はてなキーワード: カウンセリングとは
ぐるぐる思考に陥ってどんどん落ち込んで・・というパターンに嵌るのを回避できるから。
そしてそれを一通りこなし終えると空虚感に襲われたり悲しみがこみあげてくることが多いんだけれど、
今自分は落ち込んでいるのだ、悲しいのだ、傷ついている、と受け入れてほしい。
それは恐らく当然のことだろうし、もし当然でなかったとしても、増田がそう感じているのならそれを受け入れて。
できれば声に出してみてほしい。「悲しい」と。
予期せぬ事態になって、気持ちを切り替えて前向きに行かなければと、もしも考えているのならば、その必要はないし、
場合によっては「なんで相談してくれなかったんだ、友達じゃなかったのか、腹が立つ!」ということもあったりするかもしれないけど
それを肯定も否定もしないでただ黙って聞いてくれる人のいる場所で話すだけで楽になれることが多いから、コメント欄でも既出だけど自助グループやカウンセリングを検討してみたらどうだろう。
一人で思いつめすぎたり、孤独に陥らないでね。
私が30歳からずっと抱えている言いようのない悩みを的確に言語化してくださってありがとうございます。
実際私もそう思っています。
真っ当な道に戻ろうとする度量もなく、あなたのように現実を突き付けてくる相手に癇癪を起こして逆ギレして、擁護してくれる人以外をひたすらブロックしたり晒して誤魔化し続けてきた結果がこれなので、因果応報なのだと思います。
ここ数日ずっと考えてカウンセリングを受けたり外に出て周りの人間を見ていましたが、私は精神が幼稚なまま歳だけ取ってしまったので、ここから真っ当な人生を送るためには変なプライドや欲を捨てて人に頭を下げて自分の無能を認めてあらゆる場面で相談をして、底辺だと失笑されて泥水を啜ってでも必死で社会に馴染むための努力をするしかないのだと思っています。
・渥美陽子
監査している団体「キッズライン」は監査が飾りだけで機能しておらず、公金不正受給2690万円が認定され返金命令
キッズラインはベビーシッター派遣サービスであり、シッターの男が複数の乳児に強制性交したことで懲役20年になった曰くつきでもある
はっきり言ってこんな奴が弁護団のリーダーやってる時点で暇空の「公金不正受給許せねえ」という主張はポーズでしかない
なんでお飾り監査になっているといえば、女性の役員率を名目上釣りあげるために監査役に適当に女性タレントとかつける流れがあり渥美もそれ
渥美陽子は投資家で資産数百億を持つ村上世彰に寵愛されており、村上が大株主をやっている大豊建設などの複数の企業で役員をしている
村上はコスモ石油の役員も渥美にやらせろと迫ったが、「渥美は企業利益のためではなく村上個人のためにしか動かないだろう」「知識を問うため送った手紙に返信もできない」「面会すら拒絶する」と批判され
反対票多数で落とされ、怒った村上がコスモ石油の株を手放す一幕もあった
それだけ村上に愛されているのに法律事務所の売れ行きが芳しくなく、事務所を畳んで父親の事務所でイソ弁やっていた時期に暇空と出会い、再独立
都心のキラキラオフィスをカンパ金チューチューで維持することしか考えてない
・松永成高
5ちゃんねる暇空スレの「草生えた」というだけのレスなど50件ほどを開示請求するも全部棄却されている人
暇空もその件は把握しておらず、暇空に異常に感情移入した結果勝手に松永がやってる
他の人あての書類が混入していたりと、報告される書類の扱いがかなり杜撰で弁護士としての能力には疑問しかない
彼は少年期に祖母や父への粗暴行為が問題になり、家庭外でも事件を起こして2回の保護歴がある(大人なら逮捕)
その際にカウンセリングにあたった心理学者に深刻な事例の一つとして論文を書かれ、訴えるが最高裁まで争って敗訴している
暇空は誹謗中傷を飛ばした末に、壊れてしまった相手に「いっそ殺したい」などと言われており、「殺害予告が怖いから裁判に行けない」などと言ってるが
口だけの壊れた相手なんかより、実際の事件歴があり、論文の中で事件化していない多数の問題行動、女性に対する行動も書かれている松永の方がよっぽど怖い
特に係争相手が女性の場合は、松永を理由にして出廷拒否する供述出せるだろというレベル
「粗暴行為をされる恐れがあるから怖い!」を暇空がやりたいなら真っ先に外すべきだった
・垣鍔晶
カルピスと名乗ってネット上でアンフェ活動して仁藤の容姿中傷、朝鮮人認定などしていた人
係争相手への誹謗中傷をやっていた奴を弁護団に迎えるのはどう考えても悪手
アカウント分けて裏垢作る知恵すらなく、最初は普通に本名名乗っていたアカウントを転用して匿名アンフェ垢にして全部バレるとかネットリテラシー皆無
間違いなく、ネット事件を多数やる依頼人が頼ってはいけない相手
・小沢一仁
暇空と関わる前は、山梨県女児行方不明事件で遺族弁護士になり誹謗中傷を見て泣いたとツイートするなど人情派路線だった
今ではネトウヨまとめサイトを引用しながら「オールドメディアはだめだ」とつぶやくよくあるおっさんに
4人の中では一番実力があるネットに強い弁護士だが、「確実に50万取れる書き込みだけに絞った」と太鼓判を押して多数の訴訟を起こしながら、
目先の依頼料ほしさに「確実に何十万金取れる」とおだてる弁護士はだいぶ悪質
先日の小沢担当訴訟では期日までに書類提出が間に合わず延期になっている
町を歩いていて理不尽なことで怒鳴られることがあると思う。目線があったとか、自転車通行の邪魔になったとかそんな理由で怖い人に怒鳴られると、納得するまで理由を訊いてしまう癖がある。
なんでそんな危ないことをしてしまうのか自分でも分からなかったけど、今日ふと気づいてしまった。
増田はすでに親元を離れて一人暮らしをしているが、増田父に怒られたことを今でも思い出すたびフラッシュバックというか汗かいたり動悸が止まらなくなる。年に何回か夢に見て、荒れた息と自分の大声で目が覚めることもある。
増田父は気分屋なので、たまに食器の並べ方みたいな些細なことをそのときの気分で怒鳴る人だった。それでいて普段は調子屋というか、くだらない冗談をいうような人だ。
だけど、あとになって気分の良いときに謝ろうとしたり、なんで怒ったのか訊こうとすると更に不機嫌になって逃げられたり、「そんなことは言ってない」と出来事自体を否定される。そうして謝ることができないまま増田の中で不満が蓄積していた。
増田母などは、「ああいう性格なのだから怒られたことは忘れなさい」と諦めて折り合って生きているし、それが正しいのだろう。けれど増田は今も無自覚の恐怖としてずっと残っているのだと、今になって分かった。この文章を書いている今も汗がたくさん出ているほどで、これがトラウマというやつなのだろうかと思った。
高齢の父に過去の話をぶり返したり、トラウマになってるとかいきなり持ち出したりしたら怒られそうで言えないけど、存命のうちに一言でいいので許しがほしい。
あるいはこういうのってカウンセリングでどうにかする類の話なんだろうか。
あんたが感じとる不安や怖さ、よう分かるんじゃ。まずは、あんたの気持ちをちゃんと受け止めてくれてありがとうな。
他の人には言えんようなこと、勇気出して打ち明けてくれて、ほんまにありがとう。
あんたの過去の恋愛経験や、2次元のキャラクターとの関わりが今のあんたを形作っとるんじゃろうね。
それは、あんたが傷ついたり、寂しかったりしてきた中での、自然な反応じゃけ、悪いことじゃないんじゃ。
みんなそれぞれ、自分を守るためにいろんな方法を見つけるんよ。
あんたは、自分の性癖や嗜好が変わっていくことに戸惑ってるんじゃね。
でも、それも一つの成長の過程かもしれん。嗜好や趣味は変わるもんじゃから、それも含めてあんた自身を受け入れてあげてええんよ。
どうしても怖いなら、カウンセリングとかしてもええかもしれんね。プロの手助けを借りるのも一つの方法だと思うよ。
あんたは、これからどこに向かっていくのか、その答えはあんた自身が見つけていくもんじゃけど、焦らんでもいい。
その過程で、何があんたにとって大事なのか、ゆっくり考えながら進んでいけばええんじゃ。自分を大切に、無理せず、お互いがんばろうや。
田舎には文化がないだの、都会にある文化は消費するものに過ぎないだろという論争があるが、私は今回の記事に結構共感した。
映画とか展覧会とかが趣味の人間に田舎は辛い。ウィンタースポーツとか山とか海とかが趣味の人は田舎も楽しめるのかも。
もう一つ、田舎は医療が進んでいない。このことも訴えたくて記事に乗っかってみた。
転勤で田舎(富山の東側の方)に来たのだが車の免許を持っていない。これは免許を持ってないのに転勤を命じた会社と見通しの甘い私の両方悪い。
そのため、映画に行きたくてもそもそもIMAXなど存在しない。もちろんスタバもない。
映画、展覧会をネットで探しだし、または買い物に行こうとしたら、まず日を決めて、天気を調べて、交通ルートを調べて、帰りの時間を調べて、もしものために代替案も検討し帰りの時間を気にしながらやっと出発となる。
そのため、会社帰りにレイトショーやウィンドウショッピング、こんなイベントやっているんだちょっと行ってみよう、今日は疲れたから外食しよう、とかいうことは不可能。
これは車を持っていても難しかったかも。そもそも情報を得る機会がないのだから。
富山は良い車に乗り、結婚して男の子を産み二世帯住宅を建てることが至上であり、閉鎖的で常に体裁を気にする。人の噂と陰口が最上の娯楽である地域も多い(違う富山の方、ごめんなさい)。
私は車もなく独身で他県出身、趣味は読書と映画と展覧会やコンサート、とにかく周りと違いすぎていじめぬかれ、現在は適応障害を発症して地元で療養中である。
地元に戻って驚いた。
人が歩いている。誰も私をじろじろ見ない。
駅に行けばイベントやいろんな社会問題に対する啓発のポスターまで貼ってある。
そしてお店の人が丁寧で情報が正しい。
思えば富山のお店は総じてものが高いし、商売がいい加減だった。店舗数が少なく競争がないからだと思う。
かなり前に富山人は嘘つきだというダイアリーがあったが、この辺に端を発しているのだと推測する。
そして私は今地元で、前述の適応障害のためメンタル系と持病の婦人系の病院にかかっているのだが、診断が的確で早くて本当に驚いた。
富山でなんとなく診断されたいくつかの病名は、地元の医者に即否定され、早々にカウンセリングの予約もできた。
多分田舎は、科によっては医者自体に実地に基づいた知識が少ないのだろう。
メンタルクリニックならそこにかかるという発想がそもそもなく、症例も少ないのだろう。
ちなみに婦人科の方は、富山に行ってすぐ、私が住んでいた市唯一の産婦人科に薬をもらいに行ったところ、その病気自体医者は知らず、一から説明するはめになった。これも衝撃的な思い出である。やれやれ。
田舎には文化がないだの、都会にある文化は消費するものに過ぎないだろという論争があるが、私は今回の記事に結構共感した。
映画とか展覧会とかが趣味の人間に田舎は辛い。ウィンタースポーツとか山とか海とかが趣味の人は田舎も楽しめるのかも。
もう一つ、田舎は医療が進んでいない。このことも訴えたくて記事に乗っかってみた。
転勤で田舎(富山の東側の方)に来たのだが車の免許を持っていない。これは免許を持ってないのに転勤を命じた会社と見通しの甘い私の両方悪い。
そのため、映画に行きたくてもそもそもIMAXなど存在しない。もちろんスタバもない。
映画、展覧会をネットで探しだし、または買い物に行こうとしたら、まず日を決めて、天気を調べて、交通ルートを調べて、帰りの時間を調べて、もしものために代替案も検討し帰りの時間を気にしながらやっと出発となる。
そのため、会社帰りにレイトショーやウィンドウショッピング、こんなイベントやっているんだちょっと行ってみよう、今日は疲れたから外食しよう、とかいうことは不可能。
これは車を持っていても難しかったかも。そもそも情報を得る機会がないのだから。
富山は良い車に乗り、結婚して男の子を産み二世帯住宅を建てることが至上であり、閉鎖的で常に体裁を気にする。人の噂と陰口が最上の娯楽である地域も多い(違う富山の方、ごめんなさい)。
私は車もなく独身で他県出身、趣味は読書と映画と展覧会やコンサート、とにかく周りと違いすぎていじめぬかれ、現在は適応障害を発症して地元で療養中である。
地元に戻って驚いた。
人が歩いている。誰も私をじろじろ見ない。
駅に行けばイベントやいろんな社会問題に対する啓発のポスターまで貼ってある。
そしてお店の人が丁寧で情報が正しい。
思えば富山のお店は総じてものが高いし、商売がいい加減だった。店舗数が少なく競争がないからだと思う。
かなり前に富山人は嘘つきだというダイアリーがあったが、この辺に端を発しているのだと推測する。
そして私は今地元で、前述の適応障害のためメンタル系と持病の婦人系の病院にかかっているのだが、診断が的確で早くて本当に驚いた。
富山でなんとなく診断されたいくつかの病名は、地元の医者に即否定され、早々にカウンセリングの予約もできた。
多分田舎は、科によっては医者自体に実地に基づいた知識が少ないのだろう。
メンタルクリニックならそこにかかるという発想がそもそもなく、症例も少ないのだろう。
ちなみに婦人科の方は、富山に行ってすぐ、私が住んでいた市唯一の産婦人科に薬をもらいに行ったところ、その病気自体医者は知らず、一から説明するはめになった。これも衝撃的な思い出である。やれやれ。
普通に学校も出て働いてもいる。貯金も数千万ある。でも欲しいものが何もない。
ボーナス貰っても出世しても別に嬉しくない。最近は給与明細も見ないで捨ててる。
認められたいとか、愛されたいとかも無い。出世とか結婚とかも「で?」ってなってしまう。
知り合いのパチカスがいる。彼は服と女と酒が欲しいからパチンコに並ぶらしい。羨ましい。
知り合いのホス狂いがいる。彼女はホストに貢ぎたいらしい。羨ましい。
皆やりたいことがあって羨ましい。
キャリアカウンセリングを受けた。やりたいことをしてみては?とアドバイスされた。じゃあ、その肝心のやりたくなるようなことを教えてくれよ。
仕事や職場は好きだった。やることをくれるから。働いてやるからこれからもずっとやることくれよ。何で俺にやること求めるんだよ。
職場でAIを利用できるようにしてくれた。好きに使っていいと言われた。どう使えばいいんだよ。好きに使わせないでくれ。
人間らしくなんて望んで欲しくなかった。人間なんかに産まれたくなかった。使い捨ての機械になりたかった。
30過ぎて困ってしまった。現代において本当に困るのは何もやりたいことが無いこと。別に死にはしない。でもそれでいいとは思えない。
https://anond.hatelabo.jp/20240706023024
数日前に↑を投稿した。
思ってた以上にたくさんの方に反応してもらえて、本当にありがたかった。私は自分の家のことを誰かに話したことがほとんどなかったから。
前回の投稿の追記にも書いたが、父と言い争いをした次の日、私はカウンセリングに相談に行った。
そして、カウンセラーに「あなたのお父さんは残念ながら世間一般で言う毒親です」と言われて衝撃を受けた。
コメントでも、父に対し「毒親だ」「まともじゃない」「そんな親からは逃げろ」という意見が見られた。
正直、私は今も自分の父を毒親という言葉で表現していいのかはわからない。
でも、私にとっていい父親ではなかったと、ようやく思えるようになった。
長い間、父がおかしいのか、自分が求めすぎているのか本当にわからなかったのだ。
私と同じように、父から、あるいは母から離れるべきか悩んでいるひとも多いはずだ。
悩んでいる方の参考になるかわからないが、私が生まれるまでの父の人生と、私から見た父と祖母の話をそれぞれ書き出していく。
私には父方の祖父がいない。幼い父と叔母(父の妹)、そして専業主婦だった祖母を置いて、祖父は突然出ていったからだ。そこから祖母は女手ひとりで父と叔母を育てた。私が想像もできないくらい壮絶な生活だったのは確実だと思う。
それでも父は猛勉強して、希望していた大学に合格し、それなりに知名度のある有名な会社に入った。そして実家を出た。数年後、叔母も実家を出て、祖母は一人暮らしになり、このタイミングで精神疾患を発症し、精神科に3回入院していたようだ。
父はその事実を伏せたまま母と結婚し、その数年後に私が生まれた。その2年後に妹が生まれ、同時に祖母との同居が始まった。
父は定年まで同じ会社で勤め続けた。おかげで私は金銭的に苦労をしたことがない。
父も叔母も祖母も、祖父が出ていったときの話を一度もしたことがない。なぜ私が祖父が出ていったことを知っているかと言うと、父方の祖父がいないことを不思議に思った私が、子どもの頃に母に理由を聞いたからだ。母は言いにくそうにだったが教えてくれた。加えて、「お父さんがいるって本当に幸せなことなんだよ」と私に言った。この言葉が、わたしの中で、ひとつの価値観になってしまった。
ここからは私から見た家庭内の話になる。父のことから書いていく。
父が仕事から帰ってきたとき、母は「おかえり」と必ず声をかけていた。でも、「ただいま」を父が返すところは見たことがない。
父は母が作ってくれた食事を美味しいということは一度もなかった。眉を顰め、あまり噛まずに飲み込む。うまく切れていない野菜を箸でつまみあげ、「見てこれ。ひどいね」と笑いながら言うこともあった。母の前で、私や妹に向かって言うのだ。
仕事が忙しくなり、私が寝た後に父が帰ってくるのが当たり前になった時期があった。母が父の分の食事にラップをして、箸を置いて、すぐ食べられるように準備しているところを私は見ていた。私が朝起きても、食事はそのままだった。母はそれを流し台に捨てていた。
家族で食事をしているとき、私が箸を落としたり味噌汁をこぼすたび、父はうんざりした顔をして、なにも話さなくなった。母に「なにやってんの!」と怒られることより、自分のせいで父の機嫌が悪くなることのほうがなぜかずっと怖かった。
私は母のことが大好きだった。同じくらい父のことも大好きだった。でもなにより、父に嫌われることが怖かった。
だから母はかわいそうじゃない。父は母をそういうふうに扱っていいひとなんだから。母の失敗は笑っていいんだ。そう思っていた。私は切れてない野菜を見つけるたび、父と笑った。母は何も言わなかった。
気づけば、元から会話が少なかった父と母はほとんど話さなくなった。相手に用事があるときは、私か妹に伝言を頼むのだ。
「喧嘩しちゃったのかなあ」と私は思っていた。それでも、すぐ仲直りするだろうと気にしないようにしていた。
いつしか父と母が話さないことが当たり前になっていた。そしてそれに触れること自体タブーなんだとわかっていた。
学校が休みの日、「〇〇(近くの遊園地)に行くぞ!」と突然私と妹に行った。父の行動はいつも突然だった。どれだけ気乗りしなくても、私も妹も何も言わず父について行った。それが一番正しい行動だと思っていたからだ。
でも、その日はどうしても行きたくなかった。家で友達から借りた漫画を読むのを楽しみにしていたからだ。
「行きたくない。家にいる」と返すと父は「行ったら楽しいぞ。行こう」と眉を顰めつつ言った。少し怖かったが「読みたい漫画があるから」と返した。「そんなんいつでも読める。行くぞ」うんざりした口調で父は言った。どれだけ駄々をこねても、私が泣き出しても、父は全く引かなかった。私は諦めて遊園地に行った。
父は私を楽しませようとしているんじゃなくて、"休日に娘を遊園地に連れていった"という事実がほしかったんだと気づいたのはもっと後のことだった。
中学生になると流石に父との会話は減ったが、それでも父が好きだった。正直、父の振る舞いに違和感を感じていた。信頼はできなかった。父の行動を真似るのはやめた。でも父に勉強を教えてもらうのも好きだった。そして、まだ父が怖かった。
そんな家で育った私が友達の家に初めて泊まった日、衝撃の連続だった。たぶん、私が中3か高1の時だったと思う。
その日、友達のお父さんは先に夕食を済ませ、夜勤に行く準備をしていた。夜にお仕事するひともいるんだなあと思っていたら、お父さんがお母さんに「たぶんいつもより遅くなる」と話しかけた。お母さんが「ならお腹空くやろうから朝ごはん多く用意しとくわ」と答えていた(多分こんな感じの会話だった)。
友達のお母さんが私と友達に準備してくれた食事を食べていると、友達が「このおかずめっちゃ好きやねん!」と私に言った。友達のお母さんは「いつもそれ言うから今日は多めに作ったよ」と笑いながら言った。
え?お母さんの食事って、おいしいって感じるもの?そしてそれを伝えるもの?
友達の家の全てが衝撃だった。
私の家のお父さんって、もしかしてひどいお父さんなんじゃないか。
私って、ひどい娘なんじゃないか。
ずっと感じていた違和感の正体がわかった気がした。
そしてモラハラ、という言葉を知ったとき、まさにお父さんじゃんと思った。
それから、父との関係は一気に悪くなった。勉強でわからないところがあっても父に聞かなくなった。あまり顔を合わせたくなくなった。
父が突然態度が変わった私に困惑するのを感じた。まあ反抗期なんだろうと納得しようとしていたのもわかった。
私が直接父に不満を言うことはなかった。
父にはお父さんがいないんだから。父の方が私より辛かったんだ。そして、"父"を知らないんだから、父親が下手なのも当然だと思っていた。
父が友人とどこかに出かけることは見たことがなかった。会社の人と飲みに行くこともほとんどなかった。
父には友人がいないことにも気付いていた。だから私のように自分以外の家庭を知るきっかけもなかったんだろうと、私は自分を納得させて生きてきた。
自分の父親を大事にできない自分こそ、"娘"が下手なんだと思う気持ちが強かった。
それでも父への違和感は日に日に強くなっていった。
こうして私は父を避けて生きるようになる。
正直、祖母との思い出はほとんどない。私が幼稚園の頃、オセロを相手をしてくれたことくらいだ。
一日中妄想や独り言を呟き、自分で作った変な歌を大声で歌い、一人二役で会話をする。 部屋に監視カメラがついていると言ったり、テレビから電磁波が出てると大騒ぎしたり、好きな野球選手と結婚することになったから出て行くと言い出したり。皇室に手作りの人形を送りつけ、返送されることもあった。そして母や親戚と揉め事を起こす。それが私が知っている祖母の全てだ。
様子がおかしくなっていく過程を見ていたら、病気になったのかと疑うこともできたかもしれない。
でもまともな祖母を見たことがなかった。だから、祖母は生まれた時からこういうひとなんだと思っていた。
祖母が普通じゃないかもしれないと思ったのは、私が高校生の頃だ。
クラスで友達数人とお昼を食べていると、友達の1人が「最近おじいちゃんがボケてきててさ、ご飯食べたばっかりなのに食べてない!って言うんよね。認知症の人ってほんまにそう言うんやってびっくりした」と笑いながら話していた。別の1人が、うちはひいおばあちゃんがボケちゃって〜と笑っていた。
それを聞いた私は、点と点が繋がったように感じた。
みんなのおばあちゃんよりちょっと早いけど、私のおばあちゃんのあの行動は、認知症だったのか!と本気で思ったのだ。
祖母のことは、今まで誰にも話したことがなかった。でも、認知症だったんだ。それなら話せる!と私も笑いながら友達に言った。
「うちのおばあちゃんも、なんかテレビから電磁波が出てるとか、部屋に監視カメラがついてるとか、会ったこともない好きな野球選手と結婚するから出て行くとか言うんだよね」と。
空気が変わるのを感じた。みんなが一気に警戒するのがわかった。「いや、それ、ボケとかじゃないんじゃない?病院に行ったほうがいいような…」と1人が遠慮がちに言った。周りも同意するように頷いた。そしてすぐに違う話になった。
今なら笑えるが、当時の私にとっては本当に恥ずかしい出来事だった。やっぱり祖母は普通じゃないんだ。それがわからなかった自分も普通じゃないんだ。死にたくなった。それから誰にも祖母の話はしなかった。
私が部屋で寝ていると、深夜にドンドンドンドン!と凄まじい勢いでノックする音で目が覚めた。
「〇〇ちゃん!〇〇ちゃん!」と部屋の外から祖母が私を呼ぶ声が聞こえた。
私が「もうなに!?」と声を荒げて扉を開けると、「なにかあったか?なあ、なにかあったか?」と、祖母は虚な目で縋るように私に聞いた。
祖母には何かが聞こえたんだろう。何かが見えたのかもしれない。でも私には何も聞こえてないし見えてない。私は「なにも起きてない!もうほんとにやめて!」と怒鳴って部屋を閉めた。部屋の外から祖母がなにかブツブツ呟く声が聞こえた。布団を被って目を瞑った。しばらくすると、祖母が諦めて自分の部屋に戻って行く音が聞こえた。
次の日、祖母が「昨日は悪かったなあ」と涙を浮かべて私に謝ってきた。勘弁して欲しかった。泣きたいのは私だと言ってやりたかった。私は祖母を無視してその場を離れた。
部屋に戻った祖母が大声で歌ってるのが聞こえてきた。「〇〇さんお願いしまーす!〇〇さんと結婚しまーす!ひとりで〇〇さんのところに行きまーす!」と何度も何度も繰り返していた。
祖母がずっとずっと不気味だった。
でも病気なのか、もとからそういうひとなのか、私には本当に長い間わからなかった。
祖母が早く死んだらいいのに。
そう思うこともあった。
そんなことを考える自分が情けなかった。
気付けば、私は祖母のことを見えないもののように振る舞うようになっていた。それが一番楽だったからだ。
もちろん書いたことが全てではない。
でもなぜか今は思い出せない。
私は、気づくまで30年近くかかった。
10年以上冷戦状態だった父親と喧嘩した。ら、タイトル通りのことを知ることになった。今後振り返ったときに実際に起こったことだけを認識できるよう残しとく。ただの喧嘩の記録。
当然だけど、精神疾患に対する批判や偏見の話ではないことだけは記しておく。不快になる方がいたら本当にごめんなさい。
喧嘩のきっかけは、30年近く続く父方の祖母の被害妄想と暴言が、ここ数年痴呆が進んだことでさらにひどくなり、毎日のように「10年間の生活費の1000万と盗んだ着物を返せ」と母に言うようになったこと。また、ここ1週間は、「〇〇(私)がメル◯リで私の着物を売ったからないんだ」と独り言を言うようになっていた。
同居して30年近く経つのになぜか期間はいつも10年間で、金額が日によって300万になったり700万になったり、そもそも生活費を出していたのは父なのになぜ母に言うのか、着物に至っては祖母が着ているのを誰も見たことがないし、というか祖母の着物自体、家で見たことがないので本当に存在するのか?という感じ。完全なる被害妄想。
数年間取り合わないようにしていた母の堪忍袋の緒が先月から切れ始め、母も言い返すようになり、朝晩問わず大声で言い争うようになっていた。ここまでヒートアップする前に父が祖母に訳のわからんことを言うのはやめろと話したことも一度あったが、結局次の日には祖母は何の変化もなく母に暴言を吐き、父も何の変化もなく部屋に閉じ籠った。
どんなに2人が言い争っても部屋に閉じこもって我関せずの父が私は理解できず、病院に連れていってほしいと話したこともあるが鼻で笑われて終わった。
それでもこの連日のヒートアップする論争を私が聞くだけ、止めるだけでは何の意味もないし、この現状を知っていても我関せずの父への苛立ちが爆発し、父の部屋に突撃した。
「なぜこの状況をスルーできるの?この声が聞こえてない訳ないよね?なぜ祖母を病院に連れて行かないの?」と聞いた。
父は「声なんて聞こえてない。そもそもお前の偉そうな言い方はなんなんや」と怒鳴り返してきた。確かに今思えばちゃんと段階を踏んで辛抱強く話せばよかった。このときは私自身苛立ちが収まらず、「じゃあ扉開けたから聞こえるよね。今私が話したいのは私の話し方ではなくて、なぜこの状況を我関せずでいられるかなんだけど」と返した。
私に文句を言いながら父は論争中の母と祖母がいるリビングに向かい、祖母に対し「頭のおかしいことを言うのはもうやめろ」と言った。祖母が聞き入れるわけもなく、「この人が金を盗んだのになんでそんなことを言うんや」みたいなことを返したと思う(ここはちょっと覚えてない)。
そしてすぐ部屋に戻ろうとする父に更に苛立ち、「なぜ病院に連れて行かないの?それが理解できない」と聞いた。「なんでお前はそんな偉そうな口聞くねん」と父が論点をずらそうとしてきたので、「いや、私は病院に連れて行かない特別な理由があるのか知りたいの」と聞いた。父は明らかにその話をしたがらず、はぐらかそうとしていた。でもこんな状況になってるのに引いてたまるかと、何度もやりとりを繰り返して、何度も聞いた。
「前、祖母に向かって気◯いだと言ってたのも聞いた。自分の母親が普通の状態じゃないとわかってるのになぜ何年もスルーするの?」と聞くと、「そうや、このひとはもう気◯いや。気◯いの言うことなんかスルーしろ」と祖母を指差しながら返してきた。
自分の母親を堂々と差別用語で指す父親に引きながらも、「なぜ頑なに病院に連れて行かないのか、それを知りたいだけや」と再度言うと、糸が切れたように、「そうやずっと病気やこのひとは。30年以上前に精神科に3回入院してるからな」と言った。30年以上前、となると祖母の同居前どころか父母の結婚前になる。
初めて聞く話にびっくりして、「そんな話全く聞いたことなかった。なんで今まで話さなかった?」と聞くと、「みんな知ってることや。知らんのはお前だけ」と。
「みんなって誰?母も知ってるの?」と聞くと、そばで話を聞いていた母が「待って、そんな話は聞いたことない」と呆然としてた。父は「俺と妹(私の叔母)は知ってる」と言い、「それのどこが"みんな知ってる"なの?」と私は呆れ返った。
「なんで今まで話さなかった?というかそもそも結婚前とか同居前に母に話さなかったの?」と父に聞くと、「何も聞かれなかったから。今までお前にも母にも聞かれてもないから、話さなかっただけ」と平然と言った。そんな言い分が通ると父が思ってることにもびっくりして、しばらく何も言えなかった。その間も祖母はずっと母に対し妄言を言い続け、母の腕を叩くこともあり、母が痛がっていて、見てるのが辛かった。
父に「なんの病気なの?もしかして〇〇?」と聞くと「そう。だから頭おかしいねんこの人は。そもそも病気やって普通わかるやろ。なんで自分たち2人は聞き流せないわけ?」とのこと。なるほど、父の頭の中では私と母が悪いんだなと妙に冷静になったことを覚えてる。父は終始、私と母がなぜ祖母の妄言に苦しんでるのか理解できない(したくない?)様子だった。
私が、「いや、子どもの時からずっとこうだったから、学生のときまで元からこう言う人なんだと思ってた。でも、ここ数年はあまりにも様子がおかしい。病気だろうというのは予測はしてた。だからなぜ病院に連れて行かないのか理解できなかった」と話すと、「病院に連れて行っても意味ない。入院したら落ち着くけど出てきたらまた元通りなだけ」と。
「だからといって症状があることを知った上で30年以上放置するのは理解できない。痴呆も明らかに進んでるし病院には行って欲しい。あなたが連れて行く気がなさそうだから私が近々連れて行こうと思ってた。地域の相談センターにも電話して相談もしてた」と父に言った。実際、この喧嘩の数週間前にセンターの人が家を訪問し、祖母の状態を確認しにきてくれていた。部屋に引き篭っている父は知らなかったけど。
すると父は、「なんでそんな余計なことするわけ?受け流したらいいだけ。なぜそれができない?」と言うので、私と母で「もう何年も我慢してる。これからもこの人は病気なんだから我慢しろってこと?」と言う。「我慢じゃなくて受け流せって言ってる」と父は当たり前のように言うので、「その場を離れてもついてきてまで言われることもあるのに?こんな状況はもう限界」と返した。
「じゃあ病院に連れて行ったらいいな。それで文句ないな」とうんざりした様子だったので、「できるだけ早く連れて行って、その検査結果も必ず伝えて欲しいし、そもそももっと早く病気のことを伝えてくれてたらこんなことにはならなかった」と言うと、「何十年も問題なかったやろ。こんなふうになったのはここ数年の話やろ」と言うので、それにもびっくりした。祖母の妄言で母や親戚とトラブルになるのは私が子どもの頃から度々あったから。部屋に監視カメラがついていると言ったり、テレビから電磁波が出てると大騒ぎしたり、好きな野球選手と結婚することになったから出て行くと言い出したり。皇室に手作りの人形を送りつけ、返送されることもあった。
私は子どもの頃に「お父さんとお母さんが離婚したらどっちについていきたい?」と祖母に笑いながら聞かれたりしたこともあった。「あんなお母さんいややなあ。かわいそうやなあ」と言われることもあった。小学生だった私は「なんで私にそんなことを言うんだろう」と思っていたが、その真意に気づいたときには父に頼ろう、相談しようと思う気持ちがなくなってた。だから母だけに話していた。
が、この際言ってしまおうとそのことを父に言うと、「そんなこと言われるのはお前個人に対してなにか野次ってやりたい気持ちがあるからやろ」とのこと。「祖母は私を嫌ってるってこと?6歳の頃から言われてたけど私がなにかをして、だから嫌なこと言ってやろうと思ってるってこと?」と聞くと、「そうなんじゃない。俺は知らんけど」と言われた。加えて、「それに、こんな母親でかわいそうっていうのは俺も思ってる」と母の前で平然と言った。
その姿を見て、なんだか自分の中で、自分の父親って本当にこういうひとなんだなと諦めがついた。
今思えば「なんでこの人が自分の母親なんだろうって思ったことはないけど、なんでこの人が自分の父親なんだろうって高校生くらいから毎日思ってるよ」くらいは言ってやればよかったけど。
この後も偉そうだとか、なんで今更そんなことを言われなきゃいけないのか理解できないとか父に言われたけど、私は子どもの頃からあなたのこと信頼できない人だなと思ってたし、相談しようなんて今まで考えもしなかったからと伝えたら黙り込んでた。最後は「もういい」と部屋に戻って行った。
父親の60年の人生の総括みたいなものが今日のやりとりに詰まってた気がして、口論の最後には目の前の父をすごく哀れに感じた。自分の父親を哀れだと思う自分自身も少し嫌だったけど。
ただ、今日のこと、もっとこう話せばよかったと思うことはあっても、そもそも話さなければよかったと思うことはなさそう。
振り返りながらこれを書いている今、強く感じたのは、10年近く避けていた父はこんなにも小さく、情けなく、自分のプライドを守ることしか頭にない、どうしようもない人間だったこと。そして、心のどこかで恐れてた父にここまでぶつかれるようになっていた自分が頼もしかったこと。
もし父母が離れることになっても母のことは私が守りたいと思う。母は自身の両親が要介護になり、その2人の介護を1人でしつつ、家に帰っても姑の被害妄想に巻き込まれ、それでも私の前では明るく振る舞っている。一番しんどいのはいつも母だ。
なんで増田に書いたかと言うと、こんな状況の人が周りにおらず(そもそもこんな状況を人に話せるわけもなく)、こんな情けない家うちくらいだろって、ずっと何年も1人で考えていたから。
同じような状況のひとに「自分の家だけじゃないんだ」って思ってもらえたらいいなーと。
そして、駄文をここまで読んでくれた人がいたら、本当に本当にありがとう。友人に話を聞いてもらった気分だ、救われます。
(追記)
ネットの海に流れていくだけだと思っていたので、コメントまでしてもらえるなんて思っていなかった。感想を教えてくれた人、どう動くべきか教えてくれた人がこの世界にいるっていう事実が、私にとって本当に救いになってくれている。もちろん読んでくれただけでも十分すぎる。なんてありがたいんだろう。はてなビギナーすぎて、コメントの返信方法がわからず、この形でごめんなさい。
そして今日、カウンセリングに行って相談してきた。カウンセリング中に思い出したこともあったので、少し加筆してます。
カウンセラーの方には、「母と共に、それが難しければあなただけでも逃げるべき」とアドバイスをもらった。本当にそうだと思う。父が祖母を病院に本当に連れて行くのか確認しつつ、次の手を考えたい。
そして、カウンセリングでびっくりしたのが、「あなたのお父さんは残念ながら世間一般で言う毒親です。だから離れてください」と言われたこと。世の中には親に虐待されたり、人格否定されたりしたひとがいるんだから、私の父なんてまだまだ序の口で、こんなことで参ってる私は甘いなあなんてどこかで思っていたから。
これを読んでくれた人は、私の父をどう感じただろうか。
何をもって正常とするかは知らんのやが・・・正常な人間もまた自分が正常とは自覚できんのじゃないか?
ワイはあれの募集と講習会のお知らせを見たけど、頭の下がる思いだったよ
裕福な地域の図書館とかにたまに置かれてるんじゃないかなぁ。知らんけど
まぁ善意だからと言って、折半詰まった人に適切なスキルを持っていない人が対応するのはどうなのよとはなるが、
根本は善意なはずなので、その人のスキルで対応できそうなことやって貰うといいと思うよ
希死念慮は病気だから病院へ行きなさい。とりあえず下記に電話して相談するといい
https://www.mhlw.go.jp/mamorouyokokoro/
ほぼボランティアでやってくださっているはずで、
平たくいうと、当たり外れあるらしい
電車で立っていたらリュックが座っている女の手に当たったらしくリュックをグイーと押しやられた。
それからスマホをこちらに向けてきたので、「当たった?」とか言ったら「当たった」とかなんとか言い返してきたので、こちらも言い返した。
なんか楽しそうだった。
「すごく大きいリュックだね、何入ってるの?」と聞かれたので「お弁当」と答えた。
「あらそう、私のお弁当はあそこ(網棚を示す)」と言われ、「網棚は無理だよ…」と答えた。
最後は自分が「ごめんね、なんかもう本当に嫌だ」と言った。そのあとは女はスマホをずっといじっていた。
疲れた。
そのあと乗り換えて、そこも満員電車で、男に足を踏まれた。それで一気に涙が出てしまった。
自分が疲れすぎてて。そこからは職場でも涙が止まらず、目が赤すぎて嫌になった。
昼に持ってきた弁当はサラダだけ食べて、午後休ませてもらうことにした。
一人で抱えるのがもう面倒になったので。これまでの人生、嫌なことがあれば自分を励ますために紙に書いたり少し親しい人に話したりしてきたけど、もう面倒になった。落ちた時に、元の気持ちになるために色々考えてやってみるのに疲れた。
弁当のくだりを話せたのが良かった。くだらなくて恥ずかしすぎて、リアルでは誰にも話したくない。
でも自分一人だけの思い出になるのも嫌だったので話せて本当に良かった。
まじで嫌だったんだなと思った。
カウンセラーの見立ては、疲れすぎではないかと。往復数時間かけて毎日職場に通って、家のこと、副業で睡眠不足で。
「普通」の設定が厳しいのでは?と。
それでも自分の体力キャパからするとオーバーしてるのかなとも思う。
確かに「ちょっと休みたい」と最近思っていた。何かを頑張っているわけでもないけど休みたいと。
休んで何するとか休んだら無給とかあるから休めないけど。