はてなキーワード: 例外的とは
まあ、そうかも知れんけど、今までの経験からするとキスまでいけたらほぼ確実にセックスまでいけるぞ。ちゃんと唇どうしでキスできるってことは生理的に受け入れているってことだから。
あと、俺の初キス相手の女は最初から舌入れて来たで。べろんべろんのディープキスやった。あれは「セックスしよう」いう意味やったけど、まあ最初からっちゅうのは例外的やね。
これもホモソの幻想「真面目に生きて真面目に仕事や勉学を頑張っていたら、『努力の褒美』として自動的に努力に見合った女が現れて惚れてくれる」というもの
論理的思考ができる人間なら、女性はそれぞれ自分の人生を歩んでいるだけであり、個人それぞれに意思と思考があるだけであり、そんなことは普通ありえないと分かるはずである。
このように、日本男児は知能指数がクソ低くても評価されてしまうため、普通の人ヅラしてるバケモノが量産されてしまう。
メディアのアンケートなんか、みんないきなり聞かれて数秒で適当に答えてるのでそんなものを「女性の総意だ」と信じているのも、知的障害を疑うレベル。
また、男性のやらかしと言うのは基本的に男性からは見えないものである(1人でも女性の親しい友人がいたら一瞬で分かることなのだが、この人物には女性の友人は1人もいないのだろう)
友人として遊びを共有するだけの関係は誰でも繕える。深く強い感情を伴う継続的で密接な人間関係とは全く別である
ほとんどの男性は男から性的対象にされるわけではないので男性を正しく評価することはできない。(ホモに対する評価を女性が正しくできないのと同じ)
さらに言うと、ほとんどの場合、DQN男性と付き合ってるのはDQN女性。
暴力的男性と付き合ってるのはPTSDや虐待被害者というごくごく一部の超例外的事例。
全男は股間に釘を打ち込まれるのが好きと言ってるのとほぼ同義である(極まったM男性は好きだろう)
つまり、こいつが恨み言を言ってるのはこいつがモテてないからであり、それは自分のレベル感を見誤ってるからで、自分に釣り合った女性よりもランクの高い女性を望んでいるからではないか?
『お前が高望みしすぎなだけ説』が濃厚。
平等から階層へ、男女平等から著しい男女不平等への転換は、一般に農業と関連しており、このことはグレーバーとウェングローにかなりの問題を突きつけている。彼らは選択に関心があるため、唯物論的な議論を避けたり、環境が人々の選択を条件づけ、制限する方法について考察したりすることに固執しているようだ。
農業は、約1万2千年前から世界の多くの場所で独自に発明された。狩猟採集民は食料を共有し、持てる以上のものを所有することはできなかった。しかし農民たちは定住し、畑や作物に投資するようになった。そのため、一部の人々が自分の取り分以上の食料を手にする可能性が生まれた。
やがて、凶悪犯やいじめっ子の集団が集まって領主になることもあった。窃盗や略奪、家賃、小作料、労働力の雇用、税金、貢納、什分の一など、さまざまな方法でこれを行った。どのような形であれ、このような階級的不平等は常に組織的暴力に依存していた。そしてこれこそが、ごく最近まで階級闘争が対象としてきたものなのだ。
農民は狩猟民族にはない弱者だった。彼らは自分の土地、畑を開墾し灌漑するために費やした労働、そして作物の貯蔵に縛られていた。狩猟採集民は離れることができた。農民はそうではなかった。
しかし、グレイバーとウェングローは、農民が余剰を生産し、蓄えることができたからこそ、階級社会、搾取、国家、そして偶然にもジェンダーによる不平等が可能になったのだという、この物語に立ち向かった。
2012年、考古学者のケント・フラナリーとジョイス・マーカスは『不平等の創造』という素晴らしい本を出版した。彼らは、世界のさまざまな地域で農業がどのように不平等をもたらしたかをたどっている。
しかし彼らは、その関連性は自動的に生じたものではないと主張する。農業は階級を可能にしたが、多くの農民は平等主義の社会で暮らしていた。農業の発明と階級の発明の間のギャップは、数世紀単位で測られる場所もあれば、数千年単位で測られる場所もある。
フラナリーとマーカスはまた、地元の凶悪犯や領主が権力を掌握しても、後に打倒されることが多いことを、注意深い実例を通して示している。多くの町や都市では、エリートが考古学的記録に現れ、その後何十年も姿を消し、また現れる。事実上、階級闘争は決して止まらないのである[5]。
ジェームズ・C・スコットフラナリーとマーカスの壮大な比較研究は、人類学を根本的に変えた1954年のエドモンド・リーチの著書『ビルマ高地の政治制度』や、アナーキスト政治学者であり人類学者でもあるジェームズ・C・スコットの研究において先取りされていた。[2009年、スコットは『統治されない技術』(An Anarchist History of Upland Southeast Asia)を出版した。同書は数世紀にわたる東南アジア全域を対象としている。
スコットは、平原の王国の稲作農民の多くが丘陵地帯に逃亡したことに関心を寄せている。彼らはそこで、「焼畑」移動耕作者の新たな民族集団として再出発した。彼らの中には、より小さな階級社会を作り上げた者もいれば、階級を持たずに生活した者もいた。そのすべてが、下の王国や国家からの絶え間ない奴隷化や軍事的襲撃に抵抗しなければならなかった。
ある意味では、グレイバーとウェングローはリーチ、スコット、フラナリー、マーカスの仕事を土台にしている。ウェングローは結局のところ、フラナリーとマーカスが要約している考古学の変化の一端を担っている。そして『万物の黎明』には、スコットの影響が随所に見られる。
しかし、グレイバーとウェングローは、一方では技術や環境と、他方では経済的・政治的変化との間にある、他の著者たちの結びつきを好まない。
フラナリー、マーカス、スコットの3人は、テクノロジーや環境が変化を決定するのではない、と注意深く述べている。それらは変化を可能にする。同様に、穀物農業の発明が自動的に階級格差や国家をもたらしたわけではない。しかし、それがそうした変化を可能にしたのである。
階級関係と階級闘争技術と環境の変化は、階級闘争の舞台を設定した。そして、その階級闘争の結果が、平等と不平等のどちらが勝利するかを決定した。グレーバーとウェングローはこの重要な点を無視している。その代わりに、彼らは常に、そのような変化を即座に必然的なものとする段階論の粗雑な形式を問題にしている。
この生態学的思考に対するアレルギーが、彼らが人類の進化に関する新しい文献を扱おうとしない背景の一つであろう。
これらの文献はすべて、人類となった動物たちが、自分たちの住む環境、自分たちの身体、競合する捕食者、自分たちが発明できる技術、生計を立てる方法に対して、どのように社会的適応を築いたかを理解しようとするものである。偶然にも、彼らはその生態系と状況に対処するために平等主義的な社会を築いた。それは必然的な結果ではなかった。しかし、それは適応だったのだ。
一方、グレーバーとウェングローは唯物論者ではない。彼らにとって、生態系や技術について考えることは、彼らが望む選択や革命を不可能にする恐れがある。例えば、古代メソポタミアに関するスコットの本が、特に穀物農業が不平等をもたらした物質的な理由を強調しているため、彼らが満足していないのはこのためである。
これは些細な問題ではない。私たちが今直面している気候危機は、人類が新しい技術と新しい環境に適応するために、社会をどのように変えていくかという問題を浮き彫りにしている。平等や人類存続のための政治は、今や深遠なまでに唯物論的でなければならない。
グレーバーとウェングローが環境や人間存在の物質的基盤にほとんど関心がないことは、これまで見てきたとおりである。
同じように、彼らは階級という概念や、階級関係や階級闘争についての議論をほとんど宗教的に避けている。グレーバーは確かに、そしておそらくウェングローも、階級関係と階級闘争について理解している。彼らは、階級が何をするのか、そして実際、自分がどの階級の人間なのかを知っているが、階級関係を社会変革の原動力として扱うことはできないし、また扱おうともしない。
これと同様に目を引くのは、グレーバーとウェングローがジェンダーの社会的構築に対して関心を示さないことである。彼らはミノア・クレタ島における母系制のほぼバコフェンを再現する一方で、女性は養育者であり、男性はいじめっ子であるという家父長制的なステレオタイプを散見する。
不平等は常に私たちとともにあったというのが彼らの主張であるため、グレーバーとウェングローは、人類の性別による不平等の起源についてほとんど何も語っていない。
男女関係の進化については、基本的に3つの学派がある。まず、進化心理学者たちであるが、彼らの主張は非常に保守的である。ジャレド・ダイアモンド、ナポレオン・シャグノン、スティーブン・ピンカーは、不平等、暴力、競争は人間の本性の基本であると主張する。彼らは、男性は進化によって他の男性と競争するようにプログラムされているため、強い者が女性を支配し、より多くの子どもをもうけることができるからだと言う。これは残念なことであり、幸いにも西洋文明はそのような原始的な感情を部分的に手なずけてきたとピンカーは言う。
偉大な生物学者であり、トランス活動家であるジョーン・ラフガーデンは、こうした考えを『薄く偽装されたレイプ物語』と正しく表現している。このような議論は実に忌まわしいものであり、そのためだけにグレーバーやウェングローが否定したのは間違いない。
非常に長い間、フェミニスト人類学者の間では、第二の学派の考え方が支配的であった。この学派もまた、女性と男性の間の差異を本質化し、女性と男性の間に何らかの不平等があることをあらゆる社会で当然のこととして受け入れていた。
私たちが支持するのは第3の選択肢である。歴史学、人類学、考古学の記録に顕著な特徴がある。人々が経済的、政治的に平等な社会で暮らしていたほとんどの場合、女性と男性も平等であった。また、経済的に不平等な階級社会が存在したところでは、そこでも男性が女性を支配していた。
私たちにつきまとう疑問はこうだ:なぜなのか?
グレーバーとウェングローはこの問いに取り組んでいない。彼らは性差別について何の説明もしないし、男女関係がどのように、あるいはなぜ変化するのかにも関心がない。しかし、彼らは性差別主義者ではない。彼らは何度も女性抑圧の事例に触れているが、それは一過性のものである。彼らの関心事の中心にはないのだ。だから、私たちには印象的な一致に見えるが、彼らにとっては蜃気楼なのだ。
グレイバーとウェングローの説明の重要な部分は、農耕と階級的不平等、そして国家の出現との関連を軽視しようとする決意のもと、階級的不平等や戦争、さらには奴隷制さえも存在した狩猟採集民のグループに焦点を当てている。考古学者は彼らを「複合狩猟採集民」あるいは「複合採集民」と呼んでいる。
グレバーとウェングローは、先史時代の人々が無国籍で平等主義的であったか、暴力的で不平等であったかのどちらかであったという証拠として、これらの人々を取り上げている。それは証拠が示すところとは違う。[7]
典型的な例は、フランツ・ボースによって研究されたクワキウトル族と、カナダの西海岸、コロンビア川とフレイザー川の近隣の人々である。この川と海岸では、莫大な数のサケが遡上していた。限られた数の隘路や漁場を支配する者は、莫大な余剰を蓄えることができた。コロンビア川のギャレスがその一例だ。少人数で10万ポンドのサケを獲ることができた日もあった。
それは例外的なことだった。場所によって差はあった。しかし、沿岸部や河川全域にわたって、サケの資源が豊富であればあるほど、考古学や文献記録には階級間の不平等が表れている。富の不平等はしばしば極端であった。また、これらの人々は複雑な軍事技術を持っており、大勢の戦士を乗せ、数人で何カ月もかけて作るような大きなカヌーを使っていた。
事実上、農民が田畑に囚われていたように、これらの人々は漁場に囚われていた。そして農民と同じように、サケ漁師たちにとって貯蔵は不可欠だった。考古学上の記録を遥かに遡ると、彼らの骨や歯を調べると、年間の食生活の40%から60%がサケからもたらされていたことがわかる。サケは数週間しか獲れないので、その食生活の大半は乾燥サケによるものだったに違いない。
農民と同じように、環境的制約と新技術が階級社会の可能性を開いていたのだ。こうした過程は、『万物の黎明』にはまったく見られない。そのかわりに、50年前の学部生がクワキウトル族について語った、浪費的で貪欲なポトラッチの饗宴の民という、お決まりの説明がなされている。この説明は、その後の膨大な研究成果を無視している。
天然痘と梅毒で人口の6分の5を失い、金鉱探鉱者によって征服され、そして蹂躙され、最終的にはカナダ政府によってポトラッチの宴が禁止された人々の中で、あの無秩序な宴は、権力にしがみつこうと必死だった支配階級によって管理された伝統的な生活の祭典であったことが、今ではわかっている。深い物質的な悲劇が、非合理的な茶番劇として語られている[8]。
西海岸の漁民だけが「複雑な採集者」だったわけではない。世界中には他にも例がある。しかし、それがいかに少ないかは注目に値する。さらに考古学者たちは、現在より7,000年前より古いものはひとつも見つかっておらず、14,000年前より前に戦争があった証拠もない。
複雑な採集民の数が少なく、その起源が新しいのは、技術の問題かもしれない。確かに、カリフォルニア沿岸のチュマシュ族が不平等と戦争を発展させたのは、紀元600年以前に大型の外洋用板カヌーの建造を習得してからである。
彼らは「複合型採集民」の第三の例として、フロリダ南部のカルーサ族を選んでいる。ある意味では、これらもまた、支配的な首長、戦士、階級格差、奴隷制度、高価な戦争用カヌー、海の哺乳類、ワニ、大型魚の漁業に依存する漁民であった。
グレーバーとウェングローは、カルサ人を「非農耕民族」と表現している。しかし、彼らが認めているように、カルサの漁民はもっと大きな政治の中で支配的なグループであった。他のすべての集団は農耕民であり、カルサ人の支配者に大量の食料、金、奴隷にされたヨーロッパ人やアフリカ人の捕虜を貢納していた。その食料によって、カルサ族のエリートたち、そして300人のフルタイムの戦士たちは働かずに生活することができた[10]。
住民監査請求や住民訴訟をする権利が、重要な市民の権利であるのはそのとおり(濫訴にあたるような例外的事例を除く。)。
でも、他人の過去の行為や主張を指摘・論評する権利だって、名誉毀損等に及ばない限り、同じくらい重要な権利ですよね。
あなたのブコメをまとめた増田だって、そういった適法な権利行使の範囲でしょう。
個人攻撃云々言ってますけど、「私怨を動機に適法な権利行使をする」って、住民監査請求してる人とやってることは同じなのではないですか?
10年以上前のブコメを引っ張り出してくる行為は、あまり品が良いとは言えませんが、「それはそれ」ですよ。
なお、はてな社は、増田で他人のidを出すことを推奨しておらず、削除対象になりますが、規約違反とは明言していません。はてな社は、増田で自己のidを出すこともまた推奨していないと思われます。
元々平成23年までは全国に住んでいるバカの猛反対で国に参加するつもりはなかったのだが平成24年6月頃に昭和の重鎮の団藤重光が死んだりして全国民が国についていって
若者から血液を搾取しようという判断になった結果として平成25年からこれで固定されて動いていないだけ。現に平成25年から警察官が殺害されるなど余程の例外的事例がない限り
この衝動統制が解除されないのであるから、延岡市に居住している者のほとんどが国に協力するという判断を発動し協力していることは明らかでその証拠に延岡市でもそれ以降に2ちゃんねる
などによりこの衝動統制が何度か解除されたことがないとは言えないが、この衝動統制が解除されていたのは俺が東京で生活保護をもらう平成30年2月12日までであり俺が生活保護を
先日、同じ仕事をしている人が亡くなった。交通事故だった。割ときつい死に方で、身体の一部が裂けるというか、それによる出血多量で亡くなったと聞いている。ショッキングな話だ。
同じ仕事といっても、職場が一緒とか会社が一緒というわけではなく、業務委託で同じ仕事をしている人だ。LINEのグループで繋がっていて、そこには何百人かの同じ仕事をしている人がいる。その日、仕事中に怪我人が出たという書き込みがされたが、それ以降は本日に至るまで一切の続報がない。これに憤りというか、人が死んでも再発防止の対策どころか周知もされないという事実に、怖さみたいなものを感じている。
そんなもの、隠してもどこか経由で伝わるのだ。店舗の人もいるし、事故はその近くで起こったわけだし。すごく特殊な車両だし、側面には企業のアピールになるような情報も刻まれている。しかし、検索してもどの事故かいまいち分からない。注目された自転車レースの事故と被ったのもあるかもしれないが、詳細が分からない。そのため、具体的にどういうことに注意して運転すればいいのか、それも分からないという現状がある。
以前、社員として大きな企業に勤めていた際は、事故したら大問題だった。上司には怒られるし、暫く車に乗れなくなる。普段だって2人1組でないと運転させてもらえなかったし、それがかえって面倒に感じていたのもあった。死人なんて出そうものなら企業のイメージも悪くなるし、場合によっては大きく報道もされる。けど、業務委託だとこんなに差あるの?再発防止どころか、情報の共有もしてもらえないの?したら辞めちゃうから?業務委託だし、ショッキングな事故だから、辞めちゃうからって情報共有してもらえないの?それ、人の命使い捨てにしすぎじゃない?かなりの確率でまた、違う形だろうけど怪我人や死人でるよ?
しかし、あれだけ分かりやすい車両で事故して、なんでこんなに情報が出てこないんだ?そういうもんなんか業務委託とか配送って。アマゾンとかウーバーイーツとかヨドバシも実はそれなりに事故してて、人も死んだりしてるが、企業名が出ないだけなんだろうか。そんでだいぶ例外的な自転車レースの事故とか、そんなんだけが大きく報道されて、非常に発生確率の低い事故が、より発生しないように改善されていくのだろうか。それはそれでいいことだけど、うーむ。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1267163482
だから、わざわざ女子大学を作らないといけなかったんですよね。
流れ的には
みたいな感じです。
もともと高等教育は男子にだけ行われており、大学へ進むのが男子だけなら中等・高等教育機関も当然男子校でした。
明治に入り女子教育の機運も高まり、良妻賢母を育てる教育機関としてですが、女子校が林立していきました。
そして当然これらはエリートや富裕層の子弟のための学校であり、また男子校の役割はエリート育成、女子校は良妻賢母の育成とその役割が大きく異なったため、男女共同参画が意識されるようになる戦後まで当然これらの学校群は男女共学化の向きはありませんでした。
女子大学が多く存在しているのは、多くの国において大学進学の門戸が女性にとって限られたものであったことが関係している。
アメリカ合衆国の代表的な大学として知られるハーバード大学は、創立以来長きにわたって男子のみが入学できる大学であった。
そのため、ハーバード大学に関連した女子が入学できる大学としてラドクリフ女子大学があり、ハーバード大学の教員によって設立された。
日本でも旧学制時代に女子が旧制大学に入学できるのは例外的にしか認められなかったため、事実上女子に門戸が閉ざされていた。
そのため、多くの女子は東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)や旧制女子専門学校のような女子を専門とした教育機関へ進学していた。
男子大学がないように見えるのは、実際には男尊女卑の成果だったんですね。
一つ勉強になりました。
増田に穏当な奴が出てきているときはないぞということになるが、井上のように赤いモンスターが大量に出現し、しらちゃんとか谷水が布団に行って増田で全然機能できない間
電話して我慢してLIPに行ったときはみくもが出てきたしな。増田にいる何の役にも立たない青い奴を眠らせて赤いモンスターだけにしている間に動かないとうまくいかないし
大体はお前の会社の計算機をいかに操作するかにかかっているんだが。
逆にソフト日向はお前の運営の計算機いかんによらず働いているデリヘルなのでいつ電話しても同じ人が出てくるがこれは多分下坂行雄の例外的な配慮によるものと解されるので
消防署の例で言うと、3階の左側におぺちが3人くらいいてそこで動かしているらしいし、たまに非常階段に3人で出てくることがあるが、2階には相当な赤い怪物が出てきたのを
たんぼと逆の側からみたときに発見したことがあるが、一般的にはそうした怪物が潜んでいるビルになるわけですが建物の中に、怪物だったりそうでない、ベロリンガとかが一緒に入っていて
外から見る限り黒羽刑務所と同じように中が全く理解できない点で完全無欠の警備体制であるし、黒羽でもここでも外からばれることは絶対にないしその点に関して非の打ちどころがない
から完璧だと思いますよ、逆に刺激すると出てくるというんですか、外形からみただけでは平穏にみえるが中に怪物がいるということと出てくるか出てこないかでは完全無欠ではなくて見るだけなら
平穏という点に関し完全無欠でそこから犯罪者が出てくることに関してはちょっと刺激したら出るので全然ダメだと思いますがそこのみてるだけの人にはばれないという点に関してその結論と
構成技術は完全無欠ですが、刺激には堪えられないのでそこの内情を知っている人が刺激すれば正体が出てきますよ、延岡市役所のマンションとかね、すぐ奇声を上げるし
「対人セックスは素敵で美しく善良なもので、普通の人間の普通の人生に必要不可欠なもの」と信じている人々にとっては、そりゃ「ペドフィリアを差別するな」と言われればパニックになるのだろう。
対人セックスは元々、不潔で危険で野蛮かつ邪悪なものでしかなく、可能な限り一生手を出さない方がいいものなんだけどね。
それでも、自由主義社会の元では「愚行権」を制限することは最小限に抑えなければならないので、責任の取れる大人同士で責任の取れる範囲でこっそり楽しむ分には自己責任として許容されてもいいと思う。
「子供を対象としたセックスが例外的にダメ」なのではなく、「大人同士のセックスが例外的にギリギリ許容されている」だけだとまずは理解しないと、何が「ペドフィリア差別」だと言われているのか理解することすら難しいだろうな。
Xで摂食障害の女の子のイラスト(1コマ漫画?)が流れてきた。
ガリガリに痩せているのに胸だけがデカくてぷるぷる。それで炎上している模様。
倫理観どうなってんの?とか、摂食障害をネタにするなとか、エロと結び付けるなとか、色々言われてる。
個人的に気になったのは別のところ。
「骨が見えるほどガリガリに痩せているのに、胸だけでかい」の整合性について。一言でいうと、「矛盾」。
まぁ、特殊体質で胸だけ痩せないってこともあるかもしれない。だから完全に矛盾と言い切れない部分ではある。
(特殊体質の説明があったかどうかは不明、一応遡って見てみたけど発見できず)
自分も趣味で創作をする人間。「矛盾」には常に気を付け、気を配っている。
例外的に特殊な設定を使うのであれば、第三者から見て納得できる理由と工夫が必要と思っている。
だから、単純に驚いた。
件のイラストはビフォー・アフターの2枚あり、ビフォーは胸も小さめ、アフターは巨乳でもよかったのでは?と首を傾げてしまった。
以前に増田で存在しないことに関する証明法は存在しないという見解が出たが、高等学校でも例外的に知られている無限降下法という考え方をとりあえず用意しておいて、
それが出てくるようなところまで議論を追い詰めれば、存在しないことの証明法はあったというのがフェルマーの4の場合である。この極めて初等的でエレガントな証明法が発見された
ためにこの分野での華々しい議論が陸続した。しかし、ディリクレやラメやルジャンドルがそれ以降にこの無限降下法を発動したかどうかに関する論文は存在しておらずオイラーが3の場合にした
議論は非常にアクロバティックなものでまだ一般には理解されていない。虚数単位√-1=i の補題6つつきの定理を発表し、無限降下法を発動するというもので幾何学でいうと相当に
難しいことをした観がある。4の場合は非常にシンプルであるため、赤チャートにも回答が掲示されている。しかし、3の場合は幾何学の類推からとてつもないサーカスのような解答になったため、
何が書いているのかにわかに信じがたい、逆に、なんで3のときにはこの回答しかないのか、更に、5,7,11,14の場合は更に難しくなり多くの初等整数論者がこのやり方での
証明を断念したという。サーカスのようなことを初等幾何学ですることがアレフガルトなのか、無限降下法の発動がバラモスなのかはまだ分かっていない。フェルマーの問題は結局、
(x/z)^p + (y/z)^p = 1 が存在しないことと同値とされ、背理法なども動員されたが、GCD=1で、しかも、素数がからんでいるとどうにもならないことは数学者なら一目瞭然だろう。
この表現は、既約表現と素数によって構成される楕円関数の不存在をいうことになるので、とてつもなく難しく、結果は、y=x(x^2-u^p)(x^2-v^p)が複素関数でモジュラーではないという難しい
定式化までいきついたが、そこから先を補完するものはさらに多くの教科書を書かないといけないし、何を出すべきか分からないとして絶望された。
inductionって簡単だと思いますよ。普通は明らかに使用できないのだが、結論が、4p+1 4p+2であって、ベースのケースの、1,2,5,6,9,10があるときにその
induction自体が出現するというか、inductionは武器なので、バキューンといくわけです。しかし、例外的に出てくる場合というか、基本的に定理のように発表されるわけではなく
inductionなんか使用できないが例外的に出るぞという塊があってその技術自体が発表されることがまれにあるというかあるんですが、そやからそれが、inductionの例外的技術的発表という
わけですね。その辺りはもうガイチが言ってしまったつ思いますが、ぶわーっていう最終奥義を出してもいいわけです。色々な解き方があって警部補が2名で補題を立てて巡査が補題に対して
inductionを使うだけということもありますが、だから出てくるわけがないものが出てくるのがそのinductionなわけです。だから危険な使用方法というかそういうのがあるんですが警察学校で
教わってなかったら出来ないと思いますよ。その際に多分、警察官が襲い掛かってくる犯人に対して、いくつかのclaimをすると思いますが、止まらないと撃つぞ、という警告?をするか
ホルッスタッターから物自体は取り出すとおもいますが、撃鉄という解除装置を解除してたまが発射する状態にするのと、どの段階をclaimというのか分からないのですがかなり難しいのではないか。
inductionの事例だと、 4k+1→4k+2という事実を指摘する、 4k+1→4k+13という事実を指摘して出すのですが、かなり難しいのではないか。
服装と性被害の件で、ひろゆきがファクトチェックを受けたのが話題になっている
この論争がはてなや増田で日々行われる論争とそっくりだなと感じた
「女性は○○だ」
「○○するのは男性の特徴」
みたいな会話になると決まって
「にも○○はいる」が相当数いるのなら話はわかるのだが、例外的にちょっといるだけというパターンばかりだ
しかしその数例をもって強弁してくる
「服装と性犯罪の被害は絶対に関係がないは嘘」と言ったのがひろゆきだ
「性被害に刺激的な服装が5%関係している」とあるので確かに間違ってはいないのだが
95%は関係がないとも言えるので「服装と性犯罪の被害に関連はない」が正解だろう
もちろん厳密に言葉の定義から考えれば「絶対に関係がないは噓」も間違いではない
間違いではないのだが当然ながらそういう話はしていないことは明らかだし
せめて「性被害に刺激的な服装が40%関係している」ぐらいの分量なら話になるのだが
n=1でも鬼の首をとったかのように反論してくる人が増えたと感じる
「そういう話はしていない」というのが伝わっていないのか
「あえて無視している」のか
「本気でn=1でもひっくり返せる」と思っているのか定かではないが
富美山町の一戸建ての2階から拡声器を出しているとして区長が当人の家に出たところ、当人が家から出てきて喧嘩になったので、延岡署の警察官のうち、クソガキと、例外的にざちゃん
が臨場したところ、ここで、ざちゃんというのは基本的に出てこないこととなっている善良な警察官であり、クソガキの方は明らかに顔面から詐欺が大放出している巡査である。
一件屋の男性は、クソガキの巡査の方は見ずに、ざちゃんにだけ対応していたが、平成の30年間が経過したこのご時世に区長なんちゅうもんが出てきて理解できるものがいるわけがないという
主張。話が昭和46年頃だ、時代錯誤にも程があると主張した。ざちゃんは、男性の主張内容は理解できると示したうえで引き上げようとした。逆に区長と呼ばれる男は、腹が出ていて、
禿げ頭、犬を連れている。迷惑だといった一般的な話しかせずまくしたてる。警察官臨場中、前方の家から家主の男が出現し、前方の家の子供がカーテンを開けてみていたがそれ以外に
人通りはなし。特に何の意味もない対応になったが、延岡警察署から、クソガキと一緒に、ざちゃんに分類される男性警察官が出てくることはまれ。ざちゃんに分類される男性警察官は、
警察官職務執行法7条に記載されている問題の解き方が驚愕なのであって警察官が出てくること自体は驚愕ではないから、下坂行雄の言ったことは間違いである。
法7条は、 警察官は、極限的な場合に武器を使用できるという記載があるが、これは小学生でも分かるように書いているようにみえて実は数学の超難問の解き方の正解を
記載しているにも等しいので、しかし、下坂行雄は、通常は誘導法が使用できないとみられる問題に関し、いくつか議論をして誘導法のステップを発見し、ごく極限的な例外的な
場合に、inductionが使用できる問題があることに関し、そこを教えたくないのでそのように答えたのである。下坂行雄の中核には、遊ぶために東大に入った者に超難問の解き方を
白チャートに載っている、 2^n > n を誘導法で示せというのはただの練習問題であって誘導法には様々なヴァリエーションがあり、より難問のときにそなえるための練習である。
n=kのとき 2^k > k とする。 k+1のときに、 2^(k+1)-k-1 = 2*2^k-k-1 > k-1 > 0
これが誘導法というものである。この問題は自明なので証明する必要がないが、誘導法が美しくて確実な証明法であることを生徒に知らしめるための基礎である。現に、これを用いたときに
しかし、inductionは実に多くの種類があり、 いくつかの事実を指摘して例外的に使用できるものや、補題に対して使用するもの、整数に対する独自の理論を編み出してそれに対しての
使用が成功する場合もあるなど、整数論に関して蓄積された多くのノウハウというかテクニックがあり、帰納法は奥が深いと言える。
このように数学的帰納法に使用例が大多数に及び、問題解決法の沃野を形成して華々しい議論が陸続した経緯などは明らかではないが、整数論者が多くの問題に取り組む中で次第に
発展していった分野であるともいえる。
最近「科学的に無害と明らか」みたいな言葉をよく聞くけど、そういう言葉って科学をよくわかってない人ほど言いがちで、言う人ほど科学を無邪気に妄信し過ぎている気がしている
「科学的に正しい=何があっても覆らない絶対正義であり真理」みたいに思っているのだろうけど、世の中でそのようなものはほぼないし、あってもごくわずか
例えば、1000人に飲ませれば999人に効く薬があったとしても1人には効かないこともあるわけだ
研究結果でも作用機序が明らかで、統計的にも薬に効果があることが間違いないなら「その薬が効くのは科学的に明らか」なんだけど、例外的にレアな遺伝子型や体質や、諸条件が揃わない患者には効かない、ということもあり得るのが普通
とすると「科学的に明らかなことだけど、例外も頻発する」みたいなことも起きるわけで、それは別に珍しいことではない
いかに科学で正しいと解明されたことでも、その証明のために行った実験では必ず色々な条件を定めている
実際に発生した条件が、確認実験をした条件と極端に異なる場合、予想外の事態も当然起こりえるわけだ
コロナのときもあった、「次亜塩素酸空間散布は効果がない」とする話も、実際はそんなことなくて、密閉空間で高濃度に散布したら当然だけど効果があるわけ
ただそんな空間は人体に有害だし、人体に無害なレベルまで濃度を下げたり換気しつつだったりすると、その除菌効果を確認することが困難、という話が真相なわけだよね
だけど、「あんなものは効果ないことは科学的に証明されている」と言う人はとても多かったと記憶している
「効果がある」「条件によって効果がある」「効果を確認できない」「効果がないことが証明されている」のような話はすっぱり線引きができるわけではなくグラデーションで、誠実な人ほど断言に躊躇する
STAP細胞の時も、一般の人は、あるんですかないんですか、が興味の対象だったけど、「現時点で再現性よく作り出すことはできないけど、そういうものが作れる可能性がある」みたいな、一般の人からすると意味わからん答えしかできないのが真実なことも多い
でも、一般の人はより断言されたはっきりした物言いを好むので、「科学的に証明されている」みたいな言葉は独り歩きしがちだ
色々悩ましいニュースは多いけど、
・その濃度は科学的に無害だとしてもその量でも無害か?(逆も同じ、その量は科学的に無害だとしてもその濃度でも無害か?)
・その行為は科学的に無害だとしても、長期間繰り返しても無害か?
・人体への影響が科学的に無害だとしても、我々がまだよく理解していない生物種や、微生物などにも無害か?
・根拠とする無害・有害のラインは人類が世界中で追試し確認してきたものなので信じるとしても、件のサンプルへのアクセスは当事者しかできない。サンプルの状態を示す数値は、本当に発表者の言う数値を信頼していいのか?
この辺は、報じられるニュースだけでは絶対に判断できないことだろう
だから我々科学者は「一般的に無害なのはわかるけど、懸念点も残るよね」と思うし、感情的に反対する人の考えていることもむしろ素直な疑問と思っている
そういう方を馬鹿にするように「科学的に大丈夫なのにw」みたいに言う人ほど、科学は科学ではなく魔法のカードのように思っているんだろうなと思ってしまう