はてなキーワード: 作中作とは
オタクの王が不倫してた! 表現の自由戦士が求めてたのはこういう不倫の自由だったってワケ(笑)みたいなIQ二桁ブクマカがまあまあおってたまげてる。
そしてこういうことを書くと切断処理だーとか反応してくる感じもあってかなり厳しい
党派性をインストールしたBOTって結構最悪な部類のヤツじゃん
でもあそこらへんの人たちを神輿にして喜んでたオタクさんサイドも終わってる感じするんだよな
リベーラとかいうリベラルをもじった名前の敵をやっつけて喜ぶマンガをLiberal Democratic Partyの一員が描くっていう滑稽さったらこれもまた厳しかったね
しかも最後の最後に「って感じでどーでしょ」みたいな作中作の体裁をとっていてガチじゃないんですよwみたいな保険掛けててダサすぎワロタって感じ
話がズレたが、「表現の自由は不倫の自由(笑)」みたいな反応はヤマーダ()レドマツ()より知能指数低いからやめた方がいいよ
『このマンガがすごい!2023』の4位になったらしい名作なんだ
月曜にジャンプラで電子版が公開されてたので読んでみたが、めちゃくちゃ面白い!!
そして、続きが読みた過ぎるし、電子版じゃなくて紙の単行本が欲しいわ!ってなったので本屋に行って4巻を買ってしまった
単行本買ったのなんて鬼滅の最終巻以来だよ(ブームの中、最終巻だけ買った)
こんな面白いマンガ、読まずに過ごしていくのは絶対に損だと思うので、プレゼンしていくぞ!
読んだことない人への布教のつもりだから勿論ネタバレには気を付けるけど、面白みの紹介のためには序盤数話分はどうしてもストーリーに踏み込む必要があると思う
そこは申し訳ない
https://shonenjumpplus.com/episode/316190246999430065
…では、いいかい?
「話」と意味は変わらないのだけど、「話」よりも「噺」のほうが「語って聞かせる物語」的なニュアンスが強い漢字となる
現代で「噺」の漢字が使われる場面は「噺家(はなしか)」くらいかなと思う
「噺家」とは物語を語って聞かせる職業の人で、ほぼ落語家と同義語
これは主人公の少女「あかね」の、「あかねに関する物語」という意味と、「あかねの語る落語」という意味のダブルミーニングだと思う
長くなりそうだから章立ててくよ
じゃあ序盤のストーリー、少しだけ要約するよ
志ん太は落語家の階級としては中堅で、最終ランクである「真打」への昇進を目指している
中堅どころなので稼ぎはよろしくなく、妻、つまりあかねの母の稼ぎで家計が成り立っている
父はヒモだとクラスの男児にからかわれてケンカするほど、あかねは活発で気が強く、父を大切に思っている
そしてあかねは家で練習をする父の落語が大好きで、幼いころから父の真似をして、落語に親しんでいた
志ん太は家族のためにも、真打へ昇進するための最終試験に挑むことになる
落語家一門の「阿良川一門」の重鎮たちが揃う中、昇進試験の落語を行ったが、阿良川のトップ、阿良川一生がなんとその日の受験者を全員破門にする
それ以降、志ん太は落語家を続けられなくなり、一般企業に就職し、経済的にはむしろ裕福になった
そしてあかねは高校生になり、父の落語を認めさせるためにも、落語家への道を進んでいく…
というのが第一話
まず、落語マンガではあるのだけど、バトル物かと思うくらい、ライバルやラスボスの描き方がうまい
最後までラスボスがヴェールに包まれてわからないようなマンガも多くあると思うけど、このマンガは第一話からラスボス阿良川一生がはっきりと描かれ、そこに向かってあかねが成長していくような熱い展開となっている
ラスボスを隠すパターンは謎解き感が演出されるのに対して、ラスボスがはっきり序盤で出てくるとそこに到達するときの盛り上がりがすごく熱くなる
父はその後もちゃんと生きているはずだが、マンガではその後単身赴任として描かれず、バトルマンガで言えば「父は阿良川一生に殺された」状態
まあ落語家としては殺されたんだけど
ラスボス阿良川一生と父、またあかねとの因縁がこれ以上なくはっきりしてて、かつ、阿良川一生は落語界最大の重鎮
それに加えて、志ん太の元師匠で、今のあかねの師匠である阿良川志ぐまも、何やら阿良川一生と因縁があるようで?ここははっきり描かれていない伏線になってそう
おそらく中ボスという感じで、あかねと年齢は近いけど、天才的な実力で若くして中堅ポジションに昇格したカリスマ落語家で、阿良川一生の弟子
この辺の演出は本当にバトルマンガ王道物って感じの熱さがあってすごくいい
ジャンプと言えば努力→友情→勝利だけど、あかね噺もそのパターンが組み込まれている
そしてそのサイクルがめちゃくちゃスピーディに展開する!
あかねが壁に当たる→兄弟子のふんわりした助言→あかねの解釈、努力→成長!
だらだら失敗したり、だらだら修行したりしない
何か掴んだ描写があったら、その後の練習は描かず本番に移るので、ダレるタイミングすらない!
こんなにグングン成長していく様子が、読んでて気持ち良くないわけがない!
ここの展開の速さが、このマンガにぐいぐい引き込まれる最大の要因だと思っている
ここまで読むと、王道バトル物をスピーディな展開で飽きさせないだけなのかな、って感じたかもしれない
当然それだけじゃないんだわ
ちょっと専門的になるけど、ここを書きたかったからこの増田を書いているので頑張ってついてきてね
このマンガの最大の魅力は「劇中劇」がふんだんに盛り込まれながらストーリー展開するところだ
「劇中劇」とはなにかというと、「作中作」とか「物語中物語」とかいわれるように、お話の中にさらにお話が入れ子になっている構造を指す
「あかね噺」という物語の中で「饅頭怖い」という落語が語られれば、それは物語の中の物語なわけだ
で、その劇中劇がなんだってんだよ、と思うだろうけど、劇中劇で語られる物語が、外枠の物語とリンクすることで、物語中で語られない意味合いを伏線として提示することもできたり、外枠の物語で登場人物が感じていることを劇中劇の人物がリンクすることで強調したりすることもできる
つまり劇中劇を上手に使えば、本編で深く語らない内容を読者に伝えることができるようになる
「あかね噺」は落語マンガなので当然、物語中に落語を演じる場面が多く出てくる
もちろん知らない人のために、最低限の演目の内容紹介はある
さらっと読むにはそれでじゅうぶん足りているし引っかかりもない
しかし、この劇中劇である落語が分かると、めちゃくちゃマンガの解像度が増すんだ
読者もyoutubeなどで探せばどの落語も全編視聴することができるし、その演目の見せ場や意味も読者はネットで調べて知ることができる
ぜひ、一度マンガを読んだ後、時間がある時に扱われている落語を視聴してもらいたい
そしてもう一度マンガを読んで欲しい
例えば冒頭の場面、あかねの父、志ん太が寄席で演じて、さらに帰宅後にも練習する演目は「大工調べ」という落語だ
これは経済的に貧しくて家賃を滞納した人物が、大家に商売道具である大工道具を取り上げられ、大工の棟梁と一緒に大家に道具を返してくれるよう交渉するという話だ
これは、落語でほとんど稼げない志ん太そのものの立場と重なっているし、商売道具を取り上げられてしまう未来を暗示しているとも読める
(その後最終的には奉行所までいって道具は取り戻すストーリーなので、最終回では大工の棟梁=あかねが父の落語を取り戻す、つまり父の落語(のもっと上の師匠の落語?)を継承するエンドの暗示かもしれない)
日々真面目に働かない亭主がある日、浜で大金を拾ってきて、大酒飲んで寝てしまったので、妻が大金を拾ったのは夢だということにして金を隠し、亭主が真面目に働くように訴える
その日から更生し、財を成したある日、あの時は夢ではなく妻がお金を隠して亭主を騙したことを告白し謝るが、亭主はお前のおかげで身を立て直せたのだと感謝する
そんな人情話だ
これがなかなかすごい
志ん太は芝浜の亭主とは逆で本当にまじめで、家族のために昇進したいと、真面目に芸に取り組んだ試験だったのに、その挑戦は夢と散るという、芝浜のストーリーとは逆の構造を見出せすことができる
しかし、経済的な意味では芝浜と同じで、落語なんて食えないことをやってたのが、夢から覚めてサラリーマンになって稼ぎが増えた、とも言える
この場面の志ん太と、芝浜の対比を考えるだけでいくらでも飲めそうな話になっている
これはこんな話
みんなが何かしら怖いものがあるだろう、と言いあってた時、何も怖いものなんかないと言い張る男がいたので、さらに追及すると、本当はまんじゅうが怖いと言い出した
そして寝込んでしまったので、もっとからかってやろうとみんなでまんじゅうを買い集めて、男の枕元に並べた
起きた男は、怖いーとおびえるふりをしながら美味しくまんじゅうを食べてしまった
怖い怖いと言ったらみんながまんじゅう持ってくるだろうと思っただけで、本当はまんじゅう大好きだった、という話
つまり、怖いものなしの無敵感満載の男が躍動する滑稽話なんだけど、これをあかねが初舞台で堂々とやるわけさ
いやもう、これで終わらずずっとこの調子で色んな落語が出てくる
マンガ読む→落語見る→漫画読み直す→落語見直す→また漫画読み直す、ってサイクルをずっとできる
紙で欲しいね、これは
あとはですね
「三方一両損」って落語があるんだけど、あれ、序盤の掛け合いは面白いんだけど、後半のお奉行様が出てくるところは別に面白くないのよ
それがこのマンガで、真面目過ぎると面白い、みたいに書かれてて、ああ、確かに、そう見ればそうかも、ってなった
おかげでイマイチわかってない落語についてもちょっとわかった気がする
マンガから落語、落語からマンガ、どちらも理解度が増すってめっちゃ得だよね
もう少し魅力を語るならば、落語ってひとりの人物が複数のキャラクターを演じ分ける形態だけど、落語の語りを声色も何もないマンガで見せるわけなので、表情の描き分けなんかも面白い
絵の技術、というか、マンガの技術もしっかりある人じゃないと、このマンガは面白く描けなかっただろうなってのはちょっと思います
作画の馬上鷹将先生、ありがとうございます!
まあそんなわけだ
読んでみて
○ご飯
○調子
○ GOODBYE WORLD
バイトで生計を立てながらゲーム制作に勤しむカニちゃんとクマちゃんの女の子二人の物語。
シェダーのかかった雰囲気のあるドット絵のアドベンチャーパートと、その中でカニちゃんがプレイしているゲームという設定のゲームボーイライクなパズルゲームパートが交互に挟まる構成。
ゲーム制作の行く末が、過去をカットバックしながら描かれていく。
二人が何を思い何を感じたのかは、文章だけでなく、ドット絵の演技でも雄弁に語られるのが面白い。
誇張表現はあえて抑え目になっていて、リアルな演劇のような芝居が実にゲーム全体のリアリティのある雰囲気とマッチしている。
それこそ、演劇としてスピンオフが発表されても違和感がないし、そういうのが好きな人にもハマりそうな出来栄え。
そして何よりこのゲームの独自感が出るのが、たびたび挟まるパズルゲームパート。
このゲームがナニモノで、ナニを示唆しているのかを言語化するのが勿体無く感じるぐらい、色々なことを表現している。
シンプルなゲームボーイライクなゲームで内側には何もないのだけれど、外側にある物語によって何かを勝手に読者が解釈するというスタイルはまさに宣伝文句の「ナラティブアドベンチャー」らしい構成だ。
短い作品だからこそシメがバッチリシマっていないといけないわけだけど、これはもう完璧のペキのペキ。
たった1〜2時間ほどのゲームだったからこそ、彼女達と別れたくない、もっと彼女たちを見ていたいと思わせられる素晴らしいエンディングだった。
○ご飯
朝:なし。昼:天ざる。間食:アイスコーヒー。サンドイッチ。夜:うな重。
○調子
むきゅーはややー。お仕事は、サボっテン。
せっかくのサボっテンなので贅沢を尽くした。
読書もして満足。
ゼノコキュ琴とゼノウォフ剣を五凸。
EXスキル掘りは気が向いたらやる。(ゼノウォフゴリラ編成では普通に使いそうなんだけどゴリラもないしまあいいかなあ
「解くべき謎を提示していない」点は、作品の構造上仕方ないのかもしれないけど、そこを乗り越えてくれとも思った。
ハウダニットは明らかに前振りに過ぎないと解っちゃったので、こっちとしては早々と見切りを付けてるのに長々と解く件はちょっとうんざり。
フーダニットも流石にこんだけキャラが退場している以上、消去法でなんとかなっちゃうのでうーむ。
青春要素も取ってつけたような裏切りと終始ギスギスしてるせいで、イマイチ乗り切れず。
けど、本格好きとしては、作中作! 連続殺人! 見立て! 密室! 暗号! とコードいっぱいで大満足なのも事実。
ミステリはコードじゃない論? いやこの作品は1990年刊行だからコードだけで十分なのだが?(史を踏まえて作品を評価する相対的読書力を持った素晴らしい読者の鑑感想ブコメなのだが?(相対的読書力とは?
・少なくとも、スマホの主観視点になっていないシーンは編集済み=虚構。ほかのシーンについては解釈の余地あり
・どこが虚構でどこが現実かについては作者にとって重要ではない。重要なのは読者が気持ちよく思い出を残すこと。
・爆発オチや、思いつきそうな感想を先回りして潰して大量に予防線を張ることで、まじめに言及したら負けのような状態を作っている。多少の言い訳なら鼻につくところだが、やりすぎることによって逆に面白くなっている。
■本作は五重構造になっている
②を映画にして上映したが、盛大に失敗。謎の女と共にリベンジで映画作る主人公
あとは無数の映画のオマージュ、それから作者の過去作や実体験も重なってくる。
身もふたもないことを言ってしまえばすべて虚構。なぜなら最後の爆破オチは現実ではありえないから。また、マンガなんだから全部虚構だろともいえる。ただ、それだと何も言っていないのと同じなので、作中世界で起こった事実を基に編集によって脚色されている、と捉える。じゃあどこが事実でどこが脚色なのか?これは作中でわかりやすく表現されている、主観/俯瞰視点と、手ブレ表現を手掛かりにする。この二つを抑えておけば切り分けできる。
■①
最初は主観視点でスマホ撮影している。全体を通してだが、移動シーンやシーンの切り替えの際は、いちいち手ブレ表現を入れている。このへんはいわゆるドキュメンタリー映画の王道表現なだがマンガでこれをやって読者に伝わるのか?
18P、主観視点になっていない=スマホで撮っていないので編集シーン。ここテストに出ます。
P19、雑な爆発シーンは後付けであることが容易にわかるのだが、P18の構図には映像を取っているはずの主人公が映っている→誰が撮影している?→後撮り。さらに、P123において優太は車から出ていないことが示されており、そうするとP16からすでに父親が演技していることまで疑えてしまう。
■②
P21の俯瞰視点、これは何をどうやっても後撮りでないと撮影できない。P23も怪しい。P27はスマホで隠し撮りしているとすれば後撮りでなくても可能。そして最初の作品批評がここ。読者の思ったことをわざわざ言語化してくれているのが、逆にこの作品の非常に批評しづらいところ(どういう感想をつぶやこうとしても、作品内で先取りされてしまう)、そのまま引用。
★"母親の死を冒とく"”あんな映像流して母親に申し訳ないと思わないのか”そして極めつけの"ラストなんで爆発させた?"
続いて自殺シーン。P32のメメントモリ、は死を思え、という慣用句だが映画の文脈では映画メメントを思い出させる。いっそメメントみたいに時系列シャッフルすればよかったのに、と思うところだが、実は時系列が編集によって巧みにシャッフルされているという捉え方もできる。実際にリアルタイムでスマホで撮った映像と、後撮りした映像がシームレスに混ざっているが、普通にマンガを読んだだけでは気づかないようになっている。もちろん全部後撮りの可能性もあるが、それだと考察のしようがないので手ブレしてるところは本物と考える。
P39、作中で言及されている通り本来は眼鏡かけてて矯正もしているので、A.めちゃくちゃ頑張って撮りためた映像をソフトで編集した、B.わざわざ撮影のために演技して撮り直した、C.完全なる創作かの三択となる。中学生の技術力を考えるとBかC。
P45、プロジェクターの真ん前にカメラを置いているから、完全に後撮り。ちなみにここで映っているのは映画ファイトクラブ。ファイトクラブは、本作のどこまでが現実で空想かわからないというネタ元の一つになっている。話がそれるが、ファイトクラブといえば選挙演説で有名な外山恒一の批評が異様に完成度が高く、未視聴でも必読。ほかにもメタ構造のネタでヒットしたカメラを止めるな!も思い浮かぶ。あとニューシネマパラダイスとか、そもそも本作のタイトルとページ数の元ネタであるぼくのエリ 200歳の少女など、挙げればきりがないと思うし俺なんかより作者の方が100倍くらい映画をみてそうなんでネタ元を挙げ切るのは不可能だが、個人的にはこのへんの映画を思い出した。
★P52、作品批評"どこまでが事実でどこまでが創作かわからない"。
P63、二人はしばらくずっと映画見ているが、ここもプロジェクター視点になってる。ちなみに、このひたすら映画を見て感想言う特訓だが、これは作者自身が過去に編集と似たようなやりとりしてたことを過去のインタビューで語っていた。
★P79にて、これも一応作品批評になるのか、一見意味不明な爆発シーンを入れた動機が主人公の口から言語化されている。
★P82で、作品のテーマである"ファンタジーをひとつまみ"=吸血鬼と爆発要素。
P84で、①のネタばらし。実は母親の嫌なところは編集でバッサリカットされていることが判明し、作中描写に編集のウソが混ざっていることが明示される。
★P86にて自己分析という体で、①を批評している。"主人公の抱えている問題は…多分…映画をバカにされた事じゃなくて…母親の死を撮らなかったこと"そして、吸血鬼が死ぬシーンの説明。
P87で絵梨が意味深に沈黙しているシーン、ここで彼女の死期が近いことが偶然にも主人公の提案したプロットと被ってしまい、その動揺を表すために意図的に同じコマが挿入されている。動揺しているからこそ表情が動かないというのは逆説的だが、P85の喜怒哀楽表現との対比により、余計に目立つ。P85~86も過去回想シーンのため、編集。
P90~P93もそう。意図的に沈黙を配置することで画面に緊張感を作っている。さっきの彼女の沈黙と比べるとわかりやすい。こういう間を作る表現は、週刊連載のページ数に囚われないからこそやりやすい表現で、電子掲載の特性が生かされていて良い。
★P93~の父親の名演技。これも作品批評になっている。"自分が面白いと思って作った作品が馬鹿にされオモチャにされたらまともじゃいられないんだ"。
前のルックバックに対する批判を思い出す。ちなみに作者の自伝的要素としては思い当たるふしがもうひとつあって、チェーンソーマンの前作ファイアパンチでも作中のある印象的なコマが切り取られて海外(主に4chanの/a/)でネットミームというおもちゃになっている。"kino meme"で検索したらたくさん出てくる。
P97、この父親の怒りすらも演技という体。父親に作品批評をそのまま言わせてしまうのとわかりやすすぎだが、あえてそれを"演技ですよ、本当はそんなこと思っていませんよ"と自虐的にネタにしてアピールすることで、ネタにマジレスを防ぐと同時に、この作品のテーマの一つである虚構と現実の境目がわからない状態を作り出していて一石二鳥となっている。
★P99、ここで批評をもう一発かましてくる。"創作って受け手が抱えている問題に踏み込んで笑わせたり泣かせたりするモンでしょ?作り手も傷つかないとフェアじゃないよね"
ここは非常に巧妙で、さっきの作品批評がわざとらしい感じだが対比してこっちは本音を語っているように見える。傷つきはするけどしょうがないよね、そしてなにより、創作ってのは受け手も傷ついてなんぼのもんだろ、という主張を相当オブラートに包んで発言している。
P100、"今のセリフいいでしょ?"とこの本音を語っているように見せた発言すらメタってしまう。これすら本音ではないと言っており、さすがに照れ隠しじゃねーのと思うが予防線になっている。
P108。最初の出会いが病院なわけで、何らかの病気であることは元々暗示されていたが、ここで絵梨が倒れこみ、病気の存在が劇的な形で示される。手ブレにより躍動感が表現されていて気持ちがよいがこれ伝わるのか?(2度目)。
P109、病院では一切手ブレがなく動と静の対比。P117、①のような素人臭い動きの画面が続き、主人公の動揺する心理が表れている。この漫画ほぼモノローグがない代わりに、マンガなのにもかかわらずこういうカメラワークでの映画的表現をうまく使って心情を表現していて、作者はやはり天才か?となる。
P122、お母さんの性格の悪さが開示され、①はかなり編集が入っていたと判明する。ただし、嘘だったとしても、思い出を美化するのはいいことだと主張している。
★P130、作品批評。"優太はどんな風に思い出すか、自分で決める力があるんだよ それって実は凄い事なんだ みんながどういう風に絵梨ちゃんを思い出すのか 絵梨ちゃんは優太に決めてほしかったんじゃないかな……"
ここは今までと違って、一切茶化していない。編集により現実が捻じ曲げられる恐ろしさというネガティブな側面を前もって提示しておきながら、でも思い出を美化するのもいいよね、と肯定する流れ。否定的にしたいなら順序を逆にすればいいだけなので、これは割と「作者がほんとうに伝えたかった事」としてとらえていいんじゃないかな?と思う。
P131、編集シーンが入ることで、②もまた生の現実ではなく、美化された思い出、編集された虚構ということが暗示される。
■③
P151にて場面転換。
P155、本来の絵梨は矯正している、眼鏡をかけていることが明らかになり、②のネタばらし。P130~132に対するわかりやすい答え合わせになっている。
P164、ここから主人公のモノローグ。終盤の展開がモノローグではしょられるの、低予算あるあるで笑える。本筋じゃないし時間内の200Pに収まらないからカットされたのかもしれない。そうなると、ディレクターズカット版の単行本では未公開映像が流れるのかな?
P167、低予算映画あるあるの、父親役と本人役が一人二役なんじゃないのかという考察を見たが、見た目違うとはいえ割とありそう。
■④
P177、ここにきて見開きばーん。P151以来のタメがあるのでとても気持ちが良い。①~④の間の場面転換すべてに共通して、見開きが挿入されたタイミングで、作中作→現実へメタ構造が切り替わる仕組みになっている。そして、さんざん言ったように主観視点になっていないので、これはすべて後撮り。よって吸血鬼は実在しない。Q.E.D. あとこれ面白いのが、絵梨がメガネしてないし矯正もしてないところ。この吸血鬼は映画の美化された絵梨を真似しているため、見た目も現実ではなく映画準拠になっている。
★P180、"そうかっ 夢か…… それか僕のイカれた幻覚で…"とわざわざ口に出して言う。
映画のタイトルだけ羅列してもわかりにくいので、夢か現実かわからない状況を読者向けに解説する。あとシックスセンス、定番のネタバレなんでしょうがないけど笑うわこんなん。
★P181、作品批評。"恋人が死んで終わる映画って在り来りだから後半に飛躍がほしいかな… ファンタジーがひとつまみ足りないんじゃない?"
恋人が死んで終わる映画って在り来りだよねーという批判が飛んでくることがわかっていて予防線を張っており、後半の飛躍をまさに今行っている最中なので、言うまでもなく非常にメタい。
★P191、最期の作品批評、"見る度に貴方に会える… 私が何度貴方を忘れても 何度でもまた思い出す それって素敵な事じゃない?"
作中の元になった出来事が忘れられても、作者が死んだとしても、作品が残れば思い出は受け継がれていく。たとえそれが美化され、脚色され、編集されたものだったとしても。つまり、映画の内容がどこまで虚構でどこまで現実かはどうでもよく、受け取る観客がいい思い出を残してもらうことが大事、という壮大なちゃぶ台返し。最後の爆破オチで壮大に茶化されているとしても、作者の伝えたい主張にウソはないだろう。
P199、ここは皆さん一番好きな映画の爆発を思い浮かべながら。予防線をあまりにも張り巡らしているせいで作品が予防線の塊になっており、最後に爆発オチを持ってきてすべては創作だと主張することで、主客転倒が完成。終幕。
すべては爆発のための前振りととらえることもできなくはないが、ルックバックで思ってもなかった方向からダメージ食らったので、思いつく限りの主張を先回りしてそれ自体を作品にしてやろうというところなのではないか。脚本作る労力を考えると本当に頭が下がる。
タイトルからして普通にイングランド王のメアリー1世とエリザベス1世の映画かと思っていたけれど違ったのか
エリザベスはエリザベス1世でいいけれどメアリーはメアリー・スチュアートの方らしい。
あと、ガラスの仮面の作中作の『二人の王女』のオリゲルドとアルディスのモデルもやっぱりメアリー1世とエリザベス1世なのかと思っていたんだけど
どうやらメアリー・スチュアートの方らしい…?えー?こっちのメアリーとは別に姉妹でもないし違和感あるなあ。
エリザベス1世と対比させる『メアリー』なら普通にメアリー1世の方でよくないだろうか?
二人とも男児に執着する父王のせいで庶子に落とされ母を失い艱難辛苦を舐め
最後には政敵だった相手を後継者に指名する似たような行動を取っているし
よくある異母姉妹の対立を超えて祖国の命運そのものを案じる大局的な視点を持っていたところが似ていたんだって思う
そこを行くとメアリー・スチュアートってぽっと出てすぐ処刑されたし行動も場当たり的で思慮分別に欠けるとしか思えないし正直そこまで重要な人物に思えない
ヒット作を出した漫画家が次作以降に(特撮・アメコミ系)ヒーローものを書くことを無理やりこじつける。
1.春場ねぎ
五つ子ラブコメから一転スーツヒーロー5人組みの新連載は当時衝撃という名の落胆を覚えた。おもにおっぱい的方面で。
2.島本和彦
この人はまあ…「月刊ヒーローズ」というそのまんまの雑誌から出た漫画。ということで選出。
厳密にはヒーローものではないが敵が身分を隠すために作中作の戦隊スーツを借用し、結果として敵味方ともに「メトロポリマン」(を着た能力者)として長く紙面を占めることに。
4.光永康則
多作家なので勇者ものなども平行しているが、長きにわたった怪物王女シリーズ終了から約2ヶ月後に新連載原作として登場した。休む気ないんか?
5.平本アキラ
Lawとかけた法廷物かと思いきや超能力を持つ怪人とヒーローの物語…なあらすじなのだが…中身は平本アキラ。
6.田辺イエロウ
ガッチャマンやパーマンを彷彿とさせる鳥モチーフの翼人化物語。中学生のクラブ的救世ジュブナイルモノとみせかけ風呂敷が広がり世界規模のSFの様相を呈して投げっぱなした鳥どころかぐだぐだぐでたまだった作品。ごめん私怨あり。初期にヒーローものと勘違いしただけだ。
7.大井昌和
おくさん, ちぃちゃんのおしながき → ヒーローガール×ヒーラーボーイ〜TOUCH or DEATH〜
長期連載を抱える作者の新作はやはりヒーロー。光永康則と同じくいのまるとのタッグ作があるのも共通点。
8.冨樫義博
冨樫らしくストレートな作品ではないが小学生が「原色戦隊カラーレンジャー」として活躍する話が2編収録。ゲーム色のほうが強いか。
鈴木先生終了後同じく学校ものや原作つきをいくつか出した後、万を期した新作がまさかのハニワ。ライダーシリーズを下敷きとしつつも濃密な武富ワールドが展開される。あえなく打ち切りとなったが、一連の経緯を説明したTwitterの固定ツイートから読める
(前略)
温情の結果なのです。
漫画アクションにおける前作の「鈴木先生」の時の信用貯金もあったでしょうが、双葉社内部(上部)で、「とても面白い」「思うままに描かせれば、大きな良い作品に育ち、ヒットするだろう」という長い目で見た強い期待を寄せて下さっていたからだと聞いています。
はサムライ8につらなるヒット作後の異色作について考えさせられるものがある。その一部がヒーローものにあるのではないかというのがこの記事の本旨の一端だ。
番外編.ながいけん
前作がヒットと呼んでいいのか、次作がヒーローものと呼んでいいのか…どちらも強い疑念が残るものの、その迷走とも取られかれない異常な作風にヒーロー要素がガッツリ注入されていることは確かなはずだ。デビュー作で終わらない漫画家の一種の到達点を予感させる作品。
ヒーローものは常に一定以上の需要があり続け、漫画内外を含め昔も今も大量の作品が登場し大ヒットからあっさり打ち切りまでと、とてもジャンルの栄枯盛衰を語れるものではない。それでも近年、あの作者が!?と驚くような人がヒーローを題材に新連載を興すことが散見された。散見と言っても無理やりひねり出して10作も出せないのだが、数人でもそのインパクトから記憶によく残ってしまったのだ。
彼らがなぜヒーローに手を出すのか。映画アベンジャーズシリーズなどの成功で一般にもジャンルが浸透した、などと言うのは簡単だ。超能力などがないリアル寄り人間ドラマや暗い作風から激しいアクションに行きたい、ともこじつけられるだろう。それともやはりヒット作家共通の何かがあるのだろうか。
当然私はヒット作家どころか漫画家ですらないので真相はわからない。ただひとついえることは、私はあまり異型やテカテカスーツやフルフェイスに燃え・萌えすることができないということだ。
数年前はシンプルなロリの自慰行為エロ漫画だった気がするんだけど、徐々にロリレズ自慰になっていった。(うめっこ堂の表現で言うところの「絶頂」は自慰行為で得て、攻めのロリはオナサポ)
その後、ロリだけじゃなく、肉体的にはかなり成熟しており「おねえさん」と呼ばれる女性(言動などはこどもっぽく年齢不詳の観はある)が登場するようになり、「絶頂」も攻めである他人が直接的に与えるものに変化。
手マンが出たときも驚いたが、直近ではクンニ描写まで入ってきて、隔世の感があるなと思った。
まだ性的なことを知らない幼女が偶然自慰の味を占める…みたいな話の展開だったその昔は、登場人物の幼女は「絶頂」のことを「なっちゃう」と表現してたんだけど、最近では普通に「イく」って言ってるし。
購読者に飽きられないようにということなんだと思うが、このままエロ描写が進んでゆくとどうなんるんだろう。
以前、作中作(ロリが偶然エロ漫画を読んでオカズのある自慰に目覚めるっっていう話)で、拘束されてじらされるような描写があったので、ひとまずそっち方向に行くとして、その次はもう玩具等、なにがしを膣に挿入する、果ては異性の登場になってくるしかなくなさそうなんだけど、それって単独のロリ自慰漫画とか読んでた作者のファンのツボにはまるんだろうか?
「もともと二次創作BLヘイターのオレ様が、あるあるネタ(とそれが世に受容されてるの)を見てさらにヘイトを強めたぜい!」
って話じゃん。
ツイにもはてブにも共感者が多いってことは、あるあるネタとして優秀で
実在する「二次創作BLとその消費現場」にかなり迫ってるんでしょ?
増田「オレの嫌いな、実在する『二次創作BLとその消費現場』をメタネタで追認する一般ギャグ漫画が表でウケてやがる・・・やっぱこいつら全員クソ」
に対して
「フィクションと現実の区別がついてない」「創作見て認識を改めてる」
はツッコミとしてズレてるでしょ。あるある描写された現実だけキレイにピックしてるし認識を改めてもないし。
例えば「裏で援交してる女キャラあるある」「チャラ男に寝取られてる女キャラあるある」
で一喜一憂するエロ同人オタ霊&霊媒師が今回の漫画のモチーフだとして
「オレの嫌いな、実在する『エロ同人の原作改変とその消費現場』をメタネタで追認する一般ギャグ漫画が表でウケてる・・・やっぱこいつら全員クソ」
に対して
「フィクションと現実の区別がついてない」「創作見て認識を改めてる」
考えてもよくわからないんだけど
「小道具が架空の作中作だから、漫才じゃなくて絵だから、増田くんにはこの作品を嫌わないでほしい」
ってことが言いたいの・・・?
あー!あれか!いわゆる表現の自由戦士に何か言ってやりたくて屁が出ちゃったみたいな感じか!
と思った。
あの漫画自体はテンポよく読めて笑いもありそして腐女子という生態をよく描いているなとは思う。
それは差し置いて、やっぱ二次創作BLってクソじゃね?というのがまず出てきた感想だ。
そもそも作中でも出版社に電話するな!とあまり大っぴらに公言出来ない趣味なのは承知しているみたいだし
若干タブーだと分かっておきながらどうしても妄想は止まらないと言いたいんだろうけれど
そもそも人様の作品の男性キャラを勝手に同性愛者にして他の同性キャラとくっつけて楽しむのがさっぱり理解できない。
受け攻め議論があったけれどそもそもまずは原作にない設定を強引に引っ張ってきて同性愛者にする方が問題視するべきじゃないか?
しかも一次創作となった作品は学ランを着ている事だし中学生か高校生だとしてその未成年同士をゲイにしてその絡みを見るわけだろ?
原作読め!という見開きを使ってまでなんか決まった台詞を吐いたけれどむしろ原作を冒涜してねぇか?
言っとくが俺はBLそのものに嫌悪を抱いているわけじゃない。オリジナル作品としてのBLなら俺もたまに読むこともあるからだ。
しかし二次創作はどうしても擁護できないし、そしてこの作品に対する反応もヒスバンだね!いいやバンヒスだね!と頭空っぽにして面白がってるようなのばかり。
いや、この作中作自体がもうオリジナルだから正確には二次創作でもないけれど似たような事例がそこら辺に起きているわけだろ?
逆カップリングは認めないとか同担拒否とか検索除けで謎の造語で会話してたりとか、もしそこでターゲットにされてしまったら開かれる学級会と言う名の公開処刑。
正直言っていいのか?何もかも気持ち悪い。しかも二次創作の方を読みすぎてて原作だっけ?二次創作だっけ?とあるあるネタになってるのも馬鹿馬鹿しい。
こいつらは原作への愛だとかそんなものはなくてCPするのになんか良い餌がないのかなと群がっているにすぎない。その汚らわしい手で原作に触れないでほしい。
そしてそれを面白がって反応している周囲も同罪だ。お前らが乗っかった事で腐女子共がこの文化は許されてるんだ!と勘違いして増大してるだろうが。
これはあまり人気がないカイジ和也編の作中作だ。金に飽きた和也が書いた小説という設定になってる。
話はこんな感じ。
暴力団組長がキャバクラの嬢に惚れて5千万円で囲おうとするが、嬢はクラブのボーイと金を持ってとんずら。
ゲームの内容は
・お互い磔にされて、体に剣が刺さる穴が7箇所空いた箱に入れられる
・穴が空いてるのは右胸、胸の真ん中、左胸、左腹、右腹、左太もも、右太ももの7箇所
・合計2人合わせて14箇所、その9箇所には鉄板が入れられていて、そこは剣が刺さらない
・お互い順番にどこに剣を刺すかをコールして、が9本の剣を刺し終われば帰れる
とはいえ胸は死ぬので、足とお腹で傷ついて帰るのが現実的なやり方。
相手の穴をコールしてもいいから、最初は「俺が君を守る!」とか言って男が女に自分の穴をコールさせるんだけど、実際に刺されていくとそんな余裕がなくなってくる。
まずは男の足に直撃する。
それでも女は男の番号をコール。
これに驚いた男はお前の足から行けよと言うのだが、女は水着が着れなくなるとかなんとか言い出して醜く揉め始める。
当然男も次から女の番号をコールしはじめ、女の足にも剣が刺さる。
ここからはお互い傷付き余裕がなくなり、より醜いことになっていく。
ここで女が組長に質問。
「死んだ相手の穴に刺してもいいんですか?」
それは許されてる。
女は男の胸をコール。しかも「2ターン一気に使わせてください!」と言って2本同時刺し。
男の胸には鉄板がなく直撃。
女は喜ぶが男には微かに息がある。
2人とも死んで終わりというなんの救いもない物語。
胸糞すぎるけど合計何回読んだかわからないぐらい繰り返し定期的に読んでる。福本作品で一番好きかも。
実際にこんなキチガイはいないけど、もしこういう状況になったらこうなるだろうなというのがリアルに描かれてるのが好き。
もちろんこれを持って愛なんて存在しないなんてことにはならないが、お互いのためにとか守るとか軽々しく使われる言葉の欺瞞性を上手く表現してると思う。
隠す意味ないから最初に言うけどジャンプでやってる「ぼくたちは勉強ができない(以下ぼく勉)」の「武元うるか」ね。
ぼく勉がどういう漫画かっていうといわゆるハーレムラブコメで、唯我成幸という主人公と周りの美少女が勉強を通して仲良くなってく話。
うるかがどういうキャラクターかっていうと中学校の頃からずっと主人公のことが好きでいっつも元気だけど恋愛には奥手なタイプ。まあいわゆる幼馴染枠で、よく敗北ヒロインって言われるタイプの子。
この子もご多分に漏れず敗北者扱いされて、なんかある度ネットで敗北者敗北者言ってネタにされたわけよ。
まあネットでネタにされたところで気にするようなことでもないし、ラブコメで好きになるようなタイプの子は大体振られちゃってるし、まあ髪型褒められて泣き笑いしてるところが最高に可愛かったからこの子を応援していこうくらいの気持ちで読んでたわけ。
そんでまあ紆余曲折あったけど、成幸に好かれようと色々努力してきた、そんな彼女が長年の恋を成就させたわけよ。まあ喜んだよ。嬉しかったよ。大好きなタイプのキャラクターで、絶対無理だろうなって思ってて、でも3年間見守ってきたんだから。
センター試験で怪我した成幸を助ける話とか、バレンタインで5年間伝わっていなかった気持ちが全部伝わったところとかいい話もあって良かったよ。そりゃもうこの上なく幸せだったよ。
まあその次の週にパラレルストーリーやります!!全ヒロインのルート描きます!!って発表されたけど。
は? ってなったし日和ってんなとは思ったけど、まあ作品自体も好きだしとりあえず読もうかくらいの気持ちではいたよ。
うるかの最終回で最後の余韻を台無しにされてサプライズの前座扱いされたことはまあ不愉快だったけど、まあ落ち着いたから読んでみようかくらいの気持ちではいたよ。
それでまあ始まった理珠ルート。うるかのときは成幸が悩む話がほとんどであまりコメディ色がなかったから、この感じも久々だなと思ってそれなりに楽しんで読んでたよ。で、個別ルート最後の9話目の最終ページがこれだよ。
ところでぼく勉、うどん編ラストが普通にイベントスチル一枚絵だったせいで、花火アップで終わったうるかの悲惨さが増してるの、面白すぎる pic.twitter.com/gVKILw2MSs— タイツマン (@TAICHUMAN) May 25, 2020
……まあ。まあまあ。まあまあまあ。あ、この演出うるかだけなんだなとわかったときに怒らなかったかどうかといえばキレたけど。だからってまあ作者がうるかが嫌いだとかそこまでは思わなかったよ。
最終ページを擁護できる余地は欠片もないけど、それでもまあ読んできた話を全て台無しにするほどではないからまあさすがにそこまでは思わなかったよ。
うるか、やっぱ共通ルートやんけ!!! pic.twitter.com/FlYtCyzZiC— タイツマン (@TAICHUMAN) July 29, 2020
追記終わり
次に始まったのが文乃ルートね。
うるかのイベントに重ねるようにセンター試験では成幸をかばって文乃が代わりに怪我をして、バレンタインではうるかが同じチョコを渡しても成幸は5年間渡されていたチョコが誰からのものか気づかず、うるかが告白しても迷うことなく即振られる。
………………………………………………うん。
一応言っとくと公式自体もうるかと対比させてパラレルストーリーの解説作ってるからわざわざ重ねてんのは間違いない。あとうるかのチョコが気づかれなかった理由も描かれてるのはわかってる。
ぼく勉って各ヒロインに長編回というナンバリングがついてる回があって、そこで過去にあった不幸な出来事を振り返ってそのトラウマを主人公が手助けして乗り越えさせるみたいな構成してるんだ。
それでじゃあうるかがいつ長編やったかっていうとやってねえの。一人だけやってねえの。
一応過去振り返ったと言えなくもないのが最後の個別の9話でやった成幸が中学時代を振り返ってうるかに助けられたことを思い返すとこだよ。他のヒロインは長編と別に個別ルートで9話やんのにうるかは個別しかないの。もしくは最後の9話でまとめられてんの。
んで長編なかったけどセンターとかバレンタインとかが一応うるかがメインだからそれが代わりなんじゃないかって言われてたのね。それ踏み台にされてんの。バカにしてんのか?
別にルートが違うんだから単に同じイベントやるくらいならどうとも思わねえよ? これで例えば文乃がなんか好かれようと行動してたんならいいよ別に。うるかのときに他のヒロインにも告白させてたらそれでも何も言わねえよ。
でも文乃は怪我して以降好かれるまで何もしてねえの。受験直前の大事な時期だけど怪我したら好きな人が毎日家に通って介護してくれて、バレンタインのチョコ渡せなくって川に捨てようとしたら風に流されてほんとに落ちたところを好きな人が拾ってくれて、特に自分から何もしなかったけど一緒にいる間にいつの間にか好きになってくれて、「成幸くんがいいんだよ」の一言で惚れられましたって。
これだけうるかとイベント重ねといて、好かれようと色々努力してたうるかより何もしてない文乃を好きになりました、うるかに告白されても一瞬も迷わず振りました、好きになった理由はただ一緒にいたからですってまあ素敵なお話ですね。うるかの努力を何だと思ってんだ。
これで好きになるんならうるかのときでも文乃が告白してりゃそっち選ぶんだろ? 同じように努力してるうるかを秒で振って、何もしてない文乃を好きになってんだから。読んできた話自体も台無しされたらさすがにキレるわ。
まあここまでやられるといっくらバカでも察するよね。ここまでやらないと気がすまないのってくらいやられるとさすがに理解するよね。ありとあらゆる面でうるかを蔑ろにしやがるんだからまあそういうことなんだとわかるよね。
話戻すけど最終回ほんっっっっっっっっっっっっっっとうにクソだったからな。
留学から久々に帰ってきたうるかのために歓迎会開く話なんだけど、うるかが遅刻してくるから他のヒロインと話すの。その流れでヒロインたちは酔った勢いで成幸に胸押し付けたりそれに嫉妬してくっついたりしてんの。彼女いるのに。これから彼女来るのに。怖っ。最終回の半分以上がこれ。
そんでまあ案の定うるかがそれ見て嫉妬して成幸がプロポーズして、上にある最終ページで花火に焦点当てて1/5ドーン! 煽り文で「キミの笑顔のその先に--」。
意味分かんないと思うから説明するけどこの漫画って文化祭の花火が上がったときに手を繋いでる相手と恋人になる設定なのね。そんで別々の5人と手を繋いでましたって感じで分岐させてるの。
つまり花火は他のヒロインの象徴なの。キミの笑顔の先に他のヒロインの象徴である花火があるの。
武元うるかの話の締めくくりでこいつの話は終わったからさっさと次に行こうってわざわざ描いてんの。欠片でも愛情があったら描けねーよこれ。どんな顔して描いたんだよ。
この最低最悪の締めをしたあとに、サプライズでパラレルストーリーやりますって余韻すらぶち壊しの発表だぜ。悪意しか感じねえわ。
当たり前だけどその後の理珠ルートだと最終回はちゃんと付き合った後のカップルの様子描いて最後は成幸と理珠の幸せそうな顔で締めてるからね。最低限とすら言えない当然の前提のレベルだからあえて言うまでもないはずなんだけど。
最終ページの前に何か描いてんじゃないのって言われそうだから先に言うけど描いてねえからな。せいぜい描いてんの花火バックにした引き絵だから。大して表情も見えねえやつ。描きたくなかったんだろうな。
5人分のエンド描きます! どれが本当の結末かは読者が決めてねとか言ってるけどどう見たってうるかに一番損させてんだろ。どの面下げてほざいてんだ。
最終回をサプライズのだしにする。最終ページをうるかのためでなく他のヒロインのために使う。他ヒロインのルートでうるかのイベントを踏み台にする。
別にネットでネタにされてようがアンチが何言おうが他人の物差しなどクソくらえって感じで大して気にならないけど、作者がここまで嫌ってると思うとさすがに応えるよね。描いてるのこいつだもん。どうせまたなんかネットで言われたらてめえの言い訳を都合よくキャラに言わせるんでしょ?
パラレルストーリーとかやってる人間が一番被害受けてる子に、振られたルートで「失恋ごときで不幸にさせるな」って言わせるのマジでどんな邪悪さしてんの。性格悪すぎだろ。
いやわかるよ? ネットで敗北者とか言ってはしゃぐ風潮ほんとクソだと思うよ? 不幸扱いしてんじゃねえって思うよ? これ自体は正論だよ?
でもパラレルストーリーとかやってる漫画が言えることだと思ってんのかお前。「この子が一番幸せになるのはこの子と成幸が恋人になるルートです」ってつもりで5人分も個別ルート描くのにどう両立させてんのこれ。
この漫画に限っては「失恋ごときで不幸にさせてる」のは読者じゃねえよ作者だよ。作者自身が失恋してもそれが幸せの全てじゃないってことを否定してんだよ。ここまで空々しいとほんと笑える。
加えていえばこの漫画では他のヒロインには恋愛以外に幸せになる目標が設定されてるし各ヒロインの長編でそれは達成されてるの。けどうるかは目標自体が成幸の一番になることなんだよ。それを達成させねえくせになにが「不幸にさせるな」だ白々しい。
ぼく勉は「幸せになるために頑張ること」をテーマにした作品なんだよ。主人公の「唯我成幸」って名前からしても物語全体通して「幸せ」がキーワードなことからしても間違いなく。
そんな作品で唯一他ルートでは「幸せ」になる目標を達成できないキャラクターにあえて言わせるとか作為しか感じねえわ。
別にうるかはこういうこと言う子だよ? 当然言うしキャラ崩壊とは言わねえよ? 作者自身はこういう考えじゃないかもしれないよ?(いや失恋したら不幸だって考えてたらそっちのがヤバいから本心だと思うけど)でもこれ言わせるようなシチュエーションにすること自体がほんと無理。よくまあここまで無神経に扱えるわ。
無神経で思い出したけどパラレルやり始めてからパラレルストーリーとはどういうものかみたいな解説を毎回ジャンプでやってんだけど、そのときうるかの顔の上にわざわざ「完了」とか描いてんの。タスク処理か何か? どんだけ雑に扱おうとしてんだろうなこいつ。
それで理珠ルートが終わった後には「完了」やめて「Happy end」にしてんの。はーそうですか。そんなに嫌いですか。そんな細かいところでもわざわざやるかお前。いっそ笑えるくらいになればいいけどただただムカつくわ。
こんな感じに作者が嫌いなキャラ好きになると無限に死体蹴りされるからな。お前らも気をつけろよ。
ゲスパー言われそうだから先に言っとくけど人の心の中なんかそりゃわかんねーよ? まして会ったこともないんだし。
だからもしかしたら本当は嫌ってないかもしれないよ? でも1個2個なら誤魔化されてもいいけどこれだけ続いたらもう無理だわ。こんだけやってりゃ本当がどうであれもう作者の意図だろ。
こいつは漫画家で、こいつが嫌ってんのは自分で描いてる漫画のキャラクターなんだから漫画での扱い見りゃ想像つくよ。これだけ嫌いなんだと見なせる要素があんのにどうやって好きだと思えってんだよ。
「愛がなければ視えない」とかいって滅茶苦茶に荒れた作品あったけどあれですら作中作に対してだからキャラに対しての愛だからな。こんだけふざけた仕打ちしてるやつ本人の意図を好意的に見られるわけねえだろ。つーかミステリーじゃあるまいし誰にでも視えない時点で論外だわ。
まあ仮に好きですなんて言ったところで寝ぼけてんのかとしか思わんけど。DVしながら愛してるって言ってるようなもんだから。言うわけないけどね。ああ、どのキャラも好きですよとかは言いそう。ははは。
単行本のキャラクター紹介でうるかの留学先がアメリカになっていたことについて。
ご指摘ありがとうございます。
これは…めちゃくちゃ誤植ですね。
オーストラリアが正しいです!
僕の確認不足で申し訳ありません…。— 筒井 大志@ぼく勉18巻発売中! (@Taishi_Tsutsui) August 8, 2020
やあやあどうもお前らこんばんは。
FGO最近全然やってないけどTLに冬木クリア条件のイベントがあるって流れてきたからシナリオ読んで来てその勢いで書籍版も買ってきたマンだよ。
*この先、FGOイベント及び書籍『惑う鳴鳳荘の考察 鳴鳳荘殺人事件』のネタバレ満載ですご注意ください。
さて。
俺はこの『惑う鳴鳳荘の考察 鳴鳳荘殺人事件』という小説が許せない。
ゲームのシナリオの方はどうでもいい……って言ったら失礼か。とにかく。小説独自要素?小説の落とし?が許せん。
この小説は。消費者にとって、そして二次創作者にとっては福音かもしれないけど、一次創作者にとっては、間違いなく、呪いだ。
タチの悪い呪いだ。
物語る者の矜持を打ち砕いて、迷わせてしまうような、そんな呪いが込められている本だ。
この『惑う鳴鳳荘の考察 鳴鳳荘殺人事件』は、「脚本家が倒れたミステリ映画の続きを登場人物達が考える」という、メタミステリものだ。
個人的には『愚者のエンドロール』あたりを連想するところだけど、まあそれは置いといて。
作中では5つの「あり得たかもしれない未来」(ルート)が提示された。
ゲーム版では、プレイヤー達の「投票」によって、一番得票の多かったジャンヌ・ダルク・オルタルート(エリスルート)が選ばれ、"撮影"されたのだが、小説版では提示された5ルートの全てが一旦は"撮影"されたことになっている。
大まかなストーリーの説明はこれくらいにして、俺の気に障った箇所についての説明をしていこう。
『鳴鳳荘』の冒頭には、ラストにも繋がる、とあるシーンがある。
おじさんが幼女の大事な本を壊してしまい、図書館の司書(作中作の「映画」では脚本を務める)に修復を依頼する、そんなシーンだ。
ゲームではこのシーンは「映画」にうまく組み込まれるだけだったが(伏線回収は見事であった)、書籍版では、なんと、このシーンに対応するシーンがエピローグとなっている。
紆余曲折の末、壊してしまった「ペパーミントグリーン色の本」(ゲーム版の方で亡くなってしまったキャラのことを暗示してるらしいですね)を復元したおじさんが、幼女に本を返却する。
「これはわたしの読んでいたご本とは違うような気がするわ。出てくる子たちや舞台は同じなのに、なんだか違う話を読んでいるよう……」
そう。
「不幸な事故」によりバラバラに壊れてしまった物語を、おじさんたちがなんとか修復し、意味の通じるようにページを繋ぎ合わせたが、もともとの物語とは全く違うものになってしまったのである。
更に幼女は続ける。
「このままページを捲れば、本当の結末とは違うものが待っているんでしょう? それは……とても怖いわ」
これに対して、おじさんはこう答え、
最後に、こう読者に語りかけて、『惑う鳴鳳荘の考察 鳴鳳荘殺人事件』という「物語」は幕を閉じる。
(登場人物の感情や物語上のマクガフィンを受け)「何より結果をもって、その選択を肯定しようなんて……おこがましいとは思わんかね?
ちなみにこのおじさん自身は、世界史上実在した人物をテーマにすることが多いFateには珍しく、創作をバックボーンにもつキャラクターである。余談ではあるが。
創作者の、「物語る者」の役目は、責務は、自分の頭の中にぼんやりとある、つかみ所のない"話の種"みたいなものを、しっかり捕まえ、「物語」という形にして消費者に届けることである。
もちろん、その過程で、いくつもの"語られなかった"可能性は摘み取られる。
あり得たかもしれない未来のひとつを捨て、もうひとつの未来を掴み取るための主人公の決断。
見えかけていた可能性のひとつを捨て、別の可能性を選び取るためのヒロインの葛藤。
世界にとってか、主人公にとってか、主人公の愛する者にとってか、はたまた悪役にとってか。
誰にとってかは不定にしろ、とにかく、より良い「結果」を目指す登場人物たちの苦悩、死闘、葛藤、そして決断。
だから――
よりにもよって、そんな一次創作の登場人物達に、「良かったところまで巻き戻して、そこから想像しなおせばいい」だなんて言わせるなんて、許せない。
「『本当の結末』なんてない」と主張するのは、「全ての結末は等しく同じ価値がある」のと同じことで。
それは、「本当の結末」のルートに辿り着くために主人公たち登場人物が払った犠牲を、抱えた葛藤を、定めた決断を、無価値であると貶めることにはならないだろうか。
物語る者は、物語を創り出すと同時に、物語の中の人物の"感情"も創り出す。
全部が嘘でも、主人公が、ヒロインが、登場人物が抱えた"感情"だけは本物で、そんな"感情"に人は共感するから、人類は有史以来物語を求め続けてきた。
そう、俺は思っている。
この『鳴鳳荘』は、ひょっとすればそんな「登場人物の感情」は交換可能であり、等しく価値がある(≒等しく無価値である)。そう主張していることになりはしないだろうか。
だとしたら、俺は、この作品のことを許せない。一生根に持ってやる。
翻って、二次創作をする人たち(同人誌に漫画を書いたり、pixivに小説を書いたりする人を想定している)からすれば、この「呪い」は間違いなく「福音」であろう。
というか、彼らが日頃からやっていることだろう。
あり得たかもしれない未来、語られなかった可能性を追い求め、掬い取り、自分の力で結晶にする。
「こうだったらいいな」「あれがああだったらどうなってたのかな」
"if"を追い求めるのは、ロマンがあるし、楽しい。それはわかる。
でも、その楽しさは、「原作が絶対」という前提あってこそのものではなかったのか。
公式で語られたことは全て「正しい」。その前提の上で、ちょっとだけ世界を歪めてみて、結末がどう変わるのか。
それを楽しむための、ただの思考実験ではなかったのか。
"全ての結末は等しく同じ価値がある"だなんて、俺にはとても思えない。
現実的なことを言えば、Fateがもともとマルチエンディングな"ノベルゲーム"という媒体から派生したものであることと、俺が抱えているもやもやは繋がっているのだろう。
ゲームはセーブ&ロードシステムが使えるから何回だってやり直しができるし、消費者(プレイヤー)はいくつも用意された結末を全て体験することができる。
バーナード嬢曰く。でめっちゃ面白そうに書かれてたから読んでみた。
結果、自分には合わなかった。
もともと本格ミステリは苦手で面白いと思わない上に、翻訳ものも苦手っていう二重苦状態で、読むのがすんごいしんどかった
かなり評判がよく売れてるらしい
でも、翻訳ものにありがちなくどくて読みづらい文章と名前を覚えにくいキャラの数々ってのが改善されてることはなかった
かなり飛ばし読みした
冒頭で作中作ってことが示されてたからそれにかかわるネタがどこかで出てくるんだろうなとは思ってたから、下巻以降の展開もそこまで驚くべきものでもなかった
まあもともとアガサ・クリスティやらが好きな人向けのミステリってことだったらしいから、まともにクリスティ読んだことがない人間が読むことが間違ってたのかもしれんけど
これなら素直に古典ミステリか古典SF読んだほうがまだマシかなと思った
児童文学の翻訳ものは読みやすくて面白かった印象・思い出があるんだけど、大人向けのミステリやらSFの翻訳になると途端にくどくて覚えられなくて面白くなくなるんだよなあ・・・
今日のフジテレビの情報番組「バイキング」で、例の「カメラを止めるな」パクリ疑惑が特集されていた。
その中で、「舞台と映画はこんなに似ているんですよ~」として、「オープニングが同じ」というVTRを流していた。
舞台は、女性が悲鳴を上げて監督の「はい、カット!」で始まる。
映画も、女性が悲鳴を上げて監督の「はい、カット!」で始まる。
だからパクリだという主張だ。そもそも原案は認めてるのだから似ている部分があってもいいのだが、それにしても「はい、カット!」で始まる作品など過去にも山程あるのだから、オープニングが同じだとしてパクリの根拠として提示するのにふさわしくないだろ、と思った。
と言っても自分は映画通でもドラマや漫画などの物語通でもないので、とっさに「はい、カット!」から始まる作品を羅列することはできない。