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2023-10-02

【翌朝追記あり】劉慈欣「三体」の好きなところと微妙なところについて

ネタバレ注意!









好きなところ

たった一つの原理から出てくる結論三部作最後まで貫いている

この物語基本的原理は次の通りだ。「宇宙資源は有限であるしかしすべての文明は成長し・生き残りたい。よって、自分が生き残るためには相手を皆殺しにしていい。さもなくば相手に殺される」。そこから出てくる結論は「相手位置がわかったら即座に抹殺するのが最適解」。「相手と対等の立場に立って交渉するには、いつでも相手文明の座標を全宇宙晒す装置を作ればいい」。

これが適用されるのは地球人エイリアン・三体人だけではない。宇宙戦争ののち、孤立した地球人宇宙船同士も相互不信に陥り、突然殺し合いを始める。この原理原則例外はない。

どうしても攻撃したくなければ、相手の脅威にならないと示すため、限定された空間の中に引きこもるしかない。

絶望的な世界観

エイリアンのたった一つの水滴という兵器に、地球の最強の兵器であってもまったく歯が立たない。あるいは、エイリアンが数百年の偽りの平和ののち、地球人を何の共感もなくジェノサイドする・餓死させることを宣告する場面。主要なキャラであっても容赦なく殺してしまう命の軽さ。無意味に死んでいく人々。愛し合うカップルであっても、異なる早さの時間に引き裂かれる。この絶望感こそが本作の醍醐味だ。

さらに、地球人文明通りすがりの三体人とは別のエイリアンの作った名刺大の兵器で、三次元から二次元物理世界に落とされて再起不能になるまで破壊されるシーン、これは最も美しく壮絶な太陽系人類滅亡の場面だ。これを読むためだけに「三体」を買うだけの値打ちがある。

それだけではない、現在宇宙四次元時空で光速が有限なのも、本来は十次元光速無限だった世界が、宇宙戦争で使われた次元兵器による「堕落」の結果だと示唆される。感動的なまでの悲観主義

SF兵器なんでもあり

宇宙戦艦、超兵器エイリアンコールドスリープ、超構造体(メガストラクチャー)、ネトゲなど、絵になる風景ばかりだ。確かにSFモチーフを大量に詰め込むと粗削りになりがちなので、作品によっては一つに絞ったほうがいいと思うこともあるんだけど、これはいい

舞台中国である

これは欧米SFではほとんど見られない。中国が扱われるとしたら古代文明の謎であるとか、悪の共産主義陣営とかで出てくることが多いので、まず中国舞台であるというのが新鮮だ。始皇帝とか荊軻かい名前が出てくるだけでもうれしい。中国から見た日本文化ってのも、なかなか見られないか楽しいケンリュウも書いているけどね。あと、中国からしても日本と言えばカミカゼ忍者茶道なのね。あとは雀魂とか)。

関係ないけど、英語版ウィキペディアは概して日本よりも記事が多いし細かいことが書いてあるが、中国の歴史については日本語版のほうに一日の長があることもある。

あと、文化大革命が背景になる中国小説とか映画とかって、面白いのが多い。

宇宙の最終的な運命まで描き切る蛮勇

クラークとか小松左京とかじゃないとやらないくらいの発想がぽんぽん出てくるのが素晴らしい。

SFリアルさを求めて、技術革命とそれによる社会の変化を描くこともあるし、現実社会問題に肉薄することもある。雑食の僕はそれはそれで面白くて大好きなんだけど、定期的にSFルーツにある「人類の、そして宇宙の終局的な運命とは」「不可解なるエイリアンとの出会い」みたいなテーマ作品をどうしても読みたくなる。

微妙なところ

概して女性の扱いが悪い

第一部でエイリアン軍勢地球に呼び寄せてしまうのは人類絶望した女性科学者・葉文潔だ。「いっそ愚かな私たちを滅ぼしてくれ」と宣言してしまう。第二部ではエイリアンに対抗するために地球資源を使い放題にしていいと許可された「面壁者」羅輯が、どうすればいいかからずに、かわいいだけの理想の妻を求める(一緒に問題を考えるパートナーではない!)。さらに、第三部ではエイリアン和解した人類が、数百年の平和を経て穏やかになっており、「日本韓国アイドルのように」「女性化」していると描写される(前に「原神」のキャラとか”男らしくない”俳優とか実際に規制されてたよね)。

そして、コールドスリープから目覚めた主人公女性・程心もエイリアン文明破壊するための報復装置を、弱気から起動し損なう(これがさっき述べたエイリアンによる人類ジェノサイド宣言につながる)。

同時にコールドスリープしていた軍人は「この社会もっと雄々しくあるべきだ」という趣旨マッチョなことを述べる。2010年SFだけどこれでいいのか。このシリーズ普通に面白いと褒めていいのかオバマさん。僕はジェンダー意識がかなり保守的なほうだと自覚してるけど、これはちょっと弁護できないな(というかこれだけ女性の扱いが悪いと、作者には過去につらいことがあったのか? って心配になる ※1)。

さらに、第三部の主人公・程心は、使者として脳だけになってエイリアン文明に入り込んだ恋人・雲天明が、エイリアン文明の中枢から伝えてきた、人類文明を救うための暗号化されたメッセージを解読し損ない、これも人類滅亡の遠因となる。

まり人類の滅亡の契機は、ほぼすべて女性に起因している(いずれエイリアンに見つかっただろうけれども、直接の契機は女性)。寡聞にして、この点を検討している評論を見かけていないけれど、ググればどっかにあると思う。

三部作全部ドラマ化するとしたら、この辺テコ入れされるんじゃないかな。

※1 同じ心配をしているのが「たんぽぽ娘」のロバート・F・ヤングで、若くてかわいらしい女の子といちゃつく小説がやたらと多い一方で、「ジョナサン宇宙クジラ」では年上の女性たちや・女性上司日常的に暴力を振るわれている描写がある。成熟した女性に対する嫌悪と恐れを読み取ってしまうのは、気のせいだろうか。

被害妄想

エイリアンとの戦争に勝つためにはどうすればいいか軍人議論する中で「エイリアンに負けるかもしれないという精神的敗北者を追放する」「エイリアンシンパスパイ排除する」という結論が出てくるの、なんというか現実中国共産党の発想なんだけど、エイリアンに対してこういう態度を取るのは欧米だと冷戦時代SFが多い(この前のホーガンとかね。でもホーガンは「未来からのホットライン」が面白いよ。「シン・エヴァ」の元ネタだし)。なんというか、「三体」が悪いというより、中国政府がいまだにスパイ大作戦な冷戦世界観世界を見ているという感覚が生々しく伝わってきて幾分げんなりする。マジで共産党が「最善の防御は皆殺し」とか考えていませんよーに。さっきの女性の扱いと含めて、数十年前のSFを読んでいる気分になってしまった。

第一からエイリアンの超粒子で地球文明監視されて物理学の発展が阻害されるんだけど、これも敵のスパイに見られているという被害妄想的な感じがする。

深読みすれば、共産党監視されている国民の恐怖・心象風景なのかもしれないけどね。

ときどきトンチキ

SFってのはある程度ブラフ必要で、トンチキな場面も出てくるんだけど(それをどうやって読者に悟らせないか仮定文学であるSFテクニック)、たとえば第一部で地球文明を隅々まで監視できるだけの技術文明を、地球ナノワイヤで倒せるってのは、ちょっと無理があるんじゃないか

総評

人類に対して敵意を持っている宇宙の中での、人類の行く末について最後まで描き切った蛮勇がとても好き。三部作の壮大さのおかげで、隠せない欠陥にもかかわらずこの作品を気に入ってしまっている。第一部よりも第二部、第三部の順で面白くなっているのもいい。自分の中では★二つから★四つ半くらいまで評価が上がっていった。作家として器が大きくなったって感じたよ。

ラストの逃避にも似た、小さな農園を備えた小宇宙も、中国伝統的美意識神仙思想隠遁に繋がっていていい。美意識が共有できると嬉しいよね。

全体として思ったのは「これって炒飯ラーメン餃子の特盛セットじゃん」ってことだった。みんながSFと聞いて思いつくネタをがっつり取り込んでいる。読んだSFの冊数が増えると、青椒肉絲とか麻婆豆腐とか黒酢酢豚とか、燕のスープとかフカヒレかいろいろあるのがわかってくるし、全部乗せを馬鹿にしたくなる気持ちも出てくるけど、なんだかんだで小さい頃に食べた大味な全部セット無性に食べたい日もある。

読書楽しい

時々どうしても受け入れられない価値観出会うこともあるけれど、なぜそう考えるようになったのか? なぜ自分不快と感じるのか? と考えると、共感的に理解できるかもしれない。少なくとも自分価値観あぶり出される。

過去批判し、そのうえで現代をよりよくしていこうと思うが、だからといって過去を見くだしたいとは思わない。好きなところ、好きになれないところ、両方を検討するのは楽しい作業だ。

本を読んだときはたった一つの気に入った言葉があればいい。映画を観たときは一つでも好きな場面を見つけられたら良しとする。美術展に出かけたら、一枚だけでも気に入った絵があれば外に出た甲斐がある。

こうして欠点もあるけれども面白かった作品について書いてみて、「もういいや」って思ってた外伝にも、手を出したくなってきた。

それではまた。

前回

今さだらけれどセンスない認定されたSF作品を弁護したい

お昼の追記

「三体」人気すごいなあ。久しぶりにバズったよ。

以下ブコメレス

人によっては人物名前を同定できるかがハードルになりそう。

これは外国文学を読むとき鬼門で、自分三国志ゲームとか小説とかで親しんでたからなんとかなったけど、そうでないとしんどいかも。

おすすめロシア文学もなかなか読んでもらえないのもこの辺りに理由がある。

基本的にはメモしたり声に出したりしてその国の言葉リズムに慣れるのがおすすめマニアになってくるとジョンとヨハネイワンが同じ起源だとか気にし出すけど、これが通用するのはアラブ世界までだしね。

この方が好きなSFもっと知りたい。

SFじゃないのも含むけど、

必読書コピペにマジレスしてみる・自分のオススメ41冊編(1)

必読書コピペにマジレスしてみる・やっぱりオススメの21冊編 (1)

あとは、

必読書コピペにマジレスしてみる・海外文学編(1)

必読書コピペにマジレスしてみる・日本文学編

必読書コピペにマジレスしてみる・ミステリ編

必読書コピペにマジレスしてみる・哲学編

これは読書リスト

2022年に読んだ本

ではでは。

夜の追記

良くも悪くも手触りが野蛮な旧世代SFなのがむしろSFクラスタ外にもウケた理由なのかもしれないとは思う

これはちょっと思った。原初SFにある奔放な想像力、よくそんなネタ思いついたな! みたいなのがたくさんあるのが「三体」のいいところ。

で、それがモヤモヤする理由でもある。SFが洗練されてくると科学的正確さとか政治性とかを無視するわけにはいかなくなる。自分と異なった属性に対して誤った知識が広まらないよう、表現ルールがあるのは大切だと信じる一方、気持ちの面では想像力が羽ばたくのを少しも邪魔されたくない自分もいる。だから、反発する人の気持ちもわかる。

なので、正確性とかに気をつかったSFに慣れた身からすると「こんな粗削りでもウケるんだ! 売れるんだ!」という意外さと、先を越された悔しさがある。だから元増田みたいにSFの外にまで広がった作品を「センスがない」とディスりたくなるのかも。

でも、僕も最初はそういう作品から読み始めたわけだし、重箱の隅をつつくような外れ値の古参よりも、作品を買ってくれる新しいファンがどんどん増えたほうがジャンルは育っていくし、若いファンは「にわか」呼ばわりするのを恐れずどしどし読んでほしい。

思い出したこと

そういえば第三部でアボリジニおっちゃんが出てくるけど、欧米作品だったらもっと白人文化に対して批判的だっただろうし、なんだったら三体人に押さえつけられるときももっと痛烈な言葉をはかせていただろうな。より強い文明出会たことによる悲劇メタファーとしては扱いが若干雑だ。

欧米作品とのこの辺の感覚差異面白い

他に書いた文学関係増田

村上春樹のヒロイン・登場人物たちのつながり

カズオ・イシグロ大体読んだけど好きかわからなくなった

以上。

翌朝追記

おすすめの本のリスト追加したよ

2023-09-29

大人には、東京だって一瞬で飽きる

高いビルと高いビルと高いビルがたくさんあるし、多種多様なお店もたくさんある。

でもその内の、マンションオフィスビルは全て、あなたは入る事すらできない。

多種多様なお店も、あなた永住の地ではなくお金を払ってせいぜい数時間いるのが関の山

人とビルが夥しくあったところで、それらの全てはあなたには何も関係してくれない。

川や堀は例外なく悪臭を放ち、海は泳ぐことなどできない。

原宿渋谷の活気溢れる女子学生達も、同性でも同類でもないあなたには目を合わせるのすら危険になる。

家族と一緒に住んで知り合いや友達がいるなら違うかもしれない。

無敵女子高生なら違うのかもしれない。

原宿クレープ屋の超イケメンお兄さんなら心象風景は違うのかもしれない

東京で明るく生きれる人間が羨ましい

2023-07-28

anond:20230728100019

東京に対する心象風景って街の灰色、空の薄汚れた青、河川のドブ色になるなあ

特に都心埼玉方面は空がほんと汚い

2023-07-21

君生きは宮﨑駿の人間宣言である

正直宮﨑駿というアニメーターのお遊び以前に、今まで日本国内に刺激を与えた数々のジブリアニメ映画のものが見たかった。

宮崎駿アニメ日本に限らず、世界中ほとんどの人は一度も鑑賞もしくジブリというスタジオの名を聞いたことがある。

この時代人間が持っている心象風景時代精神は宮崎駿を語らずにいられない。現代ロックソングは、ビートルズという背景があるから発展して来たのと同じだ。

というか、宮崎駿作るのがアニメだけではなく、幼少期の「見る」冒険である。幼い頃に、みんなはもものけの壮大な自然神秘を感じ、千と千尋トンネルから冒険心を育つ。ラピュタで男女の純愛に目覚め、トトロ友愛を知った。

ジブリ映画存在しているだけで、確実に世界はある程度優しさが増えた。

ところが、君生きはなんだろうか?

君たちはどう生きるかという思想の強いタイトルを挙げながら、ただただ今までの作品二番煎じのように、主人公自由意志がなく、ひたすら母を求める。その母への愛情ははっきり言って共感しにくい、特に若い世代に関しては、エディプスコンプレックス的な描写あるいは哲学思想は、陳腐以外他ならない。

宮﨑駿の独りよがり、彼だけにしかからないエディプスコンプレックス、徹底的なエゴイズムだったことは明白であり、宮﨑駿という人間へさほど関心を持たない人々にとっては、どうでもいい話。どうでもいい映画なのだ

それでもこの映画を深いとか、教養が要るとかと漠然と代弁してくれるものがいるが、こいつらは夢から目覚めたくない人たちである

この作品深淵であり、洞察しようと近いたら何もない闇に堕ちてしまう。宮﨑駿が長年に渡り、隠して来たニヒリズムのものの固まり

つの神話、一つの時代はこの作品により終焉を迎えた。

エヴァ卒業式みたいなスッキリした気分にはなれず、捨てきれずに残った元カノメモリアル的な存在だった。風立ちぬで終止符を打ってくれるとダンディではあるが、君生きで〆るのが、無敵の人無差別テロストーカーの未練ダラダラみたいで気持ち悪い。

一昨日映画見に行ったのに、未だにこの不快さが取り除けない、あと褒める人がいることを見てさら陰鬱な気分になってしまう。

とりあえず最後最後無差別テロをやってしまう宮﨑駿は、所詮人間だった。

追伸

外人増田なので、日本語が変だったら許して

2023-07-19

anond:20230718222319

もうちょっと小汚い心象風景だし、俺も小汚いおっさんだけど、似たようなシチュで再会したのあるぞ。

出張帰りの電車までちょっと時間があったんで、コンビニ弁当だと高くつくからスーパーに入ったら、声かけられて、20年ぶりぐらいに親友と再会。

お互いに時間が無いんでってLINEだけ交換して、その後付き合い復活してるわ。

おっさんは何かないと連絡しないけど、奥さん同士連絡取り合って、子ども同士も仲良くしているっぽい。

お互いに忘れてなけりゃ、どっかで会えるよ。確率は小さいようででかい

2023-07-17

君たちはどう作るか

宮崎駿の最新作『君たちはどう生きるか』を見てきたんで、ある程度ネタバレありで感想書きなぐっておこう。

ネタバレありだからね。

正直、観る前に想像してたより悪くなかった。

テンポも悪くないし、人間関係に緊張感もある。

作画が徹底的に心象風景に寄っているのも、職人芸の趣があった。

火災とか草原の描き方なんて、ゴッホともセザンヌともなんだか判らんけどとにかく印象派的に歪みまくっていて、主人公の高熱に魘された夢のような心が伝わってくる。

田舎の家も、当初は主人公の内心の萎縮ぶりを示すかのように何もかも巨大で、玄関なんてどこの古刹の大伽藍かと見紛う巨大さであり、今に残ってたら家ごと国宝になりそうだ。

もちろん、本物はせいぜい田舎豪農レベルなのだろう。

心象風景として東大寺大仏殿並の巨大建築に見えているだけである

敢えて心象風景とわかるように表現している事で、主人公が実際には父の後妻を嫌っていない事も想像がついた。

なぜならすんごく清潔感のある優し気な美女として描かれているかである。嫌っているなら心象風景でそうはならない。

初対面から一目ぼれレベル主人公は慕っていたのだろう。

でまあ、作品は途中から塔の中パートと、塔の外パートという二輪構成で進んでいくのだが、

まあ、なんだ、ここから批判が多くなる。

まず塔の中パートだが、なんというか、とにかく意味があり過ぎる。

これは褒めてない。

宮崎駿もののけ姫辺りから、やたらと意味のあるものを描こうとするようになってしまってるように思える。

1シーン毎に意味があり、多分本人に質問すれば「このシーンはこういう意味がある」と全部答えてくるだろう。

まり寓話的で哲学的記号的で、イソップ童話とか不思議の国のアリスとか、そういう感じの、「意味の塊」として作品を作ってしまっているのが塔の中パートだ。

ハウルとか千と千尋とかでも顕著だったけど。

これの何が悪いって、妄想が爆発してないのである

ムスカラピュタの雷をぶっぱなしたシーンに意味なんてないだろ。王蟲がペジテのドーム食い破ったのも意味なんてないだろ。

あいう爆発するほど格好いいシーンに意味なんてないのだ。

「どうやお前らこんな凄えの見た事ないだろ。俺も見た事ないから作ってやったぞ。見て驚け。」

という作り手の妄想の大爆発なのだ

妄想を爆発させるためにそこには当然無理がある。歪みがある。そのシーンを効果的に描くために、他のシーンで入念に爆発物を積んでいる。

その無理、その歪みが、ある人には滑り、ある人には刺さるのだ。

本人が見せたいのは爆発の部分だが、関係なく歪んだ部分が受けたりする。それが創作快感である

ところが、この作品含めて後期宮崎はその「見た事ないだろ」をやらない。庵野もだけど。

なぜなら、名前が売れて裁量が大きくなった事で、作りたいものを作れるようになったからだ。作りたいものは作ってしまい、もはや「こんなの見た事ないだろ」が無い。

庵野はその無理のなさを、その歪みの無さを、オタク知識で埋めてシン・ウルトラマンやシン・仮面ライダーを作った。

そこにはTVエヴァのような溜めに溜めた便秘解放のような妄想の爆発は無く、無い物を何とか絞り出した感のある細長いウンコしかない。

一方、宮崎駿はそれを哲学記号で埋めてこの作品の塔の中パートを作ったのだ。これは最早宮崎駿のバランス感覚のみで構成された世界から、やたらとデジャヴがある。

もののけ姫と変わらずに「鎮まりたまえ~鎮まりたまえ~」とやってるし、千と千尋と変わらずに仕事やらされたり禁忌に触れて怒られたりしている。

でてくるのもやたら思わせぶりな妖怪連中である。思わせぶりなだけで、記号であるために特に伏線とかない。どういう存在説明されてフェードアウトする。

エンタメに徹するなら、塔の中はクトゥルーばりの別の星・異星文明でも良かったはずだ。せっかく宇宙から飛来した謎物体的な設定があるんだから、一気にスターウォーズ世界になっても良かったのだ。

そこから進めて、「現代日本主人公の迷い込む異世界として描く」まで手が伸びても良かったはずだ。

ところが、そういうエンタメに走らず、やたら寓話的な見たような話で埋めてしまうのが今の宮崎駿である

ブチ切れるセンス・オブ・ワンダーではなく、賽の河原の石積みみたいなひじょーに心象的なもので埋めてしまうのが今の宮崎駿マイブームである

そういう「意味」だけで構成されたパートからストーリーなんてあって無きがごとしである。断片的な寓話職人芸でつなぎ合わせた取り留めのないタペストリーである

一方、塔の外パートは違う。庵野と同じく、オタク知識で埋めている。

人力車描写一つ、言葉遣い一つ、看板一つ、食事のお膳一つから、「当時はこうだったんだぞ」という聞いてもないのに披露されるオタク知識臭がする。

多分、キャノピー実在ナントカ式とかそういう裏打ちされた設定があるんだろう。田舎がどこの県のどこの地方かも絶対決まってるねありゃ。

っつーことで塔の中パートより終わってる感のある塔の外パートだが、そこで主人公父親が妙な存在感出してるおかげでかなり良くなっている。

というのも、この父親ある意味主人公と後妻という二人の問題元凶と言える一人であり(まあ、亡くなった実母の方がより存在感は大きいが)、更に経営者であり金持ちで何でも自分で決めてしまタイプ

というジブリ作品ちょっと見ないタイプキャラからだ。

こういうタイプは、通常は出て来ても悪役なのだが、この作品ではそれを悪役として描かない。塔の外の部外者として描く。(大叔父と血のつながりもないし)

そんなわけで、このキャラについては宮崎駿の才能の爆発が感じられるのである

経営者であり第一線でもある、という後期宮崎駿が手にした立場意図せずに作り上げた鬱屈爆薬になってこのキャラに込められているのだろう。そのせいで、後半になって妙に生き生きしている。

主人公の心象にだけフォーカスするなら、後半の塔の外パートは要らなかったはずだ。少なくとも、もっと小さくなり、警察とかが来て事務的に進むのがセオリーだったはずだ。

しかし、おそらく宮崎駿はこの父親を描くことに創作快感を感じたのではないかと思う。

なんかもう藤井聡太ばりに全く失着を犯さず最善手を打ち続ける主人公の代わりに、

この父親勝手にやらかすし勝手決断するし部外者でありながらガンガン行くしで、

前半には明らかに狂言回しだったこキャラけが、後半に「キャラ勝手に動いた」を感じさせるのである。作中で唯一、記号を感じさせないのがこの父親である

そんなわけで、ち密に意味を積み上げて作り上げたであろう全体の印象を、後半の父親がぶっ壊して変になっているが、その父親がぶっ壊した所こそが個人的には最も見ごたえがあった、という何とも評しがたい作品である

まあ、悪くなかったよ。

でもね、道徳副読本を作りたいんでもなければ、作品作る時はもっと一点の妄想・一点の美意識に全賭けしましょうや監督

2023-06-17

違国日記アニメの方が合ってる気がするけどなぁ

今月号で最終回を迎えた違国日記

実写映画化が決定したみたいなんだけど、この作品ってアニメ化の方が合ってる気がする

心象風景描写するシーンやキャラクターデフォルメされて描かれる事が多いし

実写じゃこれらの表現をする際に制限が多い様に思う

こういう部分を削って映画化するならそれはもう違国日記というよりは食器カチャカチャ系の量産型邦画しかないし

ていうか女性向け作品ってあんまりアニメ化されないけどなんか理由でもあるんだろうか

2023-06-05

anond:20230605084947

悪いが誤読してると思う。

・後ろから女性を見つけて前方からぶつかっている。

これめちゃめちゃ繰り返してる奴ら居るが、

明らかに描かれてる「尾行して、追い越す」描写をなんで見落とすのかわからん

あと元増田で指摘されてる「ターゲット尾行してたから同僚の不倫も目撃したんだろ」もスルーしてるし。

・ぶつかったあとでスマホが落ちて割れている。そんなに都合よくスマホが落ちるか。落ちてスマホ割れるか。落ちて割れなかったケースは省略されているとも取れるが、それなら主人公しょっちゅうほとんど毎日のように)ぶつかり行為をやっているということになる。警察にも逮捕されずそんな行為がずっと続くものか。

スマホ割れているのは確かに妄想というか心象風景だろう。

主人公は「歩きスマホをしている女性」(=落ち度のある女性)のみを狙っており、本人的にぶつかり行為自己正当化できる余地を残している。

相手が前を見ていないからだ、というのはレスバでも主張している。

割れスマホは「(自分が悪い癖に)権利ばかり主張する女」の象徴であり、レスバ場面につながる。

・ぶつかって女性が落としたスマホ主人公が持っている。これは強盗でありぶつかりとは(漫画テーマ的にも)意味が違うのではないか

ここからずーっと「割れスマホは女の象徴である」だけで終わる。

というかあのグニャグニャに歪んだ喋るスマホをなんで実際に持ち帰ったと思った???

主人公女性が落としたスマホをわざわざ拾って集めることに意味がない。ぶつかって落としたスマホコレクションするという趣味があるようにも思えない。

事件的にもぶつかりと強盗ではレベルが違う。なぜ警察沙汰にならないのか。舞台は都会であり、周りに人がまったくいないような田舎ではない。こんな犯罪を繰り返すのは難しいのではないか

そもそも落として割れスマホを拾って逃げるようなシーンがない。そういうシーンが省略されているにしても、自分からぶつかっておいて逃げるような行為はぶつかりおじさんの行動原理とあっていないのではないか

ここまで全部それ。

割れスマホ主人公にとっての「女」で、スマホ落下から部屋に帰ってからスマホとの会話は心象風景である

主人公電車内では痴漢に間違われないように手をあげているような人間で、内心の善悪はともかくとして慎重な性格をしている。ぶつかりシーンが現実だとしたらやたらと大胆というかキャラが違わないか

痴漢に間違われないように手を上げている」は微妙なとこじゃないかな…

隣の女も同じポーズしてるし。

仮にそうだとしても、前述の通り男は「歩きスマホをしている女」のみにターゲットを定めており、

仮に抗議されてもお前が悪いと言えるようなエクスキューズを確保している。

やたら大胆、という評価には当たらないだろう。

個人的には、主人公は「歩きスマホをしている女からぶつかられた」という自己正当化のためのストーリー自分でも半ば信じているんじゃないかと思う。

 自分悪事自分で引き受けることができないほど小心な人物ではないか

 根拠としては、父が死んだあと、暴言に対して明確な自責表現がないこと。

 むしろそこから逃げるように「これから残業できます」とまるで軛から逃れたかのような物言いをしている。

 慎重かといえば、職場で同僚を「あの女」と呼んだり、発作的に父に暴言をぶつけたり、残業法規制無視しようとしたりとあまりそうは思えない)

2023-05-18

ヨルシカコンポーザー:ナブナが紡ぐ歌詞マジで良い

俺はヨルシカコンポーザーであるブナが大好きで、中でも特にその歌詞が好きだ。特にボカロ時代歌詞が好きだ。なので、俺が良いと思った歌詞ランキング形式で紹介する。

ヨルシカコンポーザー:ナブナについて

ヨルシカボーカルのsuisとコンポーザーはn-buna:ナブナ構成されており、もともとナブナボカロPだった。Pだった頃から”ウミユリ海底譚”や”夜明けと蛍”などの曲で人気を博していた。ヨルシカ代表曲は”僕は音楽をやめた”や”花に亡霊”。

第5位

背景、夏に溺れる(2013/8/20発表)

夏の終わりを歌った曲だ。歌詞は情景描写に終始していて、極めて抽象であるのにも関わらずびっくりするほど切ない気持ちにさせる。歌詞に時折現れる「君」との……これは何だろう? 別れではない、まるで夏の間だけ現れる神秘的な何かとの出会いと別れ? かな? 

こんな風に、よくわからないのになんかよくわかりそうで、聞き手想像余地を多分に与えている点がこの歌詞のよいところ。

“君の声が響く 夏の隅を

街に泳ぐさかなのように”

一番のサビの締めくくりの歌詞だ。この歌詞センスヤバい

君の声が響く 夏の隅を

の”隅を”のワードチョイスがすごい。通常”夏の”に続く言葉ではない。

“街に泳ぐさかなのように”の”街「に」”の”に”がすごい。普通なら”街「を」泳ぐ”としてしまいそうなところを”に”にしている。ほんとすごい。ほんと良い。

原曲と、俺が一番いいと思う歌ってみたリンク(りぶが歌ったやつ)を掲載しておく

原曲

https://www.nicovideo.jp/watch/sm21638600

りぶが歌ったやつ↓

https://www.nicovideo.jp/watch/sm24409321

第4位

始発とカフカ(2015/8/31)

 カフカの「変身」をモチーフにしたリズミカルな曲だ。しかしその陽気な曲調と歌詞のどことなく闇を感じる歌詞が独特の魅力を生んでいる。

“伝えたい事しかないのに何も声が出なくてごめんね”

“見返すには歩くしかないのに上手く足が出なくてごめんね”

これは毒虫になってしまった歌詞主人公言葉であるのは間違いない。とりあえずこの歌詞はなんかいい。すごくいい。

興味深いのは”見返すには歩くしかないのに”の”見返すには”という部分だ。ここに歌詞の中の主人公、あるいはナブナ自身の何かに対するコンプレックスや、攻撃的な意思の顕れを見ることができる。

https://www.youtube.com/watch?v=j-cQ97A0OPM

第3位

メリュー(2015/5/12)

リズムの感じはウミユリ海底譚と似ているような気がする。なんか良いんだよな……(語彙力の消失)。この曲の歌詞マジでいい。

灯籠の咲く星の海に心臓を投げたのだ

もう声も出ないそれは僕じゃどうしようもなかったのだ”

心臓が痛いから死んだふりの毎日を見なよ

もういっそ死のうと思えたなら僕はこうじゃなかったのだ”

“どうせ死ぬくせに辛いなんておかしいじゃないか

俺のお気に入りはこの中の”どうせ死ぬくせに辛いなんておかしいじゃないか”という歌詞だ。生きるのも死ぬのも嫌だった高校時代めっちゃ共感したのを覚えている。

https://www.youtube.com/watch?v=Jak2qiq_jJo

第2位

ウミユリ海底譚(2014/2/24 発表)

独特なテンポが特徴的な、900万回再生された大ヒット曲である

この曲は……アイデンティティ確立ができていない、モラトリアム期間にある少年少女が抱く不安の歌と考えればいいのか? わからん

サビで繰り返される”僕の歌を笑わないで”という歌詞がナブナ自身の思いだと推察するのは妥当だと思われるが、初音ミクが歌っているのに胸に迫るような感じがするからすごい。

“僕を殺しちゃった 期待の言葉とか

聞こえないように笑ってんの”

Cメロにあるこの歌詞を初めて聞いた時、やば!!!! と思った。人をほめたり期待したりすることも罵倒否定と同じように、その人を縛り付ける呪いになってしまう……みたいな。そういう感じ、な気がする。

https://www.youtube.com/watch?v=7JANm3jOb2k

第1位

ラプンツェル(2016/7/6)

つい最近、偶然町田ちまというvtuberが歌った「ラプンツェル」がランダム再生で流れてきて、歌詞ものすごくいい、誰が書いた歌だろう? と思ったらナブナだった。ガチビビった。

以下この曲のネタバレを含む。

この曲は童話ラプンツェルモチーフとしており、そのテーマ性はラプンツェル物語を知っていればそれほど難解ではない。すなわち、叶わない、あるいは叶ってはならない恋の歌……であると思われる。一見童話世界の歌だと思わせておきながら、Cメロ

“空いた灰皿やビールの缶が示した心象風景は”

という歌詞差しまれる。これによって舞台現代であることが明らかになり、一気に物語が具体的な様相を呈してくるのはこの歌詞の興味深いところだ。

さて、第一位にふさわしい、俺が最も好きな歌詞は二番のサビにある。

“僕の目に君が見えないなら

何が罰になるのだろう”

この歌詞を聞いた時、戦慄した。こんな日本語があっていいのか? 夏目漱石I love youを「月が綺麗ですね」とか訳したらしいが、もうそんなの比にならないレベル天才的な表現だ。この言葉意味を俺自身説明するのはあまりにも無粋なので、ここでは控えておく。

短歌でやり取りして恋情を婉曲に表現しまくってた平安時代貴族でも卒倒するくらい良い言葉だ。主人公の痛ましい想いがこれでもかというほど伝わってくる。

原曲

https://www.youtube.com/watch?v=1okLHuZUftU

町田ちまver

https://www.youtube.com/watch?v=XlUhsBX2bLY

2023-05-09

大学生の色恋沙汰」ってタイトルつけたら全部馬鹿らしくなったよ

人間関係に疲れてしまって、そこには何も残らないかもしれないという不安けが残ったので仕方がない。書くか。という細い支柱がにょきにょきと生えた。掴まるものがそれしかないので私はそれに触れることにした。

人間を整理する。近づきすぎた花のうちどちらかを摘む作業と同一視したい。

A…友人。今回一番派手に揉めた。怒らせた。失望させた。裏切ってしまった。

B…恋人。私が選んだもの。素敵とは言い難い。

C…友人。受け止めてくれたと思っている。だけど実情は違うのかもしれない。

D…友人。Aの隣で私を叱ってくれた。でもどうしたらいいかからない。

E…友人。話をしてくれた。信じてくれたならいいのに。

F…先輩。彼は私の何であるつもりなのだろうか。定義とは、実情より優先されるのだろうか。

時系列がただしく流れるように書いていけますように。

右手指輪左手のヘアゴムが絡むほど祈ったら、きらりと光った薬指だけがいやに大人びていて気色が悪かった。私はまだ大人ではありたくなかった。

Bと喧嘩した。

Aに相談した。すっかり別れる気でいたから、きっとその気で話して、その翌日にCにも同じような話をした。AとC、彼女らは態度さえ違えど私の幸せを考えているのだと言って、私の恋人に別れを告げることを賛成してくれていた。

その翌々日、Bと会った。好きだと思った。もしかしたら好きではないのかもしれない。それは常に胸の中にあって、姿を見たときにも自分を疑った。でも別れることなんてできないと、強くそう思ってしまった。アドバイスでどうにかなる柔軟さを世界に置いてきてしまっていた? どうだろう。今となっては、という話になる。

私は散々話した別れ話の構想をなしにすることをAに告げた。彼女は怒った。当然かもしれなかったが、血縁以外で初めて明瞭な怒りを投げかけられて、私の頭の中はゆっくり真っ白になって、そこまで怒ることだろうかと思った。彼女が常々言っていた言葉を盾にして自分を守ろうとした。

そしてすべての思考が同じような緩慢さで停止した。

ゆっくり失われる世界の詳細と相反するように「私」と「他者」の境目が、気持ちいいほどはっきりりとしていくあのセンセーショナル心象風景は衝撃的だった。

地平線すら脱落した白い世界で、「私」だけが太いマジックペンで縁取りされて、あらゆる色彩の侵入を阻んでいるさまを、当事者の私すらもなぜか他人事のように見ていた。

わたしという人間が誰かの意志を無下にすることがまるであるべき形みたいだった。

もちろん、それはエゴである

「私は聖人君子じゃない」

Aがそう言ったのは、LINEノートだった。

彼女が私にくれた言葉もったいないほど長く、それらはスクロールするにつれどんどんとつらそうになっていた。

そして恥ずかしいことに、そこで初めて彼女を傷つけたことに思い至った。悲劇のヒロインに身を沈めようとしていることを痛烈に批判されていると感じた。(AとCからすれば、というかすべての友人と呼称していた人間たちはみなとっくにそう思っていたのかもしれないが)

Dが、ひどく憤慨していた。傷つけた、というよりはひどい迷惑をかけたのだと思う。

私も泣いたし、彼女を泣かせるような関係を持っていたのだから

この中で一番長関係を持っていたのに、固定化されてだんだん固くなっていた関係割れしまったのだろうか。もう水はひび割れから抜けていくしかないのだろうか。

Cは何も言っていなかったが、Aの返事を受けて私から急いで謝罪メッセージを送った。Cはあなた人生からどうも思っていないというある種ひどく軽く透明な返事をくれた。

悲しく、安心した。不注意で鍋を触って赤くなった指先を溜息と一緒にさっと冷やしてもらえたような印象を与える言葉選びだった。

後にこの印象はひどく揺らぐことになるが。

そして今日、Eと会った。Eは詳しいことをAから聞いていた。

私はすっかり複雑化した友人関係の中で声を上げないことを選んでいたから、話ができて本当に、心からしかった。あえてひどい言い方を憚らなければ、餌を与えられた気分だった。

彼女フラットに、やさしい言葉をくれた。豊かでやわらかい言葉を使う人だと常々感じていたから、変わらない感触をくれたことに対して私はひどくわがまま解釈してやさしさを受け取っていた。

愛おしかった。

そのあと、Aから話したいと連絡をもらった。いつも私は与えられてばかりいる。

嬉しくて、でも何を話したら正解を選ぶことができるのかなんてことばかり考えてしまって嫌になるうえに私にとっては以前話したことがすべてだった。

すべてだったから、これ以上どんな言葉を発することが正しさと結びつくのかは理解できなかった。

これが今までの出来事だ。

そしてもう一つ同時に進んでいて、書かなければならないと思ったことがある。

書かなければ抱えきれないと思ったことがある。

私のための文章に、さら自分勝手が混ざることを注として付さなければならないと思うほど横暴な話である

主人公はFだ。

彼は、この話の中で私が唯一男性三人称を用いる相手で、私という人間に様々な側面から好意を抱いたままの異常な感性の持ち主である

Fは今回の件については全くの外野であったはずだった。

しかし、CとF、そして私と恋人のBは同じ団体所属しており、半年ほど前に私とBが揉めたことをきっかけに連絡を取り合っているようだった。その流れでCからFに今回の件が伝わったようだった。

その事実については私は問題だとは認識していない。Cが私によってもたらされた悪感情を消化するための手段は誰にも阻まれるべきではない。

Fは、Cから話を聞いたことを隠して、私にメッセージを送ってきた。

正直、(これまでも自分相手に対して自己表現防衛のために必要な修辞を伴いながらも可能な限り正直に記述してきたつもりだが、この件に関してはより剥き出しな「感情」を用いて、)部外者が不必要な口を突っ込むことがひどく不快だった。

Fの記述曰く、

「Cは半泣きだった」

「Cを責めないであげてほしい」

「Cもギリギリ状態だ」

ということだった。

調子のいいことばかりだった。

Fの、まるで訳知り顔という態度も、本当はCが参っていたのか、それとも話しぶりがFに誤認させるようなものだったのかわからないという事実も。確かめられていないが、とにかく双方の印象が異なるのは非常に不快だった。

2人とも自分が正しいような顔をして、どちらかは確実に嘘をついているのだから。それがたとえ誤解だとしても、誤解のまま私という私ーB関係当事者兼CーF関係部外者とのコミュニケーションをとることを選んでほしくなかった。

これまでの経験上、2人とも印象や偏見で話すことがないとは言い切れない。だからこそ「嫌」だった。

Cについては、たとえCとFの記述が両方正しいとしてもその内情が一部理解できた。ひどく衝突して怒りを向けたAと今の私が向き合えないと知って、逃げ道の役割自分から引き受けてくれたのだとしたら、本当にひどいことをしたという自覚生まれる。そしてCの苦しさはある程度察するものがある。

ただ、一つだけ。C自身が「私に責められた」という内容の発言をしたのなら、それは、当時の私の発言がひどく拙い故だったのだろうが、本意ではないことだけは知らせたいと思った。

Fについては、普段から私が関わった事実の誤認が激しいという印象を受けていた。

私とFの関係性を「友人」というラベリングを行うことで実情を無視してひどく親しげに振舞うそ姿勢は、普段人間活動の上では真人間には見えているギャップも相まって恐ろしい精神的な問題を持っているのではないか邪推してしまうほどだ。(もしかすると、私という観測レンズがひどく歪んでいるのかもしれず、その可能性は決して低くないが)

とにかく、彼とCについての問題解決するにしても慎重な対応必要だと思ったし、本質から外れていると思った。

話は以上だ。

私が悪い。これだけは覆しようのない事実として私は認識している。

ゆえに、これが成立したままで遍く問題解決すれば万々なのだが、そう思っている。

それでは、また明日

明日が来る私より。

2023-02-04

anond:20230204114125

タンタン

舞う双子山

うしちちよ

いい一句ですね。

タンタンという陽気なリズムから巨乳の揺れる楽しい様、歌い手幸せ気持ちが伝わってきます

一組の巨乳双子山に喩えることでその大きさがよく現れています

山が舞うという恐ろしささえある比況により、眼の前で巨乳が揺れる光景が心に与える影響の大きさ、その力強さに対しての畏怖さえ感じさせます

結句では全てが平仮名となってしまたことで、揺れる巨乳の衝撃で知性は吹き飛んでしまうという悲しい人間の性が歌われています

日常の何気ない思いつきによって産まれ心象風景を、他者の心にも同じように想起させる事が出来ているわけですから、名句であると言えるでしょう。

2023-01-06

仮面ライダー映画、唯一の不満点

仮面ライダー映画を観てきました!

冬のライダー映画は、現行のライダーと前作のライダークロスオーバーするのが定番になっています

前作のライダー「リバイス」は、悪魔モチーフにしたライダーでした。ただ、この「悪魔」というのが厄介なんです。

最初、「リバイス」における悪魔は、人間の中にある抑圧された側面だと思って観ていました。己を顧みず人助けをする主人公一輝くんは、その反面お節介エゴイストであることが仄めかされ、彼の悪魔であるバイスとの交流を通じて、それを自覚し受け入れる物語になっていくのだろうと思いました。

しかし、中盤で悪魔の始祖「ギフ様」が地球外生命体だということが明かされました。え?

しかも、悪魔外科手術で移植することができるようです。なぜ?

悪魔といえば「契約」です。一輝くんは、記憶と引き換えにバイスの力を借りる契約をしており、これが終盤、戦えば戦うほど記憶が失われていき、守るべき家族のことも忘れていくという悲劇的な展開に繋がっていきます

しかし、一緒に戦う兄弟たちは、特に対価を払っている様子もない。あとバイス人間を喰おうとしてたけど、他の悪魔カレーとかを食べたがってた。何?

とにかく設定というか、ルールがわからないなというのが「リバイス」というライダー感想だった。だからTV最終回で、バイス存在記憶を引き換えに家族記憶を取り戻す展開もイマイチのりきれなかった。

とはいえ一年通して平和のために戦う姿を観ていたのでスクリーンで久しぶりに戦う姿を観れてなんとなく嬉しくなった。

序盤、悪魔の始祖ギフ様に文明を滅ぼされた宇宙人との戦いで、一輝くんが必死重症を負った。

(なぜ人間から生み出される悪魔必要とするギフ様が文明を滅ぼしたかは謎だけど、気にしないことにしよう。ギフ様が宇宙にいたのは少なくとも数千年前の話だったと思うけど、宇宙人地球人時間感覚は違うだろうし、それもいいや)

重症を負った一輝くんは、自分記憶燃えまくっている地獄みたいな場所に行った。たぶん心象風景だろう。

途中で別れ道に立った一輝くん。右は光差す道、左は地獄業火燃え盛っている。右に進もうとする一輝くんに、謎の声が「それでいい」というようなことを言う。たぶん、この声バイスの声なんだろうと思った。一輝くんがこれ以上戦いで傷つかなくてもいいように、そう言ったに違いない。

しかし、途中で「家族を守る力が欲しい」と思った一輝くんは方向転換して地獄の道へ。そこでバイスと再会し、バイスは復活した。やったぜ。

復活したバイスはそのことを喜び、「ファンのみんな〜お待たせ!」などとはしゃいでいる。じゃああの謎の声はなんだったんだ?

「リバイス」の復活を描いたところで、映画クロスオーバーのターンに突入した。

現行のライダー「ギーツ」は、ライダー同士がサバイバルゲームへの参加を通じて地球を守るというストーリーだ。ゲームの勝者は自分の望みを叶えることができる。

今回のゲームは、マラソン。前半で攫われた一輝くんの弟である赤ちゃんから取り出された悪魔を42.195km運んだらクリアだ。なぜ攫った悪魔を一度ライダーに預けて運ばせるかは謎だ。目的場所にはライダーしか辿り着けないとかでもない、普通にゴールで黒幕が待ってた。

その後、2ndステージとしてライダー同士が最後のひとりになるまで戦う「絶滅ゲーム」が始まった。シードとして政治家の息子で格闘技チャンピオンという新しいライダーが急に参加してきた。こいつは格闘技チャンピオンなのにハンマーを使って塔を建てるのが目的というヤバいやつだ。「絶滅ゲーム」を開催した理由がわからない。黙って塔を建てれば誰も邪魔しなかったんじゃないか

一方でこの新しいライダーは、ゲーム勝利して父親独裁者にしたいらしい。何がしたいか本気でわからない。塔なの?党なの?ハッキリしてよ。

最終的に、盤外でゲームマスターが変わったために、「絶滅ゲーム」は「シカゲーム」に変更された。格闘技チャンピオンライダーが鹿モチーフなので、そいつを倒したライダーが今回の勝者となるらしい。ボクシングやってたら決着が将棋に変わったくらいの衝撃だ。参加者はたまったもんじゃない。「シカゲーム」って言いたかっただけだろ。少し古いぞ。

一輝くんとギーツがゲームの勝者となったが、どちらかの願いしか叶えられないとのこと。一輝くんは、家族が無事ならいいので、ギーツに権利を譲った。ちなみに、隣りで復活したバイスが消えそうになっている。バイス家族だって散々言ってたじゃないか。どうした?ま、まさか、また記憶が?

そういうわけでバイスは消えてしまったが、ギーツが一輝くんの記憶が消えないように願ってくれたおかけで、バイスのことを忘れないで済みました。ありがとうバイス、お前のことは忘れないよ。一回、バイスが消えないように願ったうえで、「それは無理」って断られてたら印象違ったと思うけどね。

こうして、今回の事件は幕を閉じたのであった。

エンドロールの後、ゲームマスターが「今回のことでギーツの強さの理由がわかった。あいつは、この時代人間ではない」って言ってたけど、この映画を観ていてギーツが未来人or過去から来た人だってわかる描写ありました?わからなかったなー。

まぁ他にも、20年前のライダー龍騎」の面々がオリジナルキャストで登場したことに、言いたいこともなくはないのですが、全体的に面白い映画でした。

ただ、スシローに行くシーンが2回もあったのに、ギーツが稲荷寿司を注文しなかったのが唯一の不満点です。(ギーツは狐モチーフなので)

2022-12-18

嫁が出かけ先でご飯を食べて帰って来たから、じゃぁ適当にその辺で食べてくるわと言って出て、その辺にあった松屋で食べる肉うどん

空いた店内に流れる流行りの音楽は空調に吸い込まれていき、数人の客の間にはハードボイルドな緊張感が伝わる

これが独りの日曜の夕食だよ、俺が本来住んでいた世界だよ、お前が忘れかけたものだよと、待ち番号のモニター心象風景が映る

2022-11-22

マンガ家がアシを使うようにアシ使って書く小説家っているのだろうか

マンガ家アシスタントを使うように、アシ使って書く小説家っているのだろうか(ビジネス書作家なら本人が書いていることのほうが少ないくらいだろうけど)。

シナリオだと登場人物同士の日常会話の気の利いたセリフだけ書くライターがいると聞く。小説だとどうだろうか。

短編連作のようなつくりで一篇をまるまる別の人間が書くというのはありそうだけれど、そういう切り離したカタチではなくて、たとえば登場人物新幹線東京から広島まで移動する。乗車から下車までの車中の様子はアシが書く。作家はそのなかに心象風景的部分だけ書き加えていく、みたいな書き方している人はいるのだろうか。

2022-08-21

なんかオタクが好きそうなアニメ映画って急に心象風景に行ったりするよね

なんで?

気持ち悪いんだが

2022-06-21

書店で、絵本のコーナーに行って

星の王子様とかエンデにささげた本みたいなのがあって

何気にパラパラみていると

癒されてしまった

いずれも海外イラストレーターさんだったみたい。

気分が落ちてて、心象風景

もうすべて灰がかったフィルタ越しのような世界だったのに

(晴れていたので外は暑くても清々しいのだけど)

昏い部屋のカーテンをさっと開けたような。

2021-11-14

追記漫画とかで死体の山が積み重なる上に立つ比喩的表現っていつできたの

ブクマカとかトラバって本当に人の話聞いてないのな

比喩的表現だって!!言ってるだろうが!!
例に挙げたベルセルクグリフィス死体の山の上に立ってるのだって心象風景で、実際の風景描写じゃないから!

ちょっと画像検索してみればあんなに無駄に高く死体物理的に積み上げる理由も上に立つ理由もないってわかるだろ

手が血に汚れてるとかと同じで物の例えだ

頼むから戦闘最中とかで物理的に積み上がってるシーン出すのやめてくれよ

ドラクロワの絵とか出してるやつ てめェーだよ てめェー

新しめのだと進撃の巨人のエルヴィンも死体の山の上に立つ「比喩的表現がある こういうのを出してくれよ

anond:20211113131158

2021-09-12

最近NHKみんなのうた」がわからない

最近NHKの「みんなのうた」を時々聞いているんだけど、なんか若者心象風景を優しげに描写したものばかりで、なんか聞いていてもさっぱりよさがわからない。

かつての「メトロポリタン美術館」や「まっくら森」は今聞いても超名曲だと思うけど、ああいう上質な絵本世界のような感じの曲が全くない。実際、「みんなのうた」の人気投票でも1980年代以前の曲が大多数で、最近の曲は「パプリカ」以外には「はなさかニャンコ」がちょっと話題になったくらい。

2021-08-22

シン・エヴァンゲリオン劇場版アマプラで見た感想

「序」は多分「破」公開前にやってた金曜ロードショーか何かで見た。シンジ君がウジウジしててなんだこいつと思った。

(その後ネットで「中学生に突然命懸けさす奴らの方が頭がおかしい」という意見を見て確かにそうだと思い直す)

「破」は多分彼氏映画館で見た。「破」はシンジ君が成長して見てて楽しかった覚えがある。

「Q」も多分彼氏映画館で見た。ど、どゆこと…??と思った気がする。リリンって何??

というか、3つ全部見てるけどほぼ意味からず見終えている。人類補完計画って何?使徒って何?な状態だし内容もほぼ覚えていない。

しかし今回復習もせずにアマプラで夫(上記のかつての彼氏)と「シン」を見たので以下感想

パリだーてかエヴァパイロットのピチピチの格好が恥ずかしいと言及されたぞ?あれ絶対恥ずかしいと私も思ってたよ。

戦闘と同時になんかパソコンカチャカチャやってるけどなんで地べたに座ってる感じなん?腰大丈夫?何やってるんだか全然わからんけども。

え〜街赤かったのが元に戻った〜!戻るんや?てかそもそもなんで赤いんだっけ??

なんか元クラスメイト人達大人になって子供までおるやん。なんでシンジ達は浦島太郎状態なんだっけ??前回そんな終わり方したっけ?分からん

シンジ君相変わらずめっちゃ落ち込んでるけど。確かシンジ君のせいで世界が終わる的なことになったんだよねー、そりゃ落ち込むよ、しょうがないよ。

この人の関西弁絶対おかしい。私は関西人じゃないけどおかしいと思う。関ジャニ村上がマツコにビジネス関西弁とイジられてたのを彷彿とさせるような関西弁だなー。

つばめちゃん可愛い赤ちゃんの描き方がちゃん赤ちゃんの可愛さを表現できている。

綾波そっくりさんおはようって、何?」「仕事って、何?」なんでも質問してくる幼児みたい。

周りの人達めっちゃ優しく普通に対応してくれててすごい。

シンジ君結局立ち直った、よかった。

と思ったらそっくりさんが溶けちゃったよー!せっかく楽しそうに暮らしていたのに残念だ。またシンジ君のトラウマにならない??

シンジ君がミサトさんのところに帰ってきた。

ピンクの髪の子がブチ切れている。今時の若者みたいなキャラだけど昔から続いてるアニメから喋り方がなんかちょっと古い。現代若者ではない。でもそれは仕方がない。

ちゃん関西弁絶対おかしい。

戦闘始まったけど全般的によく分からん

アスカが眼帯取って目からなんか取り出した〜!びっくりした〜!

ゲンドウさんなんか人間じゃなくなってる〜

シンジエヴァに乗るって言い出してまた変な関西弁と古い若者がブチ切れたけど結局乗ることに〜

父と息子で戦うけどシンジ君の心象風景を背景にお送り〜多分ファンには堪らないのでしょう、ファンサービス的な?

ゲンドウさんが解決するのは暴力じゃない?みたいなことを言い出してなんか話し合いを始める。

ゲンドウさんは孤独が好きで、知識が好きだったのに、唯と恋に落ちた。このゲンドウ君と恋仲になってゲンドウ君の世界を変えた唯すげーよ、どんな女だったんだ。

からの唯が死んじゃって、そりゃ悲しいわな、辛いわな。

からの、綾波がいっぱい!なぜ?!おかしいやろ。こんな男のどこが好きだったの?唯さんは。唯さんもおかしな女だったのかしら。

「唯はそこにいたのか」とかシンジ君を見て言うゲンドウさん。そうだよ、普通奥さんが死んじゃったら子供を頑張って育てるんだよ。普通じゃないからこんなことになっちゃったんだもんね、しょうがいね

てか、ゲンドウさんてなんか暗いところで輪になって会議みたいなことよくやってたよね?あの人達は何が目的だったの?ゲンドウ君に騙されてたの?

てか、最愛奥さんが死んじゃってまた会いたくて頑張っちゃうマッドサイエンティスト、みたいなやつありがちだよね?なんか話としては普通じゃない?


でっかい綾波怖いよ〜子供が見たらトラウマなるよ。

槍がどうのって前回から言ってるけどなんなん?意味わからんキリスト教的な話なの?分からん

なんか下書きみたいなのになったーなんでか分からんけど。アニメって描くの大変そうですね〜お疲れ様です。

これまでのエヴァを振り返ってお別れみたいなシーン、ファンには堪らないんでしょうね〜

マリシンジ君が大人になってる〜これは心象風景?実際の話?この2人いい感じなの?

なんか実写映像にすんなり変わってすげ〜   終わり

全体的によく分からなかったが、そもそも自分レベル人間が見る作品ではないのだ。

そんな私も見てしまったのだからエヴァはすごいのだ。

以上、感想でした。

2021-07-22

anond:20210721145643

もう何も吸収したくない、という心象風景の時に食欲がなくなる。

ただ単に健康問題だったら知らんが。

2021-07-19

藤本タツキルックバック』を読み解く

振り返る藤野

全てはタイトルに集約されている。振り返るとそこには二人の思い出があり、しかし振り返ったところで藤野京本を救い出し、かつ知り合うことなどできず、京本藤野マンガをやめるというあやふやな決意を振り返らせてくれている。振り返ることがすべての起点になっており、かつ振り返れば君がいるという演出上の意味も含んでいる。実際に藤野はことあるごとに京本を振り返っており、フラッシュバックの折にも背中京本のことを感じている。ところが藤野背中をより感じていたのは京本の方であり、彼女美大受験後も藤野漫画を買い続けてサイン入りのはんてんを部屋に飾っていた。

二人のメンタリティ

ルックバックは振り返るという意味の他に、背中を追いかけるという意味も含まれている。京本藤野背中へのサインを書かせ、藤野を追いかけたいあまりに、せめて画力では随一になりたいと美大受験を決意する。この思いはすれ違って藤本に伝わり、藤本は一度は美大受験をやめるように進言する。この背後には藤野京本よりも自立していない内面が潜んでいるが、それは前項の通り藤野メンタリティにつながってくる。つまり藤野は常に過去思考型で未来を見ずに下を見て過去を見るタイプだったが、京本は上に憧れて未来を見るタイプだったということだ。

未来志向と過去思考

京本が常に未来を向いていた理由は、京本メンタルが常に引きこもっていて外の世界を知らなかったからであり、拡大思考しか存在し得なかったためだ。一方で藤野は冒頭の豊富人間関係から一度はマンガすら諦め、空手(手に何ももってない、という比喩)に逃げて失う方向へと舵を切っている。この一見した外面とは裏腹な藤野の内向性は、ラスト付近まで京本との「もしもの未来」を連想させる。マンガコマをよく見ると、京本が全く何事も連想できない人間であることに対し、藤野はすべてを戯画化できる想像力を持つ人間であることがわかる(この発想は作家は不幸なときでも不謹慎ときでも作品ネタにしてしまえるのではと考える、といった問題だけでなく、藤野自体いか京本に憧れられたか、という内面裏付け付与している)。

ルックバック

美大を境にして二対の関係消失し、孤独な部屋の風景のみが描かれる。そこには十分に背中を映した背景が使用されており、京本の姿はやはりない。しかしこの情景は実は(おそらく)藤野が思い出している孤独執筆作業風景であり、実は自分自分自身と常に戦って今に至ったのではないか、という思いがあった。実際にクラスメイトから無視され始めた彼女はほぼ一人で漫画家への道を成立させた。もちろん、この際述べた背景は他のアシでも描ける、という台詞強がりに過ぎない。こうしたいきさつから彼女の部屋には微妙な変化が見られる。最初クラスメイトに囲まれているのに孤独藤野の姿、後に京本と一緒に執筆する姿、後にまた一人に戻る姿だ。最大の変化は初心の頃に書いた4コマだろう。京本の部屋に投げ込まれ4コマ藤野は死後回収して自室に飾る。このことは京本ライバル関係であったと同時に仲間であり、しかし同時に合否を決める編集でもあったという現れに見える。ともあれ彼女孤独小学生から友情を知る中学生へと移り変わり、社会人で死を知って再び孤独でないことを知る。この描写を読者目線に変換すると、常に藤野背中を見る、という意味ルックバックという意味を成立させている。

犯人エピソード

自分罵倒する声が他人の絵から聞こえた、という下りは二人の微妙関係に適切ではあるが、実は藤野心象風景である「実は自分が殺したようなものだ(家からさなければよかった)」とリンクしている。よってあの話はデウス・エクス・マキナ的な殺しではなく、実質藤野心象風景京本を殺したと解釈したほうがスムーズに読める。ちなみに京本の部屋から最後に出てきた4コマは、藤野京本を助けるというものであった。つまりここで京本彼女を救うという妄想が受け入れられており、自分を救ったのはむしろ京本であったという逆説的な心境に至って立ち直るのである

並行世界説を否定しているわけではなく、当作はどちらかといえばその読み方が自然にできるようにしている。ただし現実は入れ替わらないことから、そのままちぎったマンガ京本の部屋に入り、救助するマンガが今の藤野の元に降りてくる、という演出ではないか個人的には感じている(※『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』のオマージュだとしても)。最後漫画藤野がつるはしを背中に受けているマンガであり、彼女の代わりにつるはしを背負い続け、その重荷を目の前に飾っている。

戯画と写実と

マンガは極めて戯画的な分野であり、絵画ないし背景美術は(デフォルメも含んでいるが)写実の分野だ。現実性と写実性は漫画重要ファクターであると同時に、写実が戯画を殺し、戯画が写実を陳腐化させることも往々にしてありえる。そしてこの関係は補完関係でありながらも潰し会う関係であり、二人の関係はまさに一つの漫画だった。そうして我々が彼女たちの背中を見る時に、マンガのものをその背後に見るのである

また、以上の事実から藤野が主役であり、京本が「背景」であるという関係から京本が主役になりたいと切に願い、藤野背中を追いかけていた経緯も明らかとなる。故に彼女の死後の部屋にはたくさんの藤野の連載作品放置されている。

京アニ解釈は他の方が遥かに詳しく、こちらが書く意味はないと判断してのこと。

※誤字指摘ありがとうございました。

Background、良い解釈だと思いました。

2021-07-18

映画を撮るのは金がかかる。かといって小説として書くのにもある種の困難が伴う。

小説相手の反応をフィードバックさせづらい。

だって同じ文に対して同じような反応がいくつも得られたとしても、その反応を示したそれぞれ読み手の頭に浮かんだ心象風景はだいぶ異なっているかもしれない。

心象風景文章が1対1で結びつかないということだ。

漫画でいうならそれこそ絵で読者の反応を操作させるようなことが、小説だと文から心象風景(漫画でいうなら絵に当たる)を媒介してしか反応を操作できない。

しかもその心象風景さえ読者の頭の中のブラックボックスになってしまっていて、その好感触や悪い反応がどういう心象風景に基づくものかもわかりようがない。

ある文を書けば万人が唯一の心象風景を思い浮かぶということだったら、しかもそれが書き手の目に見えるものだったら、反応に多少のばらつきがあったとしても、文と心象風景が連動しているのだからフィードバックさせられる。そうやっていけばいずれ心象風景とともに反応を理想のものへと収斂させることもできる。そういう意味では漫画書き手と読者で同じ絵を共有しているわけだから随分やりやすい。

だけど小説は文も心象風景もそれに対する感想も何一つ一対一に対応しない。しかブラックボックスなのである

映画なら「迫力がない」と言われればとりあえずエキストラを増やしてみればいいかなと見当のつきそうなことも、小説では読者がそもそも心の中において何を見ているかが分からいから立つ方策も立たないのである

からといって映画資金(調達)力がないとだめだし、小説のような長編化もスターウォーズ並に売れないと無理って意味ハードルが高いわけだけど。

まあこんな屁理屈めいた考えても始まらないことを考えるような頭ではどっちにしろ成功はしないんだろうな。

2021-07-13

今期あみめいくつか見た。以下、所感。いずれも原作ノータッチ

2021-07-11

ジャンプラ『汚れた血

導入の動機からスムーズで、中盤に家を捨ててアイドルになり、母への憎悪と愛の独占欲動機まで中盤に出し切ってる。そのあとで妹の歪みを一挙に表出させてゆくわけだけど、その際の妹の演出が上手。事故死直後の葬式の際に「久しぶり」のコマで妹になにか黒い部分があるのではないか、と思わせる一コマを挿入している。一コマで状況説明できるのは力量がある証拠しか前後関係からして妹が事故をわざと起こしたのではないか、というミスリードにも繋がっている(後述)。独占欲と妹の心象風景をもって、自分自身一心憎悪を向ける妹に独占欲の充足を知る。また、妹は自分と似た独占欲にまつわる憎悪を抱いていて、姉は妹に自分自身を見る。姉の心象風景自己愛に集中しているので、もうひとりの歪んだ自分(妹)に最大の自己愛を注げるという内容。すべての伏線回収を綺麗に行っている。

ただしエピソードの割に母の死付近演出凄惨すぎて、上記のように殺人事件連想させたのはわざとなのかどうかが気になる。これがわざとならサブシナリオや連載も考えてのことなんだろう。もしそうなら動機から考えて妹は姉へ愛を注ぎ続ける憎悪から母を殺したという話になる。

惜しむらくは押見修造先生のように繊細な心情を語りなくして語り切る手法がないことだけど、これはページ数が足りないかちょっとモノローグ説明が多い気がする。初っ端からにじみ出るベテラン感。作者はもともと研究熱心だと思う。

2021-07-08

シンエヴァを見たが、これは庵野秀明自伝だろう

エヴァは「庵野秀明の才能」の言い換え

 エヴァ元ネタウルトラマンだとよく言われている。ウルトラマンは巨大で強く、強い自己化身でもあり、男の憧れる父親のものでもあり、自分を包み込んでくれる母親でもある。

  庵野秀明にとって、エヴァンゲリオンという「作品」は外界と自分を繋げる唯一のものであり、庵野秀明監督としてそれを操作していた。同時に、エヴァという機体は自分自身の才能でもあった。

同時にその「巨大で強い自己化身」は、自分コンプレックスの表れでもある。シンジの持つエヴァの搭乗への葛藤は、創作の才能一つで生きてきた庵野にとっての葛藤そのモノであったのだろう。

 エヴァを作るころには周囲には才能を認められていた。宮崎駿やその他の監督自分の親からの期待、「逃げちゃダメだ」という言葉は、まさに当時の庵野秀明感情でもあったのではないか

同時に、当時エヴァ最終話での制作の難航と、それに伴うネットからバッシング。そして思った以上の膨大な反響オタクたちはエヴァ作品にのめり込み、数々の作品エヴァに影響を受け始め世界の潮流を変えた事。

 自分人格を込めたエヴァへの批判は、シンクロすればシンクロする程思い通りに動く作品の代償として、そのまま彼の精神自体に傷をつけただろう。心を無にして、ダミープラグを使いたいと思ったのではないか

これはエヴァ暴走のもので、彼自身にとっての作品勝手暴走庵野にとっての一番大きな原体験となっただろう。同時に作品にそれらを「重ねる」という事もまごころを君にでやり始める。

 エヴァに頼るな、現実生きろ。そういうオタクへの批判は同時に、自分自身への批判でもあったんじゃないだろうか。


マリは「安野モヨコ」の事

 新劇場版はそういった「エヴァンゲリヲンという作品制作」を通じて感じたことを再度「エヴァと言う作品」に落とし込む作業だったんだろう。新エヴァでは特に、「エヴァへの搭乗に対するシンジの心の変化」について重点的に視点がある。これは庵野エヴァ作品への向かい合い方を落とし込んだに違いない。

 やれと言われてやった(作った)→批判された(バッシング)→自分選択肢はない(拗ねる)→他人に任せる。批判されて辞める(エヴァから手を引く)→やっぱり調子に乗って自分の為に乗る(つくる)→失敗……そこから先は庵野の「エヴァと言う作品の向き合い方」そのものなんじゃないだろうか。「エヴァと言う作品」を作った事により、他人虚構へ誘った罪の意識から同時に、「ニアサーも悪い事ばかりじゃなかった」という言葉自己への客観視と許しにも思える。ニアサーが起きた後の世界は、エヴァテレビシリーズが出てからの彼から見えた世界自分引き起こした破片があちらこちらに浮かぶシンゴジラと言う作品は彼にとって第三村のようなものだったのではないか

 おそらく新劇の時から欝の兆候があったんだろう。周囲に「エヴァを作るな」と言われたことは、そのまま脚本へ落とし込まれていると思う。それでも乗り、精神を壊し、作品を狂わせてしまった。

 その作品の中で、異色の存在が出てくる。エヴァを難なく乗りこなし、明るく自分に接してくれた存在。これって妻である安野モヨコ」そのものなんじゃないかと。いろいろな「エヴァ」つまり作品」を吸収し、精神も病まず自由に乗りこなす彼女友達に紹介されたそうなので、パラシュートで降りてきたような物だろう。今まで他人拒否される事に恐れていた庵野にとっての救済だったのではないか

 庵野にとっての「人類補完」へのあこがれはこの結婚によって無くなったんじゃないかと思う。この時点で多分、「妻にもう一度会いたいゲンドウ」にしか感情移入できなくなってる。


インパクトは即ち、庵野秀明自殺願望

 世界を変えてしまった庵野にとって、ニアサーの後の世界は、新劇を作り始めた時の世界そのモノだったんだろう。やっぱり彼は止められても新劇を作り、自分を傷つけた。そしてギリギリ自殺しそうになったのをニアサー表現したんじゃないか自分を、他人を変えたいと思い始めた創作エヴァ化しそこなった首の無い人はファンたちの事だろう。

 ミサト率いるヴィレ自殺を止める自分の理性であり、シンエヴァ幻想的な戦いは彼の心象風景のものだったんじゃないか


エヴァの居ない世界は、そのまま庵野にとって「エヴァを作る必要のない世界」の事

 作中の突如現れる空白の14年は、庵野にとってエヴァを作らなかった数年の事だろう。当時の声優も、アニメーターファン大人になってしまった。

 第三村で、嘗て殴ってきた友達も、カメラ片手にちょこまかしてたアホガキも、かたや医者になり子供を作り、かたや一人で生き抜く一人前の男になっていた。

 色に乱れてた赤城リツコも「煩悩」を髪の毛と一緒に切り、ミサトは母になった。その中で、エヴァを作り続けて悩んで苦しんでる庵野自分自身を「何も変わってない少年」だと思っただろう。

 庵野にとってそんな自分に優しく手を差し伸べる周囲の人間は、なお一層コンプレックスを掻きたてたに違いない。しかし一方で、「エヴァで皆を助けただけでも偉い」という自己肯定の言葉もちらほらみられる。

 シンゴジラ成功したし、安野モヨコ夫婦漫画ありのまま自分を受け入れてもらえるし、庵野社会的地位を手に入れて金もある。尊敬もある。

 彼は自分自身を知ってもらうために「エヴァ」を作る必要などないのだ。エヴァに乗る必要なんかない。エヴァを作らなくても、エヴァに乗らなくても自分を認めてくれる人が沢山いるから。

 もう他人の血も、友達を殴った手の感触も、やけどする程の熱さも、自慰で流した精子も、彼の右手には必要ない。だってもう彼の右手には握ってくれるもう一つの手があるのだから



・雑感

考察何て意味ない。結局は庵野秀明人生元ネタなんだから

 無責任。これに尽きる。最近監督無責任だ。新宿を綺麗に描くのが得意な監督は、今まで自分が作ってきた、願った世界子供押し付けて「大丈夫だ」なんて言わせるし

 庵野秀明勝手に悩んで、勝手大人になって、ずっと自分しか見えていない癖に、子供のままの俺たちを置いて去ってしまった。

 世の中にはな、世界を作れなかった人間、人を気にして何も動けず下敷きになってしまった人、大人になれない髭の生えた子供たちが沢山いるんだ

 そういう人に寄り添ってくれる作品を作ってくれる人はおらんのかね。若者に厳しい世の中になってしまった。

 

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