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はてなキーワード: 差異とは

2017-09-22

anond:20170921225353

彼らを批判しながら、同じ口で「大企業ダメだ」と彼らと同じ主張をする。

前述の通り批判内容人間単位でとらえているのが論外として

お前自身が先に要約しているようにヨッピーの主張は「大企業ダメだ」だけではない

差異があるにもかかわらず「同じ主張」と言っている

要するに共通点があること自体否定しているに等しい

典型的低能ネトウヨと同じ挙動だなw

なんで共通点があるだけで全部駄目になるんだよ

少しは考えて喋れよバーカwww

大企業ダメだ」を否定したいのなら、「彼らと同じだから」ではなくそ命題自体否定しろ低能www

久しぶりに好きな人が出来た

久しぶりに本当に好きな人が出来た。

二年ぶりだ。少しいいな、と思った人はいても恋にまでは発展しなかった。好きな人に対する接し方は何もかも忘れてしまった。傍から見れば私が彼のことを好きなのは丸分かりだろう。いや、彼も気づいているかもしれない。

過去彼氏がいたのは一度だけ、それも半年付き合ってキスまりだった。

中学生だったのでそれについては納得しているが(というかそういう雰囲気になった時拒んだ)。

その時は好きになって1ヶ月程度でぽんぽんぽんと話が進み、付き合うことになった。

こんなに上手くいっていいのだろうかと浮かれたのをよく覚えている。

そう、とんとん拍子に上手くいったのだ。

私のアプローチがうんぬんかんぬんではなく、運みたいなもので。

からどうやったら好きな人と付き合えるのかが全くわからない。

彼氏持ちの友人達に聞いてみると、出会い差異はあれど

LINE交換してーずーっとやり取り続けてー通話するようになってー遊びに行ったりしてー告られたー

的な流れらしい。

しかし、私は基本的LINE事務的な会話しかしない。

元彼ともデートの日程や待ち合わせの時間などを決めたりにしか使わなかった。

たまに長電話をすることはあるが、それはよっぽど親しい仲の友人に限った話だ。

どうすればいいんだろうか。むむむ

女友達を含めた3人で何度か遊びに行ったことがあるので、2人で遊ばないかと声をかけようか。多少不自然でも誘った方がいい…のか…な。

ノリで固めの文章にしてしまったが、いつもの私はノリの良い関西弁キャラだ。日々を一番楽しく自然体に過ごせるからだが、恋なんかするんだったらもっと女の子っぽく振舞っておいた方が良かったかも知れない。

三島由紀夫も醜いありのまま自分を愛してもらおうとするなど傲慢だと言っていたし(気がする)。

なんかメチャクチャ乙女思考回路で書き殴ってもうた

気持ち悪すぎて笑うわ、恋ってこんなにどうようもないもんやったっけ

いややなあ、好きやわあ

2017-09-18

ニコニコ動画投稿している「変態コモン」というユーザーについて

の見識を簡単にまとめておきます

http://www.nicovideo.jp/user/2152433

ニコニコ動画投稿し始めたのは15年の10月30日

MTGについてのゆっくり解説などを投稿し始めました。

転機があったのは今年の6月

シャドウバースの何がいけなかったのか考える動画 by 変態糞コモン ゲーム/動画 - ニコニコ動画

本格スマホカードバトル(笑)のShadowverse(以下シャドバ)に対する意見動画投稿します。文章フォーマットを声をつけて垂れ流す所謂ゆっくり解説動画です。

何がいけなかったのかという主観を交えた意見が、環境に対する不満が溜まっていたユーザー勢の心を掴み、更にまとめブログ等への転載あいまってシャドバキッズ赤字コメを呼び込み大反響を呼びました。

それに味を占めたのかその後もシャドウバースの良かったところを全力で擁護する動画 by 変態糞コモン ゲーム/動画 - ニコニコ動画シャドウバースのレジェンドナーフに向けて全力で罵倒する動画 by 変態糞コモン ゲーム/動画 - ニコニコ動画などの動画を続けて投稿しこれも多くの動画再生コメマイリスを獲得し、その動画投稿者としての地位を不動のものしました。(そういう事にしておきましょう)

「僕たちの愛するシャドバは死んだ!」と叫んだ彼が移住したDTCGがWAR_OF_BRAINS(以下ウォーブレ)というカードゲームでした。

ちょうどこのころはウォーブレが新規ユーザー24パック配布キャンペーンを行っている真っ最中で、新規に始めやすいという利点に目を付けたのでしょう。先駆者ゆっくり解説動画を作ってくれたという土壌もあり、ウォーブレに関するゆっくり解説動画投稿し始めました。

そのウォーブレも色々と環境が変化し、その環境に対する不満がユーザー内で溜まりつつある状態でした。その中で彼は調整後の新環境について解説する動画投稿しました。

その動画ではユーザーから見てもあれ?となるような点が多々存在するらしく、その動画内容が2chスレッドで叩かれている状態でした。

結局、叩きにたえきれなかった彼はこちらのコメントを残してウォーブレに関する動画を非公開にしてしまます

人口増加により脳死叩きが増え相手にするのが面倒になったのでウォーブレの動画作成は中止いたします。

例えば猿のナーフ理由すら理解できないアホが増えてまじめに解説するのが馬鹿馬鹿しくなったからです。

まあそれに耐えることができる他のホモがそのうち生まれると思うので待ってたらいいんじゃないですかね?

広告していただいた方々につきましては本当に申し訳ございません。

そして9月18日、ウォーブレに関する動画を非公開にした件について謝罪しますという動画投稿しました。

ウォーオブブレインズの動画を非公開にした件について謝罪します。 by 変態糞コモン 日記/動画 - ニコニコ動画

消されているかもしれないので大まかな内容はこんな感じです。

https://i.imgur.com/TUFos7f.jpg

https://i.imgur.com/juoPvH4.jpg

https://i.imgur.com/3JmA5OP.jpg

画像1について:ユーザー間の間では今環境はラピスとユニオンという二つの国家(リーダー)が支配しているという認識が広まっています社員と言うのはウォーブレを運営しているタカラトミー社員の事ではなくて、ウォーブレのスレにはシャドバを運営しているサイゲームスの社員荒らしているという設定の事を指します。プロモというのは月に1度か2度環境を潤滑化するテコ入れの為に投入されるカードの事を指します。現在は2か月ほど延期しています

画像2について:この一つ前の動画で彼に持ち上がった疑惑が「お前ちゃんと現環境プレイしているのか?」というものでした。それに対する反論がこれというのもなかなかすごいものだと思います

画像3について:BPというのはこのゲームにおけるランクポイントの事を指します。7000BPに行くと「ブレイン」という称号を得、BPが下がる事が無くなります。ですので、ブレインになっている人とそうでない人の環境の見え方に差異があると言いたかったのかもしれません。じゃあなんでそんな人間解説動画なんて上げたんだという話になります

以上の様に、彼は謝罪しますと言いながら、自分に対して叩いた人間反論する動画を上げるという行為に出ました。この事は叩いていた彼らを喜ばせたばかりか、彼の解説動画をウォーブレが広まるならという思いで見守っていた人たちに向けても冷や水を浴びせる格好となりました。

まぁ増田の人向けに簡単説明すると「叩く道具として使われていた棒を作った奴がすごいと勘違いした結果こうなった」というよくある話になります

上記の動画にもあるように「飽きたら他に行く」と言って憚らない彼なので、恐らくアカウントを転生して別のDTCGで同じような解説動画を上げたりすることになるでしょう。

その時はまたこの増田が役に立てれば良いと思い書かせていただきました。ありがとうございました。(正直役に立ってほしくない)

https://anond.hatelabo.jp/20170918091254

囲碁将棋なんて興味のない人には同じようなものに見えるけど

それぞれのファンは「一緒にするな!」って怒るようなもんだよね

マニアになればなるほど差異が気になるようになる

anond:20170917231322

文化の盗用に対する皮肉だと言いたいのだろうけど、これは明確に反論せねばならない。

元増田皮肉の体を成していない。だから批判されている。

皮肉ってのは相手論理をそっくりそのまま返して、矛盾点を突くことだ。

からもし文化の盗用について皮肉を言いたいのであれば、米国における文化の盗用の文脈を正しく理解して

それを適切に日本の事例へ当てはめなければならない。

アメリカ場合そもそも黒人奴隷歴史があり、ミンストレル・ショーのような人種差別エンターテイメント反省があり、マジョリティーとマイノリティーの権力勾配があり、と

文化の盗用論は多様なレイヤーから構成されている。

しか元増田にはそれがない。「ルーツ判断する。水原在日からアウト。以上」みたいな。

日本に当てはめる際に考えなければならない米国との差異を全て無視していて、とかく雑すぎる。

元増田皮肉のつもりで言ったのか真性なのかはわからない。

仮に「サヨク論理水原希子に難癖をつけて論破してやるぜー」と皮肉のつもりだったとしても

上記の通りそも皮肉として成立していないので、

客観的に見るとただ「水原希子へ難癖をつけている頭のおかしい奴」にしか見えない。

もちろん文化の盗用論そのものは新しい概念ゆえ批判されるべきところもあろうが、そうした議論は別途誠実に行えばよい。

雑な理解と雑な当てはめで水原希子氏を攻撃するのは不当だ

2017-09-09

外国人嫌悪または多様性否定

話題にするも嫌だけど、表面的な視点だけで一方だけが正解で残りは間違いになるのも嫌なんで書く。

特定人種民族やその混血と別の人種特に自分と同じか同族人種民族を比べる話題を出すと、すぐさま、外国人嫌悪一面的見方がでてくる。

だが、そうなのか?


環境的または遺伝学的に、特定人種民族特に有利な才能が備わっていることがあるということを認めないのだろうか。

全員ではないにしても、または個人努力または怠惰によって相殺されることではあるかもしれないが、人種民族に傾向的な才能があることがある。

単純に言えば、走るのが速いとか、体力持久力があるとか、寒さに強い、乾燥に強い、日差しに耐久力があるというような能力、才能があることを認めないのだろうか。

それに恵まれなかった人が個人努力で対抗できる程度であったとしても、それはありうると思っている。


それを認める事が、外国人嫌悪なのかどうか。

個人努力で対抗できるとしても、それが本当に起こるかどうかは、現実にみてみなければ確認できない。


さらにこれは他の議論にも飛び火する思索がある。

人種民族といった大きな傾向ではなく、もっと狭い場所での人間差異について。

例えば、男性女性特定作務が向いている、向いていないということが遺伝的な部分であるかどうかという点。

繰り返すけれども、個人努力でその差異相殺できる程度の差があるかどうかであり、特定の人に絶対的不可能があると言ってるのではない。

努力で克服できるから、その差異話題にするべきでないというのは、何かを考えてはいけないという思想を制約することであり間違っていると思う。

それを話題としてしまったとしても、その話題を始めた人を排斥したり、その話題事態封殺する民意形成する事もまた正しい道ではない。

個々人は、各々に人種民族遺伝学的または環境から生ずる差異があって、多少の有利不利があるはずで

漫然と現実を受け入れていればその差異はそのまま居残り続けるということを認める事は、外国人嫌悪あるいは一般的にいう多様性否定なのだろうか。

追記しとくけど

特定ブクマ本人ではない。ある批判をみてそれは正解なのかと疑問に思っただけの傍観者

https://anond.hatelabo.jp/20170908230300

近親相姦法規制の是非について、いろいろ議論拡散しててモヤモヤするので自分なりにまとめてみたい。

<2017/9/10 12:21 ブクマ数187users 追記した。イヤマウンターへの回答になるか分からないけど…あと微細な誤字修正

 2017/9/10 23:01 ブクマ数350users 良い指摘も貰ったので再追記&読み辛い記号は省略して浄書した。>

近親相姦と近親婚の区別

まず、近親間の「性交」と「婚姻」を分けて考える必要がある。

前提の確認として、2017年現在日本には、成人(=18才)した近親間のセックスを取り締まる法律はない。

ただし、13歳未満に対しては例え同意があっても強姦罪強制性交等罪)が構成される。(刑法第177条)

18歳未満であれば、地方自治体が定める青少年保護条例に基づいて規制されうる。(淫行条例

また、3親等以内の近親間は婚姻はできない。(民法第734条)

成人した近親間の合意に基づくセーフセックスなら許容されるか?

たとえ法律的に禁じられていなくとも、現時点では、近親間でセックスすることについて、単純に不快感を感じるから反対するという意見大勢を占めると思われる。

しかし、不快感だけに戻づいて法規制を行うことは、「ゲイ不快から反対する」となんら変わらず、その他の行為にも「利害関係にない他人の心情」という不確かな要件法規制を成しうるため、不快感法律根拠にするのは避けるべきだろう。

規制根拠としては、「年長者が年少者に対して、権力的優位を利用して性交する虐待可能性がある」から禁止という論理展開をとるのが適当だろう。

そして「権力的優位を利用した強制性交」というところまで抽象化すれば、これは何も近親相姦に限らないと気付くはずだ。最近大学教授学生を言いくるめ性的関係を迫る事件が起きた。

慶応大教授女子大生を「洗脳不倫 “先生とだったら世界征服も”週刊新潮 2017年9月14日掲載

https://www.dailyshincho.jp/article/2017/09061659/?all=1

年齢差、年収差、肩書、男女…あらゆる要素で権力勾配は生じうる。相手の弱い立場につけ込み強制的関係を迫るのは近親間に限らない。20歳差以上もある男女や玉の輿と呼ばれる婚姻を訝しむ人は、暗黙的に権力勾配による強制性を疑うのだろう。

かと言って、権力勾配がない平等な男女でなければ性交婚姻できないとするのは現実的ではないように思われる。

生物として長年同棲した人間は互いに性欲を感じない」という意見もある。(ウェスタマーク効果

では、年長・年少の差異(=権力勾配)がない双子が、生まれてすぐ別々に過ごし、互いに成人した後出会ったのちの近親相姦はどうか?

成人した両者が合意の上で、子どもも儲けず血も交わらない安全なセーフセックスをする分には、外部の人間がそれを規制する根拠は乏しいと思われる。

「両性の合意に基づく婚姻」の捉え方

現在日本には同性婚制度が存在しないが、近年の議論として、「同性愛者・両性愛者・性転換者(LGBT)にも同性同士の婚姻を認めるべき」という意見がある。

日本国憲法第24条では、「婚姻は、両性の合意のみ」に基いて成立すると定めている。

ここから(もちろん歴史的な経緯からも)長らく「婚姻とは、男女間の契約であることが含意されている」と認識され、現在同性婚は認められていない。

しかし、この「両性」には男同士・女同士も含まれるとして、LGBTにも婚姻を認めるべきという容認論が出てきた。

アメリカでも同様の議論がなされ、リベラル派は賛成し、宗教保守派は反対している。

保守派は、反対理由として「LGBT間の婚姻が認められるならば、近親婚、複婚(ポリガミー一夫多妻多夫多妻制)、児童性愛ペドフィリア)も認めることになるだろう。」と主張している。

http://www.hrc.org/blog/texas-legislators-argue-same-sex-marriage-leads-to-incest-polygamy-pedophil

まり、「両性」にLGBTが含まれるなら、なぜその「両性」が近親ではダメなのか?なぜ「両性」が2人の関係でなければならないのか?3人でも4人でも彼らが合意すれば外野が口を出す必要はないではないか?相手児童でもいいのではないか?(いやダメである。)という論理だ。

親子ときょうだいの区別

次に、近親の組み合わせが、親子ときょうだいの場合を分ける必要がある。

一般的に、親子ならば、父×娘、母×息子。

きょうだいなら、兄×妹、姉×弟が想定される。

しか最近LGBTを擁護する世論考慮すれば、近親相姦・近親婚においても父×息子、母×娘、兄×弟、姉×妹の組み合わせすら理論上ありえる。

そして、異父母きょうだい×異父母きょうだい、親×連れ子、親×養子、連れ子×連れ子、3親等まで広げれば叔父×姪、叔母×甥、祖父母×……さらにそれらの複婚関係……といった創作の題材になりそうな組み合わせも無限にありえる。

多様性絶対善」なのか?形を変えた優生学批判されないか?

「近親交配しないのは不利な劣性遺伝子顕在させず、生物的な多様性を保持するため」として近親交配に反対する意見がある。

ここで注意したいのは、劣性(潜性)遺伝とは、即、不利な形質を示すわけではない。

もちろんハプスブルク家ロマノフ家の例を出すまでもなく、近親交配によって虚弱体質等の潜性遺伝子顕在することもありえる。

しかし、サラブレッド育成や家畜品種改良に見られるように、近親交配(インブリード)によって、人間が有利と認める形質を顕現させる交配は日常的に行われている。

では、優れた(とされる形質を持つ)人間を顕現させるための手段として近親交配を行うことは許されるのか?

かつて優生学として批判されたのではなかったか

優生学」とは、表層的には「優れた人間人為的に作り出す」を意味するが、もっと抽象化すれば「社会に貢献する人間遺伝子操作で生み出す」ことである。「優れた子を産み、社会へ貢献せよ」という繁殖圧力が埋め込まれている。

同様に、遺伝子多様性を守るべきという立場は、(遺伝多様性を備えた「=優れた」)子どもを儲け、社会に貢献することを暗示的に求めていないか?

「多様な遺伝子(=新たな「優れた人間」の基準)を持つ子を産め」という圧力である

日本の国力を維持するために子どもを2人以上作るべき」という意見は、時代遅れの家父長制として批判されるだろう。

では、この考えを拡張した「人類繁栄遺伝子多様性のために、近親相姦子どもを儲けるべきではない。遺伝子的に遠い組み合わせを選ぶべき」という意見優生学として批判されないのだろうか?

なぜ、見ず知らずの他人社会のために、子ども遺伝子多様性を考え子作りしなければならないのだろう?また、子どもを作らなければならない社会的圧力は、不妊夫婦LGBTカップルにも襲い掛かる。

(※再追記)「遺伝子多様性」についてコメント重要な指摘があった。

要旨としては、「一個体単体での多様性存在しない。遺伝子多様性とは、社会全体で見たときに様々な遺伝子をもった個体がいて、あらゆる環境変化にも社会全体として生き残る可能性のある個体を総体として保持する状態を指す」というものだ。

まさに、そのとおりである

元増田コメント欄 http://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20170908230300 で、「近親交配は遺伝子多様性を狭める」「『血が濃い』子どもを産むのは多様性に反する」といった反対論がいくつか見受けられた。

似た遺伝子を持つ近親が交配することで生まれ子どもは、その遺伝子一族が持つ因子以外の多種多様な因子を持たず不都合が生じるといった主張だろう。

これを受けて、一族が持つ因子と異なる個体と交配することを「遺伝多様性」と表現した。

だが、「社会全体の遺伝多様性」と捉えなおしても、やはり結論は変わらないだろう。

社会全体の遺伝子多様性考慮せよ」ということであれば、近親交配で生まれた「血の濃い」子どもだろうが、高齢出産で生まれ障害児やダウン症児だろうが、互いに遠い因子を持つ両親からまれた「(元コメントが支持する)多様性を実現した」子どもだろうが、すべてイコールなのである

どんな組み合わせの子もも、何に役に立つかわからないから全て尊いのだ。

酷い貧血で苦しむ鎌状赤血球を持つ個体は、マラリアに耐性を持つ。

「血が濃い」ことによって何らかの潜性遺伝が顕現し生活不自由を生じるかもしれない。だが、それすらも何らかの環境で役立つかもしれないのだ。


カンブリア大爆発で生まれた珍奇な生物は、ほとんどが「失敗作」だったかもしれない。

生物ミクロにおけるあらゆる試みは、現時点で正しいかどうか判断できない。

しかしたら将来、障害児が持つ因子がを生かしておくことが正解だったと判断される時代が来るかもしれない。

ミクロレベルでは、将来どんな因子を持つのが有利なのか判断できないし、そんなことを判断して子孫を作るわけではない。

(※再追記ここまで)


互いに愛し合う両性は、人類遺伝子多様性を守るために子どもを儲けるのではないはずだ。

多様性を善とするならば、近親交配で生まれ子ども多様性一種として認められないのか?

「生まれ子ども可哀想」という意見もあるだろう。

「やーい、インブリード」「お前の母ちゃんふーたり」「淫乱家族」「本能自然の摂理に反している」「相続税が複雑になる」といった差別罵倒を受けるかもしれない。だが、これはLGBTが受けてきた偏見のものである歴史は繰り返す

富裕層節税に使う」といった意見は単なる税制の失敗であり、状況に合わせた税制改正対応すべきであって、税制設計ミスが人々の自由恋愛を拘束してよい理由にはならないだろう。

意図的遺伝子編集は許されるか?

近年、CRISPR/Cas9の登場で、生物遺伝子を直接改変する「ゲノム編集」が技術的に可能になってきた。

まるでタトゥーを彫るごとく、遺伝子編集し、発現する特質コントロールする時代がいずれ訪れる。

多様性が善」ならば、各人が好き勝手自分遺伝子編集することは許容されるのか?

自分の子希望通りに設計する「デザイナーベビー」もいずれ可能になるだろう。

果たしてデザイナーベビー子どもに対する人権侵害なのか。アメリカ宗教保守派は、受精卵にも人権は生じると主張する。だが、精子卵子状態から設計」し始めたらどうなるのだろう?

予め遺伝子由来の病気が顕現することが分かっていて、予防的にゲノム編集による遺伝子治療を施すこととの線引きはどうするのか?

また、近親交配に反対する理由として挙げられていた、生活上不利な劣性(潜性)遺伝子の発現を抑えることができるのならば、近親交配は許容されるのか?

「近親交配で生まれた『失敗した』子どもは間引かれる」という意見もある。だが、遺伝子治療によって間引く必要がなくなったらどうなるのだろう?

女性を交換財産としていた時代の名残

文化人類学観点から近親婚に反対する意見がある。

「女は、他の家に嫁がせ血族ネットワークを拡大し一族繁栄を図るための道具」という認識から、女は他の一族に対するプレゼントとして考えられていた時代があった。

まり、「身内で女を消費するな。嫁入り前の性交大事な贈答物が『キズモノ』になる」から近親相姦を禁じる論理だ。

これも現在では、前時代的家父長制と批判されないだろうか?

婚前交渉を『キズモノ』となじる貞操観念も、もはや薄れつつある。

そもそも婚姻」の意味が変容しつつある

何のために婚姻をしていたのか?

家督」を守り繋げるため?

子どもを育てるため?

相続上の利益を守るため?

家族になったという感情的な満足を得るため?

婚姻制度形骸化し、婚外子一般化しているフランス北欧では、事実上多夫多妻制度に移りつつある。

皮肉なことに、女性は一度子どもを儲けると長期間にわたって身体不自由が続くため、自由恋愛事実婚社会では一夫多妻に近い形態をとる。(奥さんが子育てをしている間に、男が他の女に会うなんてスキャンダル最近もあったね。)

一人の恋愛強者男性精子バラまき、多くの女性子どもを産ませる。恋愛弱者遺伝子は途絶える。(安心したまえ、恋愛強者の子ども達は社会全体とキミの税金でしっかり育てるから。)

まり一夫多妻制の基では、社会遺伝子プール多様性を減らす方向に働く。

これは、社会遺伝子多様性を守るために規制されるべきだろうか?

自分の頭の整理のために書き散らしたので、結論はない。

※「気持ち悪い」「素直に近親相姦したいだけって言え」⇒つまりフィクションお姉ちゃん最高!飯田ぽち。先生の「姉なるもの」好評連載中!

http://comic-walker.com/contents/detail/KDCW_AM09000031010000_68/

相手クトゥルフ神だったらいいよね!自然に反したおかし衝動創作物で紛らわそう!

2017-09-08

https://anond.hatelabo.jp/20170908180621

合うか合わないかなんて主観的問題キチガイ認定にまですっとぶような極端な例の話は別でしょ

ある人にはとても合うと思われてる服装が違う人にはとてもじゃないが見てられないと思われてるとか

社会で生きてりゃありうることだし、そういう差異をいちいち気にすることもまたあまり歓迎されないと思うが。

anond:20170908114801

名前じゃねえからだよ。

リンクを貼ってるから同意したのかと思った」という考えの時点で異常であることに気がついてもいないらしい。

要するに、前後文脈や細かい差異なんかまるっと無視して、思考停止状態で見たものをそのまま信じ、感じたことをそのまま脊髄反射で言ってるだけなんだろおまえは。

安倍批判した!こいつは民進党信者だ!」「障害者批判した! 差別主義者だ!」みたいなさあ、

増田から煽られるだけで済むけど、Twitterとかで見当違いなクソリプ送らないように気をつけなよ。

anond:20170907232055

本当だったら「市」のためにならないなら、名前晒すべき。ただその差異は物的証拠必要

司法は動かないが、マスコミは動くかもしれない。

2017-09-07

生きづらさの不適応差異が大きい人間と微小な人間をごちゃまぜにして、ホラー普通人間なんていないだろとか

やっぱり脳にウジが湧いてるんですねという感想しかわかない

https://anond.hatelabo.jp/20170907213827

2017-09-03

初動対応してほしい

国連は動いてるのかな

どうしてこうなったのか

インターネット問題意識を共有したり互いに楽しくコミュニケーションするはずだったのに

互いの差異ばかりが目立って

共通利益が見つからない

見つけられないだけか

実現出来ないだけか


見つからない理由はわかってる

問題意識とか

人が帰属する複数の要素の中でひとりひとり重視する要素が違うから

問題意識とか

場合や時期や場所によって変わるから

歴史観宗教お金、国、性別

場合や時期や場所によって変わるから

破滅的なことはせめて起きてほしくないのに

うんこのようなものをもらした

うんことは何か。Wikipediaで「うんこ」を調べると「糞」にリダイレクトされる。Wikipediaでは「糞」の説明

糞(くそ、ふん、くそは「屎」とも表記)とは、動物の消化管から排泄される固体状の排泄物屎尿)。糞便(ふんべん)、大便(だいべん)、俗にうんこ、うんち、ばばや、大便から転じ大などとも呼ばれる。しかし、硬さや大きさ、成分などの違いで呼び名を使い分けている訳ではない

とされている。

Wikipediaの項目「糞」に記載説明に従えば、以下の要件を全て満たすものうんこであると考えられる。

  1. 動物から排泄された
  2. 消化管から排泄された
  3. 固体である

一応、他の資料にも当たってみた。三省堂大辞林には「大便」について以下のように説明されていた。なお、三省堂大辞林検索結果は、Weblio経由で得られたものである

人間肛門から排泄する食物のかす。くそ。糞(ふん)。便。うんこ

ここで、「食物」は、三省堂大辞林には「食べ物」と説明されていた。「食べ物」は、同辞典には「①食べるもの食用品。しょくもつ。食いもの。②(飲み物に対して)かんで食べる物」と説明されていた。すなわち同辞典では、食べ物(=食物)は飲み物と対比されるものとされていた。してみれば、同辞典における大便の説明で「飲食物」ではなく「食物」とわざわざ記載されているのは、大便という概念を、固体である食べ物に由来するもの限定する意図があると推定された。

従って、三省堂大辞林の項目「大便」に記載説明に従えば、以下の要件を全て満たすものうんこであると考えられる。

  1. 人間から排泄された
  2. 肛門から排泄された
  3. 固体である食物のかすである

両者の間には、若干の表現差異がある。三省堂大辞林は、主体的要件を、「動物」より狭い概念である人間」に限定している。また、三省堂大辞林は、経路要件を「消化管」ではなく、消化管の末端である肛門」に限定している(消化管から排泄されながら肛門を経由しないという状況が想定できないので、実質的に経路要件は同一であるとも言えるが)。さら三省堂大辞林は、客体的要件を「固体」より狭い概念である「食物のかす」に限定している。もし、「食物」が「飲み物」も含む概念であると解されるならば、「食物のかす」は「液体」を含む広い概念であることになるが、上述のように三省堂大辞林は「食物」に「飲み物」を含めていない。

しかしいずれの説明採用するにしろ、「うんこ」が固体であるということには疑いがないと考えられる。

ここで、人間という動物である私は昨晩、消化管の終端である肛門から液体を漏らした。

私は、昨日の夕方から下痢気味だった。夕方から21時頃にかけて、私は3回くらいトイレで排泄行為をしたのだが、その結果、液体の中に食物のかすが混じったもの便器にあった。これら3回の排泄行為の結果、私の便意は収まった。そして23時頃、私は自宅最寄り駅にたどり着き、自転車に乗り換え、自宅に向けて自転車を漕いでいた。踏切に引っかかったので、私は両足を地に着け、腰を上げた。その瞬間、おならではない何かが肛門を通り抜ける感触を私は感じた。

おそらく、腰を上げる際に下腹部に僅かに力を入れたことが、この通り抜け現象の引き金になったのだと思われた。しかし、前触れは何もなかった。その時、私は何ら便意を催していなかった。なので、私は肛門に突然生じた感触驚愕した。「うんこだ!」 私の頭は、突然ひらめいたうんこという単語で満たされた。

反射的に、私は括約筋を閉ざした。肛門付近の状況は全くわからなかった。肛門で感じられた漏出量は僅かだったので、大惨事には至っていないだろう。しかしある程度の被害パンツに生じていることは疑いないように思われた。幸い、周囲は暗いので、万が一うんこ衣服の外部に染みていても、通行人うんこ漏れたことが露見することは無いだろう。私は自転車サドルに腰を下ろすことなく家に急いだ。

帰宅後、私はすぐにトイレに駆け込んだ。肛門からは、液体の中に食物のかすが混じったものが出た。それから私はパンツを確かめた。すると、奇妙なことに、紫色の私のパンツには一見異常が認められなかった。どういうことだ? あの感触は、おならにはない独特の存在感があったのだ。無いわけがない。私は目を凝らした。すると、パンツの、丁度肛門と接触するあたりに、濡れた箇所があるのを私は発見した。食物のかすは付着していなかった。布地の色のせいで、パンツを濡らした液体の色はわからなかったが、かなり透明度が高いように見受けられた。

ここで、私が濡らしたものが上述のうんこの3要件を満たすか否か検討すると、以下の通りとなる。

  1. 主体的要件について
  2. 経路要件について
  3. 客体的要件について
    • 私が漏らしたもの実質的に透明の液体であり、食物のかす等の固体はここに一切含まれなかった。従って、客体的要件は満たされない。

してみれば、私が漏らしたものうんこ3要件を全て満たすものではないのでうんこではない。私はうんこを漏らしていなかった!

ただし、ここで別の問題があるように思われた。私は何を漏らしたのだろうか。

肛門から漏れる気体はおならと称される。肛門から漏れる固体はうんこと称される。しかし、上述の検討から導かれたように、「うんこ」は液体を含まない概念である肛門から漏れる液体はうんこではないとわかったが、これの名前が私にはわからなかった。慣例的には、私が漏らしたものは水様便、又は下痢便と呼ばれるものなのであろう。しかし、「水様便」及び「下痢便」のいずれの表現からも、私は、液体の中に食物のかすが混じったものを想起する。液体のみからなるものを「水様便」又は「下痢便」と称することは、厳密には誤りではないか

ここで、私はWikipediaで「下痢」を検索した。ここには、以下に引用する記載があった。

下痢(げり、英: diarrhea)は、健康時の便と比較して、非常に緩いゲル(粥)状・若しくは液体状の便が出る状態である。主に消化機能の異常により、人間を含む動物が患う症状であり、その際の便は軟便(なんべん)、泥状便(でいじょうべん)、水様便(すいようべん)ともいう。

Wikipediaは「液体状の便」について言及しているが、「液体*状*」という表現は、完全な液体ではないことを示唆している。上述のように、三省堂大辞林及びWikipediaのいずれにおいても「便」は「固体」である。「液体状の固体」は、液体に近いが液体になりきっていない固体であると考えられる。Wikipediaは「液体状の便」が「軟便」「泥状便」「水様便」である説明しているが、してみれば、液体のみからなる私の排泄物は、「軟便」「泥状便」「水様便」のいずれにも当たらないように思われる。

しかし、Wikipedia下痢」には、さらに以下の説明があった。

東洋医学では泄瀉(泄は大便が希薄で、出たり止まったりすること。瀉は水が注ぐように一直線に下る)とも呼ばれる。

「瀉」は、水が注ぐように一直線に下るものであるとされる。私の排泄物は、これに近いように思われる。私は瀉を漏らしたのか。

ここで私は「泄瀉」についてWebで調べてみたが、あまり情報がなかった。一番詳しいように見える、群馬漢方薬局の方がやっておられるBlog(https://ameblo.jp/hideo3355/entry-12163635334.html)には、以下のように説明されていた。

泄瀉(せっしゃ):「泄」とは排便時に希薄な大便が緩やかに排出される症状を指し、「瀉」とは排便時に清稀な大便が水のようにまっすぐ流れ注ぐもの。両者をあわせて泄瀉と呼ぶ。

「瀉」は、「清稀な大便が水のようにまっすぐ流れ注ぐものであるとされる。「清稀」は日本語ではないようだが、Google翻訳中国語日本語翻訳にかけると「クリア」と翻訳された。「瀉」はクリアな大便。私は「クリアな大便」という表現からはどんな物体も想起することができなかった。ここから先は、漢方医学の専門書などにあたらなければ正確なことはわからないように思われたが、疲れた私は「私はうんこをもらさなかった」という確信と「私は何を漏らしたのかわからない」という不安を抱えたままシャワーを浴びて寝た。

2017-09-02

たった100年前の出来事の真偽がわからないって何か不思議

関東大震災朝鮮人虐殺云々が今更盛り上がっていますが、個人的不思議なのはたかだか100年前の出来事本当にあったかどうかでもめている点です。

その頃にはもちろん新聞もあったし、写真映像の記録も可能だったりしたわけで、それでもなお真偽のほどがわからいから揉めているわけです。

それってなんだか不思議じゃないですか?

ここで言いたいのは、真偽のほどがどうとかそういう話ではなくて、まだ生きている人間がいる100年前の出来事の真偽がわからないって、なんだか不思議だなっていう話です。

これがもし10年前の話だったらほぼ確実に白黒つくと思うんですよね。

何かしらの記録も残っているでしょうし、記憶も残ってる方が大勢でしょうから

はいえ、今から100年後に、最近起こった出来事の真偽を尋ねたとしたら、多分揉めると思うんですよ。

100年後の人から見たら、私たちが書いているチラシの裏以下のブログに書かれたクソみたいな文章と、著名な誰かが書いた素晴らしい文章との実質的差異がわからないケースが出てくると思うんですよね。釣り記事なのに1000スターくらい付いてしまったエントリとかって、今は明らかにネタだとわかっていたとしても、100年後の人にはそれが判断できないと思うんですよ。その当時の時代背景を理解しているわけでもないですし、それこそ、その当時の日本におけるネット文化とその背景なんてもの想像しか語れないわけですから。とすると、揉めちゃうはずなんですよ。記録はあるはずなのに、その記録の真偽のほどが判断できないから。

別の観点から考えても、揉める可能性の方が高い気がしています

インターネット上に何かを公開する=未来永劫残る」となんとなく思っている人も多いでしょうけど、実際は多分そんなことがないわけです。

現に、潰れてしまったブログサービスに乗っていた記事なんかはもう読めないわけです。

もちろん、個人的に記録を残している人もいるでしょうけど、彼らの記憶媒体物理的に壊れてしまえばそれはもう見れないも同義なわけです。

CD-ROMHDDSSDなんて、もって10年程度ですし、定期的なバックアップを繰り返さない限り、記録はなくなってしまうわけです。

とすると、下手したらそもそも記録がないというパターンもそれなりに生まれるのかなと思ったりします。

これだけ社会進歩して、記録するための仕組み化が進んだにもかかわらずです。

から100年後の歴史学者って大変だなって思います

情報量が多すぎてまともな分析はできないでしょうし、色々な思想が混じり合いすぎて、何が正しいのか今以上にわからないでしょうから

真実ってなんなんでしょうね。

もう全部コナンくんが決めたらいいと思います

少なくとも私は、コナンくんが真実と決めたことならば、もうそれは真実って受け入れる覚悟はできています

2017-08-30

https://anond.hatelabo.jp/20170830124122

ネアンデルタール人は、約40万年前に出現し、2万数千年前に絶滅したヒト属の一種である

両者の遺伝子差異は他の動物種ならば当然別種と認定されるレベルであり、ネアンデルタール人ホモ・サピエンスは混血できなかったとする考え方が有力であった[4]。しかし、2010年5月7日サイエンスに、われわれホモ・サピエンスゲノムネアンデルタール人遺伝子が数%混入しているとの説が発表された[5]。

らしいので「そこまで遺伝子差異を大きくするには数十万年必要」「そこまで遺伝子差異があっても交配できる可能性がある」で二重に否定されるんじゃ?

白人黒人遺伝子差異は「別種と認定されないレベル」だし、人種が分かれてからまだ数万年らしいし。

https://anond.hatelabo.jp/20170830122353

人種って遺伝的にはぜんぜん差異がないんでしょ。

ましてや交配できなかったら種が違っちゃうよ。

2017-08-29

日向市PR動画賞賛するフェミニストに思ったこと

話題日向市PR動画見たけど、個人的にはすごく好感の持てるPR動画だと思った。あの動画いかなる程度であれルッキズムが潜んでいることは否定しようがないけれど、僕個人としては社会的抑圧の一切を否定した社会はハクスリー的なディストピアしかないと思ってるので「海、似合ってないね」程度の抑圧は彼と同じく「ほっといてください」と言って許容出来る範疇 にある。‬しかし、それでもやはり肥満体型と似合う似合わないという価値判断を結びつけている以上そこにルッキズムという抑圧が存在していること自体は疑い得ない事実である。ところがその事実すら否定したがる一部のフェミニストたちがいるらしい。

サーフィン練習を重ねた結果として体が引き締まることを自然の結果だと言うなら、なるほど一般的に言うルッキズムもある程度自然根拠を持つものだと言えるだろう。しかし、海に似合う男が体の引き締まった男性なのだとしたら、つまり自然身体の一致を以ってして似合っていると呼ぶのであれば、男女で所与の身体的条件に差異存在しているのも自然になるわけで、したがって生理妊娠などによっても社会活動制限のかかる女性社会進出を目指すことは女性に「似合っている」とは言い難いように思う。それは当然女性社会進出を訴えてきたフェミニストには受け入れ難い主張かもしれない。

思うにフェミニズムという思想が上述したようにいくらかは自然根拠を持っている社会的分業に反対するものとして登場した思想であることを考慮すれば、その根底においてフェミニズムは反自然的性格を備えていることがわかる。それはつまり自らの生物としての女性性に対する根源的な自己嫌悪とも言える。このように考えた場合フェミニストがこのPR動画におけるサーファーの「海、似合ってないね」というセリフを見てそこに普段から自分たち解放されることを望んでいるのと同種の自然の軛を見ずに、あまつさえ他方にあってはその軛を肯定して自らの軛から解放手段にしてしまうのであれば欺瞞も甚だしいと言わざるを得ないだろう。

Call Me By Your Name@miffレビュー

8月29日、思ったより拡散したため追記。自分ではネタバレなしのつもりで書いて、ツイートにもそう明記してしまったが、ネタバレという言葉には個人差があることをすっかり忘れていた。ネタバレ見たら死ぬタイプの風上にも置けない。地雷を踏んでしまったら申し訳ない。配慮したつもりですが、どうぞご注意ください。太ももの話以外もします。

なにせ太ももがすごいらしいのである

俳優アーミー・ハマーの太ももである

サンダンス映画祭直後、賞賛と祝福の声とともに、あまりの刺激のために悩殺されてしまったという感想ツイート散見されて、映画祭参加の幸運に預かれなかったファンはもどかしさに身悶えしたのであった。

Call Me By Your Name1983年北イタリアとある町のひと夏を舞台にした、二人の青年あいだの恋を描いた映画である。くわしくはimdbを参考にされたい。

http://m.imdb.com/title/tt5726616/

この映画2016年5月世界中の一部界隈にて話題になった。言わずもがなアーミー・ハマーファン界隈である。そのあまりに蠱惑的なあらすじにつられて手に取ったのが原作小説である

そんなごく軽くかつ不純な動機で読み始めたAndré AcimanによるCall Me By Your Nameだが、回顧体で描かれた物語に一瞬で虜になった。

冒頭のシーンからして心憎いのである

まりにも印象的な出会い、一生を変えてしまうたった一言から語り始められるその物語は、意識の流れを実に巧みに取り込んだ、プルースト研究者でもある著者ならではの文体で読者を陶酔させる。やがて語り手であるエリオと一体化した読者はオリバーの冷淡さに苦しみ、意外な素顔を見せられはっと息を呑み、ただ呆然と結末を迎えることになる。

ツルゲーネフの「はつ恋」やらナボコフの「ロリータ」やらをこよなく愛するわたしにとっては好み直撃ど直球であり、そのうえアーミー・ハマーの太ももやばいとあってはなにがなんでも映画を見なくてはという気持ちになった。

しかネタバレ見ると死ぬタイプオタクにつき、どうしても世界公開より先に見たいという気持ちを抑えられない。はたしてMIFF(メルボルン国際映画祭8月3〜20日、CMBYNは4日と6日上映)に飛んだのである

笑ってほしい。

かなり早い段階でチケットも売り切れ(一度キャンセルが出たが、最終的に上映日までには両日完売!)ていたため、予想はしていたが、当日は冬のメルボルンにて1時間から長蛇の列である

席は早い者勝ちなのでみんな普通に必死だ。特に二度目の上映での、劇場をぐるり半周する列は写真に撮らなかったのが悔やまれる。みんなが手の端末にQRコードを表示させ、南半球ならではの冷たい南風に身を縮めながら待機している。

2度のCMBYN上映の他は同じくアーミー・ハマー出演のFinal Portraitに参加したばかりだが、それに比べるとやや平均年齢が下がるかなという感じ。

それでも、老若男女ということばがふさわしい、実に幅広い客層。

そんなことより映画だ。ここからネタバレはなるべく避けて進める。なにせネタバレ見ると死ぬタイプなので安心してほしい。後日一部シーンバレ感想もあげるつもりでいる。万全の態勢です。

さて、本編はピアノ音楽によって始まる。

劇中曲について、MIFFのQ&Aにてルカ・グァダニーノ監督が語っていたことだが、基本的には登場人物が耳にした音楽……エリオの弾くピアノ曲ギターオリバーが身を委ねて踊るダンスミュージック家族が耳を傾けるラジオレコード……に限った、とのことである。それを知らされるまでもなく、最初楽曲から没入感があり、一息に世界に引き込まれる。

そしてオリバーが現れる。イタリア太陽である。明るい陽光主人公エリオのいる部屋の暗がりを際立たせる。

エリオを演じる当時弱冠20歳ティモシー・シャラメは終始少年健全さと病的な魅力をひとしくたずさえて美しいが、とりわけ夜、ベッドでのシーンでの肌は内部から光を放つようだった。

アーミー・ハマーが、その見せ場においてはつねにイタリア太陽に照らされて灼けたなめらかな肌とあかるい金色に見える髪を輝かせているのと好対照で、一場一場面が絵画を見るようだった。あるいは、冒頭でわれわれを一息に映画世界に引き込む、連続的な彫刻群のショットのようだ。

この対照関係意識されたものだと思う。

エリオオリバーに魅了されるのはかならず真昼の屋外だし、エリオオリバーを室内に引き込むと、オリバーは初めて(ようやく、と言ってもいい)エリオに見とれるのだ。

野外と屋内、昼のシーンと夜のシーンが交互にさしはさまれて、われわれ観客はふたりうつくしい青年に2時間超の間目まぐるしくも目移りしてしまうのだった。

そしてくだんの、アーミー・ハマーの太ももである

ももに殺されたひとびとのツイートがいまならよくわかる。

しかしいざ太もも談議をするとなると血で血を洗う戦争になるにちがいない。

短いショーツか、あるいは水着でのシーンが大半で、太ももは終始晒されているので各人のフェイバリットももがあることだろう。

マイフェイバリットももとある場面にてエリオとともに床にぺったりと座るオリバーの太ももである。だが自分多数派である自信はない。これについてはまたあとで。

オリバー原作よりもなお複雑で謎めいたキャラクターになっていると感じる。

原作では物語がすすむにつれ、読者はエリオとともにオリバーの知らなかった一面に驚かされるのだが、映画ではむしろ序盤からオリバー大人の男としての魅力と奔放な子どものような無垢さが入れ替わり立ち替わり現れてエリオないし観客を翻弄するのである

(シーンバレありの記事にでも書くつもりだが)序盤からオリバーエリオよりも幼い子どものようないとけない振る舞いを見せ、グァダニーノ監督言葉を借りるなら、エリオより「なおイノセント」だった。

アーミーハマーファンの同志は心してかかってほしい。奇声を発するか原作エリオ言葉を借りるならswoonに至らないよう上映中握りしめるなり揉みしだくなりできる柔らかい布など持っていくことをおすすめする手ぬぐいとか)

そのような差異こそあれ、アーミー・ハマーオリバー原作を読みながら夢想していたオリバーほとんど完璧に一致していた。

この結論にはアーミーハマーのじつに感情たかな目の表現が大いに寄与しているのだと思う。たとえば「J・エドガー」でのクライドトルソン役において彼が見せたような目つきだ。沈黙の場面で熱っぽく目が話す。このものを言う目がとくに生きるのは、逆説的だが目の映らない場面で、たとえば映画の中でもひとつクライマックスにあたる戦争慰霊碑のシーンがその一例だ(トレーラーにも引用されていた)。

もうひとつ、結末に近い重要な場面でピントを外したカメラオリバーをとらえる。オリバーの顔が長く映されるのだけれど、けして鮮明な像を結ばない。観客は食い入るようにスクリーンを見つめてはじめて、自分エリオと同じようにオリバーの目に浮かぶ表情を読み取りたいと熱望していることに気づかされる。

目について語るならばティモシー・シャラメにも言及しなくてはならない。

ティモシー・シャラメは今後少なからず目にする機会が増える役者だとつくづく思いしった。身体の使い方が素晴らしく、手足の隅々まで神経を張り詰め、あるいは意図的脱力し、髪の先まで演技していると感じさせる。(この先エリオ面影を振り払うのが難しいのではとも感じるが、むしろその印象を己に利するものとして使ってほしいしこの期待は報われるにちがいない)

だがなによりも、その目つきである! トレーラーにも含まれていた、踊るオリバーをじっとりと見つめるあの目が全てではない。映画から小説通底する一人称の語りが省かれているものの(あれば安っぽくなり得たと個人的には思う)それを補って余りあるティモシー・シャラメの目つき。

まさに小説が羨む技法で、文字で書かれたフィクションを贔屓しがちな身としては、こういった映画化を見せられるとただひたすらに喜びを感じてしまう。

さてトレーラーといえば、あの実に夢見心地で幻惑的で、緊張感とせつない予感に満ちた映像を、わたしだってリリース直後には再生する手が止まらなかったほど熱愛しているが、 本編とは少しトーンが違っているとも思える。

トレーラーから、そして原作から想像していたものにくらべると、より明るく、ユーモアがあり、笑いだしてしまう瞬間がある。

かなりの頻度で笑いが起こっていたが、これは映画祭だったのと、おそらく英語圏中心とおもわれる観客層も関係してくるのかもしれない。

ただ、エリオ食卓でのとあるシーンについては国内映画館でも笑いが起きると予想できる。そしてその直後におとずれるエリオオリバー官能的な接触に息をのむことになることも。(さてくだんのマイフェイバリット太腿はこの場面で登場する。すくなくとも個人的にはこの場面はお祭りだった。細いのに肉感的な大腿部に釘付けになるあまり台詞をごっそり聞き逃したのだ……)

こういった感覚の急激な転換は映画全体を通して言えることで、一瞬たりとも気を抜けないと感じた。ほほえましく口元を緩めた直後に、心臓が指でひっつかまれるように締め付けられる。

ところどころに埋め込まれた、笑える箇所について、今ふと思ったが、これは原作にて重要役割果たしているが本来映画だと表現しにくい「時間性」をどうにか持ち込もうとした結果なのかもしれない。

10代のころの恋愛とか、恋愛でなくてもエモーショナルなやりとりは当時は必死真剣なんだけれど、そのときの行動を大人になって振り返ってみると、わがことながらおかしくて笑ってしまう、あの感じがよみがえるみたいだ。

そのようなノスタルジーを引き起こす展開に身を委ねるうち、二度の上映は割れんばかりの拍手でしめくくられた。自分も同じように手を叩きながらLater、と軽やかな別れの言葉脳内で繰り返していた。原作で読んで想像していたよりもなおあっさりと、冷淡で、なのに奇妙に耳に残るオリバーの声。

一夏の客人のその挨拶を、エリオが、母が、父が真似たように、自分もつい口にしたくなるはずだ。

じつは原作を読んだ時から自分は最適な読者じゃないと思っていた。

小説として心から好んではいものの、「この物語自分物語だ」「この物語によって救われた」「こういう物語が描かれるのをずっと待っていた」と感じる人がいることを、一行読むごとに、確信し続けたからだ。

この映画現代を生きるごく若いセクシュアルマイノリティに届くことを願っている。

キャロル』がそうであったように、相手性別特別なのではなく、ただその相手特別だっただけ、ということを描いた映画。だが一方で、両親という存在の描かれ方において、この作品はこれまでのクィア作品と一線を画している。

そして、『ムーンライト』があまりにも普通恋愛映画であるという事実特別だったのと同様に、Call Me By Your Nameエリオの一夏の恋愛は美しいと同時に「ごく普通青少年悶々とする」という部分が色濃くて、その事実をとにかく祝福したい。

自分はこの映画クィア映画だとは思っていないのだとグァダニーノ監督がQ&Aで語っていたが、この言葉がすべてだと思う。

10代の頃に出会ってたら人生が変わっていたなと確信を持つ映画はいくつかあるけれどCMBYNはそのトップに躍り出た。

現在のところレーティングはR18のようだけれど、そこまで直接的なショットはなかったように思う。

何かが起こったこと、そして何が起こったかから目をそらすという悪い意味での曖昧さは無いが、物語破綻させないように、そして必要以上にセンセーショナルに煽らないと努めての結果なのかもしれない。

からこそ、PG12かR15バージョンが作られるといいなと思っている。エリオと同年代の、この映画肯定感を本当に必要としているひとたちに見てもらいたい。

キャストきっかけに興味を持ったCMBYNだが、自分の中にそびえる金字塔を打ち立てた。日本に来た時にも従来の俳優物語ファンに愛されるのはもちろん、新しい映画として多くの観客に愛してほしい。そして本当に必要としているひとにぜひとも届いてほしいと思う。

ちょうどこのレビューを書いている最中8月23日)にMIFFの観客賞が発表され、Call Me By Your Nameが晴れて1位を獲得した。http://miff.com.au/about/film-awards/audience#

もちろん自分も最高点の星5つで投票したし、あの盛り上がりを考えると納得の結果だ。

アジア内では台湾映画祭での上映が決まっているCMBYN。東京国際映画祭に来ないはずがない、と信じている。

お願いします。

邦訳本もどうぞよしなに。

2017-08-28

思考について

思考に関してブログをやっているので、軽い相談を受けた。

と、書いてもよいと言われた。

なお、以下の文章は、論というよりも、随筆な感じだ。

結論がなく、その辺でうねうね行ったり来たりしているだけの文章

(と書いて、その意味理解してもらえるだろうか、と逡巡する。)

そんな雰囲気だ。

ある人のお母様について。

割と良い母親だ。

(ちなみに、お父様も良い。)

みんな、コウノトリ拉致されるときに、親くじを引く。

結構上位のつがいをゲットする人もいる。

他のやつの中には、号泣しながら連行されるのもいた。

人は、スタートの段階では、生と姓とを受け入れなければならないことになっている。

平等権

あぁ、それは、親くじを引く機会がみなに平等にある、ということ。

規約の204条1項に書いてありますよ。同意したでしょ。

始発から早速脱線した話を、元の線路に戻そう。

自分の目」を「他人の目」と勘違いしているような、松本人志の話を快く聞くような、よくいるおばちゃんだ。

(ここで、おばちゃんという属性は、特に、なにも意味していない。ぽりてぃかる☆これくとねす)

もっと具体的に言えば、これまで、酵素コラーゲンとか、「○○人は」「○○教は」とか、まぁ、共感性羞恥?を生じさせるような、それ以上先を言わせたくないような、何と言うべきか、イタイことを言うような人だ。

(ちなみに、水素水には引っかからなかった。)

彼は、内心、そういうことを公言するのをやめさせたいと、心配らしい。

意味不明なまま振り回す知識は、他人を傷つけるかもしれない。

また、今後、年を取って、多くの他人に頼らなければならなくなるかもしれない。話が通じない人になっても困る。

他方で、田舎育ちの高卒専業主婦にその辺の選別をさせるのは、今のままでは本人のライフスタイルを無理に否定するようで、心苦しい。

(言い換えれば、手続を踏んで、根本から変えていきたいということ)

今更相談されても困るんだが、というのは私の事情だ。

「親は、実は、現在自分から見ると、馬鹿なのではないか。」と気づくタイミングは、人それぞれだ。

(もちろん、馬鹿じゃない親もいるかもしれない。また、馬鹿でも「しゃーねぇなぁ」となるのが家族だろう。)

反抗期の時に気づくかもしれない。

もっと子が成長し、親が衰えた時かもしれない。

彼は、遅かった。

脱線した。

彼女は、最近心理学脳科学に手を出し始めた。

この一年ほど、やっているらしい。

何やら、メルカリで本を買っていた。

第一段階として、本を読むだけ良しとしよう。

内容についても、アドラー加藤諦三は、読めばよいと思う。

何かしらプラスになるだろう。

彼女は、「前頭前野は、報酬系云々」と話し始めたそうだ。

そこまでは、とりあえず・・・?良かった。

しかし、「あんたは、前頭前野が弱い。」とか言い出した。

なるほど、そう来たか

(ここで「『前頭前野が弱い』のは誰か。」と尋ねてくるやつは、嫌いだ。)


彼女の抱えている課題は、こんな感じだ。典型的だ。

残念なことに、彼女は、基本的知識もない。

(どこからどこまでが基本的かは、分からないが。)

物事構造化することができない。

差異の体系を構築することができない。

みじん切りにされた個々の情報を、自らの感性と直結させている(だからキレやすい)。

自分他人区別できない。

他者との間で、コミュニケーションが成立していないことがわからない。

(と、ここに書きなぐっても、コミュニケーションは、私と読者との間で成立しないだろうが。)

そして、一番は、自尊心がない。

しかも、本人がやる気なら、ある程度、解決することもできるだろう。

いや、でも、彼が指摘することは、そもそも課題なのか。

彼女の話し相手も、同じような感じだろう。

だったら良いじゃないか

ただの雑談じゃないか

(逆に言えば、彼女は、雑談の延長から離れて、核心に触れる話をすることができない、ということでもあるが。)

何より、本人は、それを直すつもりがないようだし。

と、宙吊りで終わる文章

2017-08-27

叶姉妹を受け入れた人間が、真木よう子氏を叩くのはおかし

http://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.cinra.net/news/20170825-makiyoko

この記事ブコメに、叶姉妹ときとはうってかわって

彼女の参加に対して懐疑的な反応が集まっており、それが心底意外だった。

http://news.livedoor.com/article/detail/13524106/

そうした反応をまとめた、こんなニュースも。


コミックマーケットの開催趣旨

http://www.comiket.co.jp/info-a/WhatIsJpn201401.pdf

公式pdfにも書かれているように、

コミックマーケットは「自分たち作品の発表の場として編集発行する雑誌」を

頒布するための場として開かれている。

あくまで「個人サークル作品の発表が目的」の、文化的支援趣旨の場であり、

コミケ側も、サークル側も、「営利目的でやるのは違うよね」というスタンスである


実態

前項で書いたように、営利目的で参加するのは違うよね、とはされつつも、

実際には、営利目的で参加しているサークルも少なくない(とみられる)。

けれど彼らに「君ら本当は表現目的じゃないよね?お金けが目的でしょ?」なんて

問いただした所で水掛け論なので、特に出来ることもすべきこともない、という状況である

(界隈では、そういったサークル存在は「同人ゴロ」と呼ばれている)


叶姉妹真木よう子の違い

はっきり言ってしまえば、

お金儲けや話題作りへの下心を感じる」とバッシングされている真木よう子

それから叶姉妹小林幸子らの間に、サークル参加者としての明確な差異は全く無い。

確かにクラウドファンディングお金を集めたり、「皆さんにお会いしたい」と語るなど、

真木よう子氏のコミケ参加に、強い「ビジネス臭」がするのはわかる。

しかし、振り返って考えてみたときに、小林幸子叶姉妹は、

真木よう子氏とは違い、純粋作品頒布目的だったと言える証拠はあるだろうか?

新規市場に攻め込む際、市場文化を前もってよく調べるのは、マーケティングの基本だ。

彼女らはコミケ出展したことによって、当日の売上以外に利益享受してはいないだろうか?

彼女らは、目立ったり、好感度を高めることがビジネスの一部である芸能人」だ。


・私が危惧すること

叶姉妹小林幸子いかビジネス成功しようが、個人的にはどうでもいい。

別に彼女らのことが嫌いでこれを書いているわけではない。

オタクのチョロさに気づき、味をしめた存在

たとえばその他の有名人なり、諸団体なりが大量に流れてきたら、どうなるか?を心配している。

コミケという場の文化理解せずに流れてくるのは、サークル参加者側に限らない。

有名人に釣られて入ってくる一般参加だって、きっと増えるだろう。

それ以前に、スタッフ負担だって増える。待機列とは関係ないところに人だかりができる。

何かとヘイトを集めがちな有名人だ、トラブルリスクだって無視できない。

会場内が「一般人」の目に触れる機会が多くなりうるきっかけは、本当に是とすべきだろうか?

しかコミケ運営は「どうせ表現目的じゃないだろ」と「同人ゴロ」を弾けないように、

今回の真木よう子氏を含め、

そのようにして流れてくる連中もまた、受け入れざるを得ないし、そうするべきなのだ


真木よう子氏の参加に対してあるべき声

コミケ運営が「同人ゴロ」の参加申し込みを弾くことができないのと同じように、

今回も、コミケ側は真木よう子氏の参加申し込みを、他の申し込みと平等に扱うべきだし、

我々一般参加者も、叶姉妹小林幸子ときと同じ視線を向けるべきだ。

から、「コミケである必要性」とかの話ではない。

自分表現をどのような場に出そうとしようが、表現者自由であり、

また同時に、どのような表現も受け入れてきた広い受け皿でこそ、コミケはここまで発展してきた。

いかビジネス臭のする表現だろうが、それが自己表現だと言われればそれまでである

とは言いつつ、単に「ビジネス臭がする」という印象上の批判に収まらない、

コミケという場を文化的に最大限意義あるものにしようとする態度を含んだ批判はしていくべきだ。

個人的には、そのような批判は、外堀から埋めていく形をとる気がしている。


叶姉妹賞賛する人々は、こうしたことを少しでも考えたことはあるだろうか?

コミケは、作品頒布のための場」であることを、我々は思い出さなくてはならない。

2017-08-25

DQNネームを名付けられた俺の末路ver1.2

増田DQNネームについて語っているのを見てどうしても増田に書いておきたい衝動に駆られたから書く

これから子供の親になる増田子供名前を付ける時の参考にでもなれば幸いに思う

まず肝心の俺のDQNネームの詳細についてだが、俺の名前は謂わば「女みたいな名前」のDQNネーム

そこでここでは仮に俺の名前を「カミーユ(かみーゆ)」としておきたい

俺が最初自分名前について違和感を感じたのは幼稚園の時だった

当時同じ幼稚園女の子カミーユという名前の子複数在籍してて、子供心に「カミーユって名前男の子はいないのに、女の子は沢山いるんだなぁ」と思っていた

次に違和感を感じたのは小学生3年生の時

親の都合で転校した先の学校自己紹介をしたのだが、複数クラスメイトが示した最初の反応が、「女みたいな名前だな!」だった

この時に初めて自分名前羞恥心嫌悪感を抱いたし、自分名前が他の人からみたら変な名前なんだということを自覚したと思う

それからというもの自分名前にずっとコンプレックスがあり、更に周りの反応もそうしたコンプレックス助長した

「女みたいな名前だよね」というありきたりの反応もそうだったが、初見教師が必ずと言っていいほど全員「なんだ男か。カミーユから女かと思った」という反応を示すことも辛かった

女子からカミーユちゃん」と呼ばれてからかわれたり、髪をヘアピンで弄られたりしたことも辛い記憶として残っている

中学に上がってもそうした周りの反応は依然としてあり、更に今までなかった年齢相応の問題も勃発した

二次成長」だ

身長が伸び、身体はゴツゴツと骨張り筋肉質になり、喉仏は出て声も低くなった

俺の見た目は完全に少年を脱却し青年となった

しかし、俺の名前は「カミーユ」だった

これが問題になった

俺の見た目と名前ミスマッチ加減は当然周囲からネタとして消費された

教師が俺の名前を呼ぶ度に何処からクスクス笑う声が聞こえた

女子からネタにされて、思春期の俺は完全に心を病んだ

中学2年の時だった

それから俺がどうしたかというと、自分に対する周囲の扱いに抵抗するのではなく、自分自身を変革しようと試みた

それは言ってみれば、自分名前と外見の差異を減らそうという試みだった

当時の俺は、自分名前は女々しいのに外見が雄々しいことが嘲笑対象になっているのだから、外見を出来るだけ中性に寄せればいいんだと、そう思い込んでいた

兎に角名前と外見の解離がコンプレックスだったから、変えようのない名前は諦めて、せめて変えられる外見だけでもなんとかしようと考えたのだ

まず最初に口元の青髭から足の脛毛からワキ毛まで全身の体毛を剃った

母親の剃刀を無断で拝借して風呂場でこっそり剃ったのだが、何せ初めて剃刀を使ったので上手く剃れず全身傷だらけになったのを覚えている

次に髪を伸ばした

俺は前髪の毛先が眉毛より上にあり襟足が殆どない短髪だったのだが、前髪が目にかかり襟足が糞ガキ認定を受ける程度の長さまで伸ばした

イメチェン 笑 と揶揄する同級生もいたが俺は気にしなかった

もう全員敵くらいの認識だった

そして極めつけにAmazonプエラリアという女性ホルモンの様な作用をするサプリを購入して服用した

本当は女性ホルモン個人輸入たかったのだが、何せ当時は中学生自由に使える銀行口座がなかったので仕方なくプエラリアに甘んじた

一日6錠くらい寝る前に飲んで数ヵ月も経つと肌がスベスベになり、髪もサラサラになって胸も膨らみ如実に効果が出た

周囲は俺の突然の変化に対して意外にも冷静だった

何というか、「触れない方がいい奴」みたいな扱いだった

そのまま中学卒業した

中学生活の後半はこんな感じだったので殆ど同級生とも会話せず、卒業アルバムの寄せ書きは5人くらいしか書いてくれなかった……

高校に上がってから継続してサプリを服用した

もう既に「小ぶりなおっぱい」と言って差し支えないレベルに胸が膨らんでいたので、周囲から弄られることもあったが、生まれつきこうなんだ、と言って誤魔化した

そしてこの頃になると俺は船で隠れて女装をするようになった

エマさんの服を拝借して姿見の前に立ち写メを取った

大尉罰ゲームでやらされた笑」と無理な言い訳を作ってそうした写メを仲の良い友人にLINEで送ったりもした

もう完全に承認欲求暴走で歯止めがきかなくなっていた

性自認は男だし女が好きなのだが、男から可愛いと言われたいという欲求が日増しに膨らんでいった

そして高3の時、キリマンジャロ攻略で侵攻していた基地トイレ大尉チンコ舐める妄想をしながらオナニーをした

戦争ストレスで頭がおかしかったのも多少は関係しているとは思うが、正直もうこの頃は大尉チンコを舐めたいという謎の欲求が凄くて船で大尉を見る度にチンコ舐めたいとか思ってた

他にもトーレスやヘンケンさんに日常的にボディータッチする癖がついたりもした

誤解がないように再度書くが俺は性自認は男だし恋愛対象は女だ

今は地球医学生をしてる

最近女装して夜にこっそり街を散歩してる

これがドキドキして中々楽しい

あと個人輸入女性ホルモンを購入して服用してる

女性ホルモンをとると血栓が出来やすいとも聞くけど、もっと女らしくなりたくて摂取してる

きっと俺は頭がおかしいんだと思う

けど俺がこうなったのも元を辿れば俺の名前が「女みたいな名前」だったからなんだとも思う

俺が「ジャミトフ」とか「シロッコ」みたいな男らしい名前だったら今ごろこんな状態にはなってなかったと思うんだ

ここまで勢いで書いてしまってだいぶ乱文になってると思うけど、とにかく俺がここで伝えたかったのは、「DQNネームでここまで人生狂う人もいるんだよ」ってこと

ただそれだけ

2017-08-24

DQNネームを名付けられた俺の末路

増田DQNネームについて語っているのを見てどうしても増田に書いておきたい衝動に駆られたから書く

これから子供の親になる増田子供名前を付ける時の参考にでもなれば幸いに思う

まず肝心の俺のDQNネームの詳細についてだが、俺の名前は謂わば「女の子みたいな名前」のDQNネーム

そこでここでは仮に俺の名前を「薫(かおる)」としておきたい

俺が最初自分名前について違和感を感じたのは幼稚園の時だった

当時同じ幼稚園女の子で薫という名前の子複数在籍してて、子供心に「薫って名前男の子はいないのに、女の子は沢山いるんだなぁ」と思っていた

次に違和感を感じたのは小学生3年生の時

親の都合で転校した先の学校自己紹介をしたのだが、複数クラスメイトが示した最初の反応が、「女みたいな名前!」だった

この時に初めて自分名前羞恥心嫌悪感を抱いたし、自分名前が他の人からみたら変な名前なんだということを自覚したと思う

それからというもの自分名前にずっとコンプレックスがあり、更に周りの反応もそうしたコンプレックス助長した

女の子みたいな名前だよね」というありきたりの反応もそうだったが、初見教師が必ずと言っていいほど全員「なんだ男か。薫だから女かと思った」という反応を示すことも辛かった

女子から「薫ちゃん」と呼ばれてからかわれたり、髪をヘアピンで弄られたりしたことも辛い記憶として残っている

中学に上がってもそうした周りの反応は依然としてあり、更に今までなかった年齢相応の問題も勃発した

二次成長」だ

身長が伸び、身体はゴツゴツと骨張り筋肉質になり、喉仏は出て声も低くなった

俺の見た目は完全に少年を脱却し青年となった

しかし、俺の名前は「薫」だった

これが問題になった

俺の見た目と名前ミスマッチ加減は当然周囲からネタとして消費された

教師が俺の名前を呼ぶ度に何処からクスクス笑う声が聞こえた

女子からネタにされて、思春期の俺は完全に心を病んだ

中学2年の時だった

それから俺がどうしたかというと、自分に対する周囲の扱いに抵抗するのではなく、自分自身を変革しようと試みた

それは言ってみれば、自分名前と外見の差異を減らそうという試みだった

当時の俺は、自分名前は女々しいのに外見が雄々しいことが嘲笑対象になっているのだから、外見を出来るだけ中性に寄せればいいんだと、そう思い込んでいた

兎に角名前と外見の解離がコンプレックスだったから、変えようのない名前は諦めて、せめて変えられる外見だけでもなんとかしようと考えたのだ

まず最初に口元の青髭から足の脛毛からワキ毛まで全身の体毛を剃った

母親の剃刀を無断で拝借して風呂場でこっそり剃ったのだが、何せ初めて剃刀を使ったので上手く剃れず全身傷だらけになったのを覚えている

次に髪を伸ばした

俺は前髪の毛先が眉毛より上にあり襟足が殆どない短髪だったのだが、前髪が目にかかり襟足が糞ガキ認定を受ける程度の長さまで伸ばした

イメチェン 笑 と揶揄する同級生もいたが俺は気にしなかった

もう全員敵くらいの認識だった

そして極めつけにAmazonプエラリアという女性ホルモンの様な作用をするサプリを購入して服用した

本当は女性ホルモン個人輸入たかったのだが、何せ当時は中学生自由に使える銀行口座がなかったので仕方なくプエラリアに甘んじた

一日6錠くらい寝る前に飲んで数ヵ月も経つと肌がスベスベになり、髪もサラサラになって胸も膨らみ如実に効果が出た

周囲は俺の突然の変化に対して意外にも冷静だった

何というか、「触れない方がいい奴」みたいな扱いだった

そのまま中学卒業した

中学生活の後半はこんな感じだったので殆ど同級生とも会話せず、卒業アルバムの寄せ書きは5人くらいしか書いてくれなかった……

高校に上がってから継続してサプリを服用した

もう既に「小ぶりなおっぱい」と言って差し支えないレベルに胸が膨らんでいたので、周囲から弄られることもあったが、生まれつきこうなんだ、と言って誤魔化した

そしてこの頃になると俺は家で親に隠れて女装をするようになった

母親の服を拝借して姿見の前に立ち写メを取った

兄貴罰ゲームでやらされた笑」と無理な言い訳を作ってそうした写メを仲の良い友人にLINEで送ったりもした

もう完全に承認欲求暴走で歯止めがきかなくなっていた

性自認は男だし女が好きなのだが、男から可愛いと言われたいという欲求が日増しに膨らんでいった

そして高3の時、受験対策で通っていた塾の入っていたビルトイレで男のチンコ舐める妄想をしながらオナニーをした

受験ストレスで頭がおかしかったのも多少は関係しているとは思うが、正直もうこの頃は男のチンコを舐めたいという謎の欲求が凄くて学校で男友達を見る度にチンコ舐めたいとか思ってた

他にも男友達日常的にボディータッチする癖がついたりもした

誤解がないように再度書くが俺は性自認は男だし恋愛対象は女だ

今は都内大学大学生をしてる

最近女装して夜にこっそり街を散歩してる

これがドキドキして中々楽しい

あと個人輸入女性ホルモンを購入して服用してる

女性ホルモンをとると血栓が出来やすいとも聞くけど、もっと女らしくなりたくて摂取してる

きっと俺は頭がおかしいんだと思う

けど俺がこうなったのも元を辿れば俺の名前が「女みたいな名前」だったからなんだとも思う

俺が「大介」とか「剛」みたいな男らしい名前だったら今ごろこんな状態にはなってなかったと思うんだ

ここまで勢いで書いてしまってだいぶ乱文になってると思うけど、とにかく俺がここで伝えたかったのは、「DQNネームでここまで人生狂う人もいるんだよ」ってこと

ただそれだけ

2017-08-19

なぜインスタント袋麺のそば・うどんスパゲッティはないのか

スパゲッティとか好きなんだが、あまり作らない最大の理由は「乾燥めんが長すぎるから」なんだよね。

片手鍋だと無理な長さ。

大きな鍋だと沸騰に時間がかかるし、取り回しも悪く、洗うのも面倒くさい。

ショート麺や麺を折ってもいいけど、そうすると食べるときに短すぎて具合が悪い。

インスタントラーメンみたいに、片手鍋に適したサイズになるようにグネグネに曲げて纏まってれば、今の3倍は売れると思うんだがね。

そばとかうどんも同じ。(そばうどんは一応あるっちゃあるが、あの麺はいわゆる乾燥麺のそばうどんとは別物な気がする。)

「片手鍋で作れるか」というのは、俺みたいな一人暮らしにとっては大きな差異なんだよ。

最近24㎝の雪平鍋という強力な片手鍋を買ったから、そばやうどんは片手鍋の範疇に入ったけど、スパゲッティはこれでも無理。

つまんない所で損してるもんだなと思う次第。

2017-08-18

https://anond.hatelabo.jp/20170817200113

この人の言ってるのはあくま差異であって、差別ではない

差異があることは差別の原因にはなりうるけれど、すべての差異直ちに差別になるというわけではない。

https://anond.hatelabo.jp/20170817200113

存在規定することそれ自体差別的構造内包している、という問題意識は正しいです。

差別とは何か、ということを考え尽くすと、それが差別であるという事を指弾する事から始まるものである、ということに気がつかない訳にはいきません。


例えば、かつての白人社会では「有色人種白人よりも劣った存在であるので区別しなければならない」という考えが一般的でした、この考え方が常識だった中に於いては、差別という概念はありません。全ては正当な区別でした。

これに対して、有色人種だって同じ人間で、けして白人に劣った存在ではない、有色人種からという理由区別することは差別だ、という考え方が台頭してきます

まあ今だったら常識的意見ですが、しかしこの問題は新たな差別内包した言説になっています。「じゃあ劣った人間区別することは差別ではないのか?お前はナチス優生思想を支持するのか?」というものです。

この様に、何かを差別してはいけない正当な理由調達すると、忽ちその理由からこぼれ落ちる外部が生まれ区別が生まれ、そのうちそれは差別と呼ばれる様になります

存在規定すること自体をやめれば良いという人もいます白人黒人アジア人も何の違いもない人間で、女も男も老人も小児も全く同じ存在として扱えばよいのでしょうか?

しかしその時現実存在しいる差異についてどうするのかという問題が発生します、男と女を同じ存在として扱えと言われても、異性愛者にとって異性を愛する様に同性を愛することは困難を極めます、つーか大抵無理です。

おそらく元増田はこの様なことを考えて、「差別の根絶なんて土台不可能だ!」という結論に至ったのでしょうがブコメの指摘にも多くある様に、個人的なことと社会的なことは別だと言うのが答えです。

貴方個人的に何に価値を感じ、何に価値を感じないのかを、貴方独自規定で決定することは差別ではありません。しかしその事を理由として、ある対象社会的不利益を被るような状況に置かれる場合、これは差別です。勿論個人的なことと社会的なことはある部分に於いて複雑に絡み合っている場合も多いので、一概に切り離せるのかと言われれば難しいのですが、ベースとしてはこのように考えてよいのではないでしょうか?

何がプライベートに属することで何がパブリックに属する事なのかと言う事を考えながら差別に対する言説を注意深く見る必要があります元増田だけでなく、ここの認識を誤る人は多く、ここが間違う事で元増田のようなラディカルな思考にもなってしまうと言う事です。

どうです?少し整理できました?

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