はてなキーワード: 差異とは
”陽気な”って意味だ。
自分が思うに、セクシャリティがどうであるかということを悩み、悩みを突き抜けて、差異をありのままに受け入れ笑い飛ばすことを身に着けたからだと思う。
差異でもって区別して社会に位置付けられるのではなく、差異から生み出される位置エネルギーを運動エネルギーに変えて前進したり踏み台にされたりするでもなく。
まあ、当事者ではないから、勝手な想像の域を出ないから、傷ついた奴がいたらすまん。
おれは幸運なことに(あるいは残念なことに)ヘテロセクシャルだから、同性の裸を見ても勃たないしヌケないが、全部の異性に対して勃ってヌケけるかっていえば、「これはむりでしょ」ってたたないしヌケない異性もいる。
LGBTは、そう言う方向が様々違うってだけだ。
https://togetter.com/li/1218626
うまく表示されないので再度書く。慶應、早稲田、明治、青山、中央、立教、法政大学には、2019年入学の文学部の定員数を現在の半数にまで一年で減らすことを要求する。それができなければ、悪口はつづく。その学科名を書いてあるアカウントを見かけたら、気まぐれで説教リプライを送る。覚悟しろ。
こんな感じの有名私立大学文学部アンチ?コメントだらけ大量に連投されてるんだが
このあたりの文学部って何か恨みでも買ってるのか
よく言われる文学部不要論なら有名私大に限定した話でもなかろうし
このあたりに文学部に入る縁とかなかった人間だからよくわかってないけど、他の大学となんか(マイナス面の)おおきな違いでもあるのか?
文学と言っても学科や大学によってやってることは大きく差異があるし、単純に減らせば単純に裾がせぼまってよくないのでは、って単純に思うんだが。
実は以前からずっと前立腺の話を書きたい書きたいと思っていた。
というのもネットには前立腺関連の情報がチラチラとあるのだけれども、実は実体験に則した情報というのが少ないように思うからだ。
昨今はネットのアダルトショップなどは大変オープンで、エネマグラ御大などを始めとするアナル開発の道具も周知されてきている。
ただ実際にそれらの道具をきちんと使いこなし、本物のドライオーガズムに至っている人間がいるかどうかというと疑問がある。
私はいわゆるゲイでは無いが、ドライオーガズムの研究のためにニューハーフ物やゲイ物のアダルトビデオを視聴する。
が、アナルをしっかりと開発してしかるべきゲイの方々も、大部分が射精を根本とした快感に身をうずめているのが実情であり「メスイキ云々」なるコピーで宣伝されているビデオの大半はドライのドの字も無いウェットな物ばかりである。
ここで強調したいのは「ゲイビデオ業界にメスイキビデオが少ない」という告発ではなく、それだけドライオーガズムのハードルは高いということだ。
前立腺についてドライオーガズムについて、私が知ることを書き記しておくことで、興味がある人達のハードルが少しでも下がればと思う。
前立腺オナニーによるドライオーガズムには幾つかのハードルがある。
一つは開発期間の長さである。
私は30を超えてから初めて前立腺オナニーの道へ第一歩を踏み入れた。
手探り状態で始めた開発ということもあり、また後述する準備と後始末の面倒さから1ヶ月に1〜2回というペースもあったが、気持ちがよいという感覚から完全なドライへと移行するのに2年近くかかった。
もちろん個人差はあるだろう。
しかし前述のように若い頃からアナルを使いまくっているのに射精逝きしかしたことが無い人も多くいることから、前立腺の開発については一長一短ではいかないと考えている。
この開発期間の長さは、ドライオーガズムの最も大きいハードルだと言って過言でないだろう。
途中や後始末のことも考えてしっかり洗浄を行うと軽く20〜30分は取られてしまう。
後始末にしても、普通の自慰行為がティッシュ数枚で完結するのに対し、洗うもの拭く物が多くこちらも時間がかかる。
そしてなによりオナニー本体が時間を必要とするもののため、頑張って短くしても1時間。
忙しい現代社会、あなたはオナニーのために貴重な休日の半日を潰すことができますか?
ドライオーガズムの快感が、男根の快感とベクトルが違うというのもハードルの一つだろう。
しかし前立腺は最初に触ってもそこまで気持ちが良いものではない。
なんなら鈍い痛みすらある。
仕事であれば理想像は割と明確であったりするので、PDCAは回しやすい。
すなわち、前立腺の開発において、我々は自分の未知なる快感をイメージし、それに向かって試行錯誤しながら進まねばならないのである。(上記のような面倒な手順を踏みながらである!)
巷で出回る漫画などでは、お尻に指や男根など棒状の物を突っ込むと、お尻に異物を入れたことも無い男性がたちまち「あぁっなにこれ変な感じ」とかいい出してピュッピュしてしまうという非常に雑なものが多いが(※最もこれは女性の処女喪失物の漫画も似たようなものかもしれないが)これはかなり違う。
とはいえ、どう違うのかという感覚をどう伝えるかというのはなかなか難しい。
とくに快感という大分類では同じ括りでありながらベクトルが全く違うという感覚はどう伝えたら良いのだろうか。
ベクトルの違いだけを説明すると、男根での自慰行為が射精へ自ら向かっていくのに対し、前立腺に関してはオーガズムが向こうから「来てしまう」という感じだ。
言葉にすると、一般自慰は「うおおおおおお」でありドライは「あああああああ」というとちょっと分かるだろうか。
快楽の質にも大きな違いがあり、男根快感はスピーディーかつ直線的でシャープな快感だが、ドライオーガズムは、まったりと重い。
ドライオーガズムを表現する「多福感」という言葉から、身体的局部的な快感が無い、あるいは少ないと誤解している人がいるかもしれないが、前立腺を中心とした臀部から太ももあたりまで重くまったりとした快感がある。
「多福感」が快感の本体ではなく、ドライオーガズムを引き起こすために「多福感」を使っているというのが私の考えだ(このあたりは差異があるのかもしれない)。
ではなぜ前立腺を開発せねばならないのか。
そしてどのように前立腺を開発していけばよいのだろうか。
「どせき」だな。「する」をつけると動詞になる
排便時における怒責圧が循環系に及ぼす影響 - J-Stage
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsnas/10/1/10_111/_pdf
目的:本研究では,仰臥位と座位で排便時の怒責圧の強さの差異が循環系に及ぼす影響. を検討した. 方法:健康な成人男女 21 人(平均年齢 32.7 ± 10.1 歳)を対象に,室温 27℃,湿. 度 50%に設定した人工気候室で実験を行った.被験者は仰臥位および座位姿勢をとり,. 1回 15 秒の怒責をかけた.怒責圧は 10,20 および 30mmHg とし,その時の血圧と. 心拍数を測定した. 結果:仰臥位と座位ともに,怒責圧が高いほど血圧・心拍数の変化は大きかった.
> 「企業のシステムを変えずに」の部分がタイトルでは削ぎ落とされている。
https://anond.hatelabo.jp/20180408225447
元増田の言っていることは、論理的には正しい。たしかに、企業のシステムを変えれば、生産性が劇的に向上して、うまく行くかもしれない。
「生産性を向上させれば、労働時間が減って GDP が増える。何もかもうまく行く」というのは、多くの経済評論家が言っている。しかし、「生産性を向上させる」ということ自体が、「天から金が降ってくれば」というのと同様に、根本的に不可能なことなんだ。
・ 天から金が降ってくる
こういうのはすべて、現実にはあり得ないことなんだ。実際、過去の歴史を見ても、こんなことはいっぺんも起こらなかった。どうしてか? 仮にそれが起こったとしても、同様のことは世界各国で起こるから、1国だけが抜きん出て生産性の向上を果たすことはあり得ないんだ。
その例外はある。それは中国だ。中国だけは劇的に生産性が向上していく。しかしそれは、中国の生産性の絶対レベルがきわめて低いからだ。とうてい先進国の水準ではない。先進国には当てはまらない。
まとめて言おう。
「システムを変えればうまく行く」という元増田の主張は、論理的には完璧に正しい。
しかし、「システムを変える(ならば) ⇒ うまくゆく」という論理のうち、前件の仮定が成立しないから、論理としては意味をなさない。「 偽 ⇒ 偽 」という命題は、論理的には完璧に真であるが、意味を持たない空理空論であるにすぎない。
論理が意味を持つためには、仮定の前件が真である必要がある。元増田の主張は、そこを満たしていないから、ただの空理空論であるにすぎない。論理のお遊びだ。何かを指摘したつもりなのだろうが、実は何の内容も含んでいない空っぽの主張であるにすぎない。(間違いではないが。)
(付記)
IT速報などが、「企業のシステムを変えずに」の部分をタイトルでは削ぎ落としているとしても、まったく問題はない。「企業のシステムを変えれば」ということは、あってもなくても、ほとんど影響しないからだ。「企業のシステムを変えれば生産性が向上する」というのは、大きな錯覚である。やってもやらなくても、生産性には影響しないのだから、この部分は削除してもまったく差し支えない。
「企業のシステムを変えれば生産性が劇的に向上する」というのは、企業経営の現場を知らない経済評論家の、夢見る妄想であるにすぎない。
では、生産性を劇的に向上させる方法はないのか? 実は、ある。それは、経営者そのものを交替させることだ。企業のシステムではなく、企業のトップの首をすげ替えることだ。
似た例で言えば、日本を改善するためには、日本という政府のシステムを変える必要はまったくないが、首相の首をすげ替えれば、日本(の政治)を劇的に改善させることも可能だろう。文書偽造などの問題も、システムを変えるよりは、首相や政党を替える方がはるかに効果がある。
何でもかんでもシステムの責任にするのは、経済評論家の悪しき妄想だ。企業や経営の統治というものは、トップの人格や能力に大いに依存しているのである。
────────
トラバへの回答。
> この主張が正しいなら先進国の生産性は横並びのはずなのだけど、現実はそうじゃないよね。つまりその主張は間違いあるいは不完全なんだよ。
本項は、1国について、(短期的には)「システムの改善は生産性の伸びがない」と言っているだけで、異なる国同士の比較はしていない。豊かな地下資源や肥沃な国土がある国は生産性が高いが、その違いを無視して、「先進国はみな同じ」なんていうことがあるはずがない。アメリカのようにシェールガスも肥沃な穀倉地帯もある国と、国土が山ばかりで平地がろくにない日本とを比較して、「同じ生産性になる」なんて思うのは、よほどの現実無視だろう。
というか、そもそも本文中に「トップしだいで生産性は大きく変わる」と書いてある。トップしだいで企業ごとの差異が多く出るのに、まして、異なる国同士で同じになるはずがない。日本国内だって、優良企業と駄目企業がある。なのに、異なる国同士で同じになるはずがない。
皆様、
今年も春が来て桜が咲きました。
おめでとう。
生きていてくれてありがとう。
どんな人たちなんだろう。
この手記を贈ります。
内容は、
誰かに似ているということ、
友達を作ること
についてです。
薄くて追いづらいかも知れませんが、
どうにか線をつないで行くので
寛い心で眺めていて下さい。
周りの目には奇異あるいは攻撃的に映って
発話の前提を共有することは、
酷く手間を要することです。
そこまで楽しくないよ落ち着くだけ、とか
君は人生辛くないんでしょ楽しくないの?とか
マスタベーションと同じ構造でごめんね、とか
言うの
面倒だから
もちろん何も考えずにうたってるときも多いけど。
また、無自覚な心優しい人と一緒にいると
発していないだろうかと、
もう一つ例を。
現か夢か忘れたくらい幼い頃、
あるいは繰り返すメロディーの話。
とりとめもない会話をして
なんだか僕は楽しくなって、
それで上手く周りが見えなくなって窮屈で
ビニール袋を外して、
誰も悪くはないのに僕がずれているだけで
年を取るにつれ、
2、誰かの一部に似ているということ
にはおんなじところがたくさんあります。
例えば手足が四本生えているとか、
眠くなるとあくびが出るとか。
意識されない作りになっていて、
痛いくらい慣れた僕にとって、
https://anond.hatelabo.jp/20171227003911
僕の場合、
増田のこの人と、
すごく似てて記事読みながら笑ってた。
それでも自分が真ん中にいることに困って抜けちゃいました。
https://m3myk.hatenablog.com/entry/2018/03/25/232219
小説の中や、伝記の中で、
自分と同じ人がいるというのは気付いていたけど、
快感がありました。
この文章を書いているのも
あるいはそう期待しているからです。
3、完璧ではない友だちを作ること
愚かで愛らしい僕たちは、
サン=テグジュペリが書いた「星の王子さま」という小説があります。
ヒツジの絵を描いてもらいます。
だけど、王子さまにはどのヒツジも気に入らず、
「このヒツジったら、病気で、いまにも死にそうじゃないか。かきなおしてくれよ」
「そうだな......これあたりまえのヒツジじゃなくって、ツノが生えてるもの......」
「これ、ヨボヨボじゃないか。ぼく長生きするヒツジがほしいんだよ」
飛行士はがまんならなくなり、
「こいつぁ箱だよ。あんたのほしいヒツジ、その中にいるよ」
すると王子さまはそのヒツジを大層気に入りました。
人間の最も素晴らしい性質の一つであり、最も残酷なそれでもあります。
夢見ることは素敵だけど、たぶん僕らにとって
星の王子さまは箱のヒツジといっしょに死にました。
具体的な未来なんて軽く捨てちゃえるくらい美しくとも、
僕らはたぶん生きていけない。
僕たちと環境は
どうやって見るかという意味でも
どのように働きかけるかという意味でも、
たぶん影同士になっていて、
その相互作用を愛してくれ。
4、まとめ
それは只管に美しいです。
ただ、自分に周りに厳しくなりすぎませんように。
もがきすぎて疲れてしまって、
どうにもならなかった。
きっとだれも貴方のことを
救ってはくれませんが、
祝福はあります。
環境は変わりるけど、
これまできみを喜ばせてきてくれた
なにかを大切にしてほしい。
そして万が一、途方に暮れた時。
先人の勇気やら愛やら
点字ブロックを見れば思い出せるかもしれない。
春がきました。
過ごせる友が出来ますように。
どんな君でも
生きていることがとても嬉しい。
祈っています。
それでは、また。
確かに男性同様に働けない女性は仕事での自己肯定感が得られにくい社会になっちゃったよな。
生理も個人差が大きいし、「最高のパフォーマンスに合わせて仕事のスケジュールを組む」だと破綻する(と、嫁さんが言ってた)
ただ、うーん、その昔、フェミニストの方は声高に「これからはジェンダフリーだ!」「男女の働き方の差異を無くすのだ」って言ってきた背景もある。
総合職女性が現れたのは良い傾向かな、とも思うよ。仕事を凄くしたい女性もいる訳でさ。
ただなー、それが女性を幸福にしたのか?っていうと私は疑問がある。嫁さんもそんなに働きたい訳じゃないんだよね。東大卒なので、いろいろ私より優秀ではあるんだけど。仕事が幸せに直結しない女性もそれなりにいるんじゃないかな、と
あるとすれば人の数だけ死後の世界はある。
生物学者のユクスキュルが提唱した『環世界』という概念をご存知でしょうか?
同じ空間を認識していても、その認識者の認識機能の差異によって、脳や心に創り上げられる世界は千差万別で、
同じ空間を認識し・生きながらにして、全く異なる世界を認識し・生きているという考え方です。
つまり言ってしまえばこの現世だって、人の数だけ異なる世界があるのです。
まして恐らく、あの世では現世の五感とは異なる認識機能によって観測するのだろうから、現世以上に環世界の差異が大きい可能性も大。
加えて、教祖があの世で観測した世界を教義に記す能力と、教祖があの世の世界が複数あることを観測する能力はまた別ですから、
例えば「あの世には野球部があったぞー!」という教義は真実でも、その教義に従っていれば将来その野球部に入部できるのは真実だとしても、
あの世には野球部以外にサッカー部もあるという事実を認識できたか…というのはまた別の話で、だからと言って野球部の教義は嘘にはならない。
実際以上に科学で判明している事を過大評価した科学的事実云々ではなく、科学技術信仰のような人の信仰自体は自由ですので。
この世に影響を与えてないものが、人の魂(コア)を動かす、ってところ。
先の環世界的な話でもあるのだけれど、例えば、人の認識機能は3次元な訳ですが、超弦理論などでは実際には10次元だそうです。
そして、蟻の認識機能はこのうち2次元だけとも評されるように、人間の認識機能もこのうち3次元だけで、
(嘘か真か、盲目の数学である者ポントリャーギンは「5次元図形を視覚的に思い浮かべることができた」なんて話もありますし)
実はあの世というのはこの世の4次元目以降にすぐそこに存在し、別に魂が動かされるとかそんな大層な話ではなく、
脳による認識機能が失われて初めて認識できる環世界にあの世があると考えれば、何も矛盾しないのではないのでしょうか。
それこそ、その認識機能が特異的に鋭敏な人がいたら、その人が教祖としてそうやって微かに観測できた世界を教義に残した…
なんて仮定すれば、先の複数ある死後の世界を一つと錯覚した件も含めて、諸々矛盾しないことになると思います。
…因みに言うまでもないとは思いますが、私も個人的な宗教観などは貴方に近いです。が、ここはあくまで論理的な思考実験としての話ですのでw
要は「死後の世界や宗教の教義を簡単に否定できる程の認識能力や材料を私達は持ち合わせているのか」って話です。
では、その時喋った私は一体誰なんでしょうか?
面白いですね。凄く興味深いですね。
ただ、麻酔は確か飛行機の飛行原理と同じく、科学的にはその原理が解明されていない事柄ですから、断定的なことはやっぱり不明でしょうね。
単純に済ますのであれば記憶を失った酔っぱらいと同じ状態なのかもしれません。
「楽しい」「苦しい」という感情は、相対的な「差異」から生じている。(詳細はジャック・デリダという人の本を参照)
A(前)→B(後)という状態に変化して、楽しいとしたら、変化前のAはつまらなかった。変化後のBは楽しかった。AとBのギャップによって、楽しさが生じていることになる。
人間には「飽きる」という性質がある。A→Bという同じ差異=刺激を毎回繰り返していると、徐々に慣れてしまって、それでは十分に楽しいと思えなくなってしまう。
麻痺した感覚をリセットするには、しばらく刺激を止めたら良い。すると初心に返って、再び楽しめるようになるだろう。
麻痺した後でも、刺激を続けたら、廃人になる。よりハードな刺激を求めて、差異を過激なものにしていくからだ。女遊びで満足できなくなった男は、未開拓の新しい刺激を求めてホモに走る男もいるかもしれない。
昔から、肉体を使って味わえる快楽には、「グルメ」「セックス」「ドラッグ」という3大娯楽がある。
この3つはなかなか飽きが来ないので、中毒の定番だ。どれも刺激を求め続けるから中毒になるのであり、廃人になるのだ。
普通の女に飽きかけているのなら、少し一人になってリセット期間を設けた方が良いかもしれない。
また、外見の派手さよりも内面の美しさ=性格の良さを追求すれば、女に飽きるのも難しくなるだろう。なにしろ、性格の良い女なんて滅多にいないからね?
美人は100人に1人程度はいると思うが、性格の美しい女はさらにレアで1万人に1人程度しかいないように感じる。ナンパじゃ発見できないから、ボランティア活動で探すことになるだろう。
はてブでこのようなことを言ってる人をよく見かける。インテリはてなーに対してはわざわざ忠告することもないのだが、インテリはてなーのフォロワーやワナビーはインテリではないので、ここでちょっと申し上げておいてもいいのではないだろうかと思った。
「またナントカ案件か」思考法において彼らが行っているのは、物事を自動的にパターンA、パターンBといったように振り分けることである。もちろんこういったパターン認識は情報を素早く処理できるというメリットがある。パターンAであればそれへの最適な解答はαであり、パターンBであればそれへの最適な解答はβであるというように。彼らはそれがナントカ案件であると認識した段階ですでに最適解を反射的に出しているわけだ。問題の認識と解答がほぼ同時に行われている。刺激に対して反応が決まっている。
たしかにこれは非常に合理的な判断のように思える。同じようなパターンなら同じような解答が最適になる蓋然性は高い。しかし彼らはその問題が以前の問題と比べてどの程度類似していてどの程度類似していないかについてまったく考えていないのではないだろうか。彼らは自分の思考法の陥穽を十分に理解しているだろうか。
物事というのは細部が重要である。細部の差異を認識し、その都度そこでしか発生していない特殊条件を勘案し、適切に処理できるかどうかに知性の差が現れる。どんなに素晴らしいデザインであっても、設計がその場に適応したものでなければ効果が得られない。「またナントカ案件か」思考法においては細部の差異を自動的に切り捨て、その場の状況に合うかどうかの深慮もなく、決まりきった解答αやβを放り込むのだ。そして「これで万事解決!」そう彼らは思っている。
この思考法を採用している者は物事を分かった気になっているが、正確に言うならば、彼らが分かっているのは物事から細部の差異を切り落としたあとに残った理想上空想上のイメージである。
彼らは物事の正確な認識を避け、「またナントカ案件か」思考法によって情報処理の負荷を軽減し、空想上のイメージに飛びついてそれを現実だと思い込む。そして、いまや現実と同じ価値を持つにいたった空想上のイメージについて彼らは解答αなりβなりを提示して、すべてがうまくいったような気になっているのだ。物事がパターンAそのものであれば彼らの解答αで完全に片がつくだろう。しかし世の中はそれほど単純ではない。それは問題の矮小化、議論の簡略化にしかなっていない。
物事にはすでに用意されたパターンによっては拾いきれない膨大な背景が存在し、その背景の要素同士がさまざまに絡み合って、一つ一つの物事をそのときそこにしか存在しない独特のものにしている。
情報を受け取ったときの第一印象として、パターンAに類似している、あるいはパターンBに類似しているなどと察するのは問題ない。賢い人は一瞬でそういった思考をめぐらせて大体の全体像を把握する。しかしそこで「これはパターンAに類似しているからαをやっておけば問題ない」とするのははてなーに求められる態度ではない。類似したパターンを検索するのは始まりにすぎず、むしろそこからすべての議論が始まって深まっていくはずなのだ。
だがどうもこういったことができない人をよく見かける。「AだからAなのだ。だからαすればよい」などといった態度はどれほど知的な態度だというのだろうか。こういった種類の人間は自分の有するパターンの数を誇っているのかもしれない。「俺は1000のパターンを持っているから現実に対処するには十分であろう」などというように。こういった傾向を「知識オタク」と言えるかもしれない。
しかし実際のところ、彼は1000個のボタンと、そのボタンを押すことによって得られる効果を丸暗記しているだけなのだ。Aを押したらαが出てくる。ただそれが1000個あるだけなのだ。1000個では現実を生き抜くには少なすぎるだろう。それなら1万か、10万か、100万か?
おそらくそういうことではない。
こういった「またナントカ案件か」思考法によると、完全に未知の問題には対処できないのだ。未知の問題に挑んでいくのが知性というものではないだろうか。
安易な判断を下す前にまずは物事をよく観察し、情報を揃えてみてはどうだろうか。SNSを中心にやっているとインターネットというのは速さが求められがちだが、実は自分のペースで好きなだけ考えることができる空間でもある。
かつてお笑い芸人のおぎやはぎが「一概には言えない」と言っていたことがあるが、まさにこれなのだ。こういった態度にネガティブな印象を持つ人も多いかもしれない。しかし一概に言えないということは何も言えない、言わないということを意味するものではない。むしろ何かを言おうとしている態度である。だから何か言うまで待ってほしいし、十分に待つべきなのだ。
デマ情報、嘘ニュースの拡散が問題になっているが、「またナントカ案件か」思考法ともつながっているのではないだろうか。情報を見た瞬間に「これはひどい」あるいは「これはすごい」と認識し、それですべてを理解した気になってしまう。背景にどういった事情があるのか記事のバイアスはどう評価できるかなどを考慮せずに、あるパターンに類似した情報を、「きっとあれのことだろう!」と自分の中にある既存のイメージに結びつけて理解した気になってしまう。現代のインターネットには速さと同時に短慮がある。あるいはそれは短慮ですらなく、自動化されていて、ほとんどbot化しているとも言えるかもしれない。
直接言えないから寝る前だけど書く。
無駄に長い。
書いてる人→既婚子持ち30代ワーキングマザー。書いて思ったけど、ワーキングマザーでないマザーってあんまりいなくない?ハウスキーピングも広義ではワークだ。
・子どもは?ってきかれてウザいだろうという話
わたしもいま子どもがいるけど、結婚して3年ほど子どもがいなかったので何度もされたことある質問。
きっと耳タコの人もいるはず。
聞かないでよ、個人の自由でしょ?プライバシーの侵害だ!めんどくさいなぁ、1回答えたらオートでコピペできないかな、適当に流すのすらダルい、などなど。
だけどね、この質問、なくならない。
一枚岩じゃないの。
光合成が行われた結果つくられるものはなんですか?→酸素です!というように、答えが必要だからしている質問じゃないの。
そういう質問をして、子どもを持っていないことを貶めたい目的があるとき。
失礼なことだとは露ほども思っていない。なんのことはない、あたまがなかなか柔らかくならないタイプの人はいる。悪人か善人かはともかく。
ほかにもあるかもしれないけど、純粋に答えが必要な人は、軽く聞いてすぐ引くし、面倒な流れには多分しない。
純粋に答えが欲しい人の中には、あなたと共通の言語が欲しい人もいる。子どもの有無は生活圏の大きな差異を生むので、自然と子持ちは子持ちと、そうでない人はそうでない人と関わる時間が増えてそうでない時間は減っていく。
「あなたと一緒に話すことが減るのはさみしいですよ」のかわりに、「子どもはまだなの?」と聞いちゃう人もいる。
・子どもほしい?
あなたが20代後半~30代の女性なら、子どもを持つか持たないかの境目で、妊娠適齢期を前後して「どうしても子どもを作りたくなるシーズン」がやってくる可能性があります。
もう産めないかもしれない。
いまが最後のチャンスかもしれない。
やけつくような焦りに似た気持ち。
その気持ちは、ほっておくとそのうち化膿します。ちゃんと対処しましょう。ほしいでも、ほしくないでも、どちらでも。そのうちすっきり気にならなくなるタイプの人もいれば、死ぬまで引きずるタイプの人もいます。
で、ほしいあなた。
もし20代後半~30代前半なら、迷う前にともかくトライしましょう。なるべく早くにね。なぜかと言うと、子どもはすぐに出来るとはかぎらないから。
病院がこわい?
慣れます。慣れましょう。
自然にできないなんて落ち込む?
横に生えていたら切開するし、神経に障っていたら大きい病院に転院して抜きます。
それと同じで、もし子どもを作るのになにかしらの問題があったら、可能な限りの治療を受けて問題をクリアにするのは当然のことです。
自然にとかいうワードが出たら親知らずのことを考えてください。しらんふり。
30代後半以降のあなた。
高齢出産があたりまえになってきたといっても、生物としての機能が時代にそんなすぐ合わせられるわけはないので、早めに越したことはないです。
女も男もね。
あと、早く子どもと出会うと、子どもと過ごせる時間がそれだけ長くなります。
ほしくない人、予定がない人。
子どもの話題もーいいやめんどくさいつらいってなる内心は仕方ありません。うまく付き合いましょう。
そして楽しく過ごしましょう。
では、おやすみ!
wikiにはデビューは9×年とありますが、実際はその前に漫画が雑誌に載ったことがある。
13歳のときに描いて某少年誌に送った漫画が何故だか賞にはいり、全ページ掲載されたのです。
この作品については検索しても出てこない。あまりに大昔のことすぎて。
絵もとにかくどヘタで、自分のなかでも黒歴史化してるので、とっくの昔に掲載誌も捨てた。
生原稿だけはどこかに保管してあるけど、目に触れないような奥底にしまってある。
でもネタとして、時々自分のブログや漫画でチラチラ遠まわしに「中学生の頃に雑誌にどヘタな漫画が載った」ということを書いたりしていた。
そうしたらあるときは長年のファンの人が、その少ない情報を元に、見事にその掲載誌を古本で見つけ出し、あるときのイベントでそれをコピー製本したものを持ってきてくれたのです。
めちゃくちゃびっくりした…。よくわかったなと感動しました。
それはそれととして、何十年ぶりかに自分の黒歴史と再開を果たしてしまった。
しかし、時間が多少脳内でそれを美化していたところもあり、これも自分も出発点だしな…と思いそれを読み返してみた。
自分の思っていた以上にひどかった!
お話は小学校の漫研が舞台。そこに転校生がやってきて入部したいと言い出す。彼が持参した原稿を見るとメッチャ上手くて他の部員はびびりまくる。
で、漫研といっても、そいつらの活動は本屋に行って店員の目を盗みながら立ち読みしたり、河原で遊んだりしてるだけなんです。
つまりこいつらは別に漫画家を目指して切磋琢磨してるわけでなく、ただの漫画好きの小学生ってだけなんですよね…。
そしてひょんなことから、転校生の父親が漫画家であることがわかる。しかも松本零士!名前は杉本に変えてるけど!
そこで初めて自分たちと転校生の圧倒的な差異に気づき(原稿見た時点で気づけ)転校生によそよそしくなる。
それを部長である主人公がとりなし、最終的には和解するって話なんですけど、これ漫研を舞台にしてるだけの小学生同士のいざこざの話なんですよね…。
10代の頃の私は何故か漫画を描くとき「主人公は自分より2歳年下にする」というわけのわからないルールを制定していました。
同年代や年上を描くより、多少に俯瞰できるぶん客観的に描けると思っていた気がする。
それはともかく。
おめーよー!と読みながらツッコミが止まらないマイ処女作でしたが(スケットダンスの早乙女ロマンの描いた漫画にツッコミを入れるヒメコの気分を味わえました)これは13歳の自分にしか描けないなあ…としみじみ思った。
最低でも中学生にすると思う。
漫研を舞台にした傑作に「ヨイコのミライ!」があります。主人公たちは高校生で、創作の苦悩より自己愛や、承認欲求、所属欲求が勝ってしまう年頃特有のこじれ感が見事に描かれています。
これがもっとキャラが大人になれば創作の苦悩のほうに重点が置かれますし、つまり小学生にはそのどっちもないんですよね。
だらまあ本当に私の描いたその漫画は、テーマ選びから躓いてる感があるんだけど。
でも、描いた本人の贔屓目かもしれないけど…あまりにも13歳が丸出しになってるその作品が、黒歴史から一周してなんだか愛しい気持ちになったような…気もする。
13歳の私の漫画は、もう二度と描かれることはない。13歳の私はいないんだから。
これは経済学的に考えればわかる。
女子大生の「恋人がほしい」という需要に対して、「私はどうですか」という供給はいくらでもある。
女子大生はたくさんの供給のなかから、いくつかを選ばなければならない。
ここで選択の基準となるのが「差異」、つまりほかとの違いである。
人々は機能やデザイン、そしてストーリー(こんな思いで作りましたとか)を見て買うのを決める。
恋愛における機能は優しさ、デザインは見た目、ストーリーは出会い方である。
そこでデザインとなるのだが、これは持っていまれたものなのでブサイクだと勝負にならない。
そうなるとストーリーなのだが、暴漢に襲われているところを助けたぐらいしないと、出会い方に差異は生まれない。
供給過剰における恋愛市場は、必然的にイケメンの一人勝ち状態となるのだ。
だが、これが社会人になると話が変わってくる。
給料が手に入ると、それを元手に、設備投資ができるようになる。
つまり、社会人になって初めて、設備投資による競争が可能になるのだ。
学生の恋愛市場は、特に男性にとっては、非常に限定的なものだ。
これは政府によって市場が統制されていて、自由な取り引きができないようなものだ。
±50歳の女性と取り引きできるようになり、顧客候補が無限に増えるのだ。
設備投資と完全な自由市場、これが社会人になってモテるようになる理由である。
そこで私が「どうですか、セックス」と供給をすると、「そういえば、セックスが欲しかった」と私のことを買うのである。
このようにして供給がない場所に、自分一人が供給することで、下半身を独占することができる。
重要なのは市場の独占である。供給過剰な場所で似たようなプロダクトをリリースしても何もいいことはない。
そして、市場の独占をするためには、プロダクトインでやらなくてはいけない。
例えば、マッチングアプリのようなものがマーケットインである。
マッチングアプリにいる女性は「私は性を求めています」という需要が顕在化している。
そこに対して供給をするのは一見、効率的に見えるが、顕在化している分、他者も供給ができる。
そうすると結局、競争が起こり、市場の独占は難しくなるのである。
プロダクトインで需要を掘り起こし、下半身市場を独占するのが得策だ。
私は社員数1万5000人の会社に勤めており、そこにはアラフォーの既婚女性はいくらでもある。
セックスレスであり、まったく供給がないので、私は彼女らの下半身を独占できる。
再び書くが、私は3人のアラフォー女性の下半身を独占している。
機能、デザインを磨いた男が、「若い男との未知なるセックスどうですか」というストーリーをたずさえて現れる。
これによって彼女らの需要を満たし、下半身を独占したのである。
私は現在24歳だが、30歳まではこの戦略で恋愛市場をサバイブできるだろうと踏んでいる。
お返事ども。
ブコメにいたんだよね。「男が痴漢をまず捕まえろよ、そうすればそもそも女性専用車両なんてなくなるよ」という意見が少なからずいるんだよね。
無実の男性にも労力を期待してる。あー、そういう女性は酷い部類に入ると思うかな。そうかもしれないが、女性専用車両の話になると、どうしても酷い女性のコメントが目立つ。時代の変化として、もう「異性を思いやる」という時代では無いのだろう。なにか無実の男性観点で女性に親切する事で救いが与えられるのかな、浮浪者や自殺者は男性によっている。統計的に差異が認められつつもケアは行き届いていない。その上で無実の男性は痴漢の逮捕に協力すべきだと女性専用車両の存在価値をとく。