はてなキーワード: 形容とは
少なくともGAFAMや半導体産業に関しては単純にこれ。ワークライフバランスの確保でも働き方改革でも名前はなんでもいいけど。
それに比べて世界でも有数に休日の多い日本が、更に休暇の日数まで右肩上がりになっている。
半導体製造トップのTSMCが熊本に新工場作ってるけど、労働基準法守りながら彼らの働き方に合わせるのは不可能じゃないか?あそこは軍体に形容されるくらいに厳しいぞ。
と言ってるようなもん。
もちろん一労働者たるおれにとっては今の日本の働き方の方が楽だしありがたいけどどこまで持続可能なんだろうね、この働き方。
良くクリエイターが「集中的に良質なものを仕上げようとしてはダメ。まず量をこなすのが大事で質はあとから付いてくるもの。」と言ったりするけどそれは営利企業でも同じじゃないかな
「一方的な愛情を向ける」というのが何を指しているのかというと、まあ端的に「自分と今後一切関わりを持つことがないであろう有名人」とか「2次元のキャラクター」だとか、そのあたりのことだ。
人から愛情を向けられるというのはとにかく恐ろしい。私は、自分というものを正しく認識することができるのは他の誰でもない「自分自身のみである」と思っていて、そこにひとを介入させること、それどころか私を解釈する余地を人に与えること自体がとにかく末恐ろしい行為だと思っている。
近日、「蛙化現象」という言葉があたかもミームのように流行った。流行ったそれ自体は誤用ではあったが、いっとき社会現象にまでなった。
あるとき自分を分析してみたら、単に自己肯定感がすこぶる低いだけという訳ではなく、その自己肯定感の低さの中に同じくらいの「自身の持つ気高さへの陶酔」を抱えていることに気づいた。
これが、適当な意味で使われた時の「蛙化現象」を自身が引き起こすときの根底にあるんだろう。
己のことを、何よりも愚かでおぞましくて汚いゴミみたいな人間だと本気で思っていて、だけどそれと同時に「そんな自分のことを理解し寄り添ってくれるのは自分だけ」だとも思っている。改めて文章に起こしてみるととんでもない自慰行為である。
だから、「自分のいちばん近くで自分を理解し寄り添ってくれる」、所謂恋人のような存在を作ることが怖い。
ここまで話した上で怖い、という言い方を今更しても自己保身でしかないので、言い換えると 「嫌」 なのである。紛れもなく。
だから、「私を瞳に映すことがない」「私の本性に介入することがない」「こちらもあなたを知ったような顔で語るつもりもなければ知るつもりもない」ような存在に陶酔することがいちばん心地よくなる。前述した「一方的な愛情を向ける」ということを長々と噛み砕いてみると、恐らくこんな感じ。
本題。
私は、ひとりの人間のことがすごく好きだ。 仮にAと置く。
特定されることは意図していないので、この記事を書く上で必要な最低限の要素だけ取り出して、尚且つ暈しを加えながらAのことを説明すると、主に言葉を書いているアーティストである。
ただ、私は自分のことをちゃんちゃら性善の擬人化のような人間であると思っていて、そうなるとここで既に矛盾が生じている。
「自分がされて嫌なことを人にしてはいけない」、凡その人が義務教育中には会得するだろう一般論である。性善の擬人化なので、勿論日頃からこれを踏まえた行いを心がけている、のに。
私は、なんの関わりも無ければ何も知らない他人に、Aに、心底惚れている。
世に出ているAの書いた言葉は辿れる限り辿った。特に好きなフレーズを自分の中に書き留めて、反芻してをひたすら繰り返していた。
そもそも私は頭のいい人が好きなのだが、それだとアバウトすぎるので最近は「素敵な言葉を紡げる人が好き」と形容している。
要は、私はAのことをきわめて頭のいい人間だと思っている。
だから凄く辛い。
「自身の尺度で他人の持つポテンシャルや性格を測る」ことって、きっと凄く馬鹿馬鹿しいことなのに。
なのに、私はAの持つ性格上の性質や口調、趣味、その趣味を持つにあたっての根本の考え方、友達への接し方とファンへの接し方の違い、それを産んでいるであろう根底の考え方、その全てが好きで、そんな自分の盲目さと当人への申し訳なさが、果てしなく苦しい。
Aが紡いでいる「言葉」というものをもう少し詳しく話すと、架空の人物の言葉の代弁だったり、まあカテゴライズするのであれば「詩」だろうな、というものが多数。
ただ、その中に、さながら自伝のようなものがチラホラと存在する。
とどのつまり、どうしてもその言葉を紡ぐに至った、その考え方に至った思考回路やバックグラウンドを空想してしまう。
まあ、ただ考察するくらいなら至って個人の自由だとも思う。ただそれを「Aのことが好きな理由」として自分の中でつらつらと並べている自分自身が恥ずかしくて苦しいのだ。
どの角度から見ても考えすぎである。これを書きながら自分自身でも「素直に好きって言えばいいじゃん」と思っている、が、プライドと自分の性質がそれを許してくれない。
薄々感じている方も居るだろうけれど、これだって「厄介ファン」だ。紛れもなく。
私がAの言葉を好きなことは事実で、それを産んだA自身のことが好きなのも事実だ。
だけど、「自分と関わりのない人に心酔することで得られる心地良さと安心感」を求めている節が、間違いなく存在している。
私は、自分が仮に有名な活動者だとして、自分の全く知らない人が水面下で自分に対してこんな感情を膨らませてつらつらと文章を書き連ねていたら、そりゃまあめちゃくちゃに恐ろしいなと思う。
拗らせ具合に対してもだが、やっぱり「例えその考察が事実であろうと、他人が私の秘めたる感情を時間をかけて推察している事実」に不快感を抱く。
自分を測られることへの不満や知った口を聞かれる不快感、「特定の誰かに宛てた言葉では無い」ということを全面に押し出すような書き方。
そんな書き方をしているのに、分かり易く示してくれているのに、その言葉を自分の中で大事に大事に仕舞っていることが極めて愚かであると感じる。
あくまでも自伝であるのに、その言葉に共感したり感銘を受けている私が。
だけど、好きなのである。どうしても。
人に測られたくないから、きっと私と同じような考え方を持っているAの言葉と性格に惹かれる。
けど、この「きっと」こそが人を測っているに他ならない。
だから、絶対にAに近寄りたくない。 答え合わせをしたくもない。 これはほんとうに仮の話だが、何かの縁でAと知り合いになり、友人になり、推察が上手いこといって、同じような考え方なんだね!なんてことになってしまったら。
私はこんなにも好きなAのことを好きなままでいられるのか、わからない。
乱雑でこんがらがったままだけれど、自分の感情を推察する余地を他人に与えられるようになるまで、きっと今後とも手の届くことの無い誰かにひたむきな好意を向け続けるのだろうなと思う。
最初の方に綴った通り、自身を高尚な人間だと奥底の方で謳っていることがこの現象の原因だと考えられるので、まずはその傲慢さを取り払わないことには私は一生ひとりぼっちである。
「他人に一方的にひたむきな愛情を向ける」ことは、すごく明瞭だ。ただ、そろそろ成長したい。ひとからの好意を受け入れたい。自身の根本を推察されることを拒絶したくない。
とにかく、この半ば依存のような好意をとやかく向ける行いはそのうち卒業する予定だ。
このジレンマから抜け出せて、しがらみが解けきったときに、私が至って健全な「好き」をAに向けることが出来ていたらすごく嬉しいなあ、と思います。
絵を描かない連中が永遠に理解してくれないから、屋上屋を架すことになった。いい加減理解してくれ。
少しでもデジ絵を触ればわかるんだが、生成AIで出力しただけの画像は、見ればもうAI産だとわかる。なんもしてないんだなって。こいつ何も考えてないってわかるんだよ。手が3本生えてるとか、髪がめちゃくちゃとかじゃなくて。もうコンテキストがない。わかるかなぁ。
絵を描くときには基本的に目的があって筆をとってるわけ。そうすると、何処を描き込んで、どこを描き込まないかっていう、気圧の差っていうか、そういうのが産まれるわけ。
これは絵を描くことが楽しいバーサーカーでも同じ。そういうやつはだいたい、普通はそんなことまでやらんってことをしてくる。こいつやりおったって。そういう、画面の向かいのニンゲンの意思が伝わってくる。何を伝えたいのか、なんとなく伝わってくるわけ。これはなにも高尚なメッセージじゃなくても、「金髪のチャンネー最高!」とかでもいい。本当に何でもいいが、おれたちはそのメッセージと、メッセージの伝達方法の工夫を楽しみにネットの絵を見てるわけ。
でも、生成AIから「出しただけ」の絵はそうじゃない。そういうのはもう気圧がめちゃくちゃ。おまえこの絵のどこを見てほしいの?何を伝えたくて書いたの?何もわからない。その結果、おれたちはどうでもいい天井のシワを見つめて、お前たちが伝えたいのはこれなのか……?っておそるおそるプロフを見に行って、やっぱAIじゃねーか!ってなる。全く無駄な行為だったわけだ。そこに意図なんてなかった。誤解したおれが悪かった。そんなことを繰り返した結果、絵を見た瞬間に「それが生成AI産なのか」がわかるようになった。
最近はもう「その雰囲気」を感じ取っただけで見るのをやめてる。昔から知ってる神絵師だけをフォローして、新しいメッセージを、たまにしか降ってこない甘露を、延々と待つようになった。pixivをディグるのはもうやめた。イラストを凝視しても得られるリターンが担保されないので、虚しいからだ。
リターンがなければ、無視すればよろしい。それが黄金則だ。絵師と生成AI絵師は別世界に棲み分ければ良い。実際、生成AIにもメリットと独特の良さがある。それは認めるところである。
だがしかし、絵師には絵師なりの理由があって、今日まで生成AI許すまじと論争を続けている。ある問題があるからだ。
それは、生成AI丸出し、なんのコンテクストもない画像が、何故か一部民衆に受容されつつあるということだ。
他の、著作権がどうのという問題は、絵師が共通で抱えている嫌悪感のすり替えに過ぎない。無視したいが、なぜが周りの民衆が無視しないから、何かの理由を付けて批判せざるを得ないのだ。
冒頭で、審美眼がないと言った。それは一部の生成AI絵師もそうだが、何よりあれを「手書き並のクオリティ」と持て囃す消費者層を形容した言葉だ。
少しでも絵を触ったことがあれば、生成AIのファーストインパクトは「へーすごいね。でも仕事にはならないな。すげーおもちゃだ」だっただろう。それなのに一部の消費者層は、これを大変有り難いと言わんばかりに使い始めたわけだ。
おい待てと。これのどこがいいんだと。じゃあお前らはいままで俺たちが描いたもののどこを見てきたんだと。
当然、嫌悪感を抱く。だが、「だってそれ生成AIで出しただけじゃん!」と伝えても、彼奴等は首を傾げるばかり。
最近は、どうみても実写丸出しの自称「アニメ」がニュースに載った。何より驚いたのは、あれにゴーサインを出した報道陣である。絵に対する恐ろしいまでのリテラシーのなさだ。あれのどこが良いと思ったのか、まるで理解できない。仮にもアニメ制作会社と関係のある会社の振る舞いがこれかと、閉口したものだ。
どうせ伝えても伝わらない。そのうち、この嫌悪感を「そういう層」に伝わるような問題点にすり替えて問題を論ずるようになった。やれ著作権が、権利が、そういったものに。
だが、それらは理論上は手描きでも可能で、AI独自の問題じゃないということは、誰にだってわかる。だから平行線なのだ。
この感覚は、なかなか伝わらないらしい。だから、比較的広い層に伝わりそうな類例を持ってきた。
機械翻訳もまた著しい発展を迎えた界隈である。が、機械翻訳だけで全てが事足りるとは思っていないはずだ。
これはアカデミックに属したことがあればわかるが、英語の論文を機械翻訳して読む、という行為にはまったくの意味がない。著者が伝えたい事実を、機械翻訳は考慮しないからだ。そのうえ、業界の慣習を無視した翻訳がなされるので、その翻訳された文章に意味はない。なんとなく読んだ気になるだけだ。
小説もそうだ。ハリーポッターでもなんでもいい。あれらの「機械翻訳版」と「訳者監修の日訳版」どっちを手に取るか。当然後者だろう。
そうした現状にあるのに、海外製品の公式ドキュメントは多言語翻訳版を機械翻訳によって作成する。「機械学習により作成されたため、不正確な場合があります」と但し書きを付けながら。
これはビックテックであっても例外ではない。訳者を雇う金はありながら、正確な訳を提供しない。
なぜか?日本語話者なんてよく知らないし、どうでもいいからだ。
それでも有り難がる連中がいる。英語を読めない層だ。そんな不正確な日本語読んでる暇があったら英語勉強した方が早いよと伝えても耳を貸さない。それで満足している層に恐怖する。機械翻訳版を読んで何かした気になっているニンゲンの、その感性に恐怖している。それは天井のシミなんだって。そこに別の人間が伝えたかったメッセージは存在しないんだと、伝えても伝わらないことに恐怖している。
というわけだ。
現在抱えている嫌悪感のその本質は、「メッセージ性も何もない破綻した絵を持て囃す連中の審美眼が信じられない」ということになる。
さらに恐ろしいのは、彼らが生成AIの発達とともに、その審美眼と理性を失ったわけではないということだ。
彼らとて、三歳児の落書きと、絵の修練を積んだ人間の描いた絵の区別はついていた。だから、絵師たちは自分たちが絵に込めていたメッセージが市井に伝えられているのだと信じることができた。それを感じ取ってくれているからこそ、自分は市場に支持されているのだと信じることができた。
が、今は違う。
生成AIから出しただけの画像と手書きとの区別もつかない連中がいるのだと知ってしまったからだ。
だから、自分の支持者の中にそんな「肯定派」がいないか魔女狩りもしたくなる。それを肯定する気にはなれないが、その絶望は理解できる。
そうせざるを得ないのは、少しでも正気に戻ったら「生成AI丸出しの画像のクオリティでいいなら、おれたちこんなに心身削って絵を描く意味ないじゃん」と気付いてしまうのを避けているからだ。
高精細なイラストなんていらなかった。市場がそれを求めていなかった。顧客は、一分で生成された「なんかよさげな画像」に吸い寄せられていく。なんだよ。それでいいなら、おれたちこんなに描かなくて良かったじゃん。
そして、この価値観が行き着く先は、「誰も作品に込めたメッセージを理解してくれない」「誰も自らの磨いた技術を評価してくれない」という絶望の世界だ。
それが繰り返されれば、当然続ける意味もなくなる。そして現在の伝統的製法によるイラスト制作技術は失われ、生成AIによる模造品が市場に氾濫することになる。廃業なんて話じゃない。業界自体の喪失だ。絵にメッセージを込めるという行為時代が廃れるのだ。
「はいはいどうぜいつものなろうノベルでしょ」と思って観たら、思いのほか面白い。
その理由はあまりのテンポの良さと、無駄を一切省いたノンストレスさにあるのだと思う。
主人公がレベル99で最強、なんていう擦られ過多のテンプレを厭味ったらしく見せつけないのも良い。
なろうものの「こういうのでいいんだよ」を詰め込んだ作品で、それ故に希薄な感じも否めないものの万人受けしそうな感はある。
あとEDが秀逸で、EDに関していえば今季一かもしれない。モンキーダンス!!
展開もジャンプらしい王道かと思いきや、色々と捻りを利かせている。
原作を読んだことがないので意外な展開に「おっ」となることも多く、意外と凝った作品。
ただ難点は前回の振り返りの長さと引き伸ばし。
作画は悪くないでテンポが良ければバスったのでは?という印象。
それも納得というか、90年~00年に見られた懐かしいノリを繰り広げる作品。
暴力系ヒロインに謎のギャグが節々に挟まれ、シュールとシリアスがごっちゃになっているような。
人によって好みが非常に分かれそうではあるが、個人的には結構好き。
ただ全体的には馴染みのある設定と展開ばかりで目新しさには欠け、そこまでインパクトは感じず。
まったりした雰囲気の作品で、ほろ酔い加減に観るのがちょうど良い。
戦隊モノの悪役の休日を描く作品で。物語としては起伏に乏しく、だからこそ安心して観れる感も。
今期の癒し枠。
自分は男なのでBLには一切興味がないものの、それでも楽しめた作品。
なんだろう…この作品を一言で形容するなら「懐かしさ」かもしれない。
一昔にあった少女漫画の純愛系といった感じで、今ではテンプレ化し過ぎていて普通の男女物ではあまり見られなくなったような。
だからこそ形が”男×男”になっても楽しめたというか、変な技巧もなく、ここまで真っ直ぐな好意をアニメでは久々に見た気もする。
恋愛ものしては昨今、「素直に好きになったら負け」みたいな風潮が多い中、ストレートに愛情を示すシーンの多さが逆に新鮮に思えたりも。
作画も丁寧で、評判通りに面白い。膨大な設定が売りの作品でもある。
安定した面白さで、主人公と共にゲームを進めている感覚も味わえる。
独特な悪ノリが特徴的で人によっては大いに嵌りそうではあるけど、自分の場合はそれほどでもなかった。
ネットでは色々言われていたようだけど、普通に面白かった印象。
原作は少し読んだことがあり、比べると確かに間延びしている感はある。
ただ原作の緩急を抑えていることで逆にリアリティを感じられ、ハマれば場末スナックの退廃感が心地よくなってくる。
今季では1,2位を争う傑作。
作画は美しく、動く所ではぬるぬる動き、カット割りも素晴らしい。
動く鎧を調理して食べる、といった一見して「無理だろ」というものを合理的に描く想像力!
往年のファンタジー好きにこそ観てほしい作品で、目から鱗が剥がれ落ちるであろう作品。
世界観も秀逸。もしダンジョンが存在したら?といったことを社会的・経済的にシステムとして描いている点もシニカルで良い。
おすすめ。
拷問と銘打つもののグロテスクさは皆無で、こんな世界観だったらグリフィスも蝕しなかっただろうなという世界観。
基本的にはくっころ姫と可愛い拷問官ちゃんとのイチャイチャを観るような作品。
あと魔王様が今季一の聖人で、魔王軍は絵に描いたようなホワイト企業。うらやましい。
今の日本に足りないものを描いているような作品で、ただただ癒される。
・ぶっちぎり?!
オリジナルアニメ、ということで注目があまり高くなかったように思える作品。
しかし個人的には思わぬ掘り出し物。というか普通に面白かった。
確かに主人公のダメダメっぷりは鼻につくものの、その分周りのキャラクターが魅力的。
幽白好きとしては佐々木望さんのヤンキー声が聞けるだけでも楽しめた。
ギャグとシリアスのバランス、テンポも良くて、個人的にはもっと話題になってもいいんじゃないかなぁと思ったアニメ。
・魔法少女にあこがれて
えっど。
正直馬鹿にしていた感はある。
「安易なエロで客引きとか下品」、そう思っていた時期が俺にもありました。
ただストーリーは思いのほか作り込まれて、後半になるにつれエロがおまけに感じられるような展開は素晴らしい。
うーん…でもなぁ…。キャラ同士の掛け合いも悪くないし、個性も立ってる。こりすちゃん可愛いし。
それでも同人誌をアニメ化したような、二次創作感を払拭し切れなかった印象も。
けどアニメは綺麗に終わったのでヨシ!
熱い。熱すぎる作品。
王道かつ傾いているという、一つの作品内で矛盾を体現するようなアニメ。
ネットでも大いに話題となり、気持ち悪い巨大ロボということで評判になったほど。
ストーリーとしては主人公が巨大ロボと邂逅して、それに乗り、敵を倒してヒーローになるというまさに王道中の王道。
それに同性愛の要素をひと加えwみたいなノリの作品。ほんとそんな感じ。
でもこれは現代の性の多様性について語った作品でもあると思うんだ。
「本当の性の多様性とは?」そう自らに問いかけ、これが日本が世界に誇るアニメ文化の答えだ!と言わんばかりに突っ切った愛の多様性に、視聴者は驚愕し、感動すること間違いなし。
送別会の帰り道二人で話してて、やっぱり好きだなと思って酔った勢いでメッセージで告白した。翌日返信が来なかったのでやらかしたと思って忘れてくださいと送ったら、昼頃に「今日ご飯行きませんか?」と言われ、仕事終わりに会うことに。普通に話していたけれど、解散する前に「メッセージの件何も言わないんですね」と言われてしまい、最終的に対面で告白することになった。彼いわく、「お酒のせいにして無かったことにするなら関係はもう続けられない(友人としても)と思っていた」とのこと。結果的にいい方に転んで良かったが、そんなことを言っても保留されているからつらい。即フラれて関係がぶっ壊れるのが一番嫌だったからそうならないのはありがたいけど、最近はこちらがアプローチをする一択になっていて本気で毎日悩んでいる。
前の職場は人数が少なく、かつ男性は9割既婚者。残る1割も同世代ではなく、あまり関わりがない。私は大学を卒業した4月から、1年間の契約でその職場で働いていた。まあ色々あって、9月半ばから立場と業務内容が変わった。慣れない仕事に戸惑いながらもなんとか追いつこうと必死になっていたときに、件の男性と接近した。
彼は9月から再び働き始めたものの、前年度から仕事をしていた先輩だった。そのため職場の色々な決まり、仕事をある程度把握していたので、困ったことがあったら聞いてくださいね!と言ってくれた。しかし彼は正規雇用ではない。故に職場には居づらかったことも多かった、と後に話してくれた。
私の職種はとにかく人を相手にし続けるため、時と場合でかなり忙しさが違う。特に私の勤めていた勤務地はかなり人の対応が多い地域だった。
私は当然パンクした。もう二度と立ち上がれないんじゃないかと思うぐらいパンクした。ぶっ壊れた。一人でいられる部屋に籠ることも増えた。そんな折、彼が手を差し伸べてくれた。
彼は親身になって私の話を聞いてくれて、「何か困ったらまた教えてくださいね」と優しく微笑みかけてくれた。いい人だ、と思った。彼の柔らかい雰囲気はとても好感が持てたけれど、その時既に恋に落ちていたかと言われると別にそうでもない。何を考えているかが全く分からなかったから。
時間が経って仕事にもやっと慣れてきた頃には、私の生活の軸の中に彼が存在するようになった。職場の人にもよく「付き合ってるんですか?」と聞かれたし、上司には「距離が近すぎてあらぬ誤解が生まれてしまいかねない。少し離れて欲しい」と注意されてしまった。
私は仕事をこなす中で色々と彼にサポートしてもらうのが一番やりやすかったから、とにかく男女の雰囲気が出ないよう努めることにした。彼も上司から同様の注意を受けたらしく、一緒に帰っているときに「怒られちゃいましたね」と笑っていた。彼に不快な思いをさせていないように見えたのが救いだった。今思えば、この頃にはもうだいぶ彼を意識してしまっていたのかも知れない。次第に彼から仕事の後にご飯に誘われ、およそ週3回ほどご飯に行く仲になった。
二人で行動していると監視されたり、色々と嫌なことはあったが何とか1年間仕事をやり切った。その間何度も「付き合ってるんですか?」と聞かれた。話のネタとして面白いからという理由で彼にも何度か「また言われました」と話していたが、彼が「そういうことにしちゃえばいいんじゃないですか」と言うようになった。正直ドキリとしなかったと言えば嘘になる。
ただこの頃私には恋人がいたので、踏み込む勇気はなかった。恋人がいるのに恋愛対象になりかねない人とご飯に行くなと言われたらそれはそうなんだけれど、ひとっっっつもエロい雰囲気になんてならなかったから許して欲しい。一応異性とか関係なく、先輩後輩という意識が強い職種でもある。……全部言い訳みたいに聞こえると思うけど、実際多分言い訳。双方に対して不誠実すぎるので、相手への自分の気持ちに気づいたときに別れた。
正直、めちゃくちゃ正直、だいぶ長い間、こっちが相手を好き!って言うよりあっちが私を好きだったと思う。職場の人たちにもずっとそう言われてきたし、そもそも人の好意って分かりやすいときはだいぶ分かりやすいから…ああ、この人私のこと好きなのかな?と思うこともあった。
なのになんでこんな私がひたすら追う側になっているのか…………理解できない………………だからと言って冷めることは一切ないんだけれど…………………………というかこうなるまで恋愛に発展しなかったの、もしかして両方超奥手…………………………?私は性交渉の経験がないので性交渉から恋愛に発展させる技術もないし、ずっと前から私たちの関係って詰んでたのかな……………………………というかそういえば相手側が自分をどう思ってるか全然聞けてないな、はぐらかされてるかも知れない。好意に気づいてたかと聞いたら「貴方はそういう感覚がない人なんだと思ってた、割り切っているのかと」と言われ、「友人ではない。でも何かと言われると形容しがたい」と評価されるに留まっている。ちなみに私は「職場にいた時(業務時間内)は相棒だと思っていました」と返した。
どう思っているか聞きたいな……でも下手こき続けてるから「やっぱ無理だなと思ってます!」とか言われてしまうかもしれなくて、それが一番怖い。付き合えなくても友人(?)でいたい、それぐらい前提として尊敬できる素晴らしい人なんだ……どうすりゃいいんだ………………ウダウダ書いたけど聞きたいのはそれだけなんだよ………………誰か教えてよ………………………………………………あとどうやったら彼女に昇格できるのこれ
断っておきたいが、俺は女たたきをしたいわけではない。
会社の研修で「貴方はストレートな男性で管理職であるから、社会的には強者である。社会的な弱者である女性のことを考えましょう」みたいなことを言われて、不意打ちにあったような気持ちになった。
俺は在日三世である。まず、在日差別はある。おじいさんや父親が苦労してきた話(教師が親父の書いた絵に「朝鮮人で最も絵がうまいで賞」と書いた花をつけて廊下に張り出す、など)を聞くとやるせない気持ちになるし、今でも同世代との飲み会になるとザイニチが!みたいな罵倒語を吐くやつは目にする。
なので、正真正銘ゴマカシなしの社会的弱者であるウチは、在日であることを完全に秘匿しながら、日本において唯一無二の後天的に取得しうる強者性=学歴を息子や娘に身に付けさせることが長期的な戦略となった。豊かではない父母は持てるリソースのすべてを我々に注ぎ込んでくれ、果たして俺は東大に合格した。
ただ、どんなに努力を重ねても、やはり特に大阪に帰ると無意識の差別のオブラートは社会を包みこんでいるように思えてならない。帰化申請を自分で行ったときに、半ズボンで来るようなマトモじゃない人は審査で落とすけど、君は大丈夫。普通だよ。でも普通じゃない人ばっかなんだ、とヘラヘラ宣った法務局のHとかいう奴の顔は一生忘れないし、梅田の地下歩いてただこの親父が免許書を見せた瞬間に顔色変えて根掘り葉掘り聞いてきた警察官のことを俺は許さない。妹の元彼の親が朝鮮人とは結婚されられないと挨拶の場で断って、それにそれもそうだなあと言っていたらしいアイツらは妹の流した涙のぶんの毒薬を地獄で飲ませたい。
なので、俺がしてきた努力は、親子三代に渡り投入し続けたリソースは、この日本社会で生きていくために絶対に必要なコト/モノだったし、その結果としての社会的強者然としたこの姿は、弱者性の超克の志向の当然の帰結である。
それを、社会的強者である日本人女性から、生得的に男性であるからという言葉だけで強者と形容されるのはとても気に食わない。俺は、俺等弱者は、本当に死ぬ思いをしてここまで来てるんだ。生得的なんて言わないでほしい。
私は世代ではないのでお笑い好きが言う「ダウンタウンを初めて見たときの衝撃」はわからない。
笑い飯のM-1で奈良の博物館のネタを見たときの衝撃が「ダウンタウン…」と同じなんだろうと勝手に思っている。
あれより衝撃的な漫才は見たことない。ボケもツッコミも交互にやるって革新的だったしネタも面白かった。
ミルクボーイやブラマヨも形容出来ないくらいに面白かったけど、衝撃と言う意味では笑い飯を初めてみた時だったな。
劇場で見ておしっこ漏らすくらいに笑ったのは、ザコシショウのおじいさんが銭湯に入るネタと立川談笑の「片棒・改」の2つ。
笑いすぎて呼吸が出来なくて死ぬかもしれないと思った。
それでも衝撃はやっぱり笑い飯かも。
人によって定義や範囲は違うだろうが、レスバとは、テキストによって議論、喧嘩、罵りあいを行うことを指す言葉だ。
最近は、レスバはSNSでよく行われる。X(旧Twitter)でもレスバは日常茶飯事であり、それを実際に「レスバ」という言葉で形容することも行われている。
さて、少し前に、5ch(旧2ch)ブラウザであるJaneがアップデートされ、5chではない別の掲示板に接続されるという事件があった。この別の掲示板のサイト名は忘れてしまったので、ここでは偽5chと呼ぶことにする。
偽5chはXでも多少話題になったのだが、その中でも偽5chの技術スタックに言及したアカウントがあった。曰く、偽5chのWeb版はNext.jsという技術が使われており、掲示板サイトらしからぬモダンな造りであるとして、肯定的に言及していた。
このアカウントが普段からAI驚き屋行為で注目を集めていたこともあり、偽5chに言及したこの投稿は話題になった(いわゆる「バズった」)。
実際、このNext.jsという技術がモダンな技術のひとつであることは疑いようがない。デジタル庁が一度Next.jsを採用して話題になったが、モダンすぎて扱えなかったのかやめてしまったのも記憶に新しい。
話はレスバに戻るが、Xでの技術的な話題にはレスバが付きまとう。人によって好みの技術が異なるので衝突が起こるのは当たり前だ。高低さまざまなクオリティのレスバが日々繰り広げられている。
Next.jsはモダンな技術と書いたが、より後発の技術を推している人は、Next.jsは時代遅れで過去の技術だと言いながらレスバを挑んでくるだろう。新しい技術のほうが必然的に(まだ)単純なので、「Next.jsは過剰に複雑だ」といった論理展開も定番だ。
逆に、いわゆる「枯れた技術」信仰を持つ人は、Next.jsなんて枯れていないものは使えないという論調だ。これも人気の高い武装である。
偽5chのNext.jsに言及した投稿にも、例に漏れず、さまざまな異論が舞い込んでくる。Xのいつもの光景だ。技術的な話題で一定以上バズったら何をどうやっても叩かれる。
しかし、普段と違うところがあった。捨て垢で叩く人が多かったのだ。
正直に言って、捨て垢の人の批判はひどかった。中身のないワードサラダだ。技術的な内容ではなく、感情論やレッテル貼りを武器にしているようにも見えた。
知識が無くても使えるレスバの手法を用いながら、無理しつつもなんとか批判を書いているという印象を受けた。今ならChatGPTのほうが中身のある批判を書けるだろう。
ここからは妄想だが、そのような捨て垢の人は5chからやってきたのだろう。
当時、5chの住民は当然偽5chに対して敵対的だった。偽5chに対して肯定的な投稿があったとなれば、叩きたくもなるだろう。
裏は取っていないが、大方どこかで投稿が晒されて「凸」した人たちがいたのだろう(もう死語か? よく分からん)。
正直、偽5ch絡みを除けばよくあるNext.js上げの投稿だったので、それくらいしか捨て垢でわざわざ批判を飛ばす理由がないと思う。
「レスバ」という言葉は5chのような掲示板文化に由来する言葉だと思う。
Xなどでは返信のことを「レス」と言わない。「リプ」だ。
返信を「レス」というのは掲示板だ(メーリスとか、掲示板よりさらに古い文化由来だったらごめん)。
つまり、5chからXに捨て垢でやってきたのは、レスバの本場からやってきた刺客なのである。
まあ、刺客たちがみんな技術に詳しいわけでもないのだろうから、技術的な話題でレスバをこなせというのも無理な要求なのかもしれない。
この間、SNS上である議論に参加というか巻き込まれて、私含めた数人の参加者のレベル的にそれで結局答えなんか当然でなさそうな雰囲気だったので
「結局これはどっちもどっちってことなんじゃないの。こんなことしてるより別のことをしたほうがいいよ」みたいな返事をしたら
「それは悪しき相対主義だ」「相対主義の皮を被った保身でしかない」みたいなことをある人からいわれた。(「別のことをしたらいい」というのが相対主義?なのかはよくわからん)
でもそいつも全然、自分の意志があるのか怪しい話しか出来てない感じだったが。
しかし、この10年ぐらいの間に、「相対主義はとにかく悪い」という人たちの意見が目に付くようになった。
今日の晩御飯の内容から、ガンダムみたいなアニメの評論、日本とアジアの歴史問題認識の差まで。軽い話題から深刻な内容まで、一つの物差しでそれぞれの問題を計るわけにはいかないにせよ。
でも「相対主義は責任の放棄であり社会問題の根源~」みたいなことをいう人はリベラル側に結構いる。
資本主義でも社会主義でも、いじめっ子でもいじめられっ子でも、ドリフでもひょうきん族でも、連邦軍でもジオン軍でもなく、相対主義。
ほとんどの日本人は6・3・3制の学校で、まあ、社会の処世術とでもいうものを学ぶはず。日本人の「思想」「思考」が問題にされるとき、大体学校教育まで遡って批判されることが多い。
でも、私は小学校から高校まで「相対主義」なんて学んだことはない。相対性理論はあるけど。大学でも、ゼミでいろいろやったが、具体的に相対主義とは言わないにせよ「中立的」な見方・記述をするようにはいわれた。
我々もそうだったが、年に何十万人の若者が、中卒・高卒・大卒のいずれであれ社会に旅立ち、この社会を構成する。そしてほとんどの人々は、リベラル派の危機意識からすれば(どう形容していいか分からないが)、「相対主義」者ということだ。
学校で、国が定めた教育課程により(理系は一先ずおいといて)国語・社会・公民・図工美術・音楽・語学・道徳などの授業を6年間や3年間学び、家庭生活も過した人々が、学校を出る時には「相対主義」者として再生産される。
そしてそれは悪いことなのか、私にはわからない。この国は民主主義であり、自由主義であり、自分の思想を選ぶ権利があり、その上で、多くの人々は確固たろうが適当であろうが、相対主義を選択し、それで別に社会を維持できている。
少なくともこの社会のかなりの部分が、毎年再生産される「相対主義」で維持されているのは事実だ。相対主義者による虐殺であるとか強制収容であるとかも見聞きしたことがない。何がよほどの悪なのだろうか。
逆に、「相対主義」であることを徹底的に拒否する教育や生活とは何なのだろうか。
私は相対主義への批判を見るたびに、言っている人々の普段の言動と比較しても、なんだか検閲や全体主義に近しい論調だなと感じ続けている。
社会の授業で世界の国々や選挙制度について学ぶときに、ある国は素晴らしく、ある国は劣っていると教育するのだろうか。ではその上で日本の立ち位置をどう教えるのだろうか。
ベートーベンの曲を聴いたりピカソの絵を鑑賞した時に、楽譜や色調に現れる技巧は別として、徹底的に「ベートーベン」「ピカソ」の何たるかを国が定義し・教師もそれに盲目的に従い・生徒に刻み付けるのだろうか。
(よく相対主義の引き合いに出される)機動戦士ガンダムを視聴するときに、連邦軍やジオン軍のいずれかが徹底的な善であり対極は悪であると必ず親御さんが傍で「アドバイス」し続けるのだろうか。あるいは制作時まで遡って指図されるのか。(ゆうきまさみがそんな漫画描いてたな)
相対主義は決断や責任の拒否かもしれないが、では非・相対主義は決断や責任の日常的な強制にはならないのだろうか。それは反世俗主義的なカルトや閉鎖的な集団の思考(例えばエホバの証人、旧統一教会、搾取を目的とした自己啓発セミナー、戦前の日本政治など)とどう違うのか。
これらの集団が若者・二世三世信者に対してどう当っているのかも含めて。
もっと言ってしまうと、リベラル的なさまざまな批判や許容の精神は、人々に曖昧に巣食う相対主義という岩盤の上で存続できているのではないか。
長々と書いてしまったが、私としては、相対主義であると言われることは受け入れた上で、それが悪いとか変わるべきだとする思考には至らなかった。
ただ考える中で、他の問題も含めて、「教育・学制」というものはかなり意識する必要はあると思った。
毎年、「相対主義」であり、「自民党を『安易に』支持」し、「映画や音楽を『表面的』に」しか鑑賞できず、あるいは「胡散臭いやり取りを『プロレス』、くだらない文章を『ポエム』と呼ぶ」大衆が再生産されている。
そして大学の教授や活動家がいくら「再教育」しようとしても改まることはない。果してこの毎年の大衆の再生産の渦とでもいうものは「悪」「間違い」なのだろうか。
うちの親はテレビを見ていると、出てくる芸能人とかの髪のことについてよく呟いてくる。それをよく聞いていると"髪が後退している"と"おでこが広い"という表現を使い分けていることに気づく。
今日も今日とてX(旧ツイッター)が生成AIのあれこれで燃えている。
直近の一週間だけでも、ゴールデンボンバーの配信音源ジャケット絵・プリキュア20周年・文化庁のパブコメ公開第一段……と、もはや日替わり定食かという勢いで話題が移り変わっている。
生成AIの推進派(親AI)と規制派(反AI)が互いの陣営の行儀が悪い行いをつるし上げ、ファンネルを飛ばし、お気持ち表明を行い、相手をバカにし、互いを憎み合っている。
反AIの一部ネームドアカウントを中核とした集団は先鋭化&晒し&引用リプライ爆撃を続けており、また親AI側も徹底的に文化庁資料や現行法を基礎とした理詰めロジハラでの徹底抗戦を継続。
反AI側の言動が、過去にXで繰り広げられていたツイフェミ・悪質撮り鉄・限界左翼・反ワクチン界隈の言動と重なりつつあるのだ。
そして、反AIを正面から叩き潰そうとする親AI側もまた、上記4界隈の敵対サイドに重なる要素が見えてきた。
この増田では、生成AIを巡るインターネットバトルを蚊帳の外から傍観する自分が上記の様に感じた理由を述べ、その上で生成AIを巡るインターネットバトルについて今後の進展を予測したいと思う。
温泉や献血の広報活動への二次元美少女起用やサイゼリヤで喜ぶ美少女絵への攻撃を中心にX上での活動をしていたツイフェミ界隈。
ツイフェミの電凸攻撃のせいでキャンペーンが中止となった事もあっただろう。例えば、マイメロママの発言をまとめたグッズの発売中止などである。
そんな過去の栄光(?)はどこへやら。もはや昨今では発言力を失い、2024年に至っては三重交通への物言いをした程度しか記憶に無い界隈である。
こんなシーンに覚えはないだろうか?
それまでは特に問題ないとして世の中で扱われていた広告や広報コンテンツに対し、ツイフェミ界隈の大御所が苦言を呈すると、まるでゾンビ映画のワンシーンの如く大量のツイフェミアカウントが群がって攻撃をする。
半年以上当たり前のように掲示されていたポスターや、一年以上サービスを継続していたゲームに対し、突如として大量のツイフェミアカウントが群がり、襲い掛かり、電凸を行う。
襲い掛かるツイフェミアカウントの中の人にとっても、もっと早くからそれら攻撃対象は目に入っていただろう。
何なら、ツイフェミアカウントの中の人の通勤経路上にそれらコンテンツの広報ポスターなどはあたりまえに掲示されていただろう。それを一切問題としてとらえる事なく、平穏に日常を過ごしていただろう。
そんな、静穏な日常を送っていたツイフェミアカウントたちが大御所ツイフェミの攻撃指示を受信するなり、
突如狂暴化して攻撃的になり、「ツイフェミのルールで攻撃して良い存在」めがけて攻撃を開始する。
この行動を、「犬笛を吹くと突然ファンネルが襲い掛かる」と形容した次第である。
某イラストレーターや某同人作家や某漫画家、あるいは正体不明のよくわからないネームド反AIアカウント(もやし、水玉、赤髪、モノクロ男性など)が取り上げるやいなや、
彼らが取り上げた存在は「攻撃して良い存在で社会悪」と認識され、無数の有象無象によって攻撃が行われる。
言いたい事があるのならば、犬笛や攻撃指示の有無にかかわらず、個人として行動をすれば良いのだ。
しかし反AIもツイフェミも、鉄砲玉が自らの意思で攻撃をする事はない。鉄砲玉は鉄砲玉として、攻撃指示を待っているのだ。
ネームドの攻撃命令によって「攻撃して良い存在」と化した相手へのみ攻撃を行う習性が見受けられる。
まるで日頃から攻撃して良い存在をギラギラとした血走った眼で探し求め、攻撃して良い存在が出現するなり暴力性を解き放つ怪物の様だ。
はっきり言って、異常である。
まず、感情を持つ事は問題ではない。好き嫌い、支持不支持、良いと思う悪いと思う…など。人は感情を持つ生き物だ。
筆者にも好き嫌いはある。パクチーは嫌いだし、きのこの山派だし、野球はオリックスファンだ。
擬人化ゲーではアズレンが好きだし、ブレイバーンは正体判明後も気持ち悪いと思う。
ウマ娘ではヒシアマゾンが好きで、スマホはiPhoneの方が好き。FateシリーズではZeroがイチオシだったりする。
何が好きか? 何が嫌いか? という感情を持つ事。それ自体を筆者は否定しない。
二次元美少女イラストが嫌いだ。生成AIが嫌いだ…そういう感情を持つ事自体は、特段問題ではない。
問題となるのは、何か世の中のシステムを変える(=社会運動をする)時に、感情をベースとする事だ。
「私が嫌いなものは社会悪だ!ケガレだ!この世界から排斥しなけれはならない!死刑にしろオオオオオオ!!」……こんな主張をする政治団体が存在したら、貴方はどう思うだろうか?
例えば、某漫画家はかつて、生成AIを批評する際にケガレ思想に通じる発言をした事がある。
あるいは、某イラストレーターや某説教騎士アカウント(凍結済み)については、生成AI利用者を盗人・泥棒・反社・スジモン…と形容した事がある。
生成AI問題を追い続けている人であれば、そんな事もあったなぁと懐かしい気持ちになるのではないだろうか。
ここで断言したい。現代日本で社会変革を求める際、ケガレ思想を持ち出して対抗勢力を叩くというのは最悪中の最悪。悪手である。
なぜケガレ思想を持ち出してはいけないの? あいつらはケガレだぞ? 人権の無い存在だぞ? など真顔で言い返す人はいないと思うが…もしいるのならば、道徳の勉強をして頂きたい。
議論をするのであれば、感情を表向きでも排し、徹底的に理詰めで話をしなければならないのだ。
「キモいモンはキモい!」「ケガレはケガレ!」「キモ男はタヒね!」「生成AIは犯罪者だから死刑!」……先鋭化した人物の言葉は、やすやすと社会通念上許されないラインを超える。
そうなれば、もはやその発言者は社会運動の場から排さなければならなくなるのだ。
少なくとも、謝罪を行い、過去の無礼を詫び、相手側がその謝罪を受け入れるまでは議論の場からは出禁処置が妥当であろう。
……それが、できない。感情一辺倒のケガレ思想混じりでは、冷静な議論ができない。敬語も使わず相手に罵倒の言葉を繰り返すのみである。
その結果、ツイフェミ界隈は「話を聞くだけムダな人達」「どうせウチの客じゃないから電話ガチャ切りでOK」……という認識をされてしまったのが現在である。
筆者としては、このままでは先鋭化した反AI界隈が「話を聞くだけムダな人達」「あいつらは無視してOK」という認識をされる様になるのではないか…と思う次第である。
もちろん、礼儀を尽くし、感情的にならず、相手を敬い、発言は常に敬語で接し、その上で徹底的に理論的で理詰めの会話ができるのであれば、反AI界隈も議論の場に参加できるだろう。
なので、まず、感情的になっている反AI貴兄らにおかれては、常に敬語で相手に接するという人間社会の基礎中の基礎から学んで頂きたい次第である。
言わずもがな、パブコメに喧嘩腰で罵倒文章を書くなんてのは論外である。
殺したいくらい憎い相手であっても、八つ裂きにしたい存在であっても、文をしたためる際は常に敬語と丁寧表現を心掛ける。それはもう、義務教育を終えた人間の基礎であろう。
悪質撮り鉄……電車撮影に熱意を燃やし過ぎた結果、迷惑行為や危険行為に及ぶ一部撮り鉄の存在である。
例を挙げると、電車撮影のために田畑や私有地に入る。ホームに脚立を立てる。街路樹や柵を破壊する。子供を恫喝する。江の島自転車ニキに罵声を飛ばす…など。
定期的に問題行動がインターネットを賑わせ、時にニュースでその姿が取り上げられる集団。それが、迷惑撮り鉄である。
これは驚くべき事なのだが、迷惑撮り鉄界隈というのは独特の秩序は敷かれており、一応の平定が為されている。というのも、昔の上司が撮り鉄だったので、そこで聞いたのだ。
場所取り一つ取っても、現地撮り鉄界隈の大御所センセイに顔を覚えて貰わなければ良いポジションには陣取れない……らしいのだ。
また、新参者が先輩方よりも高いレンズを使うのは失礼。まずは陣取った撮り鉄集団の後ろの方で撮影を行い、大御所の撤収準備や車の運転を務め、徐々に顔を覚えてもらうことでベストポジションでの撮影が許されるようになる。……らしいのだ。
昔の上司がいた撮り鉄集団が独特のルールを敷いていた可能性はあるが、
少なくとも、こういった先輩・大御所優先の風潮というのは、撮り鉄以外の界隈でもある程度共通して敷かれているものである。
例えば、芸能界や体育系の部活などだ。先輩がクロをシロと言えばシロになる。社会通念や法律よりも、目の前の大御所の言葉や感情が優先される。そこには、一定の秩序が存在している。
……その結果、時に芸能界ではとんでもないスキャンダルが起き、体育会系の部活では暴力や薬物の蔓延がニュースになるのだが……。それはつまり、彼らの秩序・ルールが法律を侵してしまったという事であろう。
反AI界隈、特に絵師・同人作家を中心とするメンバーの中では、こういった傾向が散見される。
大御所センセイが言っているから正しい。法的な正当性は二の次。だって〇〇万人フォロワーで〇〇の案件を受けて、企業Vの〇〇のママであるセンセイの発言なんだから、正しい!
あの先生の発言の邪魔となるルールは間違っている! 法律がおかしい! 即売会のルールがおかしい! 文化庁がおかしい!
愛があれば二次創作は合法! コミケでウン百万の利益が出ても合法! skebで小遣い稼ぎをしても合法! 著作権は親告罪だから権利元が文句を言わなければ合法!
生成AIは愛が無いから違法! こんな技術は違法! コミケから叩き出せ! 権利者が誰かは知らないけど違法! 生成AI使用罪を作れ! 非親告罪だ!
……いや、ちょっと待ってくれ。
大手企業Vのデザイナーである事と、著作権法に精通している事は何の関係もないではないか。
フォロワー50万人の大手絵師で、ソシャゲで絵を描いていて、同人誌にプレミアが付く事と、法解釈の妥当性については何の因果関係も無いではないか。
大手絵師のセンセイが今まで十年単位で絵を描き続けた修練の期間を、文化庁の職員は法律の勉強を行い、法解釈と政務の実践をしていたのだ。
なのになぜ、大手絵師のセンセイの方が文化庁の職員よりも著作権に詳しいと言えるのか? 私には分からない。
そういった学習、勉強のプロセスも経ず、なぜいきなり法律の新解釈を叩きつけられるのだ?
絵師界隈であれば、あなたのお言葉は法律であり、教典であり、条例であり、判決だったかもしれない。
だが、フィールドが違うのだ。界隈が違うのだ。界隈のローカルルールは通用しないのだ。
なのになぜ、あなたは絵師界隈のルールで戦おうとするのか? 法律の世界に対して、なぜ絵描きとしての実績で殴り込むのか? 私には分からない。
端的に言うと、生成AIを著作権侵害で叩き潰そうとするのであれば、相当抜本的な法改正が必要となる。
その結果、著作権侵害の非親告罪化や絵柄・画風・アイエデアの保護……あるいは類似性と依拠性といった判断基準の見直しが発生する可能性があるのだ。
そうなると、同人誌は権利元以外から著作権侵害として叩かれる可能性がある。(非親告罪化である)
また、類似した絵柄や画風、塗りや作風、ストーリー展開について、先駆者しか書けなくなる可能性がある。(画風やアイデアの保護である)
現在の日本で二次創作がおおっぴらに認められており、堂々と著作権侵害コンテンツで金稼ぎができるのは、現行の著作権法がユルユルであるという特殊な状況の恩恵を受けているからに過ぎないのだ。
その著作権法をAI憎しで締め付けるとなると、回り回って全ての二次創作作家が焼き払われる……など。
……これで理解できれば良いのだが、「愛があれば合法」のムラルールで動いている界隈に響くのか、不安である。
後半戦、限界左翼界隈・反ワクチン界隈との類似については以下の通り見出しだけ書いておくので……。
まあ、こういうことだよね…と思っていただければ幸いである。
『R-1決勝の「デモ活動」ネタが物議に 「完全に無理だった」「テレビ消した」「ブラックジョーク」など賛否両論殺到/デイリースポーツ online』へのコメント
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.daily.co.jp/gossip/2024/03/09/0017414243.shtml
2015年9月、トルコからギリシャに向かう途中で幼いシリア難民の少年が死亡した転覆事故を受け「ヨーロッパがキリスト教の国であることの証明」と題した風刺画を掲載した。
水の上に立つ男性と水面から両足だけが出ている人の絵を「キリスト教徒は水の上を歩く」「イスラム教徒の子供は沈む」と形容している。
2016年1月、ドイツで発生した難民申請者を含む外国人を主体とする集団性暴力事件を受け「アイランちゃんが成長していればどうなっていただろう?」として女性を追いかける男性の風刺画を掲載した。
アイランちゃんとは上記の転覆事故で死亡した難民の少年である。
2016年9月、イタリアで発生した死者298人の震災を受け「イタリア風地震」と題した風刺画を掲載した。
包帯を巻いた血まみれの男性、顔を火傷した女性、瓦礫に挟まれた人々の絵を「トマトソースのペンネ」「ペンネグラタン」「ラザニア」と形容している。
なんかさぁ
みんな当たり前のように使ってるけどよく考えたらハートマークって「心臓」だよな!!
いやラヴっぽい感じで胸が苦しいとかみたいな形容することはあるにせよさぁ
そっから臓器の記号、しかも取り出したばかりのfleshな感じのモノを用いるって考えようによっては振り切れてるよな?
「心」←これも本質的には同じっちゃ同じだけどわりと抽象化できてるというかギリギリ形を意識しないでいい感じにまとまってるやん?
♡だとやっぱよりそのものの形に近いんよ。赤色に塗ったりしてさらに臓器感出るし
昔の人たちが心が胸じゃなくて脳にあるって感じになった世の中だったらみんな「🧠キュン」とかやってそうでそっちもなかなかやな
何かと言うと、10年ほど前にとあるセンセーショナルな事件があった場所を見に行ってきたのだ。女子高生による同級生殺人事件である。今回は、そのレポとそんな悪趣味な聖地巡礼を決行するに至った経緯の2点を、書き手である私の過去の自語りを多大に含めながら書いていこうと思う。事件の現場を特定して見に行ったイチ野次馬の実録として読んでもらえれば幸いである。
はじめに言っておくが、私はこういった事件が起きるたびに容疑者の地元は出身高校は云々……と嗅ぎ回るような野次馬ではない、とだけ表明しておく。しかしこういった行動に出ている以上、完全否定はできないところはあるが。
はじめに、その事件の内容を説明する。2014年に起きた、女子高生による同級生の殺害事件である。当時15歳の加害生徒Aが、同級生であるBさんを自室に連れ込んで絞殺。動機は「体の中を見てみたかった」「人を殺して解体してみたかった」といったものだった。(以下、それぞれ加害生徒=A、被害生徒=Bさんと表記)
事件の具体的な名称・地名については関係者に迷惑をおかけしてはいけないので伏せさせていただいたが、手口が特徴的なため、調べれば聡明な読者諸君においてはすぐピンとくるであろう。
事件の現場となった場所は、事件発生からほどなくしてネット上では特定されていた。私は現場となったマンション名をgoogleマップで検索、自宅からのルートを検索し向かった。
(ちなみに事件現場のマンションは、事故物件掲載サイトの「大島てる」さんにも掲載されている。Aの実家も)自家用車を走らせ、現場に到着した。所要時間は割愛させていただく。
現場は国道に面しており、すぐ近くには駅や大きなアーケード街があった。駅が近い故か、市営のコインパーキングが現場マンションの向かいにあった。車をそちらに止め、徒歩で現場に向かった。
ここで、あらかじめ大事な前提を記載しておく。現場の敷地内には立ち入っていない。
敷 地 内 に は 立 ち 入 っ て い な い
そこまですると流石に不法侵入になってしまうので、面した道路から歩いて観察するだけにとどめた。私もそんなことでお縄になりたくないので、その点はご理解いただきたい。
現着し、まずはマンションの外観を観察してみる。10階建てでおそらくオートロック。今ではどの部屋にも人が住んでいる気配がある。現場となった5階にもまた、どの部屋にもカーテンがはまっていた。10年も経ってしまえば、その近くの人々の生活もすっかり元通りのはずだろう、という考えが自分にはすっぽり抜け落ちていたことに気づかされた。
マンションの裏手には駐車場が2台分ほどある。ただしもしかしたら、隣のビルに入っているクリニックの患者用かもしれない。駐車場付近から見上げると、当然マンションのベランダが頭上にずらっと見える。AはBさんの殺害後、証拠隠滅のためにスマートフォンを5階のベランダから投げ落としたのだという。彼女のスマートフォンが落ちていたのはこの辺りだろうか、と思いをはせる。
駐車場からさらに路地を入ると、住宅が斜面に立ち並んでいた。ここから先は進んでいない。途中で引き返したのは、非常に坂道が急でその後の体力を考慮したためだ。この町の特徴的な地形ではあるが、国道から一本細い路地に入っただけで急峻な坂道になる。西側には海があり、その海岸線近くまで山地が迫ったこの街の地形故だ。
マンションに数秒黙祷し、周辺の探索に移った。国道の向かい側には小さな商業施設があり、昔ながらのブティックを中心に、1フロアだけのイオンやダイソーが入っていた。ブティック中心だからか、店内は年配の女性が多い。日本のどこにでもある、田舎の商業施設の風景に心が安らぐ。商業施設の1Fからはアーケード街に通じており、今どき珍しく賑わいのある商店街が広がっていた。雰囲気で言うなら、福岡市天神の新天町商店街にかなり近い。
商店街は今どきのカフェや居酒屋といった飲食店から、昔ながらの八百屋にかばん屋、チェーン店のドラッグストアにアニメイトまであった。筆者は商店街と言えばシャッター街と化した薄暗い故郷の商店街しか頭になかったためまあまあ驚いた。にぎわうアーケードの喧騒の中で、AもBさんもここで一緒に買い物を楽しんでいたのだろうか。楽しい時間をすごしたのちに、あのような凶行に及んだのだろうか。そんな、彼女と一緒にお出かけを楽しんだ後にお持ち帰りして夜はムフフなことをして、じゃないんだから……と下世話で邪な形容をした。凡人かつ俗物の私にはそういった想像が限界だった。勿論、真相はAにしかわからない。
横断歩道を渡り、マンションのある側に戻る。国道沿いに北西に進むと、5分もせずに県の弁護士事務所が見えた。Aの父は敏腕弁護士だったと聞く。Aの父は、Aの母が亡くなった後まもなくして若い女性と再婚した。それがトリガーになったかは知らないが、2014年3月にAは父の殺人未遂事件を起こしている。Aと一緒には住めないと判断したAの父は、Aの戸籍を外してAの祖母の養子にし、マンションで一人暮らしをさせることに決めたという。この事実だけ見ると父親もAの扱いに手を焼いていたのと同時に、法的には娘を切り捨てた薄情者、という印象を受ける。
しかし、現地を歩いてみると、現場の近くには県の弁護士事務所があり、父の職に大いに関係していたであろう場所がある。2014年当時からあったのかはわからないが、もしかしたら父は、自分の業務で関わることの多い場所の近くに娘を住まわせようと、ひいては見守りたい意思があったのかもしれない。娘のために駅の近くかつオートロック、自分の職場からも近い賃貸物件を見繕って用意してあげていたのかもしれない、と思いをはせる。やはりやるせなさを覚える。
結果としてAの父親は2014年10月に自宅で首を吊っているのが発見され、そちらの実家もそれで「大島てる」さんに掲載されている。Aの父親の行動には怒りを覚えるところも多いが、同時にどうにもできなかったのだろうと痛ましさを覚えた。
ここまで想像を巡らせたのち、私はマンション近辺を後にした。名物のハンバーガーが食べたくなった、ヤニを吸いたくなった。そういったその時湧きあがった欲求が、私を2014年から2024年へと引きずり戻してくれた。
参考程度に記載するが、賃貸サイトによる2024年2月現在の家賃相場は、その市はワンルームで3.72万円。現場となったマンションはワンルームだが4Fの家賃が4.9万円と、その地域では少しお高めな印象は受ける。築年数も浅く何より駅近物件だからだろう。ちなみに、現場となった502号室はどの賃貸サイトにおいても今は入居者募集されていなかった。
では、なぜそのような不謹慎な聖地巡礼を決行したのか? その理由は、「私がこれまでの人生で1番執着した事件だったから」にほかならない。少し回りくどいが、私自身について、この増田の匿名性を損なわない程度にお話しする。
筆者である私は、Aと同年齢である。そして2014年に何をしていたかというと、やはり高校1年生をしていた。私とAの経歴には非常に共通点が多い。もっとも、Aの方が実家は太く彼女自身の才能も豊かなのは間違いないのだが、その内面には非常に共感できるところが多かった。Aも私も、住んでいる県も学校もまるで違うのだが、だいたい同じくらいの偏差値帯の公立中高一貫校に中学受験で入っている。抜けきらない中二病で一人称は女なのに「ボク」だったし、Aのようなかなり短いショートヘアをしていた。高1の途中から不登校児になったのまで同じだった。(一つだけ自慢。今でこそ私はうだつの上がらない無職だが、高1当時は県内模試で2ケタの順位につけるくらいには学力もあった。)
問題はここからである。高1当時の私は、少年事件について調べるのが大好きで、それをモチーフにして同級生を殺しまくるお話をケータイ小説で執筆・投稿していた。今思うと二重に恥ずかしい子どもである。
事件発生当時まず何を私が考えたか。「A、私の書いたの読んだの?」である。今考えると普通にそんなのはあり得ない確率であるし、ほぼ妄想の域だった。しかしそれくらい手口が酷似していた。後ろ暗い喜びと同時に、思考回路が同じという点でかなり精神的に追い詰められた。二律背反で感情が板挟みになっていた。学校に行っても、やはり同じ高校1年生が起こした事件ということでクラスでの関心も高く、「キ〇ガイだよね~(笑)」とクラスメイトが笑っているところも見かけた。今でも思い出して動悸がする瞬間である。
そしてそのケータイ小説の掲載に関しては、投稿を削除した。そのうえで、もう創作はしないと筆を折った。
そしてその後、連日ニュースがそれを報じてどんどん事件の全容が見えてきた頃には、私はネットでAの情報を漁りまくっていた。私はもともといじめられっ子で、当時はいじめっ子たちのピグやTwitterを特定して、特にアカウントは作らず毎日のように静観するという人聞きの悪い趣味を持っていたから、そういうのが大好きではあった。また、AにはASD(自閉スペクトラム症)があり、その点も考慮して医療少年院送致がふさわしいとの判決が出た2015年頃、実は私もASDの診断を受けていた。偶然にしてはあまりにも近すぎると、一方的にシンパシーを感じていた。
そしてそのうちに、Aに対してどんどん惹かれていったのだ。Aのような人の内面の深淵をのぞき込みたい、という気持ちになり、進路希望調査では心理学部のある大学を書くようになった。その後、急速にメンタルの調子を崩して精神科医療にかかったり、卒業も危ぶまれるくらいには学校に行かなかったりしたが、どうにか高校は卒業した。
犯罪心理学をやりたいです!と意気揚々と心理学部のある大学に入り、臨床心理学系の大学院にまで進み、少年司法の分野に行きたいと思い公務員試験を受け、児童相談所に勤務した。今振り返ると、「心理学がやりたい!」の起点はさかのぼればすべてAへの関心に行きつくと思う。我ながらどうかしている。
そして現在、2024年2月。児相勤務は上司や先輩からの陰湿ないやがらせに遭い、私はひっそりと公務員を退職した。今は退職してから3か月が経つ。公務員時代の蓄えでギリギリなんとか食えているが、正直来月以降の生活は先が知れない。なんでこの分野に焦がれ続けて10年間走ってきたのか? その疑問を問い詰めた時、この事件の存在が頭をよぎった。2024年のあの現場を、Aが生きていた町の2024年を見れば、私のこの思いを終わらせられると思った。以上が、私がこんな不謹慎な聖地巡礼をもくろみ、決行した理由である。
ちなみにわたしは結局、大人になってから二次創作という形で再び筆を執るようになった。どれだけ思考回路が狂気の側に近く、そのリビドーを表出させたいと願ったとしても、創作という法に触れない表現方法を選ぶことができた。私はその点で非常に適応的でポジティブな強みを持つことができたのだと、今は肯定出来ている。
話を本筋に戻すと、私はこの旅で、ようやくAへの執着に諦めがついたように思う。私は間違っていたかもしれないとはいえ、10年間走り続けてきた。そしてきっと、AはAで、医療少年院かあるいはどこかで、償いとAの人生を生きているのだろうと思い至った。やっと私は2024年の自分を生きていけるようになったと思えた。不謹慎だろうが、ようやく私はこれで前を、未来の方を向いて歩いていけそうな気がしたのだ。
最後に、被害者の方のご冥福をお祈りすると同時に、Aの更生と治療がうまくいっていることを祈る次第である。
ちなみにこの後、普通に私はその街の名所を一通り回り、観光して帰宅した。軍港の町なので、港に停泊している米軍の大きな船を眺め、海上自衛隊の博物館を見学してきた。他にも、ネイルチップが取れて応急処置にシールを買うためダイソーに入ったら、パンキッシュな服装のマダムと談笑したり。名物のバーガーを食べていたらバラエティ番組のロケの一団が店に入ってきてびっくりしたり。〇本雅美に似ていたが、声が違ったのでおそらくローカルタレントかなにかだろう。
ジャニーズJr.っていうのはテレビに出てるジャニーズの後ろでペラペラな割に色やスパンコールやフリンジのきついジャケットと黒いタンクトップを着て踊ってたりするアレで、今まで全くそういうのに興味がなかったのに大学生になってからはじめて本格的に好きになった。山Pはずっと好きだったけど毎月毎月見たいっていう欲求はなかった。テレビでよかった。今はテレビでよくないので、これは異変なんだと思う。
いろいろあって、そのジャニーズJr.にはまってから1年間で100万円使った。これはチケット代だけの金額で、遠くの会場でのコンサートにも行ったから交通費もたくさんかかったしいろいろなプレゼントも渡したけどその費用は別。計算が面倒なのでしません。
100万円という金額が多いのか少ないのかはわからない。都内実家在住、親からはジャニーズのために1円も出してもらってないのでそこそこ頑張ってる方だとは思う。上を見ればいくらでも上はいるし、若手のジャニーズでも舞台の最前列はヤフオクで15万円くらいで転売されてると聞く。そういう良い席を買い集めるために風俗をやっている人もいるし、突き詰めていけばキリがない。
(ちなみにこの記事、ジャニヲタの金銭面のサンプルとしてとても参考になると思いますので興味のある方は是非。 http://jma.hateblo.jp/entry/2013/08/26/120132 )
ジャニーズJr.はすぐ認知してくれる。もちろんひとりひとりにタイプの違いはあるから一概には言えない、全くファンの顔を覚えないし手を振ったりもしないことで有名なJr.もいればその逆もいる。でも恐らくテレビに出てるアイドルよりは遥かに難易度が低いと思う。
匿名ダイアリーに書くのに隠す意味がないから書くけど、帝国劇場や日生劇場やNHKホールには「列」といわれて出待ち文化が未だに根強く残っている。待っている間はあまりしゃべってはいけない(という空気だ)しスマホもいじってはいけない、若い女の子がひとことも発さず有楽町の地下にずらっと列を作っている光景は宗教っぽいなと毎度思う。全然関係ない一般人が「ここで待たないでください」とか怒鳴られてるのを見ると可哀想だなと思う。
出待ち文化はジャニーズ事務所半公認で、ファミリークラブという「ヲタク統括組織」的なものの下っ端がその出待ち少女の大名行列を整理している。未だに存在している事実をジャニヲタはなぜか必死に隠したがって「れ◯」とか「並んでくる」と婉曲的な表現に終始するけど、バカっぽいからやめたほうが良い。
そういう意外とローカルな「アイドルとファンの繋がり」が未だに残っている。自分でも出待ちは80'sアイドルの代名詞だと思っていた。その反面いまは誰でもスマートフォンを持っているからSNS文化に則した発展もなされている。
ジャニヲタのあいだで伝言ゲーム的に広げられていくアングラ匿名掲示板が存在する。海外の無料サーバーに何者かが設置していて、パスワードがついている。パスワードも伝言ゲーム的に広がっていく。
「ヲタ糧」とか「列糧」とかある。ヲタ糧は「ヲタクの話をする糧(=カテゴリの略)」でひたすらジャニヲタが特定個人を誹謗中傷してる。例えば「松本潤担」(担=担当。「推し」と同義)っていうスレッドがあると「今日どこどこの席にいた松本担のツイッターわかる?」とかそういう書き込みが延々なされている。裾野の広い相互監視社会って感じである。「列糧」は出待ちに関する話を延々としてる。今日は◯◯くんの機嫌よかったね、とか。
つまりファミレスとかですればいい女子特有の噂話をジャニヲタはみんな顔を合わせずにアングラ匿名掲示板で行っている。特定個人の誹謗中傷をする掲示板があるという事実だけでも冷静に考えてみるとヤバすぎるし、容易に一般人が首を突っ込んでいいかというと恐らくよくない範囲の話になってしまう。
そして一般的な認知に至るまでのプロセスとしては、出待ちに通ったり、毎月あるジャニーズJr.歌番組の収録に行ったり、舞台に行ったりコンサートに行ったりして認知されていく。
最初は自分にとってそのジャニーズは神にも等しい存在で、多少遠くてもその姿を確認できて踊っているところが見られるだけで「美しい」という感想を抱きながら家に帰れたし、たまに良い席に入ってそのジャニーズが近くに来ようものならもう狂喜乱舞といった感じで、はじめの頃は泣きながら駅のホームで電車を待ったりしていた。うちわに「◯◯くんダブルピースして」とかの文字を書いてダブルピースされようものなら途端にすべての悲しみや苦しみがスッと失くなって足元がふわふわと浮かぶような気分になった。
「リア恋」という言葉がある。リアルに恋してる、の略で恐らく「ガチ恋」等の単語と同義。アイドルを本気で好きになってしまう現象、その状態、そうなっている人のことを指すけれどまさにその単語に当てはまると思う。恋で頭が混乱して、「好きなジャニーズが近くに来る座席を狙ってヤフオクで落札する」という行為がどうしても辞められなくなってしまいものすごく働くことになった。ものすごく働くと疲れるけれど、アイドルのことを考えると全然つらくはない。肉体的な疲労はあるけれど精神的なものはすべてアイドルが癒してくれるので、肉体は横たえておけば良い。
最初から認知されようと思って追いかけていたわけではなくて、「とにかく好きすぎて見に行かないと耐えられない」という衝動から追いかけ始めた。自分は「副産物としての認知」タイプだと思うけれど、もちろん最初から「アイドルに認知されたい」という承認の欲求ありきで追いかける人もいるだろう。それもひとつの形だし、原動力がなんにしろ、どんなにやましいものにしろお金を落とすなら別に良いんじゃないかなと思う。
1年近く「◯◯くんを近くで見たい」以外の感情が無かった。「◯◯くんダブルピースして」の少し特殊なバージョンを長くやり続けていたら、見せなくてもやってくれるようになってそのときに「あ、覚えられてるんだ」と思った。はっきり言ってあまり人気がない方のジャニーズで、同じジャニーズのファンで現場に通っている人はあまりいない。いても毎回、執着的に良い席ばかりでは来ていない。
あっという間にそのファンコミュニティで有名になってしまい、最近では自分が知らない人にも知られているようになった。
近ごろ、なんとなく落ち着き始めた。
毎回、自分が視界に入ると彼は「いつもの」合図をしてくれるし、目も意識的に合わせてくれるようになった。手紙も返事が来て、出待ちにいることも把握されている。(冗談だと思われても良いし、イタい妄想だと思われても良いように匿名で書いてる)
最初そのアイドルを好きになった時の自分は「見たい」という原動力で追いかけていたのに、最近では「見られたい」「いることをわかってほしい」ことがメインになっているように思えてはっとした。副産物が主な目的になってしまっている、という自覚を持って恐くなった。
この前、わざと後ろの方の席をツイッターで譲ってもらって舞台を見た。「わたしは見ているのに、彼からは絶対に見られない」という状況が好きになった最初の頃を思い出させて、ぼんやりと認知ってなんなんだろうと考えた。
本質的に自分がお客様、お金を出しているから優位に立っている。アイドルファンには選択の自由がある。Aが気に入らなかったらBに担降り、ないしは推し変すればよい。でも向こう側に「自分の客」として認識されてしまうとその自由は奪われる。一対一で接客してくれるセレクトショップで「やっぱり良いです」と言いづらいのと同じ心理状況。
もちろん、そんなの気にしなければ良い、と言う一般人はものすごくたくさんいると思うけれど、どんな人でも文字のついたうちわを持って横浜アリーナのセンターに座って景色を見てみればきっと少しは理解してくれる、とまだ私は信じている。
「認知の重圧」というフレーズが気に入っていて最近よく使っている。自意識過剰と言われるかもしれないし、「バカっぽい」と自分を形容することも多いけれど、"俺のファンでいて"、"応援していて"というメッセージを受け取って、そして自分よりも熱烈に強烈に応援しているファンがいない状況を目の当たりにすると、彼の応援を放棄して他のことに眼を向けることができない。
わざと後ろの方の席で見たのは舞台期間の10日目だった。数回目の舞台で、はじめてどういう舞台なのか、どういうストーリーなのか、誰が出ているのかを把握できた。
彼の視界にいるとどうしても彼以外に目線を向けることが憚られる。アイドルは自分たちが思っている以上に目線を気にしている。彼しか見ていないので一切舞台の内容が理解できていなかったし、彼しか見ていないと彼以外のことがどうでもいいから全体像を把握する気にもならない事実を改めて認識して本末転倒さを感じた。
「認知されている」優越感はものすごい。何も持っていなくてもピンポイントで手を振ってもらえること、ある程度遠くの席でも見つけてもらえること、周りのファンから羨望の目で見られること。
でもそれは絶対的な優越感じゃなくて周りのファンとの力関係を前提にした相対的な優越感だから、毎日毎晩不安に苛まれている。わりと本気である日ものすごいマダムが彼のファンになったらどうしようと思っているし、そもそもある日彼にぷいっと気を損ねられて嫌われてしまったら何を生き甲斐にしたら良いのかわからない。
それでも根底にあるのは「好き」という気持ちだから、悩んだりしつつ明日も私はバイトに行くし休憩時間には執拗にチケット流通センターをチェックすると思う。
はっきり言って何も残らない。思い出が消えたら半券しか残らない。でもけっこう本気で、死ぬ間際の走馬灯に横浜アリーナが映ったら良いなと思ってる。
劇的に寒い。
冬の便座は温かいに越したことはない。その方がいいに決まっている。
学業や仕事から離脱し、わざわざ氷のように冷たい物体に尻をべったりと押し当てに行くなど意味が分からない。
拷問と何が違うというのだろう。
まあ、こんなに不平不満をもらしている手前、私の職場の便座が温かいわけがない。
拷問と何が違うというのだろう。
なぜわざわざ「スピリチュアルな」と形容しなければならないバイト先にいるかといえば、理由はいろいろある。
遡れば十年近く前、大学卒業直前に父が突然亡くなり、それがトリガーで鬱になったとか……それが原因で何年も正規雇用でまともに働けていないとか……父が亡くなってから母の認知症が進み、家族のことを全員忘れてしまったとか……そういうあれこれで私の鬱も何年経ってもなかなか寛解せず……
まあ、人生いろいろある。
いろいろあって私は「スピリチュアルな」「バイト」をしている。
この増田のトピックとしてはさほど重要な話ではないので、詳細は省く。「スピリチュアルな」「バイト」にわざわざ就く経緯の説明としては、こんなもんでいいだろう。
バイト先はスピリチュアルグッズや、怪しいけど合法の、薬っぽいものなどを通信販売している会社だ。
あんなもん、どこの会社の、どんな奴が売ってんだよ、と皆さんも人生でちょっとは思ったこと、ありませんか?
私もそう思っていました。私のような人間が経営の一端を担っています。スピリチュアル業界の未来が心配。
ここまで読んでいただけたなら大抵の人が理解していることと思うが、私はスピリチュアルグッズも、怪しいけど合法の薬っぽいものもまあ小馬鹿にしている。
なぜ大して好きでもない商品を販売する職場で働けているのか。理由は二点ある。
一点目は、給料が良いのだ。
ちょっとExcelとWordが使えて、ちょっと正しい日本語が扱えるというだけで、随分と歓迎されている。私のような経歴ではなかなか巡り合えない、好待遇のアルバイトだと思う。
二点目は、働いている人の善さだ。
ここで言う「人の善さ」とは、スピリチュアルらしく開運オーラを持つ人だとか、いつも笑顔で縁を引き寄せる人だとか、そんな話ではない。
うちの会社に限った話かもしれないが、スピリチュアルグッズを取り扱っている会社にしては社長も社員も、全くスピリチュアルに傾倒していない。
ここからは憶測と、ちょっとした悪口になるが(ここまでも大概だが)、おそらく販売する側が正気でいないと、正気じゃない人間にまともに売り込めないのだと思う。
正気じゃない商品を正気じゃない人に親切に売りつけるには、正気でいなければならない。
ビジネスの考え方ってこうじゃないとな、とも改めて思える。
少々話が逸れたが、本題に入る。
スピリチュアルなバイト先は給料も良く、人も善いというのに、トイレの便座が冷たい。
わざわざ温かいオフィスを離れ、冷たい便座に尻を押し当てに行きたくない。何度も冷たい便座に座りたくない。
おかげで乏尿になってしまった。乾燥していてよく水分は摂る癖に……膀胱炎になったらとんだお笑い種だ。
スピリチュアルに携わっているくせに乏尿だの膀胱炎だの、代謝が悪そうな人間になってるの、可笑しくないですか?そうでもないか。
だが、最近冷たい便座に座る回数が減った。シフトを減らされたのだ。
薄々予想はしていた。三人いたバイトのうち一人が解雇され、もう一人は週三、週二、週一と見かける回数が日に日に減っていき、ある日とうとういなくなった。
しかし、私はシフトを減らされるのみで、なぜか解雇されなかった。おまけに会社はバイトを二人解雇したと同時に、正社員を数名雇っていた。
そうして念願叶って冷たい便座に座る回数が減り、また、それに応じて給料も減ることになった。
後者は全くもって望んでいなかった。本当に。
給料が減れば必然的に精神は不安定になる。鬱の非正規雇用者というのは、そういう生き物だ。
でも、鬱だろうがなんだろうが、人間は案外しぶとい。私は運命と精神疾患者に厳しい世間に抗うため、副業を探すことにした。
今のバイト先と兼業できて、同業じゃない、スピリチュアルとは無関係の、いいバイト先を……
と思いながら面接を受け続け、なぜか今よりも胡散臭い気配が漂う会社で副業をすることが確定した。
なんでだよ。普通、なんかこう、こういうときは起死回生の展開があるはずだろ……
でも、私は「起死回生の展開」なぞ存在しないことを知っている。なぜなら、私の人生だからだ。私の人生に、そんな展開は都合よく訪れない。
会社のドアもまあボロく、「チェンソーマンに出てくるボロいドアに似てるな、貼り紙はないけど」というのが会社の第一印象だった。
だが、そんな印象に反して面接をしてくれた社長は優しく気さくで、なかなか楽しい気分で面接ができた。オフィスワーク経験も活かせそうだったので、内定の連絡には二つ返事で承諾した。
オフィスのドアに貼り紙はなかった。だが、面接のとき見えなかったオフィスの壁には、大量の紙が貼ってあった。
壁の紙にはおそらく慶弔用と思われる筆ペンで
「論理的思考で世界を回す!」「社会人として自立を意識」「ポジティブシンキングが良い結果を生む!」
などと書いてあった。もっと書いてあったが、全く覚える気がないので、これ以上思い出せない。
「社会の嘘」が書いてあるな、と思った。
スピ会社でも思ったが、この会社でも「ここで聞いたことはすべて信じないことにしよう」と思った。
だが、待遇が良く、人が善いのはスピ会社と同じだ。オフィスワーク経験も活かせている。
いいんだ、これで……
温かい……
そう、温かかったのだ。便座が、温かい!
待遇が良く、人が善く、どうしようもなく胡散臭く、オフィスに出勤する度に、名札が渾名で書いてあるタイプの居酒屋に来た気分になるけど、というかこの会社、トイレにすら「社会の嘘」の紙が貼ってあるけど、そんなことはどうでもいい。
便座が、温かいのだ!
私は心底感動した。
便座が冷たいスピリチュアルなバイト先と、便座が温かいキショい居酒屋みたいなバイト先。
どっちも別に好きではない。正直目くそ鼻くそだが、真冬に便座が温かいことは、とんでもないアドバンテージだ!
今の時期だけはお前を愛することにする!
夏になったらどうなるか知らんが!しばらくよろしくな!