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2023-08-01

神仏ジャンケンの話

 暮らしているアパートの裏に神社がある。

 神社は割と人通りの多い小道に面しているため、静謐、といった雰囲気はないが、左右に砂利が敷かれた短い参道を抜けて、背の高い木々に囲まれた昼でも暗い拝殿の前に来ると、「ほぼ現世、少しだけ異界」ぐらいの空気はある。

 境内に一本、御神木なのか、ひときわ大きい樹が立っている。木には人の胸ぐらいの高さに縄が巻かれていて、汚れ一つない純白の紙がそこから垂れている。

 夏になると、境内の地中から蝉が出てきて、この木に登る。羽化するために現れて木を登っていく。

 蝉、しめ縄をよじ登って越えていくか、反対に縄の下であきらめて羽化すればいいのに、わざわざ縄に下げられた白い紙を羽化ポイントに定めるやつが何匹かいる。真っ白な紙の上に点々と、透明で茶色い抜け殻が残る。

 しめ縄というのは、どっしりとした円柱の大木に風雪で少しささくれた縄が巻かれ、そこから新しくぱりっとした純白の紙が垂れている、そういう宗教的かつ美的意匠なんだと思うが、まあ蝉には関係ないもんな、と思う。蝉にとっては、ちょうどいい高さにあるちょうどいい場所しかない。

 神社を出て100mほど、道なりにいって曲がると、今度はだいぶ由緒あるらしい寺が建っている。高名な僧が数百年前に開いた名刹らしい。

 俺が住んでいるのはある有名な地方都市で、住民も多いし、観光客大勢行き来している。しかし、この寺のお堂へと向かう広葉樹と苔だけの道を1分ほど歩いて境内に入ると、まったく何の音も気配もしなくなる。聴こえるのは、それこそ蝉の声ぐらいだ。

 俺はときどき、お堂の廊下に座って、物を考えないで風景を見る。廊下南側北側があって、南だと境内に植えられた木、北だと目の前にそびえる岩壁を清水が伝うのが見えて、両方飽きない。

 この前、南側に座っていたときのこと、でかい羽音を立てて蜂が一匹飛んできた。

 虫が好きな人間の固有スキルの一つに、蜂が刺すやつか刺さないやつか瞬時に判断できる、というものがある。そのときも、クマバチ=刺さない、とすぐにわかったので、むしろ観察するぐらいのつもりで様子を見ていた。

 蜂はぶんぶん言いながら、お堂の庇に近づいていった。

 お堂の庇は木を組んだ複雑なアミアミになっている。蜂は庇のどこかの一点が気になるらしく、決まった範囲ホバリングしていたが、急にふっといなくなってしまった。

 「?」と思ったが、少し観察を続けてみて、さらに驚いた。

 庇に直径1cm強ぐらいの穴が空いている。ある種の蜂は木に穴を開けてそこに住むが、どうも、クマバチが巣を作るためにお堂に穴を開けてしまったらしいのである

 美しい建築も、あるいは宗教的に洗練された意匠も、生き物としてあるがままにやっている存在には太刀打ちできない。物体であることの限界というか、この場合、お堂<蜂、もしくはご神木<蝉、そういう力関係と言える。

 風情的には少しあれかもしれないが、寺社建築をよく見ると火災報知器がついていることがある。安全面もそうだが、文化的にも重要ものから、火には注意しているのだろう(法律的必須なのかは知らない)。

 同じことが蜂に穴を開けられた場合にも言えるはずで、歴史ある建物としては損なわれない方がいいに決まっている。

 俺は寺務所に言いに行こうかと思ったが、少し考えてよした。

 主な理由は「お堂に蜂が穴を開けてますよ」というところから会話を始めるのが我ながら気色悪く、億劫だったからだが、もう一つ挙げると、そもそも仏教的に、「かたちあるものが虫によって損なわれようとそれがなんだろうか」というノリなのでは、とも思ったためである

 皮相な理解だが、一切皆空の世界だし、悉有仏性世界である(と聞く。宗派的に色々あるのかもしれないけど)。

 人がつくったお堂に蜂が穴を開けようが、それでお堂が朽ちようが、お堂につくった巣で蜂が栄え、その蜂もいつか滅びようが、すべてが等価というか、はじめからそういう、かたちを結んで消えていくのを織り込んでいる世界観が仏教なんだっけ、と思った。

 それで考えると、神道もいわゆる「八百万」の世界観であって、序列はあるのかもしれないが、蝉にも蝉の神…というか、「土中で数年暮らしたあと地上に出てきて飛んだり鳴いたり(オスだけ)したあとあっけなく死ぬ」神性? みたいなものがあるのかもしれない。

 どういう神性だよ、という気もするが、ヨモツラサカに生えた桃の木とか岩とかを神と見なすのから、蝉の神がいてもおかしくはない(おかしくはないのだけど、実際のところ、虫の神を日本神話で見た覚えはなくて気になっている。アゲハの幼虫を信仰していた宗教が大昔にあったみたいだけど)。

 そういう意味では、自然界の営みによってシンボル物質的に損なわれたり、上手く機能しなくなったりしても、一部の宗教システムとしてあらかじめ、そういう破壊や変質をうまく組み入れているのかもしれない。これは生命よりも宗教の法理の方が、包括的という意味で上位ということで、生命<法理であると言える。

 で、最後にどこに着地するかというと、信仰もただの理念言葉ロジックだけでは生き延びたり広がったりしていくのは相当難しい、やっぱりモノ・カタチにする必要がありますな、というところに着地する。

 心を寄せるためのシンボルや、目で見て手で触れられるオブジェクトがあった方がいいし、大衆の政として考えても、建築やでっけえ像とかがあった方が広めやすい。

 仏像でもピラミッドでも教会でも、最低限、紙の聖典でも、とにかく、教えとして生き残り広まっていくためにはブツ必要だ。水を汲んで運むのに器がいるように、信仰にはどうしても、ブツが要る。その点では信仰<モノである

 ただ、モノはいずれ、壊れるか変形するかするわけで、俺なんかはもう、「物質を伴わなければ存立・拡大できない宗教は、戦略として物質化を伴うがゆえに、滅んだり変化することも許容し、あきらめることをどこかに織り込まないと理屈破綻してしま宿命でもあり、拡大と必滅の板挟み」なのでは? とさえ思う。まあ考えすぎかもしれない。

 いずれにしても、これでお堂<蜂<信仰<お堂の三すくみが完成した。ありがたいことである

 正しいかは知らない。

 何年か前に泊まった旅館山寺のふもとにあって、せっかくだから登っていったら、と宿の人に言われ、お遍路でつくような杖をわたされた。

 要らねえけどなあ、と思って登り始めたら、山道というレベルを超えて文字通りのマジ崖であり、むしろ杖あっても登れねえよ、と思ったが、どうも引っ込みがつかなくなり、気合いで登り続けた。

 道がどんどん狭くなって、「落ちたら普通に死ぬなこれ」と思っていると、やがて、ほとんど空中にかかったような、ひと回りするのに10秒かからないほど小さいお堂にたどりついた。

 当たり前だが、誰もいなかった。辺りは静寂に支配されていて、青い空が近くて、山の中が一望できた。

 厳密に言うと誰もいなかったわけではなく、小さめのスイカぐらいあるスズメバチの巣が完全に完成してお堂の庇からぶら下がっており、スズメバチが「竣工式でーす」と言って飛び回っていた。

 俺はふもとに降りてから、「蜂です」と宿の人に言った。さすがにスズメバチは言う。

 ただ、蜂には当然、あれがお堂かどうかは関係のない話である。また、お堂サイドも、まあ仏教の法理に人格のようなものがあるとして、「こういう世界からしょーがねえな」と言って苦笑する感じというか、空の近くにある静かな山中のちんまりした古刹で蜂が生命を躍動させているのに、なんかすげえ調和しか言いようのないものを感じたのを覚えているので、書いておく。🦑

2023-07-30

anond:20230730105537

古刹とか田圃道みたいな場所は「文化」じゃないと切り捨てる増田から、四年もいた京都サロンに混ぜてもらえなくて、新しくて面白いものを教えてもらえなかっただけじゃん。

切磋琢磨して作品を作り出す同時代人間と新しく知り合うなら、自分自身にもそれ相応の教養のが必要だしな。

そこにあるモノが古くても新しい発見のある物なのか目新しいだけのクソなのかわからない増田でも、東京のど真ん中で育てば、色々教えてもらえる人間と付き合えるんだろ。

東京サロン文化に恵まれてよかったじゃないか。上澄みの5%が降ってくるのをそのまま口開けて待ってろよ。

2023-07-17

君たちはどう作るか

宮崎駿の最新作『君たちはどう生きるか』を見てきたんで、ある程度ネタバレありで感想書きなぐっておこう。

ネタバレありだからね。

正直、観る前に想像してたより悪くなかった。

テンポも悪くないし、人間関係に緊張感もある。

作画が徹底的に心象風景に寄っているのも、職人芸の趣があった。

火災とか草原の描き方なんて、ゴッホともセザンヌともなんだか判らんけどとにかく印象派的に歪みまくっていて、主人公の高熱に魘された夢のような心が伝わってくる。

田舎の家も、当初は主人公の内心の萎縮ぶりを示すかのように何もかも巨大で、玄関なんてどこの古刹の大伽藍かと見紛う巨大さであり、今に残ってたら家ごと国宝になりそうだ。

もちろん、本物はせいぜい田舎豪農レベルなのだろう。

心象風景として東大寺大仏殿並の巨大建築に見えているだけである

敢えて心象風景とわかるように表現している事で、主人公が実際には父の後妻を嫌っていない事も想像がついた。

なぜならすんごく清潔感のある優し気な美女として描かれているかである。嫌っているなら心象風景でそうはならない。

初対面から一目ぼれレベル主人公は慕っていたのだろう。

でまあ、作品は途中から塔の中パートと、塔の外パートという二輪構成で進んでいくのだが、

まあ、なんだ、ここから批判が多くなる。

まず塔の中パートだが、なんというか、とにかく意味があり過ぎる。

これは褒めてない。

宮崎駿もののけ姫辺りから、やたらと意味のあるものを描こうとするようになってしまってるように思える。

1シーン毎に意味があり、多分本人に質問すれば「このシーンはこういう意味がある」と全部答えてくるだろう。

まり寓話的で哲学的記号的で、イソップ童話とか不思議の国のアリスとか、そういう感じの、「意味の塊」として作品を作ってしまっているのが塔の中パートだ。

ハウルとか千と千尋とかでも顕著だったけど。

これの何が悪いって、妄想が爆発してないのである

ムスカラピュタの雷をぶっぱなしたシーンに意味なんてないだろ。王蟲がペジテのドーム食い破ったのも意味なんてないだろ。

あいう爆発するほど格好いいシーンに意味なんてないのだ。

「どうやお前らこんな凄えの見た事ないだろ。俺も見た事ないから作ってやったぞ。見て驚け。」

という作り手の妄想の大爆発なのだ

妄想を爆発させるためにそこには当然無理がある。歪みがある。そのシーンを効果的に描くために、他のシーンで入念に爆発物を積んでいる。

その無理、その歪みが、ある人には滑り、ある人には刺さるのだ。

本人が見せたいのは爆発の部分だが、関係なく歪んだ部分が受けたりする。それが創作快感である

ところが、この作品含めて後期宮崎はその「見た事ないだろ」をやらない。庵野もだけど。

なぜなら、名前が売れて裁量が大きくなった事で、作りたいものを作れるようになったからだ。作りたいものは作ってしまい、もはや「こんなの見た事ないだろ」が無い。

庵野はその無理のなさを、その歪みの無さを、オタク知識で埋めてシン・ウルトラマンやシン・仮面ライダーを作った。

そこにはTVエヴァのような溜めに溜めた便秘解放のような妄想の爆発は無く、無い物を何とか絞り出した感のある細長いウンコしかない。

一方、宮崎駿はそれを哲学記号で埋めてこの作品の塔の中パートを作ったのだ。これは最早宮崎駿のバランス感覚のみで構成された世界から、やたらとデジャヴがある。

もののけ姫と変わらずに「鎮まりたまえ~鎮まりたまえ~」とやってるし、千と千尋と変わらずに仕事やらされたり禁忌に触れて怒られたりしている。

でてくるのもやたら思わせぶりな妖怪連中である。思わせぶりなだけで、記号であるために特に伏線とかない。どういう存在説明されてフェードアウトする。

エンタメに徹するなら、塔の中はクトゥルーばりの別の星・異星文明でも良かったはずだ。せっかく宇宙から飛来した謎物体的な設定があるんだから、一気にスターウォーズ世界になっても良かったのだ。

そこから進めて、「現代日本主人公の迷い込む異世界として描く」まで手が伸びても良かったはずだ。

ところが、そういうエンタメに走らず、やたら寓話的な見たような話で埋めてしまうのが今の宮崎駿である

ブチ切れるセンス・オブ・ワンダーではなく、賽の河原の石積みみたいなひじょーに心象的なもので埋めてしまうのが今の宮崎駿マイブームである

そういう「意味」だけで構成されたパートからストーリーなんてあって無きがごとしである。断片的な寓話職人芸でつなぎ合わせた取り留めのないタペストリーである

一方、塔の外パートは違う。庵野と同じく、オタク知識で埋めている。

人力車描写一つ、言葉遣い一つ、看板一つ、食事のお膳一つから、「当時はこうだったんだぞ」という聞いてもないのに披露されるオタク知識臭がする。

多分、キャノピー実在ナントカ式とかそういう裏打ちされた設定があるんだろう。田舎がどこの県のどこの地方かも絶対決まってるねありゃ。

っつーことで塔の中パートより終わってる感のある塔の外パートだが、そこで主人公父親が妙な存在感出してるおかげでかなり良くなっている。

というのも、この父親ある意味主人公と後妻という二人の問題元凶と言える一人であり(まあ、亡くなった実母の方がより存在感は大きいが)、更に経営者であり金持ちで何でも自分で決めてしまタイプ

というジブリ作品ちょっと見ないタイプキャラからだ。

こういうタイプは、通常は出て来ても悪役なのだが、この作品ではそれを悪役として描かない。塔の外の部外者として描く。(大叔父と血のつながりもないし)

そんなわけで、このキャラについては宮崎駿の才能の爆発が感じられるのである

経営者であり第一線でもある、という後期宮崎駿が手にした立場意図せずに作り上げた鬱屈爆薬になってこのキャラに込められているのだろう。そのせいで、後半になって妙に生き生きしている。

主人公の心象にだけフォーカスするなら、後半の塔の外パートは要らなかったはずだ。少なくとも、もっと小さくなり、警察とかが来て事務的に進むのがセオリーだったはずだ。

しかし、おそらく宮崎駿はこの父親を描くことに創作快感を感じたのではないかと思う。

なんかもう藤井聡太ばりに全く失着を犯さず最善手を打ち続ける主人公の代わりに、

この父親勝手にやらかすし勝手決断するし部外者でありながらガンガン行くしで、

前半には明らかに狂言回しだったこキャラけが、後半に「キャラ勝手に動いた」を感じさせるのである。作中で唯一、記号を感じさせないのがこの父親である

そんなわけで、ち密に意味を積み上げて作り上げたであろう全体の印象を、後半の父親がぶっ壊して変になっているが、その父親がぶっ壊した所こそが個人的には最も見ごたえがあった、という何とも評しがたい作品である

まあ、悪くなかったよ。

でもね、道徳副読本を作りたいんでもなければ、作品作る時はもっと一点の妄想・一点の美意識に全賭けしましょうや監督

2022-09-26

anond:20220926205322

大都会東京の近くにあんなに古刹群が密集してるのは、関東にしては凄いと思わない?

ビジネス好きの関東人が、必死我慢して破壊衝動を抑えて、街の再開発よりも古い町の保存を選んだんだよ。

京都奈良と比べたらしょぼく思えるかもだけど、東京の近くの人が自制して町を守れた事自体が偉い。

顕彰して世界遺産になる価値がある。

2019-10-24

anond:20191024062803

共和制日本思考実験としては面白いかもだけど、現実的にはかなりハードルが高い

何にせよ天皇制出口戦略

現時点での皇室及び神道の支持と影響力を考えたら、象徴天皇制もつ日本国憲法は天皇公権力で縛ってると考えられる

だって制度としての皇室がなくなったとしても皇室の人たちは残るしその皇室祭祀として君臨する神社が全国津々浦々にある

これを利用して良からぬことを企む人間が出てこないわけがない

下手したら、竹田某を担ぎ出して征夷大将軍とか名乗る武力勢力が勃興することだって全然ありえる話なのさ

となると、神道の禁教化はもちろん、皇室の方々には国外退去入国禁止だけでは事足りない

もれなく処刑しなきゃならん

傍系や旧宮家、ないしは遠いむかしだろうと天皇家の血が入ってる公家武家も、藤原系も徳川島津毛利も。神主古刹名刹門跡家系にもいるよね

そりゃあもう大殺戮

そこまでしなきゃ絶対天皇権威を担ぎ出すものが現れて少なから日本の安定性は脅かされる。もしくは完全に破壊される

もちろんそんな外道21世紀国際社会に許容されるわけがない

江戸時代の終わりあたりにやっとけばまた違ったのかもね

まあ共和制日本を考えるには時期が悪い、タイミングを逸してしまった

もうここまで来ちゃったら伝統を守ってるとか以前に伝統という建前を纏わせてでも制度を維持しなきゃならんのよ

他のコメにもあるように、自然消滅を待つしかないのかな。多分しないけど。前述のように血脈散らばってるし

個人的には王室皇室肯定はだからあったほうがいいと思うけどね。理由はそのほうが面白いから

人権?まぁ立場トレードオフってことで

2018-05-19

JR和歌山線にて

5月13日のこと。これまで乗ったことがなかったJR和歌山線王寺駅から乗車したところ、

古刹を巡る会(仮称)」の旗を持った老人30人ばかりが同乗することになった。

その一行が着席するや否や、すさまじくデカい声でしゃべりだし、そのやかましさといったら、

ありゃしなかった。

小学生幼稚園団体も及ばないレベル難聴なのかと疑うくらい、全員声がデカい。

運動部高校生外国人カップルもいたが、皆、呆れ顔。

スマホゲームをやっていた高校生ヘッドフォンが聞こえないと友人に言っていた。

さらに、目の前にいたクソババァ様はでかい声で外国人旅行客マナーがなっていない、と

のたまっていたが、お前らのほうがその5万倍は迷惑だと言ってやりたかった。

貸切列車でもないのに、傍若無人なクソジジイとクソババア。

高校生外国人らに手本を示すべき連中が醜態を延々とさらしていた。

赤信号みんなで渡れば怖くない」と、ビートたけし日本人批評したけど、

まさにその通りだった。外国人カップルはそれを学んだことだろう。

旅で気分転換をするはずが、逆にストレスを感じてしまったのは残念だった。

その後、天気は下り坂。大雨が降ったため、和歌山線運転見合わせになった。

最低な老害軍団五条駅で下車したのだが、巻き込まれていることを祈ったのは言うまでもない。

行き場のない怒りを吐き出して、この週末は心安らかに過ごしたいと思う。

 
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