はてなキーワード: ジョン・ロールズとは
資本主義や民主主義の限界に対する修正や改善を目指す学問や思想は多岐にわたり、特に近年では貧富の格差や社会の分断などの課題に対応するための議論がさまざまな分野で展開されています。以下は、その代表的な取り組みです。
1. ポスト資本主義(Post-Capitalism)
ポスト資本主義は、資本主義に替わる新しい社会経済の枠組みを模索する思想です。経済学者や社会思想家の中には、技術の進展や労働の自動化が進む中で、資本主義に基づく経済システムの持続可能性に疑問を持つ声が増えています。ポール・メイソンやトーマス・ピケティなどは、資本の集中が引き起こす格差の拡大に着目し、持続可能な経済の実現のために富の再分配や共有経済を含む新しい制度の導入を提唱しています。
2. 社会的市場経済(Social Market Economy)
ヨーロッパ、特にドイツを中心に発展した「社会的市場経済」は、自由市場経済と社会的福祉政策を融合させたモデルです。市場競争の効率性を維持しながら、労働者や弱者を保護し、公正な所得分配を目指します。社会的市場経済は、資本主義の自由経済と民主主義的価値観を調和させる試みとされ、欧州の福祉国家の基盤となっています。
分配正義(Distributive Justice)は、財や資源の公平な分配を考える哲学的・倫理的分野で、アマルティア・センやジョン・ロールズが代表的な思想家です。特にロールズは「公正としての正義(Justice as Fairness)」を提唱し、社会制度が公平に機能するための条件を提示しています。この流れから、貧富の差を是正する手段として「ベーシックインカム」が注目されており、すべての国民に一定の所得を無条件に支給することで最低限の生活を保障し、貧困や格差の縮小を図ろうとしています。
4. 修正主義的資本主義とESG(Environmental, Social, and Governance)投資
修正主義的資本主義は、持続可能性と社会的責任を資本主義に組み込むことでその問題を解決しようとするものです。ESG投資は、この理念に基づき、企業の収益性だけでなく環境、社会、ガバナンスに配慮した投資活動を推進することを目指しています。企業活動が長期的な社会的利益に貢献するための枠組みを重視し、企業が利益のみを追求するのではなく、持続可能な成長を図ることが期待されています。
5. デル・メトリオクラシー(Deliberative Democracy)と共同体主義
民主主義において、社会の分断やポピュリズムの台頭に対抗するため、「熟議民主主義」や「共同体主義」といった思想が見直されています。熟議民主主義は、市民が公共の場で意見を交わし合うことで、合意形成を目指すアプローチであり、単なる多数決ではなく深い議論に基づく意思決定を重視します。また、共同体主義は、個人の自由とともに地域や共同体の価値を重視する思想で、アミタイ・エツィオーニなどが提唱しており、社会的な絆や共通善を再評価する動きが見られます。
ブロックチェーン技術や分散型台帳技術(DLT)は、新たな経済システムやガバナンスモデルとして注目されています。これらの技術を活用することで、中央集権的な管理を排し、分散的かつ透明性の高い社会システムが可能になると考えられています。ブロックチェーンを基盤にした分散型自治組織(DAO)や、暗号資産を用いた経済圏が試みられており、伝統的な資本主義や民主主義の枠組みを再考する材料となっています。
これらの思想や学問的検討は、資本主義・民主主義の限界に対して、社会の持続可能性や公平性を向上させるための試みとして重要な役割を果たしています。
先祖返りか
https://en.wikipedia.org/wiki/Social_liberalism
社会的自由主義[は、社会正義、社会サービス、混合経済、公民権と政治的権利の拡大を支持する政治哲学であり、自由主義の一種であり、限定的な政府と全体的に自由放任主義的な統治スタイルを支持する古典的自由主義とは対照的である。
どちらも個人の自由を重視しているが、社会的自由主義は、社会的不平等に対処し、公共の福祉を確保する政府の役割をより重視している。
■衰退
1960年代と1970年代の経済問題を受けて、自由主義思想はいくつかの変化を遂げた。
ケインズ派の財政運営は自由市場を妨害しているとして批判された。
同時に、増税で賄われた福祉支出の増加は、投資の減少、消費者支出の減少、そして「依存文化」の創出への懸念を引き起こした。
労働組合はしばしば高賃金と産業の混乱を引き起こし、総雇用は持続不可能であると考えられた。
フリードリヒ・ハイエクの影響を受けたミルトン・フリードマンやサミュエル・ブリッタンなどの作家は、社会自由主義の逆転を主張した。
彼らの政策(しばしば新自由主義と呼ばれる)は、西側諸国の政治、特にイギリスのマーガレット・サッチャー首相とアメリカのロナルド・レーガン大統領の政府に大きな影響を与えた。
彼らは経済の規制緩和と社会サービスへの支出削減の政策を追求した。
社会自由主義連合が崩壊した理由の1つは、1960年代と1970年代に国家政府から独立して活動できる金融利害関係者からの挑戦だった。
関連する理由としては、フランクリン・D・ルーズベルトなどの政治家が提唱した社会主義医療などのアイデアが、赤狩りの最中に保守派、特に前述のレーガンによって批判され、社会主義的とみなされたことが挙げられる。
もう1つの原因は、連合の一部を形成していた労働組合の衰退であり、労働組合は自由主義のコンセンサスに挑戦する左翼イデオロギーの支持でもあった。
これに関連して、労働者階級意識の没落と中流階級の成長があった。
社会自由主義を最も受け入れていなかった米国と英国による貿易自由化の推進は、支持をさらに弱めた。
20世紀末から、社会的自由主義は政治的影響力を失いつつあったが、ジョン・ロールズ(政治哲学)、アマルティア・セン(哲学と経済学)、ロナルド・ドゥオルキン(法哲学)、マーサ・ヌスバウム(哲学)、ブルース・アッカーマン(憲法)など、多くの著名な著者の登場により知的復興を遂げた。
って書いてあるけど?
頭の中でこんな感じのことを考えているお医者さんは別に珍しくもない。
書いているのは設定通りとすれば若い先生とお見受けするが、若い医療従事者が働きはじめて救急外来で出会った生◯やその他のクレーマタイプの患者に怒りを覚えて、稚拙な自己責任論を振り回した文句を書き連ねて炎上してしまうのはもはや年中行事だ。しばらくするとみんな落ち着いてくるが、心の中には自己責任論の延長線にある考え方を秘めた野良リバタリアンみたいなのが医者には多い。
玉木氏の問いである「国民皆保険制度を維持したままコストを持続可能にするにはどうしたらいいか?」という質問に真面目に答える時点で、これはリベラル路線に乗っかっている。玉木氏の術中に嵌っているといえなくもないが、答えているのは国民皆保険制度は維持したほうがよいと考えている真面目でやさしいリベラルな先生たちなのだ。この増田のように「知るかよ、国民皆保険制度の方を壊しちまえばいいだろ」と考えているリバタリアン医者もたくさんいる。
なんか勘違いしている人も多いのだが、国民皆保険制度はとてもとても国民を保護している制度だ。医者の収入の出処が公金で、安定しているように見えるので医者のためにあると思っているかもしれないが、実際は反対である。もちろん国民皆保険が一部の医者を競争から保護している面は否定できない。しかし国民皆保険制度は競争からの保護のかわりに医療から値付けの権利を奪って公定価格を定めている。この公定価格をなんと呼んでいるかというと診療報酬である。保険から支払われるので報酬で別に間違ってはいないのだが、全体にかかった医療費の何分の一は自己負担しているので、患者側からしてもこれは公定価格といっていい。報酬という言葉に引っ張られる形で今回の玉木氏のように診療報酬=医者の収入というミスリードを敢えてする人があとを立たないのも以前からだ。玉木氏のポストにみんなが突っ込む形で何度も説明されているが、診療報酬=保険診療をした上で病院が受け取る対価なので、製薬メーカーへも医療機器メーカーへも、医者以外の病院では働くすべての人の給料の原資が診療報酬だ。
医療費の値付けの本質は「命が惜しけりゃ金を出せ」である。なのでうっかりするとすぐに青天井になる。公定価格のない医療費がいくらかかるのかの典型例がもちろんアメリカだ。医者の間では「医者になるならアメリカ、患者になるなら日本」が定説である。そりゃ働くんなら値付けができる側に回ったほうがいいに決まってるだろ。医療を受ける側に回るなら公定価格があったほうがいいに決まっている、ジョン・ロールズの無知のヴェールをかぶるまでもない。
先に述べたように医者はどちらかというとリバタリアンに傾きやすい。ずっと恵まれた環境で一生懸命勉強してきて、エリート意識を持っている人も多い。だから今の日本の医療制度の枠内でも「自分ががんばって能力を高めたのにそれが自分の収入に跳ね返らないのはおかしい」という感覚を潜在的に持っている人も多い。「俺たちも能力を高めるために競争するから、お前たちも受ける医療のレベルにあわせて対価を払え」という態度に医者全体がなってしまうと、困るのは患者の方である。
東大の文系を出た人たちは医者を蛇蝎のごとく嫌っている。霞が関の中には今の制度を維持したまま、医者を警察官や消防署員のようにしたいと願っている勢力が強いような印象を受ける。東大も出てないのに自分たち官僚より確実に稼げるようになれる人がいることを許せないのだ。そうなると医療がどうなるのかは想像がつかないが、今よりも金はかからなくなっても荒廃していくのではないかと思われる。では医者はその方向を選ぶかというと多分そうはならない。そうなるかわりに今の制度に少しずつ自費で受ける部分が混ざっていくことを容認するだろうと思う。混合診療というやつだ。歯医者でやっているのと同じ、保険で治すと銀歯、自費なら白い歯、というやつ。お金のない人は保険医療しかしない公立・公的病院へ、お金がある人は民間の病院でプラスアルファのお金を払って優先的に受けたい医療をどうぞ、となる。その社会では医者同士に競争が生まれる。たぶん医者はこの状態をわりとあっさり受け入れる。若い人ほどあっさりと。今の時点でこの混合診療導入に一番反対しているの誰だか知ってる?みんなが既得権益の保護団体として忌み嫌っている医師会ですよ。
医者同士が競争するようになって、年取った開業医がついていけなくなって没落していく様が展開されるとみんなは喜ぶだろう。しかしそれが一巡して医者同士が切磋琢磨して、提供できる医療の質を高めて、なおかつそれに自分たちの納得のいくような値付けができるようになる頃には、保険証一枚でどこにでもかかれた時代はとっくに過去のものになり、お金のない人はすっかり縮んだ保険診療の枠内で提供される医療をお金がないからと建て替えもされない古い建物の病院で研修医から受けることになる。とても良い先生にあたったと喜んでいたら、その医者は来月にはあなたの払うお金ではかかれない立派な病院に異動しているかもしれない。そしてそんな時代が来ることに実は多くの医者は心の痛みを感じない。医者はわりとあっさり自由競争バンザイ派に染まっていくからだ。その心象風景を描いたのがこの増田なのである。
覚えておいてほしいのはみんなからみてあまりにも非効率的なこの医療制度が、WHOが評価する世界でもっともすぐれた医療制度ということだ。しかしながらどういうわけだか中で働く人にも、受診する側も不満タラタラなのがこの制度なのである。
リベラリズムの旗手であったジョン・ロールズ(ハーバード)は、原爆投下重罪論者であったようだが、特にフェミニストではなかったようだ
しかしチャールズ・テイラー(カナダ)弟子のルース・アビー(オーストラリア)は、「ジョン・ロールズのフェミニスト解釈」などのフェミニズム論を、ペンシルバニア州立大学から出版した
ロールズがフェミニズムを支持したかのような形になったということは、日本向けか
大学立地のフィラデルフィアは、アメリカ・ユニテリアン協会の本拠地である
日本のフェミニズム論にもうっすらハーバード・ユニテリアン主義の影響が感じられてきた
結局、オボカタ・colaboなどの女性の事件が生じているし、コレが正義ダ!と言っても、誤魔化し易い司法手続があるなら、正義は作られない
先進的な女性のイメージをばらまくカドカワ(ユニテリアンぽいと思うが)の会長が五輪疑惑で逮捕され、何らかの贖罪をすることになるのかどうか
ポスト自由主義は、自己と他者の自由を尊重する社会的公正を指向する思想体系のことをいう。性的な分野での自由を主張する近代自由主義(モダン・リベラリズム)とは異なり、それが人々の自由をかえって阻害するという考え方が根底にある。現代において個人の自由で独立した選択を実質的に保障し、極度の恋愛的、性的は貧富差における個人の社会的自由を侵害する偏見や差別などを防ぐためには、政府による制限や介入をなくしたりするのではなく、政府や地域社会による積極的な介入も必要であるという考えに基づく。
「公正」とは、ジョン・ロールズによれば「立場入れ替え可能性の確保」を意味する。これは人々に「社会のどこに生まれても自分は耐えられるか」という反実仮想を迫るものであり、機会平等と最小不幸を主張する。ロールズの格差原理では、格差ないし不平等の存在は、それをもたらす関係につく機会が平等に開かれており、かつ、それによって社会で最も不遇な人々の厚生が図られない限り、その存在は公正ではないものとされている。
よって、ポスト自由主義は積極的自由に基づく自己決定を推奨し、国家による性の再配分または地域社会による相互扶助を肯定する。すなわち、市場原理主義では経済的、容姿的、コミュニケーション的強者が利益を最大化する一連の行為のために、少子化問題や構造的貧困や介護問題などさまざまな弊害・社会問題が生じ、それは近代自由主義の「意図に反して」人々の社会的自由をかえって阻害しているとし、近代自由主義を修正する思想である。
階級間の融和不可能な対立や中央集権的な統制を是認しない一方で、近代自由主義者のように自由競争が市場における「神の見えざる手」のように最大多数の最大幸福を自動的に実現するとは信じず、政府によって、各人の社会的自己実現をさまたげ、市場や社会における相互の欲求の最適化や調整のメカニズムを阻害する過度の集中や不公正などの要因を除去することが、まさしく「自由」の観点から言っても必要だと考える。
なかでも○○は「自由放任の論拠とされてきた形而上学は、これを一掃しようではないか。持てる者に永久の権利を授ける契約など一つもない。利己心がつねに社会全体の利益になるように働くというのは本当ではない。各自別々に自分の目的を促進するために行動している個々人は、たいてい自分自身の目的すら達成しえない状態にある」と述べ、アダム・スミスに由来する「見えざる手」に信頼する自由放任論からの脱却を求めるとともに、具体的には不完全婚姻均衡からの脱却のための人口政策が、政府によって実現されることを求めた。
https://twitter.com/Morgenthau0217/status/521845540087021569
「正義」と言うと胡散臭く感じたり、他の正義との対立の火種と捉える人も多いでしょうね。でも欧米系の政治哲学では、正義はどちらかと言うと「公正」のニュアンスに近いの。日本のアニメなんかに出てくる「正義の味方」って「善」のニュアンスに近いでしょ。哲学用語の正義は、善とは異なる概念なの。
Fateの主人公の衛宮士郎は、モロにこのツイートにあてはまる「正義の味方」になりたいというキャラ。
主人公なんて大抵いい人でいいことをするから正義の味方なんだけど、Fateは特に正義の味方ということにこだわった作品で、士郎は命がけで聖杯戦争を戦う中で正義の味方になろうとして苦悩する。だから、特に日本のアニメなんかに出てくる正義の味方の概念を考えるのにいいと思う。
そしてFateと対比するのにいいのがタイトルに書いたけどレイシストをしばき隊。こちらはフィクションじゃなくて現実の日本に存在する組織だ。
しばき隊のリーダーの野間易通(kdxn)は自分でしばき隊のコンセプトを細かく説明している。読むとこれがね、国際政治学たんの言うところの欧米系政治哲学での正義であることがよくわかる。ジョン・ロールズの影響を語っているので間違いないだろう。
http://kdxn.tumblr.com/post/81061752924
リンク先。kdxnにとっての正義というのは弱者を守ることではないと説明されている。むしろそういう考えを批判どころか否定するのが大切なんだとされている。日本のアニメのファンとしてはけっこうおどろくよね? 俺もおどろいた。Fateの士郎の考える正義は困っている人を助けるとか死にそうな人を助けるとかいうことだ。みんなそう思っているはず。なのでFateが真っ向から全否定されているようなものだ。Fateの物語の中で士郎は正義の味方であることにこだわりすぎて自家中毒になってアイデンティティクライシスに陥っちゃう。士郎の父親の切嗣も同じだ。kdxnはツイッターでくりかえし完璧な正義へのこだわりを批判している。それはもちろんFateとは関係ないんだけど無理やり読めばFate批判みたいにも読める。
しばき隊対批判派で争いがあってその結果は言葉の議論だけだと結局納得しない人が多いだろうけどしばき隊は相当話題になってテレビに出たりした。現実問題しばき隊が勝ったといっちゃっていい。政治は結果がすべてだからね。
しばき隊は現実の日本で自分たちの考える正義概念を実践してアピールしてみせた。すごすぎでしょ。もう正義なんてとっくに古くなって無理だとみんな思ってたのにw ここでFateは現実に負けた。
しばき隊は注目を集めた短期的な成功だけじゃなくて長期的にもFateに勝っている。士郎みたいに「「正義の味方」とはなんだ~?」と悩まない仕組みになっている。正義を追求しているのは同じでも正義の概念が違う。
しばき隊は弱者のためではなく社会のために行動するので弱者に対して思い入れすぎない。完璧な正義ではなくて比較的な正義を求めるので完璧主義で悩まなくてもすむ。多数を助けるか少数を助けるかなんてのはくだらない。助けるためじゃなくて社会の公正さのために戦うらしい。ヤバイ。
士郎的な正義は実は正義じゃなくて善なのよね。困っている人を助けることは正義と関係がない。慎二みたいなクソ野郎はしばき隊は助けるわけがなく罵倒するんだろう。
つまりぶっちゃけて言うと士郎は正義を理解してないから正義の味方なんてくだらないことで悩んじゃうのである。
正義は自分を犠牲にして化け物と戦うことより、「ヘイトスピーチをやめろ」と言うことなんだ。これに納得しない人(俺も半分はそうw)でも主張の強さは認めないといけない。
アニメやゲームもこれからしばき隊的正義を扱わないと現実に負けちゃうだろう。それじゃ存在価値ないしねw 現実もフィクションも面白がらせてほしいw