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はてなキーワード: 通底とは

2021-04-28

anond:20210428171023

・離職や再就職の際の理不尽さの改善によって、男女ともに上昇婚最適化した現状のキャリア設計から解放

婚活サービスなどのマッチングの仕組みの改善によって、男女とも満足度の向上

テレビ番組広告などのメディア通底するルッキズムから解放

要はあてがえってことですね。

競争否定=あてがえですよ。

あてがえ論を信じてるのはフェミだけ

あんもの男は強者弱者も誰一人リアリティのある話だとは思ってないだろ、それこそすももや白饅頭にいたるまで。

一方でフェミは、弱者男性キモいという気持ちが前に出すぎて、一番最悪なキモくて金のないおっさんにむりやり搾取されることをリアル想像してしまう。マゾか。

あてがえ論に見えるのは二段階あって、最初ひとつは「男女の人生設計非対称性があってマッチングがうまくいっていない」という現状の確認。これは単に社会的課題

次の段階はこれをどう解決するかの話、ここで「女性意思無視してむりやり男にあてがう」なんて話を一足飛びにしているのはフェミだけ。

現実的な案はまだ十分コンセンサスがとれていないので人それぞれだろうけど、たとえば次のような方法で間接的に国民全体のマッチング成功率満足度を上げるということ。

・離職や再就職の際の理不尽さの改善によって、男女ともに上昇婚最適化した現状のキャリア設計から解放

婚活サービスなどのマッチングの仕組みの改善によって、男女とも満足度の向上

テレビ番組広告などのメディア通底するルッキズムから解放

これらが「あてがえ論」だと言うのならクソして寝ろとしか言えない。

記事ブコメ

本件、「俺はあてがえと言ってない」という論調にはなれど「あてがえ論は非人道的差別的から止めろ」にならないのはなぜなのかとブコメ見て思う。アレは本当に不快しかいから誰だろうがやめてほしいのだが

上に書いたとおり、パートナーがほしいと切実に思っている人が多いとか、上昇婚志向であぶれてしまう男女が多いことは社会問題として解決すべきだとは思っても、女性意思無視して強制的に誰かと結婚させるなんて策がとられるはずもないと思っているので、差別とか人道とか全然関係ない。

お前の弱者男性に対する差別的嫌悪感を人道にすりかえないでほしい。


anond:20210428014129

2021-04-07

anond:20210406154303

せやな無自覚なだけで細かい宗教作法があるわな

成人してから親戚のお葬式にでたとき

お経の種類や焼香の作法宗派が細かくきまっていることにきづいて(葬儀社に聞かれて親が知っていたなどで)驚く事が多い

ただ一番通底にあって信者数が大きいのが「科学教」だ

義務教育で1+1=2からちゃんとおしえるしアップデートもするので

血を輸血するとタマシイが汚れるから手術できない、とか

から酵素をとって加工した食べ物を食べてはいけない、とか

そんなわけのわからない非科学的な宗教をみると

自分はああいった宗教なんてとても信じていきていけない」とおもって無宗教を名乗るだけ

2021-03-13

anond:20210313114543

これ、いじめによるひきこもり等が10代だと被害者扱いして、年取ると穀潰し扱いみたいなのと通底するよね。

2021-02-04

フェミニズムが死すべき理由

 15歳のときベル・フックスの「フェミニズムはみんなのもの情熱政治学」を読み、それが私のバイブルになった。そこに書いてあったフェミニズム説明を読んだだけで、それが世界を変えるとわかった。地元図書館にかろうじてあったフェミニズム書籍コーナーに潜り込むや否や、 牟田一恵や田嶋陽子世界に浸りこんだ。私が進学先の大学を選んだ理由は、その時すでにTwitterで名を馳せていた北村紗衣先生が教鞭をとっていたからだし、ジェンダー論の授業があるからだった。大学を出て最初についた仕事では社内セクハラの撲滅に従事し、プライベートでもTwitter消費者運動を通じて、男女差別と戦ってきた。ほぼ十年、このために使った時間は知れない。

 何が言いたいかというと、フェミニストを名乗れる人間がいるとしたらそれは自分だということ。九州田舎で育った孤独ティーンエイジャーにとって、フェミニスト冒険譚を読むのは震えんばかりの興奮だったし、目を見開かされる思いだった。周囲にこんな人は見た事がなかったけれど、ネットを通して自分と似たような人が他にいるとわかって希望が生まれた。大学に通い始めてからは、フェミニストでいることにひねくれたプライドもつ人を他にも何人か発見した。けれどそれはまだ珍しかったし、社会の主流な考え方からはすっかり外れていた。だから、なぜせっかくそれなりの企業就職した自分が、社内恋愛の末の寿退社ではなく、男受けの悪い反セクハラ活動血道を上げているのか、誰も本当にはわかっていなかったし、私はフェミニストだと言うと、ほとんどの人が眉をしかめた。月日を経て、私は同じ志を持つ仲間の輪を少しずつ広げた。職場教育、そしてマンガアニメなどの趣味世界。それぞれの世界活動する私たちを、フェミニズムが互いに引き寄せた。そんな仲間の助けがあったから生き延びる事が出来た。けれど仲間を探すのは難しかった。私たちはまだ、社会の中で傍流だったのだ。

 でもこの十年、状況は様変わりした。映画ドラマフェミニズムに則って制作されるのが当たり前になった。アナ雪や逃げ恥を通じフェミニズムは恥ずかしがらずに誰もが楽しめるものになった。

 そして、たぶん一番重要なのは、今やフェミニストはカネを、そして権力地位をも持っているということだろう。世界で一番大きな、そして一番勢い良く成長している企業女性配慮し、女性を雇っている。日本大企業や省庁も女性差別をやめ敬意を示すようになった。強い女性はかっこいい。私たちは勝ったのだ。

 そして、そこに問題がある。私たちは未だに自分達が反乱軍かのように振る舞っているけれど、今やフェミニズム帝国だ。十年前までは私たちはおおむね正しく、批判的外れで間違っていた。だから他人に耳を貸さな私たち習性は深く根付いている。それどころか、フェミニストに向けられた批判スクラムを組んでやりかえすのが絆を深めるためのちょっとしあ儀式になってすらいる。今までは誰かの批判攻撃するのも、かつては大したことではなかった。一握りのフェミニズム親和的な人以外にそうした論考が読まれる事はなったからだ。そんな内なる声も、今や大きな問題になっている。フェミニストが本当の権力を振りかざしているからだ。キズナアイラブライブポスターへの攻撃、宇崎ちゃんポスターにまつわる献血ボイコットは、フェミニストの私にとって恥ずべき出来事だった。けれど恐ろしいのは、その暴力的な振る舞いが、フェミニスト界隈に常在する何かと同じ感じがすることだ。それでいいという空気があることだ。ただ驚くしかない。その空気はあっという間に、誰かが大切に育ててきた営みを、無造作に叩き潰すほどに膨張した。ファミリーマートのような主流の大企業ですら、私たちの突きつけた理不尽圧力に巻き込まれている。今や私たちは、「自分反乱軍だと思い込んでる帝国軍」なのだ

 だから日本は未だ後進的な男性社会で、私たちフェミニストはそれに反抗するレジスタンスであり、いつの日か勝利するだろう」みたいな、フェミニスト界隈の通奏低音はすごく違う感じがする。たしか私たち女性は、かつては家父長制にいじめられたり、大企業無視されたりしていた。でもそれは、私たちにカネも力も無かった頃の話だ。今や私たちには権力があり、日本資本主義社会私たちを標的にするのではなく仲間とみなすのやぶさかでない。20年前の男性社会私たちお茶くみや家庭に押し込めようとしていたけれど、今や私たち仕事学術に家庭に多くの選択肢を持つ一方で、文句も言わずに黙々と経済的後ろ盾になってくれている。

 フェミニズムの愛すべき要素の一つに、共感連帯を大切にするという価値観がある。誰かが泣いている時、証拠事実検証は、大抵役に立たない。いの一番に、「私もあなたのために怒りたい」と表明し、それを実行しなければ社会は変わらないのだと、痛い目に遭いながら学んできた。これはフェミニズム界隈を通底するルールだ。誰かが被害を表明すれば、ただちに飛んでいって守り合う。客観的データに基づく結論は、提示するのに時間がかかるし決まって歯切れが悪い。だからスピード攻撃力が高い「お前は差別主義者だ。私は傷ついた」と言い切る思い切りが習慣になる。

 なのに、フェミニスト自分たちの共感埒外にある人々へ示す冷酷さには、思わず目を丸くしてしまう。知りうるほとんど全てのフェミニストが、自分より年収の低い男性や、性的魅力に乏しくオタク文化に逃げている(と見なしている)男性嘲笑し、あるいはそういった言説を窘めもしない。逆に高学歴高収入男性や、容姿に優れるなど性的魅力が豊富タイプは、あらゆるレトリックを用いて養護し、倫理的お墨付きを与える。収入学歴容姿共感駆動するフェミニズムは、これら男性ステータスに対してどこまでもプリミティブな接し方をする界隈だ。フェミニズム世間を席巻し、プレイヤー絶対数が増えるにつれ状況は悪くなっている。

 解決策を知っているというつもりはない。けれどどこかで何かが間違っていると意識することはできる。現に私より若い世代では、女性たちの間ですらフェミニズムへの忌避感が広がっていると感じている。しか私たち現役フェミニストは、フェミニズム忌避する女性に対してどんな態度をとってきただろう?ここで口にするのも憚られる、卑劣言葉を投げつけては、仲間内での連帯を高めてきたのではないか?こう想像するのはおかしな事だろうか――この深く根付いたクソっぷりが、若い世代を遠ざけているのでは?

 あたりを見回すと、私たちが育ててきたフェミニズムが、自由への革命から威圧的権力へと姿を変えたのがわかる。私たちは確かに素晴らしいものを生み出した。けれど私たちは不注意で、普通の人々を傷つけないための安全策を怠った。私たちは不注意で、未来フェミニストたる多くの若者たちを成長の各段階で追い出してしまった。私たちは不注意で、世界アップデートしたとき失うものがある人を気にかけなかった。いい目を見る人のことをだけを考えていた。(だいたい自分達のような人々だ。)

 古い世代の連中より高潔でありたいと、いつも願っていた。けれど蓋を開けてみれば、力不足ゆえに無害なだけだった。体に染み付いた被害意識は、私たちいじめ行為に至る際の非道言い訳と成り果てた。

 だから言いたい。フェミニズムは終わりにしよう。フェミニズムは素晴らしいことを色々してきたけれど、今のフェミニズムは歪んだ復讐心暴力衝動に駆り立てられる怪物だ。まともな答えは、これを終わらせてもっと良い何かを作り出すことしかない。

 もっと良い何かとはどんなものだろう?私たち攻撃したラブライブには希望を感じる。私たちが巻き込むのに失敗した若い世代女性をはじめから取り込んでいるからだ。どんな未来が来るにせよ、私たちは良き人物になることを重視する必要がある。今までよりずっと。

 弱さへの憎悪と、強いものへの阿諛追従は終わらせなければいけない。これはフェミニズムとあまりにくっつきすぎている。だからこの星からフェミニズムを消し去るしか、確かな方法はないと思う。

2021-01-23

ブクマカ差別主義者だらけ

[B! 性犯罪] 【独自】銭湯でわいせつ行為の男性2人を書類送検 被害相次ぎ貼り紙も|TBS NEWS

 

こういうのは一部の人、というには多すぎるんだよなあ。

何を言いたいのかわからない。

「一部というには多すぎる→全体もそうであるに違いない」といったミスリードでないのなら、どういう意図でもってこのコメントを残したのか説明していただきたい。

 

"かわいそうランキング"上位になれば好き放題できるようになる。本件に対する批判もすぐさま「差別認定されるだろう。

当事者から見てもこれは明確な犯罪行為なのだから、このコメント揶揄にしても筋が悪い。

この場合で言えば、本件の被疑者に対する批判ゲイ全体に対する非難とは、分けて考えなければいけない。

 

ハッテンしたきゃハッテン場行けや。

ネットで割とよく見る反応なので一言

ハッテン場という単語には「ハッテンする場所」というぐらいの意味しかない。だから「彼ら」にとってはこの銭湯もハッテン場ということになってしまう。

「有料ハッテン場に行け」なら問題なく成立する言い分ではあるし、おそらくはそういう意味で言っている人も多いと思われるので、この指摘は揚げ足取りしかないのだが。

 

ホテル行けよ・・

自分の家でやれ

これもよく見る反応だが、「それができれば苦労はしないんだよ」と言いたくなるゲイも少なくないのではなかろうか。

男同士での宿泊を断られるラブホテルは未だ多いし、かといって自宅に他者を招き入れるのは、「ゲイ」が被差別属性として機能している現状では(身バレ等)社会的な死に直結しうるハイリスク行為である

結局のところ、手っ取り早くそういう行為に及びたければ有料ハッテン場に行くしかないのである。(それさえも知人に目撃されればどうなることやら、という話ではあるのだが)

 

こうやって一部の心無いゲイが数百年の歴史もつ共同浴場文化を潰すわけだ。本来であればゲイ団体から一番に批難声明が出てしかるべき。

ゲイ」「共同浴場文化」の部分に他の単語を代入してみて、それでも問題ないと思うのであれば、俺から言えることは何もない。

個人的には、一部の心無い人物行為によって彼らの属する集団声明を出す必要かられる、というのは健全な慣習と思えないが。

 

社会に対して価値観アップデートを謳うと今まで自分たちがお目溢しされていたこともアップデートしなければいけなくなるんやで。

言わんとしているところはわかるのだが、同様のフレーズを目にする昨今のケースを鑑みれば「価値観アップデートなど求めてない」という当事者もままいるだろうことは想像に難くない。

そもそも、今までだって「お目溢し」をされていたのかどうか。本件のような行為はもとより犯罪なのだし、数はともかく摘発もされていただろう。誰が、どのように、このような行為を「お目溢し」してきたというのだろう?

 

ネットで“同性愛者の出会いの場”と書かれている以上、同性愛者を指定した注意喚起は仕方がないんじゃないかな。迷惑行為をする人に伝わらなければ意味がない。

これに対しては「結局伝わりませんでしたね。残念です」としか言いようがない。本件に限らず、同様の被害に頭を悩ませる全国の公衆浴場管理者に対しては気の毒に思うが。

ゲイ(もしくはバイ)のみならず性的少数者全般に対する印象操作として機能しうる注意書きに、いかほどの正当性があるのか。そもそも社会規範を逸脱するような人間に対して、貼り紙での注意喚起がどこまで有効なのだろうか。

そう考えると俺はこの注意書きを妥当とは思えないし、効果もそれほどなかったのではないかと訝っている。

 

ラブホシャワー浣腸するやつが多いかゲイカップルお断りを掲げたらゲイ差別だって叩かれたのを思い出した

数年前にホッテントリ入りした

[B! 差別] 男性同士でラブホ、断られ 「あ、差別されたんだ」:朝日新聞デジタル

このニュース(および関連の増田)が念頭にあったのだろうが、妥当性を欠く偏見か、もしくは悪質な印象操作しか受け止められない。

個人としては「お断り」に憤ることもないが、それは実際に利害のあるホテル側の判断からであって、第三者ネットを通じて偏見助長することに対しては差別だと呼ぶ他ない。

なお、ゲイコミュニティではおよそ、男同士でも入れるラブホテル情報が共有されている。

 

女性専用車両と同じだよな。誰が痴漢かわからいから男全体を排除せざるを得ないように、誰がハッテンするかわからいかゲイ全体を拒絶するしかない

あらゆる差別通底する問題

俺はこの感性を悪だとは断じたくないが、どれだけヤバいことを言っているのかについては自覚的であって欲しいと思う。

 

はてな民はなぜ公然猥褻擁護して、銭湯サイドを袋叩きにするのか?LGBTから

ここまで全てのブコメに目を通したが「公然猥褻擁護」しているidは1人も見当たらなかった。こいつは一体何を見たんだろう。

 

追記

 

犯罪行為を指摘したら差別、という論拠は流石に無理があると思うが。社会が悪い、それを正すべき、と話持っていくのはいいが、現状犯罪もの批判するなというのは違うかと。

うっかりミスなのか悪意なのか判別つかないので真面目にお伺いしたい。どこに「犯罪行為を指摘したら差別」と書いてあった?

特定犯罪を、行為者の持つ属性と分かち難いものとして結び付けるな。という話だったんだが、それが何故「現状犯罪もの批判するな」に置き換えられてしまうのか不思議でならない。

2021-01-11

個人的2020年増田の振り返り

1月に入ってから1週間以上が過ぎもう成人の日連休中だが昨年自分が書いた増田の中で気になったものをまとめておきたい。

僕は他人自分の話を聞いてもらいたくて増田を書くことが多い。

聞いてもらいたいといっても大層な主張ではなくてくだらない話が常だ。

しかしくだらない話題であっても小難しく単純明快はいかなかったり重箱の隅をつつくような珍妙話題だったりで、雑談の中に織り込むのは憚られるような自論や疑問である

そういう特定人間には面白いかもしれないが一般的感覚ではつまらない話を増田に投下している。そして何らかの反応があることを期待している。

ブクマカトラバ増田玉石混淆だが、たまに自分では思いつかない気づきがあってそういうことは強く印象に残る。

そして傲慢といえばそうかもしれないが期待したものの全く箸にも棒にもかからないことも当然多い。

印象深い増田も惜しい気持ちがある増田も毎年溢れるほどあるが、読み返して募った気持ちを供養したいので、この場を借りて列挙し読み返して思ったことを書き連ねておく。

ごめんCR超雑食腐女子に見えた…

anond:20200127125713

いわゆる腐女子長文にぶらさげたトラバ。当時はけっこうウケると思った。その気持ち寒い

ちなみに生まれてこの方パチンコはいたことはない。

あれだけパラサイト話題で…

anond:20200216024658

"前田建設ファンタジー営業部という映画オススメ "(https://anond.hatelabo.jp/20200213214854)という増田に下げたトラバ

まごうことなクソリプ。のちのち有名になるがあの豪邸の大部分はCGという事実省みるとアイロニカルな気持ちになる。

3月上旬自粛期間に国や東京都は何してたんだ?

anond:20200327102210

いまでも何してんだって思うよ。

ハリーポッタージャンプ連載作品

anond:20200322113704

ものすごーく湾曲的に現在連載中の作品Mを揶揄してるんだけど、書いてあることが馬鹿すぎて誰にも相手にされなかった。

男だけどこじるりの筋肉発言はわかる気がする

anond:20200504070205

筋トレ自己肯定感が上がる」とかいうの、結局自己満足じゃないですか。ある程度絞れた体見て主観で「オレスゴイ」って言ってるわけで、それができる奴はもともと自己肯定感高いはずなんですよね。

からすれば漫画キャラになりきって周りにお構いなく生活してるのと変わらない気がする。自分がそうだと信じて憚らない人いるでしょ?右手邪神が宿った奴とかヒーローとか魔法少女とか猫の化身とか…

そういう痛い奴、中二病精神病者たちとどう違うんだってどうしても考えちゃう

多分、自分フィジカル客観的評価する視点があればトレーニング尊敬できるんだと思う。明確な数値目標があったり試合とか大会とか結果が問われる環境に身を置いたり。

実際に俺はボディビルダーとかすげえなって思ってるし、オリンピックとかも存在意義はあると思うタイプ

でも筋トレ精神面がー生活の質がーとか言い出す人ってだいたいはちょっとランニングしたりストレッチしたりって程度でしょ?個人でやる分にはいいけどそれをアピールしたり人に勧めたりされると鬱陶しい限りで、それでお前より人間が出来てるって調子マウント取り始めたときなんてもう耐えられないね

暇つぶしで体動かしてるって次元じゃなくて、意義のあって何らかを生み出すレベルに達してる筋トレって絶対何かが犠牲になってると思うんだよね。

それに費やした金銭時間別に回せばあり得た未来を惜しんだり、鍛えすぎて却って体に負荷がかかったり精神的に追い詰められたり。

そんなこと考えずお気楽にやってる程度なら、ラーメン味わったりゲームしてケタケタ笑ってんのと何が違うんだろう。

やってほしくないとかやるのはおかしいとか思わないけど所詮個人趣味なんだから正義面したり他人からの賛美や協調を無理強いしたりは辞めてほしい。だまって粛々とやっててほしい。

豆腐屋って本当に実在してたの?

anond:20200630220407

煽りすぎタイトル。流石に豆腐屋は今でも実在する。

でも豆腐屋経営はどう成り立っているのかは今も疑問。

あるときから小島アジコ氏が描いた…

anond:20200627091810

とあるブクマカについての増田に下げたトラバ

今のアイコンになってからちょっと苦手になったのって俺だけかな。

大河の主演に和泉元彌ってすんなり受け入れられたもんなの?

anond:20200711191757

純粋Wikipedia見てて気になった。和泉元彌ってみんなにとってどういう人だったの?

あらすじ紹介系Youtuber

anond:20200820005256

語り口調がなんかやらかしてるな。2か月くらいまえにネットニュースとかでこの話題ちょっとバズってて、やっぱりみんなそう思ってたんだってちょっとホッとした。

パプリカ

anond:20200820162005

シュールってこういうことなのかな?って思いながら書いた。

日本が歌下手アイドルの国になったのではなくて洋楽にはもはや音痴という概念がないという話

anond:20200927060919

言いたいことが元増田の内容と少しずれてたり、ブクマカ受けを意識して変に煽り口調や極端な断言をしたせいでやや支離滅裂になってしまった。

要は「カラオケ精密採点で競い合うバラエティ番組みたいな評価軸が海外文化にはなくて、それよりもアドリブで尺を埋めたり即座にハモったりする様な表現力が評価される」

「これがオリジナリティでもあるけどJ-popコード進行に対する拘りが強すぎて曲に拡張性がない。今は二次創作的なリミックスでヒットを広げる時代で、その都合上全世界的にポップスアレンジやすループミュージック主体に変わってきてて日本もいずれそういう流れになるかも」

「『メロディを考えること=作曲』『メロディを考えてからアレンジャーが細部を考える』という認識が変わってきてて、ビートバックトラック)ありきでメロディを考えるというヒップホップのやり方で他ジャンルの歌もの制作されるようになってきてる」

ってことが書きたかった。

人生賛歌かと思ったらただのラブソングで幻滅

anond:20201107114821

反対にお洒落のつもりでMegan thee stallionの下ネタな曲流してる服屋とか見かけるとちょっと笑っちゃう

Megan thee stallionはヒロアカミルコっぽくて好き。

ネット最初のシーン結局何だったの?っていうのの考察ネタバレ有)

anond:20201101080121

無駄に長いし書くのが遅い。

吹き替え版TENET観たいなー。

鬼滅の刃を蹴ってさらざんまい放送するテレビ局ってめちゃめちゃ尖ってるよな?

anond:20201203164559

これも煽ってやらかしてるやつ。なんとなくあの時ノイタミナと幾原作品についてちょっと書きたくなったんだと思う。

当たり前だが三文ゴシップ誌に書いてあるような、作風がどうだとかそんなんで企画が通ったり製作に関わったりが決まるほどテレビ局事情は単純な話ではない。

パプリカ」と嵐の「カイト」と米津玄師

anond:20201231121747

はてなの、それも増田ジャニーズアイドルの話をしてもせせら笑われるのがいいほうで、「カイト」にしても増田では米津玄師に幻滅したというファンエモい心情が何回か吐露されただけだった。

俺は「カイト」という曲が好きで、それはオリンピックアイドル活動休止といった一市民生活に直接は関係のないことを意識的に取り扱いながらも、あらゆる人にとって共感できる曲として昇華されているからだ。

そしてあの「パプリカ」と通底するポイントがありこの二曲を同一世界だと捉えることでイマジネーションが広がる壮大なストーリーに一人感動した。

2020-12-11

anond:20201211025942

分かってねーな 「遍く人は生まれながらに自由であり平等」なんだよ 通底する前提があって具体的事例が来るんだよ お前のは何も原則が無い個別事例だけじゃねえか 論理性が欠けてる

2020-12-05

anond:20201204203420

ほかはめんどくさいがここだけ指摘しておきたい。

ぶっちゃけほかも間違いだらけだが、言うのがめんどくさい)



まず、オタクが大好きな絵柄、要するに萌え絵アニメーションに不向きなのである。あの頭と目が大きく、等身が低くて身体か華奢という構造は、見た目通り人間的に動かすというのは困難だ。だから、どのアニメにおいてもよく動くと言われるもの萌え絵から距離を取っている。萌え絵選択すると自動的紙芝居的な動きが縛られたものしか作れなくなる。

絵を描いたことがないやつが憶測で言う絵の理屈に当たりは殆どない。

的はずれなことばかり。たまに理論派で的を射た事を言う人間もいるが、細かい部分を聞くとずれきったことを述べてるなんてケースも見られた。

元増田もこの種族

デフォルメ化されたもの360度動かし立体フィギュア化したりといった技術はここ20年の間に確率されてきた。

まり2D3Dノウハウとしてはかなり完成されているということ。

現実的もの自在な角度で描ける人はごまんといる。



ディズニー萌え絵選択せず、あのような絵柄なのは動かすことを念頭に考えているからだ。

動かすことを念頭に置いていること自体事実だが、ディズニーアニメーターのアタリのとり方を見てもわかるように、別段人体のアタリのコツと変わりがない。

というよりすべての物体には通底した形のとり方があり、ディズニーアニメはその一形態に過ぎない。

萌え体型もしかり。にわかなのに知識だけで語るとこうなる。

そしてディズニーを始めとするカートゥーンデフォルメによって派手に伸び縮みすることも当然のように行われる。

デフォルメの過多で動かせなくなる程度のアニメーターはそもそも採用されない。

2020-11-18

純文学に関する雑感

純文学に関する雑感。

# 純文学とは

純文学芸術一種なので新規性必要。逆に新規性がある小説作品純文学という。

純文学における新規性とは、主に作品で取り扱う題材の新しさと表現の新しさ、そして作品通底する美意識の新しさ。それらの新しさを開拓することにより文学表現できる領域を拡大する作品純文学と呼ぶ。

とはいえ個々の作品についてそれが純文学かどうかをきちんと判断するのには時間がかかるので、純文誌(文學界新潮群像すばる)によく掲載される作家小説純文学と呼ばれる傾向がある。

# 純文学というジャンルについての現在課題

市場規模が小さいことが最大の課題。平たく言えば食っていけないので担い手がおらず、ジャンルの魅力自体が縮小している。

村上春樹以外の存命の純文学作家は? と尋ねられても普通の人はなかなか答えられない。

過去の一時期においては小説新聞文芸ジャンル以外の雑誌、たとえば旅行雑誌美術雑誌での連載が純文作家生計を支えていたが雑誌自体の数が減っているうえ個々の雑誌での枠も縮小されている。

人が減ると素晴らしい作品が世に生まれる頻度も基本的に落ちるので純文学というジャンル全体の衰退につながる。

# 存命の個々の作家について

## 大江健三郎

年齢を重ねても作風を変化させて挑戦を続けてきた点が純文学作家として模範的大江健三郎賞を長嶋有中村文則星野智幸などに与え若手の紹介に努めてきた点でも良心的。

## 村上春樹

現在日本作家では知名度が抜群だが作風テーマ進化が乏しく世間での人気ほどは評価できない。村上春樹といえばノルウェイの森世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドだが、どちらも80年代作品海辺のカフカでも2002年。このこと自体村上春樹文学的な意味での保守性を象徴している。かつてはアンダーグラウンドのような社会派ノンフィクションも手掛けていたのだが…?

自分ピンボールが好きだが村上春樹本人は気に入っていないというのをエッセイで読んだような読まないような。

## 平野啓一郎

かつてはポスト村上春樹と呼ばれることもあったひとの一人。一時期「分人主義」を提唱しこれをテーマに据えた作品を発表していた。分人主義に基づいて個人感情分析することにより従来と違った形での説明を与えるということが趣旨のようだが、過去フレームワークでも類似表現可能に思え、冗長になっただけだと感じた。

## 綿矢りさ

初期の作品個人にとっての偶像テーマにしており谷崎潤一郎三島由紀夫のような伝統日本文学に連なる。その後は徐々に青春小説へと接近している。私をくいとめては2020年の冬に映画化されるらしい。純文学市場の拡大に貢献できる良い作家三浦哲郎に「不可解な文章」と言わしめた自分に酔ったような癖の強い文章もっと出してほしい。まだ若く作家として活動できる期間が長いので今後に大いに期待。

## 町田康

文体が珍しいので一見イロモノ。イロモノなのに読みやすいところにテクニックがある。短編文体個性で押し切っている感じがするが、長編告白のような骨太作品もある。織田作之助比較されることもあるが、織田作之助は金勘定だとかの細部を積み上げることでリアリティ演出されている一方で、町田康は細部を積み上げることにより虚構感が増している感じがある。町田康生活感を排除しているからだと思う。高級なレストランと同じで生活感がなく、現実と切り離された一個の世界に没入しやすい。

## 舞城王太郎

町田康と同じ印象。自分の中では町田康パート2。文体ファンを得ているタイプ。ポップな作品も多いのでミステリ等のエンタメから純文学に入るための入口として価値が高い。

## 星野智幸

俺俺はすごい作品だと驚いたが、最後吐息目覚めよ人魚は歌う、夜は終わらないあたりは表現意図がピンとこなかった。試行錯誤しているということか。今後に期待。

## 長嶋有

明確な長所があるというよりも全体的な味で売る作家。晴れた昼間にビールを飲みながら読むと面白い

## 阿部和重

阿部和重作品純文学だろうか? 自分には文学性が分からなかった。ピストルズおもしろい。映画化すると映えるかスーパー駄作になるかのどちらかだと思う。爆死しても愛おしいか映画化してほしい。

## モブ・ノリオ

デビュー作で芥川賞を受賞してからほとんど作品を発表しておらず、断筆したものと思われる。介護入門ではヒップホップ的なノリがダサいとか邪魔という評価を多く受けていたようだが、あれは介護現実真正から受け止めるのはきつすぎるいう叫びであったり照れ隠しであったりしたと思う。私は好きだった。長嶋有と同様に、スポーツ誌Number出身の人が編集長をしていた時代文學界からデビューした。この人のように評価に困る作品をたくさん読みたい。

## 高橋文樹

新人賞にあたるものを2回受賞した珍しい人。デビュー作の途中下車は異様なほどの意気込みを感じる文章で、高校球児を見るのと同じ種類の愉しみがある。破滅派という同人主催している。最近SFを発表している。純文学での活動の有無は不明

## 桐野夏生

エンタメでのキャリアが長いが純文系の賞もとっている。東京島おもしろい。純文以外の作品が多く十分に読み切れていない。

## 辻仁成

恋愛小説に近い作品を多く書く。江國香織と一緒に冷静と情熱のあいだを書くなどしていた。大学生の頃は好きだった。今の私は対象読者ではない。最近新型コロナウイルス関連のフランス事情ワイドショーで喋っている。

## 円城塔

よく分からない。理系的と評されることもあるらしい。私も理系だがよく分からない。サイエンスエンジニアリング本質再現性だが、それが円城塔作品とどう関係するのかが分からない。楽しむための手がかりを見つけられていない。

# 純文学芥川龍之介造語であって海外には純文学はない。純文学という日本固有のくくりで語る意味はないのでは?

純文学グローバル通用しない概念なのは知っているが、ジャンルというのはそういうものなので、意味がないとは思わない。日本に現に純文学という分類が根付いている以上、それを無視するのもおかしい。一読者としても、作品を読む前に、それがエンタメなのか純文学なのかを知っておきたい。そうすれば期待外れでがっかりすることが減らせるから

# 詩はなぜ純文学ではないのか

自由詩、短歌俳句、いずれも手垢のついたオートマティックな表現が最も嫌われる。新規性があることが高評価の前提となる表現形式なのだ。だから純文学カテゴライズして新規性必要性を主張するまでもない。

ただし純文学も詩も文学性という点では近い価値観を持っている。そのことはたとえば穂村弘文藝新人賞選考委員を務めていることからも分かる。

2020-11-04

父が、いつか死ぬかもしれない

私の父とは、もう20年は会っていないだろうか

中学生の頃、母とお金のことで喧嘩をしている父の姿が思い出される

いや、正確ではない

だって、私が直接両親が喧嘩している現場を見ていた記憶はないのだから

それでも、その場面が、そのイメージがこびり付いているのは、ひとえに母からの話や周りからの伝聞なのだろう

から、父に対しての印象はあまり良いものではない

離婚後、何度か父に会いに行ったことがある

父と祖母に、母についていくことを伝えに行った際

私は父に対して、母を苦しめたことなどを詰った覚えがある

激高した父にその場で掴み掛られ、床に押し倒されたことを覚えている

祖母は、父の名前("○○ちゃん"という小さい子供に対するような呼び方で)呼びかけるだけで、強くは止めなかった

そのような姿を、当時の私はぼんやりと眺めていた覚えがある

では、でもどうなのだろう

私にとって、では母のことを除いて父にどのような感情を抱いているのだろうか

やはりそれでも、父のことは好きになれない

父はふとしたことですぐに機嫌を損ねたので、幼少期の私は酷く怖かった覚えがある

直接的な暴力(押さえ付けられて睾丸を握られた思い出が強くあるが)や暴言こそないものの、「大人が機嫌を悪くして怒る」ということが非常に怖かった

今思い返せば(というより当時母からも言われていたが)、私自身の言葉遣いや態度にも問題がある部分も大いにあった

それでも父に対して「理不尽」「暴力」という印象が残ってしま

そんな父も、年齢的にはいつ亡くなっても良い年齢になっている

きっと、当時思っていたより小さくなっているだろう

「父はこんなに小さかったのか」と思うだろう、実際に会えばそのちっぽけさに驚くのだろう

「父には父の苦悩があったのではないか」という事実に考えが及ぶのだろう

あるいは、これまで生きてきた私自身の人生と照らし合わせて、少なから通底する部分に驚きや共感を覚えるのだろう

けれども、私自身に父へ掛ける言葉が見つからない

小さく、老いて病んだ父にどのような言葉を掛けて良いかからない

父よ、あなた人生幸福でしたか

母と別れた後、あなたはどのように生きてきたのですか

私や母のことを思い出したことはあるのですか

自分選択に後悔したことや、やり直したいと思ったことはないのですか

結婚するべきではなかった、子供など作るんじゃなかった」と感じたことや思ったことはありませんでしたか

今、私と話したいことはあります

疑問ばかりが沸いてきて、でもきっとそれらは果たされず、その機会すら与えられずに消えていくと思う

きっと近い未来、そう遠くない未来

父は間違いなく、死ぬ

何でもないある日、きっと私は電話を受ける、あるいは手紙電報かも知れない

「父が死ぬかもしれない、今、病院で」といった言葉で私は現実を突きつけられる

「そうか、父も死ぬのか、私が死ぬまで生きているなんてことはないんだ」と

私はきっと悩み、迷うだろう

父に会うべきなのか、何か話すべきかのか言葉を交わすべきなのか

からない、結論が出ない、今この瞬間でさえも

感情的になってしまうかも知れない、不必要に互いを傷付けあってしまうだけかも知れない

あるいは、父と会う事でこれまでの自分自身が揺らいでしまうことを恐れているのかも知れない

それでも、父はある日突然死ぬ

現実は変えられない

それは、明日かも知れない

2020-10-24

anond:20201023162121

この自演スターの多さや共通したブクマの多さとクソダサいタグ芸に通底するワンパターンID命名法を見て妄想だと言ってるなら草しか生えんよ

2020-10-22

悟りがなんちゃらかんちゃら

 僕の好きな仏教系の挿話に「火事燃えてる家と赤児の話」というのがあって

 どんな話かというと、とある家が火事になっているとする――。その燃えている家の、崩れた瓦礫の隙間に赤ん坊が取り残されているとする。赤ん坊はどうやら周囲の状況にあまり気付いていないらしく、指を咥えてぼんやりとした面持ちのままその場に座り込んでいる――。まだ火の手はそれほど近くにまでは来ていないから、何らかの手段を講じれば赤児の命を助けられるかもしれない、みたいな話。

 でも、瓦礫でできたスペースは小さくて、その奥まった場所に取り残されている赤児の元へは、大人の体では大きすぎて辿り着くことができない。また、その瓦礫を除けようも、ちょっとしたバランスの変化で瓦礫は崩れ落ちそうに見えるくらい、その均衡は危うい。つまり、その時赤ん坊を助け出す手段としては、赤ん坊自らの力によって瓦礫の外へと這い出してもらうより他に方法がない、という状況である

 さて、この時赤児にアプローチするには幾つか方法があって、この挿話によればその方法は主に二つである。一方に関しては、これは失敗が決定付けられた最も愚鈍手段であるんだけど――次のようなものだ。

火事なんだ! すぐ傍にまで火の手がやって来ている。だからくそ場所から逃げ出すんだ。さもないととんでもないことになるぞ!」

 と赤児に向かって叫ぶというものである

 当然この方法は赤児の命を救うことができない。それは無論のことで、赤児はまだ大人の冷静な言葉を解するには年齢や知能の発達が不十分で、その言葉を正しく理解することなど到底できないから、正しい指示を送ったところで何の役にも立たないということなのだ。

 また、そこにはもう一つ細かい問題というのもあって、この挿話ではそれについて次のように述べている。大人必死な目をして、必死な声で赤児に対して叫ぶのを見て、むしろ赤児は言うことを聞くどころか怯えて、泣き出して人事不省に陥ってしまうなり、あるいは、間違った方向へと這いずって逃げ出してしまうなり、むしろ事態悪化する行動を取る結果にしかならないだろう――とこの挿話の語り手は述べるのである

 さて、そのような具合に、「正しい情報を与え、正しい指示を行う」といった方法はこの場合何の役にも立たないことが示された。それどころか、より事態悪化させることにしかならない、という結論が述べられた。勿論これはあくま仏教的な挿話の範疇示唆されていることではあるんだけれども。いずれにせよこちらは失敗にしか傾斜しない、二者のうち一方の愚鈍極まる手段ということであった。

 では、もう一方の手段とは何か。


 それは、「何か音の出るおもちゃを持って、笑顔で赤児に呼びかける」である

 上手くいけば、赤児はそのおもちゃに興味を示して、出口の方へと這いずって自ら正しい方向へ歩むことができるかもしれない。少なくとも、何ら言語を解さない赤児に向かって、「逃げろ」だの「火事が迫っている」だの叫ぶよりはずっと結果はマシになる筈であろう、とのことであった。因みにこの方法を用いる理由として一つ、さら重要な前提があって、つまりそれは赤ん坊はよくも悪くも自分自身がおかれている状況に無自覚であるということである。そのため、赤ん坊火事危険を知らず、余計な恐怖や危機感によって泣き叫んだり人事不省に陥ったりする心配は今のところ無い――つまりは割と平然としているということが、この第二の手段を更に正当化する理由となるのであった。

 時間制限は確かに存在する。火の手が回る前に、迅速な判断必要な場面ではある。とは言え、自らの膂力によって瓦礫を除けたり、あるいは赤児の取り残された小さな隙間に入り込むといった手段を使えるわけでもなし、正しい指示を送ることは怯えさせるだけで役に立たない――そんな時に用いるべきなのは、本当は「おもちゃ音色と、同時に浮かべられる朗らかな笑顔なのだというのが、この挿話の結論であった。


 賢明な読者の皆様はお気付きであると思うが、この「火の手が迫り今にも崩れそうな家」と、「状況を理解していないし、また言語を解すこともできない、取り残された赤ん坊」は、現世と衆生にそれぞれ対応した比喩となっている。もっと言えば、それは我々の世界と我々自身についての比喩なのだ

(あるいはこれは、悟り涅槃(救い)というものと、それを理解できない衆生の対比になっているとも言える。)

 いや、こんなこと言ったら気分を害する人もいるかもしれないんですけどね、まあ仏教というか宗教全般は大体そういう通底した考えとか世界観があるのはしゃーない。正しい言葉で語りかけても、衆生危険認識するどころか怯えて遠ざかり、尚の事炎の害に遭う可能性が高まるので、何らかの便宜的な他の手段(この場合おもちゃ笑顔)を講じるべき、というのが、仏教側のスタンスだということでした。まあいずれにせよ昔の人は面白い喩え思いつくなー、とかそういう話なんですねはい

2020-10-17

悟りがなんちゃらかんちゃら

 僕の好きな仏教系の挿話に「火事燃えてる家と赤児の話」というのがあって

 どんな話かというと、とある家が火事になっているとする――。その燃えている家の、崩れた瓦礫の隙間に赤ん坊が取り残されているとする。赤ん坊はどうやら周囲の状況にあまり気付いていないらしく、指を咥えてぼんやりとした面持ちのままその場に座り込んでいる――。まだ火の手はそれほど近くにまでは来ていないから、何らかの手段を講じれば赤児の命を助けられるかもしれない、みたいな話。

 でも、瓦礫でできたスペースは小さくて、その奥まった場所に取り残されている赤児の元へは、大人の体では大きすぎて辿り着くことができない。また、その瓦礫を除けようも、ちょっとしたバランスの変化で瓦礫は崩れ落ちそうに見えるくらい、その均衡は危うい。つまり、その時赤ん坊を助け出す手段としては、赤ん坊自らの力によって瓦礫の外へと這い出してもらうより他に方法がない、という状況である

 さて、この時赤児にアプローチするには幾つか方法があって、この挿話によればその方法は主に二つである。一方に関しては、これは失敗が決定付けられた最も愚鈍手段であるんだけど――次のようなものだ。

火事なんだ! すぐ傍にまで火の手がやって来ている。だからくそ場所から逃げ出すんだ。さもないととんでもないことになるぞ!」

 と赤児に向かって叫ぶというものである

 当然この方法は赤児の命を救うことができない。それは無論のことで、赤児はまだ大人の冷静な言葉を解するには年齢や知能の発達が不十分で、その言葉を正しく理解することなど到底できないから、正しい指示を送ったところで何の役にも立たないということなのだ。

 また、そこにはもう一つ細かい問題というのもあって、この挿話ではそれについて次のように述べている。大人必死な目をして、必死な声で赤児に対して叫ぶのを見て、むしろ赤児は言うことを聞くどころか怯えて、泣き出して人事不省に陥ってしまうなり、あるいは、間違った方向へと這いずって逃げ出してしまうなり、むしろ事態悪化する行動を取る結果にしかならないだろう――とこの挿話の語り手は述べるのである

 さて、そのような具合に、「正しい情報を与え、正しい指示を行う」といった方法はこの場合何の役にも立たないことが示された。それどころか、より事態悪化させることにしかならない、という結論が述べられた。勿論これはあくま仏教的な挿話の範疇示唆されていることではあるんだけれども。いずれにせよこちらは失敗にしか傾斜しない、二者のうち一方の愚鈍極まる手段ということであった。

 では、もう一方の手段とは何か。


 それは、「何か音の出るおもちゃを持って、笑顔で赤児に呼びかける」である

 上手くいけば、赤児はそのおもちゃに興味を示して、出口の方へと這いずって自ら正しい方向へ歩むことができるかもしれない。少なくとも、何ら言語を解さない赤児に向かって、「逃げろ」だの「火事が迫っている」だの叫ぶよりはずっと結果はマシになる筈であろう、とのことであった。因みにこの方法を用いる理由として一つ、さら重要な前提があって、つまりそれは赤ん坊はよくも悪くも自分自身がおかれている状況に無自覚であるということである。そのため、赤ん坊火事危険を知らず、余計な恐怖や危機感によって泣き叫んだり人事不省に陥ったりする心配は今のところ無い――つまりは割と平然としているということが、この第二の手段を更に正当化する理由となるのであった。

 時間制限は確かに存在する。火の手が回る前に、迅速な判断必要な場面ではある。とは言え、自らの膂力によって瓦礫を除けたり、あるいは赤児の取り残された小さな隙間に入り込むといった手段を使えるわけでもなし、正しい指示を送ることは怯えさせるだけで役に立たない――そんな時に用いるべきなのは、本当は「おもちゃ音色と、同時に浮かべられる朗らかな笑顔なのだというのが、この挿話の結論であった。


 賢明な読者の皆様はお気付きであると思うが、この「火の手が迫り今にも崩れそうな家」と、「状況を理解していないし、また言語を解すこともできない、取り残された赤ん坊」は、現世と衆生にそれぞれ対応した比喩となっている。もっと言えば、それは我々の世界と我々自身についての比喩なのだ

 いや、こんなこと言ったら気分を害する人もいるかもしれないんですけどね、まあ仏教というか宗教全般は大体そういう通底した考えとか世界観があるのはしゃーない。正しい言葉で語りかけても、衆生危険認識するどころか怯えて遠ざかり、尚の事炎の害に遭う可能性が高まるので、何らかの便宜的な他の手段(この場合おもちゃ笑顔)を講じるべき、というのが、仏教側のスタンスだということでした。まあいずれにせよ昔の人は面白い喩え思いつくなー、とかそういう話なんですねはい

2020-08-23

anond:20200823012303

通底ってメチャクチャ便利な言葉で「これは表面的には全く別の事柄だけど、根本では同じなんです」って言ったもん勝ちだからね。

フェミニズムとBLMとナチズム共産主義くっつけるのさえ容易いんだわ。そんなもん何の意味もないよね。

anond:20200823001727

かに断る必要あるの?

理念通底していればよし。それが、一人一派のよいところよ

2020-08-14

名前を教えてくれ

持ちやすい形、食べきりサイズ、おいしくなって新登場、アクリルフィギュアハイタッチ会、などに通底する”何か”の名前を教えてくれ

2020-07-19

anond:20200712141747 とある鍵垢同人女より商業作家さんのお気持ち表明についての構造整理

とある鍵垢同人女より商業作家さんのお気持ち表明についての構造整理

https://anond.hatelabo.jp/20200712141747 さんの激おこ文章同人女サイドでは、ひとくくりに糾弾されて普通に嫌な気持ちになったけど、気持ちはわかる。

(私は同人女ですが、かつて別名義の本名文学一次創作詩歌評論を発表していた人間です。自分作品私物化海賊業されて…という経験はありません)

主さんもおっしゃる通り、商業として作品商品にした以上、それを自分のものと主張するのは難しくなります

「作者」と「読者」ではない、お金の介在する生産者消費者関係は、金銭契約により生産者使用者関係を生み、その生産者雇用主・被雇用者に細分化するものです。

作品の発表に当たり人の手を経れば経るほど、その作品の所有層全体に見る自分割合がちっぽけになっていきます

この問題を切り分けて考えると、

(1)作品を発表した

(2)ゆがめて解釈された

(3)同人作品を発表された

(4)それにより純粋な「作者」の契約外の人間利益が発生した

の4つの工程があります

そのそれぞれの段階に、「作者」を悩ませる要因が存在します。

(なお、前提として、「作者」は作品を発表するにあたり企業などの商業的な発表媒体契約を結び、「作品」は「商品」となっています。)

問題1【(1)→(2)で起こる、「再生可能性」の不足】

作品には、発信者と受信者がいます

信者解釈する自作品と、受信者解釈するその作品の間に、何らかの解釈の違いが生じることが、第一の難しさ。

アート作品プレスリリースした際、一方向から撮影した1枚しか写真が載らず、別の一面の情報が伝えられなかった。

カラー風景画を取材され、新聞モノクロ掲載され、色味の再現が十分でなかった。

詩吟節回しとして本来長音が入らない箇所を、聴き手の記憶頼りのレビューで長音のように表記された。

使用楽器の質にこだわってリリースした楽曲を、百円均一の音質の悪いスピーカー再生された。

・ある特定ホットサンドメーカーを使った料理レシピを、異なる製品で作った結果、焦げておいしくなかった。

ここには、「発表媒体」による不自由と、「ツール」による妨害存在します。

いずれも、その作品情報の伝達時の「再生方法が、その作品表現しきるに満たない、という問題です。

今回の漫画作品では、おそらくこうした再現性の問題はほぼないでしょうが

【「作品」を再生する受信者は、必ずしも「作者」の思惑通りに「作品」を享受しない】。

その結果、【本来作品ポテンシャル外の評価解釈が生まれる】。

これは、芸能人政治家発言した内容を任意に切り取って報道する偏向報道もそうです。

本来与えられるべき情報量に到達できないまま受信者作品評価することが、作品発表の第一の関門です。

問題2【受信者の好みによる「解釈のゆがみ」】

「○○くんは目が大きくて背が低くてかわいいから受け」

「××くんは○○くんを好き。▲話で腰に手を回してるからセックスした」

「▲▲さんは実は●●ちゃんを嫌いなんじゃない?」

「●●ちゃんは本当は腹黒で、○○くんに近づく奴を陰で×してる」

一次創作は、「もしも○○という人物がいたら」から

二次創作は、「●●という作品の○○という人物がもしも××したら」から端を発するものです。

まり二次創作原動力は、作品の「余白」と「違和感」です。

作中の違和感根拠に、関係性を決定づける。

作品の余白を解釈して、起こったことを空想する。

その「違和感」の着眼点や「余白」の範囲は、作者によって規定できません。

二次創作には「パロ」という文化存在し、読み手側が「もしも○○だったら」と仮定することで、作品の余白は無限に継ぎ足されます

さらに、「違和感」は、疑えばいくらでも生み出すことが出来ます。人の行動の裏の意味について考えすぎてしまうとか、創作に関わらない人間関係と同じように。

【「余白」や「違和感」などの、二次創作の要因は、作品のいたるところに存在する】。

作品を、想像力を持つ人間に届ける以上、この「解釈のゆがみ」の発生を止めることはできない】。

これが第二の問題です。

問題3【「ゆがんだ」同人作品の発表】

私の敬愛する漫画に『ぼくらの』という作品があります

少年少女が生きる意味死ぬ意味に向き合い、あらがい、自己を実現する、人生の解の物語です。

その物語では、一人一人の死には厳然たる尊厳があり、死は尊重されるべき、という観念少年たちに獲得され、通底していました。

しかし、その物語アニメ化された際、監督の好みで物語の大筋が改変され、少年たちの命運も、登場人物人生意味も、その監督解釈により書き換えられました。

アンインストール」というテーマ曲が有名なゼロ年代アニメですので、主様やこの記事をご覧の方もご存知かもしれません。

こうした、【自己解釈による横取りただ乗り】が、主様の同人女に対する一番の怒りなのではと感じています

これが第三の問題です。

例えば原作ファン実写化を叩くのも、おそらく類似した心理によるものです。

そして、このただ乗り素人同人女)がする場合、その目的は3つが融合しています

自己実現」「他者から承認」「何かに打ち込み成し遂げる快感」の3つです。

自己の考えを開示・表明することで自己を実現する。それを承認されて行為が加速する。同人イベントなどの目標を達成し、達成感を得る。

これらが融合し、「カップリング界隈」という一つの社会に生きる「同人女」としての個性を、一人の人間の中に築いている。

趣味活動」という、第一人生を生きながらある程度の匿名性が担保された第二の自己を獲得することが、「二次創作界隈」では可能なのです。

しかも、その第二の自己は、第一人生を妨げません。いざとなればアカウントを消去して関係を断てる、切り捨て可能インスタント人生。だから同人活動は気楽に楽しめます

一次創作主ほどの切迫した人生生活感が、二次創作主でいる間には、必要ないのです。

【「自己実現」「他者から承認」「何かに打ち込み成し遂げる快感」は、「同人女」に第二の人生を与え、同人女を生きやすくする救済である】。

これが、SNS社会現代で、同人作品の発表がなくならない理由ではないでしょうか。

しかし、取れる策が自衛しかない小さな政府大衆民意経済尊重の今の世の中では、二次創作されるのが嫌な一次創作者は二次創作嫌だ二次創作禁止と言える会社で発表するしかありません。アルファポリスとかしか思い浮かびませんが。

一次創作で金儲けしながら作品自分一人のものとして主張したいなら、同人でやるしかない。

企業自分作品を買い上げてもらうことはあきらめる。企業製造ライン企業販路企業広報、そういうものに載せてもらった時点で、作品方針を取る手綱自分のものではなくなる。

生活のために金儲けすればするほど、作品権利元が分散して、作品が多くの人の手を経て連帯の所有物になっていき、純粋な「作者」の手元を離れていく。

「商」業の性質上仕方ないです。

両得で叶えることは難しいと思います残酷ですが、主様のおっしゃるとおりですね。

問題4【「契約外の人間利益」】

四つ目の問題は、言葉の通りです。

これに言えることはありません。

同人界隈のモラルどうにかして。】って感じです。

利益」と「権利」に対する、同人活動者の考えの浅さに直面するたび、私もくやしくなります

公式デザインを模してリサイズした自作ぬいぐるみ制作

公式が発表していない自作ねんどろいど写真SNSに発表する。

公式ロゴ類似したロゴを使ったスマートフォンケースの受注生産

二次創作禁止をうたう作品二次創作

全てアウトです。公式の受け取るべき権利横取り公式意図しない第三者営利活動が原因で、立体商品が発売されなくなったジャンルもあります

それでも横行しています。「痛い目を見ていないか大丈夫」なんですね。

私が同人活動をしている作品二次創作好意的で、二次創作の中でも特に禁じるものを明記したガイドラインもあり、公式サイドで映像制作に関わっている方によるファンアート投稿も盛んです。

それでもガイドライン中で明記されている禁止行為をする人が後を絶ちません。

「みんなやっているからいい」。

主様のおっしゃる脳死同人女の考えですよね。

公式から二次創作全面禁止のお達しが出るまで続けるのでしょうか?

そこに倫理はないんでしょうか?

ここを踏みとどまってほしい、という、主様のメッセージ最後の一文だけでも、少しでも多くの同人女に届いてくれればよいと思います

以上。

構造の整理と言って、結局私のお気持ち表明でしたが、以下に内容をまとめます

●まとめ

(1)作品を発表した

問題1】「作品」を再生する受信者は、必ずしも「作者」の思惑通りに「作品」を享受しない。その結果、本来作品ポテンシャル外の評価解釈生まれる。

(2)ゆがめて解釈された

問題2】二次創作の要因は、作品のいたるところに存在する。作品を、想像力を持つ人間に届ける以上、「解釈のゆがみ」の発生を止めることはできない。

(3)同人作品を発表された

問題3】「自己実現」「他者から承認」「何かに打ち込み成し遂げる快感」は、「同人女」に第二の人生を与え、同人女を生きやすくする救済である

(4)それにより純粋な「作者」の契約外の人間利益が発生した

問題4【「権利」「利益」へのモラルがない】

言葉多めに分解して、主さんを苦しめている問題を書き起こすと、こんな感じでしょうか。

難しい問題だと思います解決手段、私には思いつきません。

主さん。お疲れ様です。うまく気持ちに折り合いがつくことを祈っています

2020-06-24

アルテを見終わる

アルテは恋愛というテーマ最初配当することで二元的な要素を多重化している。他には画業の習熟と未熟、貴族平民恋愛師弟愛という三つの二元テーマ最初から盛り込むことができている。多重的な二元対立要素は二元という単純化やす構造を複雑化、あるいは解決困難にしてしまうためドラマと相性が良い。例えば恋愛師匠愛というテーマと、画業の習熟は早くから対立概念になる。アルテは師匠から恋愛に現を抜かしていることは知られないものの、仕事に集中できていないとして叱られる。テーマ外ではフィレンツェヴェネツィア二元を持ち出し、帰るべきか帰らざるべきかという二元で更に事態葛藤に導く。ここでは師匠収入の二つが天秤にかけられている。お得様の高級娼婦とアルテの関係では、高級娼婦生き方に対する尊敬顧客を袖にする娼婦特性に対する怒りとして葛藤表現される。

アルテの葛藤ヴェネツィアでも続いている。ここでは家庭教師仕事に就き、こまっしゃくれた子供の面倒を見る。この子自体が育ての親と実の親との間で二元対立軸を持っており、アルテ自身もこの娘と葛藤しつつ融和する。さらにこの娘の両親は意見の相違で特に奥方葛藤しており、最終話付近奥方と娘も融和を見せる。こうしたドラマの中でアルテは貴族出身者という言い回しを久しぶりに聞いて、技術的な面をアップデートしようとして葛藤した挙げ句倒れてしまう。

見ての通りしつこいほど葛藤二元対立入れ子構造を使っている。

しかし、感想という話なら「普通でした」という感想

至って普通のことを丁寧にやってゆくと上の内容になる。

でも裏側では割としつこいことやってるなと。

ただこれ、対立軸だけじゃなく画家独自通底する概念みたいなものだんだん分かってくるようになると更に面白かったと思うんだけど。いわゆる一芸は全てに通じる的な。

2020-06-20

anond:20200619235709

変な歌詞というか、英語に聞こえる日本語をわざと歌詞に入れるのは桑田佳祐もやってたしね。

モテない男の子必死背伸びする可愛らしさと滑稽さ、みたいなのは岡村靖幸歌詞通底するところ。

それをややおしゃれな雰囲気とだめっぽいキャラクターで80'コメディのような印象を残すことに成功してる。

まあ古い感じはするけど。

2020-06-11

ハリー・ポッタートランスフォビアの方法

JKローリングとTERF

水曜日JKローリングが「TERF戦争」と題した声明ツイートした。ローリングが「月経のある人」というフレーズ揶揄したり、「トランス・アクテヴィズム」が女性を抑圧しているとするなど、トランスフォビックな発言ツイートして論争を呼んだ直後のことだ。


https://courrier.jp/news/archives/201920/


前々からローリングはTERF(トランス排除主義的なラディカル・フェミニスト)とみなされていた。

TERFと呼ばれる人々はトランスフォビックな発言をしたり、トランス女性女性空間(women’s spaces)に属していないと主張したり、ときにはトランスジェンダー実在を認めることは女性の権利を侵害することだとほのめかしたりもする。


TERFの簡単歴史

TERFという呼び名1970年代フェミニズム理論に由来するが、より広く知られるようになったのはネットの発達した2000年代以降のことだ。

1970年代当時、ラディカル・フェミニストサークルは、トランス女性を支持するフェミニストと支持しないフェミニストを分ける言葉必要だという信念を有していた。

フェミニストグループは基本女性オンリーの集まりであり、物理的な意味でも男性とは「別の部屋」を形成していた。ここで物事をやっかいにしたのが「トランス女性」という存在だったのだ。特にラディカル・フェミニストサークルではトランス女性の受け入れについて激論が交わされたそう。

その際に女性空間トランス女性を含めることを反対するフェミニストたちが自称しだしたのが gender critical feminists だ。

初期のジェンダークリティカルフェミニストたちはトランス女性やノンバイナリーの人々を女性空間から締め出す運動を始め、トランスの人々に対して暴力的脅迫を繰り返したりもした。

生物学的な性別(biological sexes)」を重視するローリングのような人々は、こうした半世紀前のラディカル・フェミニストたちの信念を引き継いでいる。ローリングは「”生物学的な性別””は二種類しかない」と自身ブログでたびたたび強調しているが、これも70年代残響ひとつだ(ちなみに彼女のこの発言研究者によって否定されている)。

生物学的な性別」の神聖視に加え、ローリングはもうひとつ1970年代において使われていたジェンダークリティカル論点を繰り出している。すなわち、「トランス女性女性空間に入ることで、シスジェンダー女性安全が脅かされる」というアイディアだ。

彼女はこう述べている。「私はトランス女性安全であってほしいと思っています。同時に、生まれつきの女の子女性たちにおける安全を弱めたくないのです」


TERF的なイデオロギーを持つ人々は性別適合ケア性別適合手術やホルモン療法など)に反対している。単に女性空間からトランス女性排除することだけでなく、トランスジェンダーの人たちからそうしたケアも取り上げようと古くから提唱してきたのだ。

たとえば、マサチューセッツ大学教授ジャニスレイモンドは1979年に著した悪名高い "Transsexual Empire: The Making of the Shemale”(https://wezz-y.com/archives/63653)において、ヘルスケアなどをカットするなどの措置によってトランスジェンダーの人々を「道徳的に根絶すべきだ」と書いている。


こうした反トランス的な感情は、トランスジェンダーの人々にネガティブな影響をおよぼしつづけてきた。アメリカでは、保険会社が何十年にもわたって性別適合ケアを拒絶してきたし、医師たちもトランスやノンバイナリーのひとびとにHRTホルモン補充療法)を提供することを敬遠してきた。そうした状況が変わったのはここ数年のことだ。

2017年まで「性同一性障害」はアメリカDSM精神医学会の精神疾患の診断と統計マニュアル)において精神疾患として分類されてきたが、2018年に削除された。WHO国際疾病分類から「性転換」の項目を撤回している。


ジェンダークリティカルビーストと古き神の再誕

ローリング声明の中で、レイモンドと同様の指摘を行った。彼女トランスジェンダー若者に対して性別適合ケア制限すべき理由として、HRTのあとで「脱移行(detransiton、性別適合ケアを受けたあとに以前の性別に戻ろうとすること)」をしたがる人々が増えている問題をあげている。一方で、性別適合ケアトランスジェンダー若者たちの自殺率うつ病罹患率を下げていることは証明されているのだが。


TERFはトランス女性を「本当の女性」とは考えておらず、トランス男性を「本当の男性」とみなしてはいない。ノンバイナリーの人々の実在も信じていない。

トランス女性女性空間にいれるべきではないのなら、トランス男性についての扱いはローリング的にどうなのか。

彼女はこんな発言をしている。

皮肉なことに、ラディカル・フェミニストトランスジェンダー排除しきってはいません。彼らはトランス男性フェミニズムなかに含めています。なぜなら彼らは女性として生まれたからです」

かなり侮蔑的発言だ。トランス男性女性空間に属している、と断言するのは彼らが「本当の男性」ではないと暗に指摘し、彼らのジェンダーアイデンティティ貶めるようなものだ。

こうしたふるまいは”皮肉なことに”、「生物学的な」理屈でもって女性差別を行うミソジニストの振る舞いと通底している。


また、こうした発言は「自分は誤った性別に”生まれ”てきた」と感じているトランスの人々に、性別適合処置絶対的必要なのだという誤った考えを植え付けることにもつながる。すべてのトランスジェンダーの人が、自分身体性別で快適に過ごすために医学的な処置を受ける必要はない。


近年のアメリカにおいてはフェミニストクィアコミュニティにおいてトランスに対する包摂の動きが高まりつつある。一方で、ローリングの住んでいるイギリスはそうした変化に遅れていると指摘されてもいる。

https://slate.com/human-interest/2019/12/rowling-transphobia-tweet-radical-feminism-discourse.html


保守大国イギリスでは、トランスジェンダーに対する反感が根強い。2000年代に入ってもトランスジェンダーに融和的な法律が制定されようとするとラディカルフミニスト団体が猛烈な抗議をしかけてくるほどだ。「ジェンダークリティシズムの本場」の異名伊達ではない。

イギリスより保守的な政治風土をまとう日本ではどうだろうか。


ラディカル・フェミニズムのものは第二派フェミニズム副産物であるとされる。その流れを汲むジェンダークリティカルフェミニストたちの問題はラディカルであることではなくて、その価値観が50年前から更新されず、社会現実乖離しつつあることだ。

60年代70年代日本フェミニストたちが学生運動同調しきれなかったように、結局オールドで分断的な価値観の行き着く先は古き悪しき家父長制の存続だ。

2020-06-08

anond:20200608201202

性的消費という単語意味はよく分かりません。この言葉は、あまり英語圏では見ないため(日本語訳と原語がかけ離れているのかもしれません)、性的搾取以上によくわかりません。もしかしたら日本まれ言葉なのかもしれません。

一応、性的販促/Sex sells (女性、たまに男性、の性的魅力による商品ないしメッセージ等の販促)あるいはそれを是として推進する性的消費主義/Sexual consumerismなんて言葉もありますが、それでしょうかね?

せっかくなので、同じようによく使われる上、ある程度定義も見つかる性的搾取という言葉についても解説したいと思います

性的搾取/Sexual exploitationという言葉は、特に近年の乱用により様々な意味付与され、具体的な定義をすることは難しいです。

しかしながら、ある程度の基本ラインは維持されております

性的搾取基本的意味(基本形)は「他者の性を利用して(不当に)利益を得ること」です。ここでいう利益金銭のみを指すのではなく、性的満足なども含まれます

具体例を挙げますと、

強制的(騙したり、地位を利用したりすることも含まれる)に売春従事させる

強制的ポルノ従事させる、あるいは演者許可を得ずにそれを流通させる

リベンジポルノ

盗撮映像流出販売

児童売春、およびそれを保護者/監督者が看過、許可、ないし奨励する

児童ポルノ

などです。

基本形に対して搾取者の地位/立場濫用を加味する場合も多いです。「自身地位/立場濫用であって、他者の性を利用して利益を得ること」

多くの場合児童性的搾取/Child sexual exploitationにおいて地位立場意識されます。多くは保護者、少なくとも大人という、子供よりパワーのある存在によって、それが為されるからです。

その性質上、児童性的搾取児童虐待/Child abuseの一形態として扱われます

法的、国際的議論において性的搾取という場合、これを指すことが多いです。

具体例を挙げますと、

児童との性交

児童売春、およびそれを保護者/監督者が看過、許可、ないし奨励する

児童ポルノ

などです。

国連性的搾取という言葉意味定義しています

国連定義性的目的での(相手の)弱い立場、力の格差あるいは信頼の濫用行為またはその試みである他者性的搾取から金銭的、社会的または政治的利益を得ることも含まれるがこれに限定されるものではない。Any actual or attempted abuse of a position of vulnerability, differential power, or trust, for sexual purposes, including, but not limited to, threatening or profiting monetarily, socially or politically from the sexual exploitation of another.

後段は分かりにくいかもしれませんが、例えば児童売春場合あっせん行為もまた性的搾取になるということです。


上記の3つはかなり似通っていることがわかると思います。これらはある程度明文化された領域(法令や国際条例等)で用いられる定義なので、差が少ないのですね。

これらは主に実在人間に対して使われますが、児童ポルノ(二次)等も児童への性的搾取を推奨する物として規制されることがあります

ちなみに、話は変わりますアメリカにはExploitation fiction/filmという言葉があり、エログロドラッグ背徳系のB級作品に使われていました。


さて、上記定義日本ネット界隈でカジュアルに使われている性的搾取とは、どうも違うような印象を受けます

考えてみましょう。基本ラインはおそらく通底しています。「他者の性を利用して利益を得ること」でしょう。

エロい絵で、褒められたり、それを売って金銭利益を得る

性的表現で購買意欲を誘う

などです。

さらに付け加えるなら、アンチポルノフェミニスト的な観点悪魔合体しているように思われます

性的表現により女性蔑視を助長することで、家父長制というイデオロギーを存続させるという利益を得ている

・性産業従事者はすべて強制されている(本人が自分意志従事していると考えている場合でも)

・"性的"という言葉レンジが非常に広い(例えば、キャサリンマッキノンは女性が抑圧されている描写があればそれはポルノであると述べました)

まとめると、性的搾取定義の基本ライン踏襲しつつ、被搾取者を非実在存在にまで拡張させ、さらに"性的"および"強制"という言葉を非常に広くとったものが、日本ネット界隈でよく使われる"性的搾取"と言えるのではないでしょうか。

性的社会的あるいは政治的利益を得るための創作物(フィクション)中の表現であって、視聴者あるいは読者の主観に基づき"性的"である判断されたもの、およびそのような表現を含む一連の創作物

※これはあくまで私の考えた定義に過ぎず、私の観測範囲依存していることをここに記します。

設定改変が分かってるメディアミックスを観るための準備運動



 観たら絶対自分は怒るだろうなと分かっている映画がある。原作小説がとても好きで、映画化の際に「そこは変えちゃ駄目だろ」と思うような根底の部分にドひどい改変をされた映画だ。予告CM開始3秒でそれが分かったので公開当時は絶対観ないと決めていたし、観るような気分になる日が来るとは思ってもみなかった。

 しか最近、「公式との解釈違い」のような文言を用いて苦しむ人々をよくSNS上で目にするようになってその映画存在を思い出し、いい機会だから観てみようかなと思った。何かコンテンツとの付き合い方における知見を得られるかもしれないし。原作版を大事に思いつつも、派生版も楽しんで愛せるような人間になれるならなりたいし……。

 観た後では感情が大きく動いて今の気持ち100%は思い出せないだろうから、観る前に今抱いている改変ポイントについての思いを書きとめておく。

 (ひとつその映画について鑑賞前から確実に言える腹立たしい点は、原作者が亡くなった途端にその映画が作られ、「映像化は不可能と言われていた名作が遂に!」みたいな売り文句付きで世に出された事だ。映像化を何度も断ってきていた作者だから余計に……今までは作者が止めていた設定企画を、もう止める者がいない+追悼とか言える勢いから好き勝手にやっただけではないのかと思う。せめて存命中の公開なら「作者はこの映画化を了承したんだな」と思えたし、そうしたらきっと作者は何かしらのコメント映画へ寄せるだろうから、それを見られればもうそれで良かった。原作レイプ(こんな言葉があったのを久々に思い出した)を通り越して屍姦みたいだ。大切な人の墓に立小便をされた気分だ。)

 映画タイトルは『悪童日記』と言う。原作小説も同題だ(海外文学の中では普通によく知られてる方だと思うので、勿体ぶった言い方をしてしまって少し恥ずかしい)。

 十年以上前、私は好きな作家たまたま雑誌でこの本に言及するのを読んで、高校夏休み中に手にとったそれに首ったけになり、ひと夏の間何度も何度も繰り返し読んで過ごした。だからこんな、映画を観るのに支障をきたすほどに思い入れが強くなってしまったんだと思う。

 しかそもそも映画化されたものをこき下ろしたい訳ではなく、映画映画として楽しめる作品にするためには原作からの多少の改変もやむを得ないというのは充分承知の上だ。だからこの作品についての改変もなんとか納得したいという思いから、今自分は何に納得いっていないかを整理して考えたく、文章に起こしている。

 (このカッコ内は余談なのでとばしてくれて構わないが個人的に、映画化された作品映画原作の順でふれた方が大抵の場合はどちらも楽しめるように感じる。原作映画の順だとカットされた箇所や改変部分が気になってしまって映画100%楽しめない事もままある。例えば私は『ジュラシック・パーク』に映画から先に入ったおかげでスピルバーグのあの映画メチャクチャ最高不朽の名作だと思っているが、もしも原作小説を先に読んでいてファンだったら、そこまで手放しで褒められたかは分からない。映画原作では構成人物もかなり別物だからだ。原作ではティムレックスティムの方がしっかり者の兄でレックスは足ばかり引っ張る幼い妹だし、Tレックスは二頭いて小さい方がかなりチャーミングだし、グラン博士最初から子供に優しいし、ハモンドさんはかなり嫌な感じの爺さんでコンピーに集られて無残に死ぬのだ。)

 改変箇所について書いていきたい。

 映画の予告から分かる改変箇所は主に「父親存在」「日記帳というアイテム出自」だ。私はこれがこの物語においてかなり重要パーツだと思っているので、予告CM開始3秒で見られる改変にガタガタ白目をむき憤死する羽目になった。

 原作小説主人公双子少年)の一人称「ぼくら」で書かれた日記形式をとっている。彼らが母親に連れられて小さい町の祖母の家に疎開してくる所から話は始まる。詳しいあらすじが知りたい人は原作wikihttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E7%AB%A5%E6%97%A5%E8%A8%98)でも見てくれ。ラストまでネタバレされてるから気をつけて。別にあらすじを知らなくてもこの文章を読むのに支障はないと思う。そういうふうに書けていることを願う。

 父親云々の話に戻ろう。

 主人公家族について、母親は冒頭から登場するし、すぐに主人公たちを置いて行ってしまうがその後、他の男の赤ん坊を連れて二人の前に現れ、どうこうなるくだりがある。二人が母親に対して色々思いを抱いていることが分かるような描写もある。

 描写があるという事は、書き手である主人公双子がそれを必要だと判断したという事だ。詳しくは後述するがこの日記はそういうルールの元で書かれている。主人公が無関心もしくは不必要だと判じたものは書かれず、必要ものけが書かれる。例えば作中の時代設定は戦争なのだがそれが一体いつの戦争なのか、年号国名地名人名などの固有名詞ほとんど出てこない。<大きな町><さな><解放者たち>などの言葉しかからない。関わる人々も名前はなく、ほとんど代名詞役職あだ名などでしか呼ばれない。双子自身名前も出てこない。彼らは大抵はあんた達、時に祖母からは雌犬の子などと呼ばれる。

 父親は出てこない。ラスト数頁まではほとんど。

 「父親の不在・不干渉」が、この小説(というか作者であるアゴタ・クリストフ作品はわりとどれも)に通底するテーマひとつだと私は思っている。そして出てこないということはそれは「書かない」という姿勢主人公たちの無関心を示しているのだから映画にも変にひっぱり出してほしくなかったのだ私は。しか作品の根幹である日記に関する部分で。一原作ファン気持ちを言わせてもらうならば。

 以下は物語終盤のネタバレとなるので、知りたくない人は読まない方がいい。

 原作の終盤、国境付近にある双子(主人公)の家に、国境を越え亡命したいという一人の男が訪れる。双子その男自分たちの父親だと気がつくが、父親は二人が自分の息子だとは気付かないまま、亡命の協力を頼みこむ。双子はそれを承諾する。国境までの間には地雷があちこちに埋まっているし、軍の見張りもある。双子は彼に地雷が埋まっていない道筋や、見張りの目の外れる時間帯などを教える。

 亡命決行の日、父親国境へたどり着く前に見事地雷を踏み抜いて死ぬ。すぐにその足跡の上を双子の片割れが辿り、その死骸も踏みつけて国境を越え、亡命を果たす。地雷国境と平行して並べられている。一度爆発した地雷国境を結ぶ線上にはもう地雷は無いので、先に一人立てるのが最も安全亡命のやり方だ。

 原作小説ではこの場面がラストだ。一人は父親の死骸を踏み越え国境の向こう側へ渡り、一人は残ってそれを日記に記録する。父親殺しと、それまで一心同体のようだった双子別離が同時に強く印象づけられて終わる。

 それなのに映画ではどうして、別れる息子達に日記帳を与えるような父親像に変え、それを受けて日記を書く子供たちに設定したんだ? 原作では双子自分たちの稼いだ金と自分たちの意志で紙と鉛筆を買い、自分たちの定めたルールの元で事実だけを、ただ必要と思われた事だけを淡々と記録し続ける。彼らは感傷感情は不必要とし、そういったウェットなものが取り払われ切り詰められた文体はこの作品の特長の一つだ。彼らの考えのもと自発的に書かれていくそ日記こそが『悪童日記』という作品となっているのだから日記帳というアイテムとその経緯は何というかかなり……成り立ちの部分ではないのか? この作品の根幹において、重要位置を占めるはずだ。

 それが映画はいきなり、別れる父親から最後プレゼントという陳腐でウェットなしろものとなる。双子は父の言いつけを守り日記を書き出す。制作側はそこに何の違いもないだろうと思ったのかもしれないが、違うのだ! と言わせてもらいたい。強く。

 日記帳は、それにものを書き続けるということは、戦時下に父とも母とも別離し粗暴で抑圧的な祖母宅に身を寄せねばならなくなった主人公双子が、初めて自分たちで選び獲得した、何かそれこそ父親教師代わり(彼らは学校にも行かない)のような、「この世界で生き抜く上で己の力になり、時に導いてくれる(と彼らが信じ掴んだ)モノ」だ。繰り返しになるがそれを「彼ら自身が」、彼らの面している世界であるところの小さな町で、そこの文具店で「身銭を切って」獲得した点が肝心なのだ。この話は平たく言えば庇護されない子供たちが、彼らの対峙する厳しい世界の中で、自身の力で何とかやっていこうとする物語からだ。

 「父親から与えられた道具」では過ぎ去りし想い出のよすがであるばかりか(感傷双子がつとめて日記から排除してきたものの一つだ)、それが上の者から与えられたという性質上、彼らにとってただの環境の一つに過ぎない。それでは全く意味が違ってしまう。そうでは無いのだ。彼らは道具がたまたま得られたから書くのでは無く、もちろん父親に言われたから書くのでも無い。書くことは彼らが生きるために必要で、だから彼らは道具を求め、書いた。「書くこと」自体彼らの周りには教えてくれる者がおらず、二人は一冊の聖書を使って独学で読み書きを学んでいった。

 「彼らが巻き込まれしかなかった環境に逆らって、初めて自分で望み獲得したモノ」であったはずなのだ、この日記帳は。「書く」という行為は。そういう意味合いがあったのだ、原作の中では……。

 そしてこれは作者の生い立ちや創作の源泉とも重なることが多いので(この作品を含めた彼女作品群は半ば私小説と呼べるものが多い)、私は映画でこんな改変をされた事について作者の気持ちを思うと、勝手にやり切れないものを感じてしまう。作者はもう亡くなっており、死者が尊重されないのは彼女作風からするとむしろ合っている事なのかもしれないが……。

 とりまとめて言えばまだ子供な上にただでさえ不自由が多い戦火の中、それが主人公たちにとっての武器であり糧であり強く生き抜くためのモノだった日記帳が、映画ではまるで父親から受け取った愛みたいなものに、ともすれば別れた父親を想って書かれているようにも受け取られるものすり替えられてしまった。かなりアイデンティティぶっ潰れではないか? どうしてそんなことをしたんだ? この日記は彼らの「書く」という意志のもとの話でしかないのにその根本を摘み取り別な物に置き換えたのは何故? 映画を観れば何か納得できる答えは得られるだろうか。頼む、納得させてくれ! 煽りではなく心からそう思っている。

 観たら本当にメチャクチャ怒り狂ってしまうかもしれないので心の準備をするためにいくつか映画レビューを読んだのだが、映画では日記帳パラパラ漫画が描き込まれている描写があるという。パ……パラパラ漫画!? と二度目の憤死をした。あの全ての無駄を省き贅肉を削ぎ落としたような原作文体淡々事実の記録しかしない所に物語的にも大きな意味が込められている事を知っているはずの制作側はどうしてそんな付け足しを? 主人公(ひいては作者)が定め、遵守してきたルールを踏みにじるような真似を……どうして……。

 

 もちろん、映画化された事によって現代日本の読者から想像もつかないような、主人公たちが生きた当時の暮らし風土感覚などを凄いリアリティで感じられる事などについては大変嬉しく思う。そういった映像表現についてはきっと素晴らしい映画であるだろうと感じられるのだ、予告からだけでも。

 主人公双子を演じる少年たちのビジュアルも、原作から受ける印象そのままと言っていい。もうそれだけでも十分以上のものだし、納得出来ない点があっても他に目を向けて感謝して観れば良いのだ……と思えるようになるまでに何年もかかってしまった。映画が公開されたのは2013年のことだ。

 私は本当にこの映画を観て納得したいし、納得出来なくてもそれはそれで良かったと思えるようになりたいと本気で願っているが、どこまでまっさら気持ちでこの映画を受け止められるかが分からない。願わくばこの物語に関する記憶を消して映画を観られたら、その後で初めて原作を読めるのなら、とても幸せなことだと思う……。でも、それは無理な話だ。

 だから私はこれから記憶思い入れも抱えたまま歯を食いしばってでも全部観て、自力で噛み砕いて納得するしかない。きっとそれはこの先の自分にとって有意義ことなんだろうが、こんな文章をジタバタ書いて整理しないと腹がキマらない位には苦しいものがあった。長くなってしまったが、読んでくれた方は本当にありがとう

 せめて映画ではラスト父親ちゃん地雷で惨たらしく死んで、主人公はその死骸を踏んづけてくれるんだろうなあ!? などとうるさく言いながら観ることにする。そういう観方でもしなかったら多分無理だ。その後言える感想があったら追記する。怒り狂っていたらすまない。

☆いきなり管を巻きまくってしまったが、小説悪童日記』はマジの名作の上にアッと言う間に読めるので、気が向いたら是非読んでみてほしい。もし面白かったなら続き(『ふたり証拠』、『第三の嘘』)もある。全三部作で、全て読むと分かる構成が本当に、本当に素晴らしいんだ。

2020-05-18

anond:20200518171315

もともと小説書きで近年は作品分析ばかりしてるものだ。

基本的キャラスカスカになる以前に、お前が何やりたいか決めてないかキャラが出てこないんだよ。

何百もの作品を論評してストックしているが、悪い作品は大体テーマがない。

これを訴えたい、こうしたいというテーマがあればそれに見合ったキャラは出てくる。

以前ラノベ書きが最終選考まで残ったなんて増田が透過されていたが、そいつは設定が全てだと言っていた。

俺はこれに異を唱えたい。面白い作品作品通底するテーマがある。テーマが一番で設定は二番、三番くらいだ。

では仮に二番目があるとすればなにか。それはシナリオラインだ。

テーマシナリオが決まれば、自ずとそこで動かしやすキャラや動けるキャラは決まってくる。

それまでキャラ記号書きで良いくらいだ。いわゆるAさんBさんでいい。

ただしこの書き方は毎話盛り上がりを持ってくるコメディや、毎話クライマックスを持ってくるラノベ的な話には不適当だ。

テーマの出し方は簡単だ。

例えば自信がない主人公を用意する。そうすると主人公動機自動的自身を持ちたい、になる。

いわゆる「物語の中で銃が登場したならば、それは撃たれなければならない」に近い。

すると自動的になぜ主人公は自信を持ちえなかったのか、という設定まで浮かんでくる。

ちなみにこれは小テーマで、大テーマ必要だ。大テーマとは「物語として何を訴えたい」か。

故にラノベなどの大テーマ皆無の作品には適用しにくいと書いた。

ラノベの大テーマはどんな層を狙ってどんなニッチジャンル開拓たかであって、社会的心理的哲学的テーマを含めにくい。

それでもキャラ起き上がらない場合ぼんやりと「自信がない」設定だけ作り、上記で作ったテーマと設定でこのキャラがどう振る舞うのかを数ページ遊びで書くこと。

こうした試運転キャラがくっきりしてドライブがかかる。

あとはそれを利用して本編を書けばいい。

ラノベアニメ的なキャラ作りで小説を書きたい、という要望なら知らない。

その系列テンプレの中で使われてない属性を探すし行かない。

そもそもテンプレってのは本来中核の動機や悩みの上にかぶせるとキャラ感がまして面白い、程度のものしかない。

テンプレが軸になってる今のキャラは奇妙ではあるんだよ。

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