はてなキーワード: キャンバスとは
あの手の話全般、なんか別種の様々なインセンティブや「正しさ」が整理されずにごちゃ混ぜにぶちこまれてる気がすんのよね。
だから整理してみた。
違うとこあったら言って。
牧原さんは、「映画の中でろう者がどう描かれるか」という表象の面において、聴者がろう者を演じる際の違和感をこう指摘する。
「大きいのは手話です。手話が第一言語ではない聴者の俳優がやると、『身振り』のようになってしまう。手話は、表情や頷き、動きのスピードも含めた言語なので、手の形だけでは微細な感情を伝えることは難しい。監修がつき練習しても、数カ月で習得できるものではありません。
また、耳が聞こえる人と聞こえない人では、身体感覚が異なります。聴者がろう者と同じ感覚になるためには、本来であれば音が聞こえない状況で演じなければならない。
たとえば目の動き。聴者は音を通して人やものの気配に気づきますが、ろう者はそれができないので特有の目の動きがある。身体表現である演技において、そもそもの身体感覚が異なるため、ろう者から見ると不自然な動作や表情も多いです」
これはクオリティの話だよね。
わかる。
説得力があるし、そこのディテールをきちんと詰めたろう者描写は全然クオリティ変わると思う。
ある程度重要な位置にろう者キャラを出すならちゃんと取材して押さえるべきだと思うし
ろう者をそこに配役するのがいいこともあると思う。
フルメタルジャケットの軍曹役に本職入れるみたいにね。
アウトレイジビヨンドと最終章の韓国人フィクサー役にホンモノの人入れるみたいにね。
(ちなみに前者は軍曹という仕事自体が演技性があったので普通に軍曹としての演技は出来ちゃった。
後者は演技力より当人の醸し出す雰囲気が重要だったので普通に喋ってるだけでいい感じになっちゃった。
それぞれ成立する理由があるので本物ならただぶち込めば役者より成功するというわけではもちろんない)
「ろう者がみな手話ができるわけではありません。かつて日本のろう学校では手話が禁止されており、手話を学べる環境にいたかどうかも大きい。
今は人工内耳をつける子どもも多く、高齢者の中には、口話教育が中心だった時代にろう学校に通い、身振りだけでどうにかコミュニケーションをとっていた人たちもいます。
フィクション作品では手話を使うろう者が多いですが、その人の中にある歴史や生い立ち、文化に一貫性がなく、結びついていないような描写がみられます。
これは間違った〇〇像への危惧だよね。
クオリティを詰めていけば結構防げそうという意味で上の話とも繋がってると思う。
ただ、最新の正しいろう者像を社会に広めるのって映画の役割なの?というのは疑問。
そういう社会的な映画でろう者像がガバガバだったらそこはもっと頑張れよってなるけど
例えばバカアクション映画で「ろう者の凄腕の殺し屋」が出てきた時にこんなろう者いねーよ描写があってもそれは別にいいじゃん?
「毎回ターゲットに殺害予告する流儀だけど手話なので伝わってない」とかあったらちょっと面白いし。
そこで「実際のろう者は手話以外のコミュニケーション手段を使えますからこれはリアリティがない」とか言っても意味薄いじゃん。
つまり「フィクションに事実と違う変な描写出すのはいけない」というのは怖いから賛成できないかな。
「ステレオタイプでディテールの甘い描写は面白くないよね」っていう風に消費者側が進んでのことならいいけど(実際そう進んできたと思うんだけど)
ろう者キャラがすぐ手話使うのは事実と違うから許されん、はちょっとなーってなる。
だからディテールきっちり現実通りに詰めることが「正しいルール」やモラルになる方向性には明確に反対したい。
単に取材しないでディテール雑なだけ横着なだけってのは褒められることじゃないし
作品によっては適切に取材して細やかな描写入れた方が面白くなるのは間違いないとも思うけど。
ろう者を描く作品は、数としても少ない。さらに、聴者がろう者役を演じることで、ろう者の俳優の雇用の機会が奪われることにもなる。
一番わかるんよなこれ。わかりやすい話だし当事者として当然の交渉。
これをこれだけで言わず、上で見てきたような別の話と混ざった状態で論じる人が多いからわかりにくくなんのよ。
「ろう者の俳優は出演機会メチャクチャ限られるからろう者役ぐらい優先して回してもらわんと困る」
この話が通じない奴いないと思うぜ?
「黄色人種俳優は人気無くて出演機会限られるのに黄色人種キャラまで白人に取られては困る」
これなら超わかる。
利権確保運動ならそうだとズバッと言ってくれよ。別に反対しねーよ。
なんか謎の高尚風な理念と混ぜてモザイク状にして突っ切ろうとするから
かえってうさん臭さや表現規制の匂いを感じて警戒心持つ人が増えるんだよ。
「ハリウッドの日本人俳優、頑張ってるけど正直人気無くて苦しいねんから、
史実や漫画の日本人キャラは俺等の利権として確保したいんよ、本国の皆さんご理解ご協力おねがい!」
こう言われりゃ「なるほどわかった」「頑張れよ」ってなる日本人がほとんどだと思うぞ。
素直に言ってりゃ少なくとも愛国的タイプ同胞意識強いタイプの日本人はみんな理解&応援したのに
そこを正直に自分の利害&お願いとして言わずに変な進歩思想を装うから
本来応援してくれた人達すら「わけわからん頭でっかちな表現規制だ、またポリコレだ、コワー」って警戒&反対に回ってるじゃん。
あとちょい脱線するけど
日本人役や日本作品の役を中国系や韓国系やベトナム系に取られてるのは純粋に何なんだ?って思う。
日本人俳優もなんでアジア人内での奪い合いにはうんともすんとも言わないんだ?
白人に取られなくてもアジア人に取られてたら変わんねーじゃねーか?
「白人が取るのは大問題だけど日本人役を中国人がやっても同じ黄色だから問題ないっしょ」ってすげー差別してないか?
彼の話がたまにホッテントリに上がってきたときは一応全部目を通してるんだけどさ、
それがハリウッドではマイナスに働いて役を逃すって話、なんか笑っちゃうけど気の毒ではあると思う。
けどそこでMさんが逃してるのってつまり「日本人」を求められてる役じゃん?
アメリカにはいろんなルーツの人間がいてみんな「アメリカ人」として映画やドラマに出てるのに
なんで英語頑張ってるMさんでも「アメリカ人」として十分に求められずに
「日本人」役なんていうキワモノ仕事を拾いに行かなきゃいけなくなってんの?
おかしいのそこじゃね?
需要側やキャスティング側やアメリカ社会にまだまだ日本ルーツの俳優を「アメリカ人」と認めない意識(いわゆる疎外や差別の意識)があるか、
もしくはMさんに「アメリカ人」として溶け込むためのなんらかの要素が欠けてる(発音とか立ち居振る舞いとか?)か、
みたいな話ね。
逆に、「日本人」を求められてるとこではそりゃ醤油顔が選ばれるのしょうがなくね?
英語頑張っててアメリカに住んでる俳優が「日本人」を出せって求められる仕事。
そこで求められるのは異質さじゃん。
そこではなんか顔にエイリアンみがあるだとか、母国の伝統的な技能を持ってるとか、それが強みになるよね。
それこそすんげえアジア顔でそれが求められてスターになるなんて人もいるだろうしさ。
ちょっと昔の話だけどルーシーリューなんてアメコミに出てくるアジアン美女そのものな顔、
小さめの目は釣り目で頬が長くて頬骨高くて口もちょっと出っ張ってて
あれが人気出るのってしょうがない気がするんだよね。
美女3人組のセンターが白人金髪美女で隣にアジア美女置くならやっぱルーシーリューの顔は100点じゃん。
でもあれはセンターだって「金髪で青い目ででっかい口の明るい白人姉ちゃん」というものを求められてて
フェアに言ってアジア人だけが枠に嵌められてるわけではなかったと思うし、そういうエンタメもアリでしょ?元がバカドラマだし。
濃い目イケメン日本人のMさんにそういうステレオタイプ力はたぶんないんだけど、それもニーズや才能の一つじゃん。
ハリウッドでのMさんが憤るべきはMさんに「アメリカ人(ルーツ?ルーツは日本人だけどそれが何か?)」役が十分にないことであって
多かれ少なかれわかりやすさが求められる「日本人」役に跳ねられることではなくね?
「日本人」役ってもの自体が異国に対する特別な意識が含まれてのニーズなはずで、そこで求められるのは異質であることで、
ほんとに境界とか無くなったなら「日本人」役っていうオファー自体が無くなってるはずだ。
もちろん「アメリカ人」もなくなって、でもなんかしらの基準や審美眼で俳優は選ばれたり跳ねられたりし続ける。
Mさんが「何故この時代に「日本人」役なんてものがあるんだ!そういう注釈なく俺をアメリカの映画やドラマに出せ!」っていうなら話はスッと入ってくる。
けど「日本人」役に手をあげながらそこでステレオタイプや分かりやすさを求めるなって言うのはなんか矛盾を感じる。
そういう個性を出すつもりがない、求められたくない、っていうなら「アメリカ人」役を狙っていくべきで
そこでもし役の供給が不十分ならその時「アジアン差別だ」と声を挙げればいいしそれならまあわかる。
(ニーズとしてアジア系アメリカ人がそれ以外のアメリカ人より人気無いなら
それはすごいかっこいい天才的アジア人スターの大活躍などによって塗り替えられるまでどうにもならない気がするが…)
すると、日本が世界に出していく日本というものが多様化される。マイノリティの日本人の役者が食べていけるだけの仕事が生まれる。
そして日本の観客の人たちには、今までに与えられてきたもののクオリティがどれほど低いのか、実際の日本を反映していない、理想化された日本というものを与えられてきたのかということに気づいてもらいたい。
https://news.yahoo.co.jp/byline/saruwatariyuki/20220325-00287748
正直これ「ほんとかなあ?」ってなるけどね。
戦争起きるまでウクライナとロシアの違いなんかわかんない人世界中にごまんといたでしょ。
ウクライナ出身でも「ロシア」の方が通りがいいからめんどくせえ俺はロシア人だよみたいな人沢山いたでしょ。
アメリカのラーメン屋だってやってるの日本風を装った中国人や韓国人でしょ。
どこの国だっていろんなルーツや人種の人が住んでて実際モザイクだけど
それを出されて興味持ってもっと頂戴っていう人いないと思うよ。
絵具は赤とか青とか黄色だから価値があるんで、混色はこっちでパレットやキャンバスでやらあな。
絵具で灰色出されたらそっからどうにもできないよ。監督やディレクターは灰色の素材を求めてるかね?
ただでさえ他国に興味なんかないのに、灰色出されて「もっとくれ」っていう人製作者にも消費者にも多いと思えないよ。
アメリカで活躍する日本人よく合掌礼してるけどあれはもうサービスじゃんそういう。
そうじゃないんだよ、日本人はそんな挨拶しないよ、それはタイ人だよ、ってマジレスして誰が得するの?
日本に特別な興味持ったらそのときに実際のところを調べて知ればいいのであって。
これぐらいの解像度で他国を理解してるの、日本以外のどこの国も同じだと思うけどなあ。
でも
すると、日本が世界に出していく日本というものが多様化される。マイノリティの日本人の役者が食べていけるだけの仕事が生まれる。
ここはすき。
普通に「俺等が食うためにちょっと協力してよ」って言われれば素直に協力したい気持ちになる人沢山いると思うよ。
ハリウッドで日本人俳優が存在感出すようになれば国威発揚?的な嬉しさもあるしさ。
逆にポリコレっぽく「これが正しいからこうすべき」「これが最新の正しさだから」って言い方は
日本人に対して最悪の効果になると思うからちょっとアプローチ考えなおした方がいいと思う。
「マイノリティの日本人の役者が食べていけるだけの仕事が生まれる。」が目的なら
それを前面に出した方が絶対いいって。
なんか話が発散してきたのでまとめ
・利権活動ならわかるしそれなりに応援されると思う、「マイノリティ」にせよ「ハリウッドで頑張る同胞」にせよ
・「日本人」仕事はキワモノ仕事だから、本格派俳優は拾おうとせずに特別な才能(アジア顔やアジアムーブが上手い)あるやつに放れば?
・それにしたってなんで日本人役を別のアジア系に食い込まれてるのか謎だぜ?回し合ってるならいいんだけど
出張中、ちょっと文具関連の用事があって、次の予定まで時間があったので、東急ハンズは行ったことがあるのだが、行ったことのなかった世界堂に行ってみた。知ってる人はよく知っているだろうが、私はネットのニュースでどこかの支店が閉店したというニュースをうっすら覚えている程度だ。今調べたが「額縁や絵画はもちろん、画材・デザイン用品・文具などを豊富に取り揃えています。」というチェーン店。(確かに額縁は他の文具店と違って力が入っていた。)
ぶらぶらと店内を歩く。油絵具やアクリル絵具、パレット、パステル、水彩色鉛筆、ガラスペン、羽ペン、色とりどりの筆ペン、マーカー、サインペン、キャンバス、スケッチブック、模造紙、…
ペインティングナイフ(パレットナイフ)プラスチック製もあるのか! 使い捨てというのも合理的だ。
ふと目についたのが「スクリーントーン」。令和の時代にもまだ売っているとは。原稿用紙にしっかり転写するためのヘラのようなものも何種類も打っている。近くにはペンとペン軸がある。「Gペン」「丸ペン」「スクールペン」 タチカワ、ニッコー、ゼブラ
「スクールペン」。知識として触れたことはあったが単語として目にしたのは何年ぶりだろうか。
さまざまなパッケージでペン先が売っている。丸ペン3本セット、Gペン10本セット、100本セット、3種類のペン先セット、ペン軸とセット…
つけペンがあれば当然インクもある。「まんが用墨汁」という商品名をみて思わずにっこりしてしまう。ラベル付け替えただけでしょうね。
まんが用原稿用紙なんてものもあった。雲形定規、吹き出し用定規(?)
まんが用のセットボックスもある。小学生向けかな。無印(スタンダード)にデラックス。タイプ2。何が入ってるんだろ。
自分でもまんがを描こうと思った少年少女は多かったのではないか。わたしがこどもだった当時は(今は知らない)毎号投稿作募集と紹介のページがあって、デビュー、金賞・佳作などのランキングと講評、それにまんがの描き方が数ページ載っていた、ような気がする。〇〇先生は墨汁を使っています。◎◎先生は丸ペンで描いています。ケント紙を使うのが一般的ですが、△△先生は画用紙を使っています。のような情報も載っていた。もちろんまんがの描き方だけの単行書もあった。
そんな頃のことを懐かしく思い出した。しかし、全体的に何とも言えない黄昏感が漂っていた。ほぼ無客だったし。
欠品があったのは売れて売れてしかたがないというよりは、補充がないという感じで(先入観か)、充実した品ぞろえは売れ残りという表現が近いのかもしれなかった。現実に、書籍のコーナーには色あせた1990年代の参考書も並んでいた。
私の祖母は趣味で日本画をやっていた。増田の多くが知らないであろう、ほとんどが見たことがないであろう岩絵の具が何種類も彼女の家にはあった。ガラス瓶に入ったそれはとてもきれいだったのを覚えている。少女のころに日本画で身を立てたいと思ったことも少しはあったのかもしれないが、そこまでの才能か、熱意かがなかったのか、時代が悪かったのか、もちろんプロではなかった。
世界堂で見た、さまざまなアナログまんがの道具・材料。生き残りをかけて手を広げたであろう商品につく〇割引セールの文字。
おそらく、回転のいい商品はごく一部なんだろう。多色ボールペンを並べても、大型文房具店で買う人の方が多そうだし、最近はカラーのマーカーも100円ショップで多色展開しているという(必ず全色そろっているというアドバンテージは専門店にはあるだろうが)。毎年電動消しゴムを買う人がそうそういるとも思えない。
完全に滅亡することはないかもしれない。だがコンピュータでなく、世界堂でなければ手に入らない道具や材料を使う行為は、美大生を除けば、日本画のようにごく少数の人が続ける稀な趣味になっていき、世界堂の支店はだんだんと減っていく。
そんな未来。
☆はドラッグストアで買えるやつ
毛穴埋めるやつ
M・A・Cプレップ プライム ポア リファイナー スティック
Dior ディオール バックステージ フェイス&ボディ プライマー(日焼け止め下地としても)
☆Borica(ボリカ) 美容液マスクプライマー(要日焼け止め。下地としても)
○ラ ロッシュ ポゼ UVイデア XL ティント(色付き。下地にも)
クレ・ド・ポー ボーテ ヴォワールコレクチュールn(色付き)
LAURA MERCIER ピュア キャンバス プライマー ブラーリング(テカリ防止)
Dior ディオールスキン フォーエヴァー スキン ヴェール(トーンアップ)
DOLCE&GABBANA BEAUTY シークレットシールド プロテクティブ スムージングプライマー(色付き)
CHANEL、ランコム、RMK、シュウウエムラ、ローラメルシエ、イブサンローラン、ボビィブラウン、イプサ、THREE、クレドポー、SUQQU、アンプリチュード、エスティーローダー、MAC、Dior、ルナソル、NARS、アルビオン
練りタイプ
POLA ディエム クルール カラーブレンドパウダーコンシーラー
ファンデと合わせたり悩みに合わせてえらんでくれ
○Chacott フィニッシング パウダー
ハイライト
イヴ・サンローラン ラディアント タッチ シマー スティック
☆Borica ボリカ セラムマルチグロウデュオ(アイシャドウにも)
☆ケイト デザイニングアイブロウ3D(シェーディング、アイシャドウにも)
シェーディング
○Ririmew リリミュウ シアーマットシェーディング
☆ヴィセ アヴァン マルチスティックカラー CACAO(他に色展開あり、リップにも)
プチプラだとケイトかヴィセアヴァンかレブロンがエクセルのリップスティック
プチプラでは高めだけどUZUのブラウンは色もメンズでも使えそうだったよ
KATE一択
CHANELとかTHREEとかがメンズライン出してるからそれで揃えれば楽だわね。メンズライン出してないけどMACはパケが勝ち
言葉になったとき、一つのかたまりとして、声として、私の頭のなかをこえてでてくる。また、それを紙に書いた時、文字という紙に滲んだインクとなり、私の身体にあったものから、客体(オブジェクト)としての存在になる。また、私の口ずさむリズムは、音楽となり、その音楽は楽器に憑依して自立する。また、私の見た幻想、見たことない景色は、筆の色彩となり、キャンバスに映し出される。このように私の身体はどんどんと身体の外へ超え出てゆき、他者になっていく。そして他者化したオブジェクトは私に話しかけてきて、新しい対話が始まる。今私が文章を書く度に、書かれた文章は私にはたらきかけて、それが次の文章のいしずえになる。このようにして、私からかたまりとなって出ていったものは他者化し、それらは自律性をもっていて、他者化したもの同士が会話し始めさえする。
あの作曲家の音楽は、私の断片だったものの影かもしれない。私に内在していた音楽は、今、完璧な音楽を前にし、その愚昧さを恥じて消え入ったのかもしれない。辞書は誰かの美しい蒐集であって、これも、私の欠片だったものの憧憬かもしれない。映画は、私の想像を刺激する。だがこれもまた私の小さな欲望だったもの慰めなのかもしれない。このように、夢のような、美しいオブジェクトは、私だった残滓を忘れさせるには十分な効力をもっている。
私の絵は、私という鏡を通して映し出された像であって、絵は私が像をどのように写すかの観念自体である。現実のものを私の想像力によって、色として形として記号化し、物質にして、キャンバスの中に再配置する。観察する私の眼球は、私の呼吸や鼓動でも、動いてしまい定まらない。視点が動く度に陰影や形は変化する。描かれる対象もまた、描いている時間に、僅かずつに、変化していく。これを表現する絵の具の色数も足りない。形、色、大きさ、視点、どれをとっても、物理に筆が間に合わない。一方で、写真は機械的な仕組みによる鏡像だ。光は物質の構成に基づいて、減衰して反射する。カメラはその反射した光をレンズで捉え受光する。その瞬間は一瞬だ。物理が間に合う。完璧に設計されたそれは、美しい像を作り出す。
私の気づかない重さの違い、色の違い、大きさの違いがあるが、機械は私の感覚よりも雄弁にその違いを語る。私の想像力という鏡では写すことのできないものを機械は美しく写す。そして、私の周りには、機械で均整されたオブジェクトで溢れている。情景は写真として、あの時の記憶は音として保存され、CDとして。主観だった感覚は時計の刻む時間に、関係だった信頼は流通するお金に、手書きだった字も統一された活字になった。
たとえば、私の書いているこの文章には、私が覚えていない漢字も沢山ある。「朧げな記憶」という言葉を私のおぼろげな記憶だけを頼りには書くことができない。いまこうやって、パソコンを使って漢字変換の機能を私が使っているから、こういう、ひらがなばかりではない少しかっこつけた文章を書くことができる。また、私はとてつもなく方向音痴なのだが、グーグルの地図があるので、初めていく場所でも戸惑うことなく辿り着く。このように、私の漢字を書く能力、土地勘、すべてが機械は私を上回っている。私の拙い感覚や想像力は、より優れた機械によって、どんどんと私の身体の外の機械へと挿げ替えられていく。私以上の他者、に私は私以下にされてしまう。
いつから物質に、システムに、メディアに、人が合わせ込むようになったのだろう。機械を作る人は、正確に、速くなければいけない。機械を作る時、機械に私が作られる。たとえば、漫画のなかの天才に、本当の天才はいるのだろうか。漫画のなかの天才は、漫画のなかの表現に制約される天才だ。もっとも、天才的な数学の理論を漫画に書くことはできない。それは漫画の世界を超えてしまうからだ。もし本当にその理論があるのだったら、漫画ではなく現実に論文として発表される。ではどのように天才性を描写するか。簡単な方法には、周りより頭の回転が速いという形で、描写される。すると、漫画の表現を真に受けて、そのうちに私たちは頭の回転が速いことが天才だと信じるようになる。語りえないものは語りえないので、語りえないまま、失われていく。語りうるものだけが、語られて、語りうる媒体を培養の養分として生き残る。ミュトスはロゴスの最後の良心のしかただったのかもしれない。
今日、二人でランチをしながら聞いた話だ。モンブランが流行っているという。賞味期限が3分だと店は言うらしい。立って食べる席しかないという。店員が動画や写真をとってくださいね、というらしい。多分、SNSへの投稿を期待しているのだろう。急いでモンブランを食べるらしい。それも立って食べるのだ。一体いつから人間はこんな機械みたいに急かされるようになったというのだ。モンブランを立って食べることを誰が望んだのか。機械が速くなればなるほどに、人間まで速い物質にさせられる。でも私は立ってモンブランなんて食べないし、流行は追わない主義だから、と、私は機械を速くする研究をしながら、私はそういう人たちを想像して、侮蔑的な目で見ている 自分に、 分裂しそうになる。
私以上の誰かにすげ替えられていくうちはまだよかったのだ。私が私以下の誰かにさせられるうちはよかったのだ。私以下の機械に私にいつのまにかすげ替えられてしまっている。私が私以下の機械にさせられてしまっている。
私が高校生の頃、機械が歌を歌うようになった。抑揚のなさ、透明な高音、少しの切なさに心が惹かれた。これまで聞いたことがなかったけれど、すぐに耳に馴染んだ。いまは、人間が抑揚のなく、透明な高音で、少しの切なさを歌っている。
久々に実家に帰って、宇都宮駅に着いた、おばあさんが駅の改札口でずっとICカードを押していた。ずっとICカードを押すけど、ゲートは開かない。どうせすぐに駅員さんがくるかなと思ったら来なかった。おばあさんは何回も何回もカードを押すけど、異常音だけがなって、何も起きない。声をかけたらおばあさんはカードを二つ持っていて、一回開いたのに、動くのが間に合わなかったのだと思う、もう一回おばあさんはカードを押してしまったので、異常になっていた。もし、砂漠のなかで、このおばあさんと、ゲートだけだったらどうしよう。砂漠のだれもいないところでこのおばあさんとゲートだけの光景が妙に浮かんでしまって、悲しくなってしまった。
「あら、ゲートさんにもう少しやさしく押したら今度は開くかしら。」いいえ。機械です。
「そんなこと言わないで、私のこと覚えているでしょう?」いいえ。機械です。
「次は、こんな当て方はどう?」いいえ。機械です。
毎日同じ動き、同じ場所に同じ条件なら、同じだけの光を。反復、振動、円周。変わらない日々。計算とぴったり合う動き。
放物線の、上に凸の、エネルギーを与える。日射強度時間積算量。青い、レイリー散乱。純粋大気の青さと太陽の完璧な円周運動に軽い目眩。
帰り道、暗い住宅街で、なにか声が、聴こえた。
女が家の中でさめざめとなく声だった。私はその家の前で足を止めて聞き入ってしまった。
良い声だった。弦楽器の奏でる音楽のようだった。もっと聞いていたかった。さめざめと泣く声を。
朝、歩いて3分の駅に向かう。
歩道の上に猫のシルエットがあった。ダンボールがかぶせてあった。
猫はダンボールに塗られた粘着質にべっとりと体毛をまったく密着させて、うごけなくなっていた。
猫に挨拶した。しゃがんで、猫を見た。猫は逃げない。許可をとって、前足からゆっくり体毛とその粘着質を剥がしていく。猫は泣く、が、たしなめる。ようやく前足だけ自由になった。
おじさんが、背後から歩いてきた。いつも通る横断歩道のおじさんだった。私の電車が間に合わなくなるのを心配してくれて、なにかあったのと声をかけてくれた。
手が粘着質にまみれていた。トイレは誰かが使っていたので、手をお化けみたいにして、トイレが開くのをまっていた。
でも次の日、おじさんのやさしい嘘。「うん、大丈夫、剥がれたみたい」
でも、私は指6本、10分程度の汚れ分しか助けられなかっただけのこと。あの猫は私のたった10分の汚れ、私はあの粘着質、あの粘着質は猫。
みんな、人には言えない複雑なストーリーを抱えて生きている。
あなたの隣にいる、幸せそうなあの子にだって別の顔があるかも!?
File1:東京が生んだモンスター
―2年前ー
ザ・リッツ・カールトン東京の45階にある『ザ・ロビーラウンジ』。
死ぬ気で仕事を頑張り続け、気づけば39歳。経営者として成功した今の僕は、ラグジュアリーなこの空間が似合う男と言えるだろう。
だが、僕の目の前にいる女性は、洗練されたこの場所には不釣り合いで、彼女の存在だけが浮いて見える。
「ここのアフタヌーンティー来たかったんです。でも、1万円もするからなかなか来れなくて…。インスタに載せたいから写真撮ってくれますか?」
キラキラした目をして手渡されたスマホの画面は、派手にひび割れていた。
カメラに向かって微笑むその女性は、小皺が寄ったブラウスにミニスカートを合わせ、膝の上に合皮のバッグをちょこんと乗せている。
「家賃3万円の東陽町にある社宅に住んでます。配属は、虎ノ門支店なので、本当はもっと都心に住みたいんですけどね…」
たった1万円のアフタヌーンティーに目を輝かせ、屈託のない笑顔を見せてくれた優里香(23)を愛おしく感じた。
一体なぜ!?39歳男が、純粋なOLを地獄に突き落とす…男の闇深い本音とは
地獄へのカウントダウン
「僕、優里香ちゃんのこと、すごく気に入っちゃったから、特別に3万円あげるよ」
「え?お茶だけで、3万円もくれるんですか?そんな…いいんですか?小日向さん優しすぎます…」
メガバンクに勤めていて手取り16万円程度の彼女は、戸惑いつつも目を輝かせた。
「いいよいいよ。優里香ちゃんは、それだけ価値のある女性なんだから。自分を安く見積もっちゃだめだよ。これで表参道のサロン行って髪のトリートメントでもしてきなよ。もっと、自分にお金をかけなさい」
「そうだ、東陽町からはるばる六本木まで来てくれたことだし、せっかくだからミッドタウンでお買い物もしよう」
ワンピースはストラスブルゴで、靴はマノロ ブラニクで、鞄はヴァレクストラ……。
「わぁ、こんなにいいんですか?なんだかシンデレラになった気分!会社の同僚は、お洒落な子ばかりだから…これでやっとお食事会に誘ってもらえるかも…!」
僕は、キラキラと目を輝かせて心の底から感謝してくれた彼女のこの日の笑顔を、一生忘れることはないだろう。
「いいかい優里香ちゃん、縫製の粗い服、合皮のバッグ、ビニールの靴なんかを買うのは金輪際やめなさい。安い女に見えるよ。僕がサポートしてあげるから質の良いものを身につけなさい」
「手取り16万円じゃ東京で暮らしていけないでしょう。月30万円はどうかな?
でも、それを貯金するような貧乏くさい真似はしちゃだめだよ。洋服や化粧品や友達との遊びで使い切って、若い時間を楽しんでね」
それにもかかわらず、この程度の小娘に、お茶だけで3万円を渡し、会ったその日に50万円相当のプレゼントをし、新宿にある家賃30万円のマンションと月30万円の生活費をあげる男は、この世に僕しかいないだろう。
もちろん、下心なしに、女に金品を与える男はいない。
大抵の男は、若い女の体が目当てだが、僕にはもっと“壮大な目的”があるのだ。
『東麻布 天本』、『長谷川 稔』、『薫 HIROO』、『三谷』、『カンテサンス』…
会うたびに、客単価5万円ほどの一流店に連れて行き、彼女の舌は順調に肥えていった。
お世辞にも美人とは言えない彼女をおだて続け、分不相応な要求にも笑顔で応え続けた。
東京に染まりきっていない純朴な女は、真っ白なキャンバスのようなもの。彼女の思考や価値観を変えることは、赤子の手を捻るほどたやすかった。
彼女のプライドと欲望はみるみるうちに膨れ上がり、たった1年で傲慢なモンスターへと成長した。
『この間同僚に誘われたんですけど、場所が居酒屋だったんで速攻断りました。居酒屋とかありえないですよね〜。同世代の男とは、価値観が合わないわ』
『ヒールが擦り切れてる女性って下品。ピンヒールでコンクリートの上なんて歩くもんじゃないですよね。タクシー乗ればいいのに』
『パスタランチが全然美味しいと思えなくて…友達とのランチは、ダイエット中って嘘ついて最近パスしてます。あ、今度『エクアトゥール』いきた〜い!予約できます?』
『若い時間って有限なのに、手取り16万って割に合わないですよね?だって私の1ヶ月って16万以上の価値ありますもん』
『金融機関に勤めているから、高価なブランド品を持ってると怪しまれて色々詮索されるんです。妬みですかね?小日向さんのサポートがあるから、もう会社辞めようかな』
『お食事会で出会ったお友達がローズサクラのバーキン持ってて、すごく可愛かったの。お誕生日プレゼントに欲しいなぁ♡』
遂に、闇深き39歳男が、純粋だったOLを地獄に突き落とす…
フィナーレ
「優里香ちゃん、24歳のお誕生日おめでとう。バーキンが似合う女性になってね」
しかし、彼女はもう、“ありがとう”さえ言わない女に成長していた。
機は熟した――。
「優里香ちゃんごめん……。実は会社の資金繰りが苦しくなって、もう君のサポートはできなくなったんだ。マンションも既に解約したから、今月末には出ていってもらうことになる」
「え、ちょっと待って…いきなりすぎる。手切れ金として、引越し費用くらいはちょうだいよ」
彼女の顔が、一瞬にして青冷める。この時の哀れで惨めな女の顔は、一生忘れることはないだろう。
「ごめん…本当に苦しくて。一銭も余裕がないんだ。君への最後のプレゼントはバーキンだよ。でも君みたいな“素敵な”女性なら、サポートしてくれる男性はすぐに見つかるよ!」
「小日向さんみたいな男性は、他にいないよ…。小日向さんがいないと私、生きていけない…」
ラ・トゥール新宿の26階から見える煌びやかな東京の夜景を背景にして、涙ながらに僕にすがりつく彼女の姿は非常に趣深かった。
「なにそれ、どういう意味…?ねぇ、小日向さん…待って、行かないで…」
◆
あれから数ヶ月が経ったが、彼女からは毎週のように連絡が入る。
『小日向さん、お元気ですか?久しぶりに会いたいです』
『私どうやって生きていけば良いの?小日向さんに見捨てられたら、私死ぬしかないよ』
Bang & Olufsenのスピーカーでモーツァルトのレクイエムを流し、彼女の変わりゆく表情を思い出しながら飲む酒は、格別な味がした。
彼女はもう二度と、家賃3万円の社宅に戻ることはできないだろう――。
彼女はもう二度と、手取り16万円の仕事だけで生きていくこともできないだろう――。
消費性向は、絶対所得水準だけでなく、過去の最高所得に依存するという説もある。
人間という生き物は、生活習慣を急に変えたり、生活水準を簡単に下げたりすることができないのだ。
僕が与えたブランド品を売ったって、靴や洋服のリセールバリューは恐ろしく低いので、端金にしかならない。
唯一換金性があるのはバーキンだが、せっかく手に入れた富の証をあっさり手放すとは思えない。
美人でもない彼女が、僕が与えたような生活を維持するためには、マトモな仕事だけでは難しいだろう。
とにかく、身も心もすり減らして堕ちていく未来が待っているはずだ。
大金を稼ぐ辛さ…
社会の厳しさ…
東京を生き抜く大変さ…
それらを身を持って知って欲しいと思う。
そして、彼女はもう二度と、同世代の男と純粋な恋を楽しむことはできないだろう――。
同世代の男が必死に仕事をして買ったプレゼントにも、頑張って連れて行ってくれたレストランにも、ワンルームマンションのシングルベッドでの行為にも…、喜ぶことも満足することもできない。
価値観が合わないと言って切り捨てた同世代の男たちの年収は、あと数年もすれば、右肩上がりに増えていくというのに……。
彼らの価値に気づく頃には、マトモな男たちは、マトモな女とゴールインしている。
分不相応なブランド品を身にまとい、分不相応な高級レストランに通い慣れている女を、マトモな男は選ばない。
僕以外の金持ちを漁ったとしても、ここまで傲慢なモンスターに仕上がってしまった彼女を選ぶ男はどこにもいない。
僕が、手に入れることができなかった同世代同士の健全な恋愛を…、幸せな結婚を…、女から奪ってやりたかった。
学生時代から付き合って結婚を考えていたのに、価値観が合わなくなったと言って、年上の金持ちに乗り換えた初恋の女…。
純粋だったのに、東京に染まって変わってしまった同郷の女たち…。
お金がないからと、学生時代の僕に見向きもしなかった同世代の女たち…。
すべての女が憎くて堪らない。
僕はずっと苦しんできたのに、努力して金を手に入れたのに、女はいつだって虫が良すぎる。
https://tokyo-calendar.jp/article/21326?ref=new
2021/06/10 05:05
時は来た。それだけだ。
全裸生活は健康に良い!ミニマリスト!マインドフルネス!ダイエット!みたいな文言があちこちに踊る。非常に怪しかった。
しかし結果として俺は5kg痩せ、身体の見た目もよくなり、姿勢も改善した。
部屋の中にちょっとした鏡を増やし、ふとした時に自分の体を意識することができるようにしたのも奏功したのかもしれない。
服装でのごまかしがなくなるので、自分の本来の姿を直視し続けられるようになる。
また、地味にすぐに体重を計れるというのも大きい。体重を計るときは服の差分をなくそうと「同じ服装」とか「いちいち服を脱いで計る」とか「お風呂前に」と工夫するが、全裸だとそんな工夫はいらない。ただ体重計に乗るだけだ。
「今のごはんでこれだけ増えるんだな」「小腹減った時はこんなもんなんだな」とすぐわかる。手軽さに勝るものなし。体重を毎日計るのに苦労していた昔の自分が嘘のようだ。
便意、即、排便
パンツマンですら成しえない圧倒的なスピード感に世の便秘マンは慄くだろう。
15秒でうんこは終わるのだ。つまり、スマホをもって入る必要がなくなり、スマホも綺麗に。
トイレ掃除も全裸なら「服が便器の水で汚れないように…」と気にする必要もない。終わったらシャワー入ればいいだけだ。
またお腹を締め付けないので便通が良くなった。
「トイレ行きたいけどベルト外してズボンおろして…ってめんどくさいから我慢…」ということもなくなった。
うんこした後にそのままソファとかに座るの?と抵抗がある人はいるだろう。
ふわふわのクッションの上にうんこ直後に座れるのか、疑問にも思うだろう。
だが問題はない。
便意、即、排便を体得すればすなわちうんこのキレが良くなっているということとなり、肛門は意外と清潔を保てる。
これは完全にイメージの問題なので、現実的にうんこがソファについちゃうということはない。
どうしても気になるという人は、おしゃれなブランケットを一枚用意すればいいだろう。
その一枚を外付けの服のように使う。
椅子に敷いたり、ソファに敷いたり、郵便配達の対応に体に巻き付けて出たり、夏は汗を拭いたり、体温調節に使う。
当然寒いので、身体を温める食事を意識的に採るとか、部屋の暖房をケチらないという方法をとる必要がある。
とはいえ、俺は「真冬の半そでアイス」な北国に住んでいるので、そもそも部屋の断熱性能が極めて高い。
なので夏を旨として作られた本州型住居では大変かもしれない。
全裸生活でかなり節約ができるので、浮いた部分をまずは暖房に回す、とした方がいいかもしれない。
汚れたら拭くし、汗かいても蒸れないからそんな臭わないので清潔を保てる。
毛が気になったらすぐ剃れる。
蒸れた下着と服に、臭いと菌とバクテリアを飼っている常人にはない清潔さがある。
着ようが着まいが毛は落ちる。
全裸で生活すると掃除に気が向くから、むしろ落ちている毛を発見する機会は減る。
そんな気になるなら剃ればいい。髭剃りの勢いで胸毛が逸れる。それが全裸。
あらゆる毛を剃ってみるのもいい。全裸なので服に当たってチクチクするということもない。
寝心地は変わるかもしれないが。
外出着のみ必要になるので、ちゃんとお金をかけていい服を着れる。
コンビニに行くのに服を着るのが面倒になるので、行かなくなる。
自炊の機会が多くなる。
これを楽しめる人には最適だろう。
全裸・オン・ズボンの生活だ。下着による蒸れもなくなり、むしろ清潔感は増す。
そもそも普段からズボン履かなくなるので、たまにズボンをはくと色々と迂闊になる。
その代表が、チャックの上げ忘れだ。
常人なら「あの…開いてますよ…」と耳打ちされて「あっ…」で済むが、全裸はそうはいかない。
全裸生活者はチャックが開いていると通報、逮捕、収監…人間の終わりが見えてくる。
そこで、ズボンのチャックは全て縫い付けて開かないようにしておく。
サイズがきつめの場合は、2/3くらいまでしか開かないようにしておく。トイレは座ってすればいい。おしっこした後はちゃんとトイレットペーパーで拭き取ればズボンは汚れない。
あとはお腹の冷えに注意して下痢を防ぎ、括約筋を締めて緊張感をもって姿勢よく歩く。一石二鳥である。
ズボンはこまめに洗う。たまの洗濯なんだからたいして辛いこともない。
よく考えたらたいしたデメリットにもならないな。
「生理の予感が来たら素直にパンツを履く。煩わしいがこればかりは仕方ない。
とのこと。
彼女も何も言わなくてもいいし、俺も気が楽だ。
油はねごときは大したことはない。耐えろ。という身も蓋もない結論にはなるが。
「体に油がはねて熱い」ということは、つまり「普段からそれだけの油を身体に浴びている」ということになる。今までは服が油を吸収してごまかされていただけだ。
身体に当たる分の油が、周辺にも飛び散っていることになる。
だから、料理中に油がはねて熱い、というのは「これ終わったらキッチン周りを軽く拭こう」という動機付けにもなるのだ。
全裸で料理するとキッチンが綺麗になるという現象が起きるわけだ。
全裸のキッチンを見る機会があれば見てみるといい。だいたい綺麗のはずだ。
炒め物はなるべくやめてオーブンで焼くとかすると、油も減らせる。
深い鍋を使えば油はねも軽減できる。
揚げ物は服を着ててもやらないんだから、別にどうということもない。
ならない。
とはいえ、これは個人差は大きそうだ。うちはそうだというだけ。
日常生活でスキンシップの頻度が上がるので、精神安定にもいい。
セックスしたいなぁというときは、おしゃれな下着を履いたり香水を付けたりする。全裸よりもセクシーになる。
それとキンタマが蒸れないので、精子が死ぬことがない。よって精力は上がる。
生産され過ぎて辛くなる時もあるが。
行く。
水でも飲めば収まる。そんなもんだ。慣れる。
身体のどの部位が動いているのか、収縮しているのかダイレクトにわかるので、トレーニング意識が高まる。
ちんちんやキンタマのポジショニングに最初は苦労するかもしれないが。
部屋にいる時でもネックレスやブレスレット、腕輪、アンクレット、トライバルな腰ひも、指輪を付けるようになる。
タトゥーにも興味が湧いてくる。
外出着は普通に着るが、全裸生活でアクセサリーの傾向が変わるので、人によってはオシャレの方向性は変わるかもしれない。
また、部屋で使うブランケットやシーツもこだわるようになり、シーツはサテン織りのものを使っている。
彼女は反物に目覚め、反物を中古で買ってきてそのままブランケットのように使っている。
めちゃくちゃ綺麗だ。
反物をそのまま巻き付けて着物のように見せる着装という方法が普通にあるらしく、それを勉強したりもしている。
タトゥーだとちょっと消せないのが辛いので、ボディペイントをやってみた。
これが面白い。
芳一はチンコにも書いてもらったってことになるが、意外と可能であるという結論に達した。
インスタやSNSに写真を上げる時、鏡面ステンレスに全裸が映り込む危険がある。
全裸になることにより、一番変化を実感したのが部屋の清潔さだ。
部屋が服のようなものなので、出来る限りきれいに保とうと意識が向く。
机を拭くくらいの気軽さで体も拭ける。
体が触れて不愉快な場所を作らなくなるので、整理整頓も上手くいく。
体感として、部屋に占める布の割合が半減するので臭いも籠りにくくなったように感じる。
コロナ禍では宅急便も「ドアのところに置いといてください」が通用するようになったので、全裸生活を始めるには最適の時代だろう。
始めろとは言わないが、始めてもいいかなという人はやってみてもいいと思う。
合わない人はいるだろうが、合う人には合う。
裸になろうぜ。
はじめて本格的な女装をした。
ハンネと紐付けて公開するのは恥ずかしいので、ここに書き残す。
まず――楽しかった。
今回はZARAとGU(とドンキ)を見て回ったんだけど、男性のそれと比べてシルエットからして選択肢が多い。スカートうらやましい。タイツもいいよね。
「見せる」「隠す」の選択肢の幅が広いのもよい。男性的なところを隠しまくるのがそんなに不自然じゃなくできる。
結局今回は、ふわふわのブラウスにオーバーサイズのニット、下は長めのスカートにグレーのタイツというコーデになった。隠しまくりだね。萌え袖ずっと意識してたよ。
お化粧も楽しいねあれ。まあ今回は自分ではいじってなくて、女友達にやってもらったんですが。自分の顔をキャンバスにしてる感じ。
カラコンとかつけまとかアイメイクとかリップだけでだいぶ印象が変わる。
下半分はマスクつけちゃえばどうにかなるから、アイメイクだけでも練習してみたくなってきた。
あとね、自撮りが楽しい。加工アプリ使うJKたちの気持ちがわかったよ。あれかわいいもん。
自動でかわいくしてくれるのマジすごい。50枚くらい自撮りしちゃったもん。色んなアプリ試してみたくなるし、ライティングとか衣装とかメイクとかウィッグとか色々変えてやってみたくなっちゃった。
フレンチ・カンカン、というかラインダンスとの出会いは、おそらくは文明堂のCMだ。それから「ドレミファソネットどしたらできるの」で有名なso-netのCMだ。なぜかこのCMではおじさんの脚線美を見ることになるのだがそれはさておいて、Youtubeで検索すると今でも天国と地獄に合わせて踊る動画を確認できる。
本題に移ろう。Can-can dressについてはウィキペディアではおおよそこのように述べている。ドレスは基本的に何層にもなった大量のフリルがついていて、当時の下着の上に縫い付けられていた。脚は黒いストッキングや網タイツで覆われていた。つまり、レオタード姿のソネットのCMはフレンチ・カンカンではないのである。足の動きの速さからしてまるで違う。
衣装ではなく、カンカンダンスそのものについては、日本語版のウィキペディアと英語版のウィキペディアで書いてあることが若干違う。おそらく英語から訳したときの版が違うのだろう。
両者の記述を比べてみたが、フレンチ・カンカンにおける見せパンの起源はかなり曖昧らしい。足を思い切り上げてスカートの中が見えてしまう動きは、ショーの場では1820年代にアクロバット的な動きで知られるCharles Mazurierがバレエの大開脚を取り入れたことにさかのぼるようである。初期のダンサーは娼婦やセミプロの役者だけであったのだが、1890年代になるとムーラン・ルージュではトゥールーズ・ロートレックの絵で知られるLa Goulue(食いしん坊さん、的な意味)やJane Avrilなどの高給を取るスターが生まれた。La Goulueのページでは当時の衣装とセットの見せパンが確認できる。これらのスターの生活は華やかだが晩年は不遇であることもあった。この二人もビジネスの失敗や大恐慌で財産を失い、寂しく亡くなっている。
さて、カンカンは足を高く蹴り上げるので、当然スカートの中身が丸見えになる。しかも、それや当時としてはよりスキャンダラスであった。というのも、当時の下着であるpantalettesは衛生上の理由からクロッチ部分が開いていたからである。要するに性器が丸出しになるわけである。もっとも。そのあとにこんな記述がある。カンカンのための特別な下着を用いていたという記録はないが、ムーラン・ルージュでは下着の露出は禁じられていたことになっていた、と。どうもこのあたりの記録は曖昧というか[要出典]をつけたくなる箇所が多い。ウィキペディアは普段は自然科学の記事を読むことが多いが、そこよりも曖昧な記述が多い印象だ。文体もなんだか違う。
ところで、今のフレンチ・カンカンとして知られる、大人数の女性が10分以上高度な振り付けを続けるスタイルは、1920年代にアメリカで人気が出たスタイルを逆輸入したものでそうである。
実際、19世紀末からに20世紀初頭にかけては女性の脚部を見せるということでかなりスキャンダラスなものとしてみられていた。また、陰部を覆う白い生理用(?)下着と黒いストッキングの対照もエロティックだとして見られていた。さらに、体を折り曲げてスカートを後ろからまくり上げ尻を見せる動作もあったという。先述のLa Goulueはこの芸で知られていたとのこと。また、前の席の客の帽子を蹴り飛ばすほど近づいて、スカートの中身を見せることもあった。もっとも、顔を思い切り蹴られる危険もあったのだが。
結論から言うと、当時のフランスに見せパンそのものであったかどうかはわからないが、パンツが見えることは覚悟の上だった、ということになりそうだ。女性器が見えていたかどうかまでは根拠が怪しい。もっとも、今ほど表現が自由でなかった当時のこと、そんなことを文学や絵画で記録に残せたかどうかは怪しいものだ。ちなみに女性器を堂々と描いて当時の偽善的風潮に反発したクールベの「世界の起源」が1868年、ヌードでスキャンダルを生んだ「草上の昼食」が1863年である。
パリにはいくつも有名なキャバレーがあり、それは近現代の芸術や芸能に多大な影響を与えてきた。たとえば、ムーラン・ルージュで活躍した人物としてFrank SinatraやCharles Aznavourがいる。それらのすべてをここで述べるのは大変なので、地球の歩き方に広告が載っていたと記憶しているものをピックアップして簡単に述べる。子どもの頃、トップレスの女性が旅行ガイドに載っているのを見てドキドキしていたものだ。もっとも、その女性の姿はせいぜい五ミリくらいの大きさしかなかったのだけれども。
学生時代にパリを訪れたときには、そこには寄らなかった。一日中美術館で過ごしてぐったりしていたし、まだ女性経験がなくて図々しくなれなかったからだ。今となってはいい思い出である。
赤い風車で名高いキャバレーで、ここを舞台にした映画は数知れず。トゥールーズ・ロートレックの作品群でも有名。著名なダンサーも多く、全員を紹介するのはとても無理だし、別のキャバレーにも出演していて、キャバレー別に紹介するとややこしくなるので端折る。
ところで、ウィキペディアだけからはヌードがどの程度ショーに盛り込まれていたかはわからないが、1893年の舞踏会に裸の女性がいたことがスキャンダルになったそうである。なんでもヌードモデルが活人画として周囲を歩き回り、裸の女性が深夜にテーブルに立っていたとのこと。一方、英国の劇場のように活人画、すなわち生きた人間で絵画を再現する目的としてならヌードは猥褻ではない、という意識もあったようである。例えば英国では劇場にヌードが現れたとき、当局が1930年代に裸の女性が動くことを禁じた。この禁令をかいくぐるために、モデルたちは活人画のように止まったままとなった(ストリップの記事を参照)。また、戦後日本でも「額縁ショー」と呼ばれるストリップのさきがけのようなものがあった。動かなければ猥褻ではないという謎理論がまかり通っていたのである。当時のGHQが何を意図していたのかはよくわからない。
これまたよくわからないのがゾラの1880年の小説「ナナ」では、ヒロインがヴェリエテ劇場でほぼ全裸を披露して観客を魅了するという場面があるのだが、実際のところどうだったのだろう? 本記事はカンカンについてなので劇場のヌードについては語りつくせないので、今後の課題としておきたい。
1889年開業、1915年に一度焼失するも再興し、ドイツ占領時代にも営業を続けて今に至る。
モネの絵画、「フォリー・ベルジェールのバー」の舞台としても知られる。また、黒人系の女性Josephine Bakerが活躍したキャバレーとしても知られる。バナナ型のスカート以外はほとんど身に着けていないエキゾチックな姿がオリエンタリズムの流行した当時ヒットしたのだが、後にその恰好が人種差別的だとされるようになり、そこからネグリチュード、黒人意識の発展にも寄与した。また、彼女は黒人の人権活動家としても知られている。最近、グーグルが彼女の生涯を記念するドゥードゥルをトップにした。
1869年に開業、1872年に今の名前になる。けばけばしい衣装で知られ、時としてヌードも披露されることで知られる。
映画「ファイアbyルブタン」で有名。セミヌードを含む映画の公式予告がyoutubeに上がっている。身体をやわらかな特殊素材のように扱ったショーは性欲やエロスの向こう側に行ってしまっており、すごいものになっているとしか言えない。リンクを貼ったら怒られそうなので検索してください。もちろん、そこまで独特なものではなく、もっとわかりやすいショーもある。
ユニークなのはそのショーの一部をyoutubeの公式チャンネルで公開していることだろう。かなり古い白黒のものまである。それと、公式ホームページ見ていたら驚いたのだけれども、リド自体には12歳以下の子どもでも入場できるそうである。ヌードやトップレスがないショーならOKなのか、それとも芸術のヌードならOKなのか。フランス映画、年齢制限がないやつでも割と普通におっぱい出てくるし、表現規制の国ごとの温度差を示す実例であるのかもしれない。
1946年開業。1920年代の人工的な砂浜をその前身とする。
「ストリップティーズ」の項目によれば1960年代に全裸のショーが行われた、とある。
現に、創業者であるアラン・ベルナルダンは芸術性を伴った女性のヌードショーを見せるという着想に至ったそうで、要するに最初から全裸である。
とはいえ、ただの全裸ではなく、巧みな照明技術により女性の裸体をキャンバスのようにとらえ、万華鏡のようなカラフルかつシャープな模様をダンサーの肌に映し出していることに特徴がある。ただ脱いだだけではないそうだ。1951年開業。
天国と地獄の曲を初めて聞いたのは文明堂のCMと、音楽ファンタジーゆめでだ。後者はCGの黎明期であったせいかサイケデリックな表現が多く、当時の感覚としても幾分薄気味悪いと同時に、今から振り返ってみると技術の未熟さ(失礼!)から来るアルカイック芸術のような独特の魅力があったように思われる。
ところで、この曲は地獄のオルフェとしても知られている。タイトルからすると、ギリシア神話のオルフェウスが死んだ妻を冥界から取り戻そうするとする話のはずだ。なのに、なんでこんな軽快な曲なのだろうと思って調べたら、ギリシア神話のパロディ的なオペレッタだからだそうだ。なるほど。
こうしたレオタード姿のラインダンスはカンカンではないと述べたが、それではこれはいつからあるのか調べたい。おそらく日本国内では宝塚歌劇団と関係している。また、バーレスク的なものとの関連について知りたく思う。そもそもバーレスクとは何か、僕はよくわかっていない。日本語版のウィキペディアのバーレスクの記事には、乳首と陰部に前貼りを貼っただけの姿でパフォーマンスをする女性の写真がある。リンクは張らないが、鍛えられたきれいな体だなあ、僕も筋トレ頑張らなきゃなあ、とは思う。しかし、欲望はそこまで感じなかった。隙がないのである。