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はてなキーワード: 現代文とは

2018-02-06

人の性格は変わらない、心情は変わる

現代文の授業で未だに強く覚えてる言葉

 

人の性格は変わらないんだ

でも心情は変えられる

性格が変わったなら、それは非常に大きな出来事なんだ

物語を読むときは、登場人物性格がほんの少し変わることに注意する)

 

これは人生結構役になってる気がする

2018-02-03

まれたくなかった話

私は晩婚家庭の子で、上に兄が一人いる。母は出身海外日本語が覚束ないところがあるため、まあまあ高齢なのもあって働き口がほとんどない。父は数年前に定年退職し、しばらくは非正規雇用で食い繋いできたが、とうとうそ仕事もやめた。両親共就業していない、年金生活である。私はまだ、未成年高校生だ。


別に今が不幸だとも思っていない。生まれてこなければよかったとかぜんぜん思ってない。というか、幸せなのだ。生まれてよかったー!

家族はいいし、何回か病気や怪我で死にかけても見捨てられていない程度には愛されてはいるし、まあ貧しいほうではあるだろうけれど貧乏すぎて食べるものに困るとかもない。

学校だってまあまあ楽しいアルバイト先の従業員同士も仲がいいし、業務内容も自分に合っていると思う。

趣味はとても充実してるし、将来やりたいことだってはっきりしている。たどり着けるかは別だけれど。


けれど。それにしたって思うのだ。生まれてこなければどうだったろうか。

進路がどうだとか、就職がどうだとかのことに不安にならずに済んだ。バイト先に来るセクハラ客にイライラしなくてもよかった、とか。小学校の授業で"親が子供の頃に流行った遊びを調べて発表しよう"という課題が与えられたとき、周りのみんながファミコンとかのゲーム機を挙げる中で一人だけ"メンコ"だなんて言って笑われることもなかった。父と歩いていて、「今日はおじいちゃんとお出かけ?」なんて声を掛けられて哀しくなることだって病気とか怪我で何回も死にかけて、怖い思いをする必要もなかったんだろう。

両親も、兄も、貧しさに喘ぐことがなかったのではないだろうか。


両親のエゴで生を望まれ産み落とされた私が、自分エゴで自らの生を否定する考え方をしているのが悲しい。

まれなければ無でいられたのだ。何かになることを求められずに済んだろう。

私にはゆっくり考える時間が用意されていない。一刻も早く、一人で生きていくことを迫られている。学校だって卒業が着々と近づいているし、両親はもしかしたら5年くらいで死んでしまうかもしれない。やりたいことはあるけれど、そこに向かってのんびり歩いて進んでいる場合ではない。最短距離で辿り着く方法を見つけ出し実行するまでを、一年半以内くらいにはしないといけない。それを、5年も前からずっと急かされている。そういう環境にあるものから、まだ華の10代なのに、なんか疲れてしまった。楽に、なりたいなあ。


生きていたくないんだよなあ。今すぐ死にたいとか思わないけど、50歳くらいで死にてえ。

とか、50歳になったときにはきっと覚えていないけどさあ、でもさあ……。

やりきれないんだよなあ。








現代文先生に「相手に伝えたいことを明確にして文章を作りましょう」だとかよく言われるけど、これを読んでいる人に伝えたい事なんて特にない。ただの愚痴を長々と書いて、最後まで読んでくれたあなた時間無駄にすることで少しでもすっきりしたかったのだ。ここまで読んだそこのおまえ、ざまあみろ。ありがとう

けれどせっかくなので覚えておいてほしい。

結婚妊娠出産権利である義務ではない。子供を作るか作らないか最後にどうするかを決めるのはあなたで、どちらを選んでもあなたエゴだ。産めば少なから子供に恨まれるだろう。産まなければ少子高齢化がどうたらこうたらとか、孫の顔を親に見せないなんてどうたらこうたらとかを言われるんだろう。

迷ったなら、特に迷う理由お金なら、きっと産まない方がいい。産むな。産まないでくれ。産むとしても、金を用意できないことの責任子供押し付けないでほしい。「お金がない」を言い訳に使わないでほしいのだ。

お金がないか大学進学を諦めてくれ」と呪いのように毎日言われ続ける子供なんて、私だけで十分だ。幸せだと思い込んでいないと一人で立っていることすらできないのだって、私だけがいい。

(私だって、一人で立っていられるようになりたいけれど。可哀想とか言われるの、嫌なんだけれども。)




やること成すこと、ぜんぶおまえのせいだ。押し付けるなよ、絶対に。

おまえが子供を産んだ責任は、おまえがちゃんと取れよ。

2018-02-01

おすすめ増田センター試験 現代文 おしえて

センター試験にでそうな増田あるでしょ?

どれが良いかおしえて。

自分より評価されている他人馬鹿にせずにはいられない物書きの話

 最初に前提として私の性格を言っておこう。

 まず、プライドが高い。文才も地の頭の良さも無いのに、どうしてか自分は頭が良いと思いがちである

 そして、他人との比較による評価判断の重きを置く。

 極め付けには、「プライドが高く才能も無いのに相対評価にいつもびくびくと怖気付いている私は馬鹿なのだ」と分かりきっているようなことを考えて、まるで自分のことを本当に理解しているからこそ卑下するのだという態度を取る。

 こんな人間の戯言でも良ければ見ていってほしい。

 私は二次創作小説を書いている。ペースは1〜2週間に8千〜1万字程度の短編を一本。生活を圧迫しない程度に小話を書いて満足している、趣味には飢えていない物書きごっこ大好き遅筆人間である

 小説を書くのは楽しい。また理解出来ないようなキャラクタの心情をどうにか知ることは出来ないか考察に走ってみることも楽しい。但しその考察目的が「キャラクタを知りたい」というものである以上、その楽しみが「考察をすること」に留まってはいけないと思うし、考察によって自分が得た「キャラクタの心情」が一次のキャラクタが持つそれと同一である盲目的に信じることもいけないと思う。

 話が逸れてしまったのですぐ上で述べたことを繰り返すと、私は文章を書くことに対して喜びを感じている。元々勉強でも現代文が一番得意で、本も同年代の平均的な読書量と比べれば読んでいる方だろう。文章に対して苦手という意識は無く、文を読むこともこねくり回すことも大好きな部類の人間だ。

 だから好きなキャラクタについて文章を書くことも楽しいし、それ自体目的であり手段であるのなら「○○について話書くのたのしいな!」で思考ストップしても別に構わない。それが当然の帰結であろう。

 けれど、そこで終われないのだ。

 書き終わった後作品コミュニティサイトにアップし、どれくらいの人から良い評価を得られるかが気になってしまう。数時間おきにページを開き、通知を確認してしまう。

 その上、他人が書いた作品に付けられた評価自分作品に与えられた評価とを見比べ、一概に言えるわけもないのに「自分の方が上手い文章であるのにどうしてこの人の方が褒められるのか」と苛立ってしまう。“一概に言えるわけもないのに”という表現からも、私のプライドの高さが伺えるとは思う。

 pixivを例に挙げると(実際私が今小説投稿しているサイトpixivではないが)、pixivには閲覧者があなた作品が好きですという感想マウスをワンクリックするだけで伝えることの出来る「すき!」という評価システムがある。

 勿論閲覧してもらうこと自体嬉しいのだが、好きだと言ってもらえることはもっと嬉しい。嬉しくてたまらない。しかしその嬉しいという純粋感情は、次第に「私はこれだけ評価されている」という目を背けたくなるような慢心へと姿を変える。

 そして評価されているのは私ではなく私が書いた小説であるということにも気が付かずに、「私はこれだけ評価されている」という偉ぶった思いが、いつのまにか「他人があれだけ評価されている」という妬ましい思いにすり替わっているのである

 実際pixivではランキングという一つの評価指標のようなものがあり、そのランキングがその時の利用者の間の流行に左右されて一つのジャンルで埋まることがあるとしても、競争心のようなものが煽られているような気はしなくはない(利用者が気軽に「評価の高い≒高確率でハズレではない」作品を閲覧出来るようにという意図によって作られたのだろうけれど)。

 しかし私の利用しているサイトではランキングシステムはなく(世間様の目に触れてはいけないようなジャンルを扱う人々が作品をアップするサイトであるからかもしれない)、皆恐らくのんびりと創作に勤しんでいるはずだ。競争心を煽るようなものはどこにも見つからない。

 にも拘らず、だ。私は人様に寄せられた好意と私の作品に寄せて下さった好意とを失礼なことに比較して、剰え自分の方が優秀であるだろうなんてことを考えている。好意を寄せる人々とその“人様”とを侮辱しているようなものではないか

 まあ多分、きっと、私の文章面白くないのだ。それに今熱中しているジャンルは、本編の放送が終了してしまっている。だから離れていってしまった人も多いのだ、というのは言い訳として言わせてほしい。実際閲覧数も落ち着いてきている。

 でも、本当に面白くないのだとは心の底では思ってなどいない。そんなの認められない。認めたくないのだ。だって、私にはプライドがある。私の文章面白くないわけないじゃないか、という捨てられない最後の砦がある。

 どうしてそんなクソみたいなプライドを持ち合わせてしまたかというと、それは中高時代経験が多分にある。

 私は中学受験をして、世間からお嬢様学校と呼ばれるような学校に入った。御三家第一志望とする受験生が第二・三志望で出願するような学校で(当時の話だ。今がどうかは知らない)、毎年数人が東大に行き、学年の半数以上が早慶上智、少なくとも皆GMARCHには行くくらいのレベルのそこそこ進学校である。めちゃくちゃバレバレだが。

 小学校では中学受験をする子が周りにおらず、親も褒めて伸ばすタイプだったのが逆に悪かったのか何なのかは知らないが、いつのまにか私の中には「自分は頭が良い」という意識が生まれていった。

 しか中学に入って、私はだんだん勉強に追いついていけなくなる。100点のテストで70点しか取れなくて悔しがっていたのが、いつしか苦手科目や5教科以外の試験なら平均点や満点の半分の点数を取れればまあ良いやというようになってくる。

 初めは真面目に通っていた鉄緑会も辞めてしまい、鉄壁はその厚さにギブアップしてターゲット1900に切り替えるなど楽な方を選択して勉強もまともにしなかった為、高3では地獄を見る羽目となった。

 それは元々の私の性格である怠惰さや勉強があまり好きではないという思いから来るものであり、また自分よりも学にも芸にも秀でている友人を見ていくうちに漸く得た「なんだ、自分って大したこと無いんじゃん」という諦念の感によることだったのかもしれない。

 けれど、私は「自分は出来る子だ」というプライドを捨て切れなかった。

 夏休み課題で提出する小説で賞を貰ったこと、授業で誰一人理解することの出来なかった『こころ』の友人Kの感情自分だけ読み解けたこと、センター志望校過去問絶対現代文だけは間違えなかったこと、そういう取るに足りない誰もがきっと忘れていくような些細な物事の欠片を、歩いてきた道を振り返ってしゃがみこんで目を凝らして拾い集めた。

 誰にも自慢出来ることがなく、性格が良いわけでもなく、美人でもなければ気が利くわけでもない。友人と呼びたくとも向こうがこちらを好いていなかったらどうしようと怖くなって友達もあまり作れなかったし、部活で一緒だった数人の友達と呼べる人たちが皆国立理系コースに進む中私だけ私立文系という道を選んだ(算数嫌いが祟って数学も駄目だった)し、夢もなく何かに向かって努力たかと言えば泣きながら日本史熟語を頭に詰め込んだ時くらいだ(暗記科目が苦手なくせに受験で使った)。

 要するに救いようのないくらい臆病な馬鹿だ。出来ないことが多すぎて、常に劣等感に苛まれている。しかし臆病であるからこそ本当に自分は駄目なんだと諦めたくなくて、「自分馬鹿じゃない」と思い続けている。

 結果として大学受験センター滑り止め他志望校で躓き続け、奇跡的に第一志望だけ合格したのだから始末に負えない。世間様に馬鹿にはされない学校に入ったことで、人生設計の全く捗らない行先に少しは安心出来る要素がプラスされたくらいのくせに、私の「自分は出来るんだプライド」は強化されてしまった。

 「どうしてどうせまともに勉強もしていないようなあなた文章が、W大文学部の私が書いた文章よりも評価されるの?」

「どうしてあなたがテキトーに書いた3千文字も無い文章が私の1万字よりも評価されるの?」

「どうしてまともに『てにをは』を使えないあなた文章が私の文章より評価されるの?」

 というような泣きたいくらいの進化が遂げられてしまった。いやもう泣いてる。見ず知らずの人を絶対自分よりも下流努力していない人間と決めつけて、自分付加価値で殴ろうとしている。文章は長ければ長いほど良いと思い込んでいる。三番目は許してほしいが、信じられない愚行だ。

 まず第一勉強が出来る(=成績が良い)ことと文章面白く書けることとは全くもって関係がない。ウィット文章を書けることと教養があることとは関係があるだろうが、そちらは関係がない。

 第二に学歴文章判断するのは間違っている。学歴が無くても面白い文章は書けるし、一般大衆にウケたり賞も獲れたりする。

 まったく評価基準が間違っているとしか言いようがない。視野が狭い人間なので他にも叩ける部分はあると思うのだが、溜息しか出ない。しかもわかっているのに直せない(と思い込んでいる?)のだからどうしようもない。どうしたら良いのだろう。どうすれば良いのかわからなくて、途方に暮れている。

 嫌な人間になってしまったものだと思う。でもこの世の中は競争社会で、相対評価が当たり前で、何かしら人と比べなければ気が済まない人々に囲まれ環境に置かれればそうなってしまうのも致し方ないのではないか、と自分を庇ってしまいたくもなる。

 誤解の無いように言っておくと、他人様の文章に感動しない人間ではない。寒い部屋で鼻水垂らして泣きながら読んだ大好きな小説もあるし、してやられたと最後最後でのどんでん返しにニヤついてしまうこともある。

 しかし「人に馬鹿にされたくない」という思いと「人に評価されたい」という思いが混ざると、こんな面倒なことになってしまう。でもどちらも当たり前の感情だとも思うから、返って対処の仕方が解らない。

 作品に関しては宣伝もっと上手く出来れば閲覧数が伸びるのではないか、という指摘もあるかもしれないが、表立って書いてますとは言えないジャンル創作なので、そこの辺りは難しいのではないかと思う(一応ツイッターにそのジャンル専用の鍵アカウントを作ってあるが、相互が40人程度の小規模なアカウントだ)。

 人に賞賛される喜びが捻じ曲がって醜い嫉妬に変わり果てるのは、今私や私の小説を好きだと言って下さっている方々の思いの否定にもなりかねず心苦しい。

 今回はそういう気持ちをどこかに吐き出したいと思いチラシの裏感覚文章を書いたのだけれど、割合すっきりしたのと同時に恐らくこれからもそのような自己矛盾と付き合っていかなくてはならないのだろうな、という実感が湧いてきている。

 何があっても筆は止まらないし、折るつもりもない。文章を書く喜び、キャラクタに向き合う喜び、そして人に賞賛されるという喜び。それらの何物にも代え難い快感を知ってしまったら、もう当分心大人になりきれるまでは、ずっと苦しみ続けなければならないのだ。

2018-01-26

anond:20180125233342

先方に同情した

それ故に増田文学として完成されていると思う

現代文小説で出てきそう

2018-01-24

発達障害者入試現代文は酷?」に対する意見

まず発達障害者と一括りにするのは不適切です。人によってはむしろ言語情報のやりとりも要求される通常のコミュニケーションよりも、言語に集中できる文章読解の方がやりやすいというケースもあります。結局のところ得意不得意は個人的もので、大学も欲しい学生を採る権利があるはずですから、そこまでの配慮不可能でしょう。

また、小説の心情読解の問題にもある程度システマティックな解法は存在しまから感性的なものに頼らずともある程度対策可能です。

そもそも感情というものは、感覚とは異なり、文化的な要素が強いものです。顕著な例として、「恥」と言う感情が挙げられます日本人とその他の文化の人々の間で、恥という概念は共有されますが、どういう場面でどういうことが起こった時に恥という感情が生じるかは、文化によって異なります。つまり、恥という感情には、後天的に身に付けなければならない、文化の中で定義されるある種の知識技能の側面もあるということです。

この事の裏を返せば、国語試験で問われる心情問題というものを、文章として描かれている登場人物の置かれた状況に対し、上述のような定義に基づいて感情を当てはめることができるかを問う、一種の語彙問題と捉えることもできるということです。例えば、主人公敵対関係にあった人物が、悲惨な状況に陥った主人公に対して一瞬敵意を収め、微かに気遣いを見せた場面があり、そこでその人物の心情を問われたとすると、解答の最大の焦点となるのは「同情」「憐れみ」と言った語彙が出せるかどうか、ということなます。その際基本となるのは、それらの感情表現辞書的な定義理解運用できるかという理知的言語能力であるはずで、それを要求評価するのは国語試験として至極正当であると言えるでしょう。

もちろん普遍的通用する系統だった解法が存在するわけではありませんし、非論理的な設問も存在しますが、小説問題と言えど考え方は全くのブラックボックスではないことを理解して、どの科目の試験にも相性のような要素はあることも踏まえれば、多少の向き不向きがあるとしても適切な指導次第で対策可能であると考えます

余談ですが、昨今入試問題に対する意見を多く見かけます。これを機に、そもそも試験というのは出題者から一方的に与えられるものではなく、受験者やその指導者それぞれが関わって成り立たせてゆくものだということに立ち戻って、出題する側もそれを解く側も、より良い問題を作り、より良い考え方で解く、という意識が共有されるようになることを期待しています

anond:20180124102921

俺は短期記憶が平均以下のADHD傾向なんだけど

(90強なので話すと少し頭が悪そうな人の印象、80切ったら障害)

その分を、長期記憶で補っているらしく

言語系が120超えしている。

から模試現代文偏差値が毎回70代後半だった。

学歴問題ないけど、就活面接は苦労したなー

発達障害者入試現代文は酷?

昨日、バイト先の教え子がある国立大学赤本で、国語問題小説)をやりたいというので付き合った。

江國香織さくらんぼパイ」が題材だった。シングルマザーと娘の母子家庭で、母親さくらんぼパイ手作りしたのだが、娘は甘いものが好きじゃないとかでそれを食べなかった。すると母親は泣き出して部屋から出てこなくなった。というところで、傍線が引かれ、母親がこんな状態になってしまったのはなぜか?という記述問題が出ていた。ちなみに、母親の心情はどこにも書かれていない。娘視点で、お母さんが泣いちゃった。と書かれてるだけ。

まり受験生は、「母親としての自分否定されたような気持ちになったから」とかそういう心情を、この状況から推察して書かなければならない。これは人の感情を読み取ることがムズカシイ発達障害の生徒には難しいだろうなあと思ってさ……センターだったら小説でも本文中に説明があるイメージなんだけどね。この大学はここら地元で唯一の普通の国公立大学から(もう一個は医学単科大)、ここは入れないと高額な私立しかなくなっちゃう。こういう大学発達障害児締め出しはやっていいことなのかなとか。いったい読解力とは何なのか、って考えてしまった。

2018-01-23

センター国語ばかり槍玉に上げてるけど

センター国語プロ作家が解いても満点取れないとか、そういうことになにか意味があるのだろうか。

まず、入試の科目なんてのはその道のプロ選抜するものではない。

国語に限らず数学でも理科でも社会でも、プロ学者がすべての問題ミスなくこなすなんて無理だろうし、外国語だって場合によってはネイティブミスをするだろう。

入試は、特にセンター試験努力の成果を見るものなのだから、才能があるからと言ってできてしまっては意味がない。ちゃんと"お約束"を知っておくことは、当然要求される。

それに、プロというのは一芸があればいい。例えばプロスポーツ選手だってアマチュア向けのテストではあらゆる能力要求されるが、真の一流選手はいくつかの項目が欠けていても活躍できる。メッシが誰よりも足が速く体力があるわけではない。そういう意味でもあらゆる要素が満遍なく問われる試験というのは、アマチュア向けなのだ

そしてそもそも文学というのは書き手読み手認識が一致しないものだ。書き手意図が何の誤解もなく読み手に伝わるならば、文学なんてもの芸術でも何でも無くなってしまう。だからプロ書き手読み手立場センター試験を解けないのは当然と言えば当然だ。

強調しておくと、読み手立場センター試験、という認識が大切なのだ試験を出題するのは筆者ではない。出題者は、読み手なのだ試験の度に読む題材は異なるが、出題者の姿勢は一貫している。だから受験者に求められるのは、作品の筆者を直接理解することでは決してなく、むしろ読み手でもある出題者を理解することなのだ。

そして読み手である出題者の中には、作品の筆者に対する批判意識も当然あるだろうから、筆者の意図は正解とは関わらない。しかしその出題には連綿と引き継がれている傾向、理論があり、だからこそ受験者も一人の読み手としてでなく、問題の解答者として試験に臨むことができるのだ。

最後に、「文学の読み方に正解はない」という国語試験批判する大義名分は、人間知的営みの根本的な前提を確認しているに過ぎないことに言及しておく。そもそも、どの学問を取っても、普遍の真理には程遠く、最新の理論などと言っても一つの解釈しかない。皮肉なことに、科学歴史恣意的ものだという議論入試現代文に繰り返し登場しているありきたりな話なのだが。

結局のところ、センター試験呈示する「読み方」を疑問視するなら、数学の、自然の、人間の、「読み方」である他の科目も―本当の正解とは限らない。逆に、センター国語の出題の背後にある理論は、他のすべての科目の理論と同様、絶対普遍のものではなくとも一つの体系を成している。その事が未だに十分に認識されていないことは、センター試験の失敗でもあり、今後試験の形が変わっても国語教育課題であり続けるだろう。

2018-01-15

山椒魚世界の神であるか?

 現代文の授業で山椒魚を初めて読んだとき、この捻くれ者は、私によく似ていると思った。だが決定的に違うところがある。それは山椒魚世界の神であったが、私は神にはなれなかったという点においてだ。その違いとは些細なようであって、とても重大なことであると私は思う。それは、私が誰かの神に、世界になりたいのに、なれない不完全な出来の人間であるからだ。

まず前提として、この文章はすべて、井伏鱒二氏の短編小説である山椒魚」を借り、私が私について語るだけの、極めて主観的でくだらないものであるということを示しておく。恐らく十八の人間が書く文章なんてたかが知れていると思うが、それでも私は山椒魚にとてつもない親近感を抱いているのである。それについて少しばかり、私が今まで思ってきたことを書けたらいいと思う。

まず「山椒魚」とは一体何かということを明確にしておく必要がある。山椒魚とは前述したように、井伏鱒二氏による短編小説である山椒魚自身身体が成長しすぎてしまたことによって、住処である岩屋から出られなくなってしまう。外に出ようと幾度となく繰り返す山椒魚だが、それが叶うことはついになかった。外の世界自由に生きる生物たちに嫉妬を抑えきれない山椒魚は、ついに悪党となり、山椒魚は岩屋に入ってきた蛙を閉じ込め、自身と同じ状況に追いやることで、自身精神の安定を保とうとしたのである。蛙は屈することなく二匹は岩屋の中で激しい口論を二年にも及んで繰り広げるが、空腹で動けなくなり、死しか望めない蛙に対して、ようやく山椒魚友情を感じるのだ。山椒魚は聞く。「お前は今、何を考えているようなのだろうか?」と。それに対し蛙は、「別に今でも、お前のことを怒ってはいないんだ」と答えるのだった。

この山椒魚を初めて読んだ時の感想は、「二年も口論を繰り返していたのか」とそれに尽きる。だが数回これを読み深めていくうち、山椒魚とは、ただ友達が欲しかっただけの、普通人間なのではないかと思うに至ったのだ。山椒魚には寓意が込められており、簡単に例えを出すならば「うさぎかめ」のように、ほかの生物もの真意本質を遠回しに伝えるというものだ。私の中で山椒魚普通人間であるし、出られなくなった岩屋は肥大した自意識であり、蛙はそれらをすべてわかっていた人間なのだ。これらも前提に、本題へ入ろうと思う。

何故この文章題名を「山椒魚世界の神であるか?」にしたかは至極単純である。私にとって山椒魚は、世界の神であるからだ。もっと突き詰めて言えば、岩屋の中に閉じ込められた蛙の世界であり神であるということだ。まず先程書いたように、岩屋は肥大した自意識であると私は思っている。山椒魚はその自意識に閉じ込められた、或いはそこから出ることを拒んだ所謂可哀想人間に過ぎない。蛙はその山椒魚自意識を満たすため利用された、こちらも可哀想人間であるという認識をしている。山椒魚は蛙を利用し監禁することによって、死の間際に、世界となり神となることに成功したである

人間人間の神になるために必要なことは、その標的からすべてを奪うこと以外に存在しない。山椒魚は蛙を自分の住処に閉じ込め取り入れることによって、蛙からありとあらゆる自由を奪うことに成功している。それがなければ山椒魚は神になれなかったし、もしかしたら山椒魚は図らずも神になっただけかもしれない。だがそれだけ、人間人間の神になるということは難しいことなのだ。それが善悪のどちらに所属するかはまず置いておくとして、私はそれをやってのけた山椒魚を素直に尊敬する。山椒魚悪党となることで蛙を閉じ込めたが、この時の山椒魚の心境を鑑みるに、標的が蛙であった必要はなかったのだと思う。よくニュースで聞くような、無差別殺人犯の言う「誰でもよかった」と同じように。ただこの「山椒魚」にとって、この蛙が蛙でなかった場合、二年間口論が繰り広げられることも、最後にようやく友情が芽生えることもあり得なかったのではないだろうか。

 しかし、だからといって山椒魚が神であるということに相違はない。閉じ込められた蛙にとっては、憎むべき対象も、愛すべき対象も、結局は山椒魚しかいなかったのである。蛙は最後に「今でも別に、お前のことを怒ってはないんだ」と言った。それはおそらく、蛙自身も、山椒魚を神とすることで救われた一人の人間だったからだと思う。山椒魚が蛙を閉じ込めたとき、蛙は、閉じ込められた岩屋の中で堂々と「俺は平気だ」と宣言する。それは山椒魚を見くびってのことだったのか、それとも逆に、山椒魚ならば…という、敬愛の証だったのかもしれない。ただ私が思うのは、おそらく蛙も、もしかしたら山椒魚と同じような立場になっていた可能性があるということだ。メタフィクションのような話になってしまうが、蛙は山椒魚よりも体が小さいので、少なくとも岩屋から出られなくなってしまうということは考えにくい。なので、自由に飛び回ることのできる外の世界―要するに「山椒魚」の世界観で「社会」で、同じ立場になっていたかもわからないのだ。山椒魚肥大した自意識から出られなったが、それはあくまでも人間の内側で起こっている出来事に過ぎない。自身の激しいナルシズムが引き起こす極端な自己評価他者評価ギャップに悩み、それを見栄で隠そうとしたために発生した、ある種一時的反抗期のような、よくよく考えてみれば、我々も通ったことのあるような道でしかないのだ。だが蛙は人間の内側でそれを発生させてはいない。人間人間が大量に入り混じる、失敗の許されない、いわば監獄のような世界でそういった問題に悩まされていたとしたら、それはきっと山椒魚よりも可哀想で哀れな姿になっていたに違いない。山椒魚は蛙を閉じ込めることで、自身と同じ状況の人間作成し、その結果精神の安定を保とうとしたが、それは蛙も同じだったかもしれないということだ。蛙は山椒魚に「わざと閉じ込められる」ことによって、可哀想人間に捕らえられ逃げられない自分を作り出し、自分社会に対する折り合いのつかない問題から逃げ出そうとしたと考えれば、最後の「今でも別に、お前のことを怒ってはいないんだ」というセリフにも納得がいく。

この文章を書くにあたって、自分の「山椒魚」に対して抱いた如何ともし難い薄気味悪さというのは、蛙によってもたらされた山椒魚への許しが生み出したものだと気付いた。小説である一言言ってしまえば確かに終わりなのだけれども、例えば自分が身勝手理由他人監禁され、しかもそこで死を迎えなければならないとなった場合最期相手を許すことが出来るものだろうか。それが愛する人家族ならいざ知らず、どこの誰ともわからない人間にいきなり監禁された時点で、普通に考えて怒りなんて言葉では済まない。それこそ二年間によって繰り広げられた喧嘩でさえ、この最期によればおつりがくるほどだと思う。最初こそ「二年間も口論していたのか」なんて暢気な感想を抱いたけれど、少し考えてみたら、最期の蛙の言葉は、私にとっては最早呪いだ。もしも私が山椒魚だったとして、自分が閉じ込めた相手が死の間際に自分を許す旨の発言をしたら、嬉しさも喜びも何も感じることは出来ない。むしろ、「この人は今まで何を考えて自分の思い通りになってくれたのだろう」という不信感すら残ってしまうだろう。自分という一人の人間を殺したという事実から逃げるなよという、怨念のようなものさえ感じさせる。それを考えると、山椒魚が蛙を閉じ込めたというよりも、蛙のほうが、山椒魚を好きに操っていたようにしか考えられないのだ。蛙は山椒魚のことを、自分と似た人間だと思い、自身社会に出たことで削られてしまった自尊心自意識回復するために、「わざと山椒魚と一緒にいた」ようにしか思えない。物理的にそこから出られなかったとしても、こころだけでも自由になることは出来たはずなのだ山椒魚と違って自由に泳ぎ回ることが出来ていた人間ならば。だがそうではなかった。ということは、蛙は自由に泳ぎ回っているように見えて、その実、社会という檻から逃げられず、自分肯定するために必死だった、ただの哀れな、普通人間しかなかったのだ。

最後にもう一度、これは私が井伏鱒二氏によって描かれた短編小説山椒魚」を借りて書き殴っただけの、主観的陳腐文章であることを明記しておきたい。ここに書かれていることはすべて、私が勝手に作り上げた妄想であって、おそらく山椒魚には、これよりももっとポジティブメッセージ寓意)が込められていることだろうと思う。しかし私にとって「山椒魚」は、どうにもポジティブものとは受け取れなかった。可哀想人間が寄り添って、互いの削れた部分を埋めるために、互いの世界になろうとする。そんな常人には理解出来ない、孤独で閉鎖的でどこまでも自分本位人間本質を描いているように見えたのだ。

私は山椒魚に似ている。けれど私は誰かの世界にはなれなかった。私にとっての「蛙」がこれから現れることはあるのだろうか。山椒魚が蛙を操っていたのか、蛙が山椒魚を操っていたのか。本当のことは、誰も知らない

              

                                                                                                    了

センター試験中に感想戦をするのを止めろ

来年受験リアル17歳が増田を読んでるとは思えないが、ムーミンがどうとか下らないことで盛りあがってたので一応。

試験が終った教科についてあの問題がどうだったとか友達とお喋りしたり参考書をチェックしなおすのは完全に意味が無いから、さっさと切り変えて次の教科の参考書なり教科書なりを読んでいた方がいい。

私は事情があって今年センター試験受けに行ったけれど、無駄感想戦をしないというのを徹底してたのはまあ1割くらいだったな。たまたま隣に座ってた子がそのあたり徹底していて、1日目の試験が終って退室するまでの待ち時間に次の日の理科知識チェックをしてたからこっちも身が引きしまった(まあ結果としてはあまり奮わなかったが)

もし試験から帰ったあとtwitterやらなんやらでムーミンがどうとか言ってたりした受験生ちょっと危機感が足りないと思う(まあ文系センター利用の子は1日目だけで済むからそういうのも居たかもしれないけど)

地理Bを本当に受けた感想からすると第5問はかなり難しかった。ムーミン(4問目)より前の北欧三国の各地の気候(1問)とエネルギーバランス(2問)を両方落したし、産業貿易について(3問)も自信を持って答えられなかった、税負担率と公的社会支出(5問)は簡単だったけど。

ムーミンはあれ作者はスウェーデン語話者のフィンランド人じゃなかったっけというところで手が止ったけど、正直北欧3国の母語がどうとか宗教がどうとかい問題を出されるよりはよかったじゃないかな。ここで失点したから89点とか言う良いんだけど微妙な点数(あと1問で9割台)になってしまった。

あと個人的にはセンター英語第5問が宇宙に行ってた方がびっくりしたぞ、あそこは近年はメール文読解から物語文読解になってたから充分ありえることだったけど(ちなみに英語第5問の解き方は普通に読んで普通に解くのかコツらしい。第6問みたいにパラグラフ毎に分解して解くとかテクニックは使えない)

自分感想戦をやってたら長くなってしまったので繰り返すけど、こういう感想戦試験中に絶対にやるな、自己採点まで終ってからしろ。あと毎年センター現代文伝説みたいなのがネットにあがってくるけどあれはワンセンテンスだけ抜きだして笑い話にしてるだけで読解問題得点UPには1mmも役にたたないから素直に本文を読んだ方がいいぞ。

2018-01-10

昨日の人気増田を一行で要約していく

長い文章が読めないクソザコナメクジが多いので、高校時代現代文偏差値80オーバーだった俺が要約してやる。

ある程度長く、主題がはっきりしているものに限る。一行じゃない? 環境依存だ。知らん。

せめて違法サイトが勝ってる所は「無料」の一点だけであってくれよ。

結局は一番弱い末端の人間が真っ先に切られる

新成人の方々に喜んで貰えるのが良い成人式の条件だ。成人式に関わる全ての大人はそのことを念頭におき、責任を持ってあたるべきだ

エロってTPOをわきまえる必要あるじゃん

リスクや損害があることは人の自由を奪っていい理由にはならない。リスクや損害には個別対処すれば良い。


以上。他にも要約してほしいものあったら要約する。

はてな記法慣れないかもっとやすくなる方法あったら教えてほしい。

この記事を書いたきっかけは違法アップロードサイトが人気なのは「無料だから」だけではないをまともに読めないスカボンタンが多数存在するという追記を見て絶望たからです。

増田本人に要約間違ってるって言われたらウケる。あえて言おう。それは書いた奴が悪い。

でも一番上の記事だけはヒャクパーあってる。命をかけるよ。

2018-01-06

学習指導要領で、古典国語文法統合すべし

anond:20180105123031

要するに、

受験ゲームルールがそうなってるんだからしょうがないでしょ」

という話だな。

元増田意見とは異なるが、オレは古文漢文はもう要らないと思う。

俺も、今の古文漢文教育無駄だと言われても仕方がないと思っている。

ただ実は現代文法は、古文漢文を知らないと理解できないものがあることを知ってほしい。

その辺の事は、大野晋日本語文法を考える」が詳しい。

「は」と「が」の使い分けの説明

「浅い」「浅ましい」などの形容詞のいわいる「シ(浅し)」「シク(浅ましく)」は

状況→「シ」と情感→「シク」で分類されていると『万葉集』『源氏物語』などの古典引用しながら説明している。

是非、一度読んでみてほしい。

最終的には、芸術地理歴史の科目として古典を分類し直す

俺が、学習指導要領改定できる立場で、古文漢文教育に対して一言申せるならば

現代文古文漢文の枠組みを外して、まず国語文法教育することを提案したい

(正直、現国の読解なんてマークシートなら、出題者の意図読めば、問題文と選択肢を読めば解けるし、良く批判される「筆者の気持ち」は今も問題にされるのか?)。

国語文法と並行して英語教育も行われれば、より英語への理解捗るというオマケもつけて。

英語文法に対する認識が甘いと言うか、toとかforとか、もっと説明してほしかったな先生……

2018-01-05

高校教育大学入試における古文漢文の要不要論が盛り上がってる。

・生身の人間古文漢文自力で読み書きする必要のある職業人口などごく限られている。私の本音を言えば、そんな能力であれば大学専門学校専門教育として施せば十分だろうということである

高校教育古文漢文は授業にせよ大学入試科目にせよ選択科目として設置すればいい。古文漢文が既習でないと教育が成り立たないと大学側が思うなら、受験生古文漢文を課せば良いのだ。

我が国言語には古文漢文というものがありますよ、という触り程度の授業なら中学国語の授業の一環として少々やれば充分。

古文漢文で書かれた文章の中身を深く学ぶのが有意義なのだとしたら、それは現代語訳を使って学ぶことにして、その授業時間は、現代文の授業、あるいは歴史政経倫理の授業など、内容に応じて他科目に振り分ければいい。

国民自国語の古語を読み書きできなくなるのは良くないみたいな漠然とした主張をする人もいるが、古文漢文などあと10年もすればAIがきれい現代文翻訳するようになるだろう。古文漢文現代文と地続きの言語である。そういうのを解析して翻訳するのはAIの得意分野だろう。技術的な難易度だけで考えたら、漢文古文や、古文現代文の完全な自動翻訳は、日⇔英の完全な自動翻訳が実現するより早く実現する可能性すらあると思う。

落ちこぼれ受験生の泣き言に共感する古文漢文不要論者たちの低脳ぶり

まず、古文漢文が暗記ゲームと言っている時点で元増田学力は大したものではない。古文漢文語学だ。英語学習を暗記ゲームだという人間いるか?もちろん語学に語彙の習得必要不可欠だが、それ以上に実際の文章を繰り返し読みこむことが重要だ。

元増田レベルの低い受験生なのだから自分レベルに見合った古文受験必要としない大学に入ればいいのだし、職業訓練が受けたいのなら大学にこだわらず専門学校に入ればいい。

そもそも、なぜ古文漢文だけを目の敵にするのかがよくわからない。よく槍玉に挙げられる現代文の読解問題はいいのか?漢字の書き取りは?三角関数は?歴代徳川将軍名前は?各地の気候名称は?歴代ローマ皇帝名前は?各種金属炎色反応の色は?気体の状態方程式は?三単現のsなんて気にしなくても会話は通じるのではないか

ごまんとある大部分の人間には必要いであろう学習内容の中から古文漢文を選ぶそのセンスが嘆かわしい。古文漢文語学だ。語学である以上、これは知識を得るための手段言文一致以前のすべての文章を読み解くための手段なのだ雑学の集積を知性と呼びたがる最近クイズ番組に影響されたのか知らないが、雑多な知識を頭に詰め込む時間を作るために古文漢文廃止せよというのはナンセンスだ。知識という魚を獲るための釣り竿を魚と交換するのは愚か者のすることだ。

しかし、頭の悪い受験生古文漢文存在に不平を言いたがるのは理解できなくもない。足りない頭で分不相応大学に受かるため何段にも積み重ねたゲタを履き続けるのは苦痛だろう。最悪なのはそれに同調する中年はてなユーザーたちだ。大学で何も学ばず三角関数古文英語必要ない仕事をしている、もしくは仕事すらしていない者が大半だろうから無理もないが、どうか古文漢文を減らしてエクセルの使い方や株の買い方を学ぶ時間にあてるべきだなどという低レベル妄言を垂れ流すのはやめてほしい。あなた高校大学で学んだことをきれいさっぱり忘れて知性を必要としない日常を送っているのはあなた自分教育に失敗したからだ。お願いだから頭の悪い人間が考えた高等教育のあるべき姿なんてものには何の価値もないことに気づいてくれ。

https://anond.hatelabo.jp/20180104132743

https://anond.hatelabo.jp/20180104132743

なんか最近はてなでは「古文漢文不要か論争」とやらが流行ってるらしい。

https://anond.hatelabo.jp/20180104132743

http://mubou.seesaa.net/article/455988153.html

これらの記事、およびそれに対するはてブコメント等を読んだ感想をまず一言にまとめる。

「ぐだぐだ言ってないで、まずデータを元にして提言してくれませんか?」

はてなは割りとプログラマーとかそういう人が多いんだよね?だったら「推測するな計測しろとかの言葉も知ってるよね? なーんで教育関連の話題になるとみんなそれを忘れて馬鹿になるのかなぁ。

もし私たち無限時間と、人的・物的資源があるのなら、そりゃどんな学問だって、いつかは自分のためになるかもしれないのだから勉強すべきである

しかし当たり前だけど、私達が教育にかけられる時間資源は有限だ。だから、その中で取捨選択をしなければいけない、その中で、古文漢文は他の学問に比べて、価値が低いから捨てるべきではないか。これが増田の主張だろう。

まり、これは比較問題なのだ。だったら、賛成にしろ反対にしろまずすべきは、比較可能な形、つまり数量で、それぞれの教科の価値を示すことなはずだ。

いや、もしかしたら数量で示そうにも、そういうことを調査した研究とかがないのかもしれない。僕は最初そう思った。それなら話はわかる。

ところが、探してみると、研究はきちんとあるのだ。ちょっとインターネット検索しただけでこんなに見つかった。

http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/12/post-9108.php

http://mathsoc.jp/publication/tushin/1804/1804nishimura.pdf

http://eic.obunsha.co.jp/viewpoint/201112viewpoint/

この中から「「数学物理」得意な理系出身者は、“高所得”!」というレポートを読んでみよう。

英語国語数学理科社会の5教科、及び「(得意教科)特になし」において、3世代ともに、“数学の得意者が最も高所得”となっている。「数学」得意者の平均所得(3世代の高年代順。以下、同)は、724万円 → 561万円 → 414万円である

> 数学に次いで、理科=708万円 → 545万円 → 398万円/社会=690万円 → 540万円 → 372万円/英語=652万円 → 477万円 → 341万円/国語=519万円 → 410万円 → 313万円と、各教科の得意者の平均所得が続く。なお、「(得意教科)特になし」とする者は国語の得意者よりも高所得(549万円 → 426万円 → 356万円)を示している。(図1参照)

まりもっと教育において所得を向上させる、つまり価値がある」のは数学であり、ついで理科社会英語国語はむしろ所得を下げる負の効果しか持たない。だから国語教育につぎ込む時間資源があるのならば、その分数学・社会英語時間資源をつぎ込むべき。やっぱり古文漢文不要だったんや!

……とは、あたり前のことだがならない。この調査には多くの難点がある。列挙すれば

など色々ある。

だがはっきり言おう、それでも君らのデータを示さないで印象だけでぐだぐだ言う議論より百倍マシだ

anond:20180105180303

すまんな。

「とともに」はそこを区切りとしているので、古典Bの目標理解に誤りがある。そこは解説で明確に「二つの部分で構成」とされているので確認するとよい。古典Bは態度を育てるだけでなく、能力を養うことを目標としている。

まあね。それは見逃してくれよ。

なんで見逃してくれっていうかって言うと、その目標のウチ前半にあたる

古典としての古文漢文を読む能力を養う(とともに,)」の部分って、何も言ってないに等しいからだよ。

たぶんちゃんと高等学校学習指導要領の原点にあたってくれたんだろ。

現代文Bの目標をみてくれ。

現代文B 1目標

近代以降の様々な文章を的確に理解し,適切に表現する能力を高めるとともに,

もの見方,感じ方,考え方を深め,進んで読書することによって,国語の向上を図り人生を豊かにする態度を育てる

ここでは、「近代以降の様々な文章を的確に理解し,適切に表現する能力を高める」と「人生を豊かにする態度を育てる」となっていて、

現代文Bを学ぶのは、「近代以降の様々な文章を的確に理解する」「適切に表現する能力を高める」「態度を育てる」と明確に目標が定まっている。

で、翻って古典古文漢文は「読めるようになる」「態度を育てる」としか書いてない。

読んでどうすんねん、というところがスッポリ抜けてんだよ。

本来はここに、「近代以前の文献調査を行うことが出来るように、基礎知識を身につける」みたいな目的が入って無きゃイカンのよ。

それを試験確認するなら判る。それが必要だと考える大学がね。

現状の、国語の一部として古文漢文をやった上に、そりゃ教養必須みたいに言われんの変じゃねって話な。

また古典Aと古典Bを挙げているが、試験科目としては必ずしもこれらを網羅する必要はない。違いを気にする人は少ないが、

大学国語試験範囲として設定されている科目名は異なる。例えば、東大文科は古典Aではなく古典Bを出題科目としている。最近センター試験国語国語総合が出題科目のはず。

それは、最近では古典古文漢文)の比重が減ってきてるってのでフォローしてるのでどうかひとつ

まあ、ソレを網羅する必要はないっていうのは、(東大文科が古典Bを出題科目としているってのも)

古文漢文国語の一部として試験に課す大学が多くある現状ってオカシクね?」って元増田に対する回答にはなってないし、

オレの「教養学力とは別枠にしておくのが良いのでは」ってのとも無関係よね。

蛇足ながら追記すると、上記の話とは全く別に東大なら教養を求めるのは判らんでもない。

官僚学者を育てることに実績もプライドもあるだろうしね。

東京芸術大学が実技に重きをおくのと同じ理由で、教養に重きをおく大学があっても良い。

そういう反論はありうるだろうね、というのが、「教育を受ける権利云々」の部分な。

anond:20180105123031

言葉永遠の不完全、だから生きている、進化する。

それを肌感覚で感じるには、古文漢文をやるしかないんだ。

古文漢文がなくなったら、30年くらいで極端な日本語右翼左翼がウザくなってくると思うんだよね。

別に100%読解できなくたっていい。現代文全然違うけど、何となく現代文と似ている、そう実感するだけで十分教育価値はある。

多分、コレ読んでいる人が無意識にやってるし、普通人間ならできると思っている当たり前のことの土台に古文漢文がある。

それがなくなる。

テラワロスwが公用語になったら嫌だろ?それは会社公共機関でそういうの使っている奴を叩いていればいいってもんじゃないんだ。


理系で起きたこういうことが、文系でも起きるようになるぞ

https://togetter.com/li/1107013  「現代科学の敗北リスト」が笑えるようで笑えないレベル みなさんも気をつけて


教育が無策だと保守主義が幅を利かせる

昨日と今日が同じなら正しいというのは安直だけどリスクが少ない。

日本語にはコレという型がありそこから絶対に逸脱してはならないという教条主義

近年でいうら抜き言葉否定派。

ら抜きことばは「可能」「敬意」を区別する合理的進化だと認められない人々。

これから先、

外国語学習者の増加による、主語明確化や時制輸入

AI生成文書

音声認識適応日本語

もっと極端な話をすれば顎の骨格の変化が及ぼす音への影響

そういった様々な要因で我々が使う口語まで変化して、それが合理的だと見なされて標準化するかもしれない。

そういうとき「これでいいんだ!」と日本人が受け入れる器の大きさ、それは古文漢文教育にかかっている。

奔放過ぎる言語左翼 ブームは非合理で予測不能

「みんなバラバラでいい、何なら日本語から正式文法正書法なんて概念廃止してしまえ。一人ひとりの言葉は違っても全て公文書的に認める」

なんて主張がまかり通り

とき権力者おかし日本語用法、口癖、なまり

もしくは、絶大な人気を獲得した芸能人のそれや、インターネットスラング

そういうものがなし崩しに認められてしまう。

社会が「過去から現代への日本語進化には、これこれこういう理由があって、この用法あくまで乱れた日本語の域を出ない」と線を引く力。

これも画一的古文漢文教育を行わなければ失われるだろう。

国会答弁では、「昔言ったアレにそういうニュアンスは含まれていない」が繰り返されている

これ以上文法が乱れたら、言った言わない・どういうつもりで言った論争が終わらなくなる。

しまいには(国際進出と縁がないのに)組織意思決定会議外国語を用いた会社が成長する、なんて未来もあり得るぞ。

日本語ポンコツ過ぎて。

anond:20180105123311

子連れで入りたい親なんて限定してターゲットになんかしたところで

誰もそんな事言ってないだろ…本当に現代文不自由なのか

基本的には老若男女問わず貧乏人向けで、それ+子連れターゲットだろう

なんかサイゼリヤを思い出した

あれも学生子連れしか行かない店だと思うけど、婚活で連れて行くのがどうたらとか言うのが湧き出てて謎だった

婚活するような年齢で子供もいないのにサイゼリヤ行く層って…

まあ、古文漢文は要らないよね。ブコメスプラトゥーン差し替えると良く分かる。

古文漢文って、基本的には要らないよね。

昔オレがやらされたんだから、オマエもやれよ。

努力が足りないっていう精神論の土台になってる意味現代では「積極的廃止すべき」だとも思う。

ただ、オレの「要らない」ってのは、元増田の主張とは立ち位置が違う。

元増田の「人生を左右する受験必須とするな」という主張には反論できるんだよね。聞いて欲しい。

そもそも立脚点スプラトゥーンとの違い)

高等学校学習指導要領スタートにするのは同意してもらえると思う。

そうすると、古文漢文って「国語」の以下の6つの科目のうち2つにあたる。

古典Aと古典Bだよな。

からブコメの「漢文には○○という効能がある」と言うのは全部ダメで、

それを言うなら「漢文」を「スプラトゥーン」に置き換えても同じ論立て出来るよな?ってなる。

その論立てだと反論になってないってのは良く分かる。

だってスプラトゥーン短期間でPDCAサイクルを学べ、さらに非言語コミュニケーションを通じて素早くチームでの立ち位置を明確にして、彼我の戦力差からどのように地形を利用するまでを、なんとゲームとして楽しく学ぶことが出来て現代社会を生き抜く必須技法が学べる、とも言えるわけであって。

オレが思うに、元増田は、「スプラトゥーン受験科目に入っている世界で、それの意義に反発している」と同じなんだよね。

スプラトゥーンに意義があるのは判る。効能も確かにあるだろう、だがそれは受験科目に必須とすべきなのか?と言う。

なぜ漢文効能を謳うだけではダメなのか

とは言え、ゼロベースで積み上げ式で受験科目を考え直そう!という提言でも無かったわけだし、判り難いとも思う。

から、何故に「漢文には○○という効能がある」というのがダメなのかを説明する必要がある。

古典Aと古典Bの効能ではないから、なんだよね。

高等学校学習指導要領における、国語の中の古典で謳われている効能で説得する必要がある。

そこを無視すると「歴史イケメン口説くのに必須」とかと同じになっちゃうんだもの

そんなん教師は知ったこっちゃないし、オマエだけだろソレ、みたいなね。

その観点学習指導要領を読むと、もうブコメ効能とか的外れも良いトコだよね。

古典Aは古典に親しむ態度さえ育てば、一部法律古文っぽいのを読めるようになれなくても問題ないし、

古典Bは人生を豊かにする態度さえ育てば、読解能力が全くつかなかろうが関係ないんだよね。

本来問題にすべき古文漢文の話は、この学習指導要領における目標の部分であって

「態度育てるだけじゃダメじゃね」とか「態度こそが重要だ」みたいにならんとイカンわけよ。

そして、「古典に親しむ態度を育てるとか人生を豊かにする態度を、現代日本人生を左右しかねない受験科目に加える意義とは?」みたいな話になって無きゃ全く話しにならんワケですよ。

その上で、元増田意見には反論できてしま

オレは要らないと思ってるからそれは後述する。

ただなあ、元増田の「古文漢文人生を左右しかねない学力試験必須か?」には、オレは反論できる。

高校学習指導要領に定まっているから。

元増田も言っちゃってるじゃん。「"機会を与える場"としての中学高校否定するつもりはない」って。

じゃあさ、そもそも入試って何よって話ね。

大学受験における入学試験学力試験な。アレは何を計測しているの?

基本的には「高校卒業程度の学力があり、さらに追加で一定学力があり、出来の良い方から入れたい」ってことだろ。

要は「高校で学んだはずのことを、より多く吸収できてれば良い」ってことだな。

大学本来学力試験の意義から考えれば、高校でキチンと学んで基礎を身につけてきたかね?

知識人として育てる/育つに値する人物かね?って問われているわけだ。

「機会を与えられたら、余さず吸収できる人間か?」と問う学力試験において、高校で学んだはずの漢文が身について無きゃ、ほかも推して知るべし、と言われても仕方がない。

から高校学習指導要領に定めがあり、高等学校卒業程度認定試験でも問われる学力を、大学学力試験確認するのは、合理性がある。

元増田意見とは異なるが、オレは古文漢文はもう要らないと思う。

さて、高等学校学習指導要領に定まっている科目の全てが大学入試に要るわけじゃない。

保健体育、芸術、家庭とかね。チョロっと書いたけど、高等学校卒業程度認定試験ベースに軽重付けてるのが現状ってところだろう。

正直に言えば、ワリと古文漢文って入試では軽視されてるから、まあ比率としては現代では既にして小さくなってるとも言える。

古典に親しむとか人生を豊かにとか、いわゆる武家公家伝統から来た明治文化人みたいな教養を求めるのは、ちっと早いんじゃないかな、と。

帝国大学国家ノ須要ニ応スル学術技芸教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」の頃から残滓に見える、とも言える。

高い学識と深い教養を持った官僚学者を生み出すために、高等教育を施す場所という意義は、既に失われてはいいか、と。

から高等学校卒業程度認定試験から外すべきだと、オレは思う。

高等学校卒業認定試験学習指導要領に定めのある全科目を試験していない以上、試験している科目は学力として重視していると考えるのが自然だ。

大学入学資格検定の時にはあった家庭科廃止されたのも、趣旨としては同じだろうし)

高校では親しみ、それは高校で学ぶ学力とは別だ、と明確にすべきだろう。

まとめ

元増田の主張は、「古典(古文漢文)を受験科目に加えるな」だった。

それは大学側への要請だ。

増田への反論は、『大学として「高校で学んだ学力試験する」のであれば、国語から古典を除くのは不合理だ』になる。

オレの主張は、「古典学力の一部と看做すのは現代ではそぐわないので、まずは高等学校卒業程度認定試験から外すべき」だ。

学習指導要領古典目標をみても(保健体育や芸術目標意味合いとして近いのに)学力に含めるのは、現代高等教育の意義からするとズレがあると思う。

最終的には、芸術地理歴史の科目として古典を分類し直すのが、筋論としては適切なように思う。

論語を読むのは芸術だろう。漢文(訓読)を使ってきた長い歴史理解するなら地理歴史だろう)

法律文を読み下すため」とか「読解能力を上げるため」とか言うなら、まずは学習指導要領改定するところからだろうと。

そうじゃない実務的な面でだ!現実を見ろ!というのであれば、

入試程度の古典知識でその判定してるってマジで主張するつもりなの?とは思うなあ。

漢文問題法律文を読む適性を試験してますって真顔で言われたらその大学はお取り潰しで良いのではないでしょうか。

もちろん、古典に親しみ、人生を豊かにする態度すら持てないもの高等教育を受ける資格はない、という反論はありうる。

現代日本におけるトップクラスの実務家たる弁護士が、現代語の基礎たる古典程度追加で勉強して試験突破できないのであれば、その学力には疑問符がつくので日本しか通用しない教養であっても歴史的な意義から残すべきである、という主張もありうる。(科挙末期みたいになりそうだけど)

ただなあ、「漢文には○○っていう効能があるよ無知乙」みたいな主張は「スプラトゥーンには○○という効能があるので受験科目にすべき」ってのと同じだと思うよ?

anond:20180104132743

anond:20180105121441

じゃあお前が何を主張したかったのが古文ではなく現代文で書いてくれない?

他人の読解力を求める前に反省して書き直すとか注釈追加するとかできると思うんだけどお前アホだから気が付かなかった?

少なくとも再三、マクドナルド安かろう悪かろうじゃ駄目、プレミアム路線は駄目、唯一の回答は普通バーガーって伝えてきたつもりだけど

俺は自分のことを伝える労力はできるだけ惜しまずに伝えてきたつもりでお前も分かってるようだけど

お前に限っては全然伝える努力もしたくないし誤解するなをこれから連呼していくのかな?それなんか説明の足しになってます~?

100回誤解ちゅるな~ってお前が言えば俺はハッとしてお前の意図を汲み取れるんだろうか、それは漢文古文あなただけの言語

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