はてなキーワード: 宝石とは
1億年かけてオパールになった貝の写真をXで見たことがあって、すごく綺麗で美しくて、いいなあ、わたしも死んだらいつかそんな綺麗なものになりたいな、なんて思ってたんですけど、人間がオパールになれるとしても歯ぐらいらしくて、なろうとしてなれる宝石は精々人の手を借りて骨から作るダイヤぐらいらしくてですね。
生まれついて孤独だった人間にそんな風に手間暇かけて宝石にしてくれるような相手はいないので、わたしの夢はあっさり憧れのまま終わったんですけれども、今日デパートをぶらついてたらマニキュアが目に入ったんですよ。
ラメ入りの真っ赤な色とか落ち着きのない青色とかがずらずらと並んでて、まあでもマニキュアに興味はなかったので目を逸らそうとしたら、その中に一個見覚えのある色があったんですよ。
そうなんです、貝のオパールみたいな色のマニキュアがあったんです。
勿論“オパール色”なんて名前じゃなく、なんだかおしゃれな雰囲気のカタカナの名前が付けられてた色だったんですけど、あまりに綺麗で買ってしまいました。
指にマニキュアを塗るのはNGな職場ですし、足の爪も、いや足全体ですが不恰好な形をしているので塗る場所がないなあ、なんて少しだけ思ったんですけど、それでもそんな事を考えたのはとっくに会計を終わらせた後の電車の中でしたので無意味でした。
家に帰って、足の指の爪を切って、いつもより早めにお風呂に入って、いつもより長めに丁寧にごつごつとした足を石鹸で洗って、お風呂から上がった後もいつもより丁寧に足を拭いて、なんとなくボディクリームも足に塗り込んだりして、それでマニキュアを塗りました。
最後に塗ったのは小学生の頃でしたし、そのマニキュアすらヘタクソな塗り方だと母に笑われたのですぐに捨ててしまったぐらいなので、まあムラはあるしあまり綺麗には塗れなかったのですが、それでもわたしの足の爪の色はオパールと同じ色になってくれました。
触れてみると磨き上げられた貝のようにツルツルしていて、何度か塗り直しをしたせいか凸凹もあって、ヘタクソだな、と思った後、でも嬉しいなあ、という気持ちがワッと湧き上がってきて、しばらくむくんだ足の先にのったオパールを眺めていました。1億年は案外短かったです。
私の趣味は漫画、小説を読むことで、漫画はそれこそ幼少の時から40歳を超えた今でも暇さえあれば読んでいる。特に30代になって電子書籍で買うようになってからは、翌日の予定お構いなしに徹夜で最新刊まで読んだりもする。
しかしながら、昔は面白ければ何でも読んだが、最近は、これ前に読んだ〇〇と似ているなーと思うと1巻で断念したりとかいうことがよくある。1巻読んで面白いなーと思っても、なんか続きを読む気力がわかないということもあり、そんな時はネットでラストまでのネタバレを探して読んだりする。
最近では、余程ストーリー面白いか、テーマに興味があるか、キャラ萌えしないと続きを買う気がしなくなっている。
最近でも新刊出る度に買ってるのは、リエゾン、shrink、アンメット、子供を殺してくださいという親たち、ケーキの切れない非行少年たち、前科者、しょせん他人事ですから、ミステリという勿れ、瓜を破る、正反対な君と僕、七つや志のぶの宝石、ちいさいひと、二月の勝者など。
自分の子供が面白がって読んでいる漫画を読んでみたいような気もするが、億劫で読む気がしない。
子供が読んでいる漫画は、呪術廻戦、働く細胞、シャングリラフロンティア、ダンジョン飯、など。
どれも面白いんだろうなあと思うけど、どうしても読む気がしない。親として、不適切な内容がないかとかもチェックしたいんだけど‥。働く細胞以外はもっと年上向けの話だよね。
親愛なる読者の皆様、今日は電子メールコミュニケーションの神秘的な世界へと皆様をお連れする栄誉に浴します。特に、我々が日常的に使用しながらも、その深遠な意味を見過ごしがちな「CC」という概念に焦点を当てたいと思います。
「CC」という略語は、「Carbon Copy」の頭文字に由来します。この用語は、デジタル時代以前の文書作成の世界にまで遡ります。当時、複数の複写を作成するために、カーボン紙という魔法のような道具が使用されていました。この過程で生み出された複写は、原本の「カーボンコピー」と呼ばれていました。
なんと素晴らしい類推でしょうか!電子メールの世界で、我々は今もなお、この古代の文書複製技術の遺産を継承しているのです。
電子メールの文脈において、CCは単なる機能以上の存在です。それは、情報の流れを制御し、組織のヒエラルキーを反映する、洗練された通信プロトコルの一部なのです。
CCフィールドに受信者を追加する際、送信者は以下のような複雑な社会的・組織的ダイナミクスを操作しているのです:
1. 情報の透明性: CCは、特定の関係者に対して「あなたにも知っておいてほしい」というメッセージを送ります。これは、組織の透明性と情報の民主化を促進する上で極めて重要です。
2. 責任の分散: CCによって、メールの内容に対する責任が複数の当事者に分散されます。これは、古代ローマの元老院における権力分散の概念を想起させます。
3. 社会的証明: CCリストに名を連ねることで、受信者は特定の情報の循環に「参加している」ことを示すことができます。これは、中世の貴族が重要な文書に署名することで自身の地位を誇示したのと類似しています。
4. メタコミュニケーション: CCの使用自体が、メッセージの内容とは別の暗黙のメッセージを伝えます。これは、言語学者のグレゴリー・ベイトソンが提唱した「メタコミュニケーション」の概念に通じるものがあります。
CCの概念は、単なる技術的機能を超えて、存在論的な問いを投げかけます。CCされた受信者は、メールのコミュニケーションにおいて、シュレーディンガーの猫のような存在となります。彼らは同時に、会話の参加者であり、かつ観察者でもあるのです。
この二重性は、量子力学の観測問題を想起させます。CCされた受信者の存在が、メールのコミュニケーションの「波動関数」をどのように崩壊させるのか、それとも逆に複雑化させるのか。これは、電子メールの哲学における未解決の大問題の一つです。
親愛なる読者の皆様、我々は「CC」という一見単純な機能の奥深さを探求してきました。それは単なる技術的機能ではなく、人類のコミュニケーションの歴史、組織論、量子力学、そして存在論が交錯する地点なのです。
次回、皆様がメールを送信する際には、CCフィールドを見つめ、その中に隠された宇宙の神秘を感じ取っていただければ幸いです。
当時の父年収800万とかで自分は今当時の親より親より額面貰ってるけど親世代の話聞いてるとそんな金ねぇな……と思うことはあるよ
父はポルシェ買って乗ってたし、母はハワイや米よく行って免税でシャネルの鞄10万未満で買えたとか話を聞く
宝石ついてる指輪とかも父からのプレゼントや自分が買ったのでたくさん持ってるが当時は数十万でも今は数百万円とかになってる
まあ贅沢しなければ生活は全然余裕もってできるけど、そんなに贅沢は一切できないな、話に聞くような贅沢はできないなと思う
俺だ。
「誕生石」
「星占い」
「血液型うらない」
これらも大嫌いだ。
なぜ嫌いなのか。
簡単だ。
誰かが思いつきで言いだしただけの話であり、論理的ではないからだ。
コミュニケーションの手段として使うには余りにも下の下の下だ。
少しでも確実に相手にメッセージを伝えるという意思、その当たり前の誠意が欠如している。
気に食わんよ。
コミュニケーションってのは、テレパシーが成功するかどうかのESPごっこゲームじゃないんだ。
論理的に情報を積み上げ合って、お互いの中にあるイメージをすり合わせる行為なんだ。
たまたま同じことを考えていたら面白いという偶然の一致にかける遊びではないんだよ。
同じことを考えうる流れがあり、その流れの中で同じことを考えることが出来たのを確かめる遊びなんだ。
じゃあやっぱり宝石がいいのかね
私は傷や汚れがつくのを恐れているので、ぬいやアクスタを外に連れ出したことはない。ただ、身の回りの友人(ほぼオタク)は、みーんな毎回のお出かけに何匹も連れてくる。
アレね、最近ふと「これ何歳までいけんのかな」と思うようになった。
現在20代前半。高卒や専門卒で就職した人はもうすでに数年社会人を経験して、結婚してたり、子供もいるかもしれない年齢。
可愛いカフェでぬいやらアクスタやらを並べ、「〇〇、ケーキだよ」とか書いてTwitterに載っける。「おめめキラキラにしてあげようね」とぬいぐるみの眼球部分にキラキラのシール(宝石みたいなアレ)を貼る。
アニメイトでもこもこのぬい服を買う。
やってることは着せ替え人形遊びやおままごとに近い。それも20代のいい大人が。それに対して、最近、アレ?これ何歳まで許されるんだ? と思うのである。
プライベートのお出かけなんだから自由にさせたれよ! というのは分かっている。だから口に出したことは無い。
新しいぬい服買ったの! とエビフライの衣みてぇなもこもこに包まれたぬいを見せてもらったら「〇〇君、ママに新しいお洋服買ってもらって良かったね〜」と親戚のおばさんムーヴを繰り出している。
ゴールドとか宝石は結局国際送金にも決済にも使えない(使えないこともないけどかなりハードルが高い)ところ、暗号資産なら違法なこともやり易いって、結局は社会悪じゃないかな?
中央銀行にコントロールされないって、暗号資産からみた仮想敵は法体通貨、ぶっちゃけドルが仮想敵じゃん。なんで米国は金融商品として認めようとするのかわからん。
金髪のジジイたちが俺たちが考えるよりずっとバカで、ロビー活動で寄付をもらえたらそれでオッケーかと思ってるのだろうか?
コントロールできないのが強みって言ってるあれを認めたら、国家の損害に繋がりかねないはずで。
それでも認めるというなら、リスクを補う民生利用のメリットがあるべきだけど、現実的に使い方が犯罪利用しかなかったら、なんのためかと。
第8回横浜トリエンナーレ「野草:いま、ここで生きてる」がこの土日で終わります。私も見に行って、なかなか面白く思いました。ところが友人によると、SNSでは批判の声が多いそうですね。あまりそういうものは見ないようにしているのですが、友人がその場で例を見せてくれたので、ついいくつか読んでしまいました。そのときの感想は、ひとことで言うと「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということでした。そこで友人といろいろのことを話し合ったのですが、今はそれを思い出しながらこの文を書いています。
今回の展覧会には魯迅の『野草』という短編集が深く関わっていますが、魯迅は「おおむね、折にふれてのささやかな感想を述べたに過ぎない」と述懐しています(岩波文庫、竹内好訳『野草』の解説)。魯迅の感想が短編集『野草』を生み、『野草』がこの展覧会を生み、この展覧会が人々の感想を生み、そしてその感想がこの感想を生みました。もしこの感想を読む人がまた新たな感想をもつならば、それで満足です。
人は物事に触れて感想を持つものだと思います。SNSの批判の中にも、「これは感想にすぎない」というような留保をつけるものがありました。感想は自由にあるべきと思います。そして、感想を読んだ感想というものも自由にあるべきでしょう。今はくだんの批判を読み直さず、またあまり調べものもせずに書いていますが、不十分なところはどうぞ悪しからずご理解ください。これは「論」ではなく、「感想」のつもりです。
今回の展覧会の特徴は、「作品」と「意味」のバランスを探る点にありました。多くの作品は、ただ「見て楽しむ」ものではなく、「意味を考える」ことが求められるものでした。そのバランスがキュレーターの側でうまく作れているか、そして鑑賞者がそれをどのように読み解くかがカギになっていたと思います。
今回のテーマは「野草」というのですが、その裏には魯迅の『野草』という著作が密接しています。これは展覧会中にも幾度となく示されており、魯迅の『野草』の本も展示してありました。この本は「二十四篇の短文から成る」ものですが、「スタイルはまちまちであって、詩あり、散文あり、また即物的なもの、追憶的なもの、観念的なもの、象徴的なもの、風刺的なものなどが入り混り、内容形式ともに多傾向」なものとなっています(岩波文庫、竹内好訳『野草』の解説)。この本は意味があるようで意味がない、意味がないようで意味がある、詩のような文のような、芸術のような政治のような、一種独特の雰囲気をもった作品集です。
これを読んでから展覧会を見渡すと、「キュレーターたちは横浜美術館を一冊の現代版『野草』にしようとしていたのではないか」ということに思い至ります。
そう考えると少し納得できる点もあります。それは「文」への偏重です。友人は次のように話していました。「私は今まで、展覧会は作品を見ればよいと思っていた。作品を見ずに解説ばかり読む人があれば、本末転倒だと考えていた。つまり、言葉を軽視していたのだ。ところが、今回の展覧会では作品の多くに意味があり、その意味もキュレーターの解説を読んで初めてわかるようなものが多かった。入口にはタブレットの文章が並べられ、その左側の階段の上には本を並べた一角もあった。さらには猟師へのインタビューがあったり、詩が作品として出ていたりと、言葉への重視が目立った。」
しかし、これは考えてみればさほど奇妙なことではありません。ふつう、広く「芸術」 (art) と言うときには「文学」を含みますし、「美術」 (fine art) というときでも「詩」を含むことがあります。「芸術」は「造形芸術」に限られたものではありません。もちろん、ただの書籍や文章が「芸術」と言えるのかどうかは議論の余地がありえますが、言葉と芸術の距離がそう遠いものでないことは確かです。
さらにテーマの「野草」が魯迅の『野草』に由来するものであることを考えると、今回の展覧会の裏地には文学がぴったりと張り付いているような気がしてきます。キュレーターが中国の出身であるということから、なんとなく心のなかに「文の国」という言葉が浮かんできました。三千年の歴史をもち、科挙の試験にも詩が課され、書という芸術をいだき、詩文や文字が芸術でないなどと疑ったことのない文化の国のイメージとともに。
いっぽう、日本で一般に「芸術」というとき、それは詩文を容れえないほど偏狭なものなのでしょうか? 批判の中には「文」への偏重に対する疑問もあったように思います。そのような人々にとっては、あたかも展覧会から「あなたの思う芸術とは何ですか?」という問いが投げかけられたような恰好になっているわけです。
では、「芸術(アート)」とは何でしょう。批判する人たちの中には、自分にとって「美しくない」「面白くない」から「芸術(アート)ではない」と断じたい人もいるようです。でも、現代アートは「美」への問いかけを含むものではないでしょうか。デュシャンの「泉」などはまさにその代表だと思います。また、「芸術」における「言葉」といえば、シュルレアリスムと詩の関係だとか、20世紀初頭の芸術家たちがしちくどい宣言を次々と打ち出したりだとか、いろいろと思い当たることはあるはずです。そういうところに「美しいものが芸術なのか?」とか「言語表現は芸術と無関係か?」といった問題はゴロゴロと転がっているわけで、簡単に「これは芸術だ」「これは芸術じゃない」と判断できるはずはありません。その人たちの考える「芸術」は、どのくらいの狭さなのでしょうか。
鑑賞者は芸術に触れるとき、常に戸惑い、「作品の受容」ができない事態に直面する可能性をもっています。そのような時こそ、自分の中にある固定観念を見直す機会かもしれません。今回、批判したくなった人が多かったということは、それだけ作品からの「問い」を受けた人が多かったということでもあります。そうなると鑑賞者は、やっかいなことですが、自分の回答を練らなければならなくなります。批判もひとつの回答ですし、その回答に満足せず、さらに新たな回答を考えてもよいわけです。陳腐な言い方ですが、「作品との対話」が必要な展覧会であったと言えるのでしょう。
友人はまたこうも言っていました。「かつては『現代芸術は抽象的すぎて何が描いてあるかわからない』という時代があり、その後に『現代芸術は難しくない、何も考えずに作品を面白がろう』という時代が来て、それはひとむかし前まであった。でも、それが終焉すべきときに来たということかもしれない。今は言葉の時代なのでしょう。考えずして何が現代の芸術か、ということになっている。地味でつまらなかったといった批判もあるようだが、休日にちょっと芸術に触れてみよう、子どもを芸術に触れさせてみよう、デートで美術館に行ってみよう、特に『何も考えずにただ作品を面白がろう』と期待した人にはつまらなかったかもしれない。」
たしかに、昔からの(または昔ふうの考えをもった)現代芸術の鑑賞者の中には、「芸術とは面白がるもの」という考えから抜け出せず、新しい潮流に戸惑う人がいるかもしれません。「金を払って楽しみに来た」という手合いには、気の毒だったと言えるでしょう。しかも来訪者への間口は大きく広げられていたので、そのようなミスマッチを生むしかけは念入りに準備されていたともいえます。今回は横浜美術館の改装後の久々の展覧会であり、規模も大きく、宣伝もあって、多くの人を誘い込む要素がありました。そのような場で横浜美術館は「人を面白がらせる」展示をすることもできたはずです。しかし、実際には「人を戸惑わせる」展示を行いました。だからがっかりした人も多かったのでしょう。
私も「キラキラ」な楽しい芸術が好きです。だからそういうものが多いと嬉しいし、その逆ならばがっかりします。しかし、美術館の目的には「レクリエーション」もありますが、決して「レクリエーション」だけを目的とした施設ではありません。今回、美術館はこのような大規模の展覧会で、作品との「出会い」と作品からの「問いかけ」を提供し、人々を「戸惑わせ」てくれました。その意味で、美術館はよくやったと思うのです。「キラキラ」な楽しい回があってもよいし、「地味」な考える回があってもよい。美術展はそういうものだと思います。
ここで、ちょっと過去のトリエンナーレを振り返りたいと思います。
私が初めてヨコハマトリエンナーレに訪れたのは2011年の第4回「OUR MAGIC HOUR ――世界はどこまで知ることができるか?――」でした。この年は東日本大震災の年で、印象としてはとにかくキラキラと輝くような回であったということです。震災後の混乱をアートがどう扱うか、芸術家の間でもまだ折り合いがつかずに、ただ思いつく限りのことをやってみたといった印象で、宝箱の中の宝石をぶちまけて転がしてあるような、たいへん魅力のある回でした。私にとってこの回は「よい」の標準になっています。
2014年の第5回「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」もたいへん期待したのですが、この回は言ってみれば「地味」な印象で、まだ青かった私は「ハズレ」だと感じました。しかし、友人はこの回も面白かったと言っています。この回は「忘却」がテーマで、戦争中に作家や芸術家がいかに体制側に立ってはたらき、戦後その責任もとらず、反省もせずに「忘却」したかということを、当時かれらが執筆した文章を並べて示していました。このころには震災後の政権交代や脱原発などの流れの中で、世の中を動かすのは「政治」であるという意識が出てきていたためかもしれません。
2017年の第6回「島と星座とガラパゴス」は、博物館の表に救命ボートがびっしりと張り付けられていました。「ネトウヨ」に関する展示もひとつふたつあったことを覚えていますが、これもきわめて「政治的」でした。長期化する安倍政権のさなかにあって、政治の右傾化が懸念されていたことも影響していたのでしょうか。(「政治性」の話は、後で少し触れたいと思います。)
2020年の第7回「AFTERGLOW――光の破片をつかまえる」は久々の「当たり年」でした。2011年に次ぐキラキラの再来です。入口から光り輝くカラスよけのCDのような装飾、メビウスの輪のような形をした光り輝く金属の骨組み、巨大な腸を模した造形、赤いカーペットをひいたでこぼこの「道」、映像作品「遅れてきた弟子」、そのほかここでは言い尽くせないもろもろの楽しい展示の連続。
きっと第7回が初めてのヨコトリ体験であった方々は、2011年の私が次回に期待したように、第8回にも「キラキラ」を期待したかもしれません。しかし、べつに横浜トリエンナーレは「キラキラ展」ではないので、地味な回もあるのです。その意味で言えば今回はやや地味だったかもしれません。しかし「地味」には「地味」なりの「味」があるものです。今回はその意味で「ふつう」と「よい」の間くらいと感じました。決して「悪い」ではなかったと思います。
今回の展覧会が悪かったという人の中には、展示が「政治的」だという人もいたようです。もちろん、芸術が政治的であることの何が問題なのかとか、政治が生活と密接なものである以上は程度の差こそあれ政治的でないものなどありうるのかといった疑問も出てきますが、今回の展覧会を見て私が感じたのは、むしろいわゆる「政治性」の薄い部分があることでした。キュレーターが中国出身の方ということなので、もしや特に日本のために配慮(手加減)したのではないかという疑いさえ感じました。
たしかに、今回の展覧会ではヨーロッパの戦争に関連する展示や国粋主義者の移民反対デモの映像が展示されていました。それがひとっところに固めてあるのではなく散らばしてあったのは、この会場をひとつの世界に見立てて、このような出来事が遍在していることを忘れてはいけないと示したようにも見えます。
そのデモの映像のひとつを見ているときでしたが、後ろを通りかかった人が「ヨーロッパ、壊れてんな」とつぶやきました。まことに然り! だがそれを言えば日本だって「壊れて」いるのです。日本でも人種差別のデモが行われています。ヘイトクライムの危険もあります。「人種差別」がわたくしたちの身近にあることは、ネットを少し覗いてみればすぐわかることです。
思い返せば2014年や2017年はかなり「政治的」な展示があったと思います。しかし今回、キュレーターは日本の問題をひとつも指摘しませんでした。日本で美術展が国粋主義的主張をもった人々の抗議で中止に追い込まれた事件もそう遠い昔のことではありません。日本は美術の表現が自由にできない国です。キュレーターたちは日本に気をつかってくれたのでしょうか? それとも日本で波風を立てて攻撃されることを恐れたのでしょうか? それとも今の世界を広く見たときにもっとも新しくもっとも重い問題にしぼってとりあげようと考えたのでしょうか? それは知るよしもありません。もっとも自由な表現への危機は(またすこし違った形で)キュレーターたちの出身地である中国にもあることでしょう。展覧会中に示されたように、ヨーロッパも安全ではありません。世界じゅうで似た現状があります。
しかし、日本が名指しで批判されなかったからと言って、日本が許されたわけではもちろんなく、これらの作品のなかに普遍性を見出し、これを「鏡」として日本の現状を見ることが求められているのだと思います。それらの作品が見るに堪えない現状を示しているとき、それに怒っても意味がないでしょう。それは鏡をヒョイと覗き込んでみて、「ああ醜い! 私の美学に反する。美はいったいどこにある?」と怒るようなものです。
ところで、批判者の中には展覧会のこのような政治的な「傾倒」や「変質」がここ10年や20年の変化だと振り返る人もいますが、私には展覧会のなかにその説明があったように思われます。今回の展覧会は、これも魯迅の『野草』をテーマとしているためかもしれませんが、歴史を強調するものが多くあり、あるところでは史料紹介の様相すら呈していました。木版画をめぐる日中交流史の展示では、魯迅が木版画という簡易で複製可能な芸術を通じて、民衆に文化を届けようとしていたことが紹介されていました。これは「芸術」が一部の特権階級のものではなく、民衆のためのものであるべきではないのかという問題を、当時から現代に向けて投げかけなおした一面もあると言えるでしょう。また、皇国史観へのアンチテーゼとしての縄文土器や、学生紛争を撮影した写真が展示されていたのは、芸術と政治の問題が降って湧いたものではなく、日本でも半世紀以上にわたって連綿と続いている問題であることを示していたと思います。
(後編へ続きます。)
https://anond.hatelabo.jp/20240608093350
男女とも典型的な状況にしか見えんのだが……別れろとか煽り散らす人らってマジで言ってるん?
そもそも「指輪の刻印入れ」イベントなんて所詮宝石屋の仕掛けに過ぎなくて、社会的な結婚に必要不可欠な手続きでもなんでもないよね。それを「人生一度きりのイベント」とまで思い込んじゃうのもちょっとおかしいし、ましてそれが体調の都合で延期せざるを得なかったというだけの(これも必然・不可避の)出来事を、さも自己の尊厳に関わるように語ってしまうこと自体、端から見ると「何言ってんだろ」案件なわけだよ。でも、大体の人はそれに対して同情を示したりもする。俺もそうだよ。なぜって、そういうのって典型的なマリッジブルーの症状だからだ。
結婚前は、たとえ同棲期間が長かろうがなんだろうが、多かれ少なかれ不安になる。もともとそういう気質を抱えているならなおさらだろうけど、こんなことで悲観的になってる増田自身も含めて、「果たして結婚して大丈夫なんだろうか」と不安になるのは、ごく一般的な心情だ。それは、体調に現れたり心境にあらわれたり、言いようのない不安だとか、訳の分からない衝動だとか、現れ方は様々だけど、共通するのは「今まで感じたことが無いような、抑えきれない、結婚に対するネガティブなイメージが押し寄せてきた結果としての行動」である点だ。不機嫌になったりわがまま言い出したりパートナーに冷淡になったり、なんなら不安から逃げだそうとして別の異性に目が向いたり……みたいなことまで含めて、世間でざらにある話だ。俺自身も、「まさか自分がそんなことにはならねー」って思ってたけど、まあ婚約~結婚の中間地点過ぎたあたりで見事になった。仕事柄、気分に左右されて行動することがないように心がけて生きてる人間だけど、その期間の自分の思考とか行動とか、振り返れば全然理性的ではなかった。以来、10年以上経って振り返って思う
そんで、それらは全て「結婚というものを、真面目に、真剣に考えているから」起きることなんだ。
たとえば、受験したことあるなら、そんな時期に家族にイライラしたり当たったりわがまま言ったり一人になりたくなったり、果ては普段しないような趣味とかしたくなったりしたことあるんじゃないだろうか。でもって、大学とか合格した後は訳の分からないはっちゃけ方したりしたこともあるのでは? それと同じだよ。人生の行く手に、まだ体験したことの無い、しかも今後の人生を左右し大きな責任を伴う出来事が存在するというプレッシャーは、大抵の人を少しおかしくさせる。とはいえ、そんなのは大抵の場合、一過性の症状なんだ。
だから、そんなのに浮かされて人生の大事な決断をするのは、あまりおすすめできない。なんといっても、今このときを過ぎた「普通」の状態の人生の方が長いわけなのだから。なんというかみんな、ネットで極論書いていけないわけじゃないよ。ただ、人の人生に口出ししようとするなら、もう少し慎重であってもいいんじゃないかと思うんだ。
男女とも典型的な状況にしか見えんのだが……別れろとか煽り散らす人らってマジで言ってるん?
そもそも「指輪の刻印入れ」イベントなんて所詮宝石屋の仕掛けに過ぎなくて、社会的な結婚に必要不可欠な手続きでもなんでもないよね。それを「人生一度きりのイベント」とまで思い込んじゃうのもちょっとおかしいし、ましてそれが体調の都合で延期せざるを得なかったというだけの(これも必然・不可避の)出来事を、さも自己の尊厳に関わるように語ってしまうこと自体、端から見ると「何言ってんだろ」案件なわけだよ。でも、大体の人はそれに対して同情を示したりもする。俺もそうだよ。なぜって、そういうのって典型的なマリッジブルーの症状だからだ。
結婚前は、たとえ同棲期間が長かろうがなんだろうが、多かれ少なかれ不安になる。もともとそういう気質を抱えているならなおさらだろうけど、こんなことで悲観的になってる増田自身も含めて、「果たして結婚して大丈夫なんだろうか」と不安になるのは、ごく一般的な心情だ。それは、体調に現れたり心境にあらわれたり、言いようのない不安だとか、訳の分からない衝動だとか、現れ方は様々だけど、共通するのは「今まで感じたことが無いような、抑えきれない、結婚に対するネガティブなイメージが押し寄せてきた結果としての行動」である点だ。不機嫌になったりわがまま言い出したりパートナーに冷淡になったり、なんなら不安から逃げだそうとして別の異性に目が向いたり……みたいなことまで含めて、世間でざらにある話だ。俺自身も、「まさか自分がそんなことにはならねー」って思ってたけど、まあ婚約~結婚の中間地点過ぎたあたりで見事になった。仕事柄、気分に左右されて行動することがないように心がけて生きてる人間だけど、その期間の自分の思考とか行動とか、振り返れば全然理性的ではなかった。以来、10年以上経って振り返って思う
そんで、それらは全て「結婚というものを、真面目に、真剣に考えているから」起きることなんだ。
たとえば、受験したことあるなら、そんな時期に家族にイライラしたり当たったりわがまま言ったり一人になりたくなったり、果ては普段しないような趣味とかしたくなったりしたことあるんじゃないだろうか。でもって、大学とか合格した後は訳の分からないはっちゃけ方したりしたこともあるのでは? それと同じだよ。人生の行く手に、まだ体験したことの無い、しかも今後の人生を左右し大きな責任を伴う出来事が存在するというプレッシャーは、大抵の人を少しおかしくさせる。とはいえ、そんなのは大抵の場合、一過性の症状なんだ。
だから、そんなのに浮かされて人生の大事な決断をするのは、あまりおすすめできない。なんといっても、今このときを過ぎた「普通」の状態の人生の方が長いわけなのだから。なんというかみんな、ネットで極論書いていけないわけじゃないよ。ただ、人の人生に口出ししようとするなら、もう少し慎重であってもいいんじゃないかと思うんだ。