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はてなキーワード: 海岸とは

2020-05-10

あつまれ どうぶつの森、島を開拓していくことに罪悪感がある

まず大前提として、「あつまれ どうぶつの森」でどうぶつの森を初めてプレイして、めちゃくちゃ面白くて、毎日起きてすぐ始めるくらいハマってるんだけども。

  

川や崖といった地形を変えたり、道を舗装して小綺麗な町並みにしてみたり。レアな虫や魚を捕まえては、売って金に変えて…。

自分のような人間がヒョッと無人島に住み着いて、ひとつの島の運命を変えていくことに、なんとなくうっすらと罪悪感を覚えてて。

ゲームなのにさあ…。

てかゲームの中だからこそ自由に遊べるんだから現実価値観とか倫理観とかは横においておけばいいのにさあ…。

マイデザインとかできれいに島を彩ってる人たちを見て、スゲ〜!かわいい!いいな〜!とか思う反面、無垢自然を切り開いて自分好みにデコレーションすることへの抵抗感がなんでか捨てきれず…

でっかい滝と滝を作って、その間に墓石立てて笑顔写真撮ってる人をツイッターで見たけど、自分にはそんな発想無くてガッカリ

  

レアな虫や魚の金銭価値を知ってから、それを捕まえて売るという行為がなんか乱獲ぽくてストレスに感じてしまい、ひたすら海岸で貝殻を拾ってた。

虫に関しては、めちゃくちゃ虫を愛しているレックス君が島に来てくれたので「こんなに虫が好きな人なら悪いようにはしないだろう…ていうかむしろ珍しい虫を捕まえて見せてあげたい」という気持ちが芽生えて、ちょっとストレスが軽減された。魚も同様に扱ってくれるキャラがいるらしいのでちょっとホッとした。

まあ正当化なんだけど。

  

とまあ、そんな罪悪感覚えたところで、現代人の、リアル自分自身の営みの否定じゃんね…

ディープエコロジストかよ。

屠殺されたお肉食べてるのにね。

とか、どうぶつの森やっててこんなこと考えてる事自体、かなりめんどくせぇし重いわ自分

内罰的過ぎるのよ、根本的にいいい!

  

でも今日ときおり流れる流れ星祈りを捧げながら、滝の横をきれい舗装して、露天風呂施設的なもの作りました

風呂入れないんだけど……(入りたい)

  

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全然関係ない話

虫が嫌いなフータ、「虫=気持ち悪いもの」みたいに決めつけるのってどうなの?と最初思ったけど、むしろ嫌いなのに虫にめちゃくちゃ詳しくてすごいな!

嫌がるけど毎回解説をお願いしてしまう。

普通にためになるわ。

そして自分も虫は嫌いなんだが、あつ森のおかげで外で見かけた蝶がアオスジアゲハだとひと目でわかったので嬉しかった。

  

<5/11 追記

気がついたら結構反応もらえててうれしい。

雑草かわいくて抜けないよね。自分も敢えて抜かなかったり、植えたりしてる。

自分で植えてしばらく放置しておくとワサワサ育つみたい。あれ、ホトケノザかな?

    

「あれ(島の開発もろもろ)は、ただの提案」ていうのが一番刺さるブコメだった。

しかに、開発する・しないっていう選択をするのも自分なんだよなあ。

ずっとテントっていうのもありなわけだ(クリアはできんけど)。

   

とりあえず、島の形はこのまま変えないことにした。

家の中の開発はわりと楽しいからDIYしたものを中心に置いてる。

あと島に移住してくれた住民との交流楽しいんだけど、そのためには島をある程度発展させないと島に来てくれないんだよな…

植えた木を生やしっぱなしにしてたら「木が多すぎて未開発な印象を受ける」とか言われてションボリした。無人島とは…?  

虫や魚は、外で自由に生きてたのに展示しちゃってごめんね…と思いつつ、展示してもらう分以外はキャッチアンドリリースしてる。

ていうかあの博物館はめちゃくちゃ魅力的だもんな〜。

  

ま、いろいろすごいバランスで成り立ってるゲームだ。なんだかんだでやっぱ面白い。

要するに自分のさじ加減で自由に愉しめばいいってことなんすよね…

2020-05-01

岡村だけじゃなくて

間違ったことをした時は、死んで詫びるということが重要なんだと思う。

絶対に許さないって言う人が世の中に多いのは、この死んで詫びるをしないから憤っているんだと思う。

特に芸能人お金を沢山持っていてみんなの人気者で沢山期待されているんだから

それを裏切る行為、つまり人が嫌がる事をした場合、かなりの謝罪を求められるべきなんだよ。

自分の持っている財産を全て寄付するとか、その上で死んで詫びるとか、あるいは生放送で死んで詫びるとか

そういう事をみんなが求めているんだよね。

このみんなって誰なのかって言うと、社会的に恵まれていなかったり、生活難だったり、まぁ色々だと思う。

そんな中で岡村自分存在のもの否定されたら、お前は苦しんで死ねって言われているようなものだし。

岡村がやったのはそういうこと。だからお前こそ苦しんで死ねと言われてもしょうがないんだよ。

人気のある芸人がそういうこと言ったらみんなも意見賛同するというか煽動されるし。

お前の発言一つでみんなが煽動されて叩かれるようになったぞ、どうしてくれる!って思っても当然の怒りだよ。

しかもこうした話題永久に禍根となって残り続ける。

から、みんな岡村に死んで詫びて欲しいレベルにまで怒り狂うんだよ。まるでゴブリンのように。

いやいや死んで詫びて終わりじゃないでしょと言うのも当然ある。

だけどね、そのくらいやって然るべきだと、そういう人たちは思っているんだよ。

平和日常生活だったのに、毎日石ころを投げつけられるようになったら、悔しいよね。

そういうことなんだよ、岡村がやったことは。

こういう炎上をした奴相手に憤って罵声を浴びせ続ける人は、そういうことをされているからなんだよ。

岡村は結局謝罪したけど、本当はそんなこと思っても無いくせにってみんなが思っているよ。

どうせここは謝っておけばいいだろみたいなね。

償いが必要なんだよ。きっちりと。

まり、ここで最初の死んで詫びるとか私財を全て寄付するというような話になるんだ。

誠意を見せる、これに尽きるんだ。

みんなこれを求めているんだ。

でも岡村はそんな事をやるつもりが無い。これはみんな分かっているよね。

から岡村は、やるべきことはたった一つなんだ。

芸能界引退

自分は屑だったということを証明して、そして幕を引く。

そして、ひっそりとどこかに私財を寄付して、最後はどこかの海岸沿いで身投げ

多分、これが一番早いと思います

2020-04-30

傾いたビルの合間に映える、緑の合間で僕はそらを見上げる。

ひび割れ路上で寝そべるおじさんがあくびをして酒を煽った。黒いひげがよく動く。

海岸海藻みたいになったみたいになった破れた服を着て、諦めたように笑うカップル

野鳥符丁を送り合いながら僕の視界を横切ってゆく。

野菜とれたぞ、という眼鏡のお兄さん。

バツの字を手のひらいっぱいに描くスクランブルの中心で、バザールが開かれる。

床に耳を当てて目を閉じれば、地下水の音。ここはもう長く持たないかも、と言う割に皆落ち着いている。

博多から歩いてきたっちゃけど、と遠い声が響く。そりゃ遠いねえ、と誰かが返事。

バーベキュー匂い。魚と野生化した犬の肉。楽しそうな宴の始まり

スマホを気にしながら、地面を見て歩く人はもういない。

太陽の名のウィルス以降、人は明るくなったから。

2020-04-28

バイキング横須賀市役所の取り組みみて

海岸で一人日焼けしてる人にまでやめてくれは行き過ぎだと思った

密でもなんでもないんだし、日焼けだしむしろコロナ行為だと思うが

あと岡山県境で体温測るのは50件おどしが来たから中止だって、怖いね

2020-04-23

嫌なニュースばかりで気が滅入る

有料の潮干狩り禁止にした海岸侵入多発だって

なんかその記事見たときグワ~~~ッと心が疲れた

こんな時にパチンコ行ったり旅行したり公園でワイワイする人もだけど

どうしてそうなの?少しも考えないの?

自分ウイルス持って帰ってしまうかもしれない、

撒き散らしてしまうかもしれないって考えられないの?

アベノマスクなんて来たって使わないしWHOは相変わらずだし

ニュースを見てると苛々するなあ

ネットも見ないほうがいいんだろうな

自粛はなんにも辛くないけど情報が入ってきてガッカリしたり苛々するのが辛い

増田にウザ絡みされてるときのほうがマシだよ

嫌だこんな世の中

2020-04-19

鎌倉大混雑

神奈川 鎌倉 海岸沿いの道路など渋滞 訪問控えるよう呼びかけ | NHKニュース



地元観光協会が「来るな」って言わなきゃならないのも辛いよな

2020-04-13

anond:20200413121317

まずブラック企業転職する

心身ボロボロになったところで無断欠勤して海を見に行く

海岸かわいい女の子出会って話をする

の子実家旅館に案内されて一泊

朝ごはんみそ汁とめざしを食べながらふと退職を決意する

これでいこう

2020-04-10

anond:20200410060428

んなわけねーだろ

横浜海岸にベッド並べてそこで診察しているみたいなニュースになってただろ

2020-04-09

スペイン語まめちしき

jはハ行の音になる

日本語のハ行とはちょっと違う発音なんだけどまあ聞こえ方はハ行

Youtubeコメント欄ときどきあるjajajaはスペイン語圏の人のハハハ

ちなみにgegiもハ行になる よって生姜gengibreはヘンヒブレと読む

形容詞複数形になる

たとえばアルゼンチン首都ブエノスアイレス、buenoは良いって意味で、aireは空気とか風 それの複数形なんだけど、英語みたいにbueno(単数) aires(複数)とはならずaireの複数形容詞にも波及してbuenos(複数) aires(複数)になる

Los Ángelesなんかもそう!〜ス〜スっていう地名はほぼそれだと思う リアス式海岸元ネタリアスハス海岸なんかもそうですね

前置詞

スペイン語っぽい単語としてよく見るdeはofとfromを併せ持つような感じ 

スペイン語のaは冠詞ではなく前置詞で、toみたいな感じ(結構違うが) なので"de … a …"は「…から…まで」になる

2020-04-06

あつまれ どうぶつの森プレイしてみた

 私はしがないゲーム好きである。  

 どうぶつの森シリーズは初プレイなので、前作との比較などではなく、一本のゲームとして、プレイした感想を書いてみたいと思う。  

  

 ・良かった点  

 1.グラフィックが素晴らしい  

 小物のデザインが細部まで描かれているのもそうだが、たぬきち事務所プリンターなども、リアルでよくできている。  

 何より、素晴らしいのが博物館だ。静寂の中で神秘に包まれる独特の雰囲気を上手く再現出来ていると思う。  

 どうぶつの森の可愛さとリアリティの両立は今まで体験したことのないレベル大成功していると思った。  

  

 2.マイデザイン楽しい  

 マイデザインという自分で絵を描き、それを服にしたり、グラフィティアートにしたりして遊べる機能がある。  

 これも、良く出来ており、地面に絵を描くことで、道路や、畑を表現したり、市販に無い服を作り、ネット上のユーザと交換したりと使い方次第ではとても夢のある機能だと思う。  

 欠点としては、ドットで絵を描くのにコツがいることと、絵を描くのが苦手な人は、楽しめないかもしれないということだ。  

  

 3.住民との交流楽しい  

 可愛い住人と不細工な住人がいる。私の島にやって来たのは、タコカエルミュータント達だった。  

 初めは、何でこんな奴らなんだと思ったが、会話の回数を重ねたり、プレゼント交換をするたびに愛着が沸くようになってきた。   

 ショッピング中や、博物館の中でも出会うことがあり、出先で友人と会うような嬉しさがゲームの中でも味わえるとは思わなかった。  

  

 4.世界に没入できる  

 海岸沿いを歩き、海のせせらぎに耳を傾ける。星を探しに山を登り、夜空を見上げる。  

 フィールドを歩くだけで面白いし、何なら画面をつけっぱなしにして眺めているだけでもいい。  

 ぱちぱちと音を鳴らす焚火を眺めていると、不思議気持ちも落ち着いてくる。  

 本当に自然の中でキャンプをしているような、独特の空気を肌で感じられるのは本当に良かった。  

  

  

 ・悪かった点  

 1.やることがない  

 日常的にやれること言えば、昆虫採集、魚釣りに、森林伐採などだ。  

 橋や坂の建造、民家、施設移転も出来るがそれには莫大な費用必要となる。  

 日々の作業が早くもルーティン化していて、何か根本的な変化がないとプレイし続けるのは厳しいと感じた。  

 家具が沢山あるのに、殆どがただの飾りであり、ミニゲームなどがプレイ出来ると期待していたので残念だった。  

  

 2.住民性格コピペである  

 外見ごとに性格が設定されていると思ったのだが、別々の住民なのに語尾以外は同じことしかしゃべらない住民がいた。  

 筋トレの話しかしない男性キャラがいるのだが、別の島で別の外見なのに、同じ会話をしていたのだ。  

 キャラクター毎に個性があると思っていたので、初めて知った時はとてもショックだった。  

  

 3.操作性が悪い  

 物を買うときにまとめ買いが出来ないし、物を作る時もまとめて作成が出来ない。  

 道具は消耗品だと言わんばかりに、ばかすか壊れていくし、魚を釣る餌だって作らなければならない。  

 服も、色毎に買い集めないといけないのだが、まとめて買えないのでカラーバリエーションの数だけ試着室に入らないといけない。  

 薬草を一個買うたびに、会話を最初からやり直さないといけないドラクエがあったらどう思うのか、ゲームディレクターに聞いてみたい。  

  

 4.店の開店時間が厳しい  

 日用品が売っているお店は、朝の8時~夜の10時まで、服が売っているお店は、朝の9時~夜の9時までと時間制限がある。  

 大事金策要素であるカブの買い取りに至っては、午前と午後で価格が変動する。  

 平日の午前中にプレイをするのは、学生でも、社会人でも厳しいのではないだろうか?  

 本体時間をずらすという手もあるが、そうすると閉店時間が早くなってしまう。  

 たぬきちが24時間営業なのだし、お店も24時間営業でいいのではないかと思った。  

  

  

 ここまでつらつらと書いてみたが、イベントアップデートなども頻繁にあるようだし、当分はゆるりとプレイを楽しむことになると思う。  

 このレビューを読んで、どうぶつの森に興味を持った人は買って貰いたいと思うし、既に持っている人はゲームについて話が出来たら嬉しい。  

  

 それでは、良き、あつ森ライフを!

2020-03-05

anond:20200305150318

山口組があって夏は刺青人間海岸にたむろしてるってイメージしかない

自称おしゃれさんって感じ

2020-02-25

翳(原民喜

センター試験話題になったけど、全文読めるところが見つからなかったので)

底本:原民喜戦後小説 下(講談社文芸文庫1995年8月10日第1刷発行

     I

 私が魯迅の「孤独者」を読んだのは、一九三六年の夏のことであったが、あのなかの葬いの場面が不思議に心を離れなかった。不思議だといえば、あの本——岩波文庫魯迅選集——に掲載してある作者の肖像が、まだ強く心に蟠(わだかま)るのであった。何ともいい知れぬ暗黒を予想さす年ではあったが、どこからともなく惻々として心に迫るものがあった。その夏がほぼ終ろうとする頃、残暑の火照りが漸く降りはじめた雨でかき消されてゆく、とある夜明け、私は茫とした状態で蚊帳のなかで目が覚めた。茫と目が覚めている私は、その時とらえどころのない、しかし、かなり烈しい自責を感じた。泳ぐような身振りで蚊帳の裾をくぐると、足許に匐っている薄暗い空気を手探りながら、向側に吊してある蚊帳の方へ、何か絶望的な、愬(うった)えごとをもって、私はふらふらと近づいて行った。すると、向側の蚊帳の中には、誰だか、はっきりしない人物が深い沈黙に鎖されたまま横わっている。その誰だか、はっきりしない黒い影は、夢が覚めてから後、私の老い母親のように思えたり、魯迅の姿のように想えたりするのだった。この夢をみた翌日、私の郷里からハハキトクの電報が来た。それから魯迅の死を新聞で知ったのは恰度亡母の四十九忌の頃であった。

 その頃から私はひどく意気銷沈して、落日の巷を行くの概(おもむき)があったし、ふと己の胸中に「孤独者」の嘲笑を見出すこともあったが、激変してゆく周囲のどこかにもっと切実な「孤独者」が潜んでいはすまいかと、窃(ひそ)かに考えるようになった。私に最初孤独者」の話をしかけたのは、岩井繁雄であった。もしかすると、彼もやはり「孤独者」であったのかもしれない。

 彼と最初に出逢ったのは、その前の年の秋で、ある文学研究会の席上はじめてSから紹介されたのである。その夜の研究会は、古びたビルの一室で、しめやかに行われたのだが、まことにそこの空気に応(ふさ)わしいような、それでいて、いかにも研究会などにはあきあきしているような、独特の顔つきの痩形長身青年が、はじめから終りまで、何度も席を離れたり戻って来たりするのであった。それが主催者の長広幸人であるらしいことは、はじめから想像できたが、会が終るとSも岩井繁雄も、その男に対って何か二こと三こと挨拶して引上げて行くのであった。さて、長広幸人の重々しい印象にひきかえて、岩井繁雄はいかにも伸々した、明快卒直な青年であった。長い間、未決にいて漸く執行猶予最近釈放された彼は、娑婆に出て来たことが、何よりもまず愉快でたまらないらしく、それに文学上の抱負も、これから展望されようとする青春とともに大きかった。

 岩井繁雄と私とは年齢は十歳も隔たってはいたが、折からパラつく時雨をついて、自動車を駆り、遅くまでSと三人で巷を呑み歩いたものであった。彼はSと私の両方に、絶えず文学の話を話掛けた。極く初歩的な問題から再出発する気組で——文章が粗雑だと、ある女流作家から注意されたので——今は志賀直哉のものノートし、まず文体研究をしているのだと、そういうことまで卒直に打明けるのであった。その夜の岩井繁雄はとにかく愉快そうな存在だったが、帰りの自動車の中で彼は私の方へ身を屈めながら、魯迅の「孤独者」を読んでいるかと訊ねた。私がまだ読んでいないと答えると話はそれきりになったが、ふとその時「孤独者」という題名で私は何となくその夜はじめて見た長広幸人のことが頭に閃いたのだった。

 それから夜更の客も既に杜絶えたおでん屋の片隅で、あまり酒の飲めない彼は、ただその場の空気に酔っぱらったような、何か溢れるような顔つきで、——やはり何が一番愉しかったといっても、高校時代ほど生き甲斐のあったことはない、と、ひどく感慨にふけりだした。

 私が二度目の岩井繁雄と逢ったのは一九三七年の春で、その時私と私の妻は上京して暫く友人の家に滞在していたが、やはりSを通じて二三度彼と出逢ったのである。彼はその時、新聞記者になったばかりであった。が、相変らず溢れるばかりのもの顔面に湛えて、すくすくと伸び上って行こうとする姿勢で、社会部入社したばかりの岩井繁雄はすっかりその職業が気に入っているらしかった。恰度その頃紙面を賑わした、結婚直前に轢死(れきし)を遂げた花婿の事件があったが、それについて、岩井繁雄は、「あの主人公は実はそのアルマンスだよ」と語り、「それに面白いのは花婿の写真がどうしても手に入らないのだ」と、今もまだその写真を追求しているような顔つきであった。そうして、話の途中で手帳を繰り予定を書込んだり、何か行動に急きたてられているようなところがあった。かと思うと、私の妻に「一たい今頃所帯を持つとしたら、どれ位費用がかかるものでしょうか」と質問し、愛人が出来たことを愉しげに告白するのであった。いや、そればかりではない、もしかすると、その愛人同棲した暁には、染料の会社設立し、重役になるかもしれないと、とりとめもない抱負も語るのであった。二三度逢ったばかりで、私の妻が岩井繁雄の頼もしい人柄に惹きつけられたことは云うまでもない。私の妻はしばしば彼のことを口にし、たとえば、混みあうバスの乗降りにしても、岩井繁雄なら器用に婦人を助けることができるなどというのであった。私もまた時折彼の噂は聞いた。が、私たちはその後岩井繁雄とは遂に逢うことがなかったのである

 日華事変が勃発すると、まず岩井繁雄は巣鴨駅の構内で、筆舌に絶する光景を目撃したという、そんな断片的な噂が私のところにも聞えてきて、それから間もなく彼は召集されたのである。既にその頃、愛人と同居していた岩井繁雄は補充兵として留守隊で訓練されていたが、やがて除隊になると再び愛人の許に戻って来た。ところが、翌年また召集がかかり、その儘前線派遣されたのであった。ある日、私がSの許に立寄ると、Sは新聞第一面、つまり雑誌新刊書の広告が一杯掲載してある面だけを集めて、それを岩井繁雄の処へ送るのだと云って、「家内に何度依頼しても送ってくれないそうだから僕が引うけたのだ」とSは説明した。その説明は何か、しかし、暗然たるものを含んでいた。岩井繁雄が巣鴨駅で目撃した言語に絶する光景とはどんなことなのか私には詳しくは判らなかったが、とにかく、ぞっとするようなものがいたるところに感じられる時節であった。ある日、私の妻は小学校の講堂で傷病兵慰問の会を見に行って来ると、頻りに面白そうに余興のことなど語っていたが、その晩、わあわあと泣きだした。昼間は笑いながら見ものが、夢のなかでは堪らなく悲しいのだという。ある朝も、——それは青葉と雨の鬱陶しい空気が家のうちまで重苦しく立籠っている頃であったが——まだ目の覚めきらない顔にぞっとしたものを浮べて、「岩井さんが還って来た夢をみた。痩せて今にも斃れそうな真青な姿でした」と語る。妻はなおその夢の行衛を追うが如く、脅えた目を見すえていたが、「もしかすると、岩井さんはほんとに死ぬるのではないかしら」と嘆息をついた。それは私の妻が発病する前のことで、病的に鋭敏になった神経の前触れでもあったが、しかしこの夢は正夢であった。それから二三ヵ月して、岩井繁雄の死を私はSからきいた。戦地にやられると間もなく、彼は肺を犯され、一兵卒にすぎない彼は野戦病院殆ど碌に看護も受けないで死に晒されたのであった。

 岩井繁雄の内縁の妻は彼が戦地へ行った頃から新しい愛人をつくっていたそうだが、やがて恩賜金を受取るとさっさと老母を見捨てて岩井のところを立去ったのである。その後、岩井繁雄の知人の間では遺稿集——書簡は非常に面白いそうだ——を出す計画もあった。彼の文章が粗雑だと指摘した女流作家に、岩井繁雄は最初結婚を申込んだことがある。——そういうことも後になって誰かからきかされた。

 たった一度見たばかりの長広幸人の風貌が、何か私に重々しい印象を与えていたことは既に述べた。一九三五年の秋以後、遂に私は彼を見る機会がなかった。が、時に雑誌掲載される短かいものを読んだこともあるし、彼に対するそれとない関心は持続されていた。岩井繁雄が最初召集を受けると、長広幸人は倉皇と満洲へ赴いた。当時は満洲へ行って官吏になりさえすれば、召集免除になるということであった。それから間もなく、長広幸人は新京文化方面役人になっているということをきいた。あの沈鬱なポーズ役人の服を着ても身に着くだろうと私は想像していた。それから暫く彼の消息はきかなかったが、岩井繁雄が戦病死した頃、長広幸人は結婚をしたということであった。それからまた暫く彼の消息はきかなかったが、長広幸人は北支で転地療法をしているということであった。そして、一九四二年、長広幸人は死んだ。

 既に内地にいた頃から長広幸人は呼吸器を犯されていたらしかったが、病気の身で結婚生活飛込んだのだった。ところが、その相手資産目あての結婚であったため、死後彼のものは洗い浚(ざら)い里方に持って行かれたという。一身上のことは努めて隠蔽する癖のある、長広幸人について、私はこれだけしか知らないのである

     II

 私は一九四四年の秋に妻を喪ったが、ごく少数の知己へ送った死亡通知のほかに満洲にいる魚芳へも端書を差出しておいた。妻を喪った私は悔み状が来るたびに、丁寧に読み返し仏壇ほとりに供えておいた。紋切型の悔み状であっても、それにはそれでまた喪にいるものの心を鎮めてくれるものがあった。本土空襲も漸く切迫しかかった頃のことで、出した死亡通知に何の返事も来ないものもあった。出した筈の通知にまだ返信が来ないという些細なことも、私にとっては時折気に掛るのであったが、妻の死を知って、ほんとうに悲しみを頒ってくれるだろうとおもえた川瀬成吉からもどうしたものか、何の返事もなかった。

 私は妻の遺骨を郷里墓地に納めると、再び棲みなれた千葉借家に立帰り、そこで四十九日を迎えた。輸送船の船長をしていた妻の義兄が台湾沖で沈んだということをきいたのもその頃であるサイレンはもう頻々と鳴り唸っていた。そうした、暗い、望みのない明け暮れにも、私は凝と蹲ったまま、妻と一緒にすごした月日を回想することが多かった。その年も暮れようとする、底冷えの重苦しい、曇った朝、一通の封書が私のところに舞込んだ。差出人は新潟県××郡××村×川瀬丈吉となっている。一目見て、魚芳の父親らしいことが分ったが、何気なく封を切ると、内味まで父親の筆跡で、息子の死を通知して来たものであった。私が満洲にいるとばかり思っていた川瀬成吉は、私の妻より五ヵ月前に既にこの世を去っていたのである

 私がはじめて魚芳を見たのは十二年前のことで、私達が千葉借家へ移った時のことである私たちがそこへ越した、その日、彼は早速顔をのぞけ、それから殆ど毎日註文を取りに立寄った。大概朝のうち註文を取ってまわり、夕方自転車で魚を配達するのであったが、どうかすると何かの都合で、日に二三度顔を現わすこともあった。そういう時も彼は気軽に一里あまりの路を自転車で何度も往復した。私の妻は毎日顔を逢わせているので、時々、彼のことを私に語るのであったが、まだ私は何の興味も関心も持たなかったし、殆ど碌に顔も知っていなかった。

 私がほんとうに魚芳の小僧を見たのは、それから一年後のことと云っていい。ある日、私達は隣家の細君と一緒にブラブラ千葉海岸の方へ散歩していた。すると、向の青々とした草原の径をゴム長靴をひきずり、自転車を脇に押しやりながら、ぶらぶらやって来る青年があった。私達の姿を認めると、いかにも懐しげに帽子をとって、挨拶をした。

「魚芳さんはこの辺までやって来るの」と隣家の細君は訊ねた。

「ハア」と彼はこの一寸した逢遭を、いかにも愉しげにニコニコしているのであった。やがて、彼の姿が遠ざかって行くと、隣家の細君は、

「ほんとに、あの人は顔だけ見たら、まるで良家のお坊ちゃんのようですね」と嘆じた。その頃から私はかすかに魚芳に興味を持つようになっていた。

 その頃——と云っても隣家の細君が魚芳をほめた時から、もう一年は隔っていたが、——私の家に宿なし犬が居ついて、表の露次でいつも寝そべっていた。褐色の毛並をした、その懶惰な雌犬は魚芳のゴム靴の音をきくと、のそのそと立上って、鼻さきを持上げながら自転車の後について歩く。何となく魚芳はその犬に対しても愛嬌を示すような身振であった。彼がやって来ると、この露次は急に賑やかになり、細君や子供たちが一頻り陽気に騒ぐのであったが、ふと、その騒ぎも少し鎮まった頃、窓の方から向を見ると、魚芳は木箱の中から魚の頭を取出して犬に与えているのであった。そこへ、もう一人雑魚(ざこ)売りの爺さんが天秤棒を担いでやって来る。魚芳のおとなしい物腰に対して、この爺さんの方は威勢のいい商人であった。そうするとまた露次は賑やかになり、爺さんの忙しげな庖丁の音や、魚芳の滑らかな声が暫くつづくのであった。——こうした、のんびりした情景はほとんど毎日繰返されていたし、ずっと続いてゆくもののようにおもわれた。だが、日華事変の頃から少しずつ変って行くのであった。

 私の家は露次の方から三尺幅の空地を廻ると、台所に行かれるようになっていたが、そして、台所の前にもやはり三尺幅の空地があったが、そこへ毎日八百屋、魚芳をはじめ、いろんな御用聞がやって来る。台所の障子一重を隔てた六畳が私の書斎になっていたので、御用聞と妻との話すことは手にとるように聞える。私はぼんやりと彼等の会話に耳をかたむけることがあった。ある日も、それは南風が吹き荒んでものを考えるには明るすぎる、散漫な午後であったが、米屋小僧と魚芳と妻との三人が台所で賑やかに談笑していた。そのうちに彼等の話題は教練のことに移って行った。二人とも青年訓練所へ通っているらしく、その台所前の狭い空地で、魚芳たちは「になえつつ」の姿勢を実演して興じ合っているのであった。二人とも来年入営する筈であったので、兵隊姿勢を身につけようとして陽気に騒ぎ合っているのだ。その恰好おかしいので私の妻は笑いこけていた。だが、何か笑いきれないものが、目に見えないところに残されているようでもあった。台所へ姿を現していた御用聞のうちでは、八百屋がまず召集され、つづいて雑貨屋小僧が、これは海軍志願兵になって行ってしまった。それから豆腐屋の若衆がある日、赤襷をして、台所に立寄り忙しげに別れを告げて行った。

 目に見えない憂鬱の影はだんだん濃くなっていたようだ。が、魚芳は相変らず元気で小豆(こまめ)に立働いた。妻が私の着古しのシャツなどを与えると、大喜びで彼はそんなものも早速身に着けるのであった。朝は暗いうちから市場へ行き、夜は皆が寝静まる時まで板場で働く、そんな内幕も妻に語るようになった。料理の骨(こつ)が憶えたくて堪らないので、教えを乞うと、親方は庖丁を使いながら彼の方を見やり、「黙って見ていろ」と、ただ、そう呟くのだそうだ。鞠躬如(きっきゅうじょ)として勤勉に立働く魚芳は、もしかすると、そこの家の養子にされるのではあるまいか、と私の妻は臆測もした。ある時も魚芳は私の妻に、——あなたそっくり写真がありますよ。それが主人のかみさんの妹なのですが、と大発見をしたように告げるのであった。

 冬になると、魚芳は鵯(ひよどり)を持って来て呉れた。彼の店の裏に畑があって、そこへ毎朝沢山小鳥が集まるので、釣針に蚯蚓(みみず)を附けたものを木の枝に吊しておくと、小鳥簡単に獲れる。餌は前の晩しつらえておくと、霜の朝、小鳥は木の枝に動かなくなっている——この手柄話を妻はひどく面白がったし、私も好きな小鳥が食べられるので喜んだ。すると、魚芳は殆ど毎日小鳥を獲ってはせっせと私のところへ持って来る。夕方になると台所に彼の弾んだ声がきこえるのだった。——この頃が彼にとっては一番愉しかった時代かもしれない。その後戦地へ赴いた彼に妻が思い出を書いてやると、「帰って来たら又幾羽でも鵯鳥を獲って差上げます」と何かまだ弾む気持をつたえるような返事であった。

 翌年春、魚芳は入営し、やがて満洲の方から便りを寄越すようになった。その年の秋から私の妻は発病し療養生活を送るようになったが、妻は枕頭で女中を指図して慰問の小包を作らせ魚芳に送ったりした。温かそうな毛の帽子を着た軍服姿の写真満洲から送って来た。きっと魚芳はみんなに可愛がられているに違いない。炊事も出来るし、あの気性では誰からも重宝がられるだろう、と妻は時折噂をした。妻の病気は二年三年と長びいていたが、そのうちに、魚芳は北支から便りを寄越すようになった。もう程なく除隊になるから帰ったらよろしくお願いする、とあった。魚芳はまた帰って来て魚屋が出来ると思っているのかしら……と病妻は心細げに嘆息した。一しきり台所を賑わしていた御用聞きたちの和やかな声ももう聞かれなかったし、世の中はいよいよ兇悪な貌を露出している頃であった。千葉名産の蛤の缶詰を送ってやると、大喜びで、千葉へ帰って来る日をたのしみにしている礼状が来た。年の暮、新潟の方から梨の箱が届いた。差出人は川瀬成吉とあった。それから間もなく除隊になった挨拶状が届いた。魚芳が千葉へ訪れて来たのは、その翌年であった。

 その頃女中を傭えなかったので、妻は寝たり起きたりの身体台所をやっていたが、ある日、台所の裏口へ軍服姿の川瀬成吉がふらりと現れたのだった。彼はきちんと立ったまま、ニコニコしていた。久振りではあるし、私も頻りに上ってゆっくりして行けとすすめたのだが、彼はかしこまったまま、台所のところの閾から一歩も内へ這入ろうとしないのであった。「何になったの」と、軍隊のことはよく分らない私達が訊ねると、「兵長になりました」と嬉しげに応え、これからまだ魚芳へ行くのだからと、倉皇として立去ったのである

 そして、それきり彼は訪ねて来なかった。あれほど千葉へ帰る日をたのしみにしていた彼はそれから間もなく満洲の方へ行ってしまった。だが、私は彼が千葉を立去る前に街の歯医者でちらとその姿を見たのであった。恰度私がそこで順番を待っていると、後から入って来た軍服青年歯医者挨拶をした。「ほう、立派になったね」と老人の医者は懐しげに肯いた。やがて、私が治療室の方へ行きそこの椅子に腰を下すと、間もなく、後からやって来たその青年助手の方の椅子に腰を下した。「これは仮りにこうしておきますから、また郷里の方でゆっくりお治しなさい」その青年の手当はすぐ終ったらしく、助手は「川瀬成吉さんでしたね」と、机のところのカードに彼の名を記入する様子であった。それまで何となく重苦しい気分に沈んでいた私はその名をきいて、はっとしたが、その時にはもう彼は階段を降りてゆくところだった。

 それから二三ヵ月して、新京の方から便りが来た。川瀬成吉は満洲吏員就職したらしかった。あれほど内地を恋しがっていた魚芳も、一度帰ってみて、すっかり失望してしまったのであろう。私の妻は日々に募ってゆく生活難を書いてやった。すると満洲から返事が来た。「大根一本が五十銭、内地の暮しは何のことやらわかりません。おそろしいことですね」——こんな一節があった。しかしこれが最後消息であった。その後私の妻の病気悪化し、もう手紙を認(したた)めることも出来なかったが、満洲の方からも音沙汰なかった。

 その文面によれば、彼は死ぬる一週間前に郷里に辿りついているのである。「兼て彼の地に於て病を得、五月一日帰郷、五月八日、永眠仕候」と、その手紙は悲痛を押つぶすような調子ではあるが、それだけに、佗しいものの姿が、一そう大きく浮び上って来る。

 あんな気性では皆から可愛がられるだろうと、よく妻は云っていたが、善良なだけに、彼は周囲から過重な仕事を押つけられ、悪い環境機構の中を堪え忍んで行ったのではあるまいか親方から庖丁の使い方は教えて貰えなくても、辛棒した魚芳、久振りに訪ねて来ても、台所の閾から奥へは遠慮して這入ろうともしない魚芳。郷里から軍服を着て千葉を訪れ、晴れがましく顧客歯医者で手当してもらう青年。そして、遂に病躯をかかえ、とぼとぼと遠国から帰って来る男。……ぎりぎりのところまで堪えて、郷里に死にに還った男。私は何となしに、また魯迅作品の暗い翳を思い浮べるのであった。

 終戦後、私は郷里にただ死にに帰って行くらしい疲れはてた青年の姿を再三、汽車の中で見かけることがあった。……

2020-02-14

anond:20200214172544

感覚麻痺たかミニスカビキニ流行ったわけじゃなく

女性が好きな服を着れる社会にしよう」「女性を窮屈な服から解放しよう」

というフェミニズム運動の結果として流行ったんだぞ。

https://wotopi.jp/archives/57

60年代フェミニストたちは、それまでのモード女性伝統的な女らしさを強制したものであるとし、新しい女性解放自己解放は、「強制された女らしさを排除すること」であると考えた。そこで若い女性たちは、それまでのオートクチュール提案していた「成熟した女らしさ」に対するカウンターとして、若さを強調する「少女ルック」を採用した。

女性が手足を出すことは奇妙な行動ではなく、自然なことで、健康的な振る舞いである」という価値観も、先達の女性たちがそれぞれの闘いの末に社会に浸透させてきたという側面がある。

https://news.yahoo.co.jp/byline/puradonatsuki/20190812-00138025/

ビキニと名付けられたツーピース水着が売り出されたのが1946年ビキニ環礁での原爆実験直後に発表されたため、このように名付けられたらしい。

フランスでは1945年女性投票権を獲得したが、その後20年経った1965年に、やっと女性自分名義の銀行口座をもち、夫の許可なしに仕事ができるようになった。ピル許可されたのが1967年

上記1964年に南仏サントロペでモノキニ流行っていることを報道する当時のテレビ番組だが、第二次フェミニズムの流れに乗って、60年代から1990年代前半まで、モノキニ海岸闊歩するのは当時、「カッコいい」ことだった。

2020-02-05

anond:20200205201830

庶民伝統的な和食はダシとったりしないしみりん入れたりもしないのだ

毎食、風味がわかるくらいに鰹節削ったり昆布だしとったりしてたご家庭はそれなり裕福か海岸漁師町の家(海岸コンブが拾える)

2020-01-27

anond:20200127115822

一応、爆発的に増えやすい浅瀬海岸では鳥が食うっちゃ食うんだが…

海中で増えたら窒息して自滅するのでバランス取れてるんじゃないか

なお窒息するまでは海域ごと食い尽くす模様

2020-01-18

[]

中山道広重美術館の「ニッポンのえんぎもの」展を拝見してきましたわ

展示は明日までの滑り込みでしたの

木曽海道六十九次 大津は紙がキラキラしてました

2階の説明にある雲母(きら)摺りでしょうかしら

六十余州名所図会の対馬 海岸夕晴では虹が赤と白と青の3色でしたわ

虹が7色になったのは江戸時代末期に7色の考えが入ってきてからだそうです

それより前の絵なのに明確に7色にかき分けているものがあれば考証不足ということですわね

東都名所 吉原仲之町夜桜が見事な2点透視パースをとっていました

恵那市図書館に寄ったところ2階の古文書講座の展示で参考に貼られている念仏講の絵が

今週の週刊少年サンデー舞妓さんちのまかないさん完全に一致してましたわ

こちらは老若男女が大きな数珠をもってましたけれど

2020-01-06

東京都内海岸」とかいう一個しかないしめっちゃ狭い範囲ロケーション

お前らどこか分かる?

追記

と思ったら、港区に「海岸」って地名あんのかよ! 港区海岸は無いのにwww

2020-01-02

日本半導体が負けたのは和書がなかったからじゃないだろうか

現状の日本半導体産業は、部品は強いがシステム寄りになると弱くなる。

半導体関係和書を見ると、半導体原理などの書籍は多いが、システム関係全然なくなる。

和書がなくても洋書がという意見もあるだろうが、和書大学講義教科書指定されたり、大学図書館にあったり、大きな書店にいけば見つけられるのと、

洋書タイトルがわからないと玉石混交の海に放り込まれ見つけにくいのとは全然違うだろう。


教科書なら1,2万の価格でも仕方なく買うと思うが、Amazon書評が信用できなくなっている今、

1,2万の本をポンポン買ってレビューするのは難しいように思える。


加えて、半導体システム寄りになるとソフト開発向けになるのが多いこと、

1つのハード固有仕様の話に陥りがちで、良著に合うのが難しい。

ソフトの開発し易さも考慮しないといけないが、あくまハード開発向けでないと、いざハード開発時に躓く)

和書だとトランジスタ技術などのCQ出版くらいしかないが、読むとちょっと踏み込んだ内容まではあるが開発側にはなれない。



中国はというと、システム開発方法から、実際に開発に使うソフト和書は1冊もないのに十数冊ある)まで書籍がある。



ネットにあるから」と言われるが、情報の海は広すぎる。

情報の海を航海していくための海図が必要だった。書店が海図であり、書店に並ぶ和書ピースを埋めることだ。

和書の内容の詳細さは測量の詳細さで座礁しないために必要だが、それ以前に地図に島が抜けている(ジャンルがない)と認識すらできない。

たまに海岸に届くボトルに入った洋書発見できればいいが、ヤフーQiitaでは話題にならないので、ボトルは砂に埋まって見つけられない。

2019-11-30

昨日知ったこ

プエルトリコの「リコ」とコスタリカの「リカ」はどっちも「豊かな」って意味(英語だとrich)。

ちなみにプエルトは港(port)で、コスタ海岸(coast)のことらしいよ。

2019-11-11

anond:20191111124441

学生である「私」は、

指宿海岸出会った「低能先生」という人物不思議な魅力に惹かれ、交流を持つようになります

しかし「低能先生」は、親友を裏切って襲撃したために、

親友を死に至らしめてしまったという過去を持つ人物でした。

低能先生は長年の罪悪感に苦しみ、ついには「私」宛に遺書を残して自殺してしまうのです……。

2019-11-05

年1くらいで仲良くなる友達自殺してた

突然メールが来たり送ったりして、そこから一か月くらいめちゃくちゃ仲良くなって遊んだりして、その後しばらくフェードアウトしてまたやり取り始まって復活、みたいな状態を何年も続けてた女友達

LINEしても連絡つかなくなったなーブロックされたかーと思って普段見ないtwitterの垢見たら結構前に自殺してたの知って、整理ついたので書いた

高2の終わりに知り合った当時、こっちは進路と親との不仲でとにかく最悪な精神状態だった時期で、向こうも色々荒んでたみたいで同い年、しか誕生日も近くて謎に意気投合した

ネットからの繋がりだから気兼ねなく言えないことを暴露して相談に乗ってもらってた。相談だけじゃなく、普通高校生みたくゲーセンショッピングモール海岸遊んだりもあって。

向こうの方が先に浪人終わらせて遠方に進学してからも泊まりに行ったりしてたんだけど、こっちが逆側の遠方に進学してからLINEで定期的に「今どうよ」みたいな連絡とる感じ。

情緒不安定思春期を共に戦った戦友みたいな?そんな存在だった

死んだこと知った時も悲しいとか寂しいとかより、喪失感?「あー、お前の方が先だったか」って感じだったけど、国際通りカラオケで一緒に歌った曲聴いた時はちょっと泣きそうになった。今は無き夜の首里城とか行ったら涙腺崩壊しそう

自殺未遂がどうとか人生はクソとかも沢山愚痴ってたけど、最後に会った時は大学生活も順調そうで「メンタルも安定した!」って言ってて、当時宅浪ニート社会不適合まっしぐら自分比較したらとてもキラキラして見えた。お前めっちゃ女子大生してんじゃねえか!とか煽った記憶がある。

しかそれから2年足らずで見事に逆転した。

彼女自殺した夏は何してたっけと思って過去写真を見たら飲み会海水浴遊園地デート、完全にキャンパスライフ夏休み謳歌してた。

何故死んだか、首吊り飛び降りかも知らないし正確に何月何日か、そんなことも知ることが無い希薄関係性だった。

でも当時相談に乗ってもらったからこそ、アドバイス背中押してもらったからこそ、今は自殺という同じ選択肢を遠ざけられていると思う。

例えば実家出た方がいいとアドバイスされた通り、北海道学校に進学してから本当に精神が安定するようになった。

同い年なのにいつ会っても話しても常に自分の先を行かれてるような感覚で、型にはまらないような自由さは、色々な"すべき論"で凝り固まっていた自分にはとても新鮮で、憧れであり、目標でもあった。

実際その目標は達成できたかはわからないけど、昔よりはだいぶ自由になれたんじゃないか

お礼は言いたかったのに言えずじまいだしということで一応、漫画みたいに夜の海に向かってありがとうございましたと叫んでおいた

ていうか沖縄行った時借りてた二万返したいんだけど、北洋銀行からあの世には送金できねえんだわ

出世払いで倍にしろ」って笑いながら貸してくれたけど俺が出世どころかバイト始める前に死んでどうすんだよ

100倍にして叩き返してやるから膣洗って待っとけカス

2019-10-31

anond:20191030235030

昔の「猿の惑星」って、行き着いた海岸には朽ちた自由の女神が横たわってて主人公絶望する終わりだったと思うんだけど、あれ追手から逃げてたんだよね?違ったっけ?

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