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2017-10-23

亡くなった姉の話

姉と私は5才離れている。

子供のころは仲が悪いわけでもなく、かといって良いわけでもなかった。

姉の反抗期小学校高学年から始まって、その時私は小学校入学前後。姉の反抗期は親(特に母親)に暴言を吐いたり、暴力を振るったり、とにかく当時は家庭の中が暗かった。姉が中3の受験の時は特にひどくて、姉が殴って壁に穴が開いたのをよく覚えている。

姉は高校に進学すると、徐々に反抗期が収まっていった。

でも今度は家に帰るのが遅くなったし、休みの日に家にいることがなかった。

非行に走ったわけではなく本当に学校が楽しかったみたいだったから、家庭の中は落ち着いた。

この頃になると今度は私が反抗期に入った。

姉ほどではないけれど、ほどほどに反抗していたと思う。(あまり自覚はない)

姉が大学に進学した。

大学一年生の時、後に結婚する人(Oさん)と付き合い始めた。Oさんは姉よりも2才年上で、大学の先輩だった。

初めて家に連れて来た時、あの姉の彼氏だなんてどんな怖い人が来るんだろう?と思っていたら、眼鏡をかけた優しそうな人でびっくりした。Oさんと付き合い始めてから、姉はもっと落ち着きだした。

姉と初めてまともに真剣な話をしたのは、私が高校受験をする時だった。

それまでは雑談程度はするけれど、相談とかそういう真面目な話はしたことがなかった。

学校選びや成績で悩んでいた時、母に相談したけど「お姉ちゃんにききなさい」と言われて、悩んだ末にきいた。邪険にされるかと思ったけれど、意外にも姉は親身になって答えてくれた。以来、就職転職など悩んだときは姉に相談するようになった。

大学卒業後、姉は就職して家を出た。

家を出たといっても隣県だったので、寂しさは全くなかった。

一回だけ二人で京都旅行にいった。ちょうど自分誕生日だったので、ホテル鉄板焼きを御馳走してくれた。まだ学生だったからそんなところで食事をするなんて初めてで、嬉しかった。

姉が結婚した。

Oさんの仕事の都合で海外へ行ってしまった。その時は成田空港で泣いた。

私も就職して家を出た。

結婚視野に入れた男性とお付き合いをしたけれど、相手にはその気がないと知って半年で別れた時。辛くて、ちょうどまとまった休みが控えていたので、姉のいる国へと旅立った。

そこで初めて姉と恋愛結婚の話をした。

姉の彼氏(夫)の話はもちろん、自分の話ですらもしたことがなかった。まとまりのない話に姉はよく付き合ってくれた思う。

それから数年後私もやっと結婚し、すぐに子供が出来た。

電話で報告すると姉はすごく喜んでくれて、冬を妊婦で過ごす私のために大きめの冬服を送ってくれたりした。(姉と私は身長全然違う)

お腹が大きくなる頃、姉が一時帰国した。お土産をたくさん買ってきてくれて、妊婦の私のためにむこうの無農薬おやつだとかそういうのをたくさん。

お腹の子男の子で、うちは姉妹しかいなかったから待望の男の子だ!と喜んでくれていた。里帰り出産をするから実家の犬もびっくりするね。久しぶりにあのパン屋さん寄ろうか?つわり大丈夫だった?そんな身の回りのことを話しながら実家へと向かう道を二人で歩いていた。二人で信号待ちをしている時、乗用車が猛スピードで突っ込んできた。それで姉は亡くなった。

その後色々あったけれど、無事出産した。

Oさんから荷物が届いた。出産から気の早い姉はベビーグッズを買い集めていたらしく、それがまとめて送られてきた。

姉が亡くなって数年後、Oさんとの話の流れで姉が本当は子供を望んでいたことを知った。

結婚して何年経っても姉夫婦のところに子供はいなかったけど、なんとなく「欲しくないんだろうなぁ」と思っていた。昔から近くに子供がいても「可愛いですねー」とか声をかけてあやすようなタイプではなかったから。

親にも言わなかった理由は、以前姉が手術をするほどの病気になった時に母親が本当に申し訳なさそうにしていたからということと、いずれ妹が妊娠した時に配慮されるのが嫌だから、とのことらしい。そういう大事なことは当然親に相談しているものだと考えていた私には、衝撃的な事実だった。

2017-10-22

友達絶望した話

最近見学旅行に行ってきた。そこで友達絶望した。

1年生の頃からずっと仲が良かった友達を見損なった。理由は本当に些細なこと。ふざけんなお前たったそんなことで絶望してんのかっていう意見の方が多いと思うけど。

東京から地元に帰るために空港に着いた時、バスから降りたらスーツケースバラバラに置かれていた。先生は「自分スーツケースを探し出して持って行って」と言っていた。 200人以上分あるスーツケースを探せってか… いやいやバスを降りた。

同じクラスの他のみんなは割とすぐに見つけ出して空港内に入っていった。ところが私のスーツケース全然見つからない。困った。キョロキョロ探していたら1番の親友で別のクラス女子Aがいた。Aはもう自分スーツケースを持っていた。AはAと同じクラス女子Bといっしょにいた。

私はAに「スーツケースが見つからないの」と言った。そしたらAは「えぇー」と言った。そしてそのままBと一緒に空港に入っていった。

え?

何その反応?えっ?

ここで私の心の中の何かがポッキリ折れた(ポエミーな表現…………)。

えぇーって。しかも何もせずに空港入っていってるし。何も手伝ってくれないんだ。こう思っちゃうのは私が恩着せがましいのかな。自分クラスに置いていかれたくないし手伝わなくていいやって感じかな。私がAと立場逆だったら絶対一緒に探すんだけどな。その後私は同じクラスの子に(私)ちゃんのそっちの方にあったよと教えられて無事スーツケースは手元に来た。

今まで付き合ってきたこの1年とちょっとは何だったのかな。私にはその歳月ガラガラに崩れ落ちていったほどショックだった。

そのあと飛行機に乗るまでの待ち時間Aと話した。最初普通にお土産とかの話をしていたけど私はだんだんいつもと変わらない様子のAにイライラして、つい言ってしまった。「さっき私がスーツケース見つからなかった時A何もしてくれなかったよね」と。

そしたらAは「……ごめん」と言った。私にはいやいや言ってる風に見えた(マジで)。

その後「いや、なんかゴメン。気分悪くなっちゃったよねごめん」と言った。まあ内心何で私が謝ってんだろ、って思ったけど。

その後Bが私たちの近くに来た。そしたらBはAの背後に立ってAの携帯を一緒に見てた。その2人は私の右斜め向かい側にいた。

Aは携帯で何か文字を打ってた。Bは無言でそれを見てた。そしてAはマジ死ねって感じ。とボソッと言った。違う話をしていたかもしれないけど私に聞かれないように文字で打って私の文句言っていたのかな、と思った。さすがにひねくれ過ぎかなこれは。でもそんな風に思った。

こんな風に思ってしまうのは私がダメなのかな。言わなきゃ良かったのかな。

2017-10-19

高速道路で立ち往生した

その日は東北ロケがあり、取材班は私を含めて4名。

もちろん新幹線などセレブな乗り物には乗れないので社用車での移動だ。

20時ごろには撮り終えたが、宿をとるなど贅沢なことは言えないから日帰りである

ただ、この取材班免許を持っているのが2名しかいなかった。

行きは、運転10年超えの先輩が運転した。

先輩が「疲れた。寝たい」と言うので、帰りの運転手運転歴(正確には免許取得から)3ヶ月の同僚となった。

同僚にできることはないか聞く。「助手席で話し相手となって欲しい」と言われたので、助手席に乗車していた。

はじめは初心者運転心臓が慌ただしく鳴っていたが(免許を持っていないヤツが偉そうに申し訳ない)、慎重な安全運転をする人で、すっかり気が緩んでいた。

パン

爆発したような音が車の後方から聞こえてきたのは、東北高速道に乗って1時間ほど経ったころ。

何の音か分からずただただ驚いていた私たちなどお構いなしに、車は失速していく。

幸い走行車線(追い越し車線ではない方)を走っていたので、なんとか路肩に寄せた。

騒ぎで後ろに寝ていた先輩と撮影スタッフが起きた。

ワケを説明しようとしたところ、運転席を見て先輩が一言

「ガス欠じゃねーか」

普段から運転する人には信じられないと思う。しかし、初心者私たちは(うち一人は免許すら持っていない)運転に気を取られてしまい、ガソリンのランプが点灯していたことに気づかなかったのだ。

先輩の指示で、JAF電話する。JAFの方から

といわれた。

発煙筒はアクシデント生地点よりも50m以上後方に置くよう指示されていたので、ガードレール沿いに走って置いた。

やるべきことはすべておこなった。あとは、JAFを待つのである

東北道路、23時。外気温はマイナス1度。

日帰りの日中撮影だと思いコート1枚しか用意がなかった。寒さが染みる。

することがないので、ただ星を眺めていた。

その日は気温が低かったからか、星がきれいだった。

道の駅お土産として買った鮭とばを4人で貪りながら、救助を待った。

誰かの提案で、しりとりをすることになった。大人のしりとりは何かのしばりがないと延々と続く。そして、早々に飽きるのだ。

時計を見た。まだ15分程度しか経っていない。寒空の下もう45分待つのは、非常にしんどい。

発煙筒が消えてきた。

ハザードもガス欠だからか、光がかなり弱くなった。

カーブで止まってしまっている。発煙筒もない。ハザードの光も弱い。後ろから来る車にとって認識しにくい状況だ。

うつらうつら運転している人がいたら……あらゆるネガティブ想像が頭のなかにかぶ。無理やりかき消す。

そうこうしているうちに、黄色パトランプが見えた。高速道路の見回りをしている人たちだった。

我々の前で停車したので、ワケを話す。もしかして、助けてくれるかなと期待をしながら。

しかし、彼らにできることはないようだ。あと30分くらい、JAFを待つしかないという。

さり際、三角形の反射板を貸してくれたのはありがたかった。

鮭とばはもうなくなってしまった。冷たさのあまり手足の感覚がなくなる。震えが止まらない。

こんなことなら残っている原稿持ってくればよかったなどと考えていたときJAFが到着した。

神様かと思った。JAFの方々に後光が指していた。

無事、ガソリンをある程度いれてもらい、最寄りのSAまで同行いただいた。

SA自販機ホットコーヒーを買った。温かい飲み物が口から胃にながれる。自販機100円コーヒーがこんなにも旨い。

停車の原因はガス欠。完全に自業自得な話なのだが、もし誰かの役にたてば幸いである。

追記

思いのほか反響があって驚いている。

もう何年も前の話だが、いまだに増田免許を持っていないし普段車にも乗らないので、車の知識は皆無だと思ってください。

ハザードもガス欠だからか、光がかなり弱くなった。

これ、ガス欠関係ないのか。だんだん光が心もとなくなってったんだけど、あれ何だったんですか?教えて偉い人。

>破裂音

不完全燃焼したときの音と聞いたが、上記程度の知識しか持ってないから間違っている可能性が高い。

2017-10-18

anond:20171018091737

受付のおっちゃんから「あ、岡林さん、お土産!」ってDM渡された俺と天地の差がある

栗ぱい

事務女子からお土産でもらったんだけど朝からキドキが止まりません。

これってもしかしてチャンス到来中?

2017-10-14

投票率が低いなら食べられるお土産を付ければ良いのに何故しないのか?

投票所ジュース缶コーヒーの一本くらいくれればいいのに

現にオーストラリアでは投票後BBQに参加できるおかげで投票率80%超えてるとかいうよ

2017-10-12

2017 台湾旅行記 第二部分

anond:20171012190019






2


2日目 午前


南国 台北は10月でも朝からクソ暑い

ホテルの朝食の後、午前のおやつの蛋餅を食い、猫の村 猴硐→九份に向かうことにした。

今日は台湾鉄道、台鐵に乗る。


まず地下鉄での行き先は台北車站(セントラルステーション)だ。

着いたら、駅周辺を散策する事にした。


台北車站周辺は綺麗で近代的だった。

すぐ近くに市場があり、その中ではここでも屋台的なものがあった。

台北では其処彼処で料理をして、其処彼処で誰かが何かを食っている。

日本より食品衛生に関する公の決まりが緩いんだろう。



市場を出ると小雨が降って来たので、近くにあった美術館に入ることにした。

美術館はひんやりして心地いい。

照明を落とした展示室では、赤と青の幻想的な浜辺で艶めかしく肌をさすり合う男2人と、それを覗く小太りな水兵の映像作品が放映されていて、よくわからないけど南国を感じた。

勝手な印象だけど、中華圏の現代アートは男の性を描いたものが多い気がする。

美術館をでたら、むしろ雨は強くなっていたが、3分もしないうちに止んで、強い日差しが古式ゆかしい建築様式美術館を照らしてきた。

きっと今日もまだまだ暑くなるんだろう。




2日目 午後


台北車站に戻り、台鐵で猫の村として名高い猴硐に向かう。

この途上でも旅の目的の一つがあった。

台鐵弁当だ。

台湾鉄道には日本統治時代から伝統駅弁があるそうで、これは蚵仔煎と並んで是非食べなくてはいけないものだった。


どこで売っているのかわからず、改札を通ると、改札のすぐ脇に売店があり、そのまえの待合所で、老若男女が弁当をガツガツ食っていた。

台北にいる人間は本当に隙あらば食う。

きっと、現地人も食うために生きているし、旅行者もここに何かしら食いにきているに違いない。


排骨スペアリブ)弁当がイチオシのようだったが、暑さにやられたのか、少し重い気がして、なんだかわからない別の弁当を頼んだ。


でてきたのは、角煮弁当だった。

台鐵弁当は温かい状態で供される。

温かく、蕩けるように柔らかい角煮を口に含んだ瞬間、思わずうまい」と呟いた。

台北の食い物は、不味いものこそなく、むしろ多分ずっと食べても嫌になる事は無いだろうと思うくらいには美味いが、「びっくりするほど」とまではいかなかった。

しかし、別に飯屋でも屋台でもなんでもない、駅の待合所で、遂に美味くてびっくりするものに出会った。



台鐵を乗り継ぎやがて猴硐に着くと、ホームには猫ならぬ、猫耳のついた麦わら帽子を被ったお嬢さんがいた。

ここに来る人は、自らも猫になって来るらしい。


改札を出たらさぞかし猫だらけなのだろうと思ったら、改札を潜る前にすでに1匹、窓際で寝息を立てている。

一枚写真に収めて改札を通ると、其処彼処に猫が。

観光客にすっかり慣れているのか、どいつもこいつも写真を取られようが撫でられようがどこふく風。南国は猫も呑気なもんだ。


カフェに入って一息つく事にした。

大きなテーブルアイスコーヒーを飲んでいると、4人客が入ってきて、マスターが「席をかわってくれないか?」

いいよ、と窓際席に行くと、椅子の上に寝息を立てた白猫が。

猫村にきて最も至近距離で猫をフレームに収めることができた。


と、少しすると、不意に便意をもよおしてきた。「やっぱエリーさんの言った通りだったかな?」とも思ったが、一昨日の飛行機から寝不足気味ではあったし、正直台北の食に関しては衛生的に完璧といったものは少なかったので、何が原因か特定が難しい。

そんなに深刻な不調でもなかったので、トイレを借りて用を足し、「もっとまずくなったらその時は台北に引き返そう」位で、旅程を続ける事にした。



お土産の猫型パイナップルケーキを買うため、また筆談メモを描いていると、ブレスレットが何処かに行ってしまった事に気付いた。

頻繁にカバンに手を突っ込んでいるうちに外れてしまったのだろう。

少し探したが見つからない。

そうこうしているうちに雨が降ってきたこともあって、諦めて駅舎に向かう事にした。

高いものではないから良いんだけど、少し残念だ。

エリーさんの忠告を思い出す。

「山の天気は変わりやすい!」


猫型パイナップルケーキを売っているお土産屋さんのおばさんは日本語が堪能で、結果としてメモ無駄だった。

やはり日本から、これを目当てに来る人間は多いらしい。

目当ての品も手に入ったので、駅前を散策していると、「ブーーーーン」という音。

ふと見ると、お姉さんがなんとドローン飛ばしていた。

こんな辺境で最新テクノロジーを見るとは。

猫の写真を撮りきにて、実に珍しいものをカメラに収めることができた。



まだ日は高い。エリーさんのオススメに従って、猴硐から遠く無い、十分の瀑布を見る事にした。

十分駅に着いたは良いが、急に決めて下調べがないので、滝までの行き方が分からない。

とりあえず人並みに従って歩くと、沢山の人がいろんな国の言葉で天燈を空に飛ばしていた。

十分は、色々な願いが書かれた天燈が宙を舞う事でも有名な村だ。


天燈の翔ぶ界隈を過ぎれば、川沿いの通りに出た。

さあどうしよう。

見ればタクシーが止まってるじゃないか。

これに乗れば確実だ。

メモに滝の絵と「十分瀑布」と書いて、運転手のオッチャンに見せる。

すると、呆れたような顔で「歩いた方が早いよ」

そうなのか。

ワンメーターでも乗せて、良い加減な値段でもふっかけりゃ稼げるだろうに、正直というか商売っ気が無いというか。

でもよくよく考えれば、そんな客を乗せるより、ここから直接九份や台北に行く客を待った方が良いのかもしれない。

オッチャンが指差す方向にしばらく歩くと、「十分瀑布公園」に到達した。


渓谷にかかる吊り橋を2つ渡ると、遂に大瀑布が見えてきた。

滝の飛沫と折から降ってきた小雨であたりはビショビショ。

傘をさしてカメラを構える訳にもいかないが、幸い雨ガッパを持ってきていた。

用意周到。エリーさん、そんなに迂闊な男でも無いんだぜ。

飛沫と小雨に濡れながら、十分の瀑布をカメラに収めることが出来た。

さあ九份だ。




2日目 夕方


十分から九份最寄り駅の瑞芳に向かう車内、向かいに座っていた女性2人の親子連れ、娘さんの方が騒ぎ出した。

言葉を聞くと韓国からきたようで、どうもこの列車が瑞芳に留まるかどうかがどうしても気になるらしい。

手元にスマホがあるので調べれば一発なのだが、なぜか地図アプリなどを見ていて要領をえない。

遂にそばの若い女の子2人連れに聞き出した。


のだが、声をかけられた方も言葉がわからない。

英語でお互い話そうとするも伝わらない。

かねた同乗の韓国人らしき2人連れの兄ちゃんが割り込んだ。

同郷の旅行者の手助けで、お姉さんの心配は無くなったらしい。

お姉さんが先程の女の子に聞いた。「あなたは何処から来たの?」「I'm chainese.」大陸の人だろうか?

台湾の同じ列車に、韓国人中国人が乗っている。

「ここに日本人もいますよ」シャイ日本人らしく、心の中だけで言った。




2日目 夜


瑞芳に着く頃にはすっかり日も落ちて、九份観光には絶好の時間帯だ。

から九份老街へは迷わない様にタクシーでいくと決めていた。

駅前で張っていた兄ちゃんに「九份」伝えると、すぐに車を紹介してくれる。

タクシーのオッチャンに行き先を伝えると、出発進行。

オッチャンは曲がりくねった山道めっちゃ飛ばす。

しばらくすると九份老街に到着した。

中国語発音がダメ、英語中学生レベル日本語だって怪しい。

ならいっそ全部言ってしまえ。

サンキューありがとう、謝謝。」



台湾は人気の観光地から日本人が沢山いると思ったら、これが意外と会わないもので、むしろ白人の方がよく見かける位だったが、ここ九份ではちょっと歩くとすぐ日本語が聞こえる。

一番日本人を見かけたかも知れない。


急な階段を登り、幻想的な風景をカメラに収めた。

しかし、良い加減、歩き通しで疲れてきて、少し具合も悪くなってきた。

脱水症状かな。

九份ではお茶でも飲もうかと思っていたのだが、人ですごいし、都合よく茶藝館も見つからない。

写真も撮ったし、もう切り上げようか。


ふと茶器の店が目に入ったので入ってみると、幸運な事に、茶藝館が併設だった。

茶藝館では店員さんがお茶の淹れ方を流暢な日本語で説明してくれる。

きっと日本人観光客もよく来るのだろう。

赤く光る街を見下ろして、ゆっくり金萱茶を飲んでいると、果たして大学生か若手社会人と思しき兄ちゃん3人連れが、賑やかにやって来て、日本語高山烏龍茶お茶菓子を頼んでいた。


諦めかけていた目的が果たせたので、会計の際に店員さんに伝えようと思い、「旅行の目的の一つが九份お茶を飲む事だったんです。」と言ったが、さすがに日本語で複雑な言葉は伝わらないようだった。

説明の日本語が余りに流暢だったので油断したが、あれは決まり文句なのかも知れない。

からシンプル一言だけで言い直した。

「最高だ。」

「謝謝!」






3


3日目 午前


旅先では余り眠れない事が多い。

今日が今回の台湾旅行で最後の朝だけど、グッスリとはいかず、7時前に目が覚めた。


ボーッと窓の外を眺めていると、部屋の外からオバちゃん2人の声が聞こえて来た。

お客さんかな?ベッドメイクかな?

それにしても、楽しそうによく笑う。



朝食を済ませた後、ホテルのすぐ隣にあるコンビニで、スイカ牛乳、japan walker、烏龍茶を買った。

japan walkerは鎌倉特集。

昨日も女性誌を買ったけど、現地の雑誌というのは興味を唆られるものだ。

昨日、台北車站の地下街を歩いているとき中山地下書街」という掲示を見たが、午前中の地下街は人の流れもまばらで、場所がよくわからなかった。

わかれば本屋も覗いてみたかったんだけどな。

烏龍茶を飲んで「美味い!」と呟いた。

ペットボトルのものでも、日本のものとは香りが全然違う。

あとで再購入したときによく見ると、材料表には「香料」もあったが、それは台湾人の嗜好としてこの香りが重要という事だし、美味ければ大きな問題は無い。


ホテルの窓際でこの旅行記を書いていると、ザっと雨が降って来た。

台湾は雨が多いので、雨具を持って来ていたが、旅行を通して行動に困るほどの雨がなかったのは幸運だった。

雨はすぐに小ぶりになったけど、窓の外にはまだ傘の花が咲いている。

あと数時間でチェックアウトだ。



午前9:45分。


雨はとっくに止んでいる。

定刻にはまだ数時間あったけど、チェックアウトする事にした。

空港への送り迎えのため、ここには21:00にまた戻って来る事になる。

ベッドに上に「謝謝」と書いたメモを1枚残してホテルを出た。




3日目 午前


世界に展開するグローバリズム象徴スターバックスはここ台北にもある。

わざわざ海外に来て、世界中にある店に入り、ローカルの微妙な違いを見るもの楽しいものだ。

150元を支払い、アイスカフェモカグランサイズを受け取って2階に上がると、そこでは男女がラップトップを開いていた。

世界のどこに行っても、スタバでやる事といえばコレらしい。


スタバで注文するのが苦手な人は一定数いる。

もしあなたがそうでも、安心してほしい。

台北にはドトールもある。

コーヒーを飲んだ直後で大してのども渇いてなかったが、入ってみる事にした。

入り口には行動を禁ずる、べからず集が書いてあり、犬とハンバーガーにバツ印が書いてある。

その下に「禁止打牌」。

ペットを連れ込むな、食べ物を持ち込むなはわかるが、「トランプするな」は新鮮だ。


ドトールで頼むものといえば、ミラノサンドのA以外ありえなく、これはスタバドヤリングと同じ様式美なのだが、残念な事に、11:00以降しか頼めないようだった。

少しがっかりして、70元を支払ってアイス紅茶を頼むと、何も入れなくても甘かった。

台湾の人はアイスドリンクをなんでも甘くする。



旅行を通して概ね正しいエリーさんの助言に一つ違を唱えるなら、台湾版suica、悠遊卡についてだ。

エリーさん曰く、チャージした金額有効期限は2年だし、デポジットの100元が勿体無いので、頻繁に台湾に来るのでなければ購入を勧めないとのことだったが、実際に使ってみると、メチャクチャ便利。

複雑な購入手続き切符を買う必要なく、地下鉄も台鐵もバスもピッとやるだけでOK。

交通機関で現金決済したのはタクシーだけだった。

多少の損を補って余りある便利さの悠遊卡なので、台湾に来る際は是非購入を勧めたい。


帰りの便までまだまだ時間があるので、悠遊卡に100元チャージして、地下鉄台湾北部景勝地、淡水に向かった。




3日目 午後


淡水は異国情緒ある海岸の街。

日本でいうところの横浜とか神戸といったところらしい。

駅前を歩けばすぐ海岸で、晴れ渡った空の下、おっちゃん達が釣り糸を垂らしていた。

ふと見ると赤い看板。

台湾ではコーションは赤い看板に書かれるらしい。


「本河岸遊客衆多

 為維護遊客安全

 本路段禁止甩竿汉示」


「この海岸には観光客がたくさん来ます

 観光客安全のため、ここでは釣竿は振らないでください。」



さて、初日の寧夏夜市で食うつもりで、メモまで描いたが、食えなかったものがある。

千と千尋の神隠し」で、千尋の両親が食って豚になってしまったモノではないか、と言われている謎のプルプル、肉圓だ。

海岸から山の方に上がろうとして通り掛かった海の家で、「肉丸」と書かれた看板が掲げられていた。

昼時で丁度いい、食おう。

おばちゃんに「肉圓 QQ〜」と描いたメモを見せる。40元。

「それだけでは足りない」とエリーさんが言っていた肉圓だが、いざ食って見ると、正体不明のプルプルは意外とお腹にたまり、1杯で小腹を満たすに充分な量だ。

こんなものを大量にガツガツ食えば、それは豚にもなってしまうのかもしれない。


海も見て、肉圓も食って、煉瓦造りのキリスト教会も見た。

歩き疲れたので、台北に戻ろう。



台北についたのは午後14:00過ぎ。

今なら人に流れについていけば「中山地下書街」を見つけられるかもしれない。


地下街中山站方向に歩く。

やがて中山站を過ぎると、右手に地下街にそって長い本屋が見えて来た。

中山地下書街」

やった、本屋だ。


「誠品書店」に入って見ると、平積みにされていたのは、謝馬力 著「女子翻轉」

女性の生き方に関する本らしい。

台湾版Sex and cityか?はたまた中国ジェーン・スーか。


しばらく歩くと、料理本の一角

料理本って、みてしまう。

ほとんどの本が何を書かれているか、全くわからないんだけど、1冊、ピクルスの作り方に関する本があった。

美しいイラスト作ってみたくなる写真。

これならなんとか分かるかもしれない。

からなくても、開いているだけで楽しそうだ。

買って帰る事にした。300元。



地下街を歩いていると「新光三越」の文字

台湾にも三越はあるらしい。

三越があるなら、正真正銘のデパ地下があるはずだ。

これは是非行かないといけない。


新光三越に着くとデパ地下はどうやら地下2階。日本より小ぢんまりとして、お菓子などが中心ではあるが、これぞデパ地下という光景があった。

色々な店が軒を並べる中、お茶の店があり、白磁の蓋碗ディスプレイされている。

日本に帰って、同僚とお茶を飲む為に、何か茶器が欲しかったから丁度いい。

560元は、多分日本より安い。




3日目 夕方


あと5時間で迎えが来るが、台湾でやりたい事リスト最後の項目がまだだった。


サツマイモが入った台湾式の清粥を食べる。


台湾で清粥といえば、飲んだ後に食べるものらしく、店が開くのは17:00からだった。

最近アルコールに弱くなったし、台湾では心置きなく食いたかったので、旅行中は一切、酒類は飲んでいなかった。

しかし、別に飲んでなくても問題ないだろう。

17:00ジャストに、「無名子 清粥小菜」に入った。


この店では、ショウウィンドウの中からおかずを選び、それにお粥が付いてくる。

どれにしようか?

ショウウィンドウ越しでハッキリ見えないが、美味そうな炒め物を頼んだ。


席に着くと、鍋一杯のお粥

さあ食うぞ。

しかし、運ばれて来たおかずを見て一瞬たじろぐ。

それは「牡蠣の豆豉炒め」だった。

もっとよく見りゃ良かったぜ、ここは屋台ではないが、エリーさんの忠告を思い出す。

これを食えばあとは帰るだけとはいえ、もし飛行機の中で降せば大きな問題を抱える。

最悪当たるにしても、迎えのくる21:00までにスパっと終わるか、自宅に帰り着く翌10:00以降にしてほしい。

恐る恐る口に運んだ牡蠣は、豆豉の風味が効いて美味く、お粥は歩き通しの身体に優しかった。

これで、「台湾でやりたい事リスト」はコンプリートした。



無名子 清粥小菜を出て、おそらくこの旅で最後地下街を乗り継ぎ、ホテルの最寄り駅に出ると、道路しっとり濡れていた。

参ったな、あと一息で雨だ。

でも3日間で学んだのは、台湾の雨はすぐ上がるという事。

意を決して歩き出すと、どうも降っていたのはさっきまでだったらしく、殆ど雨には当たらなかった。

この調子で、願わくば牡蠣にも当たらないでほしい。




3日目 夜


ホテルフロントでこの旅行記を書きながら迎えを待つと、女性2人の親子連れが入って来て、フロントに尋ねた。

「この近くに喫煙所はありますか?」

日本語だ。

そんな基本的な事を聞くって事は、多分今日 このホテルに着いたのだろう。

自分は今夜、日本に帰るが、今日、日本から来たかもしれない人がいる。

ここでは毎日、入れ違いで人が行き交うのだろう。


しばらく待っていると、また日本からの家族連れがフロントにやって来た。

お父さんが、自分の胸を指差して、現地で買ったTシャツになんと書かれているか聞くと、フロントの男性は、ちょっと戸惑いながら答えた。

「えっと・・・簡単に言うとですね、『ゴキブリ』です。」


またしばらくすると、20人程の旅行客がやって来た。

話しているのは中国語で、スーツケースの大きさから見ると、多分大陸の人だ。

一団はひっきりなしに喋っていて、声も大きい。

この旅行であった人たちの中で、もっとも賑やかな人たちかもしれなかった。



嵐のような一団がフロントを過ぎると、迎えのツアーガイドがやって来た。

ガイド若い男性で江(チャン)さんという。

英語名はありますか?」と聞くと、「無いですね、僕も英語は喋れませんし」どうもみんなに英語名がある訳では無いらしい。


チャンさんは人当たりが良く、風貌イケメンというか、今風で、ちょっとチャラい感じといえなくも無かった。


空港までの車の中で、たくさん起きたことを話し、少し疑問だった事も答えてくれた。


台湾の男性が機内でメガネだったのは、ちょっと上の世代伊達メガネブームがあった事。

台湾で男同志の性愛を描いた映像作品を観たのは、おそらく同性結婚が法的に認められたのと関係がある事。

ドトールトランプ禁止は、解禁するとギャンブルをやっちゃうからである事。

ついでに、チャンさんは実は以前に日本に来たことがあり、出逢いを求めて相席居酒屋に行ったら、40代以上の女性ばかりで少しがっかりした事も教えてくれた。

やっぱりちょっとチャラかった。


チャラいけれども、仕事をきちんとする好漢のチャンさんは、チェックインまで付き合ってくれると、出国手続きや再両替についても教えてくれた。

台湾で出会う人は素晴らしい人たちばかりで、チャンさんもまた例外では無かった。


もう直ぐ台湾を去る。

台湾でしたい事の全てが予定通りに行えて、多くの予想以上があった。

言葉にすると陳腐だけど、これ以上正しい表現が思いつかない。

「全てが掛け替えのない3日間だった。ここに来て本当に良かった。」


チャンさんは日本語が堪能で、何を言っても理解してくれる。

でも、最後は、滞在中に助けられ通しだった方法以外にあり得ない。

「じゃあ、僕はここで」と微笑む彼に、ホテルの部屋で朝に書いた、最後メモを見せた。


「太棒了、台湾」

2017-10-11

遺産で6000万入った貧乏婆さんの末路(追記の追記有り)

俺の母親なんだが、6年ほど前に俺の祖父(母から見て父親から遺産で6000万ほど入った

遺産相続した時、俺の母親の年齢は62歳。警備員で月に10日ほど働いて数万稼いで、生活保護もらって何とか生きてる状態

そこにいきなり大金が転がり込んだ。

それでどうしたか

まず家を買った。

これでまず1100万ほど消えて残り4900万。

俺が貸してた200万を返還させた。一生帰ってこないと思っていたが、これはラッキーだった。

残り4700万。

中古の車を買った。100万くらい。

残り4600万。

住んでた家を引き払って買った家に引っ越した。

退去の修繕と引っ越し家具家電で300万ほど使う。

残り4300万。

それでも62歳で貯金4000万超ってありがたい状況やん?家具家電新品だから10年は壊れんし、家も無借金リフォーム済だ。

生活保護期間は国民年金払ってるカウントされるらしく、6万くらいは年金出るらしい。

リフォーム済持ち家、貯金4000万、月に10日くらいは働ける、3年後には毎月6万入る。豊かに暮らせずとも、人生終わりまで何とかなるくらいやん?

でも違うのよ。貧乏人が棚ボタで金持つとアホになる。

まず20歳年下の男を作った。

仕事休みの日はパチンコ、そして毎日外食

何故か毎週ホームセンターに通って使わない物を買い漁る。

美容整形フェイスリフト?とかいうのやって、ラスベガスにも遊びに行った。

何か俺にも旅行お土産とか買ってきてたから、多少の付き合いは有ってさ。

まぁ大金入ったか最初ははしゃぐのも仕方なしと思ってたけど、いつまでたっても落ち着く気配が無い。

それで俺もちょっと言った訳ですよ。

「お前、もう金稼げないのだから、持ってるもの使い果たしたら終わりやぞ。節約せぇや」ってね。

そしたらこう言い返すわけです。「私のお金や、お前が何言おうが関係無い」と。

まぁその通りですわ。俺の金じゃない。

そんでこう言い放つわけです「遺産目当てか?私は使い切って死ぬ。どうせ長生きせんし」と。

ああそうかい勝手にせえやでその場は終わり。


そんで当然のように金が無くなるわけですよ。4年位で。

6000万を4年で使い切るのすげーなと思うけど、まぁ使うつもりになったらそんなもんだわな。

残念なのは、4年で母親が死ななかった事だ。

使ってる最中に梗塞でもおこしていれば、幸せなまま逝けたかもしれんのに。

ちなみに男は、金がなくなったら出ていった。まぁ金のない婆さんにつきあう必要無いわな。

遺産が無くなる数ヶ月前には深刻さに気がついたみたいで、警備員仕事増やしたり、外食ランク落としてた。

カウンター寿司屋じゃなくてスシローに行くみたいな感じ。

4000万から100万消えてもインパクトは少ないが、500万から100万消えたら怖いわな。

でも身についた贅沢癖は簡単にはなおらない。月100万使う所をなんとか80万には出来ても、金がある間は月10生活には戻れない。

から見れば月80万使う生活とか意味わからんし、贅沢出来て結構な事じゃねとしか思わん。

当人は相当なストレスが有ったみたいで、みるみる顔色が悪くなって身だしなみも崩れていった。

調子こいて呼んでたダスキンの家政婦や、毎月行ってたペットトリミングもやめた。

でもパチンコ外食遺産が無くなるまでやめられなかったみたいだな。

で、小金持ちの婆さんは、めでたく金無しの婆さんになりましたとさ。

で終わらないわけですわ。


口座に金が有るとクレジットカード作れるやん?

口座に一時期6000万とか有って、持ち家だっつー事で枠100万くらいのカードが有ったらしい。

金がなくなってクレカ生活。その枠もMAX使い切り。

66歳、警備員貯金無し、100万を年利15%で借りて利払いだけで年15万。

他にも信販から100万くらい借りてるらしい。

まぁ無理だわな。


現在母親は68歳。

何か自己破産はイヤみたいで、今は月に25日くらい警備員してる。死んだ顔しながら。

家賃無料だと、何とか借金の利息分は払えるみたいだ。

給料入ると借金の利息を入れて、余った金でパチンコ外食をして、給料日前は半額になった麺類を買ってきて凌いでるらしい。

パチンコ外食をやめて、借金全部返したら使える金が毎月数万増えるぞと言ったが聞く耳は持ってない。

バカジャネーノとしか思わんが本人の感想は違うのかもしれん。

まぁ俺が見た所によると、遺産を貰う前より無くなった後の方が不幸そうだ。

一時期にでも贅沢出来て良かったねというのが普通感性だと思うのだが、本人は違うもよう。

俺には理解できないが、金が最初から無いより、持ってたのが無くなる方が厳しいみたいだぞ。

宝くじに当たった人が不幸になるメカニズムを目の前で観察出来たっぽく、貴重な体験だったのでシェアしとく。

お前らも急に大金が入った時には冷静になるんやぞ。

追記

すげー読んでくれてるみたいでありがたい。こんな話、顔出して出来ないしな。

冷静に見えるみたいだけど、当時は俺によこせ有効利用したると思ってたよw


爺さんは貧乏暮らしに見えたんだが、昔商売やってた時に貯めてたらしい。

たまに食うアイスが好きで、俺がハーゲンダッツ持っていったら喜んでたよ。小遣いはびた一文くれなかったけどなw

俺はそんな金持ってるとは全く知らず、爺さんが死ぬ1ヶ月前に入院した時に、銀行から金降ろしてこい言われて残高見てビビった。

「ホンマはお前に残すのが正しいかもしれんが、お前はまだ貯金1000万くらいか。ほなこんだけ入ったら人生うから遺言は書かん。」て言われて、300万だけもらった。(生前贈与枠で処理済み)

実際に目の前で狂ってる人見て、ちょっと納得した所も有る。全額欲しかったけどねw

相続税はかからんかったらしい。払ってないだけかもしれん。

母親お盆墓参りにも最初の2年くらい行っただけで、最近無視してる。

俺のお盆の恒例行事の一つに、爺さんの永代供養墓にハーゲンダッツ持って墓参りが入ってる。

そんなに仲が良かったわけじゃなく、会うのも年に1回くらいだったけど、300万もらった義理が有るからね。よほど遠方へ転勤にならん限りは続けるよ。

今年は抹茶味を持っていった。来年は何味持っていこうかな。


追記の追記

何か相続税とかのブコメがチラホラ有るので調べた。

俺が爺さんの口座見た時に入ってた金額は6400万少々。

俺にくれたのが300万

入院費や爺さんが住んでた家の片付けでかかった費用100万を少し出るくらい

相続税は当時6000万まで無税だったみたいだ。

爺さん・・・死ぬ前に税金まで計算して俺に金くれたのか?

本当に食えないジジイだな。盆のアイススーパーカップにしてやろうかw

2017-10-05

上司迷惑料のつもりなのか、やたらお菓子をくれる

いや、要らないのでその分仕事してください…

とも言えず、だけど消費しきれず、どうすりゃいいんだ

お土産3つも4つもいらねぇ

2017-10-04

第12.1話はマネタイズできない

anond:20171004014027

アニメコンテンツってのは、基本的に一度見れば消化される。見るのに飽きるまでは、いくらでも見れるんだよ。

そもそもテレビ放送だって無料で見れるんだからコース料理無料試食で、帰りのお土産が有料のレストランってとこかな。

試食を飽きさせないために無料のデザートをコック長が個人的提供しただけ。

そのサービス精神を気に入って、デザートが入っていないお土産バカ売れしたのだから、損をしたのはテレビ放送広告を出した企業ぐらいじゃないの?

出資企業円盤が売れさえすればいいんだから

この流れを理解せずに「勝手に加えたデザートにO-157が混入したら責任とるのは俺だ!」って言ってコックに気の利いたことをさせないなんて言い出す奴がいたら、まあバカでしょ。

メインの料理を作っているのもそのコックだし、デザートの有無じゃなくてサービス精神が大ヒットを生み出したんだから。万が一O-157が混入した時の面倒リスクぐらい取らないと。

2017-09-24

今まで生きてきた中で一番の悪夢を見た

きつかった…

悪夢といってもバケモノに追いかけられるとか、高い崖から落ちるとか、乗ってたエレベーターの底が抜けて落ち続ける夢とかではない。

私の身から出た錆と不安と心の闇を凝縮した夢だった。

私は勉強が出来ない。これは私一番の…悩みであり弱みであり、身から出た錆だ。

中学受験志望校へまぐれで受かり、落ちこぼれて今の高校に通い二年生になった今に至るまで、大小様々な悩みはあれどこれまで自分を苦しめているものはないだろう。

なぜ身から出た錆なのかは単純に、勉強が出来ない事に悩みつつもそれを解決しようと勉強してないかである勉強をしていないならまだしも、長期休み宿題課題を出さない。これがいけない。

かつ、私は親を裏切り続けている。何度今度こそは頑張って成績を上げて提出物を出すと言っただろうか、何度欠点電話に怯える母を、面談の度に恥ずかしい思いをさせてしまっただろうか。ちなみにこれらは現在進行形で続いている。それを何とかしようと真剣に思うぐらいには恐ろしい夢だった。まあこう思う事は初めてではなく、20回目ぐらいだったりするのだが。

そろそろ夢の内容へ移ろうと思う。

通っていた中学校高校が混ざった校舎の廊下に私は立っていた。対面にいる担任から今学期の成績表を渡される。読まずとも壊滅的な内容だと私は知っていた。特に英語の成績が。担任は母を呼んであると言う。もうこの成績は伝えてあるらしい。

私はふらふらと教室へ戻った。母がいた。実際に最後に見た服装と1年の面談に来て来た服が混ざっていた。まあどちらも似たような格好だったが。彼女は黒に白いレースの縁取りがついた日傘を持ち、赤い口紅差していて、シックな印象を与えた。この格好をした母と歩くのが好きだった事を思い出した。

母は私を責めた。彼女は怒っていて、呆れていて、悲しんでいた。私は辛くて、自席の机へ目をそらした。小学生の時使っていたうさぎの手提げ(これは母が祖母ふたり、母娘水入らずの旅行先でお土産で買ってくれたものだった)と、それに入った手紙が見えた。

手紙といっても置き書きのようなもので、A4サイズの裏紙に青いサインペンで書かれていた。母のそばを離れて手紙を取るわけにもいかず、手提げから半分程度はみ出した部分しか読めなかった。すぐ会えるとは思っておらず、手紙に気づいてもらえるようわざとそうしたのだろう。

手紙には「ママちゃんは悲しんでいますときれいな字で、というか思い返せば私の字で書かれてあった。母の字は丸っこく、独特なのだが、私は習字に通わせてもらっていたのである程度綺麗な字をしている。

ママちゃん、というのは彼女が私とふたりきりで楽しく話している時にふざけて使う愛称だった。普段怒った母はもっと威圧的で、口汚い言葉を使った手紙を書いていた。

私はここで

ああ、何ということをしてしまったのだろう、と思った。

気づけば母は成績表の入ったファイルを私に押しつけ、廊下を歩き出していた。階段を降りゆくところで私は慌てて追いつき、どこへ行くのかと訪ねた。彼女履歴書を書きに行く、と言った。私は冗談じゃないと思い、持っていたファイルを踊り場に叩きつけた。中に入っていたプリントが舞い散った。母はどこかへ行ってしまっていた。

私がプリントを集めていると、どこからともなく8歳ぐらいの男の子女の子が寄ってきて、プリントを拾うのを手伝ってくれた。男の子が私の成績表を見て、お姉ちゃんなのに成績わるーい、と言うので 私はうーん、お姉ちゃん認知症になってるからかも知らんなあ、若年アルツハイマーやわ、と笑って返した。そうすると女の子は じゃああそこにおらなあかんちゃうん、と指さした。

その先にはステージがあり、私と変わらない年格好の車椅子に乗った人や移動式のベッドに寝たきりの人と共に講演をする大人がいた。私はなんだかぞっとして、あははせやな〜とかなんとか言った。

プリントが集まり終わり、最後に成績表を入れるだけになった。そこで初めて成績表を見た。惨憺此処に極めり、といった内容だったが一番は英語だった。1だった。ここでそういえば私、留学したいんだったと思い出した。こんな成績じゃ無理だとも。担任からの欄には、ずいぶんとかっこいいですね、と書いてあった。彼がよく言う皮肉だった。

私はファイルを持って立ち上がり、母を追いかけるべく走り出した。半分泣いていた。私は就職希望なんだからもう成績で取り返しがつかないとか、留学たかったなとか、母に申し訳ないなとかなんとか思いながら。中学校高校廊下を走り抜け、職員室の中を突っ切った時に母の背中が見えた。もう少しで追いつく、という時に目が覚めた。

いつもの布団じゃないので混乱した。が、よく思い出せばここはホームステイ先の自室のベッドの上だった。

現実の私は、このままの成績では留学することは出来ないと言われ、学年順位をどうにかこうにか100番上げてニュージーランドへ来たのだった。

怖い夢だった。もう二度と見たくない。その為にも勉強し始めようかな。

2017-09-23

北海道産のもの多すぎだろ

旅行好きな北海道民なんだが

北海道産食材使いすぎじゃね?

旅行に行ってその土地名産とか食べ物とかお菓子とか、その場所ならではのもの食べたいのに

なんでもかんでも、北海道産生クリーム使用北海道産小豆北海道産かぼちゃ北海道産ウニ北海道産

築地うまいもの食うぞ~って思ってもそこら中に北海道産文字あるし。土産物の裏にも原材料北海道産って書いてあるし。逆輸入かよ。

お土産買いにデパ地下行ったらすごい確率北海道物産展やってるし。道民は知りもしないような物ばっかり置いてあるけどな。じゃがいもは○すとかなんだよ誰も食ったことねぇぞ。

お前ら北海道ブランドに頼りすぎ。

2017-09-15

休みに関して結構フランク会社なので、毎年閑散期に有給をぶっこんで2週間くらいバックパッカー的な旅行をしています

行く所はほぼアジア圏なんでお土産によくドライフルーツとか現地のお菓子を持って帰るんですが

毎回上司が「現地で女は買ったのか?」という、シモのお土産話を期待してて困ってます

個人的には料理景色を楽しみにして行くので、そういうのは興味がないって感じ

anond:20170915083443

差し入れ要らないですよ」は遠回しの催促だろどう考えても。

旅行に行くの?お土産とか気にしなくていいからね」

同類

2017-09-12

友達群馬県の珍宝館のお土産オナホガチャ買ってきてくれたんだけど、さっき遊んでたらサイズがキツすぎて1Mぐらい飛んでいった

2017-09-04

丸亀製麺試食会が強要する口コミ捏造

丸亀製麺試食部とはご存知でしょうか?

トリコロール運営する丸亀製麺が行っているユーザ参加型の試食会です。

当時はお土産付き、先取りして新商品が食べられるが売りでしたが、今はその魅力はありません。

お土産はない、書き込み強要を強いられます

座席も以前は自由席でしたが、丸亀製麺側の恣意的座席配置を強いられます

#丸亀製麺というのはほぼステマだと思っていいでしょう。

アジャイルネットワーク面影がなくなったのが大きな影響でしょうか?

以前よりも丸亀製麺試食部が劣化しています

電車賃時間を割いていく意味はないと思います

家で自腹きって食べたほうがまだましです。

いじめられていた時私はどうすべきだったのか、未だにわからない



中学生の頃、教師も、友達も、家庭も、周りが敵だらけだった時期があった。

というか、3年間ずっとそうだった。

それは自分がなんらかの行動を起こさなかったからそうなった部分もあるのだが、

今になっても、自分があの時どうすべきだったのかわからない。

私は小さい頃から内気で大人しいタイプだった(今はそんなことはない)。

近くに声の大きい、いわゆるスクールカースト上位の人がいると、怖くて萎縮してしまう感じの子だった。

親が厳しく、親の言うことは絶対な家庭で育ったこともあってか、自分意見意思を持つことはほぼなく、流されやすい子でもあった。

でも何人かいつも一緒に過ごす友達がいた。中学生に上がる時に、その子に誘われて吹奏楽部に入った。

本当に誘われて入っただけだから何も知らなくて、最初水槽で何か育てるのかと思ってた。

まらなそうだなーと思いながら、流されて入部した。

パートトランペットになった。内気な私らしくない、目立ってかっこいい楽器だった。

本当はドラムをやりたかたか打楽器希望したのだけど、希望なんて一切考慮されていなかったし、毎年希望なんて通ってないよと先輩に言われていたので覚悟はしていた。それでもがっかりした。

トランペットパートの新入生はもう一人いた。Aちゃんという、気が強くて背の高い女の子だった。小学校の頃から苦手だと思っていた子だった。小学生の頃、面識もないのに私のことを「影が薄い子だ」とか言っていたのを知っていたからだ。

しかしろくに話したこともないのに避けるのは良くないし、部活をやめることも怖かったのでとりあえず頑張って続けることにした。

最初はビクビクしていたが、Aちゃんとはそれなりに仲良くできていたと思う(少なくとも、険悪な感じではなかった)。一緒にプリクラも撮りにいったし、お互いを名前呼び捨てにして、部活時間はずっと一緒に行動していた。

でも、入部して3ヶ月も経たない頃から、よくAが「気に入らない」という理由から無視してきたり、周りの部員に私の悪口を言うようになった。「気に入らない」というのははっきり言われたわけではないが、「○○なのがムカついた」とか言ってたので要するにそういうことなんだろう。

ある日突然急に話しかけても無視される。何か悪いことをした覚えはないのでAに「ねえ怒ってる?私、何かした?」と聞いて事情を聞いた。そしてAが私に対しての不満を言い、私が「ごめんね、私が悪かった。これから気をつけるね」と言う。これが2ヶ月に1回くらいのペースで繰り返される。

しかけることがとても怖かった私は、ある時はメールで怒っているAに話を聞いたこともあった。21時以降のメール禁止されていたので、「もう寝なきゃいけないから、また明日話そう」と送ると、Aは「なんで話の途中なのに寝るの?私と仲直りしたくないの?」とか送ってきて半泣きになったのをよく覚えている。

もちろん私は小心者なので、相手を怒らせるようなことは何もしていない自信がある。というのも、当時何をされたか記憶がほぼなくなっていて、何がきっかけでAの機嫌を損ねていたのかを覚えていないので、実際は私が本当に失礼なことをしてしまったのかもしれない。でも少なくともA以外の周りから性格言動に関して指摘を受けたことはなかったし、過保護で厳しい親から他人を傷つけることをするような教育は受けていない。

そんな心臓に悪いことが何度も続き、次第に私もストレスが溜まっていった。ストレスと言うとイライラするイメージだが、実際には怖くていつも泣いていた。最初部活には行き、隠れてこっそり泣くだけだったが、次第に部活時間に逃げるようになった。友達美術部にいたので、美術部に逃げたりしていた。しかしAと他の仲がいいいじめっ子女子を連れて私を探しに校内を歩き回っていた。美術室で物陰に隠れて、友達も「ここにはいないよ」とかばってくれていたのに、探されて見つかって連れ戻され尋問された時の恐怖はずっと忘れられない。怖すぎて何を言われたのかは覚えていないが。

他にも、悪口や仲間はずれは常のこと、「お前だけうまくなるから練習するな」というようなことを言われたり、時には「話し合い」という名のもと、教室の隅にAと他3人くらいの女子に呼び出されて、私に対する不満やら悪口やらを聞かされた。旅行に行ってお土産を買ってきたので渡したら、「そんなものいらない」と言われた。

他にもいろいろ言われたしされたけど今は思い出せない。ふとした時にフラッシュバックするんだけど。

言い返すことはできなかった。何されるかわからなくて怖くてできなかったし、一度退部も考えたけど退部後にずっと私の悪口を言いふらされるかもと思うと退部しても状況がよくなると思えなかった。されるがままになっていた。私が一度でもAに声をあげて言い返していれば、何かが変わっただろうか。

2年生になる頃には、毎日部活の帰りは泣きながら帰っていた。朝練時間部活後に人通りのない階段に座って静かに泣くのが日課だった。うずくまって泣いている時はたまたまある男性教員に見つかり、虫みたいだと笑われた。でもいつも一緒に登下校していた親友のBは、そんな私を見捨てることなく慰めてくれた(彼女も同じ吹奏楽部だった)。

勉強はきちんとしたかったので小学校の頃から塾に通っていたが、勉強が手につかなくなってきた。授業中に突然意識が飛ぶように眠ってしまうことが増えた。常に泣き疲れてたため自室で宿題をやりながら寝てしまうことも多々あり、そこを母親に見つかり怒鳴られ、平手で頬をぶたれ、あるいは蹴られていた。一人の時間が怖くなっていった。

どんなにつらくても、必ず学校には行っていた。というか、母親が怖くて行かざるを得なかった。母親は「つらくても一度行かなくなるとずっと行けなくなる」という意見の人だったので、休んだりすることは許されなかった。これが正しいのかどうかはわからないが、私には合っていなかったと思う。私には、とにかく一度休んで冷静になり、自分の置かれた状況やどうすべきかを考える必要があった。

とうとう部活顧問相談した。当時30代前半の、猫なで声を出す音楽教師顧問が親身になって話を聞いてくれた。といっても、そうなんだ、と相槌を打つだけだったし、「Aにも話しておくね」と言ったきり何もしなかったが。むしろ自分がAに嫌われて反抗されると厄介だったのか、Aに気に入られるようなことばかりしていた。

同じく30代前半くらいの女性の副顧問にも相談した。副顧問は優しかったが、彼女には私を救うような行動を起こせる権力?がなかったようで、でも顧問よりは私を心配してくれていた。副顧問自身もどうやら先輩教員からパワハラに悩まされていたようで、どちらかというとこっちが心配だった。

他のパートの同期にも相談した。その頃にはAの暴れっぷりは部活内だけでなく学年中に知れ渡っており、彼女たちは首をつっこむと自分が面倒を被ることがわかっていたので、「あーそうなんだ」と言うだけで終わってしまった(し、3年生になって役職に就くと、部活に来たがらない私に朝練にちゃんと来いとか言っていた)。

精神的にもきつくなってきた2年生のある日、また「話し合い」に召集され、塾の時間ギリギリまで帰してもらえないことがあった。急いで帰ると、母親にきつく怒鳴られたし、もちろん顔を平手打ちされた。そこでとうとう耐えきれず、母親の前で号泣してしまった。泣きながら、ことの顛末を話し、私だってこんなのもういやだ!と叫んだ記憶がある。それでも時間は守れ!と怒られ、塾に連れて行かれたが、塾でも泣いていたので、かなり人目を引いただろう。

帰ってくると、母親に、何か悩みでもあるのか、みたいなことを聞かれた。母親は本を読んでいたか携帯をいじっていて、真面目に聞いてきてはいなかったが、ようやく楽になれるかもしれないと期待した。

Aにされたことを(一部だが)話すと、じゃあ関わらなければいいと言われた。パートは一緒に活動するのでそうもいかない、という話をすると、じゃああんたが悪いんでしょ(何か悪いことをしてるんでしょ)、と言われてしまった。一瞬頭が真っ白になった。立っているのもつらくなり、自室のベッドに倒れこんだ。どんな状況でも、親は子供の味方になってくれるものだと思っていた、私が甘かったのかもしれない。

もう頼れる人は誰もいない、私はこのままずっと一人で戦わなければいけないんだ、と絶望したし、自分を追い詰めすぎて軽くパニックになっていた。その時、初めて部屋にあったはさみを手首に当てて傷つけた。痛みで冷静になれている自分がいた。(これは結局高校2年生のころまで続いた。)

(ここまで書いていると、なんだか本当は自分が悪かったのではないかという気がして来た・・・

その日から、私はこの状況から脱却することを諦めた。諦めようと決めて諦めたわけではなく、Aやその周り、顧問(、あと母親)の機嫌をとる方が簡単で、自分精神的に苦しむことが少ないと思ったからだ。

それからは笑っていられる日が増えた。部活楽しいとすら思った。でも夜に布団に入ると、考えることをやめて毎日惰性で学校に通い、イエスマンになってAのいいなりになっている自分がいることに気がつき、結局毎晩泣いていた。泣いてカッターで手首切って疲れて寝るのがルーティンだった。

3年生になり、パートリーダー顧問が決めた。顧問がAをパートリーダー指名してくれたおかげで、Aの権力正式に認められてしまうかたちになり、何をするにもAの許可必要になった。

その頃にはAの機嫌を損ねるのも3ヶ月に1回あるかないかになっていたし、もはや「Aのいいなりになるいじめられっ子であること」がアイデンティティになっていた。それがなくなると、私は本当に空っぽ人間だった。

局部活はそのまま3年間続けて、卒業することとなった。思春期大事な時期がこんなだったので、高校生になってから大変だったのだけど、それは今回とは関係がないので割愛します。

さて、私はこの3年間で、心を守るために自分を殺して逃げる以外に、どうすべきだったのでしょうか。

今のようにインターネット自由に使えない、電話もできないのでなんとかホットラインにも相談できない、家庭では悪者勉強をしない不真面目な娘扱い…

私が声を上げることができなかったので、3年間、ずっと苦しむことになったのだろう。それは原因の一部ではあるはず。

この出来事客観的に見れるようになった今でも、10年前の私はどうすべきだったのか、未だにわからないのです。


※補足ですが、私が3年間つらくてもなんとかやってこれた背景には、親友のBと、Bのお母さんの存在があります

Bのお母さんは、たまに会う程度でしたが私とAの事情を知っていて、会う度に私の心配をしてくれましたし、私は悪くない、Aが悪いと言って励ましてくれました。私にとって、一番信頼できる大人だったと思います。この方のおかげで、本当は自分は悪いことはしていないんだと、心を強く持っていられました。

また、Bも常に私の味方でいてくれました。毎日泣いていても付き添っていてくれたり、愚痴を聞いてくれたりもしました。彼女とは今でも深い交友がありますし、これから人生でBが大変な時は必ず力になりたいと思っています

BとBのお母さんには感謝してもしきれません。これを書いて改めてそう思いました。

以上、自己満足自分語り駄文でした。最後までお読みいただきありがとうございました。

2017-09-02

明日からアメリカ出張

持ってくといいものお土産はなにがいいか、教えてくれ。

行くのはサンノゼボストン

岡田斗司夫メルマガ面白かった件について

さて、今回はそんなアメリカの「原爆日本に落とす計画」に関してのTシャツです。

https://goo.gl/3Sa7Vk

 

すみません、もう後ろの方で、ちらちら見えてるからわかるよね。

これね、サンフランシスコお土産店で、僕が初めてアメリカに行った時に買ったんだけどね。

 

酷いよね。

MADE IN USA TESTED IN JAPAN」って書いてあるんだ。

アメリカ製造され、日本テストされたっていう。

これね、サンフランシスコフィッシャーマンズワーフっていうところのお土産屋で買ったんだけどね。

 

僕の父親師範学校を出て、学校先生になった。

師範学校から学徒動員にもひっかからず、このまま戦争に行かずに済むのかと思ってたら、

最後最後の年に徴兵されて、広島の方の兵学校に行かされたんだ。20歳くらいだった。兵学校は、

原爆が落ちるような都心部でなくて山の田舎の方だったから、何とかギリギリ助かったという人間なんだよ。

 

こんな経験をしてる人って、僕だけでなくてすごく多かったんだよね。

僕と同じクラスの子でも、家族の誰かが戦死したり、身体障害者になってたりというのが当たり前だった。

 

から、生まれて初めてアメリカに行って、サンフランシスコっていうすごく明るい街の明るいお土産物屋で、

こういうTシャツを堂々と売っているのを見てめちゃくちゃビックリした。

なんかね、ブラックジョークというにしては(笑)ちょっと酷いなと思ってたんだけどね。

 

これ着る機会あるかどうかわかんないなぁと思いながらも、一応買ってみたんだよ。

 

一応買ってみて、SF大会とかに持って行ってみた。

さすがに着るのが怖いから、「こういうTシャツ持ってるんだ」って話したら、やっぱ真面目な人はね、

「やめろよ」とか言うんだよ。

 

でも、当時、1970年代後半のSF業界というのは、本当にあらゆる価値を相対化することが正しいという

すごく大きな流れがあった。

 

例えばね。堀晃さんっていうSF作家がいて、この人、書くものハードSFなんだけど人格は本当に

デタラメという人なんだ。

かんべむさしさんと一緒に2大ちゃらんぽらん大阪SF作家だったんだよね。

ただし、かんべむさしさんの方は書くものちゃらんぽらんなんだけど、人格は大真面目なんだけど(笑)

 

で、人格ちゃらんぽらん堀晃さんは大喜びして、「それどこで売ってるの?」って、欲しがってくれたんだ。

でも、人格はまじめなかんべむさしさんには「そんなもの絶対に着るな!っていうふうに言われてしまった。

 

小松左京さんはどちらかというと喜んでくれた。

 

ということで、当時のSF界でも作家ごとに反応が違ってたんだよなぁ。

 

なぜこんなにSF作家の反応を覚えているのかっていうと、20歳くらいの僕にしてみれば、SF作家というのが、

第2第3の父親とか兄貴替わりみたいなもんだったんだよ。

その人たちがどう感じているのかというのを自分価値観にしようとしていたんだよね。

 

今言いながら、めちゃめちゃ恥ずかしいんだけどさ(笑)

小松左京先生が喜ぶから、俺も喜ばなきゃいけないとかさ。

かんべむさしさんが怒っているから、やっぱりいけないのかなとか。

そんなふうに、もうホントに、ワナビー君の恥ずかしい奴だったんだ。

 

筒井康隆さんにはすごい冷たい目で、「原爆とき過激ぶるな!ガキめ!」というような感じで

見られてしまったんだよね。

 

で、この間、捨てられないTシャツコーナー用に、「Tシャツどんなのがあるかな?」って掘り返したら、

これが出てきたわけ。

やっぱりその頃から30年以上たった今だから、それぞれの人の意見がわかるなぁ。

 

怒る人の意見もわかる。

そういうのは笑っていいかもしれないけど、人前で笑うもんではないっていう人の意見も分かる。

あと、堀晃さんの「いやそんなもんをTシャツにして売っているっていうアメリカ人感性面白いじゃん。」

というのもわかる。

 

なんかねぇ、いろんな人の意見がわかるようになったなぁって。

 

でも、逆にわかんなくなったのが、筒井康隆さんの「原爆とき過激ぶるな!ガキめ!」

「なんでお前、人のことをそんなに言えるんだよ!」(笑)って。

今に至るまでの筒井康隆人生(笑)、「お前そこで怒っちゃいけないんじゃないかな」って思いました。

 

という思い出のあるTシャツでした。

同じSFファンポール・アレンによって、今朝、インディアナポリス号が発見されたと報道されたのも

不思議な偶然だなぁとしみじみ思います

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このメール転載歓迎です。ただし、下記のメールマガジン出所である旨、必ず、URLを明記してください。

http://www.mag2.com/m/0001148694.html

 

岡田斗司夫という時点で読むに値しない」という人もいるだろうし、別に読みたい人だけ読めばいいと思うのだが、

個人的には、今朝のメルマガ結構面白かった

 

日本の大半のウヨク愛国主義)とサヨク相対主義)は皆インチキだよな」というか

 

上記の引用で「アメリカ憎し」の感情に飲み込まれたら、またそれも違うと思う

サイコパス相手に憎しみの感情だけを抱いても意味が無い

実力行使しないとサイコパスにとっては意味を持たない

それにサイコパス側面がアメリカの全てとは言えない、感情に流される側面というのも存在するのが現実

 

宮崎駿アメリカを嫌う理由も分からなくはないし、「この世界の片隅に」がアメリカで上映された意義というのも

非常にあったと思うし(米国人が例え理解出来なくても)、反対に、日本に対する拘束具としての平和憲法に甘えて

自立しようとせずに、こういう目に遭わせたアメリカ自身に守られている立場に甘んじる日本というのも確かにある

 

あれだな、アメリカで講演する日本人が、上記のTシャツを着ていったら、どういう反応をするか?という社会実験

見たい気分はあるな

2017-08-31

お土産を家で食べちゃう人〜〜〜

あの人はあげなくてもいっか〜

2017-08-29

アイスお土産に持ってきてくれた人の話

私が子どもの頃、母の知り合いであ女性がたまに訪問していました。

いつもアイスクリームお土産に持ってきてくれました。

どういう人なのかは分かりません。

人よりもお土産の方を覚えているというのはおかしな話だと思いますけどね。

ただ、何か特徴(この人の場合アイスクリームお土産)があればその部分は覚えやすいのでしょうね。

2017-08-28

https://anond.hatelabo.jp/20170828125934

 新しい世界へのきらめきに溢れたエントリで私も嬉しくなりました。短刀君達、とても可愛いくてかっこいいですよね。

五虎退吉光は五虎退くんが刀帳での自己紹介でもいっているように上杉氏にゆかりの刀です。

明に渡った役人が虎に囲まれた際、この刀で追い払った、という逸話が号の由来の刀です。

それを上杉謙信上洛した際に正親町天皇から拝領したことで上杉氏のもとへ渡ります。(刀帳で言っている「謙信公へのお土産です」はここから)

今は個人蔵ですが、時折米沢市上杉博物館で展示されますよ。

 足元にいる虎くんたちもそれぞれ特徴があるのでそちらも是非ご注目くださいね

2017-08-24

義実家の人々と縁を切りたい。関わりたくない。

夫の実家とはもう付き合いたくない。

その考えに至る理由

夫の実家には、義母80代と義姉60代とその息子20代が住んでいる。

義母が切願して同居した義姉一家

引き金は、同居と同時に義姉達の資金でしたリフォーム

義母勝手希望を盛り込んで、予算オーバーに。

なのに何かというと、義母は義姉に「住ませてやっている」と言う。

同居が始まってすぐから不協和音が聞こえ出し、義姉が離婚したころには最悪な状態・・・

そもそも義母問題がある

健康食品にはまり、ローン地獄に。

督促状の山を義姉が発見して、夫に連絡が入った。

同時進行で義母から借金の依頼が・・・

事情を聴いて、ここまできたらしかるべきところ(弁護士さん等)に相談すべきとのわたし意見を、

夫がそのまま義母に、「ウチのがそういっている」と伝えた。

電話の向こうの義母が激高している声が、食器を洗っていた私にもよく聞こえた。

その時、関わるのはめようと思った。

結局、私のアドバイスを聞かずに義姉がすべてを立て替えるという愚かしい行動によって

義母のローンの枠が大きくなった。

から言ったじゃない。と夫に言うと、「今更・・・」と消え入るように呟くだけ

それから義母から約束ドタキャンされることが続いた

年に1,2度行くたびに

義実家健康食品の山で足の踏み場もなく

たまにその山の中から持たされるお土産を断り切れずに持ち帰ると賞味期限切れ

トイレも使えないほど物が散乱

わずかなスペースで暮らしている様を「あの娘に追い詰められた」という始末

かなり話の内容がおかしくなってきていることを夫に指摘し、「早く対応したほうがいい」

そう言い続けているが一向に動く気配がない

一人娘が結婚することになり

わたしは、もう義実家人達を招待する気はなかった

けれど、そうもいか・・・

夫がワケアリで疎遠になった義姉達にも電話連絡を入れた

招待状を送っても返答がなく、電話をかけても出ない

娘が困らないように、対応してくれるよう夫にいうと

義母に返事は「招待状はなくした。もういいや。」

義姉は「いつだっけ?忙しいんだよね」

招待状を送る前に日取り等は知らせたし、

今年2度目の結婚をした義姉の息子にはそれなりのご祝儀も出した

それなのに、その言い草。返事の内容がひどすぎる。

ひど過ぎる!ふざけるなー!と怒鳴りたい。

もう義実家とは縁を切りたい。

何があっても関わりたくない。

我慢限界

2017-08-22

お土産せんべい持ってくる奴は仕事できない

この時期夏期休暇の旅行お土産が社内に集まるけど、せんべい系のお土産持ってくる奴はなんなんだろうね。

会社は老若男女集まる所なんだから音が大きいお菓子は避けられるに決まってる。女性大勢の前でバリバリ食えないだろ。

あと、せんべいはそんなにありがたくない。どっちかっていうとクッキーケーキ餅菓子系の甘くて柔らかいものが食いたい。そっちの方が絶対多数派だって

今時みやげ屋にせんべいばっかり売ってるとこなんか無いだろうし、同じ金出してわざわざせんべいセレクトするセンス理解できない。

どうせアレだろ?こっちが金出すんだからなんでもいいだろって思って適当なもん選んでるんだろ?そこに仕事の出来なさが表れてる。他人に対する想像力だよ。それが欠落してんだよ。

今後はお土産せんべい持ってくるの禁止な。

2017-08-21

https://anond.hatelabo.jp/20170820222635

めっちゃわかる。

他の女性はわざわざ全席まわって配り歩いたりするけど、

私が受け取ったときは面倒くさいので雑談したり打ち合わせしたりする

共用の大きなテーブルに「○○さんからお土産です」て蓋の裏に書いて放置してる。

食べたい人は持っていくし食べたくない人はスルーだし、それで十分だと思ってる。

というか買ってきた奴は自分でそこに置けと思う。

後輩の女の子は「私配りますよ」って言ってくれたりするけど

後輩の男の子は我関せずだし先輩が配り歩いてるときに当たり前のように取っていく。

さなからの育ち方が全然違う。

若い子達も女の仕事男の仕事でわけて考えてるとこあるある

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