「ニヒリズム」を含む日記 RSS

はてなキーワード: ニヒリズムとは

2020-07-25

優生思想って近代的なニヒリズムだよなあ

そうでも無いのか

偉い人がたくさん殺してる映像しかかばない

キリン逆立ちしたピアス)(ジッタリンジンプレゼント1991年

2020-05-29

とある声あり下位ドルの「デレステP」から見る総選挙へのニヒリズム

私はデレマスとある声あり下位アイドルのPである

Twitterに長文を連ねても邪魔だし、総選挙へのニヒリズム同担と共有したくないので増田で壁打ちさせていただく。

まずは私のPとしての自己紹介をば。

シンデレラガールズに興味を持ったのはちょうどアニデレの頃だ。TwitterのTLでオッドアイスレンダー美女の絵を目にし、

「この美女はどのコンテンツにいるんだろう」と思い、話題になりつつあったデレステを始めた。

無数の曲の中から強い曲を浴びるように聞き、叩き、コミュでのアイドルの口調に惹かれて今の担当アイドルに行き着いた。

Twitter同担コミュニティを見つけ、コミュ障ながら話に加わったりオフ会に参加したりもした。多くもないバイト代をやりくりし、思い切って遠方のライブにも行った。

ここに入り浸っている方々はデレマスに思うところがあるんだろうし、私も多少の不満を抱くことはあるが、担当アイドルへの扱いを含め全体的には満足している。

ここまで書けば、デレステから始めた典型的な数年来のPだとお分かりいただけるだろう。

そして担当アイドルについて軽く申し上げる。彼女デレステが始まった時点でボイスが実装されており、持ち曲もSSR複数ある。また、ライブにも度々出演する。

モバマス時代総選挙では上位にランクインしたことがあるようだが、ここ数年は圏内入りするかどうか陣営内で注目されている程度だ。

さて、私が言いたいのは「モバマスから古参PとデレステからのPとで総選挙に対する価値観が異なり、陣営としての大意を見いだせなくなったのではないか」ということだ。

クソデカ主語で大別してしまったが、古参同担からの伝聞を念頭主観で殴り書きしているため、違和感のある点があったら是非とも指摘していただきたい。

ゲームシステムの違いからなるアイドルへの見方の違い

デレステはなんといってもコミュにおけるプレイヤー存在感が薄い。

アイドルコミュすら「観葉植物」や「天井のシミ」のようなポジションからスマホの大画面で俯瞰しているようなスタイルであり、

また強い曲から興味を抱くという経路もあるためユニット存在感が大きく、デレステにおける多人数担当の素地が生まれると思われる。

対するモバマスプレイヤープロデューサーのような描き方で、ガラケーの小さい画面にアイドルがアップで映されるスタイルであり、

担当アイドルは少人数に絞られがちと思われる。

そうなれば、一人のアイドルに大量投下するモバマス勢と複数アイドルに案分するデレステ勢で差異が生じるのではないだろうか。

総選挙に対する価値観の違い

そもそもシンデレラガール総選挙純粋人気投票としての側面と、ボイス争いとしての側面が大きい。課金票による集金やユーザーによる宣伝というメタ要素はここでは省く。

モバマス勢にとっての総選挙は、シンデレラガール選出によって「シンデレラガール」としてのSR実装されるほか、

上位陣ユニット(声なしアイドルランクインすればボイス付与確約される)によるオリジナル曲(そもそも自体モバマスでは貴重)もリリースされ、名実ともに大きい利益アイドルにもたらされる。

かつてはアニバーサリーイベントの上位報酬への選出という実益もあったが、サービス体制縮小により実装されるかは未知数だ。

一方、デレステ勢にとっては、先述の総選挙曲と、声なしアイドルへのボイス付与しか実益がない。

さて、先述した通り、私の担当は既にボイスが付与されている総選挙下位のアイドルである

声優の方が比較的若くマイナーということもあり、デレステライブにおいても総選挙の結果に見合わないといっていいほどの出番を得ている。

イベント曲やSSRは近年の順位に関わらずリリースされるので、万年下位の声ありアイドル担当からすれば圏内入りさせたところで名誉以外に得るものがない。

ライブでは順位を問わず若くて元気な方々が登用され、ニュージェネはじめ古参の方々は上位でも歳波とともに出番が減っていくだろう。次のライブがいつになるのか知らんけど。

そもそも総選挙圏内入りさせたところで一月もすれば話題に上がらなくなるので、次に向けた宣伝につながるかどうかも疑問だ。

・ここからデレステP」の私見、というか妄想

以上のことからデレマス総選挙目的を失い、制度疲労していると言わざるをえない。

現に、総選挙によって得る物がない自担では活動も弱く、良くも悪くも和気藹々とした雰囲気となった。

それはそれで居心地がよかったのも事実だし、必死ダイマを通じて問題を起こした陣営と比べればよほど幸福度が高かったはずだ。

悪戦苦闘している声なし担当からすれば、こんなぬるま湯陣営を知ったらズルいと感じるに違いない。

そして、モバマスサービス終了は遠からず訪れるだろう。先述した通り、モバマスサービス体制を縮小した。そして今年末にはFlash廃止される。

アクティブ数減少とコロナ禍の中で膨大なゲームデータHTML移行という大事業を敢行するとは考えにくい。。

この二点からするに、デレマス総選挙はキリよく来年10回目をもって終了するのではなかろうか。

最後総選挙」を懸けた血みどろの戦いになれば焦土戦になりかねないので、再来年に「総選挙?今年からはありませんよ」とアナウンスして静かに廃止となるだろう。ってかそうあってくれ。

総選挙というヒリつきをもたらすスタイルではなく、プレイ状況やSNSへの書き込みといったビッグデータ(当然、可視化されてほしい)によって実勢を反映した運営となることを望む。

2020-05-13

anond:20200512230455

そりゃそっちのほうが企業イメージが良くなるからだよ。

これはZoffになるかハズキルーペになるかどっちがいい?って選択なんだよ?

だいたいねおっさんおばはんジジババ向けに舵をきるとネット受け最悪になる。

中高年高齢者の心に響くメッセージを追い求めると、

日本スゴイ系の歪んだ民族意識バブル期までの西洋白人文化至上主義家長制度に由来し現代ポリコレから乖離した旧態依然価値観昭和に対する退廃的な懐古趣味ニヒリズム権化のようなリベラルの上澄み…

さすずめこんなところに行き着きがち。

まりWebでのマーケティングと中高年以上が対象商品は相性が悪い。真っ当にターゲットの好みに近づけようとすると炎上商法になる。

ハズキルーペ武井咲がケツで踏んでキャって言ってるのも呉服屋が「ハーフの子を産みたい人に。」というコピーを掲げるのも今のアラフィフ以上は気にもとめないしむしろそういうアプローチのおかげで彼らの関心をあつめることに成功していた。

さらに踏み込んでいうと「若者向けの施策」っつうのは「これからWeb広告広報の主戦場から、もうそろそろうちも自前のサイトつくる以外のことで外に向けてもっとなんかやってきたいんだわ」っていうのの言い換えでしょ?

SNS動画でなんかやるための方便として若者ターゲットにしてるんだよ。倒錯してんね。

2020-05-11

冷笑が冷静みたいな扱いになってるけど

みんなニヒリズム好きねえ

国民厨二病

2020-05-06

結局「植松はやべー奴だった」で終わらせようとしてるだろ

やまゆり園、障碍者施設の19人殺人の話。

植松意見には正直同意する部分がある、って意見事実上封殺され、「気持ちはわからなくもないが植松という『特殊なやべー奴』がやらかしたやべー事件」という論調ギリギリとなっている。だってそういわないと『特殊なやべー奴』の一味だとレッテル張りされるからな。

障碍者にも人権がある、これはとても当たり前のことだ、反論余地はない。ニートにもKKOにも医療従事者にも風俗従事者にも芸人にも人権はある。ごく当たり前だ。「権利範囲」についてはもめるところではあるが、ここではそこは論点にしない。ここでやるには不毛すぎる。

俺がまずいなと思ってるのは、植松意見に蓋をして「障碍者価値がないなんておかしい!」とキレイゴトをまといすべて植松に背負ってもらおうとしているこの状況だ。テロリスト世界を変えなかったという名言があるが、学びは必要だ。

俺が問題だと思う根源の思考は、「人間価値がある」って考えだ。人間がいると、何が良いのだろうか?人間自然破壊するから価値だとか、そういう話ではない。それでいうならこの地球だって、あったからと言って何がうれしいのだろうか?

人間価値があると仮定したとき、じゃあその価値とは何を源泉としているのか?という話になる。だって価値があるなら、その価値ってなに?となるだろう。そうしたとき、「人の役に立つ」とか「人に好かれる」とか、そういうことが上がるだろう。自然を守るとかでもいい。でもそうすると、それに該当しないもの価値がないのか?という話になる。「価値があるから価値があるんだ」みたいな進次郎理論や、「いや誰もが何かしら価値のある行動をしている」という根拠薄弱な謎理論しかなくなるのではないか。その謎理論で納得できない場合植松思考に至ることがそんなに不自然特殊なことだろうか?実際に手を動かすまで行くのは確かに少ないだろう。しかしそれは彼が『特殊なやべー奴』だったからか?彼と全く同じ経緯を辿る人間が、同じ行動に至ることはないのだろうか?その解明のために犯罪心理学者がいる。さっさと殺せという意見感情としてとても分かるんだが、植松植松だったから『特殊なやべー奴』だったから殺したのか、誰でもそうなり得ることだったのか、それってとても大事ことなんだ。対策の出発点になる。

人間に等しく価値があるとするのであれば、そうでなく、もう「無価値」だと言ってしまった方が良い。「価値」という言葉は、何かと比べることをどうしても誘発するだろ。ビルゲイツ高架橋の下にいる名もなきホームレスを同価値とは言えないだろう。そのうえで、人間には生存本能欲求がある。それを満たしてくれる人間は「金」によって得をし、それによって本人もそのほかの人よりも「楽しく」「気持ちよく」生きることができる。無価値ではあるけど、人生には差がある。これは問題ないはずだ。ただその差を得るための努力の総数をすべて均一にすることは不可能だし、あまりにもひどい差で生存本能欲求を過度に制限される場合、こういう者は救う必要がある。これは一種保険だ。誰もが後天的に障碍を持つ可能性はある。そういう時に自分生存本能欲求を過度に制限されないために、そういう仕組みを作っておくことは必要なのであるプラスの差をたくさん作れる者からマイナスの差をたくさん抱える者に分け与えることで、全体の生存本能欲求を調整する。人間は誰もが無価値だけど、生存本能欲求現実としてあるので、最低限はみんなで守りましょうね、という理屈だ。感情としてかわいそうだからとかを乗せてもいいけど、それは悪い差別につながる思想だと俺は考えているのでお勧めはしない。

別に誰かを尊敬してもいい。たくさん尊敬されてもいい。しか人間は無価値だ。その人はたまたま今の人間界で「合致」した人、もしくは努力した人で、そういう人たちが「得」をするのは何もおかしなことではない。しかしそれが人間価値につながるものではない。誤解しないでほしいのは、「敏腕政治家不倫たか価値があると思ったけど人としての価値はないね」とか「金で人の価値が決まるわけではない」とか「清い心の人は価値がある」とかいう話ではない。そもそも人間だれしもに価値がない。そういう話。

ニヒリズムとかではない。人間に「価値」を付けると、どこかで植松意見には到達してしまうし、それは実際に同意の声が一定あった現実がある。キレイゴトでなく存在した。存在したものをしないというのは賛同しかねる。

不正に得をする奴を糾弾していいし、ありがとうと思っていいし、アイツ役に立たねーなと思ってもいい(倫理は置いて)。生存本能を脅かす戦争は愚かな行為だというのも全くおかしくない。でも、人間は等しく無価値だ。無価値だけど人間として生存本能があるから助け合って生きていきましょうね、と、そういう話。

価値から殺していいよ、ではない。なぜなら人間には生存本能欲求があるから。あるものをないとするのは間違いだし、自分もだれしもいつ人に「提供」できなくなるかわからないのだから

2020-02-16

某所でのハッピーシュガーライフ感想まとめ、および個人的感想

きっとちがうよ

だって私は わたしが生きるために あの人に生きて欲しかったんだから

それはきっとちがうんだよ ちがったんだよ

それはきっと あいなんかじゃないよォ…

――鍵空とみやき「ハッピーシュガーライフ 第7巻」

某所より気になった感想抽出し、思いついたことを書いていく試み

171 ななしのよっしん

2018/09/30(日) 13:48:11 ID: f8xlQvMm3b

あさひもしょうこも(てかこの作品のほぼ全員)私が生きるためにあの人に生きてほしいを地でいくキャラだったからあの結末は残念でもないし当然

あさひはこれからのこと考えると可哀想だがしょうこは裏切ったうえに盗撮までして友達の私を信頼してはほんと無理だったから死んでよかったよ

生かしてると絶対警察にチクってたしな

173 ななしのよっしん

2018/09/30(日) 15:30:33 ID: 6m5ZAUyP0F

友人思いのあつかましさや正義感が仇になってさとうを裏切り殺されたしょうこ

大人の女性からセクハラを受けまくって気が狂いしおからも見捨てられて廃人化した太陽

から変態性に加えさとうを詮索してやり込めようとして失敗し逮捕された先生

さとうに何だかんだ振り回されているバイト

太陽暴力をふるいしおを誘拐しようとして目潰しされた男たち

DVを受けていたとはいえしおを拒絶して全ての元凶になった母親

まだ幼い子を強姦DVをやった末、毒殺された父親

絵のモデルとしてさとうを招きしおに対するさとうの気持ちを察するや自分の望むさとうでなくなることに怒り、手を挙げて殺された部屋の主

さとうと愛の形で対立しつつも結局最後までさとう達に協力して逮捕された叔母さん

必死に妹を思い自分自分母親の元で幸せに生きさせようとしたが、最後にはしおの心を完全に奪われたあさひ

愛の形を証明心中を受け入れるも、結局しおを生きながらえさせて、しおを自分の愛の結晶としてこの世に残すことに成功したさとう

幼児退行や記憶障害は治ったが、さとうの愛に完全に共鳴して強い意志を持って傾倒する狂人となったしお

登場人物で本当の幸せを掴んだのは実はさとうだけかもしれない、しおは客観的に見ると環境が災いして人格を塗り替えられた不幸な子だと思った

182 ななしのよっしん

2018/10/01(月) 05:10:48 ID: CEiFINjjYU

一見人魚姫みたいで綺麗な終わり方だけど冷静に見ると、さとうがおばさんにされて嫌だった「愛ってこういうものだよ、とても素晴らしいよ」の押し付けを結局しおにも繰り返してるだけっていうのがなんか考えさせられる

表面は綺麗だけど、しおもかつてのさとうみたいに歪んだ愛の価値観に縛り付けられて生きると思うと…

185 ななしのよっしん

2018/10/01(月) 11:23:57 ID: VrrOXonf2W

>>182

しおはさとうの愛で満たされてるけど

さとうはおばさんの愛を真似ても全然満たされてないし(しおに会う前のさとう描写より)

「同じ価値観押し付け」という言葉で括るのはちょっと違う気がする

190 3543

2018/10/02(火) 09:27:55 ID: PTz4syDQ1u

こういう話は因果応報とは無縁の話だと思ったら、しお以外は因果応報の形になったのが意外。だが単純に法とか、一般的善悪道徳を元にした勧善懲悪因果応報じゃないのがミソだな。

から普通なら報いを受けそうにない立場のしょうこも、勝手な「ごく真っ当な価値観」のままさとうに迫り、信じると言いながら結局目を逸らしてしまたことが、致命的な罪となって、その裏切りの報いとして死んだ。

単に犯罪たからだけじゃなく、自分価値観を押しつけ続けて相手を碌に見なかったり、何より愛に真摯じゃないキャラは報いを受けた訳だ。

しおに関しては、さとうと限りなく噛み合っていたが、共犯者の面もあるし、最後に庇ったさとうの愛が本当の愛なのかしおへの裏切りなのか、あの結末が救いなのか呪いなのかわからんはいい感じだと思う。

206 ななしのよっしん

2018/10/15(月) 17:02:35 ID: MYkV3cCihu

さとうはあらん限りの意志の力によって、

しおにある意味死ぬまで一緒にいて愛し合うことを実現した

ある意味、恋の夢である愛する人ひとつになる」を実現してしまった

人間精神が分割できないindividual(個人)という見方社会的事務上のフィクションで、

内面には複数の「分人」がいるわけで、その一つとしてミニさとうがしおの人格インストールされた

だが本当に恋の夢が実現されたとしてそれは本当にいいものなのか?と思わされる

意志の強烈な輝きと同時に、それがもたらす災厄も描かれてる

強い意志というのは、結局高確率目的を果たす魔力はあるけど、被害も生むことを示してる

個人的にも、意志によって目的は果たせたけど、意識してなかったものを失った経験はいくつかしてるので、

キャラ怪物ばかりだが内容は真実だと思う

214   

2018/11/14(水) 00:15:54 ID: DvW+BJx4zX

この作品、ほぼ同時期に映像化(向こうは実写化だけど)された監禁モノ作品と決定的に違う所がある

社会的言い訳を一切してない。

これこれこういう可哀想な目にあったか容認すべき・同情すべき、という風な作品トーンにしてない。あの純真そうなしおちゃんも含め、出てくるキャラが(一部以外)殆ど全員自分エゴの為だけに動いてる。

そういう意味ではアウトレイジ等のバイオレンスモノに近い作品なのかも


さて、感想

わたしが生きるために あの人に生きて欲しかったんだから」という叫びで自らと登場人物すべての罪を糾弾たこ言葉

では、いったい何が愛だったのか、どうすれば愛だったのか、愛は何故減るのだろうか(ニヒリズム)


「お互いの事を思いあい助け合い、真に理解しあう」が、「プロレスは本気で戦っている」と同様のお約束であることは肯ずるところだろう

富めるときも貧しきも、病める時も健やかなる時も、死がふたりを分かつまで、愛し慈しみ貞節を守ることをここに誓います

本作でも繰り返し述べられる誓いの言葉だが、やはり難しい

貧すれば鈍する、衣食足りて礼節を知る

満たされない人間愛について理想を掲げ、存在しないものを追い求める様は悲喜劇である

「お前が掲げる愛、そんなものはない」のである

残念ながら、愛というのは幻想入りしている


では何が存在するのか、現実日常に耐えられるだけの実在性を担保できるのか

逆説的だが、まさにそれこそが愛、つまり個々人の中にしか存在しない幻想だと思われる

相手は分かってくれくれるかも知れない」「自分を救ってくれる誰かがいるかもしれない、そんな時が来るかもしれない」「これこそが愛の本質なのかもしれない」という期待、幻想思い込み

それに従って相手志向し、期待し、求め、望み――そして、拒絶され、断罪され、絶望する

その果てに関係性を何度でも再構築し、自分自身の幻想・信念ですら変えていく

自分に合わせて現実を変えるのではなく、圧倒的な実在性(=他者性)のある「現実世界」に打ちのめされ、変わらされていく

他者論という観点から見れば、「誰にも否定されない絶対的な真理」を作り出すことは不可能である。一方で「他者」は、単に真理への到達を妨害する忌むべき存在というわけではなく、「私」を自己完結孤独から救い出す、「無限可能性」でもある。いかなる哲学科学数学を作り出しても、必ずその外部から「違う」と叫び叩き潰してくる、理解不能で残酷な「他者」が現れる。「他者」が現れるからこそ、自己自己完結して停滞することなく、無限に問いかけ続けることができる。

――エマニュエル・レヴィナス(Wikipedia)

 然し、真理といふもの実在しない。即ち真理は、常にたゞ探されるものです。人は永遠に真理を探すが、真理は永遠に実在しない。探されることによつて実在するけれども、実在することによつて実在することのない代物です。真理が地上に実在し、真理が地上に行はれる時には、人間はすでに人間ではないですよ。人間人間の形をした豚ですよ。真理が人間にエサをやり、人間はそれを食べる単なる豚です。

(中略)

 もとより、私は、こはれる。私は、たゞ、探してゐるだけ。汝、なぜ、探すか。探さずにゐられるほど、偉くないからだよ。面倒くさいと云つて飯も食はずに永眠するほど偉くないです。

 私は探す。そして、ともかく、つくるのだ。自分の精いつぱいの物を。然し、必ず、こはれるものを。然し、私だけは、私の力ではこはし得ないギリ/\の物を。それより外に仕方がない。

――坂口安吾「余は弁明ス」



人間精神が分割できないindividual(個人)という見方社会的事務上のフィクションで」

という言葉正鵠を射ているように、人間はそれ単体で存在し得ない

人のすむところ。世の中。世間。人が生きている人と人の関係世界。またそうした人間社会の中で脆くはかないさまを概念的に表すことば。

――人間(Wikipedia)

 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。

 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。

――夏目漱石草枕


人が期待を以って作り上げる物、それが幻想である

永遠に求めるが手にし得ないものを、その霊台方寸のカメラにおいて捉える故に、他者必要とし、そしてそれに打ち倒される

揺るがない物理存在としての肉体がその繰り返しを支え、人を生き長らえさせている

それ故に何度でも人間は変わり、裏切られ、それでも生きていく

今日、愛の不在を叫んだ神戸しおも、その10年後には同じ気持ちいるかは分からない

「十で神童十五で才子二十過ぎれば只の人」は、決して絶望言葉ではないのだ

BPDの症状が年齢経過で落ち着いてくるということと似ており、時はすべてを均してくれる

凡人に身をやつすことは、救いでもあるのだ

2020-02-13

映像研の感想

酔っ払っている。

映像研。

今、アニメ6話まで見たところ。

原作漫画アニメを本格的に見る前に5巻まで読んだ。

で、原作を踏まえてアニメを見た感想

こんなに「愛」に溢れたアニメはないんじゃないか

作中で3人の少女は、アニメを作ろうと奮闘する。

設定を作り、動画を割り、資金環境をかき集めて、なんとか作品を形にしようとする。

で、その作品は、原作作中いくつか「その時点での最善」に過ぎないながら完成する。

しかし悲しいか漫画作品。完成した作品を、読者は「アニメとして」鑑賞することができない。

そこで今回のアニメである

完成したアニメを、アニメとして、そしてアニメならではの感受性表現(ex.予算審議委員会)をもって魅せてくれる。

それだけじゃない。

アニメ制作する過程の部分も、「現実ならこうだぜ」「俺らならこうするぜ」と、実際の現場感覚アニメの作り手自身が持ち込んで足している。

決して「現実をナメるなよ」というニヒリズムや諦念ではない。

強いて言うなら、現れているのは「おじさんをナメるなよ」というプロとしての矜持だ。

映像研の3人の少女は、歓迎を以てアニメプロのおじさんたちに受け入れられたのだ。

「実際作るならこうだろ」「この方が画としていいぜ」「あーそこで苦労するよな。わかるわかる」

粗削りで、未熟で、それでも熱意だけはある3人娘は、アニメを作るおじさんたちにとってほっておけない存在なのだ

祝福をもって、受け入れられたのだ。

そして、アニメプロたちに笑顔で迎えられた人がもうひとりいる。

他でもない、原作者・大童澄瞳氏、その人である

エンディングアニメーターとして参加したことがその証左だろう。

原作映像研は、アニメーターに憧れて挫折した大童澄瞳による、アニメ業界へのファンレター…というかラブレターだと思う。特濃の。

で、このアニメは、アニメからの、湯浅政明監督からの愛に溢れたアンサーだと思う。

エンディング動画を見ると、大童澄瞳は現時点ではやっぱりアニメーターとしては並以下だと思う。

(おそらく、浅草氏に近い画的資質を持つ人なのだろう)

それでも、毎回必ず流れるエンディングで、メインアニメーターとしてクレジットされている。

これが、業界の先輩の愛でなくて何なのか。

原作映像研という「アニメって/アニメーターってすげえんだぜ!」というラブレターに、

「お前が思ってるよりもっとすごいぜ!」あるいは「そうまで言われちゃやるしかあんめぇ」と粋な回答を示す。

それでいて、そのラブレター勇気づけられたことに感謝も示す。

偶然かもしれないけど、サイエンスSARU(制作会社)と映像研のロゴの重ねっぷりなんか、愛と愛の応酬しかないでしょ。

アニメの作り手は原作に、原作の描き手はアニメの作り手に、

お互い元気をもらい、お互い感謝しあって、お互い認めあって。

その結晶が、このアニメ作品なのだとしたら。

それが傑作に、ならないわけがない。

余談

それを於いても、特に浅草氏のイメージ段階の画は、コンテのまま見せる、動画を割らなくていい、等作り手として楽できるポイントでもある。

そういうところを衒いなく取り込んで悪びれないのはやはりプロだと思うし、鑑賞者もスケルトン的に楽しい。図解というか。「アニメのできるまで」みたいな。

アニメを作るおじさんたちの「親心」「兄貴ヅラ」「若者を見守る目」。

そういったものが、何より愛おしく可愛く見える。

アニメ映像研は、そういう作品だと思う。

映像研の感想

酔っ払っている。

映像研。

今、アニメ6話まで見たところ。

原作漫画アニメを本格的に見る前に5巻まで読んだ。

で、原作を踏まえてアニメを見た感想

こんなに「愛」に溢れたアニメはないんじゃないか

作中で3人の少女は、アニメを作ろうと奮闘する。

設定を作り、動画を割り、資金環境をかき集めて、なんとか作品を形にしようとする。

で、その作品は、原作作中いくつか「その時点での最善」に過ぎないながら完成する。

しかし悲しいか漫画作品。完成した作品を、読者は「アニメとして」鑑賞することができない。

そこで今回のアニメである

完成したアニメを、アニメとして、そしてアニメならではの感受性表現(ex.予算審議委員会)をもって魅せてくれる。

それだけじゃない。

アニメ制作する過程の部分も、「現実ならこうだぜ」「俺らならこうするぜ」と、実際の現場感覚アニメの作り手自身が持ち込んで足している。

決して「現実をナメるなよ」というニヒリズムや諦念ではない。

強いて言うなら、現れているのは「おじさんをナメるなよ」というプロとしての矜持だ。

映像研の3人の少女は、歓迎を以てアニメプロのおじさんたちに受け入れられたのだ。

「実際作るならこうだろ」「この方が画としていいぜ」「あーそこで苦労するよな。わかるわかる」

粗削りで、未熟で、それでも熱意だけはある3人娘は、アニメを作るおじさんたちにとってほっておけない存在なのだ

祝福をもって、受け入れられたのだ。

そして、アニメプロたちに笑顔で迎えられた人がもうひとりいる。

他でもない、原作者・大童澄瞳氏、その人である

エンディングアニメーターとして参加したことがその証左だろう。

原作映像研は、アニメーターに憧れて挫折した大童澄瞳による、アニメ業界へのファンレター…というかラブレターだと思う。特濃の。

で、このアニメは、アニメからの、湯浅政明監督からの愛に溢れたアンサーだと思う。

エンディング動画を見ると、大童澄瞳は現時点ではやっぱりアニメーターとしては並以下だと思う。

(おそらく、浅草氏に近い画的資質を持つ人なのだろう)

それでも、毎回必ず流れるエンディングで、メインアニメーターとしてクレジットされている。

これが、業界の先輩の愛でなくて何なのか。

原作映像研という「アニメって/アニメーターってすげえんだぜ!」というラブレターに、

「お前が思ってるよりもっとすごいぜ!」あるいは「そうまで言われちゃやるしかあんめぇ」と粋な回答を示す。

それでいて、そのラブレター勇気づけられたことに感謝も示す。

偶然かもしれないけど、サイエンスSARU(制作会社)と映像研のロゴの重ねっぷりなんか、愛と愛の応酬しかないでしょ。

アニメの作り手は原作に、原作の描き手はアニメの作り手に、

お互い元気をもらい、お互い感謝しあって、お互い認めあって。

その結晶が、このアニメ作品なのだとしたら。

それが傑作に、ならないわけがない。

余談

それを於いても、特に浅草氏のイメージ段階の画は、コンテのまま見せる、動画を割らなくていい、等作り手として楽できるポイントでもある。

そういうところを衒いなく取り込んで悪びれないのはやはりプロだと思うし、鑑賞者もスケルトン的に楽しい。図解というか。「アニメのできるまで」みたいな。

アニメを作るおじさんたちの「親心」「兄貴ヅラ」「若者を見守る目」。

そういったものが、何より愛おしく可愛く見える。

アニメ映像研は、そういう作品だと思う。

2019-12-26

無能の人

高校以前

私は比較好奇心が強い子供だったと思う.小さい頃から親になんでなんでと訪ねては疲れさせていた.小学生の頃,調べ学習が大好きだった.調べ学習時間では,その時間が始まるといてもたっても居られなくなり,先生の言うことを聞かずに行動して怒られたりしていた.

中学生の頃は,物になぜ色がついて見えるかを調べた.それを調べている時はとても楽しかった.階段状に並んだタイルの総数を考えたり,N次元空間に置かれた立方体がある視点から見える最大の面数は何か疑問に思ったりしていたこともあったっけ.

母親は欲しい本はなんでも買ってくれた.ラノベ宇宙の本を買ってもらった.雑学の本も好きだった.ブラックホールが発生してから蒸発するまでの話に私はとてもワクワクした.

私が友達なんていらないと思うようになったのは,中学生の頃,同じクラス女子が原因だった.彼女は手下にできそうな私を見つけて,私を支配下に置いた.私はそれ以来人間不信のような状態になった.

私が自尊心がないのは両親の不仲が影響しているようにも思う.父親が帰ってくるたび毎日家がピリピリしていた.母親は私が中学3年生の頃家出してしまった.その時は毎日泣いていた.学校休みがちになった.父親料理ができないから,コンビニ弁当ばかりだった.その頃,母親浮気していたと思う.私はとても寂しかった.人生は結局一人なのだと思った.

けれど,母親は結局,私を別居先のアパートにいさせてくれた.学校をサボって,会社をサボっている母親映画を見た.映画のシーンでセックス描写があったときに後ろから目隠しをされた.母の手は暖かくて,なんだか嬉しかった.

高校時代

高校受験の時は,親に経済的負担をさせるまいと,確実に合格できる公立商業高校情報処理科を受験した.

高校では友達を作らないようにしようと自分の殻にこもった.入学直後,女の子がお弁当を一緒に食べようと誘ってくれたが断った.友達になろうとしてくれた人の誘いはほとんど断っていた.

けれど,部活には入部した.商業高校だったもの科学への興味があったため科学研究部に入ったのだ.

生物ドクターを出た先生顧問だった.高校2,3年生の頃は水生生物調査が主な活動だった.部活顧問は「お前はドクターまで進学した方がいい」と助言してくれていた.

この頃も,宇宙の本を読んでいた.その本は量子力学に関する奇説を扱う本だった.この宇宙は,あらゆる状態分岐に応じて,並行して無数に存在しているという説もあった.今生きている私というのも,無数に存在する宇宙のうちの一つの認識している自我しかないのかもしれないと思った.宇宙にとって私とはエネルギーの濃淡の揺らぎ,またはセルオートマトンの点滅.私が生きていようが死んでいようがどちらも美しくなりたつ宇宙に思いを馳せた.

大学受験では,文系高校から理系大学への進学は難しかったが,やはり理学への興味が尽きなかった私は,理系へ進学することを決断した.高校では数学はIとIIしかやっていなかったため数学受験勉強は独学で行なった.私はひどく頭が悪いわけではないけど,かといって大して頭がいいわけではないから,低い偏差値大学の推薦入学だったけど,それでも苦労した.

何回か,母の前で自殺するふりをした.反抗期からか,勉強ができないストレスか.ある日,母に他の男の気配を感じた.当時の私はそれがたまらなく許せなかった.死んでやる,といって包丁を持ち出して,自分首に突き立てたりした.本当は死ぬつもりはなかったけど,別に死んでも構わないとも思っていた.

大学時代

高校で,中学生の頃いたような人間には出会わなかったので,大学では友達を作ろうと思った.

また,研究に対して大きな憧れを持っていた私は,すぐに研究室に配属を希望した.その教員は快く迎え入れてくれた.3年生の頃には,先輩の卒論を手伝うほど知識がついていた.今思えば,あの頃が最も楽しく知識を身につけていたと思う.授業でも良い点を取ろうとか考えてなかったので,授業を聞かずにオリジナル(?)のアルゴリズムを使って手書きボロノイ図を書いたりして自由に楽しんでいた.外部発表もしたし,卒業論文特に苦労もなく書き終えた.この頃,「ゲーデルエッシャーバッハ」という本に出会って,その本に魅了された.

大学院 (修士時代

いつからか,「論文を出さなければならない」,「自分は周りと比べて劣っている」,という考えにとらわれるようになった.体調的にも良くなかった.学部の頃からカフェインの大量摂取昼夜逆転生活慢性的睡眠不足運動不足栄養不足などが祟ったのである.締切前になっても全く焦りが働かなくなった自分に気付き,おかしいと思って心療内科に通院し始めた.修士論文も提出しなければいけないのに全く取りかかれなかった.学部の頃からお世話になっていた指導教員ではないO先生がそんな私を見かねて,一緒にLaTeXを書いてくれた.一応提出はできたけど,修論発表を終えた後は悔しさで泣いた.

大学院 (博士時代

それでも私は博士へ進学してしまった.修士の頃からドクターは進学しようと決めていたし,エネルギーの低くかった私は,判断を変えるほどの力がなかったのかもしれない.正直,そんな覚悟博士をやっているのは日本でも私ぐらいなのだろうと時々思う.幸い,修士から学費生活費は奨学金授業料免除アルバイトで何とかして親に頼らずにいられた.

博士の間はずっと,健康を取り戻すために時間を使ってしまった.カフェインを断ち,夜更かしを辞め,休日は一切休むことにして,睡眠を十分にとり運動もして,という生活を送った.論文よりも睡眠運動を優先した.O先生博士の間もずっとメンタリングしたりしてくれた.なんとか学会論文を2本書いたが,卒業要件でもあるジャーナル論文が完成しない.とうとう何もできないまま3年生になってしまった.

現在: 自分について考える

O先生に,成果という葉にとらわれず自分という根を大切にしなさいと教えられた.成果にばかり気を取られていると自分エネルギーが朽ちてしまうというのだ.確かに思い当たると思った.そもそも自分ってなんだっけ?と思った.ドクターには,「自分」が必要なのだ.でも私はそれがなかったのだ.目の前の成果だけしか考えていなかった.

自分はなんのためにドクターをやるのだろう?一瞬,救済を必要とする人や弱い立場の人のためになりたい,と思ったけど,本心からそう思っているか自信がない.ひとまずそう思うことで安心したいと思っているだけかもしれない.自分とは,ちょっとした好奇心を満たすのが好き,それだけだった.

私はなんのために生きているのだろう?私は高校生の頃からセルオートマトンの瞬きにしか過ぎない人生などに,意味を見出すことはできなかった.

死の淵に立てば,生きる意味が見出せるかもしれないと思った.服薬自殺病院巡りをして薬が準備できるのに時間がかかりそうだし,飛び降りは失敗した時が怖いと思った.死ぬときは失血死か,首吊りかどちらかにしようと思った.結局,なんとなく気が進まなくて,自殺の手筈を整えるのはできなかった.

文系先生に生きる意味相談したところ,その先生四諦八正道の考えを教えてくれた.確かに考えても意味はないのかもしれないが,考えるのをやめることは難しかった.

哲学科の先生にも訪ねた.私の考えはニヒリズムに分類されることがわかった.達成することに意味がある,後世に何か残すことに意味があると見出すのはナチュラリズム と呼ばれるものらしい.私はどうもその考えはしっくりこなかった.その先生ニヒリズムの考えを持つ中島 義道という哲学者を教えてもらったので,後でその人の本を読んでみようと思う.また,哲学の入門として,図書館にある,哲学雑誌現代思想を読んでみることを勧められた.

現代思想出会った

現代思想12月号は巨大数特集だった.2chの「一番でかい数を書いたやつが優勝」スレから始まった日本巨大数ブーム歴史や,ふぃっしゅ数小林銅蟲(パルの人)の漫画が載っていた.11月号は確か,反出生主義についてがテーマだったと思う.

まだちゃんと読んでないけれど,あぁ,私はこういうものを読みたかったのだ,と幸せを感じた.

私は毎日,贅沢ではないけれど,質素暮らしていけるだけのお金があって,現代思想とかを読めればそれだけで幸せなのだと悟ったのだ.

これからについて

諦めずにドクターを取得するのか,ドクターをやめて就職活動をするのか,決断しなければならない.

私は毎日研究室のデスクに座っては,ぼーっと研究以外のことをして時が無情に流れていくのを待っている.

こんな私が社会に適合できるのかどうかわからない.これから私は一体どうすればいいかからない.

2019-11-12

1990年代映画と、現代のなろう小説に見る、若者にとっての世界必要性について

結論を言うと、現代若者世界に愛想をつかしており、救う価値が無いと思っている、ということである

一方、資本階級である老人は、この世界は皆にとって素晴らしく、救う価値があると思い続けている。

映画創作で人気が出るものは、その時代二次創作であるターミネーター北斗の拳冷戦時代の「いつか核が落ちて世界が荒廃してしまうかも」

という恐怖の二次創作として、読者は共感し、物語に入り込んだ。

どちらも来るべき運命を、救世主が救うというストーリー。当時の皆はこの世界は救う価値があるし、自分が上に立って救いたい、という救世主に憧れる思想があった。

当時は若者がそれなりに多かったし、世間の目も若者に向いていた。

しかしそういった作品も、冷戦が終わり、反戦雰囲気が醸成されていくにつれ、

そこから最終兵器彼女エヴァンゲリオンスターウォーズwp1も、ある意味セカイ系に近い。のような、「大人の事情」によって子供世界を救わされるという作品が幅を利かせてくる。いわばセカイ系と呼ばれる作品だ。

ここまでは、まだ現代舞台で、この世界は救う価値があるかはわからないが、自分英雄になって世界を救ってみたい、といわば中途半端思想だった。しかし、スターウォーズジュラシックパークが幅を利かせてきたように

「ここでないどこか」への幻想というものが生まれてきたのもこの時代なのではないかと思う。

そこから異世界系の物語ゼロ魔だとかが人気になる。千と千尋の神隠しもそうだ。「大人の事情」によって子供が「異世界を」救わされるという作品が表立ってくる。

しかしここまでは、この世界は救う価値があるかもわからないけど、戻る価値はあった。自分英雄になって世界を救いたい、という思想は残っていた。

そしてそこから不良マンガ流行った。一種パラダイムシフトなんかではないかと思う。

この世界は救う価値は無いが、少なくとも自分の周りの地域は救う価値はあるんじゃないか地域の中の英雄くらいには慣れるんじゃないか、という思想

しかしそれもすぐ終わる。不良が色々やらかしたのを見た人々は、反骨精神も、世界価値も、英雄譚的物語も、現実だとしょうもなくくだらないものに見えてしまった。

全てが虚無でダサいものになってしまった。というより、不良は伝統と化した。

特攻服を買うのは一部の金持ちのボンボンの子だけで、不良的ツッパリも逆に今の教師世代からは推奨される始末。twitter決闘の話が、守るべき貴重な青春物語として保護されるようになった。

そして現代に至る。景気は良くなってると言うけれど、肥えるのは中年資本家だけ。若者は職にはありつけるが賃金は低い。年金問題がよく語られるが、それを見て解るのは

貧しい若者の金が、さらに肥えてる中年に吸われていく絶望的な営み。消費税が上がって、年金問題解決すると喜ぶ老人たち。世の中にあふれる物語も、左翼全盛期の中年の為に用意されたポリコレばかり。

洋画シリーズ物興行収入を稼ぐものばかり。結果、なろう小説流行る。

なろう小説は「行きて帰らない物語」だ。英雄になりたいとは思っても、ニヒリズムに溢れた主人公で、人の上に立ちたいという欲望は薄い。

この世界は救う価値が無くなり、英雄にはなりたいけれども、人の上には立ちたくない。自分の周りの大切なヒロインを守ってればそれでいい。

という価値である一億総るろ剣時代だ。皆を助ける事は出来ないが、自分の周りくらいなら助けられるだろうと言う世界観。

現代を救う話は、共感できなくなってしまった。むしろ現代を壊す側の方に感情移入してしまう。

天気の子が売れたのも、そういう世相を反映してるのではないかと思う。君の名はまでは小さな地域を救う話だったが、天気の子はセカイを壊す話だ。

ゼロ年代あたりで生まれセカイ系物語に対する回答、「一人の子供ですら潰して利用する世界価値はない」という回答。

「何も知らないままで、知らないふりをしてる」豊かな人たちに「何も足さず、何も引かないでください」と訴えかける作品

ジョーカーが人気が出たのも、そういう世相を反映しているからではないか

現代を描くには否定的になり過ぎ、異世界を描くには肯定的になり過ぎる世界。この先はどうなるのだろうか。

異世界にすら絶望して、人一人、自分すら救えない話になるのだろうか。

ひょっとすると、ジョーカー一種異世界モノなのではないかと思う。兎に角世界を壊して、勝手に皆が英雄として崇め、ニヒル笑顔でそれを見つめる。

今時世界を救う話なんて流行らないんだよな。

anond:20191110185048

俺は男だけどそういう世界は見てみたい(自分空気になったうえで)

ただ

そうなると今度は女女間差別とかが起こるんだよ、たぶん

(男だけの単性社会が実現しても男男間差別絶対に起こる!!!!)

たとえば、性格乱暴とか清潔でないとか「男っぽい」女性差別対象になるとか

その昔、ドイツナチス政権てのができたら

ユダヤ人だけは可哀相な目にあったけど

多数派ふつうゲルマン民族には夢のような理想郷だったかというと

そんなことはなく

「お前、祖父の代までさかのぼったら純粋ゲルマン人じゃねーだろ」

「お前こそ、曾祖父の代までさかのぼったら純粋ゲルマン人じゃねーだろ」

「お前こそ、曾々祖父の代までさかのぼったら純粋ゲルマン人じゃねーだろ」

「お前こそ、曾々々祖父の代までさかのぼったら純粋ゲルマン人じゃねーだろ」

と、際限なくゲルマン人同士で純粋を競い合ってマウント取り合う差別社会になったらしい

わざわざ定規で額の面積とか顎の長さとか測って

頭蓋骨の形が純粋ゲルマン人らしいかどうか調べ合ったとかい

から

世の中が女だけになっても

世の中がユダヤ人だけになっても

世の中がチベット人だけになっても

世の中が被差別部落出身者だけになっても

世の中がハンセン病罹患者だけになっても

世の中がツチ族だけになっても

やっぱりその中でヒエラルキーはできるし、醜い権力闘争は起きると思うのね

でも、だから人間は汚いというニヒリズムを気取りたいわけじゃない

「男/女」とか「金持ち勝ち組貧乏」とか「若者/老人」とか「漢民族ウイグル人」とか「日本人在日」とか「白人黒人」とか「セルビア人クロアチア人」とか

さまざまな強弱力関係が入り乱れて、絶対弱者絶対強者もはっきりしない状態ぐらいが"比較的マシ"(最善ではない!)のではないかなあ、と思う

2019-11-02

物語喪失彼岸

中島: ポストモダンというのは基本的に「色即是空」としか言っていない。

仏教はそこから空即是色」としてこの世界を引き受けようとするところがある。

ポストモダン的に言うと、すべてのものには本質根拠意味なんかなくて、単に名前をつけられた存在にすぎない。

から脱構築して宙吊り状態で生きろと。

でも仏教は、であるが故にこの世の中をどういうふうに引き受けるのか、この現世の中で意味ある生を生きていくのか、その精神をもう一度問う。

そこがポストモダンを乗り越える一つの入り口になるんじゃないかと思ったんです。

http://technique.hateblo.jp/entry/20110602

色即是空というとニヒリズム的な響きがあるが、ニヒリズムといえばニーチェである

科学的知性や理性によって神を殺した我々は、もはや神によって与えられた生きる意味価値を信じることはできない。

そうして無意味になった人生に対して、彼はニヒリズムの打倒を叫び、生の肯定要求した。

大乗仏教色即是空から空即是色へという流れはこれに似ているようにも思える。

しかすると次のようなことが言えるかもしれない。

仏教とは、あらゆる物語を剥ぎ取った上で展開された思想である

色即是空的な宗教的真理に基づき、初期仏教上座部仏教は現世から解脱志向し、大乗仏教はあえてこの世界で生きようとする。

仏教物語喪失彼岸にある思想であり、神の死を乗り越えて生み出された価値である

もしこの考えが正しければ、仏教は一躍、現代思想メインストリームに躍り出ることになる。

西洋哲学ばかりでなく東洋哲学にも目を向けておくべきだな。

2019-09-09

世の中に馴染めない

さびさに人間と共に過ごして辛くなってきた

自分自分でなかったら、とこれほど思うことはない

今日もまたジャニーズの話になってしまって、無言でお茶を飲んでいた

ああこの人たちがジャニーズの話なんかしなきゃいいのに、と思うが

会話の内容まだコントロールする権利など無いわけで

他人が思い通りにならないことに苛立ちを感じることは、一体何歳になれば卒業できるのか

(この歳までダメだったのだ。生涯このままの可能性の方がが高い)

悲しいことに未だ苛立ちという感情封殺することが出来ないので、せめて隠し通そうと2人が話している間私は疲れたふりをして無言でいたのだ。(本当のところ拗ねていただけだ)

コントローラブルからは程遠い人生翻弄され、他人が思い通りにならないことを赤ん坊のように苛立っている自分にも、この無力な人生にもうんざりするし

ただなんの意味もない気がする

きっともっと人間に近い人間に生まれられれば、こんな風に自分から一歩引かずに「どうして私が興味ないってわかってるのにジャニーズの話するの!💢」とか言って不機嫌になれてたかもしれない

そうすれば優しい友人のことだから、私に気を使って別の話題に移ってくれただろう

結局のところ、言うべきことを言わないことで人生が思い通りにいかないのだ

しかし、他人が思い通りに動かないことには苛立つが、思い通りにしたいとは思わないし

幼稚な事を言えば、後から幼稚な発言をした自分にも嫌気がさすことは目に見えている

他者と関わる事で自分を感じるとは言うが、この臆病で陰険で幼稚な人間性を感じたくないから、人付き合いは嫌いだ

人間自体は好きなのだ。話すのは好きだ。人肌も好きだ。副次的に発生する自己認知が嫌いだ。それは特に自分他者が違えば違うほどはっきりと感じられる。

ああなぜ私は私なのだろう。友人すら他者と呼ぶほど他人との距離が遠い。人に心を開かない。パーソナルスペースは広くとりたい。近づいてこないでほしい。肉親の葬式でも泣かなかった。泣くべきだったのに。大事なのだが、大事分の執着がもてない。他人に興味がもてない。そして一応アスペではないのだが、軽度にその傾向が入っているのは確かで、興味のあるフリすらできない。

人は色々なものに執着していられるので羨ましい。好きなものがたくさんあったら幸せだろう。どうして好きでいられないのだろう。その辺のオスを運命相手だと信じ込んでヒロインになれる動物的に正しい人生があってもいいじゃないか

羨ましい。他人のことが好きで、興味を持てて、人間と常に過ごすのが苦でなく、同族と群れを作り生きる人々が。

一方で彼らのようになりたいとも思わず、彼らを嫌い嫌悪している自分もいる。

人とは仲良くしたいが、距離を置きたい。でも都合がいい時はそばにいてほしいと思うのだから傲慢だ。自分自身の傲慢さを許容できればよかったのだが、残念なことに健全精神の育成に失敗した半生のせいで理想には程遠い自分を許すことができない。こんな傲慢自分を人に見せるわけにはいかないので、他人とは取り繕えるだけの短期しか会いたくない。

自己の中で色々なことが相反し、それを処理しきれない。処理しないまま傍若無人に生きている人もいて、そうなりたい気持ちと、別にどうでもいいような気持ちと、ああはならないようにしなくてはという強迫観念から逃げきれずにいる。

それはジャニーズを好きになりたい気持ちと(人間の女に迎合したい)、別にどうでもいいような気持ちと(生来興味がないのだと思う)、あん馬鹿っぽい奴らを(と母がいつも言っていた)奴らを好きになってはいけないのだという観念によく似ていると思う。

どうなってはいけないか、どうしたらダメか、といつも考えるのだが、肝心の自分が「どうしたいか」ということはよくわからない、というかあまりその欲求がない

どうにもなりたくない。

しまなければそれで良いのだが、幸せを勝ち取ろうとしない限り+1どころかマイナスに陥るのが人生だろう。(下方婚増田系の増田はその辺を理解していないのではないかと思う)

人生が0に近づければそれでいいのに、漸近線で永遠に0には近づかない。プラスを望む人間は少なくともマイナスはいないように見える。

生きていくのはよくわからない。あと10分生きること、あと10年生きること、何が違うのだろう。終いには全てなくなる。自分死ぬことを私は観測できない。よくわからない。この溺れ続けるような人生意味が。

上へ、水面へと、もがかなければ沈み続ける。

しかし、どれだけもがき続けようと最終的には沈む。早く沈んだほうが楽ではないか

しかし、それは間違った考えで、世の中というのは皆が正しいということの方が大抵正しい。私だって昔は多くの間違った考えを持ち、それを正しいと信じていたいたが、成長するにつれて自分の間違いのほうが圧倒的に多いと気づいた。

まりこの死生観は間違いである。少なくとも、幸せ人生を送るためにはニヒリズムを捨て去る必要がある。

だが、ニヒリズムとの付き合いは遡ること幼稚園の頃からのことであり、エラーのように生まれてくるニヒリストの1人が私であった不幸はもう取り返しがつかない。

意味がない人生に、「意味を見出すことが幸せである」と信じながら、見出せずに生きていくのだろう。

世の中に馴染みたい。だがそれにもなんの意味もない気がする。このような思考こそが全く意味がないことであり、今は明治時代のように人生意味など考えている暇があったらタピオカの列に並ぶのが正義である時代だ。ああつまらない。人など皆死ねばいい。

せめてこの世に絶望することぐらいは否定しない世だったらよかった。しかし、嘆きは文句と取られつべこべ言わず幸せになるなり死ぬならしろというのが今の世だ。

黒板の上に学級目標の「ポジティブに」の文字に押し潰されそうな気持ちでいた頃から何も変わっていない。

ただ私だけ禅問答のドツボにはまり人生を嘆いている間に、人は実態幸せを手に入れたり捨てたりしているのだ。取り残されていくように思うが、初めから私は同じところにいなかったようにも思う。

2019-08-16

政治家しろジャーナリストしろ、9割は無能な凡人なんだよね。1割の有能な人間による真っ当な仕事によってその役割が果たされている。とはいえ、その1割を支える土壌は9割の肥溜めだったりもする。研究職とか、アートや娯楽と同じようにね。

安易ニヒリズムというか、「○○はもう終わり」みたいな冷めた態度をかっこいいと持て囃すのはいい加減やめないとなぁ、と思う。自戒も込めて。

2019-06-27

介護問題って死ね解決しない?

俺はマジで自分が不可逆的要介護老人になったらさっさと死にたいのだが。

そうなったら無理やり長引かせる生よりも、苦しくなく明るい感じの死をコーディネートしてほしい。

これだれでもそうなんじゃないの?ニヒリズムとかじゃないよね?

ただただその踏ん切りがつけづらいばかりに苦しい末期と莫大な介護負担があるわけじゃん。アホらしくね?

死を迎え入れることさえ出来れば生がよりよくなり子や孫にも過度の負担を掛けない。

ダメになったらさっぱり死のうよ。

2019-05-08

ヴァギナ力」のこと「性的アイデンティティ」とか言い換える不毛

1.ヴァギナ力の介在を認めよう

男性の、性的アイデンティティの堅固さって何で保てるのかよく分からない。

その辺揺らいでる男性ガチセクシャルマイノリティ殆ど

それ以外は何の疑問も持ってないのがデフォに見える。

https://anond.hatelabo.jp/20190505075638増田の反応見ても

これ女だったら人生で一度は似たような事考えた事あるだろと思うけど

男性(と思われる人)は皆茶化してるか理解不能という反応ばかりで

本当に男性ってこの手の事考えた事一度もないんだな、と思う。

当たり前じゃん!


じゃあはっきり言うけどさ、

女は異性を捕まえる上ではヴァギナ力(う゛ぁぎなりょく)という巨大なパワーで下駄履いてるのよ。

別にまんこでもいいけどここではこの問題を語る時の美輪明宏の語彙であるヴァギナを使う。)


女性の「私が女じゃなかったとしても結婚したの?」

これもはっきり言って欲しいなら言うけど、そんなんかなりの割合で「NO」だろうよ。

女でなくても結婚するなら男と結婚する男が今より大勢居る筈だろ。

それ本当に聞かなきゃわかんないの?

それとも答えはNOだとわかってるのに圧迫尋問でYESにさせたいの?


ネットコミュ障語りとか社会不適応語りとかでもわかるでしょ。

その語り手が男なら友達も居ない交際経験も無い全部閉じててずっと孤独ですってなるけど

女ならなんだかんだいって遅くとも大学では数人と付き合ってて現在彼氏がいるとか結婚してるとかになる。

すっごい人付き合いが出来ないとか悩んでるとか孤独だとかいいながらしれっと異性のパートナーはいる。


なんでそうなるか?

ヴァギナ力じゃん。

ヴァギナがあるのでそれがニーズを生んで異性の方からアプローチしてくれるからコミュ障でもパートナーができる。

男のチンコにはそんな需要やパワーはないのでコミュ障にはなんにも起きない。

女のコミュ障には人間的魅力(笑)があって男のコミュ障にはないのか?

んなわけねーじゃん。

同じぐらい閉じた人間でもヴァギナ力があれば引き合いがあるってだけ。


2.構造直視しよう

性的アイデンティティ

女性の「私が女じゃなかったとしても結婚したの?」

これって要するに自分が異性のパートナーを獲得するに当たってヴァギナ力で下駄履いてきたという事実から目をそらしたいだけでしょ?

何をなんか哲学的実存的な質問の風を装ってんだよ。

自分で答しってることを圧迫質問他人の口から否定させようとしてんじゃねえ。


お前は世間的な最大のセールスポイントを取っ払っても誰かから親密になりたいと思われるほどのすげえ人間なのかと。

一見卑屈風だけどすごい自信家というか欲しがりだよね。

どれだけ肯定されたいんだよ。

世の中にそんな特別人間いくらもいないんじゃないの?多くて1パーセント以下じゃね?

みんな何か現実的メリット相手提供して付き合うんだよ。


これはニヒリズムじゃないぞ。

性的アイデンティティ」さんの空論の方が人を苦しめる妄想しかないじゃん。

やたら特別人間として求められたいっていうの、変なフィクションコンテンツの見過ぎじゃね?

あなたたまたま何らかの距離が近い人間しりあって現実的メリットの交換で距離が縮まって付き合ったり結婚したりするんです。

あなただけでなくみんなそれだけです。

別に嫌なことでも気分悪いことでもねえだろ。

事実を見ろよ。

いい大人がこの世にありもしない「特別関係」を大真面目に語るな。中学生までだろそれ。


3.「ヴァギナ力の存在直視すべき」by美輪明宏

美輪明宏は男と長続きしないっていう女から人生相談で

最初あんたがチヤホヤされるのはヴァギナがついてるからで、それ以外に何も無ければ飽きられますよ」って厳しく言ってた。

ヴァギナついてない女装者としてはそりゃ恨み込めて言うよねそこは。

自分が魅力的な男と付き合ってこれたのはそれこそ自分特別な才能や能力のおかげであって、お前等凡庸な女はただのヴァギナ力じゃねーかと。


で、美輪はもちろんただ恨み節するんじゃなくて「だから飽きられて捨てられたくなければヴァギナだけの馬鹿女にはならず中身を持ちなさい」みたいなこと言って励ましてたし、ほんとにヴァギナだけの頭悪い女は頭悪い男しか接点もてないだろうけど、ヴァギナ最初突破口になったり繋ぎとめる重要な要因になったりするのは事実であって、そこを否定して何になるの?


性的アイデンティティのゆらぎ」は、「知れ切ってる事実否定しようとしてる変な心の動き」としか思えない。

なんで否定したい?ヴァギナ力が恥ずかしいの?

恥ずべきことではないと思うけど別に

はしたないってこと?いつの時代の人だよ。


4.オスは先天的需要がない

動物の話で言えば

メスは最低限自分の子を産める。最低ライン保証がメス。メスというだけでニーズがある。

オスは勝ち負けが激しい。最低ライン保証が無いのがオス。オスというだけではニーズがない。


女性の「私が女じゃなかったとしても結婚したの?」の男性版は「俺が貧乏だったとしても結婚したの?」だ、と言われてるけど

じゃあ金のない男性性的アイデンティティ揺らいでるかというと別に揺らいでるようにも見えないし。

男は需要がないのがデフォから、基本状態では誰からも狙われないの。

から不安定にもならない。

はなから財産無くて自分で食い扶持稼ぎなさいって言われた人間は心が安定してるだろ。

これが男。


女は女ってだけで男から狙われて引く手があるので、浮かれるし不安定にもなる。

なんかすごい財を持たされてしかもその値打ちがどんどん変動していって

上手く換金しないと損しますよ後悔しますよなんて言われた人間はどうしても心が不安定になる。

これが女。


男の競争弱者再生産とか家族とかから一生疎外されて孤独死するけど、

まれからずっと財産持たない状態なので心は安定しててゆらがないわけ。

女でも真性の喪女(心身の支障でマジでニーズがないか、もしくは自ら積極的財産放棄した者)は男と同じように安定しててゆらがないんだと思うよ。


ヴァギナ力のせいで財産防衛しなきゃいけなかったり望まない相手を追い払ったりとかヴァギナ力の負の面は大声で強調するのに、

ヴァギナ力のポジティブ面は事実として受け入れることすら出来ずに「性的アイデンティティのゆらぎ」とか変なこと言い出すの

ずるいとかいうよりただ馬鹿なんだとしか思えないわ。

物事ちゃん考える力が無いからそういう支離滅裂な考えに固着する。

持たなくていい不満を持つ。


5.自分以外のことを考えよう

これ女だったら人生で一度は似たような事考えた事あるだろと思うけど

男性(と思われる人)は皆茶化してるか理解不能という反応ばかりで

本当に男性ってこの手の事考えた事一度もないんだな、と思う。

そりゃ男はそんなこと考えない。

男は素のままの自分が愛されるなんて妄想を持つチャンスが無いので。

稼いだり名を売ったり能力をつけたりして自分に着けた外部的なもの需要を得るんだと最初から思ってる。


「ボクが稼がなくてもボクを選んだ?」なんて聞いてくる男に好感持つか?持たないだろうに。

男でそんなこと真顔で言うのは生育環境問題のあった何らかの人格障害者か、若い頃に素だけでモテまくったよっぽどのイケメンかだ。

(このあいだ元トップホスト42歳が「もう一度輝きたい」つってyoutubetiktokやるという痛々しいドキュメンタリーNHKでやってた。

 あれは男だけど「性的アイデンティティクライシス」に苛まれてる人。可哀想あほしか思えない。)


ヴァギナ力なしでも惹かれてくれる男を選びたいならヴァギナを切除して髪も切って男みたいに装ってから相手探せばいいじゃんよ。あほくさい。

男で言うなら「ボクはありのままのボクを愛してくれる女性めぐり合いたいので手足の腱を切りました、子供並みの筋力と労働力しかありません」

とか言ってる基地外見て魅力を感じたり尊敬したり出来るか?

自分のことばっかり考えてるろくでもないナルシスト」って思うだろ。


パートナーにそんなに清い動機を求めるなら、自分は同じ問い詰めに耐えられるの?

別に異性じゃなくて同性の友人でも、長所メリット一個一個削除していったら最終的にはクソみたいな奴になるやろ。

削除していくどっかの時点で「こんなんならこいつとそもそも親しくなってなかっただろうな」ってなるだろお前も。

そのくせなんで自分が選ばれる理由だけはこの世にあり得ないようなピュア性や絶対性を求めるんだよ。

男の処女厨とかと変わらないフィクショナル思考だぞそれ。


自分にあれがなかったら~」「これがなかったら~」は自己愛に浸る以外に何の役にも立たない。

自分に備わってるものすべてで相手や周囲を幸せにすること考えるのこそが人の道ではないのか。

2019-03-28

anond:20190327000856

ジャンプは「正義」よりも現状を維持したいだ

本当の正義よりも、サブカルニヒリズム資本主義競争主義

エログロ価値相対主義、そして自分たち正義側だと宣う傲慢

これが醜いジャンプ本音

「本当の正義」?「醜い」?何様のつもりかネ?

君らの言う「多様性」が本物なら、そういう週刊誌があることも認められるんじゃないのかネ?

それを「悪」だと断罪するんなら、君らの言う「多様性」は一体なんの多様性なのかネ?

反差別」についても以下同文

2019-03-27

少年ジャンプってもはや「正義」を必要としないよな

昨今の「正義」つったら そりゃ多様性反差別だろうけど

少年ジャンプ作品って絶っっっ対にそいつらと相成れないじゃん?

 

まず、日本人以外の有色人種は主役にしないし

黒人マイノリティは軒並みヴィラン

恋愛漫画じゃ、同性愛者は必ずかませ犬か、変態精神異常者として描かれる

キャラも主役は張れない、ほとんどがお色気要因でしかない

そのくせ、表現の自由を錦の御旗のように掲げて正義を気取るのは

ナンセンスじゃないか

お前たちが保護したいのは、将来ある「少年」だけだろう?

  

ジャンプは「正義」よりも現状を維持したいだ

本当の正義よりも、サブカルニヒリズム資本主義競争主義

エログロ価値相対主義、そして自分たち正義側だと宣う傲慢

これが醜いジャンプ本音

 

俺にはディズニー並みの偽善か、それ以上の夢の国()に見える

2019-03-14

anond:20190314013445

家族持てば?

家族を持ってる人や自分より大切な人がいる者は、決して人生を投げ出さないからね。

(投げ出せないとも言うが)

でも高齢結婚コスパや掛け率があまりよくないのでムリだとすると、次に来るのは

・つまらないと思うものの中に面白さを見つけるゲームマインドフルネス

・つまらないものをひたすら批判するゲームニヒリズム

面白いかどうかの判断いかに間違っているかを明かすゲーム悟り

あたりだな。

人は幸せのはっきりした理由を探したがるけど、言語化できない幸せ理由があってもいいのではないかと思う。

人は幸せになる方法を知りたい欲求があるが、幸せ理由を知った途端に次の幸せを求める不幸が始まったりもする。

言語化できない幸せというのは満足度が低い?

しかし、言葉がなくても幸せと感じられれば「世間の枠」にあてはめられずに生きていけるから気楽でいい。

マインドフルネス思考に近いが、言葉に反応しない幸せもあるということだ。

2019-02-26

anond:20190226040526

 「世界」といっても「主観的世界」すなわち「世界観」では?

 もし、本当に世界全体ということになると

宇宙全体の中では地球上の出来事など取るに足らない」

人類史全体の中では個人人生など取るに足らない」

 ということにもなりかねない(ニヒリズム?)。

 そうなると「スケールのでかい」話が好みなだけでは?

松本零士戦場まんがシリーズ

 が例に挙げられているのなら分かりそうなものだが。

 あれは別に第二次世界大戦終結させる」漫画じゃなかったような気がするが。

 (第二次世界大戦テーマで「世界の本筋」となると「戦争終結」ではないか?)

 ただ、ややこしいのはゲームキャラクターゲームユニットでありゲームバランスなどがある。

 そこがストレスなのかもしれない。

 ついでに本筋とは関係ないがステーキ蕎麦比較して、なぜステーキが上位存在とされるのか?

 肉を焼いただけのステーキなんかより熟練の技の求められる蕎麦(蕎麦切り)のほうが上位存在では?

 ひょっとすると自身でも把握していない無意識下に「素材の力」を求める声があるのかもしれない。

 伝わるかは分からないがゲームならカレー的(スパイスの調合)な方向性を目指すべきに思う。

2018-12-22

anond:20181222004526

仏教価値観素人では扱いが難しく、ニヒリズムに陥る可能性があります

仏教での一切皆苦というのは修行が足りていないために有る状態です。

修行を積むと一切皆苦の上の段階につけます。

だが修行というのは自分の方を向いています

そこには他人はいません。

人は他人幸せに貢献することで本来幸せを得ることができます

そういった意味ではキリスト教的な博愛主義こそが幸福要諦です。

あなた必要なのは仕事ではなくボランティアです。

2018-10-30

ブラジル"極右"大統領誕生に寄せて 今度こそまともな分析が出ることを望む

ボルソナロ大統領資質には大変な問題はあるのかもしれない。

だがただ単に資質問題があっただけなら大統領に選ばれないわけだ。

なぜ選ばれたのか。

その理由の冷静な分析がなければボルソナロに対抗する術すら得られない。

トランプ大統領誕生とともに、Brexitという現象2016年にあった。

このとき青天の霹靂だったため、冷静な判断ができなかったという言い訳もあろう。

だがその後にドゥテルテが生まれ、そしてボルソナロが生まれた。

またメルケルはCDU退潮の責任をとって党首を辞任した。

これだけの潮流が生まれて、なお「愚民主義」ですべてを説明しようとするのは、

それこそその愚民未満の愚かな行為である

なぜトランプ・ドゥテルテ・ボルソナロが選ばれたのか。

なぜメルケル思想は退潮したのか。

「正しい思想理解しない支持者がバカから」などという分析にすらならないニヒリズムに陥ってはならない。

はてなでもそうしたニヒリズム蔓延している。

オリンピックボランティア参加者消費税増税支持者に対して安易ニヒリズムに陥っている者は多い。

ニヒリズム知的逃避だ。

不愉快現実から逃げてはならない。

まずは目の前の現実を受け入れたところから分析しなくてはならない。

なぜ支持者がいるのか、その理由を知らなくてはならない。

そんな支持者の存在は信じられないと、地動説拒否した中世カトリック知識層のようになってはならない。

今すべきことは、

ボルソナロがいか差別主義であるかという情報「だけ」でなく、

「なぜ」ブラジル国民ボルソナロを選んだのか、その理由情報に接することである

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