はてなキーワード: 有象無象とは
そもそも、
なんだよな。一般的なワードで見るハメになる (まぁそういうものだから仕方ない)
仕組みとしては同人販売や同人グッズ販売で作品名やキャラクター名を入れるので
純粋に Twitter から画像を拾ってくる以外では Pinterest が多い
Twitter も Pixiv も Pinterest 禁止してないから仕方ないね
(Pixiv は Pinterest のビジネスアカウント持っているし、そもそも Google 検索で拾える仕様)
根本的な話として、実在・非実在かかわらず、人物の性的指向を変更した作品(いわゆる腐女子絵)を
公式(作者・出版社・事務所) や いわゆる腐女子絵が苦手な人に見せたくないと強い意識を持っているのなら
ましてや流行りのプラットフォームにわざわざアップロードするなんてポーズ以外の何者でもない
公式(作者・出版社・事務所) や いわゆる腐女子絵が苦手な人に見せたくないではなく、
あくまで “自分自身の作品だけは見られたくない” なら、鍵アカウントやプライベッターで
いきなりは表示されないし、Pinterest にクリップされたり転載される可能性もそのままよりは下がる
答えでてるじゃん
完璧じゃないどころか“ポーズ以上の意味が無い”と思っているが
検索システム的にも画像検索的にもインターネットという仕組み的にも無意味
ただし、“自分自身の作品だけ見せたくない” なら鍵アカウントやプライベッターは多少の意味があるんじゃないか?
何度もいうが増田の信じるものを止めろとは言ってないぞ。信じて続ければいいのでは?
エロ絵
特定のアカウントを燃やすのもどうかと思うので作品名だけにしておくが
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20220503215621
確かに、これが中絶だけの話であれば理解できます。「胎児は命に非ず」というのも大概方便ではありますが、落としどころとしてはわからなくもない。
ただ、ブクマカの皆さんの言動って、どうもそれだけじゃ説明できないんですよね。
虐待事件でも、パチンコやっててガキンチョ蒸し焼きみたいな事故でも、母親が絡んでた時"だけ"なぜか大目に見てもらおうとしたがる。
「魂の殺人」だの「セカンドレイプ」だの吹き上がるくせに、リアルで人死にがあると加害者の肩持っちゃうの、いったいどうしてなんでしょうねぇ?
「弱者に優しい」んじゃないんです。
母親に甘い。
女性に甘い。
あとはオマケ。
彼らは彼らで「胎児の人権がそんな大事なら地球環境とか温暖化とかもうちょっと気にしたれや」とか思っちゃいますが、
日頃は隙あらば人権派アピールのダシ、隙あらば気に食わないものを殴る棍棒、とまあ見事なまでに使い倒しておられますが、
こと話が中絶になると、やっぱりなぜか急に冷たい。
「親の損得を考えれば生まれるべきではない」と、きわめて冷静かつ的確な判断を下してしまう。
都合のいい時には「それは優生思想だあああ!!!」「何が優秀かなんてわからないじゃないかあああ!!!」なんてイキっちゃうくせに、これ。
そもそもスタート地点でそういうノリなんだから、今更生きてる障害者に優しいフリとかしたってダメです。
全部バレてます。
「生まれるべきじゃなかったけど、生まれてしまったから、仕方なく生かしている」だけ。
結局、こういう人らというのは
「女性>>他の弱者>>>>>弱者属性を持たぬ、わきまえて生きるべき有象無象」
と、こんな感じの身分社会を構築したいようにしか見えないんですよね。
だから都合のいい時には欧米お墨付きのマイノリティに優しいポーズするけど、女様の利害がちょっとでも絡むと何もかも放り出す。
中絶だってもうご自由に、好きなだけガンガンやったらよろしい。
でも、単なるレディーファーストの会でしかないのなら「他は二の次」と、きちんと主張すべきです。
そうしないから、こうやってよそ様の権利とバッティングした時に、しょうがないしょうがないとミョ~な言い訳ばっかり並べることになる。
いい加減、楽になった方がいいと思いますよ?
VALORANTというeスポーツで日本が大活躍を見せ、これが世間を賑わしてる。
世界中のSNSで話題となり、テレビではTBSが連日報道していた。
予想できていたことだが、「何が快挙なのかわからない」「ただのゲームの大会じゃん」とケチ付ける奴もいた。
FPSの素養がなければ理解が難しいのは、百歩譲って仕方がない。
だが逆張りして「何も凄くないだろ」と叩いてる連中だけは、哀れな人間だな、と思う。
ドキュメンタリーとか漫画とか、成功者の物語によく登場するキャラクターがいる。
それは時代遅れで、保守的で、新しい文化や挑戦を冷ややかに見るキャラクターだ。
そういうキャラクターは主役を引き立たせる"モブ”として描かれる。
後に世間で価値を認められた時、当時は無理解だった"モブ"として。
そういう有象無象の大衆から抜け出し、顔のあるポジションに着ける人間が世の中にはいる。
その一人が平岩康佑だ。
彼は2018年に朝日放送のキャスターからeスポーツキャスターへと転向した。
有象無象だったら「eスポーツは日本で流行らない」と考え、彼のような選択は取らない。
実際はどうだ。日本のVALORANTの視聴者数は、アメリカや韓国に引けを取らない。
https://news.yahoo.co.jp/byline/hiraiwakosuke/20220419-00292122
eスポーツの主役は間違いなくゲーマーだが、その物語を広める人間が必要不可欠だ。
時代を先取りできる人間は、モノの価値を自分で判断し、求められる役割をこなそうとする。
ニュースの見出しだけ見てブツクサ言ってる人間は、中心人物になれなければ、主役を支えるモブにすらなれない。
そんなモブキャラにだけはなりたくない。
ちょっとしたコメントの言葉尻に倫理観が測られうるというスタンスは、社会的ステータスも健全な生活も持ち合わせていない根無草でも有象無象の人間集団の中から己の知性とセンスでいじめられっ子から一発逆転を狙える幻想と同一平面上にあってさ。
おまえらが軽率に解釈違いの人間をブロックしたり、言及するしないや言説の真偽に対して異常なこだわりを持っているのは自分の価値を知的優越性にのみ置いていることから生じている弊害で、現実的課題の解決と社会生活の遂行とは全くのねじれの位置にあることに気付いた方がいいよ。
おまえらの中ではもうとっくに降りたことになっている土俵の上にいる真っ当な健常者たちを直視しろよ。自分の能力の低さを直視しろよ。
いつものメンツで毎晩毎晩「より良いインターネットユーザーであるには」とかなんとか議論するのもやめなよ。
誰も見向きもしないようなサブカル知識の重箱の隅をほじくり回してアレは良いコレは悪いの判断の線引きを行ったり来たりさせるのもやめなよ。
気付いてるんでしょ?それがピントのずれた行為だってことに。薄々わかっていても決定的な事柄に着手するのを遅らせ続けてさ、インターネットでのポジションを維持しようと思って我々は螺旋的に発展してるって自嘲するのもやめようよ。
助けてくれよ。こんなつまらないことばっか書かないと気分が落ち着かないんだよ。情動失禁にすぎない最悪の棚上げ行為をこんな場末の痰壷吹き溜りに書き散らさないと何も手につかないんだよ。もっとちゃんとしたい、海が見たい、人を愛したい。
わかるでしょ。何を言いたかったのかもわからないくらい、心がざわついていて、落ち着かないんだよ。
お前らがコソコソとSNSで気に食わないなと思ってそれとなくぼやかして言及している奴らはこんなに頭が悪いんだよ。
ほわせぷキッズより
眼の前の翁は憂いを帯びた目でディスプレイを見つめながらコーヒーをすする。
「わざわざ言わなくても、そんなのいつものことでしょう。インターネットなんて有象無象が罵詈雑言を浴びせ合うつまらない場所です」
「昔はそうでもなかったのだよ」
翁はゆっくりと首を振り、そしてため息を吐いた。
「集合知やweb2.0といった言葉が持て囃され、ゲーム系2chまとめwikiは充実し、数々の名コピペやブログ記事が日々刻々と生み出されていた。
今の腐海に沈んだインターネットしか見たことのない君には信じてもらえぬだろが、かつてのこの場所は、殺伐としながらも輝きに満ちた場所であったのだ」
「とてもじゃないですが信じられませんね」
「アーカイブすら失われた今となっては、それを証明する手段もない。仕方のないことだ」
翁はコーヒーを淹れてくると言って席を立ち、後には俺だけが残された。
検索結果はゴミのような記事で汚染され、人々は争いを求め、自分こそが正義でありお前らは悪なのだと糾弾しているばかりの、踏み潰された犬の糞のような日常。
人間の本質の片鱗が表出せずにはいられない場所、それがインターネットだ。
いや、たしかに中には人格者もいるだろうが、それは大多数の愚かで醜悪で、かつ自分がそうであると認識できない、そんな救いがたい人間たちの濁流に飲まれてしまう。
私はコーヒーカップの縁をなぞりながら、自分はあのような人間共のようには絶対にならない、と思いを新たにする。
やがて戻ってきた翁は、空になっていた私のカップに素晴らしい香りのするコーヒーを淹れてくれた。
ああ、願わくばインターネットなどには関わらず、いつまでもこのような穏やかな日常を過ごしたいものだ。
しかし、そのような日常を私に提供してくれる翁もまたインターネットから生まれた存在ということも事実なのである。
その矛盾に私は目をつむる。
というよりも、残り時間の少なさにいよいよ危機感を覚えるべきときに来ている。
正直言って、このまま死んでもいいぐらいにどうしようもない人生だ。しかし折角だから最後に創作活動を多少なりともやっておきたい。
逆になんということだ俺は天才だったのか!と人生が突然に開けだすのも悪くない。
どちらにしろこのままある日突然死んでからなんということだ俺は何者だったのだろう?と悩んで消えていくというのはどうにもしっくりこない。
そもそもをして我々の人格なるものは全身の神経の電気刺激の集合が、しっくりくる状態を求めて相互作用を繰り返した結果なのだ。
よく言う食欲や性欲についても腹が満たされればしっくりくるし適度に股間の勤労意欲を満たしてやるのがしっくりくるということだ。
さてさて、そうは言っても何をすればいいのか。
子供の頃はゲームなんぞを作りたいと思っていたが、私が今までに遊んだ俄作りの素人ゲームなんぞは100を超えようが、それらについて言えるのは本当の天才が不断の努力の果てに作り出したもの以外はクソであるということだ。
私は過去に一度や二度ゲーム作りに挑んだが天才でないのも努力家でないのも明らかであった。
次に絵や漫画も却下である。これもまた天才か不断の努力かの賜なれど、私には到底そのどちらもないことを人生が証明してきている。
音楽や芸能の類も同じく運動も駄目でそもそも手先が不器用であり物を作るのには向いてないし、感覚器官が全体をして曖昧模糊としているので料理やら目利きやらも不得手である。
文筆とは時として天才たちがその天才性を抜き身のままに振り回すための土俵であるとも扱われがちだが、実際にはどちらかといえばあらゆる才能の土俵から追い出されたハグレモノの集まる無能無才が暮らす創作界のスラムである。
持って生まれた能力も努力も足らぬ私は当然のようにこのスラムにふらりとやってきて、そこで海の物とも山の物ともつかぬ某方をどうにかこうにかして有象無象をあれやこれやするのがお似合いなのである。
全くもって文筆とは素晴らしいもので、たとえば「それはそれは見事な紅葉の山」という言葉だけで「それはそれは見事な紅葉の山」を表現できる。
もしもこれを絵で描こうとすればどれほどの能力と時間を有することか。
背景画像の集合からピッと貼り付ければいいではないかと思う横着者のもおろうが、それを探してくる手間さえなくただ「山」と書けばそこに「山」が現れるが筆しらべの秘術である。
全くもって人生において遊ぶことと無能なりに食っていくことに大忙しの貧乏暇なし無学慌ただしというものだ。
才能がなければただ遊ぶということにおいても無用の時間をもって大したことも出来ぬままにいくら時間を使っても付きぬものだから創作に使っていられる時間など人生のうちの極々一部となる。
そうなるともういよいよペンを持って事を為す以外の道などないのだ。
たとえば俳句など読んで見ればわずか17文字おきに一作品が出来上がる。
全100作の俳句をつなげた一世一代の詩集を認めんと心に決めれば原稿用紙にして4と1/4で済むわけだ。
掌編小説などは原稿用紙に5枚でいいし、短編で10枚、長編でも50枚も描けば十二分に両足を突っ込めるというものだ。
原稿用紙50枚!と聞くとなんとも驚きだがなんのことはないツイッター3回で原稿用紙1枚なのだからツイッターを150回だ。
ナンセンス小説であれば「イヤー!アイヤー!チョイヤー!ドッカーン!」なんて引き伸ばしの擬音を次々に入れれば簡単に稼げるものだ。
官能小説であれば喘ぎ声や擦れ音で半分埋めるのが実にシズル感があると推奨されている。
こうなればもう簡単だ。
3作も書きあげれば(なんとツイッター500回程度でいいのだ!)もう十分、「やあやあ我こそ物書きなるぞ!我の才能が偶然この時代に噛み合わぬゆえもう諦めて余生はくだらん仕事をして糊口を凌いで残った時間はひたすら遊んで過ごそうと思ふ」と言い張れるのだ。
まずは自分が主人公のノンフィクション半生伝記を人知れずかきあげて、手塚治虫なりヘンリー・ダーガーなりを気取ってこっそりとHDDの奥に仕舞い込んでしまうのだ。
最後に自分の理想とする社会についての妄言をあれやこれやと書き連ねたらもう3作だ。
あっという間である。
後半の2作を適当なライトノベルなりハヤカワなりの賞に応募して、一次予選で落とされて帰ってくればもう残りの生涯は自由である。
「俺は自分に秘められた才能を試し終わったのだぞ。誰が文句をつけるものか。天より預かった才能は地に返してから死ぬべきだが、それが元より無いなら自由に生きるのが当然だろう」と堂々とぐうたらぐうたら暮らせるのだ。
さあ自由になるために筆を取ろう。