はてなキーワード: ごまんととは
つい最近TwitterでボカロP的な人が「曲を聴いてもらいたいだけなのにイラストやら動画やらでお金がかかって大変だよ😭」というようなツイートをしていた.
それを見て次の2つのことを思った
1. 良い曲を投稿していればイラストや動画にお金をかけなくても(ある程度は)聴いてもらえるのでは?
2. ツイ主の本心としては"曲を聴いてもらいたい"というより"自分の曲を使ったMVがバズってほしい"なのでは?
そして最後に『3. MVと音楽は別物の創作物である』という個人的な主張について書く.
1. 良い曲を投稿していればイラストや動画に金をかけなくても(ある程度)聴いてもらえるのでは? について
まず前提として,各種の動画投稿サイト上で"曲自体に魅力はないがMVが良いから高い評価を得ている音楽"ってあるだろうか?
全く存在しないことはないだろうが,少なくとも私は知らない.
一方で,"MV自体が高い評価を得ていなくても曲は高い評価を得ている音楽"なら比較的たくさんあると思う.
なんならMVと言いながらもイラストや画像を載せているだけだったり,曲に合わせて音の波形のようなものがうねうね動くだけの動画でも良い曲というのはごまんとある.
こういった事情を考慮すると,自分が作った曲をたくさんの人に聴いてもらおうと思った時にMVが優れている必要はなく,ただ良い曲を作ることだけに注力した方がよくない?と言いたくなる.
もちろん,優れた曲を作った上で優れたMVが用意できれば,話題性が出てより多くの人に聴いてもらえるといったことはあるだろうが,それはMVが特段優れたものではなくても(もしくは,そもそもMVなんかなくても),ある程度の人に聴いてもらえるようなクオリティの曲を作れるようになってからでも遅くはないように思う.
むしろ,明らかに素人感丸出しの曲なのに,お金の力を借りてMVだけクオリティの高いものを用意しても,動画の視聴者はなんか違うな...となってしまうだけではないだろうか.
MVが曲の評価を高めるという側面はあれど,それはあくまでも曲そのものが魅力的である場合に限られると思う.
2. ツイ主の本心としては"曲を聴いてもらいたい"というより"自分の曲を使ったMVがバズってほしい"なのでは? について
最近のボカロ音楽は,音楽と動画のセットで話題になるという傾向が顕著である,というよりむしろMVがないけど話題になるような曲の方が少数派なのではないだろうか.
それゆえ,特に最近のボカロリスナーであればあるほど曲にはMVが付随しているのが当たり前であるという認識が一般的になっているように思われる.
そしてそれに伴って,ボカロ曲の作り手たるボカロPの創作欲求の源泉として,"作った曲を聴いてもらいたい"よりも"作った曲のMVを観てほしい"というものの占める割合が増えてきているのではないだろうか.
もちろん,純粋にボカロで曲を作ってそれを聴いてもらえることが第一であり,別にMVなんか必要ないという作り手も大勢いるだろうことは承知している.
しかし,仮にツイ主がそういった考えであれば,そもそもお金を払ってまでMV制作を依頼することにそこまで固執することはなかったのではないだろうか?
まず,前提として私は音楽をよく聴くが,MVを観ることはあまりない.
その理由を端的に言うと,私は音楽を聴きたいのであり,動画を観たいわけではないからというのに尽きる.
個人的な話だが,つい先日私の好きなバンドが数年ぶりのアルバムを発売するにあたり,YouTubeでそのアルバム内の1曲についてMVを公開した.
公開時にはアルバムはまだ発売されておらず,私は早くその曲を聴いてみたかったのでMVの動画を再生した.だが,あくまでMVを観てはいない.
その時はPCのブラウザでYouTubeを開いていたのだが,動画の再生ボタンを押した瞬間にブラウザから別のウィンドウに切り替えることで,あくまでMVは観ずに音楽を聴いただけであった.
こんなことをしていると,なぜそこまでしてMVを毛嫌いしているのかと言われそうだが,私はMVが嫌いなわけではない.
優れたMVを観て良いなぁと思うことも感動することもある.ただ,それは純粋に音楽を聴いて良いなぁと思ったり感動したりするのとは,情動の発生要因に違いがある.
具体的に言うと,MVを観ながら聴いた音楽には,その音楽についての印象に視覚情報が関わってくる.一方で,MVがなければ,音楽を聴いた時に及ぼすのは純粋にその音楽を聴くことで得られる聴覚情報のみである.(厳密に言えば音楽を聴いている時に目を開けていれば視覚情報はシャットアウトできないがそれは無視する)
それゆえ,私はMVを観ることによって,音楽を聴いたときのイメージに視覚情報が含まれてしまうことが嫌でMVを観なかったのだ.一般的に人間にとって視覚情報は聴覚情報よりも強い影響を及ぼすため,MVを観ながら音楽を聴けば,次に同じ音楽を聴いたとき,その音楽のイメージには少なからずMVの視覚情報から得られた印象が含まれているはずだ.私にとってはこれが好ましくないのだ.
音楽を聴いた時に音楽の全体的な印象として,または特定の音色に関してそこに色彩感覚を知覚する"共感覚"というものがあるらしい.例えば「この音は薄い紫色」だとか「この音楽は白っぽい感じがする」だとか.
私はこの共感覚を持っているとは言えないが,でも曲の中にはなんとなく,本当になんとなくだが色彩感覚であったり,風景(薄い緑色の草原の中を風が吹き抜けている様子だったり,石畳の歩道や教会のある中世の街並みをセピア色のフィルターを通して見た景色だったり)を連想したりするものがある.
これは本当にボンヤリとしたものであって真に共感覚を持っている人の感じ方とは全く異なるものだと考えている.しかし,ボンヤリとした形であれ,音楽という聴覚情報から視覚情報が想起されるという人は自分以外にも少なからず存在するものだと思っている.(具体的な根拠はないですが...)
このような,音楽を聴いた時に何らかの視覚情報が想起されるというのが私が音楽を聴くことが好きな要因の一つであり,また私の好きな音楽というのは,聴いた時に頭の中にイメージや風景が浮かぶものが多い.こういった感性を持っている人がいたら多分共感してもらえると思うが,MVを観て音楽を聴いてしまえば,その音楽の色やイメージのようなものは間違いなくMVで使われていた色やイメージにひきづられてしまう.
つまり,MVを観ることによって,MVを観ることによって得られる視覚情報からの楽しさが得られる代わりと言っては何だが,今後そのMVの曲を聴いたときのイメージが視覚情報から得られたイメージに大きく影響を受けるという代償を負っているとも言える.少し大袈裟な言い方な気もするが,事実である.
よって,私にとってMVというのは視覚と聴覚の両方を同時に刺激する存在であり,音楽というよりはアニメや映画といったものに近い創作物であるという印象がある.
例えば,映画と音楽という創作物について考えてみると,音楽は映画を構成する一部分ではあるが,これら2つの創作物を同じ土俵で評価・議論したりするのは違和感があるだろう.
それと同様に,MVと音楽という創作物もそもそも別種のものと捉え,区別するのがより自然な見方ではないかと考える.
にも関わらず,現状では多くの人がMVと音楽というものをあまり区別することなく,「音楽の良し悪しや評価 = そのMVの良し悪しや評価」と考える人が多いように思えて違和感を感じている.
定期的に目に入るツイートがある。
ツイートの主訴としては入院する際に大部屋が満床だった場合は病院側の都合で個室に入るから差額ベッド代が必要ないというものだ。
なぜならみんな知らないと払うのだ。
適切な医療を受けるために。
そして後から知るのでめちゃくちゃ揉める。
「病院側都合の個室入院は差額ベッド代が必要ないですよね?」と
大変なことになったので備忘録として書く
【経緯】
2、3ヶ月前に都内で働いていたところに突然の腹痛。
憩室炎が再発したなあと肌感で感じる。(1年前に初めてなった)
15時ごろに気付き、繁忙期のためなんとか残業を終えて21時に帰宅。
帰宅時の体温は38.5程度。
腹部に差し込むような痛みを覚えつつ、以前も入院した地元の大きい病院のほうがカルテもあるしいいかなあと電話。
同じ箇所が痛いこととカルテがあるのでと説明し、無事に救急にて受診。
たどたどしい内科の研修医が消化器内科医に相談しつつ見てくれる。
一生懸命見てくれてありがたいがルートを取る時に床まで血みどろになる。
誤診もありつつ結果憩室炎の再発と確定。
再発していること、炎症の数値が高いこと、受診時の熱が39.2まで上がっており、単身世帯で何かあるかもしれないのでと入院して絶飲食及び抗生剤を点滴していく治療と説明される。
了承し、差額ベッド代がかからないように大部屋希望と研修医に伝える。
1日15000円になりますのでお支払いの誓約書にサインしておいてください。」
熱で本当に揺れる頭の中そう思ったのをよく覚えている。
そして申し訳なさそうに聞いた
「あの、大部屋希望して、満床の場合は差額のベット代は必要ないとガイドラインにあるのを聞いたのですが…」
10分後
「入院必要ないので、差額ベッド代払えないなら帰ってください」
私の病状は検査のタイミングも含めたら劇的に30分で回復したらしい
なるほど。すごいな。
研修医「前回の入院時よりは炎症の数値が低いので帰って大丈夫です」
『なるほど。でもさっき入院が必要と言っていましたし、単身者ですし39度超えてて家帰るのも辛いので入院できるならしたいのですが。前回も相当辛かったので』
「あなたは入院してもしなくてもいいので、ベット代が払えないのであれば帰ってください。本当に絶対入院が必要な人に空けておきたいので」
私もさっきまで本当に入院が必要な人だった!!!!!!!!!!!!
まあ変わっただろ!って攻めても仕方ないし、とにかく入院するには差額ベッド代を意地でも取るのかあ。と具合が悪すぎて若干諦める。
看護師さんが来てくれて体温測って40度を超えており、坐薬で解熱剤入れてくれる。
前回の辛かった憩室炎のことを思い出してげんなりするけども1週間入院して10万差額だけで超えることとさらに医療費がかかることを考えて今回は自宅療養だと覚悟を決める。
この時点で深夜1時を超えており、解熱剤がきいたらタクシーで帰るしかないとさらに覚悟を決める。
研修医に説明ありがとうございました。お金払えないので帰りますと伝える。
えっ?!満床じゃないの?!と素で大きな声が出る。
研修医「満床かもしれないし、満床じゃないかもしれないです!」
えっ?!箱の中身はなんだろなじゃないんだよ?!
私『申し訳ないのですが、満床かどうかをお調べ頂くことはできないでしょうか。』
ここは向こうのシマ大きなことは言えないと思いつつ、
私『なぜ先ほどは満床と伝えて今は満床じゃないかもなのでしょうか。刻一刻と変わるのも承知の上ですが。この時間に退院も早々ないでしょうから』(この時点で夜中2時)
研修医「調べる担当が別にいるので満床ぎみなので個室に入れて!とのことです!」
私ここで最後の力を振り絞る
私『今も具合が悪くて40度出てて前に入院した時は人生で初めてうんこ漏らしたくらい辛い憩室炎をこれから家で誰のサポートも無い中で毎日絶飲食して点滴に通わなきゃいけないのに?そんな不透明な回答で2月の寒い中帰るの?調べてくれるくらいはできないの?』(敬語使う元気もない)
研修医「できませんし、さっきから部署違うって言ってますよね?!」
私もブチギレて具合悪くて泣く
調べる調べないの押し問答の後に舌打ちされた瞬間に消化器内科の先生に何してる!と研修医連れていかれる
結局消化器内科の先生の計らいで書かなくても病床の空きを調べてくれたし、入院できたし、大部屋だったので今でも許していない。
ちなみに憩室炎は無事に治った。
【結論】
差額ベッド代のことを伝えたら病気の具合が入院が不要というところまで変わる可能性がある。(結局入院の必要を判断するのは医者)
その場合どんなに具合が悪くても差額のベット代自体は必要になるパターンもある
某市立病院の話です。
職業ボディビルダーのきんに君、酒場で仲間を募るもボディビルダー職がない事に気付き愕然。
そこで似た職業である踊り子になり、筋肉美で敵を魅了する踊り子として無双。
「ボクは魔物でも出来るだけ傷つけたくない!やー!ハッ(笑顔)」と言って魅了だけに筋力を使うが、世界の惨状を目に考えを改める。
バフについては「良いんですけど、ボクはちょっと注意が必要かなと思います。」と敬遠。ピンチになって仲間にバフをかけられた時も、バフをかけられた自分の不甲斐なさを嘆き、更に自分を鍛える。
きんに君の体は異世界でも目立つがそこはやはりなろう世界。自分の三倍以上のデカさを持つマッチョたちがごまんといる。しかし怯まず自身の筋肉知識を広め、人間側の戦力底上げを行っていく。
レベルが上がる毎に、戦闘中ボンジョビのあの曲が流れるようになったり、タンパク質の吸収量が上がるなどする。また、調合師スキルを上げプロテインパウダーを生成できるようになる。
子どもがいることでいろいろ共通して見えることもあるから、そういうことを話し合える友達という点で言えば子供ができてから疎遠になった人と付き合いを取り戻したり、ママ友を構築したりというのはありなんだろうな。子供の成長に関する競争なんかもある反面、子連れじゃないとわからないことも共有できるという面もあると思う。
逆に、独身の友人と遊ぶのに子供は邪魔だし、友人も毎回子守させられるのは大変なので子どもが小さいころは託児所なりに預けるという選択になるだろうな。欧米だと子供を託児所に預けて夫婦の時間を取ったり、自分の時間を取ったりするのは普通のことみたいだけれど、日本だと理解されない考え方かもしれない。
これまで連絡してこなかったのに子供ができたら掌を変えて連絡してくるのをどう思うかは増田が考えることじゃなくて、相手が考えることだと思う。それをけしからんと思うなら、なんだかんだ理由をつけて断り、会うこともないと思う。増田が勝手に遠慮することでさらに疎遠にしているだけにしか見えない。
子どもがいない友人たちのほうがこれまでの延長線上で付き合えるから増田的には楽なんだろうけれど、増田がそうやって気楽さを謳歌する中で、友人たちは心から楽しめるかが疑問。きっとこっちのグループの人とはだんだん疎遠になると思う。世の中には欲しくてもできない人がごまんといる。まあ、そういう時に子どもの話されると削られるんだよ。
親になって変われるところは、子どもがいないとできない体験ができることかなと思う。子供の通う園や学校を軸に知人・友達ができたり、子供の習い事ついでに自分も習ってみたりというのは子どもがいないとできない経験だと思う。元増田はそういう扉が開いていることももっと見たほうがいいと思う。
...ということを書きながらWhen one door of happiness closes, another opens; but often we look so long at the closed door that we do not see the one which has been opened for us.という言葉を思い出した。
人様の版権の立体物を1日だけ売らせて頂いているんだから全部売れても赤でもそこまでの体験が楽しいんだよ。
じゃあオリジナルをBOOTHとかで売れば?別に版権もんでも売れないときは売れないよ
むしろ一日分の免罪符と手間を考えたら妥当じゃない?巷のキャラクター商品とか金と手間更に凄いよ
早めに行動すればいいんだよ(おれも出来ないが)
お前ワンフェス行ったことあるか?1/3が転売のダミーで残りの2/3の8割はキャストやパテの見本とかザラだぞ。飾ってある見本は商品同梱の完成品見本写真の現物なのが多いよ
黒字にするために価格高くしてない?売れないのはその出来に見合う価格じゃないから。展示見本が綺麗でも売れないものは売れない
同人ゴロみたいな訳知り顔のカスはごまんといるけど上手くいかないよ。全員個人で出たことあってみんなでやろうよってなるのは多いけど全員自分のに集中して協力して一つの物をって流れになるのは稀よ。あと大体金でもめる
まず当日版権本申込まで行けて全体の9割より上だ。気にしている売上だのはモデラー上位1割未満の殿上人の間の問題で、ディーラー机の向こう側で眠そうな顔して座っている時点でお前は凄いんだ。あと最初から完璧な奴はまずいない。居たらたぶん変態だから気にすんな。
816ご冗談でしょう?名無しさん2023/03/29(水) 14:04:10.05ID:???
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義務教育理解出来なきゃ極限も理解できないのはわかるけどだからどうした?
義務教育を受けてないならば極限を理解できないのは真だけど、その事実から「義務教育を受けてない『から』極限を理解できない」という文章を紡ごういう発想は常識的な言語感覚からは発生し得ないよ
あくまで必要条件であって必要十分条件ではないからこそ、少なくとも義務教育を受けていても極限を知らない人はごまんといるのだからね。
どうしたって「極限を知らないのは義務教育を受けてないからか?それ以外の事情からか」というのははっきりしないんだから、「受けてないから」なんて書く気には普通の感覚ならならんよ
エンターテイメントに絞るとこうなる
他にも医療だとか治安やミサイル攻撃からの防衛だとか、色々と当然あるので一極集中するのは言うまでもない
ただ「オタクが東京以外で生きていけるのか」ということについては、さほど疑問ではある(特にガチのオタクは秋葉原の代替がどこにもないと思われる、大阪の日本橋も秋葉原とどっこいなのか疑問でしかない)
311の地震があった当時、まだ子どもだった私は兄と父方の祖父母を亡くした。友達も亡くなった。
親戚や母方の祖父母の協力もあって大学まで進学でき、就職もしたが、あの地震と津波は子どもの私のアイデンティティに影響を与えた。
大学は関東に行ったが出身地について話すと(ああ、津波の…)みたいな反応があったし、これからもそういう印象を持たれ続けるんだろうなと思っていたし、311のことを忘れてほしくないからそれで良いと思っていた。
今でも思い出さない日はないし、地震や津波に対する意識が低いというか、当事者意識のない人に苛つくこともあった。自分だって被災するまで当事者意識の欠片もなかったのに良いご身分だとは思っている。
就職して半年くらいの頃に出張で関西の支社に行った。上司に連れられて関西支社の人たちと話して、軽い自己紹介の折、出身地とかを聞かれて答えると、
「ああ、地震とか津波があったとこ…」と言った人がいた。ちょっとデリカシーがないぞ、みたいなことを誰かが嗜めるように言ってくれてた気がする。
その時にわたしの出身地の名産が好きで、通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね、とさりげなく話題をそらしてくれた年配の男性がいた。
その人が後から「あの人、悪い人じゃないんだけどごめんね、自分も神戸出身でさ」と言われた。
恥ずかしい話、「神戸出身だから」と言われて私は何も分からなかった。
私は自分が地震と津波の被災者で、東北で育った私たちが一番の被災者で、今後数十年はわたしたちが一番のかわいそうな立場だという感覚を持っていた。
「なぜ急に神戸?」とポカンとして「はぁそうなんですか…」と雑に返した気がする。
その後、関東に戻ってしばらくしてから、何がきっかけか覚えていないがオウム真理教の話になったとき、
上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウムの事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて
やっと気づいた。
あのとき声をかけてくれた人は自分も神戸の震災の被災者でデリカシーのない人に出くわしたときの気持ちは分からんでもないよ、と気を使ってくれていたのだ。
なのに私は自分が被災者だという自意識から抜け出せず、東北の震災は忘れてほしくないと考えてるくせに、他の被災者のことは簡単に忘れていた。
すごく恥ずかしく申し訳なくなった。
今はもう簡単に他人に東北の震災を忘れてほしくない、とは言えない。
どんなに限局的な災害でも、被災した人にとっては、たぶん東北や阪神の震災より大きな出来事なのだ。
私は規模が大きい災害に遭遇したから大変ではあったが今でも色んな人が気を使ってくれたり、たぶん限局的な災害では受けられなかった支援を受けられたところもあった。(被災したものの自分の努力と保険でなんとかするしかなかった人の話を聞いた)
忘れないということも大事だし、そのための活動も必要だけど忘れた人を責めたくない。忘れていても教訓が生きていればもうそれで良いと思っている。