はてなキーワード: 多種多様とは
物作りの企業って客からの不満・要望を吸い上げて製品を改善するけど、ゲーム企業ってそれをしてる印象がないんだよね。
見ない・聞かない・蓋をする で、面白いものを作ってるつもりなんだろうけど、スタート時点で方向がズレてるんじゃないだろうか。
直近で言うとドラクエ3。
発売から一週間経つけど、不満点がまとめサイト各地で取り上げられている。
プレイヤーの不満点は大体似たようなことが書き込まれている。多種多様って訳じゃないんだよ。
プレイヤーが不満に思うのに、開発者が気にならないって変じゃないか?
大体はニンテンドーダイレクトで開発中操作画面とともに発表。
方向性がズレてたらもう引き返せない。
あるいは複数タイトルを平行開発していて、他作品から流用できる改善案が出ても差し込めないとか。
(スーファミ作の)リメイクに限っては製作発表だけにして、開発前に自社ホームページで専用フォーラム作って旧作の各システムの不満・改善点を期間限定、例えば二週間だけ募集する。
今の時代ならネットニュースで拡散されて、旧作ファンなら喜んで要望を書くだろ。
それを三、四ヶ月かけて精査してから開発に取りかかるのが理想なんじゃないか。
もしくはそういう専門部署を立ち上げて要望フォーラムを常に募集してくれよ。
『今週からFF5への要望を募集します』『今週からはクロノトリガーの良かったところを聞かせてください』みたいにさ。
そうすりゃ製作発表の時に「あの要望が通るかも」って期待値が高まるし、プレイヤーの集合知というか、本当に求めているもの・ウケてるもののノウハウが溜まるだろ。
あるいは古いゲームなら、やり込んでるプレイヤーが制限プレイ動画をYouTubeに上げてるだろ。
開発陣よりも詳しかったりするだろうから、連絡取って改善点聞くとかしようよ。
交通費とスペシャルサンクスでクレジット記載すれば喜んで協力するだろうからさ、アドバイスもらおうよ。
アメコミが、存在しない・コミックを買わない『ポリコレ読者』に向けて舵を切って凋落していったように、『ゲームが苦手な初心者』に向けて開発してませんか。
普通に作ってくれよ。
誰だってかつての名作を作ったあのゲーム企業が好きだったんだよ。
憎みたくないよ。
バリキャリなロビイストが、銃規制法案の強化に向けて大胆不敵なロビー活動を展開していく政治映画。
ドンデン返し映画の鉄板的な名作であり、痺れる面白さ。主演のジェシカ・チャスティンから掌で踊らされる。エンタメとしてのドンデン返しがありながら、政治映画として社会性をグサッと鋭利に刺してくる。主人公が銃規制強化に向けて抜本的な戦略を多種多様に仕掛けていくストーリーゆえに「果たして、銃規制の強化は成すのか?」と展開が気になるが、本作の肝心な点は銃規制強化を遂行する勝利ではなく政治闘争の見方だと思われる。
お仕事映画の観点から見て、ジェシカ演じる主人公の人物像が素晴らしい。バリキャリな仕事人として説得力がある。と言うのも、銃規制強化を推進していく者でありながらも、本人は銃規制強化に対して強い情熱を持っていない。「いや、そんな人は仕事出来ないだろう」とツッコミが入るけど、そもそも「情熱がある=仕事が出来る」という理論こそ根拠がない。情熱うんぬんではなく、「能力が高い=仕事が出来る」という至極、当然な理論を淡々と描くことで、解像度の高いシゴでき人間を具現化させている。本作の主人公は最善ながらも掟破りな行動を取るが、それもまた情熱が薄いからこそ実行できるものである。そんなことを重ねるうちに人心が離れて孤独に苛まれるのも、能力が高い人間の宿命であり普遍性である。そうなりながらも、能力の高さで弱者を救済していく姿はシゴでき人間の社会的役割として示されている。あと、「仕事が出来る者=性欲が強い」という人間的本能の面を描写しており、モリモリとセックスしていて更に解像度が高まっている。
⭐評価
登場人物・演技 :⭐⭐⭐⭐
設定・世界観 :⭐⭐⭐⭐
星の総数 :計15個
そんな皆は、ブラックホエール号におけるノブナガの活躍はもう知ってると思う。
今週改めて言及されたけど、ノブナガは艦内で刀を没収されたり破壊されたりしながらも必死にやりくりしてるんだ。
愛刀を没収されたノブナガは、今現在どうやって戦っているのか?
簡単だ。
その辺の刀にまとわせたオーラを刃状に変化させることで全然問題なく戦えている。
この状況に対して仲間たちも「急ごしらえのおまけみたいなもんじゃん」という意見が出ていることからも、ノブナガは刀っぽいものがあれば戦えるので刀の質には拘ってないことが分かる。
うん。
「刀っぽいもの」さえあれば十分なんだよな。
さて、それでは表題の「「七色弓箭(レインボウ)」の話に戻ろうか。
「七色弓箭(レインボウ)」はポックルの念能力で、指でぐわしみたいなポーズを取ることでオーラを弓矢に変化させる能力だ。
NGLで弓矢を没収された状態のポックルはこの能力を駆使して必死に戦っていた。
でも最終的には「最速の橙の矢を!」と驚いてるうちにボコボコにされて終わってしまった。
悲しいぐらいに貧弱な念能力だったわけだ。
なぜ、ポックルはこんなことになったんだろうか?
答はシンプルだ。
「オーラを弓矢に変化させることにメモリを使ってしまった」×「別に必要ない能力をいくつも作ってしまった」のあわせ技である。
ハッキリ言えば、やってることのレベルはヂードゥと大差がないと言っていい。
まず、弓矢なんてものはその辺にあるツタと木の棒でもそれっぽいものは作ることが出来るわけであって、没収されることを警戒して弓矢そのものを具現化する必要はないのだ。
弓状のオーラを具現化すること自体が「ゴムのような性質をもたせる」バンジーガムにも似たオーラ変化を必要とし、発動にも習得にも余計なメモリ消費が発生する。
その辺で拾ったそれっぽい弾力のある紐状の物体を「纏」で強化する方が遥かに効率がいい。
矢だって鏃部分はオーラで作ってもいいが、棒の部分はその辺にある木の棒でも十分なはずだ。
貴重な念エネルギーを使い捨ての弓と箆(のう)に使ってしまうのが完全に無駄なのだ。
そして、修行においてもそれらをイメージするために使っていた時間で念の出力を伸ばしたほうが遥かに効率がいい。
登場しているのは2つだけだが、その両方が明確にメモリの無駄を感じさせてくる。
炎を矢に纏わせる赤の弓は屋外において火を素早く扱えるというメリットがあるように見えるが、そもそも火なんてものは強力な摩擦でも起こせるので念能力者が本気で木を擦り合わせれば一瞬で手に入れられる。
何らかの特別な効果があるならまだしも、ただ火を起こすだけの能力なんて修行で身につけるようなものではない。
橙の矢はアイディアだけなら間違っては居ないのだが、これが7つの能力の1つであることがまずい。
オーラを矢の速度に変えるというのは一見すると理にかなっているのだが、そもそも論として「物凄い強い力で矢を飛ばせばすごいスピードが出せる」というものがある。
わざわざ念を速度に変換しなくても、素の出力が高ければそれに応じた速度で矢は飛ぶのだ。
高速で飛ばすことが出来たとしてスピードにステータスを振ったせいで威力が下がっては結果が伴わない。
この能力は本来の矢の威力が十二分に高まり「当たった時の威力が極めて高く、多少威力を削っても命中率を上げることを検討しても良い」という状態にしなければ話にならないのだ。
「七色弓箭(レインボウ)」は作中においては蟻兵士を何体か倒しており、一見するとそれなりの能力に見える。
念が使えない相手からすれば不可視であるし、そのような相手に対して一方的にぶつけるにはピストル程度の威力でも十分な殺傷力がある。
ハンタ世界における動物はメチャクチャヤバイ奴らがクソほどいる。
キメラアントだってそんなヤバイハンタ世界で生まれた野生動物の一種だ。
ポックルが最終的に相手取りたいのはその辺のうさぎやイノシシではなく、そのレベルの生物ではないのか?
だとしたら「単に念が使えないだけの奴には不可視(でも気配や音は感じられる)」「ピストルや火矢程度の威力」では全然話にならないのだ。
求められるのは「念や特殊な感覚器官を備えた相手にも認識できない矢」だったり、「当たれば一発でこちらの有利に状況が変わる矢」だったり、ないしは「とんでもない威力の矢」であるはずだ。
幻獣と渡り合えるような念能力の完成を目指すという点において、ポックルのやっていることは全くもってメモリの無駄である。
弓矢を持ち歩く必要がないという利便性や、ちょっとした速度増加なんてものは、念が使えるという優位性に甘えたなまっちょろい発想から出てきた舐めプでしかない。
ノブナガのように「その辺で拾ってきた道具にオーラを纏わせることで念能力は完結させ、メモリの大部分を基礎修行や威力の面に集中させる」という運用を考えるべきであった。
ポックルの師匠が誰なのかは知らんが、あまりにもメモリの使い方についての教育が足りてない。
念能力における理想的パターンは「当たれば必殺」か「基礎修行に比例してドンドン強化される」のどちらかであることは言うまでもなく。
ポックルの「七色弓箭(レインボウ)」はそこからあまりにも遠い。
もしポックルがもう数年修行を積んでいても、多種多様などうでもいい能力を増やすことばかりにメモリを使って、肝心の基礎的な威力や必殺性は疎かにしたままだったであろうことは想像に難くない。
念能力を他の能力バトルと比較したときに、かなり特徴的な部分が1つある。
それは「能力は自分で考え、自分で開発する」ということだ(継承戦は超例外だってことは忘れるなよ)。
つまり、自分で能力を開発する関係上、シンプルである程修行効率がいいのだ。
ポックルの「七色弓箭(レインボウ)」はやたらめったら効果が増えていてシンプルじゃない(多様な能力が使えるという点では盗賊の極意は似ているが、クロロの念能力そのものは「相手の能力を盗める」という一点特化型だということを忘れないように)。
そして、半端に多様であるが故に使える能力自体は複雑なものではなく、相手からすれば何が起きているのかが簡単に分かってしまう。
多様な効果があって何が出てくるのかわからないというのは一見すると強力だが、それよりも遥かに恐ろしいのが「相手に行われた攻撃の正体が食らったあとでも分からない」という状態だ。
ポックルの能力は火を起こしたり高速で矢が飛んだりするだけで、撃たれてしまったあとはその効果を疑う余地は一切なく、これでは分からん殺しの性能は大したことがないと言って良い。
素手からの不意打ちによる分からん殺しという点でも、弓矢を具現化して発射するという工程により相手に次の手を読ませてしまうのがよくない。
同じく素手から遠距離攻撃する能力でも「俺の両手は機関銃」はいきなり指から念弾が出てくるという予測しづらいものであり、また正体が分かった頃にはその破壊力によって相手は大きくダメージを受けている可能性が高いという不意打ちとしての完成度の高さがある。
念の戦いにおいては、基本がシンプルであり、何が起こったか理解される前に倒してしまえることが重要なのである。
そしてこれは、自然界において多様な能力を持った幻獣同士の生存競争にも同じことが言えるはずだ。
ポックルの能力は単に「念能力者同士の戦いで弱い」というだけに終わらず、「幻獣をハントするというミッションの攻略においても弱い」と言わざるを得ないのである。
チャイナ服で出迎えてくれた。
最初は確信が持てなくて話を聞いてると、向こうからそれっぽい話題を時折ぶつけてきて足場を固めてくる。
3割ほど経過した時計を気にしつつ、相槌を打ちつつ思考を巡らせる。
身を寄せたり手を腰に回したりして催促する選択肢もあった。
しかし、「(本来トーク時間を無駄に伸ばすのは地雷だし…もしや…!?)」と感じ、拙速な行動を抑制した。
「友達、お兄さんに似てるんですよ〜〜」
残りの時間は昔話をしたり近況を共有した。
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昔、彼女は私の心を救ってくれた。
当時の私は元カノに振られ、飯も喉を通らず無理やり身体を動かして生きてる状態だった。
どうにかして状況を改善しないとと思い、多種多様なコミュニティに参加し人との交流を増やして、新たな道をもがきながら模索していた。
彼女は当時みんなのために色々してくれて、今も連綿と続く伝統的な活動として確立している。
私は活動としては初心者だったが、今では私の心の支えとなっている活動だ。
まだ私の心は辛い状況にあるが、様々な出会いと機会をもたらしてくれる活動だ。
出会えてよかったと今でも思う。
当時の彼氏は何か嘆くツイート後しばらくして音信不通になったので、消息を聞けるような雰囲気じゃかった。
Twitterで追跡できなくもないが、友達以上の関係でもないし、色々あった状況の中での彼女の選択に口を出す気もなかったので、自然と忘れていった。
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昔話の中で私が知らなかった事情など赤裸々に語ってくれた。
「またね」と言って見送られた。
最後に彼女に対して感謝を伝えたかった。彼女が続けてくれたからこの活動に出会えたこと。
しかし、相手が気にもしてない感謝を一方的に伝える行為は、相手を困惑させてしまうと思いやめた。
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しない理由は色々ある。
1つは世間体。
1つは性癖。
舌で上から下まで愛撫しまくるつもりで行ったから、流石に性癖丸出しになれなかった。
昼に会う機会はあるから自分に内在する性癖を知人に知られる恥ずかしさを気にした。
1つは時間。
色々な思いが入り乱れて、しない選択肢をした。
なお、言ってることは支離滅裂なので、元増田には賛同できない。
(ポケモン カードゲームはM;TGのパクリ、とでも言われたんだろうか)
さて、下記を条件として、カードを使うボードゲームの始祖を考えてみよう。
とりあえず、辿り着くのが下記。
モノポリーのルーツとして、有名なゲーム。1904年というのは、アメリカのエリザベス・マギーが、このゲームの特許を取得した年だ。
後のモノポリーでは贅沢税マスに止まると、一定のお金を支払うだけだが、このThe Landlord's Gameでは、ゲーム終了時に得点となるカードを購入することができた。カードには、贅沢税を払うのに相応しい「ゲーム終了までは能力のない」品々が書かれていた。
コレクション要素としても悪くないルールには感じるが、The Landlord's Gameの多種多様なバリエーションが作られていく中で、このルールは早々に削除された。
次にモノポリーの血統に専用カードが登場するのは、ルイス・トゥーンとフェルディナンド・トゥーンがチャンスと共同基金の2種類のカードを持ち込んだ、1931年のことだ。
1904年から遡ろうとすると、もう、伝統的ゲームか、すごろくの類、トランプや花札ばかりになって、専用カードを使ったアナログゲームというのが、ピンと来ないのだけれど、誰か後は頼む。
今日という日、日本のインターネッツでは左右ともに国を憂う人々で溢れかえっている。
いや、これ自体が最近よく言われる「フィルターバブル」だの「エコーチェンバー」だの、言わば「目に見える情報・見たい情報しか手元にない」ことによる認知の歪みかもしれない。YouTube Liveに目をやれば、大手事務所から転生したVTuberのデビュー配信の同接が、その他あらゆる政治系その他の配信を凌駕している点からしてもそんな感じがする(個人的に事務所時代の彼女は推しの1人だったので複雑だが)。それに、そもそも「左右」の二元的視点で政治を見ることへの危険性だってある。
そういう話はともかくとしても、ここ最近は選挙の度に国を憂う、正確に言えば「対立する政治思想の候補者・それを支持する者の罵倒」でネットの海は溢れかえる。
でも、これも必然かもしれない。勝手に分析系記事を垂れ流している私のこのブログを含め、各個人がOwn Mediaを持つ現代。国家による徹底した情報統制がない以上、極端な言葉がネットの海に散乱する状態であっても、ほとんど野放しになっている(侮辱や権利侵害といった"規約違反"でしょっ引かれることはあってもそういった事例はほんの一握りにすぎない)。それがこの10数年のインターネッツの内実だと思う。とりわけ政治方面でいえば、日本でのSNS普及が例の民主党政権→第2次安倍政権発足あたりと時を同じくしている点から、なんとなしに右派現政権vs左派野党の対立構造に帰着している。
正直言って、現下の日本のインターネッツ・それも政治方面においては、左右両翼とも一般庶民の仮面を被りながら政治家ないしは外部勢力の息のかかったインフルエンサーが複数存在すると私は確信している(そんなニュースあったよね)。何を言っても「拡散」される土壌があるなら倫理上どうであれ使わない手はないだろう。第一、「民主主義」と言えば聞こえはいいが、ネアリーイコール「人気投票」のようなものだ。
それに、ここ最近は迷惑系YouTuberよろしく「見られたもん勝ち」と言わんばかりの過激な政治主張が目につく。その市場を追い風にしてか、陰謀や暴力・排外主義を堂々と主張する人達が現れ、そのまま政治家となった者がいる。今年の都知事選なんて特にそう。これまたXで拾った話だが、ある英字の投稿で「候補者のほとんどが民主主義を嘲笑っている」と書かれる始末だ。まったく左右に関わらず酷い為体だ。
そんな中で迎えた衆院選。ハッキリ言って今回は過去イチ酷く映った。結果をわざわざここで書くつもりもないが、色んな意味で「あぁ、そんなもんなんだな」と思わされた。
(ここは筆者のプロフ・ポジの紹介なので読み飛ばして頂いて結構。28歳独身男会社員。Z世代のハシリあたり。給料は低くはないが見渡せばもっと高給もいる。こんな書き方見りゃキャラの陽陰区別つくっしょ← よくつべに上がってる昔のテレビを見漁ったり。罵倒ばかりの言論界隈にウンザリ。よって裏金はどっちかといえば「そう喚くあなたは?」な立場。それと手取り・安保の観点で今回比例は国民に入れた)
これはもう風水的言いがかりでしかないが、バブル崩壊・阪神/東北震災・コロナと、国全体が苦境に立たされた場面では必ず政治的混乱がセットにあったように思う。ホント、台湾有事やら南海トラフやらどうすんだよ…。
特に台湾侵攻。あるウクライナのジャーナリストが言っていたが、「民主主義陣営がカンカンガクガクしているうちに専制主義陣営に行動を起こされてしまう」…これまさに、今のNATOとロシア・ウクライナ。ならば台湾・中国の傍でカンカンガクガク真っ最中の日本、それにアメリカって…西側ブルーチームのいう「ならず者国家」の思う壺じゃないの?
まぁ、「にわとり-たまご」的な話で、そういう混乱に至る史実があったからこそ政治も混乱せざるを得ない状態だったと言われるかもしれないが、とにかく「今の政治体制なら困難を乗り切れる」と思えた試しがない。それに…待てよ、振り返ってみると「政治への"信頼を善しとせず"」みたいな風潮が続いているのかもしれない。「常に疑え」と言わんばかりに。そうでしょマスコミの皆様方。
今はもうネットに限らず、既存の大手メディアさえ信じる/信じないの篩のかけ方がものをいう時代。冒頭の話に戻るが、Own Mediaの氾濫する今、「何を信じる/信じない」がその人の社会・世間に対する認識を半ば不可逆的に決めてしまう。かくいう私だってそうかもしれない。説明が難しいが、あらゆるものに対する漠然とした不信感の中で「これなら信じられる」と思ったものに傾倒してしまう。これ、昔はオウム真理教、今はインターネッツの左右急先鋒による陰謀と安倍暗殺をはじめフィジカルに訴える連中、はたまた「闇バイト」と、日本のあらゆる社会問題の根本にある気がする。そのうえ、世界を見渡せば目下宗教を巡る戦禍が中東で継続中だったり。コミュニティを作ることで生き残ってきた人間の生物的・本能的弱みで、昔から何度も言われてきた事だろうが、時折その脆さを嫌と言うほど思い知らされる。
そう、「何を信じる」の話で言えば、現役世代の我々がよく言われる/私自身も自己暗示的に復唱してしまう言葉がある。
「社会や環境がどうであれ、いま自分が出来ることに集中しよう」
会社員である私を含め、一定の組織の括りで動いている者にとって、こういう発想は少なくとも間違いではないと思う。そりゃ「仕事に邁進する」に文句のつけようもあるまい。が、時折こんな事も思う。
「それを言い訳に、もっと目を向けなければいけない重要な問題から逃げてないか?」と。
政治に関心を持たない人達、はたまた選挙で投票しない人達の理由の1つに「それより私が今抱えている仕事(タスク)をやるのに精一杯」なんて文句がある。ああ、国として今何をしなければならないか、そういう事を考える余裕は「ニュースを見る時間のある」人にしかないのだろうか。はたまた、そのニュース記事を作っている人達も、ひょっとして「もっと伝えたい事があるのに、仕事としてやらなきゃいけないから…」なんて思っていたりしてないかしら?
恐らく少子化も「こんなしんどいのに結婚子育てなんて出来ない、それよりも今の自分がやるべきことを」の積み重ねから来る話だと思うし、とりわけ筆者はこういう目線で安全保障の話を積極的にしなければならないと思う。ノーベル平和賞取った被団協の方々には土下座ものだが、リアルに核の恐喝が罷り通ってる今、9条信奉のようなユートピアニズムは文字通りの「無力」だ。特に政権を担う政治家にはリアリストであって欲しいと私は強く願う。
地震と戦争、片方は人の手で起きるとはいえ、今やどっちも「いつ起こるかわからない/いつ起きてもおかしくない」と思いさえする。「自分1人で何も出来ないくせに考えすぎだ」と人に言われるが、少なくとも国の意思決定を左右する政治家の先生方にはこの手の話をしっかり真面目に考えて頂きたい。
そしてこの際もう1つ、過去の歴史や目下の国内外の情勢を見渡していて、文明社会をゆっくりと衰退させているものが何となく分かった気がしたので、ここで書き留めておく。
「被害者意識」。
無論、現にいじめや差別その他ハラスメント、あるいは災害を被っている人々に対して、その心痛を突っぱねる意図はないし、適切な保護をするべきだと思う。が、現代はその「被害者」たることを訴える主張が拡声器のように周囲の音響を支配し、それを基準に社会が目まぐるしく動かされている気がする。で、そうして変わった社会が全体最適となるような良い結果をもたらすか…と言われるとクエスチョンが残る事もある。
例えば「働き方改革」。やり甲斐の有無にかかわらず身柄を拘束され、なりふり構わぬ檄を喰らう辛さは、自分だって現役世代、大いに同情する。が、それに対応した結果起きたのが「物流2024年問題」であり、運送コスト上昇は今の物価高の一因となっている。それに、逆にハラスメントを訴えられるリスクと待遇の不釣り合いを嫌ってか管理職志望の社員が減り、少子化も相まって人手不足倒産が増加中とか(環境変化に適応できなかった会社が悪いという見方もある)。
もう1つは「ダイバーシティ」。差別や偏見をなくし、多種多様な人々の「違い」を受け入れる…理屈は結構な話。だが、それで今揉めているのが「移民」問題。一度異文化を受容したはいいけど、かえってその痛みを訴える人は地域や職種を問わず跡を絶たない。ヨーロッパなんて極右が台頭する始末だから…
つまり、「しんどい」「つらい」という主張ゆえ、先述の通りむやみに突っぱねる事は出来ない(それどころか、理解を示さなければ当人がより破滅的な行動を起こすことだってある)。同時に、その被害者意識と醸成に至るまでの背景には本人なりの因果関係・論理があるし、訴えを一読すれば、同情する/しないは別としても少なくとも一定のつながりを見出すことができる。が、我々は得てしてその時の感情につられて「加害者とされた側」の論理を見落としてしまう。決してこれは危害を加えている人を擁護する目的で言っている事ではないが、要は「論理は1つだけではない」ことを机上の理屈としては理解したつもりでも、感情では「真理」を追い求め、「悪者」を特定・はたまた無理矢理にでも作りにかかってしまう。ここに怖さがある。
これが、現代の言論空間で跋扈する陰謀論、あるいは紛争当事国で現に起きている。戦争なんて酷いものだよ。どっちも「自衛のため」っていうんだから。
まぁ「被害者意識」と仰々しく言っているが、噛み砕いていえば、「こんなにしんどい思いをしているのに報われないのはおかしい!/こんな仕打ちをしてくるなんてひどい!」、さらに端折っていえば「私の苦しみを理解してくれ!」といった、悲鳴・慟哭・喚きの一種である。これまたコミュニティを作ることでしか生存できない人間の「動物的本能」の一部なのかもしれない。それゆえ、今後も色んな場面で目にすると思うが、それにどう反応し、対処していくかは、高等動物として会得した知識と理性にしたがって冷静に判断したいところ。
・・・と、ここまで選挙を機に自分なりに考えた今の社会・世界の歪みをつらつらと綴ってきた。「自由選挙」が出来る民主主義は恵まれているようで、分断やレッテルの張り合い、そして今はノイジーマイノリティといった弱点が露呈している。だけど、野田さんがいう「不完全」な状態でありながらも、こう徒然なるままに憂国の情を書けることは、やっぱり恵まれた国なのかもしれない。でも、そんな国を取り巻く環境はやっぱり厳しいし、向いてる方向は違ってもそこは日本人みな理解してるんじゃないかな。
もう1回言う。私も有権者の1人として政治に参加させてもらいましたので、政治家の先生方は他人の足を引っ張ったり悪者を作ったりしてないで、真剣に国について議論してください。
最後に、ここまで書いた私の文章も、究極的には一個人の稚拙な雑感に過ぎず、共感する/しないは個々人の価値観次第であることを付け加えておきます。というか、こう書くことさえ「主語を大きくしておきながら"個人の感想です"とか言って責任から逃げやがって」とか「善人ぶるな」という自己批判が出来てしまうな…やはりインターネッツはもとよりメディアに毒されすぎたか。
まぁ、仮にも「自由の民主主義の国」の一員として生をうけた者として、そこは(節度をもって)大いに論議してください。気の済むまで。
あとはどう書き出すかだよなぁ🤔
いつも通り、思いつくまま適当に書いとくか、出来る範囲で読みやすくしとくか、うーーーん
とりあえず、忘れないうちにメモ書きしとく
ワイは以前、『差別』というものは、生死に関わる問題や経済的な困窮、戦争といった深刻な問題に直結するケースのみに限定されると考えていた
なので、無礼な態度や高圧的な態度は、単にその人の問題であり、べつにどうでもいいと考えていた
そもそも、一般的に高所得と言われる立場にある人間にとって、気持ちを鈍感に保ち、何か言われても気にせずスルーするのは、持っていて当たり前のスキルだ
もちろん、ハラスメントや名誉毀損・侮辱罪として取り上げられるレベルの罵倒や侮辱は除くが、それに至らない範囲の言動にいちいち反応しているのを見ると、
『稼ぐ気がないんだな』『働く必要がない裕福なご家庭の人なんだな』『生まれつき過敏なんだな。生きづらそう』と感じずにはいられなかった
だが、他者を『バカだな』とか『ボンクラだな』と感じるとき、よくよく考えるまでもなく、"自分の方が上だ" という考え、頭にあるよね?
人の価値はお金で測れるものではないにもかかわらず、経済力という一点で優位に立っているという理由だけでーーー・・・とか、いろいろグダグダとやるまでもなく、
『自分の方が価値が上だ』ってやった時点で、<ハイ、差別そのもの>で話は終わりだと、ふと気付いた
『差別』とは、特定の属性(例えば経済力やさまざまな社会的地位)に基づいて、自分を他者より上位に置き、他者を不当に扱う態度のことだからね
自分と同等以上の能力がない人や、自分と異なる興味や能力を持つ人に対して、『やる気が足りないのでは?』と傲慢な態度を取っていたかもしれない
※ 年収に影響する要素で1番大きいのは『運』、ついで『社会制度』、それらに比べたら『能力』の影響は小さいことも、他人の能力を見誤る要因になっている
※ それ以前の問題として、『自分と他人は違うを理解する機能』がそもそも未搭載なので、何度学習しても、つい他人の能力を見誤ってしまう
例えば、女性を『おばさん』と綴り、男性を『男』と呼称しインタビューに応える某皇族は、自分のことを『ガチ貴族』と思ってるし、実際に貴族なんだけど、
(あれがなんでウケてるのかマジでわからん。中世か? 本当、膝を折って各地を訪問した平成天皇だけが皇族の例外でしたわ)、
政財界の人間は、皇族と違って、いちおう一般人の"ハズ"なのに、日本以外の国でかましたら、
失脚、株価暴落、活動家に永久粘着される or 永久に身の危険を覚えることになるような暴言を マスコミにすっぱ抜かれたとかではなく、
公の場で自ら積極的に発信してるのマジでなんなんだろ?って思ったわけです(ナチス発言ほかキリがない)
『オメー、平等絶対の日本のどこでそんな教育を受けてそうなったの?』、『オメー、ガチ貴族ではなくね?』みたいな
だけど、べつにガチ貴族や上級国民でなくても、無限に無礼な人/上からな人いますよね?
せいぜいあっても年収2000万程度で、なんならワイ以下の年収でも無限にいます
つまり、これは生まれや社会的な立場の問題じゃ無さそうだな・・・ってなったわけです
単純にその人の態度(attitude)、人間性の問題なのでは?ってね
なお、アリストテレスは『ニコマコス徳倫理学』で、徳(美徳)は習慣(ēthos)化によって形成されるとって言ってるし、
人間の行動が繰り返されることで習慣となり、それが最終的に性格や人格を形成するって言っているので、
※下記は、マザーテレサでもウィリアム・ジェームズでも無いらしいです
自己責任論って突き詰めたら、森羅万象あらゆる事象は自己責任を主張している本人のせいに全部転嫁できるはずなんだけど、いまだかつてこの主張が自己責任論者に聞き入れられたことがないので、自己責任論者は自己中心論者だと思っている
これは 1000000000%、それはそう
森羅万象ではなく、もっと単純な日常的な視点で言っても、それはそう
例えば、通貨が弱く教育や医療システムが整っていない国からやってきた人々や、スラム街から成り上がった人々にとって、先進国での一般的な悩みは『甘え』のように映るだろう
同じ先進国に住んでいても、呼吸や歩行、食事など、日常生活の基本的なことすら困難な人々からすれば、健康に恵まれた人々の日常的な悩みなんぞ『甘え』に感じられるだろう
でも、先進国で自己責任を説いたり、ぼくあたちは頑張った!努力した!をやる人は、上記の人々と同じ立場に身を置いたことがないどころか、
居所不明児童 の悲劇、 川口高齢夫婦殺害事件(2013年) の当事者に近い環境に身を置く人は今日もいるだろうし、
殴る蹴る性加害など緊急性の高い虐待ではなくても、電気ガス水道が止まるのが日常な環境で暮らす児童は今日もいるだろうし(貧困ではなくて親が生活能力がない)、
ネグレクト・機能不全家庭でなくても、教育DVや暴言が日常とか過干渉とか条件付き愛情とか、基盤を壊すものは無数にあってひとつひとつ挙げたらキリがない
そして、自己責任を説いたり、ぼくあたちは頑張った!努力した!をやる人は、上記の人々と同じ環境に身を置いたことがないどころか、
人類は自然に完全に打ち勝ったわけでも、自然から独立した存在でもない
だが、他の動物と異なり、『優れた貯金力(資源を蓄積する能力)』と『高度な想像力』を持っている。そのため、先進国では、福祉制度や社会保障が充実しており、動物のように弱者を切り捨てたりしない。
また、見て見ぬふりをしてしまうこともあっても、自ら手を下して積極的に弱者を切り捨てたいという輩は異常者とされるし、自分自身が社会から切り捨てられたいとも思うのも異常者だ
したがって、裕福な立場や恵まれた環境にあるすべての人は、たとえエリートでなくても社会的責任(ノブレス・オブリージュ)を意識する必要がある
持てる者が傲慢な態度であることは、エクイティ(公平性)や共通善の観点から見ても、批判されるべきだ
批判的ではありつつも、バーカ、バーカ、と言うのは控えたいと思います
ブルボンのお菓子が敵として攻めてきた場合の対処法をいくつか考えてみましょう。
ブルボンのお菓子には「アルフォート」「ルマンド」「プチシリーズ」など、多種多様な種類があります。それぞれの特性を理解して戦略を立てましょう。たとえば、ルマンドは軽くて崩れやすいので、遠距離からの攻撃に弱いと予想できます。一方でアルフォートは頑丈なので、より強力な攻撃が必要かもしれません。
お菓子はやはり「食べられる」ことが最大の弱点です。友達や家族に協力を依頼して「美味しくいただく」ことで、戦力を減少させましょう。彼らが食べられてしまえば、もはや脅威ではありません。
敵がお菓子であるなら、甘さに弱い生物を連れていきましょう。甘いものに目がない昆虫や、甘党の仲間が役立つかもしれません。自動的に食べられる運命をたどらせることで、戦力を削げる可能性があります。
ブルボンのほかのお菓子メーカー(グリコ、ロッテ、明治など)と同盟を組み、相互に抑制しあう戦略を取るのも一案です。敵が他社のお菓子と対抗することで、力を分散させられるかもしれません。
最後に、最も重要な対処法です。攻めてきたブルボンのお菓子たちに「お菓子の美味しさは、皆とシェアするためにある」というメッセージを伝えましょう。話し合いの場を設けて、敵対するのではなく共存する道を探します。最終的には、仲良くお茶会を開き、お菓子の平和を祝うことができるかもしれません。
虫って、よく見ると何かおかしいと思わない?
あの妙な姿かたち、異様な動き。
カブトムシやトンボみたいにちょっとカッコいい系もいれば、ゴキブリやムカデみたいに生理的に受けつけない系もいる。
さらに調べると、昆虫の生態ってまだわかってないことだらけなんだよ。
たとえば、ミツバチの「ワグルダンス」っていう踊りで情報を伝える行動、どこでそんな技術を覚えたのかも不明だし、何百キロも離れた場所から迷わず巣に帰ってくるカブトムシの帰巣本能とか、どうやって道を覚えてるのか、いまだに謎。
近年だとカマキリが星を使ってナビゲートしてるって話も出てきたけど、それもまだよくわかってないらしい。
そんな感じで不思議すぎるから、昆虫の先祖は宇宙からやってきたんじゃないか?って説もあるんだって。これは「パンスペルミア説」と言って、昔、隕石に紛れて地球に来た微生物が進化して、今の虫になったんじゃないかって考え方。
SFみたいだけど、地球にない化学物質が昆虫から見つかったりもしてるから、信じたくなる話なんだ。
———
時は23世紀。技術が発達して、未来人たちは過去に行くための方法を見つけた。
とはいえ、歴史を変えるリスクがあるから、普通に人間が過去に行くのは絶対禁止されてる。
けど「過去を見てみたい!」って気持ちは止められないじゃん?そこで考え出されたのが、過去の地球に「遠隔操作型ドローン」を送り込むというアイデア。
昆虫は、未来の技術で作られた高性能のタイムマシンみたいなもんで、カメラやセンサーが内蔵されてて、未来の人たちはそれを通して過去の風景を観察できる。
普通のドローンだと、当時の地球環境や人間にバレるリスクが高すぎるけど、虫の姿をしていれば、誰も怪しむことなく地球上を自由に飛び回れるんだ。
虫の中には特殊なプログラムがあって、記録した映像や情報を未来に送り返すようになってる。
だから、たとえばアリが一直線に行列を作るのも、ハチがダンスを踊るのも、実は未来の人が「どうせ過去に行くなら秩序ある行動を見せたい」っていう趣味のせいだったりする。
アリたちはせっせと働いているように見えて、実はあれは単にプログラム通りに動いてるだけ。
つまり、昆虫の謎めいた行動や生態の数々も、全部未来の人たちの手の中にあるってわけ。
そう考えると、ちょっと虫を見る目も変わるよね。
今、君の肩に止まってるそのハエも、もしかしたら未来人が操縦してるのかもしれないし、君の行動をこっそり観察してるのかもしれない
ガロは書く人も居なさそうなので、元読者の義務感に駆られて書いてみた。リアタイで読んでいたのは80~90年代の一部なのでいろいろ偏っているとは思う。選択の基準としては、漫画史的な重要性や、後世に与えた影響を優先した。バックナンバーや単行本やアンソロジー、関連書籍(が多いのもガロの特徴ではある)などの知識も動員したが、記憶に頼って書いているので誤謬などはご容赦。むしろ先達からの突っ込みが欲しいです。なお、ガロ分裂後のアックス誌の作品にはここでは触れない。
まずはなにを差し置いてもこれ。そもそもガロという雑誌の創刊自体が長井勝一による「カムイ伝」を掲載する媒体を作りたいという並外れた理由によるもので、「ガロ」という奇妙な誌名も作中人物の「大摩のガロ」から取ったものだった。どちらかと言えば現在では「読まれない」作品になりつつある印象なので当時の熱狂を図るのは難しいが、漫画史的には「どうやら漫画という媒体は歴史的・社会的な諸問題を描き得る(と読者に思わせた)」点がエポックだったのではないかと思う。今であればそんなもん当然だろうと思われるかもしれないが、所詮我々はこのような巨人の肩の上にいる。
つげ義春がガロ誌に発表した短編は悉くが傑作なのでとても一本に絞りきれるものではなく、作品の完成度からすればむしろ「ゲンセンカン主人」や「赤い花」ではないかとも思うのだが、後世に与えた影響の大きさを考えればこれを選ばざるを得ない。「見た夢をそのまま描いた」という誤解を受けることも多い本作だが、実のところは多種多様なコラージュや巧みな漫画的技法に満ちていて、きちんとした作為の下に統制して作り上げられた「シュール」の傑作であることがわかる。
若い男女の同棲と破綻の物語と描けば無数の類例が思い浮かぶが、1970年の発表当時には極めて新しかったはずである。なにしろ婚前交渉などという言葉が現役だった時代だ。主人公の職業がアニメーターというのも新しく、しゃれていたのではあるまいか。この作品の画期は、漫画に「俺たちの等身大の青春(あるいはそのように夢想したいもの)」を持ち込んだ点だったのではないかと思う。林静一の洒脱な絵は上村一夫などによる後続作に比べても洗練されていて、今見ても色あせない。
漫画(に限らず表現)とはなにものかを描かなければならないのだというドグマがまだ有効だった60年代、漫画から意味というものを完全に取り去ってしまった佐々木マキの一連の作品はセンセーショナルであったらしい。画風はおそらく杉浦茂の系譜にあるのだが、もはやナンセンスという言葉も不適当だと思われるぐらいに徹底して意味や物語は排除されている。その衝撃は若き日の村上春樹にもはっきりと影響を与えたらしく、のちに佐々木は村上の著作の挿画を担当することになる。
簡素な絵でナンセンス漫画を濫作していた滝田ゆうが、心機一転、自らが少年時代を過ごした戦前の私娼街・玉ノ井の風景をおそろしく緻密な絵柄で描き出した。「三丁目の夕日」的なノスタルジアものの先駆ではあるが、最終回、戦火は玉ノ井の街を焼き尽くして終わる。ここに描かれているものは、卓抜した記憶力と画力により再構築された、失われて二度とよみがえることのなかった風景なのである。
ここまでは疑いなく殿堂入りの作品が並ぶが、ここからは判断に迷う。70年代ガロからは永島慎二や宮谷一彦を外してはいけないかもしれないのだが、活躍のメインはガロ誌ではなかった作家だし、やはり当時の熱狂を現在から嗅ぎ取るのは少々難しい。安部慎一や花輪和一、古川益三(のちのまんだらけ社長)の諸作品も思い浮かぶけれど、ここでは作品の強度と詩情、卓抜した画力を取って敢えて鈴木翁二で。
これも当時の衝撃をいま追体験するのは難しいのかもしれないが、ヘタウマや不条理がどっさり詰め込まれた本作が半世紀近く前のものと考えるとやはり衝撃的だし、こういうギラついた脳天気さは、結局は80年代「軽チャー」の苗床になったのではないかと思わされる。
80年前後のガロにはニューウェーブにカテゴライズされる作家も少なからずいて、例えば川崎ゆきお、蛭子能収、ひさうちみちお、奥平イラなどが挙げられるのだが、個々の作品への愛着はさておいて結局のところ今に至るまで強い影響を与え続けているのはむしろニューウェーブの埒外にいた丸尾末広ではないかと思う。圧倒的な画力は漫画のみならず演劇や音楽にも影響を与えたし、世代を超えたファンも多い。なお本作の初出はガロ誌ではないのだが、代表作として外せないのと単行本は青林堂だったのでご容赦を。
80年代ガロではこの人の名前も外せない。「過激な」作風と言われ「特殊漫画」を自称他称もしている人ではあるけれど、実のところは非常に息の長い物語を紡ぎ出せるストーリーテラーでもあり、日本の近代史や土俗性を容赦なくぶち込んでやるから覚悟しろよというぎらついた野心も垣間見える。その試みがもっとも巧くいった作品の一つが本作。水爆投下とともに発射された精子が自我を持つ話です……と書くと面白そうでしょ?
ガロ最末期の90年代から一人と考えて、古屋兎丸や山野一・ねこぢるなども思い浮かんだけれど、漫画表現の圧倒的な強度に鑑みて本作を選んだ。この地上には存在しないはずなのによく知っている風景がどこまでもどこまでも展開される。いつかうなされながら見た夢が、ここに具現化されているという驚き。「ガロがなければ世に出ることのなかった」作品の一つの頂点であると思う。逆柱作品はどれをとっても傑作なのに単行本の多くは絶版で、とんでもないプレミアが付いてたりする……。
・個人的にはつげ忠男の大ファンで、実際「無頼の街」「河童の居る川」など傑作も数多いのだが、漫画史的重要性を優先して涙を呑んだ。
・赤瀬川原平も言及に迷ったけど、ガロ誌での漫画作品(『お座敷』など)よりも、その外での活躍が多かった人という印象なので選外に。ガロ系の作家ではこういう人も多いのですが。
・「ガロにおける有名作家」という問題もある。水木しげるに矢口高雄に池上遼一といったビッグネームもあれば、のちのどおくまんも一度作品を掲載しており、末期ガロにも吉田戦車のような意外な面々が顔を覗かせる。珍しいところでは、SPA!誌で掲載を断られたゴーマニズム宣言の回を小林よしのりがガロに持ち込んで掲載された例がある。
・ガロ出身で他誌で活躍することになる人も多い。上記の他、新しい世代では花くまゆうさく・福満しげゆき・東陽片岡・古泉智浩あたりか。
・80年代ガロでかなり迷ったのは、トラバでも言及のある久住兄弟や泉晴紀・泉昌之、渡辺和博などの面々。このあたりのナンセンスな作品群はわりと影響も大きかったようなんだけど、作品単体でどうこう言えるものが思い当たらなかったので除外。
・つりたくにこ・やまだ紫・杉浦日向子・近藤ようこといった女性作家たちの極めて良質な作品についても言及しておきたい。特に津野裕子は最末期のガロに、寡作ながら優れた作品を残した作家で、機会があればぜひ一読をお勧めします。
・その他、この10選に選ぶには及ばないけれど間違いなくその人にしか描き得ない作品を残し、ガロという媒体がなければ目にすることもなかったであろう作家たちについても、その名をリスペクトしておきたい。淀川さんぽ、とま雅和、谷弘兒、三橋乙耶、菅野修、等々……。
・90年代ガロは文章ページが(文章ページのほうが……)充実してた感があり、呉智英や四方田犬彦など結構な面々が連載していた。
・投稿ページの「4コマガロ」も相当(雑誌のカラー的な意味で)レベルが高く、ここ出身の有名作家が福満しげゆき。
・同時期にやっていた「ガロ名作劇場」という好企画があって、90年代前半時点では入手困難だった作家を含め、ガロ出身の名作家を回顧的に紹介してくれた。林静一「まっかっかロック」なんてものすごい衝撃受けたし、楠正平や勝又進なんてこんなことでもなければまず読むことができなかった作家だったと思う。
・ねこぢるはやはり入れるべきだったかなーという迷いは今でもあり、代わりに削るとすればペンギンごはんか鈴木翁二か。リアタイ勢だったんだけど初読の際の衝撃は今でも覚えていて、90年代サブカル的にはわりとよくあった「無邪気な残酷さ」が普遍性を持ち得た希有な例だったんじゃないかと思う。(その点では山田花子には自分は少々点が辛い)
・>ビレヴァンいけば売ってる? >なんか漫画系のサブスクはこういうのの乗っかってどんどんセット売りとかして欲しいよな。
これは本当にそう思うところで、ガロの名作群はとにかく作品へのリーチが困難。古川益三の作品なんてマジで読めないし古書には衝撃的な値が付いてたりする。電書にするにしたってタダじゃないのは分かってるけど、なんとかならんかな。
・>「ガロ」はフォロワー・影響度では計れない作家作品が多すぎて。簡単に真似されるような作品はガロ的ではないとも言えるし
これも本当に同感で、孤立峰みたいな作家が多すぎるんだよなー。熱を込めて語られるけれど模倣はされない、って、表現としてはすごいことなんだけど。
先日の事件によってBluesky、通称青空にたくさん移動する動きが見られた。
大手絵描き等がこぞって移動しては、青空は絵が沢山放流される場所になっている。
前にもこの流れはあり、今後どうなるのか気になるところだが
TwitterをX君、イーロン君、と揶揄するだけならまだしも、罵って砂かけして出ていく人も多く散見された。認知度ある人も。
AIのデータとして使われるよ、ということを嫌に思っての移動ではあるが、青空でもそれは可能だ。要はどのプラットフォームにあげても、根本的に対策不可能である。
自分も絵描きの端くれなので、AIに対しての嫌悪感は分かる。と言っても学習や技術進歩として使われるのは問題なく、それを悪用、商売として使って似たコンテンツを量産する人達への嫌悪感と表現するのが正しい。
その絵を公開する場で、ほぼ絵描きばかりの閉じられたコミュニティにしか絵をあげないという行動が謎である。
ネットにあげる目的は何か考えた時に、たくさんの人に見てもらって認知されて広げてもらって好きになってもらう、そこが一番大切だと思っていて、その中にはAIに対してそこまで拒否感ない人も沢山いると思う。そんな人にこそ、AIより自分の描いた絵が好きになって見て欲しいと思う。
今青空を眺めて思うのは、Xオワコン、ここは綺麗、いい所という愚痴を吐いて、過去さんざんタダ乗りしてきた絵描きが利用していたものに砂かけしまくってて嫌だなぁという感想。
いじめていい対象みつけたらひたすら虐めて楽しむあの感じ。Xにもそういう人たちは沢山居たけど、もしかしてこういう人たちのせいで汚れてた部分もあったのでは、と考えてしまった。
Xは沢山嫌な部分もあるけど、色んな価値観の人もいる。現実はもっと多種多様だけどそこは割愛
ここ数日、大手絵描きがXに砂かけして、青空に移動してから逆にXで魅力的な創作をする人を見つけやすくなったように感じる。
面倒な創作者のお気持ちするタイプの人が、青空に沢山写ったように思う。
当時ネットで話題になっていたのは知っていたものの読んだことはなかった。
しかし今現在ジャンププラスで全話無料で公開しているので読んでみたわけだ。
すみませんでした!!!当時ネットで話題になってたのは悪い意味でだとばかり思っていて、だから勝手につまらない作品だと思ってました!!!!
でも実際には大変すばらしい作品だったんで、ここにその感想を述べようと思う。
ネタバレ含むので、未読の方は読まない方が吉。
最初、というか一話目からいきなり首吊り描写という衝撃展開で、その後はまさかループものとは…。
というか、この時点でのループが実はキーで、後の伏線、実はまりなちゃんのためにタイムリープしていたとは…!というのは視点によって善悪は異なるものだよといったメッセージ性をより強調、分かり易いものにしていて非常に良い構成だった。
タコピーの”原罪”とは、”誰もが幸せになれる”と思い込んでいることである。
現代はSNSの台頭により、マイノリティの意見を今までのどの時代よりも拾いやすい状況だといえる。
私たちは多種多様な人々の意見を聞くことが出来、最適な社会を形成できるであろうと考えるかもしれない。
でもそれは無理なんだ。何故なら資源は有限であり、幸せもまた有限なのだから。
そして、この作品はそれを教えてくれる。
幸せは、有限だ。
でも私たちは、誰しもが幸福になれるであろうという夢を、無限の資源を夢見てしまう。
それは無理なんだよ。決して叶わない。
タコピーの原罪は、我々現代人にとっての原罪でもあるのだから。
そのことを、この作品は教えてくれた。
非常に素晴らしい作品なので、未読の方は読んでみても損はないと思う。
https://anond.hatelabo.jp/20241013084419
に要点をまとめておきました(文字数制限に引っかかったので分割)。
厚労省より昨日公表された日本人の食事摂取基準(2025年版)について、ある糖尿病専門医の解説ツイートが一時のトレンドになるレベルでバズっていた。
日本人食事摂取基準2020→2025で食べる順番(ベジファースト/カーボラスト)が削除されておる!!!!!
はてなブックマークでもこの件に関するTogetterまとめについてそこそこブクマがついて、ホットエントリーに上昇している。
[B! 健康] 「今まで頑張ってお野菜から食べてたのに...」炭水化物より先に野菜などを食べることで食後の血糖値を抑制するという食べ方が厚労省『日本人の食事摂取基準』から削除される
しかし、筋肉博士医師の主張は真か偽かで言えば端的に誤りであるし、好意的に読んでもミスリードである。
食事摂取基準は国の作るガイドラインであるから、改訂方針やら策定の検討会議事録やらは誰でも読める形で公開されている。
「日本人の食事摂取基準(2025年版)」策定検討会|厚生労働省
私は医師でも医療関係者でも栄養士でもないが、証拠があるので安心して医師の誤りを指摘できるというわけだ。
実のところ、ベジファーストが食事摂取基準から削除されたというのは正確な表現ではない。
2020年度版では、ベジファーストについて一文取り上げていた「食事摂取パターン (eating pattern)とシフトワーカー」という節が糖尿病対策の章からまるごと削除されたのである。
食事摂取基準の策定根拠は健康増進法である。法に定められた食事摂取基準の取り扱う事項は以下の通り。
栄養素というのは、もちろんたんぱく質とかビタミンとかミネラルとかのことを指すので、野菜の食べ順なるものはOut of Scopeなのだ。だから削除されたそれだけである。
真偽の話でいうならば、これで筋肉博士医師への論破は完了だ。ただこれだけで話を終えるのはおもしろくないので、もう少し深い背景を見てみよう。
「人に栄養指導するプロならば、ただ基準値を参照するのではなく、策定根拠である本文を読んでくれ。基準値は妥協の産物でもあるのだからそれに縛られず、患者一人ひとりに合わせて柔軟に対応してくれ」
食事摂取基準を策定する側の偉い先生は、「基準値より本文だ!」という想いをよく語っておられます。
なんでそんなこと言わなきゃいけないのかというと、ぜんぜん読んでなさそうなプロの栄養士がそこそこいる現実があるからですわ。
でも、それもある程度は仕方ない。2020年版で494ページですからね。鈍器本のページ数です。忙しい栄養士が横着して基準値だけ見る、そして基準値が独り歩きしだす。偉い先生はこれがホント嫌なわけです。
しかしエビデンスというのは毎年増えていくわけで、理屈で言えば毎改訂ごとにページ数は増加します。今でさえガイドラインを読むのは大変なのに、これ以上!となるのは大変ですよね。
そして読む人が大変なら、作る人はもっともっと大変です。食事摂取基準2020年度版には以下の記述があります。
食事摂取基準が参照すべき該当分野の研究論文数は、増加の一途をたどっている。5年に一度の策定では、策定作業に十分な時間を費やすことが難しく、作業負担も大きいため、策定体制の強化や策定プロセスの効率化に向けた方策を講じなければ、将来の食事摂取基準の策定に支障をきたすおそれがある
実際、2025年度の検討会資料を読み込んでいると「人手不足でもはや持続困難だ」っていう研究者の悲鳴がかなり伝わってきます。
そんなこんなで食事摂取基準をこれ以上肥大化させることは避けねばならないってのが2025年度改訂の問題意識の1つだったわけですわ。
日本では、政府の作る食事摂取基準以外にも、EBM(エビデンスベースドメディシン)に基づく多種多様な診療ガイドラインが存在します。これらは専門の学会が作っとるわけですが、ここにも「食事療法」という節はあるわけですね。
栄養素の基準値策定と、食事療法。かなりカバー範囲が重なり合っています。政府と学会、お互い独立に作っているものですから、似たような記述がお互いのガイドラインで執筆されるという無駄が生じます。さらに悪いことに、違う人が作っているわけだから、食事摂取基準と診療ガイドラインで矛盾が生じるという事例もありました。当然、現場は混乱しますね。
食事摂取基準と診療ガイドラインで連携して、お互いの責任範囲を排他な形で定めよう、縄張りを線引きしよう。そうすれば読み手の負担も書き手の負担も軽くなる。そういうことになったんですね。
偶然、糖尿病診療ガイドラインの改訂作業は、食事摂取基準2025年度版と同時期に行われていました。糖尿病診療ガイドラインの食事療法を2024年度版と2019年度版とで比較してみましょう。
2019年には13あったQ&Aが2024年には8に減っています。
2019年にはあった、栄養素絡みのQ&Aが軒並み削除されています。
理由はここまでの説明で明らかですね。食事摂取基準の縄張りを尊重したのです(正確に言えば、「総エネルギー摂取量」の記述はまだ問題が残っているのですが……)。
さて大いに脱線した話を戻しましょう。食事摂取基準の糖尿病に関する記述から、ベジファーストがから削除されたのはOut of Scope、範囲外であるためでした。となると、執筆責任は糖尿病診療ガイドラインの食事療法にあるはずです。
あれ? 2019年にはあったベジファーストが、2024年版糖尿病診断ガイドラインでも消えてるぞ? なんでやねん。
最初に筋肉博士医師のツイートは、「真か偽かで言えば端的に誤りであるし、好意的に読んでもミスリード」と書きました。「好意的に読んでも」と書いたときに想定していたのは、「食事摂取基準」を「日本の糖尿病ガイドライン」と読み替えれば仮説としてはありうるだろう、という意味でした。
しかし読み替えたとしても、「エビデンス不足がようやく露呈」というのはミスリードな表現だと私は考えます。
糖尿病診断ガイドラインは食事摂取基準と違って、学会で作られているので改訂方針について外部の人間がアクセスできる情報がありません。どういう意図で情報が削除されたのかさっぱりわからないんですね。削除の理由をすぐに「エビデンス不足」に断定するのは証拠がありません。
しかも、糖尿病診断ガイドライン2024年版で検索すると出てくるニュース記事、
を読むとですね、副題が「糖尿病の新診療ガイドラインに見る食事のポイント」で、解説者がガイドライン策定委員会に所属する食事療法の専門家(京大教授)であるにも関わらず、新ガイドラインでは記述が削除されたはずのベジファースト/カーボンラストについて解説が行われているんですね。
内容は「世間で言われるベジファーストには誤解がある」というものですが、大雑把に言えば食べ順を考慮して食べることを推奨する解説で、2019年の旧ガイドラインに準拠していると読めます。つまり「ベジファーストが誤りだったから削除された」わけではないことを示唆しています。
じゃあなんで削除されたのか? 私は別の仮説を提示したいと思います。
2019年ガイドラインと2024年ガイドラインを交互にじっくり眺める見てください。
2024年版の方が、Q&Aの問いの文が相当洗練されているんですよね。
診療ガイドラインというのは、「Minds診療ガイドライン作成マニュアル」という規範となる規格がありまして、Q&Aをどう書くべきかというのも死ぬほど細かく厳密に定められています。
細かい事抜きに、マニュアルにどういう要件が書かれているかということを超雑に述べると、まず問いは「臨床上生じる意思決定に関する疑問」でなければなりません、そして回答はガイドライン策定者自身が実施するシステマティックレビューに基づくものでなければなりません。
これ前提に2019年版の問いを見返してみると「Minds診療ガイドライン作成マニュアル」に明確に非準拠ですね。「〇〇はどう影響するか」系の問いはどう見ても意思決定に関わるものと言えません。
そんなわけで、2019年から2024年の改訂方針には、「Minds診療ガイドライン作成マニュアル」への準拠度を高めるという意図があったと見て取れます。
次に、2024年版で削除された、2019年版のベジファーストに関するQ&Aを見てみましょう。
これベジファーストだけに関するQ&Aではないんですよね。小ネタのアラカルト的な回答で、複数の問題をごちゃまぜにしているという印象を受けます。
そんだけ2019年は自由にやっていたというわけですが、「Minds診療ガイドライン作成マニュアル」に準拠するかたちで、問いを書き直そうとするならば、問題を分割する必要があるでしょう。
試しに書き直してみると、こんな感じでしょうか。
ただ、2019年版のガイドラインでは、小ネタのアラカルトとして立項のバリューを出したわけで、わざわざ3つに分割して3つとも立項するだけの意味があるかというのは難しい問題です。
「Minds診療ガイドライン作成マニュアル」にもこう書かれています。
日常診療において医療行為を選択する意思決定の場面は数多くあるが, その全てについてシステマティックレビューを実施し, 推奨を作成するのは非常に多くの労力を要するため,現実的ではない。そのため,診療ガイドラインでは実臨床における問題に対する回答を導き出したいものを厳選して重要臨床課題として取り上げることが望まれる。
3つともに、「炭水化物制限の推奨」とか「食物繊維摂取の推奨」とかに比べれば、超小ネタですので、臨床課題であっても重要臨床課題ではない、というところで落とされたのでは?、などと私は想像しています。
書籍『佐々木敏のデータ栄養学のすすめ』などでも解説されていますけど、野菜先食べを厳密に実行するべきとするエビデンスは、おそらくまだ存在していないと思われます。
ただ、食事の楽しみを損なわない範囲で、炭水化物系を食べるのを後回しにするのは、それなりに有望な心がけと言ってもいいじゃないでしょうか。また野菜先食べである必要はなくて、たんぱく質先食べでもいいという論文もあります。
前回
https://anond.hatelabo.jp/20240708120148
DCのヴィラン達が異世界で奮戦する。資源確保のために政府から送り込まれる、というのがアメリカンな感じがして良い。
正直、DCは全然詳しくないので、ジョーカーとハーレイくらいしか登場人物が分からないのが残念。
メインキャラ達が全員ヴィランであるため、破天荒な行動ばかりで楽しい。
EDは彼らを送り込んだ長官がフィーチャーされていて、ちょっと面白い
ちょっとツンとした態度のアーリャが分からないと思ってロシア語でデレるけれど、主人公の政近は実はロシア語分かるので意味が筒抜け、という話。
この手の話はヒロインの恋愛感情があらかじめ視聴者に提示されていると安心感があると思ってて(高木さん1話の消しゴムとか)、そういう意味ではこの話も安心。視聴者どころか、本人にも伝わってしまっているが。
ほのぼのすれ違いラブコメかと思いきや、生徒会活動や生徒会長選挙が話としては主軸で、結構ばちばちにやり合う。ただ、中盤の学生議会は茶番感があってちょっと萎え。
主人公は幼少期にロシアの女の子と遊んでいたからロシア語が分かるんだけれど、その相手が誰か?という爆弾はすっかり放置されたまま一期は終了。二期でその辺やるかな?本命、姉のマーシャさんだけど、どうか。
様々な職業訓練を受けたけれど才能に恵まれなかった主人公ノールが、各職業の初期スキルだけで無双する話。特にタイトルにあるパリィが特徴的。
本人の自己評価が著しく低く、認識の誤りも微妙に正されないまま話が進む。
流石にドラゴンに対峙したり、一国の軍隊を相手にしたりすれば、改まりそうなものであるが……
各話タイトルが俺は○○をパリィする、になっていて、ちゃんと毎話、ノールの活躍が見られる。だいたいパリィでなんとかなるので、安心感がある
猫だけで営むラーメン店にブラック企業を辞めた珠子が雇われる。
猫が喋ったりすること自体はそんなに驚かれず普通のことらしい。良い世界だ。
結構、嫌な客がちょこちょこ出てくるので、その点は見る人を選ぶかも?ただ、長期に渡ってストレスがかかることはなく、周りの人や製麺虎のクリシュナがなんとかしてくれる。普段は気弱な虎のクリシュナちゃんかわいい
タイトルが全てを説明してくれている。デビューしたもののいま一歩冴えなかったVTuber心音淡雪が、切り忘れ後、飲酒したうえで、同期配信見ながら下ネタかます、などしたら大バズする。
VTuber事務所を舞台にしていて、登場Vは全て女性。主人公ほか、女性好きのVが多く、百合要素あるけど、ガチな恋愛ものではない(と思う)。
live2dを活用した配信画面や、許諾をとった定番の配信ゲームなど、実際に配信を見てる気分になれる。個人的には最近、にじさんじ見始めたので大分、理解度上がった
中毒性の高いOPで放映前の話題をかっさらったアニメ。ガールミーツシカのカオスなギャグ。ちょっと百合。
一応、シカ部という部活を舞台にした謎部活ものなんだけれど、たぶんそこはどうでも良い。Don't think. feel.
実写の鹿を多用した演出に面食らうが、だんだん慣れてくる。慣れって怖ろしい。
ぽっちゃり好き大歓喜。人間界に来てフライドポテトにはまり、太ってしまったエルフの絵留札が人間のサポートのもと、頑張って痩せる話。エルフ以外にも様々な種族が出てくるので、モン娘好きにも嬉しい。
何かと服が破け、肌が露わになる。AT-Xで規制なし版拝めるかと思ったが、そんなことはなかった。残念
タイトル通り。夢を諦めきれず冒険者を目指すアラサーのギルド職員リックが、Sランクパーティに死ぬほど鍛えられ(実際、何回か死んで蘇生されてる)、冒険者を目指す。
物語は修行終わって冒険者に登録するところからなので、初手無双状態。
最初期は自分が弱いと思い込んでいるけれど、こちらはすぐに認識が是正され、そのうち手加減とか言い始める。
話的には闘技大会が最終的にはメイン。サブヒロインの成長とか、リーダーがなぜ主人公を育成していたかとか、熱い話が多くて良かった。あとOPが串田アキラで、こちらも熱くて良かった
舞台の整え方が秀逸。主人公の純が双子とだらだら三角関係、ではなく、姉の琉実と付き合う→琉実が身を引く→妹の那織と付き合う→と思いきや実は付き合ってない、までやって初期設定完了。まぁ、そこからはだらだら三角関係だし、お前たちが俺の翼だとか言っちゃうわけだけど(言ってない)
純と那織を含め、文学とか映画とか造詣の深いキャラクターが多くて、そういった作品の引用がたびたび出てくる。そういう会話劇みたいなのが好きだと楽しめるかも(逆に苦手だと無理かも)
攻め攻めな那織に対して、琉実は純情バスケ少女、頑張ってほしい。でも琉実は脳を破壊してくる。私は那織派です
高校の演劇部を舞台に大道具の北浜先輩と、役者の後輩七倉の恋愛を描く。北浜先輩がハーレムとかいいよねと言ったばかりに、七倉が一人何役かで、擬似的にハーレムにしてあげる話。なお、言うほどハーレム感はない。早見沙織の演技を楽しもう。
この手の話には珍しく途中で先輩が卒業して、大学生と高校生のカップルになる。卒業前に廊下で出会いの再現をするシーンが良かった。
などと、思っていたら、最終回で急にアクセルふかして物語完結してた。馴れ初めから人生の転機まで見られて満足です
クラス丸ごと異世界転移。主人公の灯河が与えられたのは使えないとされる状態異常スキルだった。クソ女神に高難易度ダンジョンに廃棄され、復讐を誓いながらも、なんとか生き残るすべを探す。
ありがちな追放側のざまぁ展開とかまでは行かず、仲間が揃って、重要っぽい人物に会ったところまで。
クリーチャーデザインがわりとキモくて良い。屋外とかで影の色に違和感があったけど、毎回だから演出かな?
三次元には興味のない奥村と、二次元のキャラになりたいコスプレ女子リリサのラブコメ。
露出通り高めのコスプレが好きな女子との高校生活とか羨ましすぎる。なぜ、自分はそういった青春を送れなかったのか。
ラブコメ要素ももちろん強いけど、わりとスポ根というか、ぶつかりながら分かり合っていく話が多い。あと、周りの大人が良い人たちすぎる。素晴らしい。
ハーレム要素も少しあり、幼馴染みとかトップレイヤーとかよりどりみどりだけれど、主人公にその気がないので、あまりそういう話にならない。というか、幼馴染み出番少なすぎて可愛そうだった。なむさん
第3期の2クール目。今回は開国祭が物語の中心のため、わりと心穏やかに見ることができた。
勇者マサユキもギャグよりのキャラかなと思ったけど、最終回、急に不穏だったな。いいぞ、どんどんやれ。
今クールも会議するけど、前クールよりは控えめ?各国の要人とかたくさん出てくる。転スラも登場人物が多くて、把握難しい
原作既読。ひょんなことからダンジョンで働くことになったシーフのクレイとダンジョンの管理人ベルを中心とした作品。ほんのり百合。
ベルのキャラクターもあって、基本的にはほんわかした雰囲気のコメディなんだけど、急にシビアな面が見えたりするのが面白い。死生観の違う超常存在って言うと言い過ぎか。
クレイ自身も強いし、ベルは頭抜けた強さなので、荒事展開になっても安心して見ていられるのも良い。ダンジョン運営の意外な裏側を楽しむアニメ
タイトル通り、負けヒロインがヒロインな作品。文芸部の温水のもとに続々と負けヒロインが集う青春部活もの。
もちろん恋愛物ではあるんだけど、フラレたあとの思いの行く末みたいな感じで、温水がもてもてーみたいにはならない。妹には好意を寄せられてそうではある。
ヒロインたちが多種多様でわちゃわちゃ見てるだけでも楽しかった。破天荒な保険医の先生がちょっと好き
変わらず手堅くアニメ化していて良い。ヒナコというか宇津保編は好きなシーン多くて嬉しい。
クリスマス会残して終了、惜しい。社長の人柄が見えるシーン見たかった。二期あるかな?
歴史モノの常として、TLに史実バレが溢れかえるのは悲しい。せっかく歴史弱いから、新鮮な気持ちで楽しみたいのに。
キン肉マンの令和最新作。微妙に世代ではないので、あまり詳しくないんだけれど、本編中で超人の過去の経緯とか触れてくれる。初見にも優しい。
いわゆる正義超人はだいたい回復のため眠りについていてあまり出てこない。今期は悪魔超人対完璧超人の対戦カードが多かった。
キン肉マンは宮野真守で、ちょっと演技が過剰な感じするから、合う合わないはあるかも
1カップルの話かと思ったら群像劇でお得感。各カップルの話を集中してやってくれるから、視聴者にも優しい。
高校生男子だからしっかり性欲があり、カップル成立したら即ベッドシーンだぜ、やったね。
最初の方にちょっとだけ、成人が未成年と関係を持つ話があるから、苦手な人は避けると良いかも。がっつり、そういう話をするわけではないけど
異世界転生した女子が赤子の頃から鍛えて、スタートダッシュを決める領地運営+精霊愛されチートなのかな?
5分枠のボイスコミック(?)、あんまり動かない。物語のテンポは良いけど、実質1話2分くらいなので、1クールやっても通常アニメ1話分くらいなのが惜しいところ。本編はやっとヒーローが登場したくらいで終了。
気楽に見ることができるから細く長く続けて欲しかったけど、1クールで終わりっぽい。残念
伊藤潤二の名作ホラー漫画をオムニバス形式でアニメ化したもの。もともとホラー苦手であんまり見ないけど、最近のホラーアニメって対抗できるものが多いから、ただただ理不尽を押し付けられるホラーは新鮮。
ぶつ切りな後味悪い話が多いけど、双一とかちょっとコメディテイストのあるものもあって癒し枠
水虫対策アニメ。異世界転生したダリヤが現代知識も使いながら、魔導具師として生きていく。若干の婚約破棄要素もあり。
後半の作画崩壊がひどくて、ちょっと悲しかった。もったいない。EDの疾走感が好き
問題を起こしてグループ脱退したYouTuberの真咲がヴァンパイアのりぶと出会って、裏方として再起する話。
りぶが真咲に対して全力で性的に見ているのが良。あれだな、発情しているやべぇ女子を見るのが好きなんだな。
色々なキャラクターやエピソード入れたけれど、使いきれなかった感ある。ちょっと残念。最後、真咲の動画復帰で終わるんだから、もっとそこにフォーカスしても良かったように思う。登録者数100万人が目標として分かりやす過ぎたかな
チア部でイップス発症して飛べなくなったかなたが、女子6人でグループを結成して、動画を通して応援していく。
ぱっと見きららっぽいが、PA worksだけあって、話はわりとシリアスめ。
これもキャラクター多くて話が発散していた印象。涼葉が最後にアイドルになるって旅立ってたけど、その辺もエピソード薄くて、唐突感が強い
2期、東京奪還編。恥ずかしがり屋のヒーロー、シャイが人々の心の闇を利用するアマラリルクと戦う。
ヒーロー物だけれど、相手が心に傷を抱えているから、バトルもともかく、心に寄り添うところが重視されてる。東京が結構な状況になってたけど、今後どうなるんだろうか。
1期からあるけど、Aパート終わりのアイキャッチでAパートの主要キャラがそのままの流れ、感情で「SHY」って言う演出がかなり好き
2クール目。
相変わらずの綱渡り感で胃がきりきりする。この世界の商人ハードモード過ぎないか。
黄鉄鉱のエピソード終わってから、二人の間に流れる空気がより艶っぽくなって、そこは後方腕組みしてにやにやしてた。
悪の参謀ミラと薄幸魔法少女の白夜の敵同士による甘酸っぱいラブコメ。
魔法少女についている御使い様が悪徳過ぎて、複雑な気持ちになる。逆に悪の組織の悪さは全然見えない。
原作完結済みということで、最後くっつくかと思ったけど、そんなこともなかった。早く結婚しろ
異世界太宰。愛人と心中しようとした"先生"のもとにトラックが突っ込み異世界転移、同じく転移しているであろう愛人さっちゃんを探して心中をすることが目的。
何が起きても常にダウナー系の先生と周りのギャップが楽しい。先生は基本的にやる気なさげだけれども、物語を紡ぐことには真摯だし、締めるところは締める。そうありたいものです
魔法至上主義の世界で魔法の使えない主人公が……と書くとほぼマッシュルなんだけど、あちらがコメディに振ってるのに対して、ロマンス側に振ってる。
とにかく動きがすごい、戦闘ももちろん、ちょっとした演技が素晴らしい。
ウィル戦クライマックスの回転ロングカット多用したシーンはまじで良かったし、その後のエルフィが恥ずかしがるポイントも良かった。
僧侶枠。今回は男女。カメラマンを挫折した円人の家に、モデルになった幼馴染の弥生が転がり込む。夜勤中に弥生が男を連れ込んでると思ったら……という話。プレミア版は見てないから明確には分からないけど、僧侶枠には珍しくおせっせするのに話数がかかる。
女装男子のまことと、まことを女子だと思って告白した咲と、まことの幼馴染みでまことのことが好きな竜二の三角関係ラブコメ。
各々が生き辛さを抱えていて、それとどう向き合ってくか、みたいな話で重くなりがちだけれど、コメディ要素も多くてそこまで落ち込まずに見られる。
まことの母親だけはかなり毒親っぽくてげんなりしていたけど、バックグラウンドを知ると、うーん、難しい。若干、納得してしまった。
人間と他種族の抗争に人間が勝利した世界から、勝利してない世界に転移?して他種族と戦いながら世界の謎に迫っていく話。
続く
苦しみというものは存外、多種多様で人類が名前をつけることができた苦しみはほんの一部のようです。
あなたが感じてらっしゃるその苦しみはまだ人間が名前をつけることができていない苦しみのひとつのような気がします。
苦しみとは何でしょう?何も知らないころの自分を想像してみてください。つまり自分が赤子だった頃です。
赤子は空腹や眠気を知りません。ただ何かが苦しいと認識して泣きます。成長する仮定でご飯を食べたり、眠ることで苦しみが消えることを覚えます。
これで苦しみに名前をつけることができます。これは空腹という苦しみ。これは眠気という苦しみ。克服して初めて苦しみに名前をつけることができます。
空腹や眠気といった苦しみはシンプルなので簡単に克服し名前をつけることができましたが、複雑な苦しみはその多くがまだ発見されていません。発見されていても名前がありません。
名前の分からない苦しみを克服することはとても難しいです。そもそも自分が苦しんでいることを認知できないからです。
自覚できても大変です。苦しみは姿も形もないからです。インターネットで検索することもできませんし、本で調べることもできません。
1.自分の心の痛みの方向に歩いてみる
心の痛みを認知できるのでしたら、その痛みを頼りにしてみるのが良いかもしれせん。心がより痛む方向に苦しみの原因が存在します。
苦しみの方向はひとつとは限りません。複合的な苦しみの場合があるからです。ひとつだと思っていた苦しみは実は3つかもしれません。よく観察する必要があります。
痛みが感じられない場合もあります。苦しみのなかにいる心は防衛機構が働いていて痛みを感じにくい状態になるからです。麻酔がかけられているかもしれません。
心を静めてじっくりみてあげると、もしかすると痛みに気づけるかもしれません。
2.とにかく手当たり次第にいろいろやってみる
これはシンプルです。数撃ちゃ当たる作戦です。とにかく思いつくかぎりいろんなことを試してみます。
衣食住の変更、転職、運動、友人や親に会ってみる、SNSをやめる。旅行。なんでも。
たとえばそうですね。くだらないかもしれませんが、こういうのではどうでしょう?今すぐ最寄りのコンビニに行ってみる。コンビニの全商品の中から一番ほしいものを買ってみる。くだらないですが何かわかるかも。
これは経験談ですが、苦しみのなかにいるときは自分が苦しいかどうか認知できません。
認知できるのは苦しみの変化量で、より苦しくなったときと、苦しみが軽減されたときにそれと気づくことができます。
どうかお元気で。
ロジャーコーマンはローコストロークオリティのB級映画と割り切って作品を量産し、経験の無い若手にもチャレンジさせていたので結果的に多くの若い映画作家のファーストステップを踏ませ、後に多くの有名監督を輩出する事になる。
漫画は紙とペンさえあれば誰でも描くことができ、手塚治虫はじめ多くの先人が発明したメソッドに則って多種多様な世界を描く事が出来る為、多くの才能のある人間がローコストでチャレンジでき、ヒットすればアニメや実写化、ゲーム化など多様なメディアに発展できる。
有象無象がローコストでチャレンジ出来る場があればそこから才能を見つけやすい。
ローコストでチャレンジ出来る場がなければそもそも若い才能を発掘する事自体ができない。
ハイコストでしかチャレンジできない場は既存の売れ線に沿ったりナンバリング商法に頼るしかない。リスクを冒さなくなる。