はてなキーワード: ニヒリズムとは
ふるさと納税ってそんなに悪政か?
自治体の労働力を無駄遣いしてると言われるけど、そもそも地方税の収支バランスを取ることはもとから無駄な労力だったわけじゃん。
今はそれを弱肉強食かすることで死んだ地方の自己責任論のもと強者目線では効率化されていってると思う。
中央に手間だけ押し付けて自分たちはピーピー悲鳴を上げているだけで済まそうとする受け身体質の自治体の多くが自立心に目覚めてる。
そもそも地方創生の本質は地方に「自分たちが頑張ることしか道はない」という自立心を促すことであり、へその緒から全栄養を貰えばいいという甘えさえ産んでいた今までの地方財政制度はそれを阻害してたんだよね。
それはまるでパート賃金の見えない上限のごとく「下手に頑張るだけ損じゃね?」という閉塞感を産んでいた。
でも今は頑張れば頑張るだけ結果が出る理想的な競争社会が地方財政に開かれている。
一見強みのない自治体であっても様々な創意工夫に寄ってふるさと納税で優位に立つことが可能。
「弱いままでもいいんだよ」という態度は一見優しい用に見えて実際は相手をいつまでも弱者として縛り付ける見限りでしかなかった。
強くなることを義務付ける野生の価値観に戻ったことで地方は再び活力を取り戻していってる。
そういう見方は出来ないのかね?
ニヒリズムを拗らせてるのかもね
生産性ない仕事を駆逐するのを実現するためにAI技術は有用だろう
構造を抜本的に改革して権威がある奴を引きずり下ろすのは容易じゃないが、AIが実用段階に入ればその間にしょうもない仕事していた中抜きの無能がAiでもできる仕事だということが白日の下にさらされて引きずりおろせるかもしれない
でも技術が生まれたら人間みんなそれにこぞって群がるという「歴史」があるじゃん?
歴史から学んでできることなんて人間の愚かさを知ることくらいで、人間の愚かさそれ自体は変わりようがない
歴史を単にで「知ってる」だけじゃそこから何か役立つ発想を抽出できないし、ちゃんと自分の身で豊富な経験をしていろんな人のことを知って現実性のある判断ができることが大事だよ
現状に不満を持っていてもそれに逆行して原始共産制に戻ることなんてできないなんてわかりきってるはず
そして学者が啓蒙なんて幾らし続けてもきりがないしほとんどの人間は自分で経験を積んでいって自然と気づくしかない
どんなに崇高な理念に共感できてもニヒリズムへ、快楽主義へ、権威主義へ、商業主義へ簡単に堕落してしまえるのが人間というもの
正直宮﨑駿というアニメーターのお遊び以前に、今まで日本国内に刺激を与えた数々のジブリ産アニメ映画そのものが見たかった。
宮崎駿のアニメは日本に限らず、世界中ほとんどの人は一度も鑑賞もしくジブリというスタジオの名を聞いたことがある。
この時代の人間が持っている心象風景、時代精神は宮崎駿を語らずにいられない。現代のロックソングは、ビートルズという背景があるから発展して来たのと同じだ。
というか、宮崎駿作るのがアニメだけではなく、幼少期の「見る」冒険である。幼い頃に、みんなはもものけの壮大な自然に神秘を感じ、千と千尋のトンネルから冒険心を育つ。ラピュタで男女の純愛に目覚め、トトロで友愛を知った。
ジブリの映画が存在しているだけで、確実に世界はある程度優しさが増えた。
ところが、君生きはなんだろうか?
君たちはどう生きるかという思想の強いタイトルを挙げながら、ただただ今までの作品の二番煎じのように、主人公は自由意志がなく、ひたすら母を求める。その母への愛情ははっきり言って共感しにくい、特に若い世代に関しては、エディプスコンプレックス的な描写あるいは哲学思想は、陳腐以外他ならない。
宮﨑駿の独りよがり、彼だけにしかわからないエディプスコンプレックス、徹底的なエゴイズムだったことは明白であり、宮﨑駿という人間へさほど関心を持たない人々にとっては、どうでもいい話。どうでもいい映画なのだ。
それでもこの映画を深いとか、教養が要るとかと漠然と代弁してくれるものがいるが、こいつらは夢から目覚めたくない人たちである。
この作品は深淵であり、洞察しようと近いたら何もない闇に堕ちてしまう。宮﨑駿が長年に渡り、隠して来たニヒリズムそのものの固まり。
エヴァの卒業式みたいなスッキリした気分にはなれず、捨てきれずに残った元カノのメモリアル的な存在だった。風立ちぬで終止符を打ってくれるとダンディではあるが、君生きで〆るのが、無敵の人の無差別テロかストーカーの未練ダラダラみたいで気持ち悪い。
一昨日映画見に行ったのに、未だにこの不快さが取り除けない、あと褒める人がいることを見てさらに陰鬱な気分になってしまう。
とりあえず最後の最後に無差別テロをやってしまう宮﨑駿は、所詮人間だった。
追伸
人はすべからく熱意を持って賃金労働に励むべし。自己実現は賃金労働ないし結婚によってのみなされるべきである。
その土俵に立とうとしないのは逃げであり、くだらないプライドであり、特別な人間などではないのに理由をつけて逃げようとする奴は自意識過剰のゴミだ。
そんな反抗期はさっさと卒業し、社会にコミットする努力をすべきなのだ。
こういう社会教の信者になるのが、弱い人間にとっては結局一番ラクだし幸せになれる可能性が高いんだろうなって思う。
もちろん社会教の教義としてではなく、趣味というか純粋に好きなモノ、心からそれに価値を感じるモノとして労働や結婚を愛する人もいるのかもしれんけど。
妥協して「好き」を「出来る」に合わせて矯正する事だってあるだろうしね。それがいつしか本物の好きになる事だってあるのでしょう。私はそういうの嫌だけど。
近代以降の大前提としてニヒリズムがある。これは冷笑でも何でもなく、あらゆる規範を論理的に、誠実に紐解いていけば当然ここへと行き着く。
その足元もおぼつかない出発点から、人生を通じて何を選び取っていくかは各々の判断。これこそが現代に生きる我々にとって最大の内的な課題。
そんな出口のない抽象的な事を考えるのは拗らせた中二病のする事だと蓋をするのも良いし、そもそも疑問や関心を持たない、というのも一つの回答。
別に働きたくもないが、自分のしたい生活を成り立たせるには働かなければならない。
といったように何かしらの信仰を持っていれば「でもやらなきゃ」となる。
しかし、信仰がなければ「やらなくていいのでは?」と思い至る。
面倒な事をしてまで生きる動機がない。
そこまでして生きたいか?生きたくないな。死の。
と思ってこの間首を吊ってみた。
これが宗教を持たない恐ろしさだ。
まあ結果としては縄代わりに使った延長コードが切れて失敗に終わり、ただただ苦しいだけだった。
これをもう一度チャレンジするのも嫌だなと思い、もう少し生きてみようと決めた。
痛みは怠惰に勝つ。
私は関心のない事について恐ろしく怠惰なので、存在しない志望動機やウケの良さそうな「学生時代に力を入れたこと」をこさえるにも全く腰が上がらない。
このまま働かず生活保護でも受けてみようかと思うが、それも中途半端に内面化された社会教が邪魔をしてくる。
そこで、死にかけていた趣味教への信仰に賭けてみた。好きだった映画を観て、好きな音楽を聴き、久々にベースをいじってみた。
やっぱりここには少しくらい生き甲斐があるかもしれない。
どうにかやりたくもない賃金労働の職を得て、ズルズルと生きてしまった。
趣味教はなんとなく自分に誠実に生きている気分になれるから好きなのだけだ、なにぶん個人の気の持ちように依存する宗教だから、ある時ふっと信仰心が薄れてしまう事がある。
Twtitterで一部の漫画家やイラストレーターとそのファンネルがやってるあれ。
あれがやってるのは産業機械導入に反対してる手工業労働者みたいな感じで
最高にうまく反対運動して数年は押し留めたってどうもなりゃしない。
更に破格に上手く行って日本が反AI国家になっても他の国がやるだけ。
仮にAIが今のままでも活用法はどんどん進歩していくから引き出せるポテンシャルは日進月歩だし
実際にはAI自体がどんどん学習して人間には追い付けない速度で成長してしまう。
「チェスと違って将棋は複雑だからソフトが人間に勝てる日は来ない」なんて言われてた。
もう流れが読めるだろ。かろうじて人間と競ってるように見えるのすら今だけだよ。
AIは今まで見たことのない斬新な画像を生み出している(ゲち華道など)。
AIで100日チャレンジしてるアカウントが嘲笑されてるけどあのアスカのイラストも明らかに魅力的で
実際にアンチの声も注目度に代えて新作イラストが9万いいねとか叩き出してる。
あれに誰が勝てる?
そして漫画家もイラストレーターも第一線の人気作家は反AIに加わっていない。
熱心に反対運動してるのは本業パッとしないロートルや歳食ったアマチュア・ワナビーばっかりだ。
(日頃から思ったように評価されない不満と被害感情がAIに向けて噴き出していると見る)
人気で圧倒して世論を引き倒すという勝ち筋も期待できない。
AIにガンガン手を出してるのはファーストペンギン気質と銭ゲバだ。
こういう連中は知能かバイタリティの少なくともどっちかは異様に高い。
技術でどんどん突っ走ったりさっさとマネタイズスキームを組んだりできてしまう。
この手の人間と「古いやり方を守らせてほしい」というタイプの人間とで戦争したら前者が絶対に勝つ。
はっきり言って知能自体も違う気がするが、
なにより「軽薄さ」と「スピード」という戦争に重要な要素で全然能力が違う。
加速的に技術を蓄え金になるスキームを作り利益を分けて味方を増やせる側と
反対反対言ってるだけで発展もスキームもない分ける金もない側と
戦争でどっちが勝つかなんてわかりきってる。
AI側は晒されたり叩かれたりするのも受け入れて常に注目されて表示回数といいねを増やし続けてる。
反AI側は全賛同してくれないリプはどんどん感情的にブロックして表示回数を細らせ続けてる。
長年フォローしてるそんなに売れない漫画家さんが反AIになり、
正直負け戦だと思えたけどせめて善戦して何かの”戦った意義”を残してほしくて
「運動や世論戦で反対意見ブロックしてると絶対勝てないっす!」のようなことを送ってみた。
ブロックされた。
オレは論理的で合理的だから「お気持ち」なんかに振り回されないぜ。
じゃあ当然ニヒリストなんですよね?って思う。
不快を避け快楽を得るための経済的に充実した生活を求めて金稼ぎのスキルを磨くだなんて、そんな「お気持ち」ベースの無駄な事はしませんよね?って。
死ぬ理由もないけど、生きる理由もないですよね?そこからどうやって「お気持ち」抜きで合理的な生き方をするんですか?
意味を問うのを止め、欲の炎を吹き消して悟りでも開いたら確かに合理的と言えなくもないかもしれない。
でもそんなんしてないっしょ。
社会に資本主義経済という舞台があるのは事実だけど、そこにコミットすべきだというのは規範の話。
「である」からといって一義的に「そうあるべき」という話にはならない。
社会を維持するのは大人の義務?なんで維持しなきゃならんの?「論理」だけで正当化するのは難しい。
個々の生存と幸福追求の場を守るため?なんで幸福なんか追求すんの?
生物は生存して種の保存をしていくものだから?優秀な子孫を残すべき?
確かに今までそうしてきたけど、これからもそうしていく「べき」という意見の正当性はどこから湧いた?
規範が無からポップする事はないし、理詰めで言えば存在しないものをあると言い張るなら、それは「論理的」な人が大嫌いな宗教ですよねって。
全ての規範の土台は快不快であって、土台が無ければ論理を積み上げていく事は出来ない。
論理的「だけ」で言ったら人間なんかいてもいなくてもどっちだっていいんで。
殴ったって盗んだって殺したって、不快が蔓延するという点を除けば何の問題もない。
ニヒリズムというと脊髄反射で厨二かよと思う人もいるけれど、自然科学が台頭して宗教が相対化されて以来、誰だって最低限心にニヒリズムの影くらいはあると思う。
自覚的であれ無自覚であれニヒリズムを土台(?)にして、そこから刹那主義や実存主義や消極的ニヒリズム、あるいは宗教(人権思想や生命の尊厳だって立派で有益な宗教ですよね)への回帰なんかを選び取ってる。
「お気持ち」に従ってね。
私は大い感情論者だし、生きるとは自分の納得を追い求める事だと信じて疑わない。
そのための近道をする道具として論理を使う事はあっても、どこまでいってもそれは道具で感情に先んじるものではないと思う。
人は理屈でカレーを好きになるのではなくまず先に好き嫌いがあって、そこから遡及的に論理的な分析が始まる。
カレーとはかくある理由で美味しく、あなたが嫌いなのはそれを理解していないからだ。
「本物」を食べれば分かる、とか山岡士郎みてーな事言う奴がホラ食え、ウマいだろ?と強要したらどれほどグロテスクか。
結局は感情論だよね、という話に対する極端な反論として「感情論がイイなら人殺しをしたいって感情もオマエは受け入れるんだよな?」
みたいな話はありがちだけど、それもまた論理や規範、道徳と言うよりは快不快の均衡の話だよねって思う。
殺したいと殺されたくないは等しく無意味で対等なので、まあ多数決的に殺されたくないが優先される。
大抵の人は殺したいより殺されたくないに天秤が傾くんで。
まあ私は別に殺したくても、実行したっていいと思うけどね。突っぱねられて終わりなんで。
その考えは尊重するけど、そこから出力された刃が自分に向けられたら当然抵抗する。
他者の考えを尊重する事と、それが自分の領域に入ってきた時に突っぱねる事は全く矛盾しないんで。対等であるが故の衝突。
アフリカで何万人が死んでますって情報を聞いてもほーんとしか思わんけど、目の前で人が死ぬ所みたら素朴にイヤな気持ちにはなるだろうと思う。
そこには単純な損得勘定で片付けられない道徳や規範について何かのヒントがあるかもしれないけど、何であれ突き詰めれば快不快の問題に収束する。
自然科学的な事実でなく規範を論じるなら、快不快からは逃れられない。
イヤ利他的な行いをする人間だっているだろ、人間快不快だけで動いてない、という反論もあるかもしれない。
主体的に他者へ奉仕するにしたって、その行いが自身の中で快楽を生む、あるいは少しのコストを払ってより大きな快楽を得られるからそうしてるんじゃないって思う。
それは別に偽善でもなんでもないけど、自身の快楽を求めるために働きかける先が自分が他人かの違いでしかないんじゃない。
規範について、例えば今は結果の平等より機会の平等の方が強めに支持されてる。
じゃあその機会の平等の実践として、等しく分け与えるべきか?持たざるものにより多くを再分配すべきか?
後者は甘え、世の中弱肉強食「であるべき」なんだから努力で補え、なんてのはネトウヨにありがちな言い草だと思う。
さりとて前者が「正答」だと決めたらその時点で宗教になってしまう。
元より答えなんてないんだから「合理的に考えて」、なんてカッコつけない方が良いと思う。
私はこっちだと思います、こうこうこういう論理的な理由もありますが、根っこの部分の判断としては私の心がそう囁くからです。
って言った方が誠実だと思う。
論理的に正答が導かれるのなら、道程は違えどちゃんと学べば全員が同じ結論に辿り着くはず。
でもそうはならないはず。
こういう話をすると文章読めない人が素朴な相対主義だ!拗らせ冷笑野郎だ!死ね!ってお門違いな説教をされるんですけど。
私自身はこの話を通じて所詮は「お気持ち」だよねとは言うが、それがダメだなんて一言も言ってない。
むしろそれに自覚的である事が誠実なんじゃない?的な放言をしてるんで。悪しからず。
全ての意見はポジショントークで、そのそれぞれが対等で、だからこそ対立が生まれる。
って考えてるけど、根底にはニヒリズムがあるんだろうなって思う。
皆さんの大嫌いな「お気持ち」を排して、大好きな理屈や客観性「だけ」で考えていったら、当然ニヒリズムに辿り着く。辿り着かないのならどっかで事実と規範を混同してる。
どんなべき論も、「それはなぜ?」を10回ほども繰り返せば理屈では言葉に詰まってしまう。理詰めでタマネギの皮を剥いでいったら何も残らなくて、「それがいいと思うから」という素朴な感性に依拠した価値判断が露わになる。
ただどんな意見もオッケーですよだとカオス状態なので、どこかで線を引かなければいけない。そこで、理屈ではないけれどまあ大多数の人が素朴に共感するであろう、個人の領域を尊重しましょうねという人権思想的な宗教が一応公理とされている。前近代は宗教という便利かつ絶対的な真理があったけれど、今やそれはない。便利過ぎて回帰したりもしているけれど。
個人主義という土台をスタート地点にして、そこから社会をやっていきましょうや、という事になってるものと捉えてる。私は。
でもニヒリズムとか言うと条件反射的に厨二病の冷笑野郎だ!死ね!って言う人がいるんだよなあ。
まあ確かに全てに価値が無い!総体的に辛いだけの人生なんて苦行だあ泣みたいな人もいるのかもしれんけど。
だからといって自殺とかする覚悟も無いし、じゃあ別に理屈なんか求めず内から発する納得に依拠して生きればええやん、というニヒリズムもある訳で。ニーチェもそういう事を言っていた訳で。
無意味でええやん。そこに意味なんか求めちゃいけない、なんて思える超メンタルの人間もいるのかもしれない。ゴータマ・シッダールタがそうだったらしい。
ともあれ、全てに意味はないんだぜ~と言ってアナーキストを気取るのに鼻白むのはわかるけど(私は別にそれでもいいと思うけど。一線超えたらしばかれるだけだし)、理屈で考えたら全てが無価値なのを否定するのは違うじゃんって思う。
この世に神様が作った正義なんて用意されてないけど、じゃあ作っていきましょうよ。って言うなら分かる。
でも人権思想はこの世の真実なんだ!政治は真実の正義を追求するものなんだ!それを笑う者は許さん!みたいなんも割と多いようだなあって思う。怖いよあたしは。
デュルケーム曰く、罪人とは共同の価値に傷をつける不届き者の事を言うらしい。
前近代は神様を侮辱するものは死ぬまでしばかれた。現代では、個人の領域を侵害した者がしばかれる。死ぬまでしばかれる事も時々ある。
と共に、人権思想も「神」と同格の共同の価値になってるんだなあって。
人権思想なんて言うけれど、よく考えたらそんなものは宗教と等価のフィクションに過ぎない。そう人々が思ってその価値が揺らいでしまうよりも、だったら絶対あるという事にしてしまった方が良いと考えているのかもしれない。そんなもんなくね?という異端者はインターネット火炙りに処す。
いい加減生き甲斐を決めたい。
生きるとはなんぞやと言う事を思春期の頃にずっと考えていた。勉強より遊びより人付き合いより、何より大事な問題だった。
50周ほどして結局生きる意味などない、自分で作らねばならないという結論に至った。
納得だ。「納得」は全てに優先するぜッ
人は理屈で喜び、理屈で苦しみを感じる訳ではない。いつだって感情が先だ。感情が論理に先立つ事はない。
いつかは人の頭が解き開かれ、全ての規範は記述に塗り潰されるかもしれない。でもそれは今じゃない。「今」は今考えられる事が全てだ。
何を拠り所にするのか。他者からの承認か、存在も確かめられない神様を信じるのか。
どれも腹落ちしない。内から発せられる心の底からの確信、納得でなければ。
どれだけ強固に思えた確信でも揺らがないとは限らない。年老いるごとに考えが変わってしまった、今までの人生とは何だったのかとこぼす者も少なくない。肩肘張ったって幸せになどなれない、気楽に生きようと言う人もいる。
私の軟弱な心とて、価値ある人生を追い求める疲れに耐え切る保証などどこにもない。結局私も同じ結論に至れば、車輪の再発明だと笑われるかもしれない。
しかし彼らの結論は彼ら自身の経験を踏まえてのものだ。彼らには納得を与えても、私にはそうでない。私の人生の当事者は私だけだ。
こんな事を真面目な顔で人に語れば、ナイーブすぎるんじゃないと引き気味に諭されるだろう。それはきっと間違いない。だからどうしたというのだ。
価値ある人生などという幻想を捨て、凡庸な人生しか送れない事を受け入れる。諦める。それを、折り合いをつけ大人になった事だと言い聞かせる。
それはきっと賢い生き方だ。
しかしその口ぶりはまるで、禁煙した人間がタバコを執拗に非難するかのようではないか。
生き甲斐などという考えは毒なんだろう。少量の毒が薬になるだとか、そんなレトリックはいらない。心の蓋を抑え続けた方が楽に生きられるだろう。
しかしそこから溢れ出続ける一抹の迷いから目を背けて、納得ある生き方をできるだろうか。
今際の際に、生きていて良かったと思えるだろうか。
ニヒリズムなど拗らせるものではないという反省は、人生を使った経験で納得を得るまで何の実感も伴わない。そんな考えは後回しにすればよい。
では、私の心は何を囁くのか。具体的に何をしたらよいのか。
根拠などない。凡庸な発想だ、くりえーたーになってチヤホヤされたいというだけかもしれない。
答えは知らぬ。時間もない。そのどれもが誤りかも知れぬのだ。後悔は死んでからすればよい。
生活の気晴らしの趣味は持っている。しかしそれは、生き甲斐と呼ぶにはあまりに心許ない。
生き甲斐なくして生きる価値などない。とはいえいくら生き甲斐が全てに優先すると言っても、目の前の生活をこなさなければそれもままならない。
趣味に没頭したいが、いつもそれらが頭を過ぎって水を差してきた。いずれは結婚を焦る事もあるかもしれない。
常に先を考えろという父の教えがなければ今はもっと惨めな生活を送っていたかもしれない。しかし、生き甲斐に殉じようという確信にブレーキをかけてくる。何をするにも、こんな事をしている場合だろうか?と。
楽器をいくつかやってみた事もあった。中級者の壁を超えられるかどうかという境界を彷徨っていたが、超える事なく人生のイベントを機に中断してしまった。
小説でも書いてみようかと思ったが、これも結局最後まで形になることはなかった。
色んな映画や本に触れてきた。色んな事を思った。そうやって感情を揺らし続けるだけでも人生は満たされるかもしれない。でももう一歩、まだ何か足りない。確信と納得には届かない。
世の優れた表現者達は、きっとこんな人生論をこねくり回す暇があれば手を動かしている、動かさずにはいられないのだろう。純粋な喜び、人生の焦り、衝動、憧れ、何かの感情に突き動かされて。
たった一度限りの人生だ、何かが欲しい。しかしこれきりの人生で何かを捨てるのも嫌だ。大切にしたいからこそ、中途半端な事もしたくない。
自分の可能性を疑うのも嫌だが、しかし私はきっとダ・ヴィンチのような万能人ではない。なにか一つに人生を丸ごと捧げて、ようやく自分一人を納得させられる域に至れるかどうか。それだって分からない。
アンビバレンスに挟まれ、決断しかねて長い時間が経った。10代の頃、価値あるものだと確信できる生き方を決意し、もう10年近くの時が経っている。モラトリアムの終わりも近いが、未だ私には何もない。慰めの趣味だけだ。
絵を描くだっていい。物語を書くでも、楽器を弾くでも、曲を作るでもいい。
後世に名を残す傑作など目指さなくていい。ただ、人生これで良かったと確信できるだけの自己満足であればいい。
選ばなければ始まらないが、捨てなければ選べない。あるかも分からないちっぽけな可能性だって、私にとっては大事なものだ。
しかしいつまでも迷ってはいられない。今の時点で納得ある決断をする事は出来ない。納得できるかできないか、それは後からついてくる。決断しない事には何も始まらない。
しまいにはタイムリミットになるかもしれない。ネットに掃いて捨てるほどいる、何者にもなれかったディレッタント崩れになってしまう。既に片足を突っ込んでいるのかもしれない。
自分には何もなく、評論家を気取って批判にもなっていない難癖をネットの方々に書きこむようになってしまうかもしれない。
でないとオレは「前」に進めねえッ!「どこへ」も!「未来への道」も!探す事は出来ねえッ!!
「納得」は必要だッ!
『納得』は『誇り』なんだ!
ゲームの本質というよりは、資本主義の精神そのもののようなゲームだと思った。
クッキーを焼き、得たクッキーで拡大再生産。更に多くのクッキーを焼き、更に大規模な拡大再生産……
終わり、つまり目的のない作業の繰り返しだ。その過程自体にゲームとしての娯楽性が見出され、自己目的化する。
実績が目的になるのかもしれないが、バッヂが増えたから所でだからどうしたという話だ。
采配や転生により、いかに効率よくクッキーを増やすかという楽しみもあろう。しかし果たして何のためにクッキーを増やしているのか。
増やし方に趣向を凝らそうと本質的に、核となる部分はクッキーをタップし、クッキーを増やすだけ。退屈極まりない。はずなのに、熱中してしまう。
『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』を観た。
セカイ系ハジケバトルだな、と思った。他の運命を辿った自分たちの皺寄せを食らってるってくだりでは、まどマギでもそんな感じの運命が収束してどうのみたいな話があったのを思い出した。
冒頭の前置きは鬱屈とした生活を見せるのに必要なんだろうけど、ちょっと冗長に感じた。
国税庁でのシークエンスはマトリックスのオフィスのそれみたいな緊張感があって良かった。敵の現れ方もなんかエージェントスミスみたいだし。
ペーパーカットは痛みがリアルに分かりすぎてついつい目を背けてしまった。
ブッ飛んだ事を色々試す辺りはおちゃらけに徹してる感があって面白かった。この辺もマトリックスの"I know kung-fu."を思い出した。意識しているんだろうか。この擦られた陳腐な例えはあんまり使いたくないけど、ボーボボのハジケバトルそのものだった。
別世界の自分を呼び出すのはジョジョのD4Cみたいでもあってちょっとかっこよかった。あり得たかもしれない運命を呼び出す、というアクションのトリガーがヘンな事をする、すなわち日常から一歩踏み出すというものになっているのはなんか良かった。
手がソーセージになった世界線のくだりでの2001年〜のシーンはちょっと笑った。ディルドは長すぎでは。
Part.2以降ではおちゃらけから少し離れてシリアス色が強くなった。暗黒ベーグルがどうのの話辺りはほぼ置いてけぼりだったが、「結局意味なんてないんだから、全部終わりにしちゃえばいい」みたいな台詞から、ニヒリズムや実存主義の話が好きなのでそういう文脈で捉えておいた。
冒頭で出たトロフィー?は何かプラグっぽいなとは思ってたけど、最悪の形で伏線回収がされた。局部のモザイクとかもあったが、結構話がシリアスになっていたので反応に困った。
落とし所としては愛による解決という事で、無碍にしていた旦那の「おふざけ」の目玉シールを貼っ付けて、くだらなさを優しさに転じさせたって感じだろうか。愛だねえって思った。
生命が誕生しなかった世界線の辺りからはほぼ理解していなかったが、娘と腹を割って話し合ってハッピーエンドになりセカイ系だあ……と思った。
人生には論理立てて説明できるような意味がない。これは不安をもたらす。また、人生は有限だ。これは焦りをもたらす。
長らくこの絶望に対して、誰かが保証してくれたり論理的に肯定できるものなどなくても、自分で意義があると強く確信できる行いを続けていれば良い、といった思考停止を肯定するスタンスを取る事で正気を保ってきた。
最近になって、ではそもそも「意味」とは?「価値」とは?という意識的に思考停止していた疑問が頭から離れなくなってきた。
「意味のある人生を送りたい、それが価値のある生き方だ」という素朴で疑い得なかった感覚を地盤としていたのに、そこまでもがニヒリズムに飲み込まれかけてしまっている。
道具は意味=目的を持って生まれる。その図式を無意識的に人間にも当てはめて考えていたが、では誰が意味を与えるのか。今までは自分で意味を見出していたが、結局それはあまりにも恣意的で、一度疑問が生まれたら簡単に揺らいでしまう。神様を信仰する気持ちがよく分かる。
人はとかく納得を求め、それは不条理なものにも向けられる。だから世の中を単純化した陰謀論なんかが跋扈している。人生に意味を求める事自体がナンセンスなのかもしれない。
凡庸ではあるが、神様などいなくとも他人に自分の意味を保証してもらう、あるいは保証する、すなわち愛に囲まれていれば、この不安を覆い隠せるのかもしれない。
刹那的にその場その場の喜びを大切に拾い集め続けるのも悪くはないかもしれない。
そういった生き方をしている人間は、この手の悩みは凡人には手の余る、考えるだけ無駄なものだ。いつまでもナイーブさを引きずらず、あなたも早く折り合いをつけるべきだ、などと言うだろう。それは彼らにとって、また一般的に言っても間違いのない言葉なのだと思う。しかし、この不安ともっと真摯に向き合う事が、理屈抜きでなぜだかとても大事な事に思えて仕方がない。
別にこんな事を四六時中考えている訳ではないし、目の前の生活もしなければならない。意識的に、ほどほどのところで抑えるようにしている。
それでも時々爆発しそうになる。なぜかこの答えが芸術や自己表現にあるような気がしてならない。
ニーチェも大体こんなような事を考えていたらしいというのを最近知った。古今東西、陰気で自閉っぽい人間が考えることは似るらしい。
彼の考えが様々な思想やフィクションに影響を与え、自分もまたその影響部分に強く惹きつけられ内面化した部分も大いにあるのだろうけれど。
ここまで書いて、もう一つ大切な事を思い出した。人間は固有性に執着する。自分だけの自分らしさを追求する事は、理屈抜きで価値があると思える。
有り体に言えば特別な人間になりたいという、思春期には誰だって思うことだ。大抵の人間はどこかで凡庸さを受け入れ、折り合いをつけて愛にでも生きるのだろう。
10代の頃、それがひどく陳腐な生き方に思えた。その思いは今なお残っている。だからこそ、愛ではなく芸術に何かを感じているのだと思う。
自らの固有性を出力する事の意義と、表現活動でチヤホヤされたい、強い愛を得たいという気持ちは混同しがちな所ではあるが、しかし前者は間違いなく存在するのではないかと思う。
絵画なんかは文脈依存も強いから単に教養に欠ける部分もあるんでしょうけど。
定量化できないものの評価が非常に苦手。「適切な評価」をつけるのではなくて、そもそも評価そのものをするのが。
だからと言って、定量化できる部分だけを見て、マックは世界一売れてるから世界一美味しい、とかは思いませんが。
「適切な評価」は、「これが世間的には良しとされるんだろうな」というのが過去の経験から何となく察しがつくのですが、自分自身の思う「良し悪し」は全く浮かんでこない。
しかし、例えば食事なら気分による所が大きい。唐揚げの口の日に望みのものを食べてざっくり90点の満足度だなと思っても、別の日には全く同じものを食べて70点だったりもする。この数字も、他の料理の満足度とざっくり順番に並べ、相対的な整合性から適当に弾き出したきわめてアバウトなものです。
料理としての完成度も、何を以て良しとするかは「人による」としか言いようがない。人間なんて個体差はあれほぼ同じ構造なので、ある程度の普遍的な感覚というものはあるのでしょうけれど。
例えば映画なら、この映画は面白い。面白いが、☆がいくつかと言われると困る。「普通の面白さ」なら3つで、「手放しに全てを褒められる面白さ」なら5つなんでしょうけど、そうはっきりする事なんてそうそうない。そのグラデーションに境界を引くのはあまりにも難しい。
ましてや「良し悪し」となれば、恐らくは個人の「好き嫌い」から離れ、普遍的な視点に立たなければならない。
1点刻みの100点満点で評価するとか絶対に無理です。5段階でも怪しい。悪い、普通、良いの三段階でも、大半が普通に入ってしまいそう。
その辺の人を捕まえてその場で描かせた漫画と週刊連載されてる漫画を比べたら、流石に優劣はつけても良いだろうとは思います。しかし「なぜ優れていのか」を突き詰めていくと、結局「好き嫌い」に収束してしまうのではないかと。この例での「好き嫌い」にはかなり普遍性がある(ほとんどの人が恐らく後者を評価する)でしょうけど、そう極端な比較ばかりではありませんし。
ファッションに興味を持ってから、今まで変なのと思っていた服や靴をかっこいいなと思うようになった事なんかはあります。
しかしそれはネットでよく言われる「情報を食べている」状態なのではないかと自問した時、違うとはっきりは言い切れない気がします。
実家が割と余裕のある方だったので、色々なものに触れる機会は与えられてきました。それが「適切な評価」を下すのに役立ってはいるのかもしれませんが、「私の評価」の基準にはなっていない気がする。
自分自身があまりに「良し悪し」が分からないもので、世の中の人間もそこまで分かってないんじゃないかと勘繰ってしまいます。
やれこの映画は名作だの、この料理は不味いだの、点数をつけてはいるものの、ざっくりの印象を10点単位でつけて、詳細の加点減点部分を表すそれっぽい1点単位の数字を合わせているだけなのではないかと。
他者の顔色を伺わず、プリミティブな感性と積み上げてきた経験だけで瞬時に「あ、この料理は87点だな」なんて浮かぶ人がいるとは信じがたい。いるのかもしれませんけど。
イデアなんて言葉がありますが、物事に本質的な良し悪しなどなく、(例えば服なら耐久性や透湿性、手入れの手間といった明確な評価軸であらわせないような)あらゆる評価は突き詰めると「個人的な好き嫌い」に収束するのではないかと思っています。「社会的な選好」もまた個人のそれの最大公約数的なものに過ぎないとも。あるいは、誰かしらの好き嫌いがその人の立場によって権威づけられたか。
批判、批評においても、対象の細部について検討はされるものの、その細部を何を以て良しとするかは価値判断がついてまわり、つまる所は好き嫌いの問題になるのではないかと思います。
どれだけそれらしい理由を並べて普遍性、正当性を強調しても、根底は個人の好き嫌いでしかない。
しかし遡及的に見出された理屈であれ、それを言葉にして他者の「好き嫌い」を知り、時に理解し歩み寄る事は大事なのかもしれませんね。
(追記)
この世で本質的に存在する絶対不変の軸なるものはないんじゃないかと思ってはいますが、個人の好き嫌いが積み重なって形成されたある程度普遍的な評価軸の存在は否定していませんし、対外的には尊重しますよ。
究極的には全てに意味がなければ物差しもない、ハイ終わり。というニヒリズムではなく、無意味を認めた上でそこから価値を積み上げていく実存主義的なスタンスという事です。冷笑と言われ少々カチンと来たので、念のため。
(追記)
・定量化できないものを数字にしたり相対評価したりするのは難しい
・評価対象について知識を積み重ねて吟味することは、他者のモノの見方、感じ方を知り、時に自分の中に取り入れる事で捉え方が重層的になるかもしれない
一方で、「情報を食べる」と言われるように、良し悪しを考えるという事が他人の評価軸に合わせる、他者の顔色を伺うような事にもなってしまわないか(それが全面的にダメだとは一言も言っていない)
・評価対象にまつわる知識を積み重ねても、結局良し悪しを決める軸は好き嫌いに帰結しないか
・「世の中一般で好かれる≒良いもの」でもない、「私が好きなもの」でもない、「私が良いと判断するもの」なるものは、何を以てして決まるのか
まとめると私が思っているのはおおよそこんな所です。
それに対して、初めから好き嫌いとはまた異なる「良し悪し」なるものが存在する事を前提として、それが分からないのは理解が足りないからだ。という反応が多かったので、あまり噛み合っていないのではないかと思いましたね。
その「良し悪し」が人々の好き嫌いが集まって作られたものを指すのなら、それは好き嫌いと同じとは言えませんが、全くの別物とも言い難い。さらに、では結局良し悪しとは「情報を食べる」事に過ぎないのではないか、という話に繋がる。
しかし、全ては好き嫌いに過ぎないという態度では美という概念をいささか否定するようで、矛盾するようですがそれもまたどうなのかなとも思ったりします。
恋愛とは何か。
思春期がいつまでも続いているような大人なので、ときたまそんなことを考える。
小説家の多くも、似たようなことを言っている。
このような言葉をよく見るということは、それだけ世にあふれる「恋愛」のイメージが、自分自身それを信じていない人たちによって作られていることを意味する。それは確かなのだろう。
しかし、それだけなのだろうか。そんな、誰かに作られた虚像をみんな信じているから、恋愛をするのだろうか。
そこで結論としてしまうのは、余りにも中途半端な、それこそ中学生のニヒリズムに過ぎないように思う。
広告屋がキャッチコピーを使う前から、作家が恋愛小説を書く前から、人は恋愛を神聖なものと考えているし、だからこそ出会い、結婚し、種を残し続けられた。
真実の愛なんて幻想に過ぎないと、現代人の多くがどこかで思いながら、それでも、愛を拒絶した人生や、愛に対する裏切りに、抵抗を感じない人は少数である。
愛を疑いながらも、愛を信じたいと多くの人が望んでいる。それもまたひとつの真実だ。
人は愛を信じたいし、自分の愛を証明したいし、自分の愛が真実のものであることを信じて欲しいといつも願っている。
愛によって自分の生を確かめたい。愛によって自分の価値を確かめたい。愛によって、自分の存在意義を確かめたい。
……結局のところ、人は恋愛を通して、自分の誠実さを証明したいのではないか、という気がする。
自分が人を愛せるということ。愛した人に誠実でいられるということ。それを示したいという欲求こそが、小説家や広告屋のつくった「恋愛」に引っ張られてのものでない、もっと根源的な人間の恋愛に対する欲求なのではないか。
これはもちろん、だから「結局自分のためだ」なんて皮肉を言いたいわけではない。
本当に自分を証明するに足る、心から尊いと思える相手に出会えなければ、こんな気持ちも起こらないわけだから……。
ここで言っているのは、恋愛という情熱がどこから来るのかということだ。
人は何故、人を恋しいと思うことに、苦しい思いをしたり、大きな罪の意識を感じるのかということだ。
恋をする、人を愛すという気持ちだけだったら、そこまで激しい葛藤に飲まれることはないはずだ。
ただ幸せな気持ちで、人生を充ちたりたものにしてくれるひとつの要素として楽しめるはずだ。
だが恋愛はそれだけではなく、人は誰でも苦しい思いをしながら、ときに辛い経験も乗り越えながら、それでも愛に誠実であろうと努力する。
それは、恋愛が相手に対する気持ちであると同時に、自分の誠実さを肯定するための儀式でもあるからだ。
恋愛は自分の誠実さを試す人生の試練だ。そして、だからこそ人は、それが小説に描かれるように美しいだけのものでなくても、苦しくても、辛くても、不器用に追い求めずにいられないのだ。