はてなキーワード: 現代文とは
わたなべ問題というものがあるらしいが、わたべ問題についても知ってほしい。
わたべさんは知らない人からはまず間違いなくわたなべさんと呼ばれることになる。自分はわたべとして生まれて久しいが、それこそ小学校の入学式、病院の受付から会社まで、必ず最初はわたなべと間違えられた。授業を数年受けた現代文の先生にも間違えられたこともある。ふりがなが振ってあっても関係なしだ。
さらにこの問題はグローバルだ。一度、アメリカで会った中国人にわたなべさんと呼ばれたことがある。ドイツに行ったときのホテルでもわたなべさんと呼ばれた。世界的に見れば渡邊雄太、渡辺謙など、わたなべという苗字は圧倒的に有名だ。Watabeと書いてあったとしても、それこそ単なるスペルミスだと思われているのだろう。
このようにわたべ問題の闇は深い。渡部建、渡部篤郎につぐスーパースターが現れて、わたなべ姓を圧倒してくれないものかと日々願っている。
私はトランスジェンダーで、「性自認って結局何?」とよく聞かれるから、私の理解する限りで書いてみる。と言っても、専門家でも何でもない当事者の一人が本を読んだりして考えたことなので、正確性は保証できない。
まず「性自認」はgender identityの訳語だ。identityは「自己同一性」と訳したり「アイデンティティ」とカタカナで書いたりするが、高校現代文のキーワードとしてお馴染みだからよく知られてる言葉だと思う。もともとはエリクソンという心理学者が提唱した概念。エリクソンは難しくてちゃんと読めてないけど、解説とかを見ると、要は安定して持続的な「自分はこういう存在だ」という意識のことらしい。
アイデンティティの確立は青年期の課題だとエリクソンは考えていた。思春期に自分は何者なのかという課題に向き合い、それを乗り越えるなかで自分のアイデンティティを確立していく。それがうまくいかないと同一性拡散という自分が何者なのかわからない崩壊状態になり、様々な精神的な疾患を生じさせる。
このアイデンティティだが、単に個人の内で完結するものではなく、社会との相互交流の中で、社会に自分自身を位置付けるようにして形成される面も大きい。それは例えば、自分自身を特定の言語と結び付けるとか、特定の国と結び付けるとかして、「自分はこの国の人間だ」というアイデンティティを形成する場合などに起きる。性別もこの関連で扱われる。
この社会には主に二つの性別グループがあって、良し悪しはともかくとしてそれぞれ違う扱いを受け、違う行動傾向を育んでいる。思春期の体の変化に気持ちが追いつかず、いきなり「男」や「女」を期待されて苦痛を覚えた人は多いと思うけれど、そうした人はアイデンティティの確立が始まる時期にまさに自分と性別グループの結び付けという課題の解決に困難を覚えていたのだろう。でも多くの人は思春期を過ごす中で遅かれ早かれ少しずつこの課題を乗り越え、安定した仕方で自分と特定の性別グループを関連付け、その性別の人間としてのアイデンティティを確立する。
gender identityというのはこの話だ。多くの人は青年期にアイデンティティを確立する過程の一部として、葛藤を乗り越えながら自分と特定の性別とを結び付ける自己理解を発現させ、それで心理を安定させる。
性別に関してややこしいのは、こうした青年期の課題としてのアイデンティティの確立とは別に、子供の頃に決められ、周りからの識別に使われるラベルとしても性別が機能している点だ。だから、gender identityの確立は単にアイデンティティを安定させるだけでなく、すでに与えられているラベルに即したアイデンティティ形成を期待されるという面もある。多くの人は多少の葛藤はあれど、これらをいずれも遂行していく。こうして人はシスジェンダーに育っていく。シスジェンダーの中にも葛藤が他の人より長引いたり強かったりする人もいて、そうした人は性別違和に似た感覚を覚えたことのあるシスジェンダーになるのだろう。
けれど、ごく稀に何らかの理由でそれがどうしてもできない人がいる。つまり、性別に関してあらかじめ与えられたラベルに従おうとするといつまで経ってもアイデンティティが拡散し続け、心理的な症状を生じさせる人だ。言い換えると、性別違和を感じる人だ。そうした人の中には、周りから期待される性別と異なる性別に自己を結び付けて初めてアイデンティティが安定する人もいる。ただ、その場合でもそのままでは周囲がそのアイデンティティを承認してくれず、社会と摩擦が生じ続けるし、自分のアイデンティティもその都度疑われて安定しづらくなる。だから、摩擦が生じないように見た目を自分と結びついている性別の人間として周囲に承認されやすいものに変えていくことがある。これがトランスジェンダーだ。
中には、どちらの性別グループとも安定した結び付きを形成できない人もいる。そうした人たちの中には、ノンバイナリーという新しいグループの一員として自己を理解したらアイデンティティが安定する人もいる。
一人の当事者に過ぎない非専門家の素人意見だけど、性自認というのはこういうものだと私は考えている。
この考え方だと、反トランスの右派がトランスを攻撃する中で持ち出してくる「トランスエイジも認めないとならないのか」という議論の馬鹿らしさも見て取れる。特定の年齢や年代であることというのは常に流動的で、青年期における安定したアイデンティティ確立の課題には関わりようがなく、例えば18歳としてのアイデンティティを葛藤を乗り越えて獲得するなどといったことはなされない。なので、そもそもアイデンティティには年齢という要素は入っておらず、それゆえ割り当てられた年齢と年齢自認のギャップなどというものは生じない。性自認を単なる自称に貶めるためのレトリックに過ぎない。
トランスレイスも反トランスのレトリックで頻繁に持ち出されるけど、こちらについては人種アイデンティティのことに詳しくないからよくわからない。ただ、人種が養子とかでなければ多くの場合で親から子へと引き継がれるがゆえに、その家庭の人間としてアイデンティティを形成することとその家庭の人間にはない人種の持ち主としてアイデンティティを形成することが矛盾し、安定したアイデンティティに向かわないとかはあるかもしれない。そうすると、性別の場合と違ってトランスが、不可能かはわからないけどかなり困難になるだろう。
似た症状の人が集まっているので、調子乗ってもう少し書く。
左右の耳に入る音の差で距離や角度を算出するんだけど、それが難しい。聴き取りにくくて、メモリーを割いてしまう。
「買った」「カッター」「かかった」の聴き分けなど。やや音痴傾向かも(調査継続中)
例の話わかりやすかったです。誰が何したか確認しないとわからない文章ですね。
現代文読解の練習はできていなかったです。たしかにどういう読み方がおかしいのか、を指摘してくれる環境って普通はないですよね。上司に聞くわけにもいかないですし。。。
例えばさ、その場にいない人物が複数登場する話をされた時に、あなたは「誰が何を言ったのか」の理解がごっちゃになったりしない?
A「Bさんがさ、こないだCさんに会った時*****って言われてさ、傷ついちゃったみたいなのね。でDさんがそういうことしないでねって言ってあげたんだけど、それが恥ずかしかったらしくて上司に相談したらしくてさ」
とかこんなふうに「誰が」が何度も省略されてる悪文を理解できる?
問1:傷ついたのは誰か
問2:誰が誰に「余計なことすんな」と言ったのか
問3:「余計なこと」とは何か
問4:「恥ずかしかった」のは誰か
問5:「上司に相談」は、誰が誰に何を相談をしたのか。上司とは誰の上司か
入試の現代文の問題だったら、こういうのは本文中から必ず回答できるような文章を例題に選ばれてて、答えは絶対1個しかないような問いが作られてるから、時間をかけて読めば「これを言ったのはこの人なんだ」が間違いなく1つに絞れるようにできてるんだけど…
現実のやりとりだと上記の悪文みたいに、「誰が言ったのか特定できない部分がある。これを誰に言ったのか、Bさんに言ったのかCさんに言ったのか分からない」みたいな会話は平気で存在する。
「明らかに分かるだろ」を前提に省略されてるもあれば、話し手が全力のバカだから主語・目的語をどんどん省略する場合もある。
話し手がバカだと、聞き手が「今その話の中で誰が誰に何を言ったのか」が混乱する文章になるから、それを想像で補完すると間違いが起きる。
絶対間違いが起きないようにするには、「今その話の中で誰が誰に何を言ったのか」は厳しく確認しないといけない。
これを怠るとボタンの掛け違いが起きる。
一個間違ったらどんどん間違っていくことになるから、一個のミスが命取りになる。
あなたは「自分は読解力がない」と感じているなら、現代文読解の練習をするといいと思う。
独学じゃなくて、読解誤りを厳しく責めすに優しく「これはそうじゃないよ」を教えてくれる授業を受けるのがいいと思う。
受験目的じゃなくても予備校の現代文の授業だけ受けに行ってもいいと思う。
増田の文自体は主語や人物の欠落がなくて読みやすい。現代文読解の鍛錬詰むことで得られるものがあると思う。
今自分が抱えている問題を書くので悩み相談に乗って欲しいです。
身近な人に相談し辛いのでここで回答を募りたいです。
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皆さんご返信ありがとうございます。初めて投稿したのですが、ここまで多くの人にコメントいただけるとは思っておらず感動してます。
せっかくコメントいただいたのに全てにご返信できずすみませんが、似た内容のものについてはこちらにまとめさせていただきます。
→耳からに限らず、文章を読むのも苦手です。人よりも文章を理解するのに時間がかかってますね。
例えば、同じ部分を理解できず何度も眺めてしまったり、(意図せず)読み飛ばしてしまい理解できてないこともありました。
ワーキングメモリ?というものも初めて聞きました。内容的にこの部分も弱いんだと思います。
・発達障害では?(ADHD、APD)精神科に受診してみては?
→確かにそうかもしれないです。APDについて調べたことはありますが、あまりヒットしなかったのでそのまま流してました。
→実は完全テレワーク、出社タイミングも自由、みたいな会社でして、だからこそ録音ができ自由に聞けているというのはあります。
これがもし完全出社だったら。。と考えると今以上に悲惨な状態だったと思います。
→罹患したことはありますが、コロナが流行る前からこんな感じなので多分関係ないです。
1から文字起こししたときとでどれくらい理解に差が生まれるかも確認したいと思います。(別の問題があるかもしれないので)
→(どっちもレベル低いですけど)比較的文字の方が理解しやすい気がします。
文章レベルでの記憶はできないんですけど、あそこにあんな事書いたな、みたいな映像記憶は残りやすく、
・メモを取ってみたら?
→メモは取ってはいます。明確に5W1Hを順番で伝えられたらメモにも落とせるんですけど、
業務上の会話って色々話している中で5W1Hを把握する力が必要だと思うんですけど、そういうコミュニケーションになった時に理解できなくなりますね
最近は「一応確認ですけど、~~ですよね?」と聞くようにはしてます。
ただ、コメント頂いている通り相手から文章で貰う、できるだけテキストベースで仕事を進める、はできてなかったのでそこは早速明日からの業務で実践したいと思います。
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○スペック
・25歳で新卒3年目
○悩み
(今言ったこと復唱してみて、と言われたら詰む)
仕事上で困っていることの例)
・文章としては理解できておらず、なんとかキーワードを拾って自分で理解できる形に落とし込んでいるが、
当然自分の理解した話と違う場合が多々あるので、「いやそうじゃなくて・・・」と訂正されることが多い。
・初めて聞いたキーワードがある場合は、自分の中で理解できず頭がフリーズしてしまう。
・話を理解できておらず、間違った作業をしてしまい関係者に迷惑をかける。
・複数の質問を一気にされると、1つ目の質問はギリギリ覚えてられるけど2つ目以降は覚えておらず聞き返すことが多々ある。
・軽くこれとこれ確認として、と言われた内容を覚えていられず漏れてしまう。
○この3年間どう耐えているのか?
・(ほんとはいけないけど)お客さんとの会議や上司との会話を逐一録音して、
文字に書き起こしています。そこまでやって初めてちゃんと文章として理解できるようになってる気がします。
普通の人はこんなことしてないんだろうなと思って惨めな気持ちになりますし、能力的にこの会社に場違いなんだなと思い勝手に疎外感を感じてます。
1年目のときは今以上に何も理解できず、それを産業医に相談してみました。
「慣れ」の部分が大きいのではないか、と回答されまして、確かに慣れで1年目よりは周りとの理解のずれが少なくなりましたが、
こういう悩み相談を周りからされないし、そんな悩みが無い前提で仕事が回っているように感じるので、会社の人には誰にも相談できません。
(相談したとしても、その悩みのプロではないので解決策など出ず、「できない奴」として評価されるだけな気がします。)
・現代文の成績は昔から下~中の上くらいでした。文章の読解力が会話の理解に繋がっているのかもしれないですね...
・思い返すと、これまで留年や浪人もなく、普通に卒業はできているけど、授業は先生の話を理解する、というより、とりあえず板書や先生の発言内容をノートに写すことに必死になっていた気がします。
これは理解ができなかったがための行動なのかもしれないです。
・大学生のときは飲食店でアルバイトをしていましたが、料理名を誤って聞いたり、間違ったテーブルに料理を出したりして迷惑をかけていました。
・両親も私と同じようで、質問したのに全然別の方向の回答が返ってきたり、そもそも話を理解できていない、というケースがあり、
会社での自分を見ているようで辛くなり帰省の足が遠のきました。遺伝とか家庭環境も関係あるんですかね。。?
・高校1年の冬からずっと予備校に通って夏休みも受験生顔負けなくらい、青春を投げ打ってひたすら勉強していましたが、大して偏差値は上がらず、地方国公立大と中堅私大しか受かりませんでした。
出身高校からすると快挙と言える合格大学ですが、上京した際に受験勉強と並行して青春を謳歌した上で自分と同じ大学に入った人やそれ以上の大学に通っている、「完全上位互換」がそこら中にいて死にたくなりました。昔から親族や親友から「努力家」と評されますが、実際は人並みになるために人の何倍も時間がかかっているのが現実です。
文章読めない人って知らない文脈で出てきた言葉を自分の知ってる意味合いのまま読んで、それに合わせて無理矢理全体の整合性を取るような気がする。
特定の単語で脊髄反射で飛びついて、あーハイハイ文化資本の話ね、とかバズワードを使って分かった気になってみたりもするかもしれない。
現代文の試験ってまさにこの癖を矯正する事が求められるんだと思う。
試験なら制限時間があるけど、そうでなきゃじっくり読めばいいのにね。
まあ試験じゃなくとも人生には制限時間があるし、全ての文章をじっくり読み解く道理もないんだけど。
それならそれでいいけど、インターネットでろくに内容を理解してないのにやたら上から目線で言及するのはアレだなって思う。社会性の問題ですよこれは。
同じ文章と言っても理屈で理解出来るものなら、読み違えてる事を整合性のつかなさでなんとなく気付けるのかもしれない。自分の読み方を疑わずに文章が変だと言い張るかもしれない。その方がマシかもしれない。
もっと感覚的な事を言ってる内容だと、自分の感覚に落とし込んで、なんとなく分かった気になったままになってしまう事もあるのかもしれない。
まあでも文学なんかはそれで別にそれでもいい気はする。それで心が揺れるなら、道筋は違えど目的は達成してるかもしれない。ある視座から体験を追う中で実感の伴った批判的視点を養う、とかを置いくなら……
でもそういう読み方ばっかしてると、何を読んだ所でもとより自分が大事だと思っているものを整理したりせいぜい気付かされたりするばかりで、他人のものの考え方、感じ方というのをそのまま理解する事も、他人の言葉を借りて新しい感覚を知ることも出来なくなっちゃうんじゃねえかなって思う。
おれもグラントリノ観た時、移民系のアジアのガキと保守的な偏屈白人ジジイという要素を見て安易な受け取り方をした。
ハイハイ、多様性とか、ヒューマニズムで人種を超えるとかそういうのね。
イーストウッドも2008年時点でこういうの描けるような人だったのね。
とか思ってた。
https://anond.hatelabo.jp/20241007213420
アメリカの大学を卒業した俺が、この意見が如何に的外れか指摘する。
英語が下手でも、能力やアイディアを認められたら、相手は話を聞いてくれる。
あとTOEIC満点と英検1級ってまた、試験の質が大分違うだろ。
TOEIC満点とか取る奴は試験オタクだ。地頭で行ける人もいるだろうが稀だ。
例えば、ほとんどの日本人はおそらく、普通の高校受験の現代文で満点取れないだろ?
英会話に慣れてくると「難しい表現・ボキャブラリーをいかに平易な英語に変換するか」の能力が発達する。
話すにはこの能力の方が不可欠。
さらに言えば、ほとんどの日本人は急に、準備無しで結婚式のスピーチなんてできないだろ?
慣れない環境で、TPOを踏まえた言葉遣いを使うのは、ネイティブにとっても難しいんだよ。
英語学習に関して言えば、日本の国内教育だと発音は壊滅的だから、多少勉強しろ。
最低でもELSAみたいなアプリ、もっと良いのは発音強制とか行って、フィードバック受けろ。
恥をかいて、刻みこめ。
単に友達じゃなくて、本気で喧嘩したり、笑ったり、感情の起伏を共有するほどの仲のやつ。
これが結局一番大事。
これだけ自動翻訳や生成AIのサポートと充実してる現代で、第三言語の学習のコスパがどれだけ良いか怪しいだろ。
やはり海外は文化等が違うので、思いもしないトラブル等が起きる。
その対応力や機転が身に付く。
精神的に相当きつかったりもするが。
生産拠点の国外移転なんて話は数十年前から言われてるが、なんだかんだ生産拠点を完全に日本から撤退みたいな極端なことは起きてない。
インドや中国の国民性だとか、政治リスクや為替リスクのヘッジだとか、輸送コストだとか様々な理由がある。
それに日本語ってのは、英語話者からすれば参入障壁でもあるんだよ。
日本人全員が英語を話せるようになったら、英語に文化や経済を乗っ取られる可能性だってあるぞ。
実際、英語圏のアジア人とか、よくアメリカのバラエティーやドラマよく見てるイメージあるぞ。
結局は、英語自体よりも、海外で通用するアイディアや能力を磨くことが、グローバル化を乗り越えるために重要なことだと思うぞ。
ただ、そんな能力の高い奴はそういない。
教育関係の現場で、ある先生が「どの教科をやるにもとにかく読解力が大事です! 学歴を左右するというデータもあります! 大人になってからは取り返しがつきません!」って熱心に言ってた。
こういった話は、新井紀子氏がRSTを使った実験の成果を世に広めて以降流行った印象がある。「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」という本でも有名である。
自分は本は読んだことないのだが、氏の講演を聞いたことがあるのでだいたいの主張は知っている。その中でも、先述したように、「RSTの結果が学歴と相関がある」という部分が印象に残っている。それと、将来の仕事にも影響すると話していた覚えがある。
まあ確かに、中々言うことが通じず指導に苦労してるときに「読解力無いなあ……」って思った経験はあるから、肌感覚では同意できる。
ただ、これに反する考えがある。それが、ツイッターをちょっと賑わせた「国語・現代文得意な人、予後が悪い説」である。実際、こんなデータもあった。
「国語が得意」は「得意科目が無い」よりも予後が悪いのマジで恐ろしい
https://x.com/mitomislilylove/status/1778318052003840216?t=dA5S6eZeNmaQHJ-ni-RKCA&s=19
これまた自分は肌感覚で同意してしまう。というのも、自分自身が、「国語、特に現代文はなんかできるがそれ以外がパッとしない」タイプで、実際良いとは言えない人生送ってるからである。
はてな関連の有名人だと、社会不適応の経験をよく書いている黄金頭氏も国語が得意だったようだ。
RST側の問題を疑うなら、出題範囲が教科書や新聞の文章であるが故に、その知識があるとゴリ押しできる問題が多少あるのかもしれない。それ故に、教科書や新聞の知識→RSTの点数という因果関係が生じてしまっている可能性がある。
何かしらの手段で知識を一切使えなくしたRSTを開発して、そちらでも学歴などとの相関を検証してくれないだろうか。
「国語・現代文得意なやつ、負け組説」側の問題を疑うなら、このデータはあくまで得意教科をアンケートで聞いたものらしく、「全部苦手だけど国語だけちょっと高いのでが得意と言った」って人が多かった可能性がある。
1位 東京(58/60)
2位 京都(49/60)
3位 大阪(48/60)
4位 福岡(43/60)
5位 名古屋(40/60)
6位 神戸(37/60)
9位 広島(30/60)
◆詳細
58東京(現代文化10、伝統文化8、サブカル10、教育10、芸術10、食10)
49京都(現代文化5、伝統文化10、サブカル6、教育8、芸術10、食10)
48大阪(現代文化8、伝統文化7、サブカル8、教育7、芸術8、食10)
43福岡(現代文化7、伝統文化6、サブカル7、教育6、芸術7、食10)
40名古屋(現代文化7、伝統文化7、サブカル7、教育6、芸術7、食6)
37神戸(現代文化6、伝統文化5、サブカル6、教育6、芸術6、食8)
34北海道(現代文化5、伝統文化3、サブカル5、教育5、芸術6、食10)
34横浜(現代文化7、伝統文化3、サブカル7、教育4、芸術7、食6)
30広島(現代文化3、伝統文化5、サブカル4、教育4、芸術5、食8)
29仙台(現代文化3、伝統文化5、サブカル3、教育6、芸術4、食8)
◆各項目
食…美味しいものが幅広く食べられるか
※完全に個人の主観や経験則で書いていますので、こういう考え方もあるかくらいの感覚で読んでください
真面目に勉強したり仕事をしているのになかなか身につかないタイプの人っていますよね。
よく「知識の定着にはアウトプットが重要だ」といった話を聞きます。
それでもなかなか身につかないタイプの人は
一つの要因としてそもそもインプットの質(精度)が悪いのではないかと思います。
書いてある事や聞いた事を正しく解釈できずに、かなり薄まった・濁った状態でインプットしているではないでしょうか。
なので国語力を鍛えろと言いたいところですが、すぐに身に付く力でもないと思います。
ではどうするか?
情報を見聞きした時に
を意識する
というのはどうでしょうか。
現代文の問題を解くかのように細心の注意を払って情報を理解しようと努めることです。
例えば
・主語は何?
・助詞はどことどこにかかっている?
といった点を意識してみることです。
内容の理解はその次です。
国語が得意な人は意識せずとも正しく理解できていると思います。
国語が苦手な人はどうですか?
日常生活であれば問題にならないかもしれませんが、知識の習得においては大きな差となって表れるのではないでしょうか。
いちいちそんな注意を払っていられないという人は、
自分の違和感(引っかかり)を大事にしてみるのがいいと思います。
少しでも違和感を覚えたらそのまま流さないようにしてください。
もうじきアラフォーの増田だけど、最近大学受験に挑戦しようと思い、勉強を始めた。結構いい加減に生きてきたなか、契機があってこれじゃあ詰まらんし割と遅いかも知れないけど、マンネリ化してきたのを変えようと言う心持ちがあって来年の受験に向けて始めた。当然二十年くらい前にやったことだったし、しかも大学受験しなかったから脳が錆び付いた感覚がだいぶある。だから見出しとしては新しいこととしたけど、実際は新しいことではない。けれどだいたい新しい知識。
で、勉強を始めたんだけどまず領域が結構変わってたことに驚いた。情報という科目が追加されたとか。ITとは無縁の職種ばっかりやってきたから、わからないことだらけだし、飲み込みが遅いのも自覚する。
数学に至っては初っ端の二次関数で躓いている。参考書で青チャートってのが良いらしいと聞いてやり進めているけど、変域と不等号の処理がわからない。なんでここで不等号の向きが変わって、なんてのもわからない。なんなら解答をみても、どこから引っ張られた数式なのかもわからない。なんならその前のエクササイズで解けた問題が3日寝かせると解けなくなる。なぜ
今更私立は自分が碌でもない職ばっかりで、貯金が少ないのもあって国立を選ぶから、結構焦りが酷い。たまの休日を使って図書館で(若者に混じっておっさんが同じ参考書を使ってるわけだが)、2Bに手を付けている若い人なんかがいて、相当な遅れがあるのもわかる。
国語も、試しに過去問を解いてみた。古典と漢文はダメだろうけど現代文なら半分は取れると思ってたのも甘かった。相当ズタボロで、自分頭わるいなと毒づきながらやってる始末。
英語もそうだし、歴史も問い方が広範に知っておかないと解けないものばかりだった。
果たして今年に間に合うのか?
もうじきアラフォーの増田だけど、最近大学受験に挑戦しようと思い、勉強を始めた。結構いい加減に生きてきたなか、契機があってこれじゃあ詰まらんし割と遅いかも知れないけど、マンネリ化してきたのを変えようと言う心持ちがあって来年の受験に向けて始めた。当然二十年くらい前にやったことだったし、しかも大学受験しなかったから脳が錆び付いた感覚がだいぶある。だから見出しとしては新しいこととしたけど、実際は新しいことではない。けれどだいたい新しい知識。
で、勉強を始めたんだけどまず領域が結構変わってたことに驚いた。情報という科目が追加されたとか。ITとは無縁の職種ばっかりやってきたから、わからないことだらけだし、飲み込みが遅いのも自覚する。
数学に至っては初っ端の二次関数で躓いている。参考書で青チャートってのが良いらしいと聞いてやり進めているけど、変域と不等号の処理がわからない。なんでここで不等号の向きが変わって、なんてのもわからない。なんなら解答をみても、どこから引っ張られた数式なのかもわからない。なんならその前のエクササイズで解けた問題が3日寝かせると解けなくなる。なぜ
今更私立は自分が碌でもない職ばっかりで、貯金が少ないのもあって国立を選ぶから、結構焦りが酷い。たまの休日を使って図書館で(若者に混じっておっさんが同じ参考書を使ってるわけだが)、2Bに手を付けている若い人なんかがいて、相当な遅れがあるのもわかる。
国語も、試しに過去問を解いてみた。古典と漢文はダメだろうけど現代文なら半分は取れると思ってたのも甘かった。相当ズタボロで、自分頭わるいなと毒づきながらやってる始末。
英語もそうだし、歴史も問い方が広範に知っておかないと解けないものばかりだった。
果たして今年に間に合うのか?
追記をはじめに書くべきとのブコメがありましたので修正しました。
○増補新版にしか弥助の記載がないってコメントあるけどそうなの?そもそもロックリーの本の方が先にでているらしいし、頑張ってこんな微妙なウソつくのはどうなんだ。/そもそも記載は本当でも南蛮人から買うしかない
○弥助の事書かれて無い2017年版大航海時代の日本人奴隷持ってるけど、2021年発行増補新版の間で何かに目覚めたんかな?17年版は序章の改宗ユダヤ人が異端狩りを逃れて日本へ逃げ込む所なんか凄い面白い本なんだけど
そしたらロックリー先生初出、岡・ソウザ先生がそれを取り入れた可能性もあるのか
そしてそれを取り込んでしまったせいで目茶苦茶な記載になったのかも
(肥後に弥助の妻子がいたと読み取れる件について)
○その部分は、校正の最終段階で、段落を丸ごと削除した際に残ってしまったミスです。2021年の再版刊行時にすでに修正済みです。アカデミアの方であれば、そういったことが生じることはご存知ではないでしょうか?それに、弥介の話は前段落で終わっているのは、文章を読めば理解できるところです。
○なおkindleは初版以降の修正は反映されないことが確認されたため、本日中央公論新社と協議の上、Amazonに修正依頼しました。来週には修正される予定です。本日大規模重版かかりましたので、同じ頁の数字の誤字も修正されます。ご指摘、どうもありがとうございました。
(後掲岡先生のXより)
アカデミアでは段落丸々削除する程度のミスは当然に生じうるから問題なし、またこれを弥助の話と取るのは読解力の問題、とのようだ。
弥助の話をしている流れで肥後の妻子の話を続けているのだから、普通の読解力だと弥助の話と受け取ると思うのだが。アカデミアの方々の高度な読解力は凄いね。
また、私なら、まずミスしてしまった本を読んでしまった読者に謝罪するけどアカデミアの流儀は分かんないね
なお、「廿」については修正されていそうだが、「器量すくやか」の誤読(?)についてはコメントされていなかった。
「戦国大名は黒人奴隷を求めた」説、ロックリーさんの捏造ではない
かもしれない。
アサクリの弥助問題から派生して、日本大学准教授のロックリー先生が、「戦国大名は黒人奴隷を欲していた」とデマを流している、との言説がある。
しかし、これはロックリー先生のデマではないのではないか、との意見がX上で交わされているので、ロックリー先生の名誉のためにまとめておこうと思う。(リンクが多くなりすぎるのでリンクは省略)
東京大学史料編纂所の准教授の岡美穂子先生と、その配偶者であり東京外国語大学特任教授のルシオ・デ・ソウザ先生の共著である「大航海時代の日本人奴隷 増補新版」(中公選書)という学術書がある。
屈強で珍しいカフル人を従者にすることは、日本人にとっては「富貴」や「威風」の象徴で、交易に関係する大名たちはこぞってその所有を望んだと思われる(215ページ)
また、ロックリー先生の著作の「信長と弥助」(太田出版)にはこうある。
ロックリー先生の著作が2019年出版、岡・ソウザ先生の著作が2017年であることから、ロックリー先生は岡・ソウザ先生の著作を参考に書かれた可能性がある。
つまり、岡・ソウザ先生は従者と記載しているのを、ロックリー先生が奴隷と言い換えてしまったようなのだ。母国語ではないせいで細かいニュアンスが変わってしまったのか、意図的なのかは不明だが。
ちなみに岡先生・ソウザ先生の著作に「「富貴」や「威風」の象徴…こぞってその所有を望んだと思われる」とあるが、その根拠は示されておらず、不明である。岡先生・ソウザ先生の博識にてらすと論ずるまでもないことなのかもしれない。
ただ、ロックリー先生の著作は英語版では内容が異なるという話もある。そこまで追えていないが。
商売上手の中央公論新社が、話題になったこの機会を捉えて「大航海時代の日本人奴隷 増補新版」を増刷してくださるそうだ。(https://x.com/chukoshinsho/status/1815737944243573035)
せっかくの機会なので皆様も是非お読みいただきたい。
注目すべきページがある。(https://i.imgur.com/aQlemYT.jpeg)
書籍内では「16、7歳」(4行目)とあるが、実は信長公記では「廿六、七」と書いてある。もちろんこれは26、27歳のことであり、①単純なミスが発見できなかったか、②「廿」という文字が読めなかったか、ということになる。ケアレスミスだろうか。
書籍内では「穏やかな気性」(5行目)とある。これも信長公記にあたってみると、「器量すくやか(健やか)」とあるが、現代文に訳すのならば「立派な」や「頑丈な」、「才気にあふれた」といった意味となる。これもケアレスミスだろうか。
書籍内では肥後に妻子がいたとされている(後ろから2行目)。文脈上これは弥助のことだと思われるが、史料中で弥助に妻子がいたことを示すものはまったくない。何を根拠にしているのだろうか。
ルシオ・デ・ソウザ先生は、ロックリー先生の最新作「A Gentleman from Japan」の推薦を書いており、関係は良好だと思われる。
岡美穂子先生によると次の通りだ。
「ゲンダイ」系の媒体、上からの圧力にも曲げず、頑張ってらっしゃいます。どうせ競馬と女性の裸の写真しか載っていないんだろうから読者の質など知れていると、オカミはタカをくくっておられるのかもしれませんが、なかなかどうして、左翼系知識人から、かなり支持されておりますのですよ。私は左翼でも、知識人でもありませんけど。でも右翼は絶対嫌だ。
そんなこんなんで、お友達がいるわけでもない日刊ゲンダイで、本が紹介されました。とても嬉しいです。
https://web.archive.org/web/20201101144221/https://mdesousa.exblog.jp/m2017-06-01/
岡先生のブログによると、左翼系知識人は日刊ゲンダイをかなり支持しているとのこと、また、御本人は左翼でも知識人でもないけど、右翼は絶対嫌とのことだ。
ちなみにこのブログは、2024年5月16日まではウェブアーカイブにて確認できるが、岡先生が今回の弥助・黒人奴隷議論に御参加されるころには既に削除されてしまっている。
弥助・黒人奴隷議論に際し、岡先生のなされた御発言をまとめておこうと思う。
○これだけ「歴史修正主義」って叫ぶ人が出てきてるのに(笑)、右系論壇が沈黙しているのは、さすがにこの問題に関わったら、常識を疑われると認識できているのだろう。
○将来を嘱望されていた呉座さんがあんなことになってしまったのは、あなたたちのような人と不用意に繋がってしまったからでしょうね。
○「権威の象徴としてアフリカ人奴隷を使うという流行が始まった」という文章を否定しろ、という意見が多いようですね。ここで迂闊に発言すれば揚げ足をとられそうです。外務省から正式な要請があれば、史料付きでやっても良いですよ。外務省がこの問題を本当に「国際的な国益問題」と判断すればですが。
○私はロックリーさんの著作は、日本語も英語も「歴史読みもの」であり、学術研究であるとは考えておりません。しかしそれが書かれるにあたって、彼が様々な文献にあたり、想像を超える努力をしたことは存じております。
○彼等にとって、ロックリーさんの著作が、歴史や日本への関心を形成するバイブルであるのだとしたら、それを否定するのは、彼等をとても傷つけることであり、それに対する防衛として、ネットの中で「歴史戦」が展開されているのでしょう。
○に「裏で」繋がっていませんが。私が海外で出版した本のレビューを権威あるジャーナルで紹介してくれたのは彼ですし。面識のない人を「あんた」と呼ぶのは、いかがなものでしょう。おそらく、現在表に出ている人間で、彼を表舞台に連れてこれるのは私だけですが、こんな人のためにはできませんね。
ここから、①右翼・右派に対する敵対心がある、②ロックリー先生の著作は読み物だが、ロックリー先生の努力やそれを信じる人のためにも否定しない。(ロックリー先生は史実と主張しているが)、③政府から言われれば自身の著作を修正しても良い、④ロックリー先生とは夫婦揃ってかなり深いつながりがある、という御意見をお持ち・事実関係であるいうことが読み取れそうだ。
著名な学者であり、岡先生の同僚でもある隠岐さや香先生まで、岡先生擁護の論陣を張っていた。
日本史研究者への歴史観にまつわる誹謗中傷、オンラインハラスメントは「アジアにおける学問の自由への脅威」の一例として報告されるレベルでして、まさに言論弾圧の一種として国際的にも認識されています
https://www.asianstudies.org/publications/new-threats-to-academic-freedom/
ちなみにオンラインハラスメントの日本での事例として、隠岐先生御紹介のページでは望月衣塑子さんの新聞記者が挙げられている。あれってフィクションじゃなかったっけ…?
https://anond.hatelabo.jp/20240703191053
https://anond.hatelabo.jp/20240704181200
岡田知子&調邦行 訳「現代カンボジア短編集2」(カンボジア)
早速だが大同生命がやってる“アジアの現代文芸”シリーズはマジですげえよ。インドネシアとかスリランカ、ラオス、イランみたいな東南アジアから南アジアくらいまでの、日本じゃ見過ごされがちな国の文学しか訳してねえんだから。しかも電子書籍として無料で読めるしな (https://www.daido-life-fd.or.jp/business/publication/ebook) この「現代カンボジア短編集2」なんかクメール・ルージュ以前から90年代生まれまで、ガチの現代作家の短編しか入ってねえ。マジでこんなん読んだことねえわ。将来、浪漫主義とかフランス現代思想とかじゃなくて「アジアの現代文芸に影響を受けました!」って新世代の小説家、現れねえかなあ。
キンキントゥー/斎藤紋子「短編集 買い物かご」(ミャンマー)
同じく大同生命の“アジアの現代文芸”シリーズからなんやが、今も大変な状況にあるミャンマーの文学もこのシリーズでは10冊くらい読める。特にオムニバスの短編集がかなり出てて「ミャンマー現代女性短編集」やら「二十一世紀ミャンマー作品集」やらオススメなんだけども、より読みやすくかつ俺が一番最初に読んだって意味で思い入れあるこの「買い物かご」薦めたいね。市場って空間と買い物って行為を通じて、ミャンマーに生きる市井の人々の息遣いを知れるんだ。ニュースの報道見ると同時に、こういう文学を読むのも重要やね。
カルロス・フランス/富田広樹「僕の目で君自身を見ることができたなら」(チリ)
これはアレや、男と男のチンコ比べ本や。そしてその男と男ってのがドイツ人画家のヨハン・モーリッツ・ルゲンダスとイギリス人生物学者のチャールズ・ダーウィンで、それだけでもスゲーのに、そのチンコ比べでチリ大地震まで起こるから超壮大や。体長の何倍もデカいペニスを持つっていうフジツボまで出てきて、近年稀に見るほどのチンコ本だよ、コイツは。正直ミソジニーキツくてそういう意味じゃアカンけども、流麗華麗な文体で男たちのチンコ比べが描かれる様は一読の価値ありや。読んでどんな思いを抱いても責任は持たんけどな。
この人はどっちか言うと、サスペンス小説の方向性で受容されてるんだが、俺はこの本を“ドン・デリーロが書かなかった最良のドン・デリーロ作品”みたいに思ってる。テロリズム、パラノイア、不条理……訳者の上岡伸雄、実際デリーロの訳者だしね。デリーロの「墜ちてゆく男」とエイミー・ウォルドマンの「サブミッション」と、この「ザ・ゼロ」で上岡9.11三部作や。中でも娯楽作に舵切ってるからこれがいっちゃん読みやすい、分厚いのにリーダビリティ満載や。だが「美しき廃墟」以降、ウォルター作品が訳されてねえ。
レーナ・クルーン/末延弘子「スフィンクスか、ロボットか」(フィンランド)
レーナ・クルーンの本はね、読んでると涙ちょちょぎれちまうのよ、これが。この子供たちに向けて書かれた本なんかは少年少女の瑞々しい姿を描いていて微笑ましい一方で、俺ら大人が読むと、こう大人になるってこと、成熟するってことで失われる何かについて思いを馳せざるを得なくなってさ、それで俺、涙ちょちょぎれるんや。3つの短めな中篇が入ってるんだが、中でも表題作の「スフィンクスか、ロボットか」が一番いい。ラスト、マジ残酷すぎやろ。読んで言葉失っちゃったよ。
にしても児童文学ってのは扱いがムズいよ。児童文学ってのは何よりも子供たちに真摯に向きあうからこそ生まれる素晴らしい存在だが、その児童文学って括りが大人にとって読むに値しないように思わせる。かといって、例外的に大人がその素晴らしさを語る際に「これは児童文学以上に“文学”だ!」とか言いそうになるが、こりゃ結局児童文学を下位のカテゴリーに入れてるからこその物言いだよな。児童文学の出版に関わる全ての人々、そして何よりも子供たちに礼を欠く態度や。俺はこういうのに陥らんように、児童文学オススメしていきたいよな。
http://iuraichiro.com/perkthim.htm
あとイスマイル・カダレ、とうとう死んじまってこれまた泣けたよ。そんな今だからこそぜひともアルバニア文学翻訳者の井浦伊知郎のサイトを見てくれ。カダレの自伝小説「石の町の記録」や代表作「大いなる孤独の冬」の翻訳がこっから読める。他にもカダレに並ぶ大小説家ドリテロ・アゴリの「裸の騎士」とかアルバニア文学の名著がめちゃ置いてある。マジで信じられねえよ、これは。