はてなキーワード: 女子学生とは
はてなーの皆さまこんにちは。今日も元気にウンコ漏らしてますか?初めて投稿します。
物心ついたころからずーっと気になっていたことがありまして。それはズバリ、「みんな作家の文体をどれくらい識別できてるんだろう?」という問題です。
気になった方は、まずは以下の問題に挑戦してみてください。
★以下の①~④と(ア)~(エ)の文章は、それぞれ同じ作家の書いた別の小説作品から、一部抜粋したものです。①と(イ)、②と(ア)...のように、同じ作者の作品どうしを組み合わせてください。
① そして彼が知ったのは、彼等の大部分が、原発というものの実態を把握していないらしいということだった。どこにどれだけの原発があるかも知らず、それが止まるということはどういうことかイメージできないようすだった。原発が止まっても大して困らないんじゃないかという意見もあれば、ろうそくを買うべきだろうかと異常に心配している声もあった。
② この人は母とは本当にお似合いだ。言葉に表現した瞬間、それが的を射ていても、本当のことを言っていても、なぜか必ず嘘っぽく聞こえ、薄っぺらい印象になる。この人のこの言葉と僕の事実とに挟まれて、僕のあの放火未遂っぽい事件は行き場を失ってしまったようだった。
③ 船長主催の晩餐会は、さんざんなていたらくであった。夕刻から、この時期には珍しい西風が吹き始め、それは次第に客船を上下に揺らした。乗客の中でもとりわけ過敏な者は、晩餐会のための服に着替える前に、すでに船酔いにかかって、各自のベッドに臥してしまった。
④ 札幌の街には今年最初の雪が降り始めていた。雨が雪に変わり、雪がまた雨に変わる。札幌の街にあっては雪はそれほどロマンティックなものではない。どちらかというと、それは評判の悪い親戚みたいに見える。
(ア): 夢の中の俺はまだ子供で野球のバットか何かを捜しに来たのだ。暗闇の中で金属バットが触れ合ってカランコロンと甲高い音を響かせる。俺は広いフロアを見渡す。たくさんの影はしんと静まり返って何も動かない。
(イ): バーは、二階に著名なフランス料理店があるビルの三階にあった。長い一枚板のぶあついカウンターと、四人掛けのテーブルが二つあるだけだったが、いかにも酒を飲むところといった風情で、助成の従業員はいなかった。
(ウ): 三人目の相手は大学の図書館で知り合った仏文科の女子学生だったが、彼女は翌年の春休みにテニス・コートの脇にあるみすぼらしい雑木林の中で首を吊って死んだ。彼女の死体は新学期が始まるまで誰にも気づかれず、まるまる二週間風に吹かれてぶら下がっていた。今では日が暮れると誰もその林には近づかない。
(エ): 十九年前にさらわれた赤ん坊がどこにいるかを、早く彼女に教えてやらねばばらない。白血病で苦しむ息子が助かる道があることを示してやらねばならない。言葉を発しようと息を吸い込んだ時、小さな疑問が彼の胸に宿った。それは瞬く間に大きくなり、やがては衝撃となって彼の心を揺さぶった。
・答えは↓
【答え】
①- (エ) 東野圭吾
②-(ア) 舞城王太郎
③-(イ) 宮本輝
④-(ウ) 村上春樹
①: 東野圭吾「天空の蜂」(講談社、2015年、p124、ハードカバー版)
②: 舞城王太郎「イキルキス」収録「パッキャラ魔道」(講談社、2010年、p193、ハードカバー版)
③: 宮本輝「海辺の扉(上)」(角川書店、1991年、p151、ハードカバー版)
④: 村上春樹「カンガルー日和」収録「彼女の町と、彼女の緬羊」(平凡社、1983年、p50、ハードカバー版)
(ア): 舞城王太郎「煙か土か食い物」(講談社、2004年、p117、文庫版)
(イ): 宮本輝「海岸列車(上)」(毎日新聞社、1989年、p162、ハードカバー版)
(ウ): 村上春樹「風の歌を聴け」(講談社文庫、1975年、p77、文庫版)
(エ): 東野圭吾「カッコウの卵は誰のもの」(光文社、2010年、p204、ハードカバー版)
いかがでしたでしょうか?
なぜこんな問題を作ったのかといいますと、自分はけっこう文体に敏感な方なのではないかと、密かに感じてきたからです。
同じドラッカーの作品でも、上田惇夫訳の「マネジメント」はすごく好きなのに、上賀裕子訳だとなぜか全然頭に入らなかったりします。趣味で読む本は、好きな著者のおすすめで買ってみたものの、文体が気に入らなくて読み進められないことも多いです。(村上春樹はすごい好きなのに、おすすめのサリンジャー「ナインストーリーズ」は受けつけない、など。翻訳版をよく読む方にはあるあるなのでは)
それぞれの作者ごとに、「この人は勢いがあって脳が活性化する感じ」とか「クールな感じで読んでいても全然感情を感じない」とか「頭の中に繊細で暖かいイメージがふわっと浮かぶ」とか、料理でいう味みたいなものがあります。
小説じゃなくても、エッセイでもビジネス書でも、どんなジャンルにも作者ごとの「味」がある。そして、これはその人の持つ「文体」が決めている部分が大きいと思っています。(本の装丁も全体の1~2割くらいは関係してる気がします。料理を載せる皿によってちょっと味の感じ方が変わる感じ?)
でもこの「味」って、大まかにはみんな感じるところがあるはずだけど、誰もが全く同じように感じていることはあり得ない。みんなで同じ料理を食べていて、「おいしい」「苦い」「熱い」などの大まかな感じも方向性は決まっていても、それをどこまで感じているかは人による。(同じ「辛い」カレーを食べても、人によってピリッとする辛さなのか、喘ぐくらいの辛さなのか、という辛さのニュアンスは異なるはず)
これって料理の味ならみんな共感できると思うんですけど、文章の「味」についてはほとんど議論されない。これって実際はどうなのか、という実験でした。
今回挙げた作家について、個人的に感じる「味」はこんな感じ。(あくまで個人の感想です。前者二人の文体は大好き、後者二人はうーむ。ストーリーはそれぞれ面白いと思います。)
・村上春樹: なんの抵抗もなくすっと頭に入って、胸にふわっと煙みたいに広がって染み渡る。イメージが幻想的ながら、ありありと脳裏に浮かぶ。もう村上春樹っぽいとしか言えない。
・舞城王太郎: 「文圧」のすごさ。リズムと勢いで、パンパン読ませる。胸が暖まって脳が活性化する感じ。文体で読ませる作家。天才。
・東野圭吾: 必要最低限の情報量。情報は伝わるが、感情はあまり伝わってこない。マックのハンバーガーみたいな感じ。
・宮本輝: いいところのお坊っちゃん。淀みなく流れる川のように流麗。美しい文章だが、あといま一歩感情が胸に迫ってこない。脳の活性化がいまいち。
最後までお付き合いいただいたはてなーの皆さん、ありがとうございます!皆さんのやってみた結果は、コメントで教えていただけるとありがたいです。あと余裕のある方、同じような問題作って自分にもやらせて...!!
週刊SPA!の特集記事、ヤレる女子大学生ランキングについて母校が抗議した。
人や団体を侮辱する記事は当たり前にあってはならない。それを主張すれば良いのに、なぜ、わざわざ、女性軽視、女性蔑視、女性の名誉、尊厳とあんなにも女性を強調したのか。その点において悲しくて仕方がない。
同じく母校が、以前から合コンしたくない大学と言って侮辱されている。世間は(そういう思考がある人は)対象が女性であるか、男性であるかは関係なく、下に見ている人、団体を侮辱するし、そんなことは決してあってはならない。ただそれだけのこと。
正直、近頃の女性の活躍!女性の社会進出!女性の、女性の、女性の、女性のというムーブメントに辟易している。もう、やめて欲しい。これ以上私たち女性にスポットライトを当てるのをやめて欲しいという気持ちでいっぱいだ。
そんなに話題にしてくれなくても、関心を向けてくれなくても、わざわざ外から女性の権利を守りましょうと言わなくても、こちらは自分で権利は当たり前に得ていくし好きに自由に自分のしたいように生きていくので、これ以上構わないで欲しい。
男性100人女性は私1人というような規模の職場で働いているが、1秒たりとも男性たちから下に見られているなんて感じたことがない。もちろん気を遣って親切にしてもらうことは多々あるが、ああ女性軽視の蔓延ってる社会だ!なんて思ったことは今まで一度もない。職場だけでなくどこでも。
むしろ、そういう状況であるのに、いたるところで女性、女性、女性、女性と外野が騒ぐから注目を集めてしまうし、彼らも私がいることが珍しく感じてしまう。こちらは毎日のことなので珍しくも何ともない、圧倒的に男性が多い状況もそこに少ない女性がいることもただの日常でしかない。
そうやって世間が女性女性女性と発するたびに私たち女性が無駄にスポットライトを当てられて、うるさいなぁ!もういいよ!と感じていることを、母校は分かっていると思っていた。それなのにあんな抗議をしたのが悲しすぎる。
ああやってホットな話題、女性軽視、女性蔑視として抗議したことによって更に人々はその話題に関心を持ち、話をする。その期間が延びれば延びる程、女子学生たちは大学名を言ったときに、あぁあのランキングのね笑という反応をされる期間が延びる。そういう反応をする人を根絶するのが理想だけれどもそうはいかないし、そういう人たちは女性であろうが男性であろうが人を小馬鹿にするものだ。きっと。正義を主張することは間違っていないのだけれど、それが最適であるとは限らない。
1秒たりとも男性たちから下に見られていると感じたことはないのは、私と関わってくれる男性たちが良識ある人たちであることはもちろんある。そして私は下に見られていると思っていないから。相手が女性であろうと男性であろうと誰であろうと、私とあなたは同じ目線だ!と思って生きている。上から見られるとかそういう感覚的な話はそう思わないことが一番だと思う。上から見られていると思ったらそう認めたら、その認めるという自分の行動が起因となって、本当に上から見られてしまうんだと思う。
そしてそういう状況に仮になってしまったときに、相手にやめてくれと求めるのは良くないと思う。人を下に見ることはそういうことをする人たちにとってきっと心地良いことで、それを他人のために辞めろと言われて辞めることができるような人はそもそも他人を下に見ない。だから相手が変わることが道徳的に正しい解決方法ではあるが、それは無理であってそんな現実的でないことを望んでいてもね。つまり自分が意識的に同じ目線だ!と確かな意思をもって人と付き合っていくしかない。
女性軽視、女性蔑視は遺憾だ、という抗議は能動的に見えて、実はとても受動的なのではないかと思う。私たち女性を上から見るのをやめてという発言は、上から見られていると認めてさらに相手の変化を期待しているだけで、その他力本願的な一面がさらに女性軽視、女性蔑視を助長する気がする。本当に女性軽視、女性蔑視を感じているならば、意識的な意味で自分が上にあがっていくしか、自分で同じ目線になるしか解決方法はないのではないか。
だから、女性は清く強く正しく賢く美しく生きていくこと、制服を着て歩けば自分が学校の顔となることを私に教えてくれた母校には、女子大学生たちにも同じこと、どんな相手とも同じ目線で付き合っていくことを、下に見られかねない行動を自らするべきではないこと、自分がそこの学生であると名乗ったならば自分が学校の顔となることを教えてあげて欲しいし、あのような女性を無駄に強調した抗議をして欲しくなかった。必要以上のスポットライトを、関心を、軽い視線重い視線を集めるきっかけを作って欲しくなかった。
女性女性女性というムーブメントをやめて欲しいと言ったところで世間はやめないので、気にしないで今日も生きていくだけなのだけれど。
フェミニズムは運動であるところにこそ存在意義があると思っている
しかし、それが運動であり「お気持ち」を捨て去れないのならば、フェミニズムは思想の域を出ないものであり、学問としてもやや怪しいものになってしまうというのは当然の帰結だろう
一方で、フェミニズムに学問的位置づけを与えるというのは運動の一種なのかもしれないし、現代の社会には必要なことかもしれない
そこを否定するには現代社会は女性にとってあまりにも悲惨すぎる
ただし、フェミニズム以前に、学問として筋を通すべきことがあるのも確かである
少なくとも「主観的な経験のエピソード」を受け入れるということについては、それが運動の一貫であるということは了解しておかねばならないのではないか
記事の最後でなされている「あなたは、あらかじめ排除すべき女性(の経験)が決まっているフェミニズムを、正しいフェミニズムのあり方だと考えますか」という氏の問いかけは、フェミニズムがあくまで思想であることを暗に認めているようにも見えるけども
「コミュ障が婚活マッチングアプリで出会い別れるまでの一部始終」(anond:20190106214218)という日記を書いた者です。
前回の日記を通じて、自分の経験を文章に落とす作業をしている間はすごく気分が晴れるということに、生まれて初めて気づきました。文章を褒めてくださる方もいらっしゃったので、調子に乗ってもう1本、投稿してみます(読み手を選ぶ内容なので、さほどブックマークはつかないと思いますが)。また、前回の日記では、あたかも僕が恋愛経験・コミュニケーション能力以外の点において完全なる真人間であるかのような印象を与えてしまったので、ちょっと彼女に対してアンフェアだったな、という懺悔の思いもあります。
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僕が中学生・高校生時代に、人生で初めて好きになった方の話をしたいと思います。
僕が通っていたのは、中高一貫の男子校でした。所謂進学校で、有名大学進学率がKPIになっている、勉学を重んじる厳しい校風でした。
中学校の登校初日。入学式を終えた新入生は、疲れた足取りで初めて行く自分の教室へ向かっていました。殆どの生徒はお互い初対面なので、会話もまばらでした。1人で居ても目立たなくて良いな、ずっとこのままなら良いのに、などと思いながら、僕は人の波から少し外れたところを歩いていました。
廊下の角を曲がった時、僕は斜め前を歩いていた同級生の1人に気づきました。サラサラなストレートの髪に、小さな顔、大きな瞳、長い睫毛。人生で見たことのある誰よりも格好良い男の子が、そこには居ました。
これが、一目惚れか、と、冷静に思ったのを、はっきりと覚えています。
彼と僕は同じクラスでした。彼は、才色兼備な人でした。文武両道で、サッカーが趣味。優しい性格で、愛嬌があり、話は面白く、友人も多い。笑顔がキラキラしていて、王子様のように見えました。過去を美化し過ぎだと言われるかもしれませんが、アイドルグループに所属していてもおかしくなかったと思います。クラスで文化祭に出店した、大して美味しくない割高なタコ焼きも、彼が声を掛けた女子学生は全員買ってくれました。
僕は、絶対に彼には自分の心の内を明かさない、と決めていました。傷つくのが怖かったのもありますが、彼の人生劇場の登場人物として、僕はあまりに分不相応だと思ったからです。僕は、彼が僕を抱きしめ、名前を呼びながら優しく髪を撫でてくれることを想像し、時に嗚咽しながら床に就きました。僕の人生は泣いてばかりです。今思えば、この時の涙の理由も自己憐憫でした。努力を放棄し、自分で自分のことを追い詰め、思考停止して悲劇のヒロインを気取り、自身を慰めて、精神的な安寧を得るのが日課になりました。幸せと虚しさが入り混じった複雑な気持ちで、彼と時空間を共有できない夜をやり過ごすことしか、できませんでした。
僕は「好きな人の好きなものを好きになる」タイプでした。彼があるアイドルのファンだと聞けば、プロフィールを暗記し、出演するテレビ番組を観ました。彼がよく口ずさんでいた洋楽アーティストのCDは全部借りて聴き、歌詞まで覚えました。そうして仕入れた話題で彼に話しかける勇気もないのに、です。
ある日僕は、彼と彼の友達が教室の窓辺で繰り広げる雑談に聞き耳を立てていました。彼は、塾で出来た初めての彼女とファストファッション店に行き、お揃いのトレーナーを買ったと、少し恥ずかしそうに、しかしとても楽しそうに話していました。僕は彼に彼女ができていたことさえ知りませんでした。完全に狼狽しました。彼は彼女のことが好きで、僕が知ることのできない存在であるその彼女は、僕の見たことのない彼の表情を知っているのです。結局、その日は何もやる気が起きず、トイレに籠って残りの授業をサボってしまいました。泣き腫らした顔を誰にも見られたくなくて、放課後、日が沈んだ頃に個室を後にしました。親には怒られましたが、何も言えませんでした。
でも、サボってばかりいたわけではありません。むしろ勉強には必死で取り組んでいました。彼と同じクラスになるためです。入れ替わりの激しい特進クラスを6年間ずっとキープし続けたのは、とうとう彼と僕だけでした。彼は文系コース、僕は理系コースでした。本当は彼と同じコースに進みたい気持ちもありましたが、無理して高い授業料を払ってくれている両親の顔を思い浮かべると、人生を棒に振る可能性のある決断をする勇気は出ませんでした。それでも、少しでも多く彼と同じ空気を吸っていたくて、受験に必要のない文系科目まで、教頭に頼み込んで時間割の許す限り履修していました。ただ、残念ながら僕の学力は彼に遠く及ばず、別の大学に通うことになるのは自明でした。最終学年になって勉強のモチベーションを失った僕の成績は、急に翼を失った鳥のように落ちてゆきました。教師全員にひどく心配されたのを良く覚えています。
高校3年の1学期の席替えで、僕の席が彼の後ろになりました。夏休みまでのたった数ヶ月だけですが、世界中の誰よりも彼と一番物理的に近い場所を占有できる喜びで、胸がいっぱいになりました。居眠りの振りをして机に突っ伏し、いつの間にか仄かに甘い香りを纏うようになっていた彼の背中に近づきました。息をするたびに、彼と一体化してゆくような、幸せな気持ちが溢れました。放課後、憶えた匂いだけを頼りに、彼と同じ香水を探しました。塾を休んで、お店を何軒も梯子しましたが、結局見つけることはできませんでした。
ある授業の小テストで、僕が酷い点数を取ったことがありました。回収の号令が掛かり、自己採点した答案用紙を、前の席に座る彼に恥ずかしそうな顔で差し出すと、彼は僕の眼を見て「可愛い」、と言いながら、優しい笑顔で受け取ってくれました。どういう意味を持つ言葉なのか、しばらく理解できませんでした。その声色は、今でも耳にこびり付いています。辛いことがあった時に、何度も、何度も心の中で反芻して、その度に涙を流し、頬から耳まで真っ赤に染めました。
彼が僕の気持ちに気づいていたのかどうかは、卒業するまで、ついに分かりませんでした。
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この日記は、彼の好きだったEric Claptonを聴きながら書きました(この日記では固有名詞を一切出さないという自分縛りがあったのですが、これだけ例外にさせてください)。自分の中で強く記憶に残っているエピソードを集めてみたのですが、結果として完全なる狂気という印象になってしまいました。常にこのような変態行為に走っていたわけではないことだけ、申し開きをさせてください。この時期にできた数少ない友人の一人とは、年に一度、母校の文化祭に行く間柄を保っています。
彼とは、高校卒業以来、一度も会っていません。大学に進学すると、僕は別に男性が好きだったわけではないのだということに気づきました。ただ、6年間、彼という重いアイロンを掛け続けた心の折り目はなかなか消えず、随分とひねくれたまま大学生活を送ってしまいました。
客観的に読み返すと、僕は本来的には恋愛依存体質で入れ込みやすいタイプなのかな、と思いました。これをコントロールできるようにしないと婚活中に精神を病みそうですね。
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この日記をどうしても書きたくなったもう一つの理由は、前の日記の「彼女」が、3次元ボーイズラブ小説の執筆をこよなく愛していたからです。彼女は、本当に親しい人にしか言えない秘密だと言って、4度目のデートで僕にその趣味を打ち明けてくれました。彼女に僕の経験を伝える機会はついにありませんでしたが、あの時僕が彼女の良き理解者として振舞えたのは、中高時代の彼との思い出があったからこそでした。
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ブックマークコメントを読ませていただきました。「まともな人かと思ったらヤバい奴だった」みたいなことを云われるのではないかと心配していたのですが、杞憂でした。お薦めしていただいた漫画も面白そうなので読んでみようと思います。あと、「明治の文豪が書きそう」とあって笑ってしまいました。読書量の少ない人間がそれらしく文章を書こうとすると、学生時代に読んだ著名な本にしか影響されていないことが透けて見えてしまうものですね。僕は「こころ」が好きでした。この日記が遺書にならないよう精進します。
自分が男であることに漠然とした違和感があって女に生まれればよかったのにって最近ずっと思っている
ちなみに恋愛対象は女性。女性は男性のどこに惹かれて付き合うのか全く理解できない
自分なりに考えた男であることのデメリットを列挙すると以下の通り
労働災害の犠牲者、ホームレスや危険な作業への従事者でもほとんど男性が占める
命は軽く扱われ、戦時中などいざとなったら義務として矢面に立たされる
毛深く汚くて臭くなりやすい
男性は女性よりも高学歴であるべきだという風潮が残っており、受験に対する社会的圧力が強い
妻が育休・専業主婦であろうと全面的に育児参加しないと批判されかねないような社会的風潮
このくらいかな
自分は十本の指に入る程度の総合大学で化学系の専攻をしていて、難関+STEM系統ということで周りの女子はかなり少ない
医学部と違って女子学生を隠れて排除する動機があまり見当たらないし、理工系はどこも女子を取り込もうと躍起になっているので、女子学生は多くの人に好意的に迎えられている
当然野郎だらけだから姫状態で恋愛相手にも困ってはいないようだ
女性としては一番綺麗な時期だと思うし、女の特権とも言われる化粧をして、男性には着れないような鮮やかな服に身を包んでお洒落を楽しんでいる
アスペだらけの男子と違ってコミュ力がかなり高く、人間関係の構築でうまくやっている
そんな様子を見ていると、隣の芝生は青く見えるとはわかっていても、自分の灰色な学生生活と比べて嫉妬してしまう
例えば入試。
女子学生に不利になっていたり、浪人生に不利になっていたりするという差別が明らかになったが、これを撤廃したところで入学できる受験生の数は増えないことが重要だ。
女子差別を撤廃し、浪人差別を撤廃したら合格者の中に占める女子と浪人生の割合は増えるだろう。
だが結局入試は差別することが目的で、差別しなければ意味がない制度だ。
テストのスコアで差別をするということは、生育環境や遺伝子によって差別をしているのと同じだ。
テストのスコアは努力によって伸ばせると言ってみても同じことだ。努力をできる生育環境と遺伝子があったものを優遇することにしかならない。
社会的構造的に最初から不利であることが知られている学生のスコアを補正するようなアファーマティブアクションが行われている場合もあるが、そんなことをしても結局はその制度において不利な属性と有利な属性が現れるだけで、不利な属性の持ち主が差別されていることには変わりはない。
本当に差別を撤廃したければ、完全にランダムに合否を決める必要があるが、様々な属性で差別をする現行の仕組みよりもその方がマシだと思う人はいるだろうか?
差別撤廃は偽善だ。男女、年齢と言った注目を集めやすい特定の変数だけに注目し、それ以外の注目を集めにくい、あるいは未知の変数を無視して、それに基づいた差別を新たに開始しようとするのが、差別撤廃の本質である。
僕も無能なので、落ち着いて聞いてください。そんな怒らないでください。
はい、今回は自分のことを「無能だ」と思っている。もしくは最近、「あれ、もしかして俺って無能???」って気づいてしまったメタ認知の少し高い皆さんが、どうやって無能なりに、この残酷な資本主義社会を生きていくべきなのかについて語っていきたいと思います。
まず無能が抱える問題はいくつかあります。代表的なものとしては
→自己投資してもしても、全く帰ってこない。
の3つでしょうか。それでは、最初は「コミュニケーションの問題」についてです。
~コミュニケーションできないやつはパターン化してすべて記憶せよ~
はい、コミュニケーションとは相手のことを慮ったり、自分の考えていることをわかりやすく伝えることだったりします。
まあ、僕たちのような無能では自分の考えていることを伝えることはギリギリできても、それが相手にとって難しかったり、一方的に伝える形になり、相手に何も理解してもらえず、友達ができないというパターンがよくあります。
ではどうするべきか。
パターン化です。「相手がこう来るときはこう返す、相手がこんな表情をしていたらこうする」をひたすら相手を傷つけたり、相手に怒られたりしながら学習していきましょう。
例えば、あなたに彼女(ガールフレンド)がいるとしましょう。そんな優しい彼女が、明日発表があって不安。「明日どうしよう」と話しかけてきました。そこであなたはどんな声をかけますか?
僕は無能なので「いままでやってきた成果がでるだけでは?やってなかったら無理でしょ。」という言葉をかけました。
そしたら、彼女にああいうときには「頑張って」とか「君ならできるよ!」とか言ってほしかった」と言われ、結局嫌われ振られてしまいました。
無能な僕はここで、悲しいという感情を添付した経験値を得ます。
「なるほど、明日が不安という状況なら人は、『頑張って』とか『君ならできる』と言ってほしいのか。ふむふむ。」
こういう感じです。これを何度も何度も繰り返して人とのコミュニケーションをパターン化し、暗記していきます。
もう一つ例を出しましょう。
あなたは部活動の勧誘をしています。そして、あなたがやっている部活に適していそうな体格を持つ女子学生と出会いました。
僕は無能なので「君は体格が良いからうちの部活おいでよ!」と声をかけました。
すると、その女の子は大泣き。あとで先輩に呼び出され、死ぬほど怒られました。
僕はここでも学びます。
「そうか。初対面の女性に体型のことを言ってはいけないのだな」と。
こんなことわざがありますが、僕たちは無能なので愚者です。しっかり経験から学ぶしかありません。頑張ってやっていきましょう。
今後のキャリアにも結びついてくる話ですが、最初のキャリアや職業を選ぶ選択肢として、無能は「社会規範」をボコボコに叩き込んでくれる会社とかがとても良いと思います。
無能は考えられないので、体で覚えましょうという話です。
続いてはお金です。無能は自己投資ができません。いくら自己投資したところで無駄になります。本を買っても読まない。英語を勉強しようと大枚払っても、できない。どうすれば良いのか。
まずは、ひたすら貯金です。生活コストを下げ、ベッドタウンにすみ、できれば実家暮らしをしましょう。もしくは社宅があるなら社宅に住むのが良いでしょう。
なぜならあなたの賃金は、会社からもらえる交通費よりも低いからです。
千葉から東京まで行ったら片道1時間・1000円くらいです。時給1000円です。あなたの手取り15万円/月(月収20万)を働く時間で割ってみましょう。
あら不思議。
150000yen/160h=937.5
つまり、電車で寝てるだけで1時間1000円もらえるわけです。素晴らしいですね。なので、無理して「東京に住んで、時間節約!自己投資!」とか言わずに、おとなしく地方に住もうね。
そんで頑張ってためたお金も自己投資なんかに回しちゃいけません。なんせ私達は無能なんですから。
自己投資はやめて、あなたよりも1万倍くらい優秀なファンドマネージャーなどが運用する投資信託などにお任せしましょう。
もしくはあなたより1000倍くらい優秀な大企業の社員さんが汗水たらして頑張ってくれているので株式投資でも良いと思います。
先程からはなしている通り、無能は自分の頭で考えることができません。ですので、体育会系でフルボッコにしながら社会規範を叩き込んでくれる企業に行くのがベストです。
例えば、大企業とかですね。ノウハウがしっかりしているので、業務はつまらないながらもしっかり上下関係やその他を仕込んでくれるでしょう。
これは、どこにいっても役に立ちます。
なので僕たち無能はイキってベンチャーなぞにいってはいけません。自分で考えて仕事を取りに行かなければならないからです。そうでないと一生仕事は回ってきませんし、何も得られません。
「長いものには巻かれろ」
ということわざがありますが、これはとっても大事なことだったということがわかりますね。
~まとめ~
最近のフリーランス志向・自己投資・起業・英語といった流れは無能には適していません。旧来の終身雇用制や貯蓄という概念こそ、無能がこの世を渡っていくためには適していたんです。最近のグローバル化や不景気によって旧来の価値観が崩壊しつつありますが、できるだけこういう旧来の社会制度にすがって生きていければ、寿命は少し伸ばせると思います。
頑張っていきましょう。