朝食: コーヒー
昼食: スパイシーモス, ポテト, はちみつレモン入りジンジャエール
文庫サイズの聖書がほしいと思ったが、文語訳しかなかったのでしかたなくそれを購入
私の設定したなんちゃって安息日の日には、デジタルは使いたくはなかったが、今まで読んでいたKindle版の無料聖書を土曜日に読んだほうがよさそうだ
なぜ聖書に惹かれるのか、それは私が「相対主義」というものに対する疑念を持っていることにも関係する
善悪の問題が「どの倫理観が好きであるか」という好みの問題だけに帰着されることに対する懸念である
多神教は「それにまつわるものとしてあの神がおり、あれにまつわるものとしてその神がおる」といった都合のいい価値観を代弁しているように見える
「何を信じるかは人それぞれ」といっていろいろなものを偶像崇拝するのが本当に人間社会にとって有益なのかと疑問なのだ
聖書ではノアの法という絶対的倫理基準を採用しているが、これ自体は狂信的なものではない
世界で最も読まれている本が聖書だというのだから、単に教養としても良いだろう
読んで何かしら行動として実践することが重要だと思っているので、「信じる者は救われる」といった態度は取りたくはない
ビックバンセオリーのシェルドンが言うには、有名な学者の数々がユダヤ教徒であるために、キリスト教よりも魅力がある、という側面もあるが、非ユダヤ人であるシェルドンや私はノアの法さえ守っていればよいはずだ
というのも、箴言にはSNS時代に通ずる考えがズバリ書かれており、その道徳性に驚愕したからだ
その感覚でトーラーを見るとちょっとズレているかもしれないが、ラジエルの本にも「真の知恵はトーラーにしか存在しない」と書かれていた気がするので、より興味を持ったのである
知識が生み出したのは残念ながらICBMである、それに対し、知恵が生み出したものはタルムードとトーラーであると言えるのではないだろうか
朝早く起きた
金曜夜から土曜夜までは「安息日」として設定しているので、PCもスマホも触っていないし、乗り物にも乗っていない
ただし、TVだけは例外的につけている。これは、TVは家族の共有物であり、自分の都合だけではコントロールできないためだ
まだ安息日を設定する習慣をし始めて長くはないが、やることがないので家族との会話が増えた気はする
ところで、ある理論では「人間関係は愛情空間にのみ限定してOK」というものがある
どういうことかというと、人は「金」「自由」「人間関係」という3つのうち2つしか手に入れられないという理論である
金と自由を手に入れた状態では、人間関係は最低限の「愛情空間」に限定される。これは概ね家族のことを指す
もし友人をたくさん手に入れようと思うと、「金」または「自由」のどちらかを諦めなければならないらしい
朝食: TKG
ただ安倍元首相の時のように、カルトに搾取され、社会も警察も対応してくれないというときに狙ったという文脈とは異なるようだ
まあ政治の話は私は深入りはしたくはない、自分の生存を脅かす何かが政治状況に発生しない限りは
ところで、私は何度か異常な不眠に襲われたことがある
覚醒して、何日も眠れなくなった
そのとき「読書を四六時中して、疲れれば眠れるのではないか」と試した
その時に読んだ本が2つあり、一つが「シオンズフィクション」もう一つが「宇宙はもつれでできている」だ
ただ、これがかなり悪く作用した
というのも、SFや量子力学は精神を錯乱するトリガーとなり、危険な妄想を生み出してしまったのである
精神を病んでいるときの妄想体験としての読書は、かなりスリルがあり、それはそれで楽しさもあった
自分に起きた現象というのは、他の人間に対してもある程度再現するものだ
量子力学の間違った知識を信じている陰謀論者・スピリチュアリストは、統合失調症に近い妄想を持っている
知識を得ることは美徳のように語られるが、妄想に変わるほどの半端な知識ならば、持たないほうがよいかもしれない
眠れなくなって錯乱しそうなときは、病院に行くなり薬を飲むなりするしか、手立てはないだろう
余計なことをするとかえって健康を害す
このすばとヤングシェルドンを見終えてしまったので、楽しめるTVシリーズが見つからない
ビックバンセオリーを全シーズンみたいという欲はあるが、金額的に高いので保留にしている
そういえば「ゲームを楽しむ」という感覚が30代になって失われつつある
高校生の頃まではTVゲームを四六時中やっていたが、最近は「めんどくさい」と思ってしまう
ゲームといっても、チェスとかホールデムとか、そういう古典的なもののほうが楽しめるようになってしまった
投薬療法で頭の働きが抑えられているので、おねちょ(寝ながら超能力を発揮すること)もしなくなった
というのは半分冗談だが、楽しむ能力が抑えられているという点で少し苦しい
インターネット中毒を解消するにはどうするかと色々考えてノートにも対策法をまとめていたのだが、なぜか反動でFacebookに登録してしまった
自分の自由が毀損された時、反動で取り戻そうとするのを「心理的リアクタンス」と言うらしい、チコちゃんが言っていた
それはそうと、やることを増やすから疲れるのだとすると、論文を書く気もブログを書く気もないのに数学をやるのは、意味のないことに思えてきた
数学とは社会に成果を残してこそやる意味があるのではないか、部屋で孤独に「真実」を発見したとして、それがなんだというのか
この考えがベースにあると、何かを学ぶときには、実際にそれを日常で実践して効果が存在する事柄か、または学んだことを応用して社会に成果を残すしか学ぶ価値が存在しないように思うのである
別の考え方もある。つまり、純粋に楽しめればそれはやる意味があるということである
ただ、登山家さえ、成果を社会に提出することで満足感を得ている。誰にも共有せずにエベレストに登っても、苦しいだけだろう
では漫画はどうか。私が子供の頃は、漫画の内容を誰かと共有しなくとも楽しめていた。いや、子供の頃はSNSなんてなかったから、楽しいと思うものは自分だけで楽しんでいた気がする
「社会から反応がなければ虚しい」という状態は、もしかしたら異常なのではないか、あるいは社会を意識するのは大人になった証拠か
朝食: 卵かけご飯
土曜日は安息日の考え方を取り入れることにした。スマホもPCも使わない。
読む本はトーラーのみ。作業っぽいことは一切しない。出かけもしない。家族との会話を増やす、等。
それを1日試して思ったが、如何にインターネットに毒されてるかってことだ。ネットがないだけでソワソワする。
日曜日になり、ネットが使える状態になると、反動でアクセス制限しているサイトにもアクセスできるように設定してしまった。
しかし、この習慣に慣れれば徐々に落ち着いてくるのだろう。
こういう反動は行動初期につきものだから、徐々にインターネットの制限を増やし、最終的には仕事以外の時間ではインターネットをやらないようにする。
インターネットを使わないようにするためのスタートが「土曜の安息日」だったという話だ。
ところで「社会的欲求」を完全無視して楽しみを見つけることができるのかということが気になっている。
例えば数学を趣味としたとする。論文やブログを一切書かず、自分の家の中だけの趣味として完結して、楽しめるのかという話である。
本能に潜む「社会的欲求」がとても厄介なのである。知識をインプットすると、社会に向けてアウトプットしなければならないような強迫感さえある。
孤独を楽しむことがもし可能なのであれば、SNSで愚かなことを言ったりすることも減る。「社会」に対する過度な欲求から開放されたい。
朝食: はちみつパン, 昼食: 卵かけご飯, 夕食: ビビンバと野菜
ヤングシェルドンがいつの間にかシーズン5がやっていて私の願いが届いたらしい。まあ、すべて見終わったが、楽しめた
それはそうと、ハンターハンターの旧しか見ていなかったので、新をみたら色々と残念なところはあった
ゴンが毒に苦しんで木の根を食うシーンとか、寿司とか、そういうのをカットしてるっぽい
中学生の時は道路の真ん中で「冨樫ぃー!」と叫ぶほどハンターハンターが好きだったのが懐かしい
マクバクの話に限っては、そのストーリーを見る前に近い夢を見たので、流石に冨樫先生が超能力者ではないかと疑った
ところで、大人になってハンターハンターを再度見てみると、結構怖い部分があることに気がつく
「命の奪い合いも許可される第四次試験」というところを小学生の頃は深刻に捉えていなかったが、バトロワ並みに怖いと思う
発言も色々と怖いんだよね、ポンズは力でなら押し倒せるとか
やはり休日は暇つぶしが必要だと思い、Kaggleでmovielensデータセットで実験を行った。
最もシンプルなモデルとして、ユーザー×アイテムの行列に対する類似度を算出する方法で、類似ユーザーTop n人のレートの平均値を算出し、Top mのアイテムを出す。
これでNDCG@100で0.36ぐらいなので、ベースラインとしてはまあそのぐらいだろう。
実際、SOTAモデルを見ても、NDCG@100=0.4253ぐらいしか達成していない。
https://paperswithcode.com/sota/collaborative-filtering-on-movielens-1m?metric=nDCG%40100
Kaggleでのコンペは、精神を疲弊しそうだし、自信もないので参加する気はない。
こう、なんというか、それなりの精度のベースラインモデルをササッと作るぐらいで丁度いい。
ところで、自分の7年の業務経験のスキルセットがどの程度なのかというのを視覚化してみたら、多分以下のようになると思う。
genre | level |
コーディング | ★★★★ |
アルゴリズム | ★★★ |
インフラ | ★★ |
機械学習 | ★★★ |
コミュニケーション | ★★ |
ビジネス理解 | ★ |
データ視覚化 | ★★ |
統計学 | ★★ |
実のところ「機能要件をどう実現するか」というエンジニア思考なので、あまり統計科学的な思考は身についていない。
といっても薬学研究の発表があれば「薬の作用・副作用の効果なのか、病気の症状によるものなのか区別がついていない」ということを指摘できる程度の批判的思考は持っているので、
「科学」と名のつくところに科学とは程遠い政治が存在することは知っている。
つまりエンジニアリングが好きで、科学が嫌いなのは、その政治性である。エンジニアリングは、作って見せればそれで実証できるのが好きである。
日曜日に巨大な虹を家の前で見た。ユダヤ教徒によれば、虹を見るのは行いが悪い証拠らしい。
私の行いが悪いとすれば、ネット上で軽率な発言が多いことかもしれない。しかし非ユダヤ人が守るべきとされるノアの法は破っていない。
ところで、岸辺露伴も全シーズン見終えてしまった。他に面白いTVシリーズはないものか。「気力がない」「刺激が欲しい」が同時に引き起こっていて、動画鑑賞は趣味の妥協案である。
仏教では「知足」という言葉があるらしいが、要するに持っていないものではなく、持っているものに満足するということだ。
「人から認められたい」などといってアウトプットを増やすのは、労力を使うだけで、何の意味もない。煩悩である。
何が「欲」ではないのか、という点について三木大雲が話していたが、要するに人の幸せを願ったりするようなものは「欲」ではないらしい。
しかし人のために何かをするとしても、プロの慈善組織に資金を投じればいい話であり、自分から立ち上げる必要はない。
さて...どうせリモートワークでパソコンをぱちぱちやってるだけなんだし、気楽に行こう。
そう、朝が辛いだけなのだ。
朝食 コーヒー
昼食 インドカレー
夕食 うな丼
ヤング・シェルドンロスでアマプラで観るものを探していたが、以前たまたまNHKで岸辺露伴を観て面白かったので一話から観ている
日本のドラマはどことなく仏教の匂いを感じるのは気のせいだろうか
運動やヨガ、食事をするのは許容範囲だが、パソコンの前でカタカタやるというのがどうも精神に堪える
何かで大成功するようなことに全く興味はなく、現状に満足し、スローライフを過ごしたいのである
おそらくユダヤ教の休息日のように、デジタルから意図的に距離を置く時間が必要だろう
パソコンの前にいると「これを使ってなーにか面白いことできねぇかな」と考えてしまい、疲弊する
朝食:はちみつパン、昼食なし、夕食: ごはん, 麻婆豆腐, ナス, いちごヨーグルト
今日は嵐なので家に籠もりっきりだった
そういえばヤングシェルドンのシーズン4を見終えた。人間関係をカオスとビリヤードの玉に喩えるシェルドン、様々な人間関係のトラブルに悩まされる
ヤングシェルドンを見ていた時間を別のTVシリーズを見る時間にしたいが、レンタルや購入は避けたいところ
購入するのであれば、レナードニモイがスポックだった頃のスタートレック全シリーズを大人買いするという方法もある
現状でアマプラで見ているのはこのすばだけだ。正直、日本のアニメの「原作」というやつを見たことはない
これは私だけかもしれないが、プログラミングや心理学、物理学、健康法などの書籍は理解できるのだが、文学書は読んでいても全く理解できない
そういうものを読んでも視覚的イメージが全く湧いてこないので、映像やゲームのほうが楽しめる
ただ、ゲームが楽しめるというのは高校生までの話で、最近はゲームのストーリーだけをYoutubeで見る以外にはゲームに触れることもなくなった
少し前にFF7のリメイクをSteamからDLしてプレイしたが、それをクリアしたあとはまともにゲームというものをやったことがない
マジックザギャザリングアリーナやリーグ・オブ・レジェンドなどにも手を付けたことはあるが、すぐに飽きた
というか、色々なものに楽しめなくなっているのは、投薬量が増えているからだと睨んでいる
こう、挑戦する前のワクワク感、みたいなものを以前は感じたのだが、最近はやる前から面倒臭さを感じてやめてしまうのだ
昨日はインドカレー屋に行った。ベジタブルカレー中辛、サラダ&スープ無し、というのが私の頼み方である。
これは私が呑気症であることに関係する。一定以上の食べ物を食べると空気を飲み込んでしまい吐き気がするので、量を減らす必要があるのだ。
散歩をして外に出るためには、食べ物で自分を釣る必要がある。美味しいものを食べるという誘因があれば体を動かすことができる。
さて、ヤングシェルドンのシーズン4がもうすぐ観終わりそうだが、アマプラではシーズン5以降が公開していないので少し寂しい。
ビッグバンセオリーのフルシーズンを日本語で購入するか。しかし、金額もそこそこするので、アマプラで無料で見れる他の作品を見るべきか。
そういえば、アマプラで見ているもののいくつかは、Abemaなどでも見れることを知った。このすばがアマプラよりもAbemaで公開される方が早いので、そちらを見ている。
読書でもいいのだが、読書という形態は実用的なことが書かれていることを欲してしまうので、フィクションを読むのは疲れるのだ。
ところで、私の親や祖母が私にもうそろそろ結婚しろと言ってくる。統合失調症であり、収入も低いのに、結婚などする必要があるのだろうか。
朝食はTKG、昼食はなし。
今日は早朝にランニングしてから冷水シャワーを浴びた。やはり、一発ガツンとこうやってパワーを注入しないと朝の眠気は取れない。
仕事は淡々とこなしている。仮に会社が潰れてもその時はその時だと思うことにしている。というか、そういう事態に陥らなければ転職はしない。
ところで私が何かアウトプットをすることで世間から評価されようとすることは、精神の浪費だろうか。
というのも、他人から評価されたいという本能的感情が私の脳内で駆け回っており、理性の方の自分がいくら「他人の評価など無意味」と言っても聞かないのだ。
好奇心旺盛で刺激を求めている自分がいるのに、面倒くさかったり不安だったりして一歩を踏み出せない自分もいる。
身近な些細なことで楽しむことを良しとする自分がいるのに、大成功を収めてガッポガッポ儲かるべきだと考える自分がいる。
「精神が分裂している」というと、FF7みたいだが、本当にそういう感じだ。
たぶん、自分がそうしたい、そういう価値観でいたいと思うことや、逆にそうはなりたくない、そういう価値観は避けたいと思うようなことを書き下したほうがいいかもしれない。
学ぶことに対して柔軟であるということは良いことに思えるが、信念が足りないという側面も持っている。
最近の本はつまらない気がする。例えば「頭が良くなる本」というテーマの本があるとして、新着の本を見てもありきたりな本しか見つからない
これはたぶん、私が30歳になるまでの間に一通り色々なテーマでどういった内容があり得るのか見てきてしまっているから
アルゴリズムの世界では「探索と活用のトレードオフ」というものがある
初期フェーズでは情報集めのために探索をするのが良しとされるが、後半ではむしろ集めた情報を活用するのが良しとされる
未熟な若者が馬鹿なことをやろうとするのは、単に探索のフェーズにいるからで、情報が足りないから
一方歳をとった人たちが保守的になるのは、探索によって学習済みだから
私は年齢的に「探索」のフェーズではないのかもしれない。この年齢になって、何か大成功しようという気は起こらないのだ
欲しい、必要、と思う量が少なければ満足は増えるし、それを超えるものを持っていても満足は増えない
ブラック企業が社員に「足るを知れ」と言った場合は注意が必要だが、個人的なレベルでは、足るを知るのは満足に生きるために良い指針だと思うわけである
本をたくさん読んでも、実践できなければ意味がないし、実践できる事柄は限られる
そう思うと、私のような負け犬を釣るための自己啓発本など、もう買う必要がないことがわかる
といっても、限度はある。必要な量は固定だし、欲しい量も人生を充実させるにはある程度は必要である
結局、私を悩ませているのは「満たされない何か」という本能であり、これが本を買ったり数学をやりたくなったりする誘因になっている
githubでなにか作ったものをアップロードするのは、自分向きではないことに気がついた。
私が仕事で作っているようなwebアプリケーションというのは、誰でも使える一般性の高いものではなく、もっと特定のビジネスに依存した特殊なものである。
だから一般的な誰でも使えるようなものを作るというのにはあまり慣れていないのだ。
なにか作る場合はkaggleのほうが遊び場として向いていると思っている。
kaggleで「コンペ」に参加するつもりはないし、あれはBERTが出現したぐらいからは、少なくともNLP(自然言語処理)界隈は不毛な場となってしまった。
指標があれば不毛なハックがある。それが現実というものである。
それに業務で実用レベルで使えるモデルというのは、もっと運用のしやすいシンプルなモデルである。
モンスターアンサンブルで精度がSOTAでーすピロローン!なんてことには興味がないが、コンペはそれを目指している。
ではなぜkaggleが良いかと言うと、データセットが転がっていて、notebookも簡単に作成できるからである。
「このデータをこうやって使うとこういうツールが作れる」「このデータをこうやって分析するとこういう知見が得られる」というのは、「web開発用のMVCフレームワークを作ります」よりも具体性がある。
そして特定のデータに対するモデリングをするために論文を調べるようなことになった場合は、勉強にもなる。
私は昔、自然言語処理のブログを書いていたが、実験したことのコードを載せるタイプの記事が多かった。
ところが自称データサイエンティストや自称NLPエンジニアがツイッター上で「ゴミのようなブログを書くな」と言っていて、自分が言われている気がして怖くなったのでブログを閉鎖した。
そういう「政治おじさん」との接触を最大限減らすには、ブログというフォーマットではダメだと思うわけである。
私のマグカップには"Talk is cheap, show me the code."と書かれている。
これはリーナストーバルズの名言だが、政治おじさんが近寄らない場所というのは、具体的なコードが存在する場所であると言えよう。
今日は体調不良で仕事を休んだ。ゼプリオンという薬を月に一回打つが、打ってから一週間ぐらいは酷い眠気に襲われる。
さて、ヘルシープログラマーを読み終えたが、自分には実行できそうにないことがいくつか書かれている。
例えば「米国の運動能力の上位半分を目指そう」とか、「毎日記録を更新しよう」とかそういうやつである。
腕立て伏せを今日1回やるとしても、明日記録を塗り替えるには2回やらなければならない。1年で365回、無理な話である。
そもそも私は健康のために運動を取り入れたいのであり、マッチョマンになりたいわけでも、運動神経がスポーツ選手のように良くなりたいわけでもない。
そうすると必然的に運動プランは「早朝のランニング」「休憩時間のストレッチ(ポモドーロワークアウト)」「休日中の散歩」ぐらいに落ち着くだろう。
ちなみに本の末尾には「Ingressを使って散歩をしよう」というのもあったが、ポケモンGOと同じようにこの種のスマホゲームはダメな臭いがするのだ。実際、消費者庁でも注意喚起がされている。
運動も重要だが、栄養も重要である。ビタミンDの話が書かれていたが、サプリを買うか、あるいはビタミンD入りの牛乳を飲むようにしてもいいかもしれない。特濃というのが売っている。
頭痛と眼精疲労についての予防は実践する価値はあると思った。20分ごとに6mの距離のものを20秒見るようにするとか、水を適量飲むようにするとか、そういう話である。
個人的には、コーヒーにポリフェノールが多く含まれるという理由で積極的に摂取していたが、カフェインは頭痛の原因にもなるらしいので、飲みすぎは避けたい。
久しぶりに読書を一通りやってみた感想は、一人の著者が体系的にまとめた本というのは、インターネットであちらこちらを飛び回るよりも説得力を感じたということである。
さて、このまえ「Elasticsearchのpython版を趣味で作ろうかな」と迷っていたが、作らないことにした。
やはりプログラミングは仕事で飽きるほどやっているので、楽しむための趣味にはならない。
趣味というなら、もっとこう、受動的なものがいいのだ。動画鑑賞、読書、ネットサーフィン、等。
なにかアウトプットをする趣味というのは、基本的にゴミやCO2を出しているだけだと考えていい。
いや、コンピュータを使っている時点で、すでにCO2を出しているか。書籍も資源を使っているしね。
料理ならば自分で摂取するのでまだ良いと思ったが、料理動画や画像をSNSでアップなんてことをすると、自称グルメのクソジジイに叩かれるのでやめたほうがいい。
ウォーキング、ランニング、筋トレ、ヨガ、水泳、など、一人でできる運動を趣味とする場合はその爽快感で完結するので社会との繋がりを意識せずに済む。
傷病手当で休んでいるときは脳トレとして数学を趣味としてやっていたが、仕事をしている生活だとそのぐらいの気力がない。
たまにゲストプレイでchess.comを使うこともあるが、本格的にやっていないのでずっと初心者レベルである。
自作のTODOリスト管理ツールを作って、少し仕事が楽になった。頭に「すべきこと」を溜めておかなくていいので、精神を浪費せずに済む。
あとついでに作ったポモドーロタイマーも、休憩のタイマーがなるたびに階段を登り降りしたり、ストレッチしたりするようにしたので腰痛が軽減したと感じる。
そういえば、朝食がここずっとTKGだけだ。
グリゴリー・ペレルマンは昔から政治が嫌いだったらしい。
友人と会話して政治的なことが出ると「◯◯君、それは政治だよ」とピシャリと指摘したと聞く。
ミレニアム懸賞問題の論文を提出し、それが評価される過程での政治が発生したときは「俺は政治家じゃねぇ!」とキレたようだ。
賞金も辞退し、数学会から手を引いてからは、オペラの鑑賞を趣味として質素な生活をしているらしい。
誰も解けない問題を解き、arxivに成果を出すことで出版社に存在する政治を避け、数学的証明の正しさだけで勝利を勝ち取った男がペレルマンその人である。
このストーリーを聞いて私は、この人こそ尊敬に値する数学者だと思った。
研究助成金をもらうための政治的活動に熱を入れる数々の自称研究者とは格が違う。
数年前はgithubでOSSを公開することがそういう趣味だと思い込んでいたが、スター数で評価されるという政治が存在することに気が付き、消極的になった。
社会でなにか評価されようとすることが政治なのだろう。ポアンカレ予想ですら中華が業績を奪おうと政治工作したのだから。
私はプログラミングを趣味と仕事の両方でやっているが、コンピュータはインターネットを通じて社会と繋がりすぎている。
まためんどくさそうな要件だなぁと思って実際に手を動かすと案外1時間ぐらいで終わったりする。
たくさんに見えたTODOも一気に片付いていく。
気になるのはTODOがありすぎることではなく、TODOがないことだ。
仕事が一通り終わって、生産的に過ごそうにも次の仕事がない、そういう状況に陥ることがある。
給料を貰っているからには、利益に貢献しなければならない。そういう責任を感じる。
ところで、ヘルシープログラマーという本を数年前にBookoffに売ってしまっていたが、また読みたくなったので再購入した。
健康本は色々あるが、プログラマーという職業に適した健康本は少ない。
座りすぎの問題、眼球疲労、リモートワークによる運動量低下などは私にとって重大な課題となっている。
本当はスタンディングデスクを使うのが良いかもしれないが、ポモドーロタイマーの休憩時間に立って歩き回るぐらいが私にはちょうどいい。