はてなキーワード: 読み手とは
最近はわかってないやつが多いんだけど、原作は原作者のものだけどキャラクターは原作者のものではない。
キャラクターは世に出た時点で既に一個の人格として生まれているわけだから原作者の示すものは単に一つの解釈でしかない。
だから二次創作は世に数多溢れているし、みんな当然のように売り買いしている。原作者のものだと思っているなら人のものを売り買いするようなイベントに何十万人も殺到するわけがないし、まして実店舗や通販で大手を振って売買しているはずがないだろう。
最近はこういった本質を忘れてキャラクターは原作者のものだとかリスペクトがないだとか言い出すやつがいるが、本当にそう思っているなら二次創作自体が成り立つはずがない。
原作は原作者のものであり、キャラクターは原作者のものではない。少なくとも二次創作の描き手と読み手はこう考えていなければならない。自分は違うと思い込んでいるやつはこの事実を理解しろ。
感想がもらえないという話を良く見るが、だったら金で買えばいいじゃないかと思う。
そりゃほしい感想って自分の作品を心から面白いと思った人が思わずどうしても伝えずにはいられなかった感想ってやつなんだろうけれど、ジャンル自体が小さいとかカップリングに人がいねえとかここにいるのは俺一人なら無理じゃん。私は単純に褒められたいっていうのとどこが面白くないのか教えてほしいってのだけどさ。
ってことで金で感想を買った。
どこで買ったか書くとステマだなんだ騒がれるから書かないけどどうせ出てくるサイト2つぐらいだろうしそのどっちかだよ。コミッションで買った。複数。
一応ジャンルを伝えたところ相手はジャンルを知らないらしい。ざっくりとジャンルの説明をして登場人物の軽い設定を書いて一番詳しいwikiじゃないページも伝えて本文を送った。
感想と批評を選べる人は批評で頼んだ。褒められたいけどどこが面白くないかも知りたい。
一人からは、約1000字ほどでどこが面白かったか書いた感想が来た。元気が出た。
一人からは、約5000字ほどで、どこが面白かったか、どの部分に違和感を覚えたか、誤字脱字のチェックが来た。非常に参考になった。
一人からは、約7000字ほどで、どこが面白かったか、どの部分に違和感を覚えたか、誤字脱字のチェックが来た。もうひとりの違和感の箇所を指摘してくれた人の感想・批評と見比べながら再度読み直して確認すると、なるほどここの部分はおかしい。修正したら読みやすくなったし流れが良くなった。
ということで、元気が出たし、修正もできたし、金で感想を買って良かったなっていう感想だ。金を出しているからこそ最後まで読んでくれるしこちらの頼みも聞いてくれる。この箇所はどう思った?という、普通の感想をくれた読み手にはできない突っ込んだ質問も聞いてくれる。
自分一人で読んだだけではどうしても独りよがりになりがちな箇所を第三者の目から見て聞けるのは良かった。
説明の足りない箇所や書き手は理解できるが読み手は突然すぎてわからない箇所を指摘してくれるのは大変助かる。
その後修正を加えて無事発行した同人誌の感想は、まだ届いていない。この三件が現在出した同人誌に対する感想の全てだ。これもなかったらきっと心折れてたから頼んで良かった。何度も読み返している。
結婚してわかったこと。愚痴があるならツイッターする前に家族に相談するなり話し合えばいい。
好きなアルファツイッタラーとフェミニストがレスバしていたのを読んだのがきっかけです。
そのフェミニストは無性にイラッとする文章だったので不快な気持ちになりました。
ツイッターにフェミニスト界隈があるというのを知り、私は彼女たちをフォローしだしました。
よくもまあ、夫の愚痴やら身の回りの愚痴をインターネットに公開できるなと思いました。働いているらしいがリスク管理大丈夫ですか。と心配にもなりました。
就職している先からコンプライアンス教育を受けていないのでしょうか。
周囲にアカウントが漏れてしまった場合、社会的な信用は失われるかと思います。大丈夫ですか。
堂々とバレてもいいのであれば、なおさら大丈夫ですか。など、追いかけるごとに疑問が増えていきました。
逆にどういう方法で秘密にしているのか気になって、彼女たちのツイートを観察しながら、「周囲にバレない安心・安全なツイフェミ活動するならば」というシミュレートをしていました。
結果としては毎回、「やめておいた方が無難」でしたが。
どんな人生を送っているのだろうと思って彼女たちの観察を続けました。
それから結婚したことで、ツイフェミのヤバさを深く理解するようになりました。
大事なパートナーがいるにもかかわらず、そのパートナーが被るリスクを気にせずツイートするヤバさが恐ろしいです。夫とは話し合いができていないのだろうと察しました。
私自身が既婚者になって気づいたのです。彼女たちはもともと「精神が厳しい状態にある、ヤバい人」だったのです。
文体の端々から、ツイフェミたちは憎しみにとりつかれているように思います。
感情を源にして活動するツイフェミたちはすごいものです。彼女たちが声を上げると、少なからず世論は動くのですから。
まず私は彼女たちと友人になりたくないです。もし彼女たちにとって不都合なことをしてしまったなら、実体験として公にされるという想像がつきます。夫(あるいは彼氏)ともなれば尚更危険です。
私の親族関係者がもしツイフェミ活動をしていると知ったら、私たちの情報は漏らさないようにしますし、悪評が書かれていないか、身内を守るためにツイッターを監視します。それだけヤバい人ということです。
もちろんフェミニスト活動をするのはもちろん自由ですし、常識を成敗するのはすごく気持ちが良いだろうなあと伝わってきます。
ツイフェミの主張ツイート・レスバの文章は意味不明な場合が多く、読み手に不愉快な感情が込められていて読解に苦労しますが、とにかく熱い主張で、けっこう面白いです。
ただ私は、彼女たちの活動とは「精神的なヤバさ」から発生するもので、つまりはそのときの気分だと思っています。
スカートの皺やらお母さん食堂には燃えて、商業BLコミックが燃えないのはそのためです。
彼女たちの活動を止めることはできませんから、企業は目をつけられないことを願いながら、粛々と研究を続けていくだけなんでしょうね。
表題にあることがすべてではあるけど、どこにも吐き出すところがなくてもやもやしていたのでここに書きます。
自分自身はずっと長いこと文字書きをしていたけどいろいろあって今はほぼ見る専(個人的に書いたりはするけどどこにも公開してない)。
ちょっと前に、詳細はぼかすけれどちょっとあって、nmmn界隈がざわついたことがありました。
好きだった執筆者の方々も続々作品を削除または非公開(マイピク限定)にしたりして、結構な騒ぎだったように思う。
自分自身はもう書き手をしていないので、まあそれなりに冷静に見ていたけど、その時点で書き手をしている方たちからしたらほんとに肝の冷える展開だった。
数日間にかけて普段ほとんどしないマイピク申請をしたりなんかして、早く騒ぎが収束してほしいなあと思ってました。
pixivで作品を公開されていた方の中にはプライベッターに完全移行するって方もそれなりにいて、私は今一番入り浸っていた界隈のTwitterアカウントを持っていなかったので見られなくなるのは残念ではあったけれど、nmmnジャンルの特性上ほんとに仕方ないなと、静観?(という表現もおかしいが)していた。
最近は鍵ぱかでnmmnの過激なのを公開してる馬鹿も増えて、近頃nmmn界隈が騒ぎになることも多かったし、隠れてくれる分には大いに結構。
なんせこちらはインターネット老害、それもnanoとかに生息していたオタクだもので最近のnmmn界隈にはひやひやされせられることも多かった。
界隈が騒ぎになることを望んでいるわけではないけど、これで今一度界隈の危険性とか、ルールとか、浸透してくれたらいいと。
とはいえ所詮nmmn界隈の騒ぎなんて全書き手/読み手に浸透するもんでもないから、普通にpixivに投稿を続けてる人もいる(それを読んでる自分も自分だけどこの際棚上げを許してほしい)。
ルールとか明言されてないから(だめだけど)知らない書き手が公式に見つかるようなタグつけてpixivに作品をアップしちゃってんのは仕方ないと思う。
それについては気づいてもらえるように老害が促せばいい。老害はこういう時のためにいるからね。
例の騒ぎでpixivからプライベッターに作品を引き上げ、ここまではいい。
作品を書くことは止めないし、自分も楽しませてもらっていた側だから。
更新頻度も高くて、けれど文字数も多くて、すごいなって思ってた。
ブックマーク数もいつも3桁あったし、さぞ通知も多かったと思う。
自分もnmmn、非nmmn問わず書き手をしていたころ、それなりに反応をいただいていたからわかる、ブックマーク通知が来ると嬉しいよね。
好きってメッセージもらうと嬉しいよね。
反応がなくても文字を書くけど、人に見えるところに公開するのは結局反応が欲しいからだよね。
本当にわかるけどそれとこれとは話が違う。
pixivで全体公開するのは公序良俗に反することに気づいたからぷらいべったーに引き上げたんじゃないの?
なんでわかってて戻ってきたの?わざわざ同じユザネで新しいアカウント作って。
おまけに前アカウントで公開してた作品を露骨なタグつけて全体公開して。
なんやかんや理由つけてるけどそんなん結局反応が欲しいからだよね。
プライベッターに引き上げたら全然反応なくて萎えちゃったのかな。
私もむかーし別のジャンルでその手のサイトから検索除け、pass請求性にした個人サイトに引き上げたときにグッと反応減ったから(当たり前)、ちょっと寂しかったりしたけど、nmmnジャンルってそもそも見つかっちゃいけない前提みたいなもんだから反応多いほうがおかしいんだよ。
自分の自尊心を満たすために、本尊のことも界隈のことも危険にさらすのやめてくれ。
法で決められてるわけじゃないし明文化されてないルールが跋扈する界隈にこんなこと言うの無駄かもしんないけど、マイピクの承認基準にあれこれ書いてんだからわかってるんでしょ?
晒されたくない、本尊に不利益を与えたくない、でも書きたいんならせめて反応がないことを許容して。
あと矛盾したことをいうけど、戻ってくるならせめてユザネを変えるなり、前垢の作品一切出さないとかであればこんな苦言を呈さずに済んだんですけど。(とはいえ文体で気づくとは思う)
本当はこの界隈のことこうやって匿名なのをいいことに持ち出したりするのはよくないってわかってるんだけど、最近どうにも似たようなオナニー文字書きよく見かけるから物申してしまってほんとうにすまん。
まあこの記事もオナニーみたいなもんだから人のこと言えないんだけどね(とは)
本人にはわかるように書いたつもりなので、うっかりこれに目を通していただけた場合、いったん考えてくれませんかね。
みんなくたばってほしい
もちろん、女児アニメ、というか、ロリキャラに乳を盛るヤツもくたばってくれ
書き手・読み手の性欲を満たすためだけに、そのキャラらしさを、理由もなく捻じ曲げて貶めるのをやめろ
どうしてもやりたいなら、ちゃんと作中で理由を明示しろ、雑でも良いから。
謎の薬で身体が幼くなった、とか。〇年後主婦になった時の話、とか。
実は両性具有だったのをずっと隠して生活してた、というIFモノです、とか。なんだっていい。無理があってもいい。
できれば、その設定を生かしたストーリーがあると尚良い。そういうのは自分も読みたいし好きだ。
BLなど妄想における左右を決める決定打みたいな話、久々に見かけた。
◯◯な方が受け(攻め)、というやつ。
この手のものを見るたびに思うんだけどさ、「性行為の役割」以上の意味を左右という概念に乗せ過ぎてない?大丈夫?
みんなはっきりと、推しカプの閨事のみを切り取って、もっと言えば本番行為の立ち位置のみを左右として考えているか?
実世界で男女が多分に押しつけられるジェンダーロールみたいなやつ、推しカプに背負わせ過ぎちゃってる事ない?
なんか、こういう「◯◯な方が受け(攻め)」論が挙がるときに
・行為に至らぬ恋愛関係が好き、至るまでが好き、または本番行為をしないカプ派のため決まらない
・同軸リバ派
全然居なくない?いやわざわざ言及しにいかないだけかもしれないけど。
特に前者寄りの人でも、左右というものを結構ガチガチに考えている人が多い気がするんですよ、それって「男性(女性)はこうあるべき」みたいな枠に近い捉え方で左右を考えちゃってない?みたいに思うと、居心地悪い感じがする。
左右、掛け算という日本のカプ表記がそういう考えに寄りがちな気もするので、海外fanficみたいな造語の表記が好き。
誰の意見を否定したいわけでもないんだけど、なんか、解き放たれてえな!って思う。
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「全然居なくない?」は言葉が過ぎた。こういう攻め/受けがいい!を表明できる人の数が、そうでない人に比べてめっちゃ多いように思ってて、その中には左右をセックスポジション以外のなんかでカテゴライズしてる人が一定数いるような気がしてて…みたいなことが言いたかった。
性表現のない作品に逆カプ地雷です注意喚起してくださいみたいなクレームする読み手がいるだとか、だからとにかく入れる/入れられるだけで決めようぜ!みたいな議論は見たことあるわ、結局それとおなじことが言いたかっただけな気がしてきた。
https://togetter.com/li/1660066#comment
コメント欄があまりにもひどい。「社会学は学問ではない」「イデオロギーだ」という主張を非科学的な手法で、感情論に任せて行う。まさに社会学叩きこそがイデオロギーと化している。自己矛盾としか言いようもない。
社会学の学問としての是非はともかく、叩き方があまりに雑すぎるのではないか。
心理学系の論文の再現性を検証した論文が何年か前に話題になっていたが、学問の科学的手法をとった批判とはあのようにあるべきだろう。
としても、そうした属人的な事情は学問つまり研究結果や論文とは分けて考えるべきだ。仮に社会学者に人格破綻者が多かったとしても、学問自体の問題ではない(雇用主である大学側としては問題かもしれないが)。
これは社会学批判としては真っ当だ(実際にどうなってるかは知らない)。
が、『「査読システムが酷い」から社会学系の査読論文全てに価値がない(ひいては社会学者の主張は全てクソ)』とするのは間違っている。そもそも「査読システムがひどい」自体にエビデンスがなく定性的で主観的な意見であるからだ。この方向性で批判するのならば、社会学の査読システムに関してきちんと研究し、研究内容を論文にまとめて査読に出すべきだろう。そうして初めて主張に価値が出るのが科学の筈だ。
『個々の論文に関しての評価には、査読が必要』という前提条件から「査読システムがひどい社会学」をバッシングしているのにもかかわらず、「社会学は査読システムが酷くてクソだから社会学系の論文は全て価値がない」とするのは論理が破綻している。
自浄作用というのが、いったい何かわからないので何もいえない。ある社会学者の主張を批判するような内容の論文が出せないということだろうか?それならば確かに問題だ。が、「こいつを批判しないならあいつも敵」という風潮を取り入れろという話ならば、そちらの方が問題があると思われる。なんにせよ自浄作用という言葉が抽象的すぎる。
ネット上の社会学批判はあまりにも雑だ。エビデンスに基づいていない、社会学者個人の発言の問題を社会学全体に拡大して批判する、批判する人々のうち誰一人論文を読んでいない……このようなバッシングで、社会学という学問自体が潰れるのはイデオロギーに対する科学の敗北だ。
もし社会学が非科学であったとしても、社会学の構造上の問題点は科学的に検証されてから潰されるべきである。(個人的には、社会を研究することは絶対に必要だと思うので問題点があるのなら解消して欲しいと思う。)
n4b 社会学の一部の人って自らの研究対象に対するイデオロギーが非常に強いと思うんだけど、それって研究者のスタンスとしてどうかな、とは思う。本来はフェアな立場で批判的にデータと向き合うんだけど
これはもうごく個人的な意見に過ぎないけど、研究者の研究対象に対するイデオロギーの強さはどの分野においても仕方ないものだと思うよ。
研究者も人間だしね。北極グマが大好きだから北極グマを守るために科学者になるし、地球温暖化や環境問題に関する研究をするようになる。気候変動による生態系の崩壊を目の当たりにすれば、当然それを防がなくてはならないと政治的な意見を持つようになる。
社会学者も(会ったことないから知らんが)社会に問題意識を持ったからこそ社会学を専攻したんだろうし、そこでイデオロギーが動機になるのも、結果的に特定のイデオロギーを持つようになるのも当たり前と言えば当たり前じゃないかな。社会という研究対象の特性上、他の学問よりもそうなりやすいだろうし。
それに、研究者自身に思想はなくとも研究者は研究が資金を必要とする以上、どこかからバックアップを受けなきゃならない。企業の研究者は企業の営利のための研究をしなきゃならないし、国の研究機関だって国益のために金を出している。研究者が完全にフェアな立場に立つのは無理だ。
タバコ会社がタバコを無害を示す研究に資金援助したり、石油会社が気候変動とCO2排出量の関係を否定する論文に資金援助したりだとかは、今更無くそうと思ってなくせるものだとは思えないしこれからも増えて行くだろう。
でも、タバコの無害を示す研究も、気候変動はウソだとする研究もあっていい筈だ。むしろ無くちゃ困るものだ。問題は利益のために研究を歪めていないかであって、イデオロギーに基づくかではない※1。
は研究者として本当に重要なことであるし、特定のイデオロギーに肩入れし、恣意的なデータを示す研究者は研究者と言えないと思う。が、やはりそれは研究手法や統計解析方法などから批判されるべきであって、「研究者の立場がフェアでないからこの論文は信用に値しない」とすることは非科学だろう。
研究者がイデオロギーフリーであることもフェアな立場であることも難しいが、データに批判的に向き合うことは出来る。論文の著者は批判的にデータに向き合い、思想によって歪められていない研究結果を示すべきだし、読み手(査読者も含む)もまた思想に囚われずに研究結果に向き合うべきだと思う。
自分も(知ってる範囲の)社会学者のスタンスが好きか嫌いかというと、嫌い※2。だが、著者のスタンスではなく論文を読んで批判するのが、批判者としてのあるべきスタンスだと思う※3。科学を科学たらしめるのは論文ではくて、論文を評価する人間の存在だろう。
※1「利益のために研究を歪めていないか」なんかをチェックするために医学系の論文なんかだと、〇〇製薬に援助を受けました、と書いて利益相反をはっきりさせているが、社会学にそれが必要だとは思わない。
※2 一応論文を書いてる社会学者よりも、雑な理由で社会学全体をバッシングする奴のほうが嫌いである。単なる好き嫌いだがメディア露出の多い研究者は基本的に嫌いだ。社会学含め人文科学には興味がない。
※3 興味がないので論文を読みたくないし研究もしたくないから社会学という学問の在り方について批判も肯定もしたくない。
babelap 追記、イデオロギーについて「ほかでもやってるし」で免責すんなや。学問についての取り組みがイデオロギーで歪められてたら批判されるのはどの分野でも当たり前だ。社会学が影響されやすいならなおさら言われるわ
どの分野においてもイデオロギーと科学は切り離しようがない。社会学のような実社会を対象にした分野(※)では殊更イデオロギーフリーになることは難しいだろう。だからイデオロギーフリーかどうかを研究結果の価値判断の基準にするのは無理がある。「この学者は〇〇思想だから、この論文はゴミ」というスタンスを取るのはそれこそ、イデオロギーであり非科学だ。
研究結果、研究で得たデータがイデオロギーによって歪められ、異なる結論が出されるのは無論問題だ。それはどの分野でも問題になることであるが、「データが歪められていないか」というのは利益相反の有無からではなく研究手法の検証や再現実験などによって判断されるべきだろう。それが科学だ。
※自分の専攻が不幸にも政治的意味を持ってしまうことはままある。環境系などは特に顕著だが、最近では感染症系がいい例だろう。「コロナの危険性」だとか「〇〇な活動がコロナの感染拡大に及ぼす影響」だとかを研究し始めると、右のだ左だのがそれを政治的な意見のエビデンスとして使用し始める。専門家としての見解を少し喋れば、それが政治的な表明として受け取られる。メディアでの身の振り方に不慣れな自然科学者がうっかりテレビに出て無知な大衆にバッシングされるのは見ていて痛ましかった。左/右にとって都合がいい意見だから、こいつが言ってることだからで判断せず、疑念を抱いたのならクリティカルにソースとなる論文から検証すべきだろう。新型コロナは新参が多くて論文が読みやすいそうだから、これを機に物おじせずにGoogle翻訳機片手に読むといいんじゃなかろうか。論文を読む側も検証者として、科学の構成員である。(そういう意味で、「私は感染症素人ですが、皆さんと一緒にコロナについて勉強したいと思います」とサイトを開設した山中教授の行動は素晴らしかったと思う。)
日本の社会学はクローズドだというが、我々一般市民も、(金のために書かれた)出版社の本を盲信するのではなく、思想に基づいて雑に叩くのではなく、社会学を学び論文を読むことで、学問の裾野を広げ、日本の社会学をこじ開けていけるといいかもしれない。
(また余談が長くなったので終わる)
しかし、近頃はどうも原作ありきということを忘れているように思う。己の見たいものが原作で見られなかったからと言って、平気でアンチのような発言をするのはいかがなものか。
幻覚や妄想を形にするのは自由にやって良いのだ。それこそを楽しむための活動なのだから。
そうして逃げ道が与えられているというのに、何故いちいち文句を言う? 有り得ない、そんなことしない、解釈違い! 全員黙っとれ、である。
原作様にあやかって作品作りをしておいて、よくもまあ言えたものだ。解釈違いと言うのなら、二次創作を目にした原作者こそが言いたいものだろう。
作者が何描こうが勝手だけどそれを読み手に押し付けようとするなよ。感じ悪い。
hokkorikun 他人の持ち物で遊ばせてもらってるだけなのに、なんでそんなに偉そうなのか。
キャラクターの人格を認めない旧世代の人間ってまだ生き残ってたんだな。
mike47 キャラ作っただけって、それがどれだけ大変かわかってるの?
キャラを作ったことにどれだけの意義があろうがキャラを雑に扱うことは別問題なのはわかる?
どんなに魅力的なキャラを生み出そうが雑に扱っていい理由にはならないんだよ。
edamametomato こういう作品を消費してるだけの癖に原作(者)dis+俺のほうが面白いってイキってるオタクモドキ嫌い。
感想がほしいなら作風を知ってもらったり読んでもらう必要がある。
だいたいエロだと食いつきがいいし同人誌にしたときサンプルでもいい感じに見られる。
なので、
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二人の普段の様子
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何かしらの問題(やるだけやっといてくっつけない理由や何かしらの喧嘩)
↓
↓
それによって変化する関係
↓
↓
これでよく読まれるし問題部分や出だしの時点での関係をくっついてるくっついてない変えればバリエーション出るよ。
10万字あるなら女性向けなら3回男性向けなら5回くらいエロがあると体感的に食いつきがいい。
エロはフェチを出したほうが良かっけどキャラ崩壊しない程度に。
読まれたいって意味ではエロいれるのかなり強いのでこだわり無いなら入れたほうが楽。
首絞めと死体損壊が好きなので毎回なんとかねじ込んでるけど女性向けでも注意書きしてエロ多めにしとけばあんま怒られないしコアなファンがつくよ。
もしくは金を払うのもいい方法だよ。
ココナラやスキマで小説の分析や講評や評価やってる人を探して依頼するといい。
感想じゃなくて講評や評価寄りな。感想だとマジであいつら「面白かったです!(引用)が良かったと思いました!」で書きますって事前に告知してる文字数分埋めるから。
上手い人にあたると自分の文章の弱点や物語としての盛り上がりが足りない箇所、改善点を教えてもらえる。
同じ話を複数人に頼んで評価を貰い、ここは直したほうがいいなと納得した箇所は修正、納得できないとこは直さないままでアップするなり同人誌にするなりすれば上達もする。
第三者の目は大事だし、読み手はたいてい悪いとこは教えてくれないのでそういうの知りたいなら金払ったほうがビジネスライクでいい。
あとは友達ができるってか擦り寄りだけど感想を送りまくる。ジャンル上位の人の小説読んでどこがおもしろいのかそのためにはどういう流れを作ってるのか分析した上で感想を書く。
フルボイスというのは、作り手として誠実な作り方であることに変わりはない。
だが、ボイスを全部聞くのが必ずしも読み手としての誠実な姿であるとは限らない。
その理由を述べる。
その類のゲームに慣れ親しんだ人なら言われるまでもなく分かることだ。
このキャラはどんな喋り方をするのか。そういう概念モデルが、製作者の頭の中、声優の頭の中、プレイヤーの頭の中に順番に出来ていく。
読み手にとってその学習をするための最高の教材がフルボイステキストなのだ。
そりゃ一貫してボイスを全部聞く態度であれば、声優さんは喜ぶだろう。一言一句逃さず聞くオタクの愛ある姿勢は称賛に値する。
「流れ」が変わる、例えば強烈な感情を吐露する場面では、ボイスを聞かない人はまずいないだろう。
人間は賢い。未学習の領域だと察知すると、ちゃんと学習しようとする。
反対に、日常会話ではどのような話し方をするか、のような部分については早々に概念モデルが固まっているものだ。
このキャラでこの声優さんならこういう感じで喋ってるはず――と実際スキップせずに聞いてみる。自分が想像したものとかなり近いはずだ。
そういう経験を繰り返すと、テキストスピードを最速にして、冒頭の台詞が流れ始めたあたりで「ああ把握したもうスキップしよう」とクリックするようになる。
日常会話のように見えて、微妙なニュアンスが宿るような印象を地の文から受けると、指は止まるだろう。
こうした1ページスキップができるのは、人間に備わったすばらしい適応能力だ。
もちろんこれが行き過ぎて、何でもかんでもスキップしてしまうようになると寂しいものだし、もはや文章すら読まず絵だけ見る、ゲームパートだけ遊ぶという態度の人間を見るとけしからんと叱りたくもなる(抜きゲー等は別として)。
だが、ノベルパートでスキップを活用する大半の人間はそうではない。高度な適応の結果としていい塩梅でスキップしていると思われる。
そういう自分が持つ能力を信じない、疑り深い人が、時間のロスをも厭わず、それをむしろポジティブに「浸る」時間のように捉えて、最後まで聞き切るのだろう。
もう少し柔軟な人もいるだろう。自分の好きな声質、好きなキャラのボイスの時だけ、全部聞き切る慎重さを発揮する人もいる。これくらいになるとだいぶ多くの人が当てはまるはずだ。
しかし、全体的にスキップを併用して読むからと言ってどのキャラにも愛着がない、あるいは製作者へのリスペクトがないかのように謗られることがあるとすれば、それは想像力の欠如によるものだろう。
ましてや、下手に凝ってフルボイスで作るからテンポが悪くなるなどと作り手を責めるのは愚の骨頂である。
作り手は完全なものを用意した上で、個人個人のプレイスタイルに適した柔軟な消費ができると信じ、読み方を委ねてくれているのだ。