恐れても恐れなくても死ぬのだから、恐れる分だけ損だと思いませんか?
どちらを選ぶかは自分次第です。
もちろん、自分に嘘をついて、自分をごまかして、死ぬのは怖くないと騙すのはダメです。うまく騙せたつもりでも、実際に死ぬときになってみて、やっぱ怖いと思ったら騙せなかったと分かるだけですね。
とことん死と向き合って、生きているときに味わえる喜び(五感の喜び~臭覚・味覚・視覚・触覚・聴覚の快感など)を失うときに、それでも平気と言える価値観を培う必要があります。
自分の内側が充実すれば、外側の影響を受けなくなりますね。内側の充実とは英知を得ることです。
恐怖の感情は対象を理解できない無知から生じています。(例:柳の下の幽霊)
死に対する恐怖が生じるメカニズムを理解して、損得勘定=価値観を変えることができれば、死に対する恐怖がなくなります。
この点について、古今東西多くの人々が議論して、いろんな解決方法を提案しているので、参考にすると良いでしょう。そして自分にあったオリジナルの解決方法を得てください。
お大事に。
toraba araikacang氏「フェミを貶めるための釣りでしょ?あと一段落一文とか1つの文がむやみに長いので、短く文を分ける事を心がけると読みやすくなると思います。」https://b.hatena.ne.jp/entry/4706702763054973762/comment/araikacan
相手に理想を求めた時、指示するべきことは多岐に渡る。すべてのテストで100点を取る、家に帰ってもずっと勉強する、友達とのかかわりでは衝突を起こさない等である。
更に、苦労すればするほど偉い、などといったの認知の歪みがある場合には、コレに加えて、相手が苦労していないと許せないという考えが加わってしまう。
事実として、理想をそのまま実現すれば良い結果が得られるのは間違いないだろう。
しかし、そうはならない。理想は実現するのはコストを要するからだ。
自分のした苦労というのは相手に10%も伝わらない。それは逆もまた然りである。
相手が苦労して実現した理想に対し、それを報うのに一体どれほどのコストが必要になるのだろうか?
相手から自分に伝わる苦労が10%、自分から相手に伝わる苦労が10%である。
相手の100倍苦労しなければ、相手はやったことが報われたと思わないだろう。
ちょっとした緩和として、相手に礼を言うというのはある。礼の効果はデカい。
デカいが、相手に理想を押し付ける人間に礼を言われた事がない。そりゃそうか。
一方で義務がある。これは、何かを成す為に必要な最低限の事を指す。この何かというのは人それぞれで、その人に合った目標がある事が大前提としてある。
義務は相手に求めるコストが少ない。一方でやってもらう事も少ない。
報われたと思う事で、指示されたという不快感を帳消しにできる。
こういった積み重ねをすることで長期的な信頼を得られる。
衆愚が声高く己の自己保全の為に叫ぶ根拠に、科学がある。が、そこにこそ現代日本の敗北があると私は認める。渋谷のセンター街、なんなら東京駅前で歩く屍のような彼らに尋ねるがいい。あなた方はレイチェル・カーソンをご存知か。そして地動説の確たる根拠をもご存知なのかと。約束してもいい、彼ら自身或は他人の採ったデータで証明出来得る者は皆無だと。今や情報化社会にあって我らは肝心のデータそのものの価値を忘れた。そればかりか、どうすれば演繹出来るかすら忘れてしまったのだ。今や知識に訴えかける時代は終わった。故に学生闘争は終わったのだ。いつしかインテリの自己満足に人々が飽きてしまったから。
思い出して欲しい。放射性物質のウラニウム塗料が蔓延った旧時代を。そして放射性物質が医療の役に立つと、顎を失ったあの男を。が、当時の人々からすれば現代からすれば愚行そのものとしか呼べぬ行為こそが科学だったのだろう。どこまで行っても我々は不可知論者である。全ての弊害を知り得ることなどない。気が付いたら手遅れだった、無論、尊い犠牲を払われたマーキュリー夫人にしてもそうだ。彼女の時代には有害性は認識されていなかった。が、結果として彼女は今尚隔絶せられた棺に収まっている。
そう、私が言いたいのは現状の枠組み、現代で言えばトリチウムその他諸々の半減期はあれども有害に間違いはない汚水を垂れ流すことに対して危機感を持つべきだと言いたい。データはただの他人の考えた情報の推移である。アーレントは政治的な意味合いで凡庸な悪と表現した。それは取りも直さず思考を外部に委ねた、傀儡と自ら欲した存在のことを言っているのだと解釈する。確かに凡庸な一市民に一々今回の汚染水を調べろ、とは酷であるのは承知している。が、一市民に於かれては各自考えて欲しい。その上で判断して欲しいのだ。
最後に私がせめて政府に望むのは、今回の件に纏わる風評被害を被るであろう漁業関連の人々、そしてもしかすると農業の人々への手厚いフォローをお願いしたい。復興したとは言え、完全ではない。今の日本は片腕のもげた人間が雑魚寝している痩せた人に己が食べるべきものを与えているに過ぎない。そしてもしかしたら癌細胞が今すぐそこで、例えば肘でも膝でも、或は心臓で発生しているのかも知れない。その為の包括的な経過観察は最低限必要ではないか。
ここで最後に格言を記す。樽一杯のワインにスプーン一杯の汚水を混ぜると樽一杯の汚水になるのだと。
未だ我々は海水の推移をさえ解らぬ下卑た存在。矮小な科学の知識で最小限被害の少ないと見積もった先が今の対処なのだろう。それは危険だと、予め申し上げる
衆愚が声高く己の自己保全の為に叫ぶ根拠に、科学がある。が、そこにこそ現代日本の敗北があると私は認める。渋谷のセンター街、なんなら東京駅前で歩く屍のような彼らに尋ねるがいい。あなた方はレイチェル・カーソンをご存知か。そして地動説の確たる根拠をもご存知なのかと。約束してもいい、彼ら自身或は他人の採ったデータで証明出来得る者は皆無だと。今や情報化社会にあって我らは肝心のデータそのものの価値を忘れた。そればかりか、どうすれば演繹出来るかすら忘れてしまったのだ。今や知識に訴えかける時代は終わった。故に学生闘争は終わったのだ。いつしかインテリの自己満足に人々が飽きてしまったから。
思い出して欲しい。放射性物質のウラニウム塗料が蔓延った旧時代を。そして放射性物質が医療の役に立つと、顎を失ったあの男を。が、当時の人々からすれば現代からすれば愚行そのものとしか呼べぬ行為こそが科学だったのだろう。どこまで行っても我々は不可知論者である。全ての弊害を知り得ることなどない。気が付いたら手遅れだった、無論、尊い犠牲を払われたマーキュリー夫人にしてもそうだ。彼女の時代には有害性は認識されていなかった。が、結果として彼女は今尚隔絶せられた棺に収まっている。
そう、私が言いたいのは現状の枠組み、現代で言えばトリチウムその他諸々の半減期はあれども有害に間違いはない汚水を垂れ流すことに対して危機感を持つべきだと言いたい。データはただの他人の考えた情報の推移である。アーレントは政治的な意味合いで凡庸な悪と表現した。それは取りも直さず思考を外部に委ねた、傀儡と自ら欲した存在のことを言っているのだと解釈する。確かに凡庸な一市民に一々今回の汚染水を調べろ、とは酷であるのは承知している。が、一市民に於かれては各自考えて欲しい。その上で判断して欲しいのだ。
最後に私がせめて政府に望むのは、今回の件に纏わる風評被害を被るであろう漁業関連の人々、そしてもしかすると農業の人々への手厚いフォローをお願いしたい。復興したとは言え、完全ではない。今の日本は片腕のもげた人間が雑魚寝している痩せた人に己が食べるべきものを与えているに過ぎない。そしてもしかしたら癌細胞が今すぐそこで、例えば肘でも膝でも、或は心臓で発生しているのかも知れない。その為の包括的な経過観察は最低限必要ではないか。
ここで最後に格言を記す。樽一杯のワインにスプーン一杯の汚水を混ぜると樽一杯の汚水になるのだと。
未だ我々は海水の推移をさえ解らぬ下卑た存在。矮小な科学の知識で最小限被害の少ないと見積もった先が今の対処なのだろう。それは危険だと、予め申し上げる
ぶっちゃけ恋人候補として脈ありだとか脈無しだとかって、誰にも分からないと思うよ
たまにアドバイスもらったりアドバイスしたりしてたけど、ガチモテ男の予想とかも普通に外れることけっこう多かったし
難しいだろうけど脈あるか無いかは考えずに、「一緒にいて楽しい、居心地がいいと思わせる」つもりでやってくといいかと
顔面を限界まで清潔にする、余計な事を言わない、楽しくハイテンションに返事をする、とか
こういうありきたりなアドバイスでさえ、相手女の属性次第で余計な事を言うオラオラ系が好きだったりしてうまくいかないことあるから
ただ「今のあなた」の状態で懐かれてるとは思うので、そのままの態度で接してくと良いかもと思います
幸運を祈るよ
既存社員「タイパモンスターだ!新人類だ!会社を混乱させている!」
バカなのか。
そもそも朝礼を続けていること自体を見直すべきなんじゃないのか。
少なくともslackでよくないスかって言ってる新人は対案も出してるわけじゃん。
slackじゃダメな合理的な理由、朝礼をしなければならない合理的な理由を教えてやれよ。
個人的に朝礼に関して好きな格言が「不要な朝礼をしている職場はさっさと辞めるべき」
これは
1.本当に不要な朝礼をしているような生産性の低い職場に居続けてもいいことない。
2.必要な朝礼を不要に感じるようであれば会社の風土と合ってないってことだから辞めた方がいい。
うちの会社は毎朝30分くらいかけて各部の報告、読み合わせ、目標の唱和とかやってたが、
グループウェア入れてそれで報告内容流すようにして朝礼は週1まで減らした。
俺は0でええやんと思ってたけど社長が社員の顔をどうしても見たい、譲れないというので飲んだ。
うちはオーナー企業だし。
歴史が苦手だったのは、こんな昔のイベントや用語を覚えて、いったい何になるんだ?と思ったからだった。
そして、個々の知識が細かすぎて、解くべき問題に結びつくまでが遥か遠い、とでも言うべき感覚が嫌だった。
知識をいくつも覚えて、それらを組み合わせてようやくたった一つの答えがわかる。
しかも、それも知ってるか否かだけ。私個人による創意工夫の余地も無い。端的に面白くない。
それらをもどかしく思っていたのだ。
まとめると、歴史は、覚えることのコスパが悪い知識であり、私個人を疎外する教科だと感じていた。
その点で、数学の知識、つまり、公式は一般性を持つので適用範囲が広いし、私の創意工夫も生かせる。
公式はひとつ覚えれば、多くの問題に適用できるのだ。覚える個数としても、そんなに多くない。
だから、ビジネス書に書かれた格言が多くの応用と工夫の余地を期待されるように、
私も適用範囲が広く、創意工夫できる知識こそが、本当に覚える知識だと思っている。
逆に言えば、歴史のように、ある物事の具体的な事象に含まれる細かい知識、
端的に言うと「トリビア」みたいなものをいくつも覚えることに意味が見出だせない。
世の中では、そんなものを細々覚えていって、物事全体の解決の際に役立つとでも思われているのだろうか?
当然、物事理解の前提を読み解く=問題文を読み解くくらいの知識量は必要なんだろうが、それらの知識が問題解決に役立つと思えない。
問題解決には知識よりも、発想力や計算力=論を組み立てる能力の方がずっと重要なはずだ。
よって、細々した知識の代わりに、ある物事に対して全体的に適用できる「公式」だけを知りたいと思うのだ。
何事でも、公式に当たるエッセンスだけをストックし、その物事に関して生じる諸問題を、
数学の問題のように公式と発想と計算力で処理したいと、個人的には思っている。
30代既婚子なし女です。
既婚だけど、旦那も自分もわりと仕事が好きで、寝てる時間をのぞけば家にいる時間より職場とか外にいる時間のが全然長い人間。
家を買うのも、子作りに挑戦するのも、まだまだ踏ん切りがついてないというか、家庭を築く、というフェーズに正直まだ至ってないんだと思う。6年も付き合ったし、30代に突入したし、どうせ付き合い続けるなら結婚しとく?ぐらいのテンションでの結婚。
もちろん、それについては後悔してないし、何かをひがむ気持ちもない。そうなったときに、ローン組むのも、腹を痛めて子供を産むのも育てるのも我々だから。我々がそうできない、今じゃない、と思ううちは、誰に何をアドバイスされても、お節介うるせ〜〜としか思わない。じゃあ私の代わりにローンくんで、産んで育ててくれ。
で、タイトルの件。
30代の女ともなれば、学生時代の友達もほとんどが結婚しているのだが、みんな当たり前のように子供を産んで育てている。(以降、子持ち女と呼ぶ)
それは素晴らしいし、今の自分には出来ないことなので、素直にすごいなあとは思うが、子持ち女ってなんで会うたびに、「子供は?」って聞いてくるんだろう。
しかも独身の女友達がその場にいるときは当然言わないんだよ。彼氏は?とか結婚は?とも聞かない。なんでそんな気遣いできるのに、既婚子なしに対してだけ、当たり前のように子供は?って聞いてくるんだ。
相手がいないから結婚してない、相手はいるし自分はのぞんでるけど結婚できない、そもそも自分が結婚をのぞんでないから結婚してない。
何を聞いたって気まずくなるという想定の元、独身女には「結婚は?」ってきかないんだろ?
だったら子供がいない女にもそれぐらいの遠慮と配慮をしてくれ。
こちとら、まじで今1ミリも考えてないキャピ〜☆って答えたいけど、答えたところで「早いほうがいいよ」って退路ふさいでくるんだろ。
もう知ってんだ。何回言われたことか。
わたしの場合、まだ子づくりにすら挑戦してないけど、仮に不妊に悩んでたらどうすんだろ。
宗教と野球の話はすんな?って格言あったと思うけど、子作りもそこに加えてくれ。ほんと無用にいろんな人傷つけてると思う。
加えて言うと、専業主婦じゃなくて共働きの女友達でさえ、会話のほとんどが子供にまつわる会話で、正直「知らね〜〜」以外の返事が出てこない。
ほんと、無事に出産したときが、こっちがその子に向ける感情のピークだわ。無事に産まれてよかったね。でもそれは私がその子の友達だから、妊婦である女の健康と幸せについて喜ばしかっただけであって、無事に産まれた子供にはぶっちゃけなんの感情もない。
すくすく育ってすばらしいよ。でもほんと、正直町中で見かける赤の他人の子どもと変わらないというか。結論言っちゃった。
ここまで子持ちVS子なしの構図で話してしまったが、そもそも子持ちの友達と会う機会なんてぐっと減った。
だいたいは子なし既婚者か独身と集まって飲む。お互いの仕事の愚痴いったり、最近みた映画とかテレビとか、思い出話とか世の中のニュースとか。それはいい、楽しい。
ただ厄介なのは、独身のマッチングアプリの話だ。(一部既婚にもいるが、それはもう論外だから無視)
なんていうか、だから彼氏いないんじゃない?以外の感想が出てこないような話ばっかだ。
一回アポはいって会ったけど、〇〇がムリだった、とかを延々話される。
年収800万円以上で、話がおもしろくて、おしゃれでラインもまめで、顔も良くて、食べ物の趣味があって、筋肉もあって…なんて男、宝くじに当たるより引き当てるの難しくないか。20代の女の子ならともかく、我々いい歳だろ。だいたい私も、私の旦那も、何一つ当てはまってない。
アプリの男の愚痴を聞かされるたびに、ろくな男いないんだねえ、とお決まりの返事でニコニコ酒をあおっている。
世の中のアプリ男ごめんなさい。でも、いいとこもあったんじゃない?とでも言ったら、大変なことになる。〇〇はいいよ、もう結婚してるんだから。とか、〇〇は今の旦那の何がよかったの?(会ったことあるだろ失礼だな)とか云々カンヌン。
だったら既婚の私に話すんじゃね〜!!って感じだけど、私も会ったこともない上司の愚痴聞かせたことあるしさ。ギブアンドテイクだよなあ、ってツイフェミにいつかジョブチェンジしそうな友達たちの話を聞いてる。
あえて独身というか、結婚に興味がない、自分の趣味や仕事に生きてるような女友達に縁がないせいもあるが、子供の話もアプリの話もいい加減にしてほしい。