はてなキーワード: 堂々巡りとは
会社辞めたいとかもう頭おかしくなりそうとか思ってたら、ここのところ幸いなことに比較的仕事少ない状態になったので、ひたすら自分の業務のマニュアルを整備してた。
目標は明日急にいなくなっても、ここに全部書いてあります、という状態に持っていくこと。
今日マニュアルがあらかた完成して、ちょっと気が楽になったことに気づいた。
追い詰められてるときって、急に辞めたら迷惑かかるよな、でもつらいしどうしよう、とか思考が堂々巡りするので、それを防ぐのに有効だと気づいた。
責任は果たしたのであとは知りません!と言える材料を作っておくのは精神安定に役立つ。
ただ、マニュアルあるから誰でもできるとは言ってない。その業務ができそうな代わりの人をつれてくるのは会社がどうにかすることだ。
心拍確認の日はまだ嬉しさより驚きが勝ったが、着実に育つ姿を毎週エコーで見せてもらううちにじわじわと母になった実感が湧いてきた。
自分ではない小さな命が24時間片時も離れずそばにいてくれることがとにかく幸せで、自己肯定感の低さや寂寥感が一気にほどけていくような、かけがえのない、優しい数週間だった。
その可能性が無いわけではないと理解していたからこそ、それなりの覚悟をもって検査を受けたはずなのに、いざ陽性と言われてみると全く結論に辿り着けない。
数分おきに正反対のことを考えては、どちらの選択も罪深く感じられて、またゼロから考え直すのを延々と繰り返す。
泣くことに疲れ果て、考えることにも疲れ果て、かと言って熟睡もできず、次の日も朝から疲れた脳で堂々巡りを繰り返す。
簡単に諦められたわけがない、大切な大切な我が子の命に関わる決断だ。
でも、あんなふうにして出した結論が本当に正解だったのか、今でもずっと悩んでいる。
今更悩んだところであの子が戻ってくるわけではないと分かっていても。
親の私たちがもっと楽観的な性分だったら、もっと人の優しさを信じられる性格だったら、もっとこの国の将来を信じることができていたら、今頃あの子はここで息をしていたかもしれない。
宗教が普遍的な善を子供にインストールしてくれる、っていうのは異教徒狩りや戦争起こしてきた歴史やらを鑑みたら全く同意出来んなぁ。
仮にインストール出来ても聖職者や行政府の腐敗という現実と教育内容とのギャップであまりよろしくない心理的ショックを与えてしまうように思う。
宗教二世問題もあるし子供に特定の思想を吹き込むべきでないだろう。
そもそも善悪というのは実在しない人間の思想上にのみ存在する曖昧な存在なわけで善悪を教えるというのは極めて困難なようにも思う。
例えば殺人は悪、を教える場合を考えるだけでも正当防衛や無人島で生き残るためにやる場合や侵略者を撃退する場合、政府から正式な命令を受けて行う場合等の限界事例について論じなければならなくなるし、そもそも悪だとなぜやってはいけないのか?という堂々巡りの話になる。なので善悪を教えるよりは殺人をすればその殺した人の関係者から恨みを買い復讐される恐れが発生する等の合理性の面から教えたほうがいいように思う。
理数国が優秀というのも他国に比べて平均が優秀みたいな話であって、ネットの海を漂ってたら知性の欠片もなさそうな人間を多く目撃するわけで
めちゃくちゃ分かりやすく解説してくれるじゃん。すごいね。勉強になっちゃった。
堂々巡りの思考の中で自分が思想の強い人間になっちゃったんじゃないかと不安になりながら書いてた文章だからそりゃ駄文だしポエムだよ。最初の文章は最近起きてるどの問題とも関係してませんよって注意書きの意味だし。開き直ってると言われたらそれまでだけどさ。
でもそんなの思想じゃないって言われて安心したわ。もう少し貴方の言うように、自立するだけの構造?がある思考が出来る大人になれるようにバカなりに頑張ってみるわ。
ただ、思想は設計図というのは違和感があるな。他人が同じように試しに組み立てて同じものが完成するのは、思想を通り越して哲学や倫理のような学問の領域では?
とりあえず、ありがとう。
私は「この先の世界が良くなってほしいな」「私より後に生きる人達はもっとより良い世界を生きてほしいな」とかいう綺麗事でしかないことをずっと願っていて、そのために今の私達が多少割食ってもいいんじゃないかってことを半ば本気で思ってたりする。そういう綺麗なことを考えてるけど別に私は慈悲深い人間でもないし心が狭いほうだし性格の悪いことも不義理もずるもするけど、そう思ってるのは本当だしこれスルーしたら楽だよねということを見過ごしたくないなとも思っている。まあもちろん各々の許せないことに関してはだいたいの人がスルーできないのかなとは思うけど。
私は別に大きくなにかの活動をしてるわけじゃないけど、声を上げないとなかったことになるし、なかったことにされたら私よりも後に生きる人達はないんだなぁって悲しみに暮れるかもしれないから、職場とか友人たちとかせめて自分の周囲でくらいはそれどうなのかなって言いたい。例えば自分では得られない(あるいは捨てられない)何かで仕事が割り振られたり、避けられたり、そういうこと。年齢も人種も国籍も見た目も中身も環境もなにもかも、そういうもの。
ところでじゃあ自分で得たもの(捨てられたもの)ってなんなんだろうと考える。わたしの見た目は自分で選んだわけではないし、メイク法は自分で得たもの?でもメイクやファッションへの興味も、どういう方向を好むかも、私が得たものだろうか?勉強ができること、できなくても塾へ通えること、誘惑に打ち勝つこころ、一緒に勉強をしてくれる友人がいること。趣味があるかハマりやすいか長く続くか飽きが早いか、すきなお店が自力で行けるところにあることや購入資金、費やせる時間があるかどうか。生きることに希望が持てるか、状況判断ができる状態かどうか。そういうことは私の産まれた環境、生まれ持っての資質、保護者や近所の人や同級生、時代や地域にタイミング、生まれる前からこれまで私の知らない間にも積み重ねられてきたものがあって、じゃあどこに私が自力で得たものなんてあるだろう。もちろん私だってそこそこ真面目に、たまに手を抜いたり失敗したりしつつ、自分の意志で生きてきたつもりだけど、じゃあ本当に私自身が選んで生きてきたのかな。人生の岐路にたったときに、これだ、これである!と道を選んだのは私の思いであるのかな。この世に自分で選べる選択肢なんてそうないんじゃないかな。だいたいが強制イベントなんじゃないかな。
と思い至ってから、私は私から遠くの人へはだいぶやさしくなれた気がする。近くの人には、やっぱり苛立つこともたくさんあるし、なんでそんなことするんだろうって悲しくなったりもする。でもこの人にもこういう生き方以外の選択肢はないんだよなと思えば、罪を憎んで人を憎まずってこういうことなのかなぁってようやく少しわかった気になる。怒りや悲しみの瞬間からすこし時間が経てばその人自身が悪いわけじゃないってわかる。その人自身がその生き方を言動を選びたくて選んだかなんて、誰にもわかりっこない。本人にも。それしかなかったのかもしれない。もうとっくにたくさんの人が気付いてることかもしれないけど、私は大人になって気付いた。気付けてよかった。他者へのなんでこんなことするんだろうという怒りはいつも自分が自分の期待を裏切るときにもやってきて、そのたび私は私に失望してたけど、いまは前よりも私は私を好きでいられる。どんなに情けなくてどうしようもない私でも、私のことを世界でいちばん好きなのは私でいたいなって思える。これも、これすらも私自身の力で得たものではないだろうけど、でも大事にしたい気持ちだ。でもその大事にしたいという気持ちも私が得たものではなくて……ってずっと堂々巡り。良いことも悪いことも、そういうものなんだろうな。
私はやっぱりどうにかこれからを生きる人々に少しでも良い世界を見せたいんだよな。どんな属性を持ってても持っていなくても、なにかを極めた人も挫折した人も、ポジディブなひともネガティブな人も、人が好きな人も孤独な人も後悔ばかりの人も、いい人も極悪人も、みんなみんな自分に失望しないで生きてほしい。どんな人だって生きてていいし生きててほしい。そういう世界であってほしい。じゃあ私が生きてること生き続けることって何かと言えば、私を肯定する行為だ。そしてそれは私と同じものを持つ人のかすかな希望になるのかもしれない。別にたいそうな人間でもなく多くの人に知られてるわけでもない、特筆すべきところもない大衆のうちの一人かもしれないけど、でもこういう人間も世界にはいるんだよ生きてるんだよっていうことは、はるか未来の誰かのちいさな光になるかもしれない。私が生き続けることこそが色んな人がいていいことの証明で、私の途方もない夢を一歩前進させることかもしれない。だからたまに苦しかったりしんどかったりしても生きよう。生き続けてみよう。そういう綺麗でバカみたいなことを、私は本気で考えてるよ。これすらも私の選んだものではないかもしれないけど、でも、選択できるうちは、カーソル間違えないうちは、生きることを選択しよう。私は未来に夢を見てる。
取り留めも無くなってきたけど、延々と続くんじゃないのかなー?
というか、騒ぐことが主目的と化してる感もあるけどな
なぜなら、多数の根拠・方向性が混じってることに注意せねばならん。
まず第一に、ここは日本だし、ハレとケの概念で理解するんがええだろ。
エロとはハレであり、普段の公共の場でおいそれと出すものではない。
お前の「なんとなくAVの公告とかやだ」という感情には、この文化的感性が働いている可能性が高い。
ハレとケでは、ハレ=エロを削除するのはむしろ駄目だ。場をわきまえなきゃいけないだけで、両方が必要。どっちかというとハレの場で「AVとかだめだろ」とか言う方が顔をしかめられる。
でも一方で、法律が公共良俗という概念でエロを規制するのは、西欧輸入のキリスト教貞操概念が軸なんだよな。
この文化において、エロはシンプルに悪いことだ。良く言っても必要悪だ。悪いことを人と神の前ででしてはいけませんよ、とか発想がある。
だからこれに基づいて考えてると、そもそもエロとか規制して作れなくしたほうがいいじゃん、とか言いがちだ。
あと"人権"に基づいて話しているつもりのやつが、実はそういう宗教の話をしてたりするのが厄介。
エロい広告が存在すると性犯罪が増えるのか? 犯罪が増える以外に人間に悪影響があるのか? ヒトのメスがエロ広告を見ると不快になるがそれは何故でどれくらい耐え難いか? 統計という科学的手法によって測定可能で実際にされている。されているのでそれに基づく発言もされる。それらの発言は先二つの宗教倫理感とは一線を画すものだ。
この立場に基づくと、大抵の立場はエロ容認に傾く。科学的事実として、人間は広告を見たぐらいで行動を変えないからだ。メディアの悪影響とか、処理水海洋放出に影響が無いのと同様に、微細過ぎて実質無いです。
ただ「女性がエロが不快なのはしかたない」という事実も同時に得られるので、そこをどうするか。
だから結局は、主張が宗教に戻る。宗教は根拠がないから科学に戻る。堂々巡りだ。
政治ロビイング力とか、選挙で多数派かどうかが決めるということだ。インターネットの議論は、意味なくもないけど、直接関係ないね。特に勝ち負けは関係ない。
自身の中のLGBT差別の気持ちもあることや、堂々巡りになっている気持ちを吐露した。
相談員は言った。
「以前LGBTのコミュニティに相談に行ったことはないのですか?」
私はないことを伝えた。
なぜないのかと掘り下げられ、私はTであること自体も辛いのだと告げた。そこに所属すること自体が私を苦しめるのだと。
こうあるべきだという価値観や、周りを気にしすぎる私の心の問題だと言った。
色々話した後、心理カウンセラーに相談すべきだという結論を残して、30分ほどの相談の電話を終えた。
少し経って、なぜモヤモヤするのかがわかった。
彼女はありのままの自分を受け入れることが解決だと考えていたのだ。
一方で、私は、私のようなトランスというのは、ありのままでは生きられないのだ。
ホルモン注射や生殖器の摘出などしないと、生まれたままの状態では生きられない。
小さい頃、男子の集団にいることが嫌だったけど、先生はあなたは男の子だからそれを受け入れろと言った。
相談員は、トランスジェンダーであることが嫌だという悩みに、あなたはトランスジェンダーだからそれを受け入れろと言った。
今、世の中的にはありのままの自分を受け入れるという土台の上にいる多様性が認められている気がする。
私のような、"多様"であること自体が苦しい人間は、下手したらレイシストというレッテルを貼られ、もっと居場所がなくなっていくのかもしれないな。
数年前に大病をやって以降貧弱になり病気になる回数が増えた。前ならなんてことなかった風邪をこじらせて入院することもある。ささいなことで息切れや眩暈をおこす。すっかりヨボヨボになってしまった。
医者からは「体力をつけてください」と言われるけれど、どうすればいいのか。
定期的な運動をするとか、きちんと食事を摂るとか試してはいるけれど続ける力がない。毎朝のウォーキングでヘトヘトになって体調悪化したし、一杯のごはんと味噌汁以上の量は胃が受け付けない。体力をつけるために体力がいるから堂々巡りだ。
明日は通院日だけどまた医者からはため息まじりに「体力をつけてください」って言われるんだろうな。こんな状態でも体力がつく方法があるなら教えてくれよ。
どうにも解決出来なくて奮闘した。でも結局どうにもならなかった。
コミュニケーションを学びたくて本を読み漁った。
そして今最も怖いのは、死だ。
私はそれを理解しようと、医療書を濫読し、福祉施設を訪ね、それでも何も解決はしない。
数学が怖かったあの頃のように立ち向かいたい気持ちと、諦めてしまいたい気持ちが同居していて噛み合わない。
もし自分がその恐怖から逃れられれば、もう一人の祖父に今すぐ会いに行けるのに、私は臆病で動けないままでいる。
最後のときは誰にも分からない。その順番は朧気にしか提示されない。祖父がいなくなるという事は何れ父も母も此の世からいなくなるという事で、その事実は受入れがたくどうしようもなく辛い。
それを直視するのが怖い。
誰かと居るときなら良いが、一人になると駄目だ。いつまでも頭を堂々巡りして、人生に意味はあるのかなどと考えてしまう。
貴方は苦しい思いを重ねては来たけれど
あのときの会話が胸を去来して苦しいのです。
もう何も残す物は無いのですか?こちらは後悔ばかりなのに、旅立ってしまうのですか?
私はどうしたら良いですか?