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2019-09-19

自戒をこめて

ちょっと前に二次の字書きが絵師に表紙を頼んだ話を読んで自分も思い出した話。

少し前に長年付き合いのあった絵師との縁が切れた。

ことの発端は私だから仕方ない話なのだけど、ずっと心の中に燻っているものがあったので匿名者の日記として吐き出してしまおうと思う。

私と彼女との出会いは前ジャンルに遡る。所謂マイナーCPというやつで全盛期をとうに過ぎたジャンルで細々と小説投稿し10年過ごした場所だった。

彼女からの熱い感想メールをもらったことが切っ掛けでメールのやり取りをする仲になった。投稿した小説感想イメージイラストをくれたりと、当時ネット上のみで小説投稿していた私にとってはとても貴重で有難い存在でありモチベーションをあげてくれる人でもあった。

しかし段々と交流が続くにつれて彼女に対して心に引っかかることが増えていった。私は基本的に他の字書きさんや絵師さんとの交流もない引きこもりで、イベントオフ会も参加したことがなく10年もの投稿を続けいていたにも関わらず、知り合いが全くといっていいほどいない状況だったので、彼女から聞くことが創作人口の少ない界隈での全てだと思い込んでいた。

私が○○さんのお話好きだなと言うと「あー…でもあの人さ、他の書き手さんから嫌われてるんだよね」とネガキャンが始まる。そう言われてしまえばお話を読む際にどうしても書き手さんの印象が脳裏に過り素直に本を読めなくなった。そういった流れが何回か続き少し疲弊し始めていた頃。

ある時、彼女小説内容のリクエストをしてもらった。日頃、イラスト感想を下さる感謝気持ちを込めて此方からお願いした形だ。彼女はとても喜んでくれて俄然やる気になり彼女希望した内容で小説投稿した。けれどあれだけ感想をくれていた彼女からの反応は一切なし、むしろリクエストしたことすら忘れているのかと疑いたくなるほどこの件はスルーされてしまった。折角書いたのにという気持ちと虚しさで心が折れつつも「書いたよ」と連絡すると、少し時間をおいて「あー…あれか」という反応。どうやら彼女リクエストには添わなかったようだった。

その件が引き金になり「人に媚を売るような小説を書いてはダメなんだな」と、今までそのCPが好きで小説投稿していたものが、誰かの反応が欲しくて、感想がもらいたくて投稿しているという自己承認欲求の塊のような自分に嫌気がさして小説を書くことが嫌になってしまった。

小説から彼女からジャンルのものから距離を取りはじめた頃、SNSが普及し始めた。久しぶりに連絡が来た彼女から登録しなよと言われるがままSNSアカウントを開設したものの、有難いことにフォロワーさんが徐々に増え以前よりも交流が出来るようになった。それが嬉しくてSNSでよくコメント投稿していたところ、連絡が取りやすくなったからか彼女から頻繁に連絡がくるようになった。

DMで届く内容はオフでも活動する書き手さんへの愚痴が主だった。「あの人とオフで本を作ったり、プライベートでも仲良くしてるんだけど段々と失礼な態度をとられるようになった。ある日急にSNSブロックされた。なのにアチラは私のアカウント監視していて文句を言いまくっている、ひどい」という相談事もあり私は私なりに親身に話を聞いていたと思う。

ただ私には彼女がいう突然ブロックされたという言葉には違和感があった。彼女は割と積極的交流をする方なので多方面で付き合いが多いのだが、とにかく物忘れがとても多くまた人にマウントをとりたがる節があった。彼女イラスト絵師でもあり、字書きでもありグッズ製作をしたりと活動内容が多岐に渡るのでオフでのノウハウがあり、それを人に吹聴するところがある。私のようにオフ素人人間指南をするのが楽しいようでもあった。そういった面で人を不快にさせてしまうところがあったり、物言いが直接的で逆鱗に触れてしまい縁が切られるということが何回か続きジャンル撤退を考えているようだった。

私はとめなかった。ジャンル撤退には人それぞれ様々な理由がある。二次での交流で嫌気がさして撤退する人も少なからずいるのは分かっていたので、そうなってしまうとジャンル愛も枯渇してしまうのも納得だったからだ。

私は私で別件でジャンル愛が枯渇していた。そんな時に今のジャンルに目移りしてしまった。

そのジャンルは全盛期を迎えていて活気づいていた。私は一番人気のCPに傾倒し、久しぶりに思うがままに小説投稿し続けることが出来た。その熱意なのか投稿した小説ランキング入りを果たしたりと嬉しいことが重なり益々現ジャンルにドハマリしてしまい前ジャンルアカウントを閉じてしまった。

心機一転、自ジャンルで新しいお仲間さんとワイワイしていた時、見慣れたアカウント名と特徴的な絵柄が私の小説ブクマしていることに気付いてしまった。

私は新しい名前アカウントにも関わらず私の小説ブクマしてくれた彼女に嬉しくなってしまってついつい自分から声をかけてしまった。

苦い思いをしたにも関わらず懲りない人間だなと今は痛感しているのだけれど、新天地でも出会たことに盛り上がってしまジャンル愛が勝って初めて彼女から「表紙描くから本を作ってよ」という言葉に頷いてしまったのだ。

はじめてのオフ活動にやる気になりWEB上で書いた投稿作に書下ろしを加えて本にすることにした。

彼女と何度も連絡を取り合い表紙の進行なども聞きながら書下ろし部分の調整をしていると、彼女から一枚のイラストが届いた。

とても美しい大好きなCPが手を繋ぎ歩いている原風景。私はその美しさに感動して何度も賛辞のコメント送り、表紙の二人を思い浮かべて小説を書き続けた。

しかし数日後その素晴らしいイラストが別の字書きさんの本の表紙になったことを、その字書きさんのSNSコメントで知ることになった。

私に見せた表紙案といって送られてきたイラストSNS投稿されている。

私は何も聞いていなかったので内心かなり取り乱しショックで何も手につかない状態だった。彼女がその字書きさんを神のように崇めていたことも知っていたし、絶賛していたことも知っていたけれど本の表紙を頼まれいたことは知らなかったので「どうして言ってくれなかったのか」という勝手な思いに苦しんだ。そんなこと彼女が私にいう必要なんてない。けれどじゃあ何故、表紙案といって私に送ってきたのか。

結局、私の本の表紙は全く違うものになった。私は最初に見せてもらった表紙案をかなり気に入ってしまったので、その表紙を見ることが少し悲しかった。何よりその表紙は私の小説のシーンに一度も出てこない場所で私が小説の中で着せている恰好ではない装いの二人の日常的なシーンで「なんでこの表紙なんだろうか」と思ってしまったのだ。

とても丁寧に描いてくれた表紙だということは分かっている。けれどCPの二人よりその場所を目立つように描かれた表紙が好きになれなかった。それでもいい顔をしたい私は彼女に有難うと謝礼を振り込み、菓子折りを送った。

本は有難いことに完売した。再販希望してもらえたが私の事情で出来なかったので悲しいことにオークションでかなり高額に転売されてしまった。

オークションで買わないで欲しい」とSNS上でコメントをすると「再販しないお前が悪いんだろ」と匿名で何通もお怒りのメールをもらってしまった。

私は自分自己満足で本を作った。一度もオフ活動したことがなかった私にとって誰かに表紙を描いてもらい本を作ることは夢の先のことだったから。

でも本を作るということはそれで終わってはいけないのだと痛感した。「なんで再販しないのか」というDMに心が折れてしまった。

一度に何十万と支払う本の制作にはリスクありすぎる。私はしがない主婦なのでそんな大金を一度に使う趣味に気が引きてしまう。

結局、どうしても欲しかったけれど買えなかったという方になけなしで手元に置いておいた1冊をお譲りすることにした。その方は私がとても敬愛している書き手さんでSNS上でお付き合いのある方だった。

そのことは伏せて現ジャンル活動を続けていたある日、彼女から連絡があった。以前私が大好きだった表紙で本を出された字書きさんに「突然ブロックされ、縁を切られた。ひどい」という内容だった。

私は以前にもこんなことがあったな、と前ジャンルのことを思い出していた。

こんなニッチで複雑な感情が絡み合った世界から同じCPが好きだからといってウマが合うとは限らない。解釈が違えれば逆CPより地雷になる人がいる世界

最初は仲良くやれていても上手くいかないこともある。付き合いがプライベートにまで進めば仕方ないことかもしれない。

長いこと二次創作を続けていればこういうことは起こりうる。私は彼女を慰めながら色んなことを考えるようになった。

一番大事なのはジャンルを好きでいられること、そのCPを好きでいられること。

好きなことをする為に始めていることで大元を嫌いになるようなことをするくらいなら、人付き合いは一定距離があっていい。そう思うようになった。

深く関われば関わる程、悲しいことも増えていくくらいなら私はSNS上のお付き合いだけでいい。

彼女のように活動の幅を広げる度に誰かと衝突し縁を切り、ジャンルを嫌いになりそうと言い出すくらいなら。引きこもりのままで構わないと。

彼女は頻繁に私と会いたいと言い出していたが、結局一度も会うことはなかった。

10数年つかず離れずを繰り返し、彼女私生活からジャンル内のごたごたを時には夜中の2時3時まで付き合って聞いたりもしたけれど彼女の顔を見たことは一度もない。

そんな時間を過ごし、一定距離感を持って付き合いを続けていたある日。

彼女に私が最後の1冊だった本を手放していたことがバレてしまった。自分から言ったのだけれど、それが彼女逆鱗に触れてしまった。

「この10数年間付き合いを続けて来たけど、貴方と私は会ったことがない。だからニュアンスは違うのかもしれないけれど、貴方最後の1冊を手放したというその不躾な態度は、創作である私のプライドを傷つけた。許せない、涙がとまらない」ということだった。

私はその一言に物凄く腹立たしさを覚えた。彼女に全く同じ感情を抱えたことがあったからだ。「前のジャンルでさ、リクエストした内容も忘れたけど誰かから頂いた小説内容が超地雷でさ、あの解釈はないわって思ったんだよね」と送った相手(私)に堂々と言った(物忘れの多い)貴方にめちゃくちゃ傷つき凹んだことがあるからだ。その時私は面と向かって言われていないかニュアンスが違ったのかもしれないって思うようにしてやり過ごしたのに。

山ほどあった言いたいことを飲み込んで「ごめんね、こういう思いをした相手とずっと縁を続けていてもいずれまた嫌な思いをさせてしまうかもしれないから、もうお互い連絡をとることはやめよう」と伝えた。

「泣くほど嫌な思いさせられた相手となんか趣味で繋がる必要ないよ」と「どんだけ私が謝ろうと、言い訳をしようと貴方は納得しないだろう」旨を告げて連絡手段を断つことにした。

彼女に今までのお礼と好きな創作を続けて欲しい。今回は嫌な思いをさせてしまったけど、貴方の素敵なイラストの表紙の本を今後も楽しみにしていると告げてブロックした。

きっと私次第で彼女との縁を続けることは出来たのかもしれない。

でも毎回聞いていた彼女の「突然ブロックされた、縁をきられた」という連絡を思い出してしまったのだ。

なんでだろう。ブロックした人の気持ちが分かってしまった。怒りよりも悲しみよりも先に「疲れた」と思ってしまった。

「ずっと本当はわだかまりがあった相手ではないかSNS上では仲良し、大好きアピールを続けていたけど、本当はずっと思うところがあったじゃないか。それをずっとないことにしていい顔をしたい自分自尊心尊重してしまった結果がこれなのではないか」と気がついた時に、私は自分の至らなさを実感した。

彼女は時折、激しい自己嫌悪承認欲求で鬱に近い状態になっていた。幼少期のトラウマを切々と語り今の人生への疲弊を漏らしていた。

感情の起伏が激しく、よくSNSの呟きを全部消したり、鍵をかけたり、いなくなったりしてた。

きっと今日もどこかで誰かに私にブロックされた時の愚痴を言っていることだろう。

もう誰かに振り回されてジャンルもCPも書き手も嫌いになりたくない。

そのためには「相手に何かを求めない」「自分の為に小説を書いていることを忘れない」「好きでいられる為に最良の選択をする」ことを忘れないようにしよう。

新たに興味の出てきたジャンルに見慣れた名前と絵柄があったので自戒を込めて。

好みの傾向はドンピシャなんだね私たち

まぁもう二度と連絡をとることはないだろうけど!!

2019-08-31

NHKを見るか」は階級分断の指標になるんじゃないか

いわゆる「N国」やら「受信料」が話題になるたび,「自分NHKなんて普段見ないのに」という声をTwitterなどで目にする。そんなことあるか?と僕はいつも思う。ところが,僕が普段接しているコミュニティの中には,NHKをよく見る人ばかりのコミュニティと,民放をよく見る人ばかりのコミュニティがある。「NHK普段からよく見るか」という問いは,何故かコミュニティによってキッパリ綺麗に回答がまとまる(と僕は感じている)。

NHKをよく見る」人が多いのは,大学関係コミュニティだ。僕が通う大学国内大学受験で最難関クラスと呼ばれる大学で,都会/地方出身わず所得の家庭出身の子弟が多く通う大学でもある。彼らは当然のように何も流すものがなければNHKを点けるし,NHKドキュメンタリーの話をよくするし,実家でもNHKしか流れない,なんて話もする。

一方で「民放をよく見る」人が多いのは,両親を含む親族地元公立中学関係コミュニティだ。両親は地方出身ブルーカラー地元公立中学というのは都会から電車で40分くらいのベッドタウンにある,そこまで豊かではない家庭の子弟が多く通う学校だ。彼らは民放ドラマバラエティの話をし,民放が映し出されたTVこそがお茶の間原風景だという。

僕はこの観察から富裕層とそうでない層との間に存在する経済的知的階級格差の一つのあり方が「NHKをよく見るか」なのではないかと思っている。もっと踏み込んで言うと,親から子に受け継がれる所得学歴品性や習慣の一つとして,「よく見るTVチャンネル特にNHK民放)」があるのでは,ということだ。

自分の見える範囲だけで推測した思いつきにすぎないんだけど,どうなんすかね。

****

僕はというと,フ○テレビを筆頭とした民放を好む両親とは違って,NHKをよく見る方だ。特にNHK特集番組情報収集とそのまとめが素直に上手くて,知的好奇心を満足させてくれるから好きだ。反対に民放に溢れているような,他人を虚仮にして取る笑いとか日本スゴーイとか芸能人の惚れた腫れたとか可愛い動物動画とか少しも楽しめたことがないし,作る方も見る方も品性を疑ってしまう。こういう消極的理由で,とりあえずTVを点けておきたいときNHKにするというのもある。

ということで,裕福ではないけどNHKをよく見る人,裕福だけど民放をよく見る人,というのももちろん存在すると思うけど,あくま指標として……という話です。

2019-08-15

女はデフォルト女好き男嫌いな気がする

人間は、基本的にみんな女が好きで、男はそんなに好きではないという気がする。

初期設定はそうであって、そこから女が男を好きになったり、男が男を好きになったりするんだろうけど。

原風景というか生来の目指すところは女って感じがする。

格好も誰だって女になりたいし、女に抱っこされたい

から世は基本的百合である

2019-07-27

趣味とは

20代男です。

会社飲み会で「趣味は?」と聞かれたとき対応に悩む。

世界の果て、もしくは心の中にある原風景とでもいうもの現実に求めて、そこらへんを彷徨うのが好きなんだが、これを厨二臭くならないようにどう言えば良いのか。

2019-06-19

anond:20190618210243

いや無理だろ。確かに『どこが濃いねん』ってトラバが↓に付いてたよ。

https://anond.hatelabo.jp/20190618093950

それは同感だけど、じゃあ本当に『内容の濃い記事』にしようと思ったら色々無理がある。

なんせ、理解の前提となる知識絶望的に普及してない。ざっと考えても、

に入る前にまず、

  1. 近代国民国家が成立してない社会(中東の大半)を理解するために必須部族/宗派共同体支配的な社会様相解説
  2. サウジアラビアがどんな国かの解説
  3. イラン革命防衛隊がどんな組織なのかの解説

の3つぐらいは最低限必要というのは自明

で、だ。

1.はまあ、いわゆるムラ社会のことだから多少は説明ショートカットできるけど、

2.は地獄のように分量が増える。ちゃんとしようとすると、どんどん遡っていく必要がある。

ざっと考えても、

2-1.現在サウジ権力構造解説

2-1-1.なぜそんな構造になったのか~スデイリ7と宗教石油

2-1-1-1.スディリ7とは何かを説明するためのイブン・サウード(アブドゥルアジーズ)王の来歴

2-1-1-2.宗教的傾向を説明するためのワッハーブ運動サウジ建国前後からの略史

2-1-1-3.オイルマネーがもたらした西側との歪んだ関係を、冷戦から現在まで軽く説明

ぐらいは用意して、その上で、

2-2.現在サウジ国際的立ち位置

を書く必要がある。


3.も酷い。イラン革命以後の全史がほぼ必須。パーレビ王朝説明サウジ説明を流用して最小限に抑えたとしても、それ以降は、


このぐらいやれば多分、


を書けるようになるはず。あまりにも遠い。

その後で本題のイエメン内戦の話を書く余力があると思う? 無理だよね。

2019-05-24

いらすとや「浜辺で追いかけっこをするカップルイラスト

https://www.irasutoya.com/2019/05/blog-post_68.html

いらすとやさんにとっての、アイドル原風景的なものがこのイラスト投影されているような気がして、つまりいらすとやさんは俺とほぼ同年代だなーと思ってクソワロタwwwwwwww

2019-03-16

anond:20190316041332

学校の作文の宿題も似たような感じだと思った。

文章水増しは幼少期から教育の一環としてそうするよう叩き込まれた。

この国の国語教育からしていかがでしたか状態

からいかがでしたか日本人の心の奥底にある原風景なのだ

2018-08-26

anond:20180825190041

街並だけに限って言えば、日本風景は相当つまらんよね。仕事柄、全国各地に行くけどどこを見ても野山と畑、幹線道路に群がるロードサイドすき家マクドナルドラーメン店面白みのないショッピングモール、見所のない道の駅、寂れた立て看板家屋田んぼの中に急に出現するでかい工場、そんなのばかり。これをふるさと原風景として暮らす人々の事を哀れに思う。俺の事だが。

2018-05-18

日常動画youtubeにアップするだけで生活できる時代

数年前から猫飼って記念に動画アップしてるが

軽く年収超えてしまった

さら地方都市住みだから日本的原風景みたなのを英語タイトルでアップしてたらこれも猫動画以上の勢いでアクセス増えてる

はっきりいってこんないい時代になぜ貧困かいもの存在してるのか意味不明になった

おそらく一切の日常生活の中でそれを生産活動に繋げて収入を得るのは難しくない

ひたすら消費したい自堕落人間以外誰も奴隷になる必要はない

一刻も早くみんなが生産活動をはじめるべき

2018-04-25

anond:20180425143554

お? いいぜ? 増田田舎原風景の思い出を原稿用紙250~300枚で纏めてみろや。

そしたら俺の中の田舎イメージ増田田舎イメージで上書きしてやんよ

2018-04-09

心の原風景否定とは

LGBT気持ち悪い人に会ってみた

http://news.livedoor.com/article/detail/14539261/

数日前にプチ炎上してたこれ。

この中ですごくストンとき一言に「心の原風景」っていうのがあった。

要するに今になって保毛尾田保毛男を笑うことを社会的非難されると、自分がかつて子供の時に友達と一緒に大笑いしてきたことが罪であったかのように言われてそれにひどく傷つくという主張だ。

記事主題LGBTについてだけど、「心の原風景」で引き合いに出していることとして「女子の夏服から透けた下着」ということがある。

このインタビューを受けた人はきっと他にもエロ本を盗み見たり、同級生女子の胸の大きさを比べて批評したり、生理の日を予想したりとかそういったごく当たり前の男子中学生らしい日常を送ってきた人なんだろうと思う。

また今日になって突然にハリセンボン春菜お笑いを目指すルーツとして「小学生の時にブスと言われてそれを笑いに変えた」という話が再燃してきた。

これもまた一つの「心の原風景」なのではないかと思う。

ハリセンボンの側からしてみると、自分がおどけて見せたことで周囲が笑顔になったということが自分にとって大きな精神ターニングポイントになったのだろうが、おそらく当時の同級生たちは「ブス」とからかった同級生がそれを笑いに変えて、それを大笑いしたということもまた「心の原風景」になるのだろう。

自分はおとなしい陰キャ男子だったからそこまで「心の原風景」を否定されることに拒絶反応はないが、おそらく陽キャとしてプロトタイプバカ男子中学生時代を送ってきた人にとっては、その自分たちが共有してきた「笑い」が実は女性LGBTを傷つけることで成り立ってきたということを今更事実として突きつけられる罪悪勘は非常に不愉快ものなのだろうと思う。

だけど同時にその罪悪感に耐えられなくなるからいまさら罪扱いするなというのも自分勝手な主張なのではないかと思ったりもする。

中学生の時、気になっていた女子の持ち物を一つ盗んだことがある。

当時は悪いと思っていたけれども、ずっと持ち続けていて捨てられなかった。オナニーもした。

それも自分にとっては「心の原風景」だ。

の子が今どこで何をしているかは全く知らないが、こんな陰キャな自分にとっての心の原風景にされてしまたことを知ったら、おそらく気持ち悪いんだろうなと思ったりする。

2018-04-06

anond:20180406140549

当時の僕らは、女子が夏服になったら下着が透けて見えたとか、ほんとしょうもないことで盛り上がるような、純朴なバカでした。そういう思い出って、心の原風景みたいなものなんです」

今でも心の原風景とか言うくらいだから、悪気など一切無かっただろうし

女子が知れば傷つくのが分かっているか女子には絶対に隠し通す、なんて気概があったとも思えないが

2017-12-26

電線エヴァ庵野宮沢賢治

日本アニメではなぜ徹底的に電線が描かれるのか?を海外メディアが推察

https://gigazine.net/news/20171225-why-anime-power-lines/


電線アニメ嚆矢エヴァである、という彼の推測は正しい。

アニメにおいて背景・風景として電線描写されることはエヴァ以前からもちろんあった。

ドラえもんにおける空き地土管。高度成長で開発されゆく街。

サザエさんの板塀や引き戸日本家屋。三丁目付近夕陽

そういった時代記憶を引き写した風景の中であくまで添え物として、

あるいは便利なオブジェクトとして最低限の作画で描かれていたのが、電柱電線

鳥が電線にとまっている、ゲイラカイト電線にひっかかった、犬が電柱に小便、電柱に隠れて尾行

そこに電線電柱への愛着美学はない。


エヴァとは何か。

それは深夜アニメの祖である

エヴァの深夜再放送高視聴率深夜アニメパイロット版として働いた。

その後、エルフを狩る者たちから深夜アニメ放送歴史が幕開ける。

異様なこだわり作画作画崩壊との背中合わせも既にしてその内に秘めていながら自身夕方アニメ

一人のユダヤ教徒でありながら死して新しく宗教を作ったイエス福音だね。


そのこだわりの一つに電線がある。

電線、無くてもいいですよね、そこ描く手間と映す時間キャラに割きますよね普通

そうじゃないのが、庵野

ただの背景以上の電線

街並みのディテールアップに電線

シーンチェンジ電線

使徒で揺れるのはシャッター電線

2015年第3新東京市ツイッタラーは、揺れたら「電線」ってツイートするから

そう、1995年に描かれた20年先の近未来2015年日本を描いてあの電線

エヴァより先を生きている私達は知っている。

まだ相当に電線してる。


庵野特撮なのは言うまでもなく、電線特撮由来であろう。

怪獣スケールが合うのは高圧送電線の鉄塔、架線に接して火花散るインスタ映え

逃げ惑う地上から怪獣を見上げる時には電線

なんて、俺が語るより本人がいろいろ語ってるし。

庵野秀明世界トークショーレポート2回目 「電柱積極的に残すべきだ」「特撮もやりたい」

http://neweva.blog103.fc2.com/blog-entry-3368.html

庵野「同じ電柱はないんですよね CGコピペしても違和感がある ナナメになっているのもいい」

氷川エヴァ以降、電柱を描くアニメ作品も増えているが 垂直な電柱が多いですね」

庵野電柱に対して愛情が足りない 表層だけ真似ても魂が入らない」


さて、庵野最新作といえば『シン・ゴジラ』。

冒頭の無人漂流船内に残されていた本は、宮沢賢治の『春と修羅』。

「わたくしといふ現象は假定された有機交流電燈のひとつの青い照明です」

そう、交流こそが真の天才発明。なのになぜ直流電気自動車

注文の多い料理店』所収の「月夜のでんしんばしら」も電柱モノのハシリである

戦前宮沢賢治時代から電柱風景とともに日本はあった。

文明開化で産まれた、すき焼きカレーライスあんパン現代日本食文化であると言えるならば

現代日本原風景電柱と言うのは過言ではない。

日本最後電気が来たのは宮沢賢治故郷岩手の「タイマグラ」。

開通はなんと1988年12月

電信テレグラムの「でんしんばしら」から電話電気USEN光通信

時代が変わり載せるものが変わっても STAND BY ME 電柱

2017-07-24

https://anond.hatelabo.jp/20170724111932

フードコート地元郊外貧乏家庭の子供がギャーギャー騒いでたり

くたびれた中年が買い物ついでに飯を食べにくる底辺の溜まり場みたいな原風景を持ってる人が多い

フードコートって、イオンとかの大規模ショッピングセンターにあるものだし

そういう所に買い物に来ている時点で貧乏とか底辺ではないと思うけど

郊外だとイオンは割高で、貧乏人はもっと安い所に行く)

デパートやそれと同価格帯の店でしか買い物した事ないわ的な階層イオン層を底辺認識してる、ってなら分かるけど

そういうのは学生時代だろうがファミレスも行かないだろうし

行ったとしても「自分だけならもっと高い店に行けるが、貧乏な友人に合わせてる」認識だろうし

2017-04-05

まれてこなければよかった。

金もない友人もいない恋人もいない。

こんなにさびしく苦しい人生ならば、生まれてこなければよかったのだ。

そうだ。生まれてこれないようにしよう。

私はそう決心した。

私はタイムマシン製作にとりかかった。

それから長い年月の間、地下研究室にこもり人知れず研究開発を続けた。そして遂に私はタイムマシンを完成させることができた。

これを世間公表すれば富と名声を得られるのだろうが、今の私の心境はそんな低次元欲望に惑わされることはない。

当初の目的である私自身を生まれてこさせないようにすること。

それこそが私の原風景であり最大の目的であり純粋尊い至高の意思なのだ

初志貫徹。私はこの用途以外には決して使うまいと決めていた。

あのときの決意を簡単に変えるほど、私は軽薄で脆い人間ではないのだ。

完成したタイムマシンで早速、五世祖父時代に遡った。

この五世祖父を殺してしまえば私が産まれてくることはもはやないのだ。

五世祖父とはなにかを説明しよう。

先祖を遡っていくと、祖父 → 曽祖父 → 高祖父 → 五世祖父という順番で五世祖父という呼称になる。

私がなぜこれほどまでに遡って生殖連鎖を断絶させるのかというと、やはり近しい先祖は心情的にも自らの手にかけにくいものだったからだ。

ただし遡れば遡るほどその他の大勢の子孫の存在への影響が広範に及ぶ可能性があった。

残念ながら私はこのとき、そこまで考えが至らずに配慮を欠いていたのだ。だがまあよい。

過去時代で五世祖父の居場所を見つけ、五世祖父が夜道を歩いている折に、草木の陰から狙撃した。

しかしそこで不思議現象が起こったのだ。

なんと、五世祖父を撃ち、死を確認した瞬間に、いつのまにか私はまた草木の陰で狙撃前の状態に戻ってしまう。

私が再び撃つとまた草木の陰に戻ってしまう。

どうやら私が五世祖父を殺すと、私という存在そもそも消えてしまう。したがって五世祖父殺害しにくる私がいなくなる。

そして五世祖父は無事子孫を残すので、私が生まれる。まれた私がまた五世祖父殺害しに来るのだが、五世祖父を殺すと私は消える。

私が消えたことによって五世祖父は無事子孫を残し私が殺しにきて・・・

どうやらこの流れがループしているようなのだ

なんということだ。これでは私は永遠に五世祖父殺害をなしえないし生まれてこない状態にできないではないか

注:小説サイト投稿することにしました。

2017-03-31

昔はよかったと言いながら、歴史の魅力を推さない風潮

国際化が進む日本でも、地方のように、歴史的遺産の残る原風景も探せばまだまだある。これは韓国台湾中国も同様だ。大都会から続く現代都市は、必ずどこかで途切れる。

しかしそういう場所を通ると、必ず別のことにも気づく。それは、本来都市と無縁である地域にもかかわらず、ついこの間まで歴史的価値のあったような場所無秩序都市に変貌していることだ。田舎分譲マンション建設されていて、本来学園都市と無縁である地域大学キャンパスがドカドカ建ち、鉄道道路は満員状態だ。

東アジアはよく「欧米東南アジアのように未来志向なだけではなく、歴史もあって田舎もあってバランスが良い」ことを売りにしている。たしか関西中部関東のように、都市無秩序対策にとことん取り組みつつ歴史的遺産をきっちり守る場所もある。どうも大都市圏方面ばかりそういう施策はあるのに、田舎のそれを蔑ろにしすぎだと思う。

日本田舎が都会の何倍以上もあるが、田中角栄政権移行の画一的開発化に伴う開発もあって、もはや「田舎」は残っていない。つまり貴方たちが云う田舎はその地域の片隅にしか残っていない。北関東東北にも歴史スポットはあるが過去の名残もあっても観光地化に適しているとはいえない。

日本都市開発はやたら前時代的と言われる。しか日本において「道路の便利な場所」なら大都市部にもある。例えば札幌新潟だ。ではそれらを資源として活用しているだろうか?新潟市出身の親父の友人いわく帰省がてら訪問したら悲壮感がただよっててやばかったという話である文化人はそんな場所で生まれやすい。

オタク文化担い手地方出身者の多さは、日本ポップカルチャーというものいか社会の暗さを世界に示したように見える。都市中央恩恵を受けず、そこで生まれ人間が学と徳を弁え、現地は都市ほど産業が少ないので自営業が多くなり、中には漫画文学などの作家になってしまう。

こういう系列クリエイター首都圏から輩出することは少ない。まして都会の場合、かつて流行していたアングラ漫画とか、社会風刺もののような、どちらかというと現実風刺路線の、文化的な味がやや薄い作品ばかりだ。

私は少年少女漫画小説の中で東京都市部神奈川県地元民が描いた作品がダサくなっていると思っている(あくまでも数字のみで見た考えで、作品ごとの評価は別)。とくに高校生を描いた物は、往年の不良漫画みたいに野暮になっている。同じ関東でも埼玉北関東のものと比べても悪い意味で飽きやすい。高評価される作品地方民・地方出身者が書いたものが主流。ギャルヤンキーのようなダサいもの地方っぽいが、今のサブカル面は違う。

で、なぜ作品レベルがばらついているというと、やはりそれは地方に行くほど仕事の数が少ないが、時間お金にゆとりのある人が転入するために、作品作りへのゆとりが生まれやすいからではないか。そういう場所では、ありのまま地元を描くことが難しいが、空想もの作品を生むにはうってつけの場所だ。

社会風刺文化的ものが分離されていることが理想であるが、だったらそれがなぜ都会でも出来ないのか。広義の都会人の自分が言うのも説得力いかもしれないが本当はこういったばらつきはないべきで社会風刺と娯楽もの区別が明確になければ文化強国は持続しない。

2017-03-09

311島尾敏雄と私

島尾敏雄の「死の棘」という小説を読んだ。浪人時代予備校講師に勧められて買ったもの文庫で600ページと長く、ずっと読めずにいたが、春休みを使って読破することができた。簡単に紹介するなら、「死の棘」は作者の代表的私小説で、夫の浮気の発覚から始まる妻の不調と家族崩壊を記録した作品である

 読み進めていくと、妻の精神異常を和らげるためにと、「私」はこんなようなことを考える。

  『相馬に帰ろう』

 紹介され偶然手に取ったこの本のこの文章を読んだ時、私は名状し難い不思議な感じに襲われた。

 私は、相馬地区で生まれ育った。島尾敏雄相馬地区ふるさとだったのだ。

 そして、未だに故郷原発事故惨禍に見舞われている。

 東日本大震災から6年。故郷自然と思われた。

 正直言って、私はふるさとがあまり好きではなかった。自然はたくさんあって、野馬追という伝統も素晴らしいが、若者が志を高く持つには小さすぎる街だと思った。私はどうしたらなんとも言えない閉塞感を打破できるかを考えては、多分無理だろうなと半ば諦めの感情を胸に秘めていた。

 東日本大震災が起きた。

 私は生き残った。住んでいる地域原発避難指示区域には入らなかったものの、鉄道などインフラは寸断され、私たちは転居した。都会に。

 それからの私の生活は非常に充実したものとなった。幸い、福島出身と明かしても白い目で見られることはなく、田舎ありがちなデキる人の足を引っ張る風潮もなかった。意欲ある人が存分に学び体験できる施設があり、尊敬できる人がいた。若者がより広い世界へ飛び立とうとする意欲を持つには充分だった。

 東日本大震災が起こって6年になる今、私は東京で高いレベル教育を受けられている。あの地震でおぞましい数の人が亡くなり、今も苦しんでいる人が大勢いるが、私にとって6年前の地震人生を大きく変えた分岐点であったように思える。あの地震がなければ、私はここにはいない。

 しかし、本当にそれでいいのだろうか。嫌だったふるさとから、私は逃げるようにしていなくなってしまった。どうすればいいかからなかった。何か違うのではないか、という気持ちが渦を巻いていたが、田舎を離れられる開放感でそれを押さえつけてしまった。大震災を美化してしまった私の思考が正常なものなのか、若さゆえの過ちなのかは未だにわからない。

 小説の中で島尾敏雄相馬に帰ったのは、崩壊してゆく家族とのギリギリ人生をやり直す力を、故郷に感じたからだと思う。多くの人が、故郷自分人生の原点にして、そこの原風景大事にしているように。私が捨てた故郷のそばには、未だに立ち入りが禁じられ、人々が帰ることすらできない場所がある。彼の郷里最近、立ち入りが許可されたばかりで、復旧・復興とは程遠い。故郷に帰ることさえ一生叶わない忸怩たる思い、悩み苦しんだ時に自分が生まれ育った場所が変わり果ててしまった悲しみ、いわれのない差別に苦しみ、福島出身ということに引け目を感じている子どもたちの心情にどうやって接したらいいかからない。故郷を追われ苦しんでいる人に少しでも助けになるように日々研鑽を積んで、その人たちを助ける力、次に世界を揺るがす大事件が起きた時に多くの人を助けられるような力を養うことが、震災をチャンスと捉え故郷を捨て去った自分贖罪だ。

 自戒として、ここに記しておく。

2017-01-10

雲の向こう約束の場所みてんだけど、半分くらいのところで、精神体?みたいになった女と現実世界にいる男が病室で手を合わせて一気に同じ原風景的な場所に飛ぶところ、君の名はとまったく同じじゃんwwwって思ってしまった

左に男、右に女、まんなかに夕日と十字の光って構図もまったく同じで、マジで気味の鼻そっくりだったよ

2016-09-16

http://anond.hatelabo.jp/20160916022348

それは難しい。

遠野なんかは遠野物語きっかけに数限りなく遠野由来の妖怪フィクションに登場してるけど

それ故に日本原風景って呼ばれて民族性というか他者性というかマイノリティ性を奪われてる。

アイヌはよそ様だけど遠野は身内で気安く見られてる。特に東方とかエロ同人ばっかりやで。

2016-09-15

懐かしさ症候群原風景症候群、あるいは心的飽和症候群と呼ばれるものがある気がする

何か特定の情景、音楽映画小説や何がしか体験を通して

力が抜け、するすると抜け、何もできなくなってしま状態

あの死にたい感じは、一体何なのだろうか

2016-03-10

http://anond.hatelabo.jp/20160310222128

小説ってのはな、絵がなくても文字だけで笑わせたり泣かせたり、血湧き肉躍る体験をさせたり言いようのない恐怖を与えたり、

読者自身が忘れていた記憶原風景フラッシュバックさせたり、時に人生を変えたり男性器を勃起させたりすることもできるんだよ、文字だけで。

俺の読んでるのとお前さんの読んでるのは違うなってだけの話なわけだ。

そしてどちらも生きてく上で必要不可欠なものではない。

そういう意味では米のほうがそうとうに上等で俺の読んでるものもお前さんの読んでるものも米以下なわけだ。

ぎりぎり食べられるなら文字を読みたい。そんな欲求が世の中にはあるかもしれねえし、おそらくあるんだよ。

って、ガード下で寝泊まりしている労働者風のおっさんが、路上に寝ながら本を読んでた風景を見て、俺はそう思った。

小説で読んだような甘い死にたい気持ちはその時捨てた。

すまんね。つまらえこと言って。

2016-03-08

奈良大地理学科で過ごした日々を懐かしく思って

4年ぶりに書くけど、堀先生や碓井先生山田先生がいた頃が懐かしいなぁ。

今はHPを見ると退任された方が多く、見覚えのない先生も何人かいました。

今の地理学科はどんな感じですかね。

偏差値自分がいた頃より10近く下がってるのを見るとやるせない気持ちになります

自分が在籍した頃は友人含めてとても良い雰囲気でした。

ちょうど海津先生が赴任して来られたばかりの時でした。

彼の授業では英文を使った海洋学地質学が盛んで皆で囲んで訳す作業で、毎回宿題を出されて英文和訳を提出してたっけ。

三木先生や土平先生山田先生とのフィールディングは実に有意義だった。歴史城郭、地誌、測量などなど、今の仕事に大いに役立ってる。

もうおられないかもだけど池田名誉教授研究室勝手に占拠してるって話を彼のゼミ生だったF氏から伺った時は本当に爆笑だった。

池田先生の授業も相当面白かったよ、今となっては良い思い出(評価は可よくて良ばっかりだったけどw)。

堀信行先生の授業は正直最も議論が白熱したのではないかと思う。

当時専攻してた環境地理では、気候学より水文学の話が面白かったよ。ダヴィンチモナリザの絵から地理的情報を読み取る方法論は今でも為になってる(『水の原風景』は名著)。

ゼミ生だった頃は本当に好きな先生の一人だった。

最終講義出れなくて申し訳なかったです。

僕はあの頃が一番好きだった。いつか奈良大学に色んな事を報告できれば良いなと思う。

2015-11-28

シャアガルマと、ジョン・レノン

逆シャアでの、アムロに対するシャアの絡み方とかみてると、しみじみ、「シャアさびしかったんだろうな…」と感じる。

さびしかったっていうのは、友達がいない、みたいな意味


ジョン・レノンオノ・ヨーコ出会ったとき「俺より頭のおかしな奴がいる!」と喜んだ、という話がある。(うつくしい伝説かもしれないけど。)

ジョンも、きっとずっとさびしかったんだろうな…と、なんとなく思う。


ビートルズのジョン曲に「Strawberry Fields Forever」というのがあって、こういう歌詞がある。

No one I think is in my tree, I mean it must be high or low.

孤独の木。呼応するセピア色の強烈な原風景


これは、孤独を「数えられる」人には、わからない感覚かもしれない。「あなたは、どんなとき孤独を感じますか?」という質問意味がわかる人。白地に黒の水玉。

これがもし黒地に白の水玉なら、「黒」は数えようがない。「あなたは、どんなとき孤独でないと感じますか?」なら、わかる。


友達っていうのは、対等な関係のことだよね?

まり、(少なくとも一面で)対等でなければ友達にはなれない。

(少なくとも一面で)その人と対等であれる人がいなければ、その人と友達になれる人はいない。どれだけ友達になってくれようとしても。どれだけ共に時間を過ごしたとしても。


シャアには、”友”であるガルマが”坊や”にみえしまう。

実際、ガルマは坊やなんかじゃないんだけどね。シャアとは指向性が違うだけで。

ガル自身シャアに対して「家族のない君にはわからない」的なことをいってる。


ガルマの木に、シャアはいない。シャアの木に、ガルはいない。


どちらが高くてどちらが低い、とかい問題ではなく。高いか、あるいは、低いか。両者じゃ指向性が違う。



No one(I think)is in my tree孤独とは、そういうものではないだろうか。



同じベクトルで同じように背負うものがあったからこそ、ガルマとイセリナにはわかりあうものがあったのだろう。

同じベクトルで同じように抱えているものがあったからこそ、シャアララァにはわかりあうものがあったのだろう。


アムロが実際シャア友達になってくれるか、そしてシャア自身がそれを望んでいたかは別として、アムロシャア友達に「なれる」人だった。たぶん。


逆シャアのNew技術リークみたいなことも、そう考えるとものすごく腑に落ちる。対等でありたい。つまり、「友達になりたい」。


いや……「アムロにいてほしい。自分孤独の木のなかに」。ただ、それだけだといったほうが適切かもしれない。


もちろん、一面では説明のつかない複雑な感情があったとは思う。ララァがらみの部分とか。

でも、アムロと戦っているときシャアは少なくとも「孤独」ではなかったんだろうな……と、ぼんやり思う。




私にガンダムを教えてくれた人が、私がガンダムにまんまとハマったのをみて、さりげなくバガボンドを紹介してくれた。

泣いた。

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