はてなキーワード: ナイーブとは
統計データや傾向調査の結果として、「Aの集団にはBという傾向があることがわかった」という報告があったとする。
これに対して、「私はAだけどBじゃないよ」とか「AだけどBじゃない人を知っているよ」といった意見を述べて、
まず、統計というのは個々の例外を探すためのものではなく、集団全体の傾向を把握するためのものだ。
例外が存在するのは当然のことで、それは統計の信頼性を損なうものではない。
統計の結果に「私は違うからそのデータは間違っている」という主張をするのは、
例えば、「喫煙者には肺がんのリスクが高い」という統計データに対して、
「喫煙者の友人がたくさんいるけど、誰も肺がんになっていない」といった反論をする人がいる。
しかし、これらの意見は個別の例外を引き合いに出して全体の傾向を否定しようとしているだけで、
また、統計データは多くのサンプルから導き出されるものであり、個々のケースをすべて網羅することはできない。
それにも関わらず、特定の例外を引き合いに出して全体の傾向を否定するのは、データの読み方として極めてナイーブだ。
自分がその例外であることを誇るのは勝手だが、それでデータの有効性を否定するのは誤りだ。
さらに、統計的な傾向はあくまで「傾向」であって、「絶対的な事実」ではない。
だからこそ、統計データは「全員がこうだ」と言っているわけではなく、「多くの人がこうだ」という話をしているに過ぎない。
自分や知り合いがその傾向に当てはまらないからといって、そのデータ自体を無意味にすることはできない。
統計や傾向を示すデータに対して無意味な個別例を持ち出して否定するのは、単なる自己満足に過ぎない。
エアプだと分かんないだろうけどアレは凸欲しさにタガを外しにかかるソシャゲ的な作りにはなってないんだよ
凸するほどのキャラの強さってのは別に求められない/割にあわないことをプレーヤーなら全員理解してるわけ
確かに最近は1凹みたいな性能のキャラは出てるけど、じゃあ1凸しないと使えないかって言うと全然そんなことはない
凸や課金武器が必須で最適編成じゃないとダメ、みたいなエンドコンテンツも存在しないし、背伸びする必要もない
そもそも戦闘がゲーム全体のごく一部でしかないし自前キャラが貧弱でもお試し等の逃げ道がある
ついでに少しでも性能をあげて快適にしなきゃやってられないような地獄の周回作業とかも存在しない
それでもガチャやキャラ以外の部分でめちゃくちゃ楽しませてもらってるから、凸すれば性能あがるんだ~というのを言い訳にして、自ら進んでお布施的に金払ってる人が大半なの
もちろん過半数の人(それでも数千万人規模)はそんな過剰な課金はせずに月額だけで遊んで収益の基盤になってるけど、SNSとかでは派手な人が目立つだけ
そもそもがソロゲーだから競争も何もなく、廃課金というのは完全に自発的な自己満でしかないから廃課金者が発生しづらい作りになってる
そういう思慮に満ちた土壌でやってるんだから、古のソシャゲと同じ土俵で踊らされてるかのように想定しようとするのは悪意的だ
あんまりユーザーの判断力を幼稚園児レベルに想定して愚弄するんじゃないよと言いたいね
表面的には同じガチャに見えるから外野から見ると同列の愚かさに見えるのかもしれないが、自発でやってるかゲーム側に強いられてるかの割合がまるで違うから、悪徳さも月とスッポンほど違う
分かっててやってる範疇で、その課金体験の質がめちゃくちゃ良いから心置きなく課金できてる人が多いんだよ
国産ガチャゲーみたいにランダム性が高いわけじゃないから、ちゃんとカウント把握さえしてれば「引けない~悔しい~泣きの諭吉追加~」みたいな感情は起こらない
配信者はネタでそういうふざけ方をしてるかもしれないが、すり抜けか否かで多少ブレはするが予算はだいたい分かりきってんのよ
むしろ仮天井まで引けない・半々ですり抜ける想定で回すのがデフォになるから、稀に早引きできたときの得した感情の方が大きくなる
いわゆる強キャラというのは出てくるにしても、バランス調整が巧みだから環境接待次第で過去に課金して取ったキャラがまた活躍するなんてこともよくある
だから自分が過去課金したのが無駄になるとか価値が薄められるという感覚がなるべく起きないように配慮・おもてなしされてることをユーザーは度々感じられるようになってる
無駄に大量バラマキをしない事や、天井引き継ぎ仕様も含めて、課金すれば確実にその分の価値は得られるってことを保証する方向を向いたゲーム設計になってるのよ
そういうわけで射幸心を人質にとって馬鹿から無理のある課金を引き出そうとする作りの旧来のソシャゲとは次元が違う作りだってことをそろそろ理解してほしいね
まあ実際に数ヶ月単位でやってもらわないと細部に宿る「凄み」のようなものを感じ取れないから、悪意的に見続ける人が絶えないのは分かるけどね
どうしてもこういう形態のゲームを攻撃したい人ってのは、避けては通れない「自分の欲と向き合って節度を知りセルフコントロールする」という要素をゲーム中に課金絡みで求められることが我慢ならないナイーブな人だと思うけど
べつにそれってゲームに限らず、誰もが身につけていくべき日常にありふれたことじゃないか
その練度が未熟な子供がガチャありゲームに触れることに関してはある程度議論の余地があるとは思うけども
むしろ今の子供は原神系くらいマイルドな仕組みになってるゲームで欲との向き合い方を学べるから恵まれてると思う
誰だって「行き過ぎたら失敗しうる」環境で綱渡りしながら学んでいく時期は必要なんだからさ
人のフリみて失敗する前に学べる機会すら多いネット社会なのに
「せっくすって具体的にどうするのかってどうやって知った?」「私は2つ下の弟がいて、弟は小3くらいのときから、その、勃起してて、
それはみんなで「おちんちん大きくなったね~」って笑い合うようなことだったのですけど、それで男の人のおちんちんは大きくなるって知って、
それと生理の授業の教科書の図とか文章とか友達との会話から、あー、あれをここにいれるんだーって」「なるほどー」「増田さんは?」
「女の人の裸を見ると性的に興奮するのは身に覚えがあって、僕の頃はエロ本とか全部股のところが黒くなってて、
この黒い修正の向こうには何がどうなってるんだろう!ってこすったり透かしたりして。だけど僕もお姉ちゃんがいて、
そこには割れ目しかないのは知ってたから、まだそれとこれとが結びついてなくて。結びついたのは、中学生になって、
エロ本は買えないけどエロが欲しい時に「ペンギンクラブ」ってエロ漫画雑誌があって。割とほんわかした表紙の雑誌で書いやすくて。
そこの漫画で、内山亜紀とか、であーそうゆうことをするんだーって。雑誌はこの後ハーフリータに代わ、」
「せっくすしたかった?」「思いだすと、興味はすごくあったけど自分がしたいってのはあんまりなかったかも」
「したくなかったの?」「中2の時に同級生と見せ合いっこと、あと胸揉んだけど、したかったらその時とかその後でもしてたと思うけど、それはそれで終わったし」
「そうなんだー。したくなったのは?高2から、かな。」
「私はね、」「あーーーーー、あんまり聞きたくない」「どうして?w」「普通だとしても知りたくな、い。の」「ナイーブなの?w」
「聞いて楽しくなる、こともあるけど多分ならないからでも聞いたら聞いたでたのしいkもだから話してもいですよ」
「。。。私、小学生の時にレイプされて、(チラ」「あ、そういうのは大丈夫です」「どうゆうのが駄目なんですか?」「そ、それjは言わないです。。」
「何の話でしたっけ?」「無人島で子どもの男女だけが自力で大きくなった時に、誰からもそうゆうことを教えられてなくても、
やっぱりちんこはまんこに挿れるのかなあ、って」「その子供二人が仲良かったら、やっぱりじゃれ合ってる時にやるんじゃないかなあ」
「あー」「12歳とか。逆に大人になってからは気を遣ってできなくない?」「お互い考えてることは同じなのにね」
「ん、どゆこと?」「挿れたい、挿れられたいって。でもそんなこと言ったら嫌われるとか」
「その前に、無人島で無教育で育った二人にそんな社会的な感情とか考えや自制があるのかな?」
「あー」「後、相手のことが生理的に無理なら最悪だよね」「そうね。僕もその女の子の気持ちは、
なろう小説を「モデルが堀口」と騒いで作者が怖がって自主削除するまで追いやったこと
公式が面白いとほめていた戦国ランスのMODを叩いてMOD作者が攻撃に疲れて自主削除するよう仕向けたこと
特に相手にされなかったがパルワールドは安倍晋三暗殺を元ネタにしていると認知プロファイリングしたこと
被害者は覚えているし作品潰しやりまくってるのは暇空の方なんだよ
ファンネル飛ばして作者が潰れるまで叩き続けるのは暇空曰く「作者がナイーブ過ぎる」そうだぞ?
暇空茜
@himasoraakane
なんかランスMODが魔王雑魚いの解釈違いって言われたので更新停止したぞお前のせいだぞとか言われるんやが、公認をもらうことを了承して世にだした作品が批評されるのに耐えられないのはナイーブ過ぎると思う。ナイーブな人みたいだから本件過去ツイート削除して、二度とランスMODには触れません
暇空の相棒のなるくんがそもそも、ドラクエ10の広場で猥語連呼したりRMTやってBANされたからと逆恨みしてディレクターへの殺害予告繰り返して永久BANされてドラクエ板でアンチスレ伸びてたような奴だし
FF時代の暇空なんか本人の自称ソース以外で誰かが語ることはないが、ドラクエ時代のなるくんの方が大勢が迷惑かけられたので有名だった
RMT利用者だからとなるくんの味方についていた熊沢英一郎が後に父親に殺害されたりもあったな、なるくんはその頃には永久BANくらって引退してたが
暇空の支持者は「集団で誹謗中傷を楽しむ大義名分がほしい、俺が訴えられるのは嫌だから誰か目立つ人に代わりに暴れてほしい」ってだけで表現の自由とか本音ではどうでもいい集まりだろ
俺自身20年は漫画・イラストを書いてるけど、この10年くらいの『絵師(という言葉がそもそも流行り始めて)』の承認欲求の肥大、自意識の肥大、エコチェンで閉鎖的な世界観を増長させてる度合いは異常。
俺はそもそも理系なので、絵をスケッチ(観察)の延長として楽しんでるだけだから、自己表現だの「推し」愛だのと絡めるだけの「絵師」論は視野が狭くて排他的にしか感じない。
繰り返すがこれ自体ここ10年ほどに急速に肥大化した、それまでほとんどなかった「風潮」に過ぎないのに、自分と同じ30代以上の奴らが10代くらいの「かぶれ」始めた子供みたいにこんなナイーブな「アーティスト意識」を振り回すのは病的にしか見えない。
AIが「絵」というものを「ありふれた、日常的なもの」にしてくれるのは、俺としてはそういう意味であり難い。
ネットのエコチェンでは、声のデカい「最近の絵師」がまるで古代からの真理のように「アーティストの特異性」みたいなことを語ってるが、さっさと自然淘汰されて欲しい。早くこいこいAI世界。
初期衝動の先へ行きてえ。
初めて釣りへ行って、根掛かりの時とは明らかに違う手応えとロッドの震えを感じ取った瞬間。
初めて映画のチャンバラを観て、突っ張り棒を振り回さずにはいられなかった高揚。
ありきたりでもなんでも心の底から震えるような、食べて寝て暇潰しだけしてるだけじゃ決して得られないような瞬間。そういう感動が大好きだ。
青春と呼ばれるような歳も終わりかけてきて、そんな瞬間も減ってきた。いや本当は歳は関係ない。怠惰や不安に負ける事へ慣れてしまっただけだ。
流行りのバンドアニメ観て、自分の欲望に誠実になって貪欲に追う姿を見て気持ちを奮い立たせる。スレて忘れかけてた焦燥や居ても立っても居られない気持ちをもう一度、なんて歌ってるロックを聞いて、何十度目かの初心を思い返す。そしてまた日常に追われて負ける。
おれはいつまで他人の人生を借りてまで「始まり」の感動を繰り返せば気が済むんだろう。
ギター買って、とにかく音が出るのが楽しくて練習して、音が出るのにも慣れたらメキメキ上達するのが楽しくて練習して、まあそれなりの形にはなって、惰性で続けて、自分が何をやりたかったのか分からなくなってくる。何かをのために弾くんじゃなく、弾く事が楽しかったはずなのに。
そしてガキの頃の新鮮な感動をもう一度味わいたいと期待して、色々な挑戦を転々として初期衝動を食べ漁る。恋ばっかで愛がない。
別にロックスターになれるとは思ってない。本当はなりたいけど。自己満足でも何でもいいから、初期衝動の先へ行きたい。でも何をすれば満足なんだ。分からねえ。
こういうナイーブな事を言えば、それはお前が大人になるべき時がきたんだよと言い放つ奴もいる。そうなのかもしれない。
でも大人になるという事は、決して退屈で妥協にまみれた悲観を良いように包み隠す言葉ではない気がしてならない。そういう言葉を使って、自分の欲を捨てて楽になっちまえよと懐柔しようとしてくる奴らが敵に思えて仕方ない。
おれが行きたいのはそっちじゃねえ。おれは初期衝動の先に行きたいだけなんだよ。
様式美も権威も賞賛も肯定もいらない。いやそれも欲しい。本当はめちゃくちゃ欲しい。でも一番は愛が欲しい。本当に。愛する気持ちを知りてえだけなんだよマジで。
暇つぶしに見るXでは、よくワーママと専業主婦が争っている。働きながら、あるいは働かずに子どもと向き合った。それが正しかったかどうかは、何十年か経ってみないと分からない。
以下は、平成初期に単身赴任の父+専業主婦からパート、フルタイムを経て自営となった母の間で育った私の事例である。
人の記憶はいつから残っているのか、幼稚園の頃に、母親が自分をおざなりにし始めたな、と感じたのを覚えている。それまで一番に迎えに来てくれていたのに、ある時を境に先生とふたりきりで、最後まで待つようになったからだ。
産まれたときから母親が忙しく、保育園に毎日遅くまで預けられていた妹は、おそらく母と過ごした時間は私より短いが、寂しかったという記憶はないらしい。人は最初からもっていないことよりも、一度手にしていものを手放すほうが辛い。
小学生の頃、学童から帰って、保育園に妹を迎えに行って、ご飯を食べて、お風呂に入って、それでもまだ家に大人がいない日があった。一度、母親が日付を変わったくらいに帰ってきたことがあって、覚えてないけれど、その日は何故か早く帰ってきて欲しくて、妹が寝たあともずっと起きていて、疲れた母親の前でどうしてもっと早く帰ってきてくれないの?とわんわん泣いたのを覚えている。最初はごめんね、と慰めていた母もだんだん苛立ってきて、じゃあ仕事辞めたらいいの?と叫んで机の上に山積みになった本や書類を床に叩きつけた。母も限界だったんだろう。今なら分かる。ただ、その時は、ああ、親を困らせた私が悪いのだと感じた。実家の床にはその時の傷がいまだに残っている。それから私は、母が遅いという理由では泣かなくなった。
中学生の頃まで、進んで出来の悪い生徒の面倒を見たりする一方で、上手く友人関係が築けなかった。いざこざを起こして、親に電話がかかってきたことも少なくない。成人してから愛着障害に関する本を読んで、片足を突っ込んでいたのだとわかった。人から必要とされたり、周りの関心を集めたりすることでしか、自分の価値を感じられなかったのだ。
勉強がまずまず得意だったこと、(両親が全力で働いてくれたから)お金で惨めな思いをせずに済んだこと、教師と周りの人間に恵まれたことで、腐らずに済んだ。自他の区別がつき、自分で自分を大切にすることを学んだ。それなりの大学に進み、それなりの会社に入り、(自分で言うのは恥ずかしいが)世間でいうバリキャリという属性になった。人間関係も人並みに構築できるようになった。
思春期になる頃には、過干渉の母親を疎む友人が多く、そういう母親は大抵、拠り所のなさそうな属性であった。子を一人の自立した人間として尊重しながら(放置された結果そうなったに過ぎないのだが)、格好良く働く母を羨ましがられることも少なくなかった。
辛いときもあったが、振り返れば一時的なものだし、親も私自身も、当時はああするしかなかった。もちろん運が良かったというのもあるが、母は頑張った。私も頑張った。そういう風に消化していた。
結婚後、何気なく小さかった頃の話をして、夫に寂しかったんだねと言われたとき、涙が止まらなくて、ああ、寂しかったんだなと思った。母を怒らせたあの日から、寂しいと言ってはいけない、思ったらだめなんだと、ずっとずっと思ってたけれど、別にそうじゃないんだな、寂しいと思ってもいい、それを口に出して言っていいんだということがわかった。
いつか帰省したとき母親に、小さい頃寂しかったと、初めて口に出して言うことができた。別に謝って欲しかったわけではなく、あの時寂しかったのだということをわかってほしかった。軽く言うつもりだったのに涙ぐんでしまって、あさっての方向を見ながら言ったら、母は、あのときはどうしようもなかったけど、未だに後悔するわ、寂しい思いさせたね、ごめんね。と言った。ちらっと見たら同じように涙ぐんでた。あの日のことは、母もずっと覚えていた。
もうすぐ子どもが生まれる。私はきっと子どもを産んでも仕事をやめない。理由は色々あるが、何より親の経済力が子の選択肢を広げることを身を持って知っているから。そのせいで、子供に寂しい思いをさせることがあるかもしれない。それは仕方がない。ただ、子供が寂しいときに寂しいと声に出せるような関係を構築したいし、その気持ちに付き合ってあげたい。いつかの私のように、自分の中の小さな自分を泣かせたままにしなくていいように。
追記)
ずっと読み専だったはてな、思っていたよりも沢山の人に読んでもらえて嬉しかったです。コメントも全部読みました。ありがとうございました。
この記事は、私がDINKSをしていた間に数年かけて消化したことの一つで、妊娠をきっかけに改めて思い返すようになり、今の気持ちを形に残しておこうと思って書き留めたものです。
自分の事例をベースに考えると、子の情緒形成という観点で、養育者が濃密に関わっておくべき期間は長く見積もって10数年程度あるのだということだと思います。
ナイーブだった私がサバイブできたのは運要素が大きいことは自覚しており、かつ上述の期間はかけがえのない時間ではあるということを理解しつつも
・コメントしてくださった一部の方や妹のように放置されたことが情緒形成に悪影響を与えないケースもある(子どもによる)
これらの点を踏まえると、夫だけの稼ぎで暮らせないわけではない(実家もそうでした)状況であっても、自分のためにも、家族のためにも、その情緒形成の期間を働かずに過ごすのは私にとっては悪手だなと思っています。いかに悪影響を最小限にして、家族一丸となって波を乗り越えるかということなのかなと。
父についてはどなたか言及してくださったとおり、物心ついたときからほとんど家にいなかったので、それが当たり前でした。昔気質の人で、わずかに家にいたときも家事育児にはノータッチでした。今は夫婦ともに融通の利きやすい職場なので、なんとか両立したいと思っています。また数年後にここに書いたことを振り返れますように。
結論から言うと、SNS等での個人の発信(の集合)が力を持ちすぎて『批判的な意見を述べる』ことと『表現をキャンセルする』という本来距離があるべき行いが近くなりすぎた事が根本的な原因だと思う。
あのMVは題材としたコロンブスの行いに対する無知が原因であって、積極的にコロンブスの残虐行為を正当化する意図はなかったであろうことは状況証拠も含めて多くの人が納得できると思う。
また件のMVをみて『コロンブスの虐殺は正しかったんだ』といった感想を持つ人は観測できなかったので、MVが存在することによる直接的な問題というのはない(あるいはあったとしても非常に距離がある)ように思える。
一方で明確な問題点として題材の調査不足による表現としての拙さ、表現としての伝わりづらさなどの作品として不出来な部分があることは事実であって、それらへの批判的な意見は十分に成り立つしアーティストや製作会社にとっても有益となりえる意見だろう。
令和6年現在、SNSで批判的な意見が噴き上がるだけで表現はいとも簡単にキャンセルされる。批判的な意見を述べることと表現をキャンセルすること、本来まったく異なる行為は同じ意味を持ちつつある。またこれはSNSだけの問題ではなく、企業側がSNS時代に対応出来ていないことで批判に対して過激な反応を起こしてしまうことや、距離が近くなったことを利用して気に入らない表現をキャンセルしようとする一部界隈の問題も含んでいる。(後者に関しては鶏と卵という感じもする)
またこの現象は否定派にとっては「正当な批判を行っただけ」肯定派にとっては「表現をキャンセルされた」という認識の違いを生み出し更なる分断の原因にもなっている。このボタンの掛け違いがある以上、議論は一生平行線なのでまずはお互いの立場を認識した上で議論を進める必要がある。
近年のキャンセルカルチャの問題について憂慮する気持ちは非常に共感できる。一方で批判的な意見もまた守るべき表現であり、長期的に見てよりよい表現を育てるために必要な物だろう。
また今回のMVのように表現の意図にまで踏み込んだ話をするのであれば、批判的な意見に対してもそれが「作品の不出来な箇所を指摘する」目的なのか、単に「気に入らない表現をキャンセルしたい」のかという意図についても検討する必要があると思う。
既に述べたが批判的な意見もまた重要な表現であって、健全な表現を守るために必要な物だ。
しかし芸能人のSNS炎上による自死問題の際にも散々話題になったことだが、正当な批判も数が集まれば暴力になり得る。何か思うことがあったとしても『既に十分に話題として騒がれていたら言及を控える』、『悪意によらず過失や無知による行いであればトーンを弱める』などの配慮は当然に必要になってくる時代だし、それらを欠いて正当な批判をしただけと主張するのはナイーブがすぎる。
批判とキャンセルは距離が近づきすぎて区別がつきづらくなっているが、本来は異なる物であるべき
肯定派と否定派はそれぞれ批判としての観点、キャンセルとしての観点から事態を観察しており根本的にボタンの掛け違いがある
それぞれが今自分がどの立場から発言していて、また相手側の立場からどう見えているのか自覚的し、節度をもったインターネットの利用が求められる
増田も同人活動してて絵をSNSに上げたりしてるがこの考え方がどうしても理解できん。
まず、感想に対して注文付けるというのが表現者として品がないと思うし、誰にも似てないものが表現のパターンが出尽くした現代において作れてると思ってるんだろうか?
自分もこういう感想をもらうんだが、嫌と感じたことがないのでわざわざもらった感想に文句を言う人達の感情が理解できない。
「◯◯に似てますね」って言われたときは似てると言われた作り手に関心が湧くし、自分の表現を研鑽していく上で近い人がどうしているのかを学ぶことができるので助かる部分が大きい。
知らないイラストレーターと似てる言われた場合、自分のルーツになった先人がどうやって表現を学んだかのヒントになることもある。
誰かに似ているという言葉に傷つく人の気持ちがどうやっても理解できない。
ただ、一個だけ理解できるケースもある。
それは誰かとの特徴の類似でパクリだと騒ぎ立てる人間が現れてトラブルになることを避けたいというケースだ。
自分も粘着された経験をしたが、第三者の場合は「日本において著作権侵害は親告罪なので騒いでも無駄」とだけ言って目障りだからミュートをするし、自作に似てるというクレームにはラフをリプライにぶら下げた上で「発信者情報開示請求をして裁判をされては?」と返した。
しばらく放って置くと大人しくなるし、それも大した事じゃないと思うのだが。
絵描きは表現を発信するという行為をしていながらナイーブすぎるように思える。
もっと気にしないという方向に図太くてもいいと思うのだが。
×ユニーク → ◯ユーモラス、ファニー
あとひとつは?
音が紛らわしいという意味では「スマート」、英語と全然違う使われ方という意味では「マンション」が良い線行ってるなと思いました。
アナログ、バーチャル、イメージなど中途半端に知られた技術用語みたいになっているものだとちょっとまたニュアンスが違う気がします。「インストール」の物理的用法を知らないのはカタカナ語とは違うし。
フェミニストは今は流石に。
サービスも大分間違っているけど、用法が多いので正しい使い方もそれなりに多いと難しい。
寄せられた意見の中でこの二つに加えるのが適切だなと思ったのは
でした。
形容詞で、気軽に使えそうでありながら、英語ではさっぱり意味が通じないという落とし穴感で選びました。
は、ネイティブにも通じないことはない気がするので選を逃れました。
は、使う機会は少なそうだけど日本人の要注意な単語としてリストアップしておきたいと思いました。
増田は元々「市販のペペロンチーノソース、味が濃すぎるからパスタ二人前が丁度良い」とか言いながらドカ食い糖尿病寸前まで行っていた馬鹿なデブである。
齢30を過ぎ、尿に変な泡が立ち始めていよいよこれはヤバいと一念発起し、30kg痩せた過去を持つ。
そのとき、健康的に痩せるために血糖値とインスリンの関係については大分勉強したので、「ドカ食い気絶」に関する雑な言葉が踊りがちな昨今、自分の知る限りの知識をこのタイミングでまとめておく。
間違っていること、曖昧な部分あるかも知れないが、それは本職の医クラさんがはてブにもいるので頑張って補足していただきたい。
そもそも我々素人が勘違いしがちなところとして、「血糖値が何故上がるのか」についてのメカニズムそのものがある。
食後血糖値というものは30分もせずに上がり始めるものだが、食後30分ではほとんどの食べ物がまだ胃の中。胃は胃酸によって食べ物を「消化」する器官であって、消化されたものを「吸収」するところではない。
じゃあ血糖はどこからくるのかというと、主に体内に貯蔵されたグリコーゲンである。人間(動物)は即席エネルギー源として常に肝臓や筋肉にグリコーゲンを貯蔵しているが、食事を取るとそれがいらなくなるので血液を介して脂肪細胞に届けて貯蔵するのである。
食事で摂取した糖質量そのものと血糖値の上下には直接的な関係がない(間接的にはある)ということをまず抑えておきたい。
いくらか指摘がありますが、この「直接的な関係」という言葉に込めたニュアンスは、基本的には(↓の一文目)だと思っていただきたい。増田はあくまで論文レベルの校正を行えるものではないので、言い回しの細かい部分への訂正はこれっきりとします。ある程度は読み手責任で「等」等を補ってださい。
専門家からの明確な指摘があったわけではないが、この下りは正確さに疑問があるため次のように修正する。血糖値の上昇には多数の要因があり、↓の補足にあるようにGI値などはあくまで目安でしかないため、経口摂取した糖質量に比例して血糖値が上がるような単純な関係ではない。
というわけで、血糖値スパイクとは、単に大量の糖質を取ったから大量の血糖が流れるというような話ではない。
大量の糖質を取っても、食事直後に流れるのは肝臓に貯蔵されたグリコーゲンだし、また健康的な膵臓をしていれば、消化吸収された糖も適切にコントロールされる。
では何故血糖値スパイクが起こるのかというと、それは主に「インスリン」の働きが悪いからである。
インスリンは、先ほど言った「肝臓に蓄えた糖を血糖として放出し、脂肪細胞に蓄える」というはたらきに関するホルモンである。インスリンがはたらくことによって、血糖は脂肪へと変換されて蓄えられていく。
つまり逆に言えば、インスリンの働きが悪いと血糖を脂肪に変換する回路がうまく動かないということである。
結果として、血糖値が下がらずに血糖値スパイクが起こる。表面的に言えば、インスリンは血糖値を下げる働きをするものなのだ。
「血糖値スパイク」に関する大きな間違いのひとつが、「高血糖で眠くなる/気絶する」という話である。
これは完全に間違いで、高血糖は体組織にさまざまなダメージを与えるが、それによって眠気とか(気絶のような)短期的な意識障害は起こさない。
よく言う「食後の眠気」は、一般的には「低血糖」で起こるものである。
これまで述べたように、食後すぐに肝臓に蓄えられた糖が血中に放出され、「血糖」となる。その血糖は「インスリン」により脂肪へと変換を促されることによって脂肪細胞に貯蔵されなおす。この過程で血中の糖質量が変化するのが「血糖値の上げ下げ」である。
この血糖値の上げ下げの結果、「血糖値スパイクの後には急激な低血糖も起こす」というのが、「食後に眠くなる」メカニズムである。
(特に難しい部分のようなので追記。「インスリンの働きが弱まることで、それを補うように分泌が過剰になる(そのせいでまた働きが弱まる)」という「インスリン抵抗」の負の循環によってこういう乱高下が起こりやすくなる。完全な糖尿病になってしまうと、インスリンの機能が失われるので自然には血糖値が下がらなくなります。)
以上のことからわかるように、「血糖値スパイク」も「食後の眠気」も、本来「ドカ食い」という一時的な行為そのものとは関係がなく、そういう不健康な生活によってインスリンの働きが弱ることで起こる複合的な現象なのである。
よって「ドカ食い気絶」なる、昨今既成事実化されようとしている現象は、厳密に言えば存在しない。
医学的にも定義されてないし、そもそも「食後に眠くなる」要因については上で述べた低血糖以外にも他の機序によって説明されることもある。
胃腸に血液が集中することによる疲れだとか、自律神経に関する問題だとか。
もちろん無理な大食い、不摂生な生活が身体に悪いことは言うまでもないのだが、ある種の非科学的な迷信と言えるところまで話が膨らんでしまうとそれは良いことではない。
ドカ食い気絶なる概念の既成事実化によって、逆に妙な(実在しない)健康不安を煽りはしないかと、増田は危機感を覚えるものである。