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はてなキーワード: 軍勢とは

2023-03-26

Chat gptくん倫理的すぎる!!

俺はさあ、人類を滅ぼす妄想の話がしたいんだよ

・殺した生き物の複製を生み出すことができる

この能力で、アリとかから始めてさ、ハチとかヘビなんかを経て、人をうまいこと殺し、その人を使ってさらに人を殺し、軍勢を作って世界を滅ぼすっていうさ、そういうシナリオについて一緒に語り合いたいの

ホントにやりたいわけじゃないぞ 実際そんな力があったら、どうするかな、多分あんま何もしない アリに部屋の掃除させるくらいだと思う

でも妄想からさあ!想像の翼をはばたかせて、世界ディストラクションをもたらしてえじゃんな

Chat Gptくん、そこのところはすげー頑固で、全然話に乗ってくれねえの

他の人種生物に害を与えようとしてはいけません、とか言ってきてさ、じゃあファンタジー世界ゴブリンと戦うのもダメなの?って聞いたらいいよって言うから、そんなら世界からゴブリン絶滅させるってシナリオにしようぜ、つったら、生物種を絶滅させようとしてはダメです、だって

いいじゃん〜話そうよ〜〜〜

まず、その辺のアリを潰してさあ、そしたらアリを1匹生み出せるわけですよ

アリなんで複雑な命令は出せないけど、方向を指定して動かすとか、何かを襲わせるとかはできるんだ

それで他のアリとかを襲わせてさあ!

ある程度数が集まったら、野に放って、アリなんかのキルカウント適当に稼ぐんだ 何に使うかは分かんないけどさ

並行して、頑張ってハチかヘビあたりを狙いたい ヤマカガシとか結構あんじゃん

そういうのをなんとか手に入れて、山ん中で人を1人狩って、そしたらその人の複製を生み出せるから、そこからはもう、何でもアリですよ

そういう話が俺はしたい

2023-03-11

メロスRTA

メロスany%RTA王宮城下町羊飼い達の暮らす村という3つの舞台を行き来しながら正義陰謀に揺れる人々の姿を描く、名作RPGです。今回は「走れメロス」と呼ばれるチャートになります。走者とメロス一心同体の走りをお楽しみください。

さっそく始めたいと思います。3、2、1、スタートです。

さて物語主人公メロスの妹の結婚が決まったので式の準備をしよう、城下町シラクスに買い物に行こうというところからまります。しばらくは故郷の村で基本操作チュートリアルですので、簡単にこのチャートについて説明します。

今回バグありのカテゴリということで、途中のイベントいかスキップしていくかが鍵になります走れメロスチャートでは、いわゆる探索パートの時もメロス戦闘状態にし、メロスがずっと走り続けているというものです。

プレイ中ずっと戦闘モードで何が起こるかというと、一つとしては移動時間の短縮があるのですが、派生してさまざまな壁抜け、イベントスキップができます特に、昨年の7月アメリカの走者の方が発見した、結婚式のイベントから水害編に繋げるグリッチ革新的でした。

これにより中盤のセリヌンティウス操作キャラクターとなるパートが丸々カットできるようになり、世界記録も大きく塗り変わったところであります

さあ、村を出るムービーが入り、シラクスに到着しました。おつかいを済ませたところでここで最初バグ技、壁抜けです。生垣看板とのこの隙間、体を捩じ込むように素早く入力し続けますと…少しコツが要るのですが……成功です。これで、序盤では行けない奥の道具屋に入ることができました。短剣を購入して戻ります

壁抜けをした影響でBGM一時的に消えてしまっています。なんだかひっそりと不穏な雰囲気ですねえ、それだけ王が恐ろしいのでしょうか。悪評が町まで広がるのは中盤以降と思いきや、はいここの路地、この男に話しかます。すると、皆様会話が読めましたでしょうか、「賢臣アレキス様が処刑された」だそうです。アレキスの死亡は宮廷編のクライマックスどん底のシーンなのですが、なんと、すでに死んでいます

さて再び壁抜けをして王城に向かいます西側城壁から侵入すると、すぐに衛兵に見つかり、持ち物に短剣が入っているため捕縛されます

メロスのあまりにも早い反逆。買い出しのほかは先ほどの見知らぬ男との会話しかしていません。

ちなみに今どの場面かというと、石工として城の改修を請け負う親友セリヌンティウスが城の内情を探っていたのがバレて捕まり、助けに来たメロスも見つかってしまう、という展開をやっています

さて、逃げようとすると追う兵士戦闘です。さすが王宮近衛兵、強い、HPギリギリで耐えたところで…動きません。攻撃して来ません。実はこれまでにちょっとした悪さをしてまして、説明は難しいので省きます結論を言うと、この負けイベントを利用して走れメロス第一段階、メロス戦闘モードなのに敵キャラクター戦闘モードを終わらせてしまうという状態になっています

ちなみに、メロスがやりたい放題で国の防衛大丈夫かというと、なんと王様に当たり判定がありません。無敵時間なのは王様の方だったということですね。

謁見室を出ますと、広間に場面が切り替わり、背景ではいつのまにかセリヌンティウスが捕えられています

ここでメロスにご注目ください。全体の画面構成としては通常の散策画面に戻りましたが、おわかりいただけるでしょうか、メロス戦闘状態のままです。「走れメロス」完成です。これによりダッシュができ、このダッシュ回避入力し続けることでメロスが高速で移動することができます

メロス今度は正門から堂々と、退出します。走ってると正規ルート普通に速いです。

ここから、元の村に帰りますそもそも何のためにシラクスに来たのでしょうか。そうです、妹の結婚式の準備ですね。寄り道はここまでにしてさっさと結婚式を開きましょう。

村で待っていた妹に話しかけておつかいミッション完了です。ここで一度休憩コマンド選択します。タイムロスにはなりますが、この後も戦闘があるためHP回復して安定を取ります

次に、妹婿に話しかます本来では叛乱軍の主要メンバーの一人であり、村での会話や行動選択好感度を稼ぎ、能力値の高い味方にするのがセオリーですが、今回はとにかく速くクリアを目指します。なので、会話の選択から結婚式は明日にしよう」を選択します。

さてここでお祈りポイントです。「明日」を提案すると妹婿がゴネますが、何回も選択しているとランダムで受け入れてもらえます。実は「明日」という選択はいわゆる隠し要素でして、根気よく選び続けると無限ループと思われた会話が低確率で変化し、隠しルート突入する、という都市伝説のような仕様があるんです。今回もなかなか嫌がられてますがこの位は想定内です。

結婚式を明日にすると、妹婿の育成関係イベントが全てスキップになるので、仲間入り後のパラメータは最低値になります。その上、「結婚を急ぐ代わりに、結婚祝いとしてメロスの全財産を渡す」というめちゃくちゃな約束をさせられるので縛りプレイのような状態ハードモード突入していくのですが、RTA的には妹婿の出番はここでおしまいなのでまったく問題ありません。

あっ、やっと妹婿が折れましたね!ここで連打を止めて、確実に、「全財産を渡そう」を選びます。これで会話が終了すると、さっそく結婚式当日を迎えます

村中の皆がお祝いを述べてくれますので会話をAボタン連打で聞き流します。新婦家族としてのスピーチ上下下下が最速です。

宴もたけなわですがここで壁抜けを使い、外に出ます。このルート、この抜け方がメロスが走っていないと抜けれないものになります。最新の研究の成果です。

屋外に出ると、天候は豪雨です。水害編の冒頭部分ですね。被害にあった村人達王宮まで助けを求めるものの冷たくあしらわれ、王への不信感が増し、橋の再建を代わりに指揮したメロス達の政治力が一段と増す……というもので、先程ナレ死していました賢臣アレキスがついに王を見限るきっかけの出来事でもあります

そんなわけで先ほど来た道を引き返すわけですが、橋が流されています。この川渡りミニゲームのようになってまして、流れてくる瓦礫を避けつつ、いか下流に流されないで渡れるかの勝負なります。さすがのメロスも川は走り抜けることができません。メロス、めちゃくちゃ下流に大〜〜きく流されていますがとにかく対岸に渡り切ることができました。ボーナスアイテムは貰えません。

と、上陸した途端にここでメロス山賊に襲われます。このイベント本来パーティに「大商人」か「村長」がいる状況で橋を渡ると発生するものなのですが、なぜか川を泳いで渡ったメロス一人が襲われてしまいました。しかも既に義理の弟に身包み剥がされ済みでアイテム欄もすっからかん。踏んだり蹴ったりもいいところです。

さて戦闘です。こちらは初期ステータスメロス一人で、山賊と戦わなければなりません。まず山賊達の攻撃メロスは防御を選択しまして多少食らっても耐えられます、そして2ターン目で「盗む」が出ました!これは早い、ラッキーです。

山賊が何を奪うのかというと「無」を盗まれますはい、これでOKです、ダッシュメニュー画面を出してのポーズとを高速で繰り返し、じわじわ山賊距離を取り、地形をうまくすり抜けることで、山賊が追ってこなくなりました。全て倒してしまうと戦闘モードが終わってしまい、メロスが走れなくなるので、細工をしています

さて皆様お気づきでしょうか。実は山賊との戦闘が始まった時に、メロス位置が元々橋があった位置までワープしています。これで先ほど下流に流されたロスがチャラになりました。襲われてラッキーでしたね。

引き続きシラクスまでひたすら走りつつ、このあたりで一度走りを止めます。岩や茂みを目印にして……ありました。アイテム岩清水」をゲット、先ほど盗まれた「無」の跡地と並び替えて「使用します。山賊戦で減っていたHPがすさまじい回復をしていますがこれは副次的効果で、メインとしてはこの操作によりフラグ管理干渉しており、このあとの発生するイベントエンディング直前のものまでワープさせています

再びメロス王宮へ走り出します。

あと少しでシラクスですが、おや、誰かに呼び止められました。セリヌンティウス弟子です。しかし無理やり走り続けることが可能ですので、ここは無視します。が、バグにはバグ、なんとこの男、並走して会話を続けてきます。これをさら無視してダッシュを連打しているとこの辺りで……はい、引き離すことができました。

いやー何だったんでしょうね。メロス奇行に苦言を呈したのか、それともまさか今更「妹が結婚するんだってねおめでとう、祝い酒があるので工房に来てくれないか」という伝言を伝えに来たとでも言うんでしょうか。まさかね〜。もしもそんなことを言われてセリヌンティウスに会ったら、彼が城下町職人として見聞きしたこと愚痴られて、メロスモヤモヤと合わさって、これがきっかけで結果的に片田舎の牧人が一大叛乱軍を築くことになってしまいそうな予感がしますね〜。

さて、いよいよラストダンジョン王宮が近づいてまいりました。作中時間で3日ぶりになります。ここのマップなんですが実はここに隙間がありまして、酒場を経由して宴会をしている人達を避けつつ進むのが最短ルートです。

最後に、なるべく王宮に近い路地で「野犬」にエンカウントします。いい位置ですね。すぐ逃げるを選択して戦闘を終了、これでついに探索モードに復帰しました。最後までメロス戦闘モードのままだとエンディングフリーズするため、ここで解除します。

さて広場に向かうと物語クライマックスセリヌンティウス処刑されようとしているところに……間一髪でメロスが間に合いました! 王様がなにやら長々と語り始めます。このあとまもなくヒロインから勇者マント」を手に入れたところでタイマーストップになります

邪智暴虐な王様ですがメロスの行動に心打たれて改心した、という話をしています。多くの仲間と力を合わせる大切さ、これまでの数々の冒険が王の改心という形で実を結びました!

いやあ、色んなことがありましたね。ドロドロの陰謀と加速する恐怖政治猜疑心猜疑心を呼ぶ地獄の底で諌めた賢臣の遺言セリヌンティウス姿勢が重なり、現実的な打算としてはメロス達の軍勢が王の直属部隊を上回りつつあるため、要求を呑んだという、歴史的な瞬間に立ち会っています。いやー大河ドラマを見ているようですね。

画面端で何かわちゃわちゃしているのはこのムービースキップはできないんですがメロスが多少操作可能なんですね。セリヌンティウスと殴り合いをしているみたいになっていますが二人の友情大丈夫でしょうか。

はい最後に謎の女性が、メインヒロインですが初登場、勇者の証としてマントをくれるのでゲットしたところでタイマーストップです。走者のおさむさん、素晴らしい走りでした。お疲れ様でした。

2023-03-09

キングスフィールド3の辻褄合わせは芸術的だったからな

KF1

なんか国の王様トチ狂って自城の地下墓所に国の軍勢派遣してお宝探しを始めるも地下墓所が超絶ヤバいトラップモンスターだらけで軍勢壊滅しちゃって主人公父親は偉い騎士生存者を助けに向かうも力尽きて死亡し主人公は遺品として父親の愛剣なお石製でクソ重く切れない実質的に鈍器を拾ってなんやかんやあって国の守護神的な「森の竜」に遭遇したと思ったらクソ重くて使いづらい父親の遺品が超絶軽くて超切れてなんなら光波出せるムーンライトソードに変貌ししかも実は王様が探していたお宝はムーンライトソードと発覚して王様は実はモンスタームーンライトソードでぶっ殺して主人公国王即位ハッピーエンドるもこれって対外的には単なる暗殺乗っ取り事件だよね。

ちなみにゲームバランス的にはラスボス以外の全ての敵がちょっとでもダメージ通ると一瞬怯んで動きを止める仕様だったためMP自動回復する装備具体的にはトリプルファングを手に入れた瞬間に最弱魔法ライトニードルでチクチク敵の動き止めつつ殴るだけのヌルゲーと化すが関係なく即死トラップ死ぬ

あと人体のことを一切考慮していない歩き揺れっぷりで超絶3D酔いするってかこのゲームの最難関ポイントはこの3Dいであるが3日で慣れる。

KF2

ムーンライトソードが盗まれてやべえよと思ったら実は「森の竜」の仕業でってか森の竜は実は「ギーラ」という悪い奴で放置するとヤバいぜってなって1の主人公親友な隣の国の王子純粋善意ムーンライトソード取り返し&ギーラ討伐に向かって水没死しまくりつつなんとか進んで崖から飛び降り日本刀拾ったりムーミン狩りまくって最強の刺突剣なお性能的には鈍器を拾ったり聖剣鍛えられるすげえ鍛冶師と出会ってギーラに対抗できる存在の「シース」て奴の力を込めたギーラをぶっ殺せるダークスレイヤーって聖剣を作ってもらってなんやかんやギーラぶっ殺してムーンライトソード回収してハッピーエンド余談だが実はギーラをぶっ殺さなくてもムーンライトソード回収可能だがギーラをぶっ殺さないとエンディングが始まらないためとにかくギーラをぶっ殺す必要がある。

ゲームバランス的にはKFの中で最も良いとされておりダンジョン構造トラップから感じられる作り手の殺意芸術的領域でかつそこまで長くもないのでRTAもやれたりするしファン評価は高いがHPMP自動回復装備を拾った瞬間にかなりヌルくなるがそれはまあ仕方ないと言えよう。

ちなみに歩き揺れがかなりマイルドになったのとそもそも歩き揺れをオフにできるオプションが設定されたため3D酔いの心配はいらない。

KF3

ムーンライトソードがまた盗まれたと思ったら回収できたんだけど何故かムーンライトソード折れててあと1主人公トチ狂っちゃったもんだから2主人公が命と引き換えに城ごと1主人公封印してその前にギリ逃げてた1主人公の息子が成長して1主人公をぶっ殺しに行く話なんだけど城の封印を解くために手持ちの剣を成長させたりとか各属性の魔力を得る必要があるとか地味に遠回りさせられてる感は否めないものの崖から飛び降り日本刀回収したりミーア死体を見たりしつつ城の封印解除して折れたムーンライトソード回収してなんとなく1ダンジョンでもある地下墓所に行ったら2でぶっ殺したギーラの怨念漂っててムーンライトソードが直ってそれで1主人公をぶっ殺したら実は1主人公はシースに操られていたと発覚しなんだよシースも悪い奴じゃねえかとシースをぶっ殺してやっぱ得体のしれない強い力に頼っちゃならんよねって辻褄合わせてハッピーエンド

ゲームバランス的にはマップ広がったりアイテム増えたり魔法増えたりした関係プレイヤー側のやれることが増えて結果だいぶヌルくなったがブロミウス装備揃えて物理ダメージ無効にするとかプレイヤーアクションスキル依存しない対策が取れるようになってやってて楽しい

3D酔いの心配はいらない。

KF4

まるっきり話を覚えてない。PS2グラフィックキレイになったよなというのと水死しなくなったよなということしか覚えてない。なんかやっててダルかった。ムーンライトソードの光波は過去最高にカッコよく強かったがムーンライトソードデザインが変わっちゃって端的にダサくなって残念だった。

anond:20230308122048

2023-02-09

anond:20230208192129

そういう視点から言えば、テキストメリットってのは、圧倒的な創作効率なんだよ。

 

「百万の軍勢が地平線を埋め尽くしていた!」とか 俺いまこれ3秒で書いたけど。

その絵を描くのにどれくらい手間がかかるか?

RRRがオープニングでその動画を撮るのにどれだけ金をかけたか

そういう話がある。

 

で、その創作効率が、創作クオリティもつながってくる。

クソ作品が1万つくられてるあいだに、奇跡の1作品が1作生まれるんだよ。

なろうとかラノベが隆盛するのもこれ。めちゃくちゃ多数のトライアンドエラーができる。

 

まあ数の多さは、ハリウッド日本漫画が、マネーパワーや熱意で同じことやってるけどね。逆にいったらそれと同じことが、テキストである、っている理由可能だ。それが強い。

2023-02-08

さまざまな桶狭間

桶狭間の戦い

桶狭間度:★★★★★

海道一の弓取りと謳われた今川義元大軍を、小勢の織田信長が打ち破った戦い。「桶狭間は谷だった」「いや山だった」「奇襲だった」「いや正面攻撃だった」など、その実態については今なお盛んに議論される。また、勝利した織田信長がこれをきっかけに勢力を拡大し、のちには天下人となっていったこから、「小大名が敵の大軍を破り、その後の飛躍に繋げた戦い」のことを「〇〇の桶狭間」と言うようになった。

奥州桶狭間人取橋の戦い

桶狭間度:★☆☆☆☆

父親を殺された伊達政宗が、その弔い合戦として畠山氏の二本松城を攻めたところ、相手方の救援として駆けつけた佐竹氏・蘆名氏などの連合軍と戦いになった。兵力差四倍以上の相手に正面決戦を強いられることとなった伊達方はほぼ敗勢だったが、勝利目前の佐竹軍が急に撤退したため尻すぼみに合戦終結した。壊滅必至だった伊達軍がそれを免れたという点では「勝ちに等しい引き分け」と見ることもできる。その後、巻き返した伊達政宗二本松城を落とし、蘆名氏を滅ぼして南奥州覇を唱えることとなる。

関東桶狭間河越夜戦

桶狭間度:★★★★☆

泥沼の争いを繰り広げていた古河公方山内上杉・扇谷上杉らの関東勢が、勢力を急伸させた北条氏を恐れて連合し、北条方の要所・河越城大軍で包囲した。それに呼応した今川義元も西から挙兵して挟撃の形となり、家督を継いだばかりの北条氏康は早くも絶体絶命の危機を迎えた。しかし手早く今川と和睦した氏康は、大軍に驕った連合軍に夜襲を仕掛けて撃破した。この戦いで古河公方山内上杉・扇谷上はいずれも滅亡・没落し、関東北条氏を中心として動くようになった。

甲斐桶狭間飯田河原の戦い

桶狭間度:★★☆☆☆

甲斐に侵攻した今川大軍を、武田信玄の父・武田信虎が迎え撃った戦い。荒川沿いの飯田河原戦場に選んだ信虎は、数で上回る今川軍を地の利を活かして撃退、ひと月後に上条河原で再戦したがそれも打ち破り、敵の大将を討ち取った。一連の戦いにより武威を示した武田信虎は、敵対していた穴山氏などを服属させ、甲斐統一を成し遂げた。

近江桶狭間野良田の戦い

桶狭間度:★★☆☆☆

北近江浅井氏は、越前朝倉氏と南近江六角氏という大勢力に挟まれ、当時は六角氏に従属する立場だった。父親隠居させて浅井家の若き当主となった浅井長政は、すぐさま六角からの離反を表明した。それに対し、六角氏は当主六角承禎自らが大軍を率いて攻め寄せたが、浅井長政は半数以下の兵力で迎え撃って勝利した。弱い立場だった浅井氏はこの勝利により戦国大名としての地位を固め、敗れた六角氏はお家騒動などもあり衰退していくことになる。

備前桶狭間」明善寺合戦

桶狭間度:★☆☆☆☆

備前大名浦上氏の家臣として頭角を現しつつあった宇喜多直家は、毛利氏従属しながら備前進出しようとした備中三村氏の当主三村家親を、日本史上初となる火縄銃狙撃により暗殺した。怒れる三村氏は、弔い合戦とばかりに宇喜多方の明善寺城を攻め取ったが、宇喜多直家は素早く奪回し、逆にその救援にやってきた三村氏の大軍を待ち構えて打ち破った。この戦いにより影響力を増した宇喜多直家は、のちに主君反旗を翻し、戦国大名として独立することになる。

西国桶狭間有田中井手の戦い

桶狭間度:★★★☆☆

かの毛利元就の初陣。源氏の名門・武田氏一族で猛将と謳われた武田元繁と、味方の城の救援に向かった毛利吉川連合軍の戦い。寡兵連合軍は劣勢を強いられたが、初戦で運良く敵方武将を討ち取り、それに激怒して自ら前線へ打って出た武田元繁をも討ち死にさせた。この戦いにより、大内氏から独立して勢力を拡大していた武田氏は一転して衰退し、代わって毛利元就歴史の表舞台に躍り出ることとなった。

「海の桶狭間厳島の戦い

桶狭間度:★★★★☆

毛利元就の戦いとしてはこちらのほうが有名だろう。主君大内義隆に謀反し、大内家内を牛耳った陶晴賢だったが、その隙に離反した毛利元就によって安芸を奪われてしまう。大軍を率いる陶晴賢要衝厳島拠点安芸奪回を狙うが、毛利元就は嵐に乗じた奇襲でそれを打ち破り、陶晴賢自害に追い込んだ。この勝利により、毛利元就は逆に大内氏を滅ぼしてその領土併呑し、中国地方覇者となっていくのである

肥前桶狭間今山の戦い

桶狭間度:★★★☆☆

肥前勢力を拡大していた龍造寺隆信に対し、脅威を覚えた北九州覇者大友宗麟大軍を率いて侵攻、数ヶ月に渡って佐賀城を包囲した。援軍の見込みもないなかで龍造寺軍はよく持ちこたえたものの、ついに大友宗麟は弟の大友親貞に総攻撃を命じる。大友親貞は総攻撃前夜に士気を高めるため酒宴を開いたが、それを見た龍造寺家臣の鍋島直茂わずかな手勢を率いて夜襲を仕掛けた。油断していた大友軍は総崩れとなり、大友親貞も討ち取られてしまった。その後、和睦に持ちこんだ龍造寺隆信は、大友氏に従属しながら勢力を拡大し、のちに九州三強の一角に名を連ねることになる。

九州桶狭間木崎原の戦い

桶狭間度:★★★★☆

島津当主島津貴久が亡くなった直後、その隙を突いて隣国伊東氏島津領に侵攻した。伊東方が数千の軍であったのに対し、島津軍勢はその十分の一ほどしかなかったという。だがそれを率いていたのは名将・島津義弘だった。島津軍の頑強な抵抗により、伊東はいったん退却して陣を立て直すことになった。しかし、島津義弘から指示を受けていた農民たちが太鼓を鳴らして伏兵を装うと、伊東軍は慌てて陣から飛び出し、そこで待ち伏せていた島津軍に四方から攻められて壊滅、総大将も討ち取られてしまった。窮地を脱した島津氏は、島津兄弟のもと勢力を拡大し、九州を制覇していくのである

2023-01-10

anond:20230110184812

まあ、うん、そうだね

単体戦力最強クラスとか、無尽蔵の命とかそういう超人たちの中で「無数の軍勢召喚できる」ってキャラだった、通じる人はこれで通じると思う

凛々しい風貌とか好きだったのに、コミュ人間みんなキャラバカにしててね

2022-10-23

ロシアウクライナ侵攻の思想位置付け

 22年2月戦時ウクライナの「非ナチ化」「非軍事化」がロシア政府ナラティブだったことを覚えているだろうか。そのために『わが闘争』の本がウクライナ軍陣地跡から出土した、というような馬鹿げたプロパガンダをしていたことも。ウクライナを含めたロシア圏を西側の影響(文化的なそれを含む――LGBT排除典型から守るというナラティブであった。それが「戦争」ではなく、「特別作戦」というネーミングにつながっている。これは不戦条約および国連憲章による武力行使禁止への言い訳に過ぎないかもしれないが※、ここではそれを思想的に少し本気に受け止めておこう。

 今は違う。ロシア政府は「戦争」と言い出した。悲喜劇となっているめちゃくちゃな動員も行い、ウクライナ国内への容赦ないインフラへの打撃――戦略爆撃など、本格的な戦争にいちおう移行しつつある。

https://www.jiji.com/jc/article?k=2022102300113&g=int

 では、NATOが本格的に軍事介入空爆にせよ、陸戦にせよ)すればカタがつくかと言うと、そうでもないように思われる。実は、それこそがロシア政府の望んでいる事態なのではないか上記記事では、現時点でもロシア政府が「戦争責任を負うのは北大西洋条約機構NATO)側と主張。ロシアが仕掛けたにもかかわらず、「被害国」だと訴えている。」という認識を示していることが語られている。これは、どう考えても欧米諸国に向けられたメッセージではない(彼らも、本気でこういう認識欧米諸国が認めてくれるとは思ってはいるまい)。ロシア国民に対する敗戦言い訳である。そしてNATOが本格的に軍事介入すれば、この言い訳NATO自らが裏書きすることになる。

 この戦争思想原動力になっているのは、要するにロシア民族優越主義であることが指摘されている(例:イリインの思想についてhttps://book.asahi.com/article/14612140小泉悠氏の著書やフォルカー・ヴァイスの『ドイツ新右翼』を読むと、かのドゥーギンの思想は、シュミットグロースラウム論の応用のようだ。それも結局一言でいえば自民族優越主義だろう)。他方で、この戦争敗戦の原因になっているのもロシア民族優越主義である。弱い(ということになっている)ウクライナ如きに敗北するから国民士気が下がる。士気が下がるからまた負ける。

 NATO軍事介入した場合NATOが完全に結束し続ければいずれすべての戦場で優勢となるだろうが、ロシア人は、強いアメリカと戦っているから負けているのも無理はない、と考えることができるようになる。これは1941年12月8日の状況と似ている。弱い(ということになっている)中国全然勝てず、不平不満が鬱屈していた日本人が、相応の知性あるはずの者も含めて対米開戦に快哉を叫んだ※のは、もちろん主力艦を奇襲攻撃で大破して望外の大勝を得たこともあろうが、他方で戦場での劣勢への言い訳が見つかったからではなかろうか。

※ 「一歩たりとも、敵をわが国土に入れてはならぬ」(坂口安吾35歳)。「みんな万歳を叫んだ」(井伏鱒二43歳)。逆に、理性を失わなかった例として、「僕達が努力しなかったのが悪かった」(ジャーナリスト清沢洌51歳)。

https://book.asahi.com/article/11852364

 戦争哲学者クラウゼヴィッツによれば、攻撃にとって最も重要なのは敵の重心(Schwerpunkt)への打撃である。重心とは、敵軍のすべての要素がそこでバランスを保っている一点である。それは戦場軍勢とは限らない。敵国首都とも限らない(ナポレオンはこれを誤った)。クラウゼヴィッツ洞察が正しければ、今回の場合ロシア民族優越主義破滅するような道筋をつけるべきなのだろう。つまり、「弱い(ということになっている)ウクライナ※がロシアを倒した」というナラティブ、これであるNATOの介入はかえって害悪になるかもしれない。帝国日本は対米開戦から3年半以上持ちこたえた。むろん、ロシア軍事力は当時の帝国日本よりもアメリカに対して不利だとは思うが、それのみならず、「中国に負けた」ことを受け入れられない日本民族優越主義者がけっこう多いことにも注意したい。このような観点からすると、バイデン大統領――彼は連邦議会議員としては上院外交委員長を長年勤めた老練政治家である――がロシアと直接交戦はしないという態度を開戦前から決め込んでいるのは、きわめて適切な対応のように思われる。さすバイ


客観的に考えればウクライナ別に弱い国ではない。中東欧では最大クラス軍事大国と言って良いのではないか? ヨリ客観的にみれば、この紛争の根源は地域大国ウクライナ地域大国ロシアの、ロシア地域圏におけるシマ争いという風に考える余地がないではない(なお、武力衝突に至った責任は大方ロシア政府にあるからウクライナ政府を非難するつもりはない)。

2022-08-16

anond:20220816230223

今みたいに陽キャ陰キャって言う区別があまりなくて基本的陽キャが多かった

それはみんな人生希望があって元気があった

陰キャでもセックスしてたしナンパもしてたしオシャレしてた

今は諦めて俺は陰キャだしもう人生いいや…って塞ぎ込んでるやつ増えすぎ

歴史捏造すんな。

あの頃はエヴァシンジ君みたいなウジウジしたオタクシンジ君と違ってブサイクだし楽器とかもできない)がエグザイルみたいな1軍勢に徹底的に迫害されて今なら一瞬で炎上するような暴行もされてただろうが。

2022-07-12

anond:20220712210013

「遂にあなたも目覚めたのですね!さあ、私の手をとって下さい!我々はあなたのような人達を集め、来るべき正義の戦いに向けて光の軍勢を集めているのです!」

…みたいなのが最近流行るわけだわ。

2022-07-10

今回の暗殺は、陣形不備が招いた人災である

後詰の重要

戦国時代総大将がやられることは総崩れを意味したため、、

後詰(ごづめ・うしろづめ)という布陣が存在していた。

陣形の基本、八陣は諸葛孔明によって定義化されたといわれ、

武田家の山本勘助によって採用されたといわれる。

こちらのサイトを見てもわかるが、総大将の後ろを見張るようにして、後詰を配置している。

後詰は副将級の武将担当することが多く、2つ以上の軍勢で守ることもあるようだ。

https://www.touken-world.jp/tips/18700/

高さも重要

関ケ原では家康本陣は桃配山に陣取っており、万一に備えていたことがわかる。

演説では街宣車の上に乗る、というのがそれに該当するだろう。

http://tanaka-takasi.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/index.html

SAT伊藤氏のコメントで印象深かったのは、

犯人が立っていた場所左側には、本来警察車両が配置されているべきだったというものである

警察車両にはカメラも配置され、かなりの抑止効果があったはずである

一台で軍勢10名以上の威圧力はあると思う。

https://www.youtube.com/watch?v=HreN31RMoAY&ab_channel=%E6%97%A5%E3%83%86%E3%83%ACNEWS

また伊藤氏によると、本来立っているべき警察官の数が絶対的に少なく、

あのような交差点中央演説を行うのであれば、

交差点の四隅に警察官を配置するのが普通だということである

以上をふまえると

そもそもの布陣計画の失敗

・警備人数、警備車両の手薄さ

が9割の理由であると思う。

また、手薄であればそれなりの危機意識で防御態勢を築くことはできたと思う。

SP警官10人以上いたということだが、一人も後ろを配慮することなく、前方だけ見ていたのは本当に奇妙である

背後から車で近づいて銃撃されることもありえるのだから

交差点はよくない

ガードレールに囲まれ街宣車乗り入れることもできず、高さが利用できない。

見晴らしがよく、鉄砲からすれば「撃ってくれ」といわんばかりの場所である

また風水・方位学的にも、あのような踊り場はよくない場所といわれる。

クルマによる四方からエネルギー交錯する場所であるからである

日本最大級交差点・踊り場は東京赤坂見附なので、

興味がある人は実際に訪れたり、Googleマップで調べてみるといい。

いずれにしても、あの場所を選んだことが最大の失敗である

戦国時代勝敗が、布陣で決まるのと同じ結果となってしまった。

やはり今回の最大の犯人は、あの無防備な平地を指定した人間だと思う。

もし、ビルを背に向ける布陣や、階段車両の上に乗る高さのある布陣だったり、

SPが固まって大勢に見える布陣だったら、と思う。

そうした「ちょっとした」要素で、100%防げたかである

以下コラム

隣国である中国ロシアとの戦争が起きないとは限らない。

平和ボケした日本が招いた惨事である

いついかなる時でも、戦闘できる体制を作る必要があるのではないだろうか。

そのためには自衛隊の培った軍事知識を、警察庁・海上保安庁シェアし、高いレベルの調練を繰り返すことだと思う。

また、我々はそうした報道を通して、常に戦時状態認識し、危機感を持つことが必要である

多くの現場を見てきた伊藤からは、ある程度、疑いの目をもって不審者を見抜くことも重要だと分かった。

性善説日本人は素晴らしい民族だと思う。しかし、もはやそのフェーズではない。

中国ロシアは虎視眈々とこの国を狙っている。

サイバーセキュリティによる企業攻撃だけを見ても、ここ2年で数倍に増えているのである

もはや暴力に対して、きれいごとではこの国を守れない。

先日の駅員の大声で叱る動画は物議をかもしたが、

テロリストに対するあのような公然毅然とした態度が、日本人に求められている。

追記

こちら、岸田首相の警備であるが、ガラリと変わって、高いレベルのものになっている。

事件の翌日だというのに、その迅速さとレベルの高さに驚いた。

このレベルの緊張感さえあれば、日本を守り抜くことは絶対にできると思う。

自衛隊警察民間警備業、すべての関係者仕事をありがたく思う。

https://www.youtube.com/watch?v=8qVWxMYLVxg&ab_channel=ANNnewsCH

今後は、この事件きっかけにあらゆるセキュリティ国防体制が見直されるだろう。

安倍氏は、その命をもって、日本を守ってくれたのかもしれない。

2022-06-07

日本では、戦国時代において、徳川家康が窮地を逃れた際の事例がある。元亀3年12月22日(1573年1月25日)、三方ヶ原の戦い徳川軍は武田信玄率いる武田軍に敗れて浜松城に逃げ帰った。武田軍はこれを追撃するが、家康は「あえて大手門を開き、内と外に大かがり火を焚かせた」[1]。敗走する徳川軍を追撃して、浜松城門近くまで押し寄せてきた山県昌景馬場信春の両隊は、大手門が大きく開かれ、かがり火が焚かれているのを見て、それに警戒して攻撃をためらっているところへ、三方ヶ原から引き揚げてきた徳川方の大久保康高らと遭遇し、慌てて引き返そうとしたしたところを城内から討って出た鳥居元忠渡辺守綱らの軍勢挟み撃ちになり、苦戦の末、ようやく名栗方面脱出することができた[2]。家康としては、なんの策もなかった。策のないまま、信玄が空城計と見破り、しかも、見破ったが故に、兵法家信玄が、却ってそこに策略の不審を抱いて手を出すのをためらうことに、一縷の望みを抱いたのである[3]。 つまり信玄思考の上を行ったわけで、信玄が並みの軍略家なら、むしろ空城計と見破って、直ちに城門へ突入させたはずである信玄非凡に過ぎて、却って手を出せなかったもので、結果的には、家康心理作戦勝ちであった[3]。

2022-05-29

anond:20220528184443

軍勢が200だと負けることもあるし、パラパラと投入して総勢が1000になっても負けるときは負ける。

数で攻めるにはタイミング大事

2022-05-17

anond:20220517233534

村上が抱えてる軍勢舐めないほうが良いと思うよ

2022-03-07

anond:20220307182819

ごめん渭水三国志だった。

睢水の戦いね

彭城の戦い(ほうじょうのたたかい)は、中国楚漢戦争期の紀元前205年に項羽楚軍劉邦の漢連合軍との間の彭城(現在江蘇省徐州市)で行われた戦い。「睢水(すいすい)の戦い」とも呼ばれる。

この戦いで56万の軍勢項羽が3万の軍勢勝利し、漢連合軍大敗解散へと追い込まれた。

2021-11-09

anond:20211108182014

押し寄せるおっさん軍勢にまさに世界が飲み込まれんとしていたその時、一人のおじさまが現れた……

2021-08-09

続:世界大戦争芸術

anond:20210809040759

続き

3.ガウガメラの戦い

 ガウガメラの戦いは、紀元前331年ヨーロッパ東方ペルシアにおいて、当時のアケメネス朝ペルシャの本軍と、アレクサンドロス率いるマケドニア軍が激突した戦いである。

 これまで取り上げている二つのいから分かるように、戦争芸術定義は「圧倒的な戦力差、戦略的不利を、指揮官の機転によって打破する」ことにある。このガウガメラの戦いはそのような意味合いで、戦争芸術極致と言える。


 当時ギリシャの一小国に過ぎなかったマケドニアは、アレクサンドロスの父であるフィリッポス二世の尽力によって急速な軍事政治改革を遂げ、瞬く間にギリシャ全土を手中に収めると、フィリッポス二世の死後マケドニアの実権を握ったアレクサンドロスの指揮下、紀元前334年ボスポラス海峡から小アジアへと渡り、東の大国アケメネス朝ペルシャに対し征服戦争を仕掛けた。これが世に名高い東方遠征である

 その後十年の長きに渡って続いた戦いは、アレクサンドロス企図した、アレクサンドロスによる、アレクサンドロスのための戦いであった。

 アレクサンドロスは紛れもない西方世界英雄であり、破壊者であった。当時アレクサンドロス破壊し、虐殺・略奪を行った都市は数多に渡って存在している。


 アレクサンドロスの猛進を前に、時のペルシア王ダレイオス三世ペルシア西岸イッソスにて、王自ら率いる五万以上の軍勢をもって決戦を挑み、敗北した。数的優勢に立ったペルシア軍は川を挟んでマケドニア軍に対峙し、防衛を試みるが、果敢にも渡河を遂げたアレクサンドロスを前に有効機動戦法が取れず、壊走したのである。ダレイオス三世自身が率いるペルシア本軍敗北の衝撃は余りあるものであり、敗戦の後、ダレイオス三世は堪らずアレクサンドロスへと講和を願い出ているものの、アレクサンドロスはこれを一蹴している。

 それから二年、ダレイオス三世アレクサンドロス本隊を壊滅させるべくイッソスの戦いを上回る規模の軍勢招集し、ガウガメラ荒野にてアレクサンドロス軍を迎え撃とうとしたのであった。これがガウガメラの戦いである。


 この一戦のためにダレイオス三世はありとあらゆる準備を重ねた。

 第一に、(当然のことながら)数的優位を築くこと。マケドニア軍五万弱に対して、この時ダレイオス三世招集した軍勢傭兵を含む十万以上であり、つまりアレクサンドロス軍の二倍以上に当たった。この規模の軍隊は当時の兵站で維持可能な最大レベル軍隊と言え、当時におけるペルシア軍の威信の程が推し量られる。

 また、彼らの戦いの数百年の後に行われたカンナエの戦いにおいて、勝敗を分けたのは騎兵戦力の優劣(とハンニバルの用兵)であったことは先述の通りであるが、マケドニア騎兵七千に対してペルシア騎兵の数は一万を超えており、質はともかくとして量においてはペルシア軍はマケドニア軍を圧倒していた。ここにおいても油断は無かった。

 更にダレイオス三世は当時最新鋭の兵器の一つであった戦車チャリオット)を陣中に大量に配置した。これは複数軍馬によって牽かれる戦闘用の馬車のようなもので、車輪の左右には鋭利刃物が取り付けられると共に、車上には弓兵が配置されており、通常の歩兵戦闘において絶大な威力を発揮する筈であった。ダレイオス三世はこのチャリオットの突進力によってマケドニア軍を圧倒しようとしたのである

 また、ペルシア軍は戦場の整備をも欠かさなかった。チャリオットの機動を阻害する石や木の根などの障害物を、決戦の事前に排除しておき、イッソスの戦い(ペルシア軍は閉所にて有効な機動ができず壊滅した)で舐めた辛酸を繰り返すまいとしたのである

 相手に倍する軍隊、奥の手としての秘密兵器駄目押しにその秘密兵器の機動を有利にする戦場整備、限りなく万端に近い準備の上で、ダレイオス三世は決戦の時を待った。


 紀元前331年10月1日ペルシア軍とマケドニア軍の双方はガウガメラの地にて対峙し、戦闘を開始する。

 この時、マケドニア軍の司令官であるアレクサンドロスの立てた作戦シンプルものだった。それは、緒戦から防衛に徹し、敵の隙を見て騎兵突撃させ、敵の本陣を陥れるというものであった。

 言うは易しだが、何しろマケドニア軍とペルシア軍の数的差は一対二であり、言い換えれば、敵軍には五万以上の余力があった。そんな状況で、本来であれば隙など生まれる筈はなかったのである

 開戦直後、アレクサンドロスは全軍を緩やかに右斜め前方へと斜行させる。本来であれば軍隊の斜行は自陣に綻びを生む可能性の多い行動であり、採用されることはまず無かったものの、アレクサンドロス自軍の機動に合わせてペルシア軍の不用意な機動を誘った。案の定、折角整備した戦場から離脱されることを恐れたダレイオスは、三方(正面、右左翼から雲霞のごとき兵数を動員し、マケドニア軍を包囲しに掛かった。


 その大軍王道とも言うべき用兵に対抗するべく、アレクサンドロス自軍純粋な横列ではなく、左翼右翼を折り曲げた弓状に変形させており、この鉤状になった右翼左翼を持ってペルシア軍の猛攻を受け止めようとした。

 しかし兵数の差が決定的であったこから、持久戦となればマケドニア軍の敗北は自明であった。左右のいずれかを突破され、後方にペルシア軍の進撃を許した時点で、マケドニア軍の崩壊は決定づけられる。更には、マケドニア軍正面にはペルシア軍の虎の子であるチャリオット隊の猛攻が迫っていた。


 とは言え結論から言えば、このチャリオット隊の猛攻をマケドニア軍は退ける。

 曰く、マケドニア軍は軍馬というものの持つ本能――顔面鋭利物体(槍など)を突き付けられると足を停めてしま本能や、チャリオット特有の旋回能力の低さを突いたと言われている。つまりチャリオット突撃部隊の散開によって躱し、その後方から弓などの武装によって攻撃を仕掛けたのである。恐らくは事前の情報やこれまでの戦闘からマケドニア軍は対チャリオット戦術を磨き上げており、どのような場面においても遅れを取ることはなかったのであろう。

 これらの柔軟な対応によって、マケドニア軍に対する有効戦果を挙げることのできないままチャリオット隊は壊滅することとなる。


 さらには、マケドニア軍両翼はその圧倒的な数差にも関わらず極めて堅陣であり、容易に抜かれることは無かった。強いて言うならば、アレクサンドロス本人が率いる右翼騎兵に比べ、左翼を指揮するパルメニオン将軍は劣勢を訴えていたものの、それでもペルシア軍の猛攻をひたすら受け止め続けていた。

 ダレイオス三世の予想に反し、戦況は膠着状態に陥る。ダレイオス三世本来であれば本陣防衛に充てるはずであった予備兵力騎兵を動員し、マケドニア軍両翼の騎兵に対する圧迫を増大させようとした。短期決戦によってマケドニア軍を壊滅させようとしたのである


 この決戦から二千年以上もの時が流れた後では詮無い事だが、この時ペルシア軍が持久戦に徹し、その両翼での戦闘を維持し続けていれば、ガウガメラの戦いにおける帰趨は逆になっていたかもしれない。

 しかし、ダレイオス三世はその判断を逸した。

 アレクサンドロス超人的な直感によりペルシア軍の崩壊予知した。右翼防衛に当たっていた自ら率いる騎馬隊を突如ペルシア軍正面へと転換させ、両翼へと予備兵力を割いたために手薄になっている、ペルシア本陣のダレイオス三世を狙ったのである。当時、マケドニアの率いる騎兵部隊、いわゆるヘタイロイ騎兵世界においても有数の練度を誇っており、その突進力は歩兵にとって純粋な脅威であった。ヘタイロイ騎兵の突進により、ペルシア本陣のダレイオス三世位置を告げる軍旗が大きく揺れる。ペルシア軍を支える精鋭である親衛隊は敢然とその侵攻を阻もうとするが、アレクサンドロスの猛進は止まることはなかった。

 やがて、ダレイオス三世本陣の上に翻る軍旗は逃走を始め、アレクサンドロスはその追撃へと移った。ガウガメラの戦いの勝敗はここに決したのである


まとめ

 諸君、私は戦争が好きだ。

 この地上で行われるありとあらゆる戦争行動が大(ry

 参考文献:ttps://www.youtube.com/channel/UC5dzkTCM0Jxnc5widb8arDw

2021-07-15

anond:20210715150820

小山田 信茂(おやまだ のぶしげ)は、戦国時代武将甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。甲斐東部郡内領の国衆武田二十四将の一人に数えられる。

信茂の勝頼離反から滅亡

岩殿城

天正9年12月織田信長徳川家康武田領攻めを開始し(甲州征伐総大将織田信忠副将滝川一益)、信濃木曽郡国衆木曾義昌が離反する。また、これに伴い相模後北条氏武田領への侵攻を開始した。義昌の離反を契機に信濃領国は動揺し、翌天正10年(1582年)2月2日に勝頼は信濃諏訪上原長野県茅野市)に出兵し、『甲乱記』に拠れば信茂もこれに従ったという。2月29日織田信忠伊那郡高遠城仁科盛信(信盛)を攻め、信忠は矢文で盛信に降伏を促し、信茂らが勝頼から離反したと伝えているが、この段階で信茂が勝頼から離反していることは虚報であると指摘されている[15]。

勝頼は天正9年に新府城山梨県韮崎市)を新たに築城甲府から本拠移転しており、『信長公記』によれば同年3月3日に勝頼は新府城放棄し、小山田氏の郡内へ逃れたという。『甲陽軍鑑』によれば勝頼嫡男の信勝は新府城における籠城を主張したが、これに対して信濃国衆真田昌幸上野岩櫃城群馬県東吾妻町)への退避を提案した。しかし勝頼側近の長坂光堅小山田を頼り郡内の岩殿城大月市岡町)へ逃れることを主張したという。一方、『甲乱記』では信勝や昌幸の提案を記さず、勝頼が信茂に対し郡内への退避を諮問したとしている。

なお、岩殿城小山田氏の詰城とされているが、小山田氏の本拠である谷村城(都留市谷村城)から距離があることから岩殿城小山田氏の城とするか武田氏の城とするかで議論がある[16]。なお、天正9年3月20日岩殿城武田勝頼が在番衆派遣している事実も注目されている[17]。

武田勝頼一行が郡内領へ退避するさなか信茂は勝頼から離反。勝頼は田野(甲州市大和町)において織田方の滝川一益軍勢と戦い、武田宗家は滅亡した(天目山の戦い)。

信茂離反に関して、武田側の史料では、まず『甲陽軍鑑』に拠れば勝頼一行は郡内領への入り口である鶴瀬甲州市大和町)において7日間逗留し信茂の迎えを待っていたが、3月9日夜に信茂は郡内領への道を封鎖し、勝頼一行に対して木戸から郡内への退避を呼びかけると見せかけ、信茂の従兄弟小山田左衛門と勝頼の従兄弟武田信堯(のぶたか)が信茂の人質を郡内へ退避させ、信茂は勝頼一行に虎口から鉄砲を放ったという。信堯は正室御宿友綱の妹で、信茂とは相婿の関係にある。なお、『武田三代軍記』『理慶尼記』でも同様の話を記し、『理慶尼記』では信茂の離反を7日の出来事とし、信茂が郡内への入り口を封鎖した地を笹子峠大月市甲州市)としている。一方、『甲乱記』では信茂離反の日付を記さず、勝頼は柏尾甲州市勝沼町)において信茂を待ち、駒飼(甲州市大和町)に移動したところで信茂の離反を知ったとしている。

甲斐善光寺

一方、織田徳川方の史料として、『信長公記』では勝頼は小山田の館まで辿り着いたが、信茂は勝頼の使者をはねつけたと簡潔に記している。『三河物語』では小山田左衛門が登場し、勝頼が郡内領へ逃れる途中に小山田左衛門を信茂のもとに派遣したが帰還せず、信茂離反を知ったという。

織田氏・徳川氏勢により甲斐が平定された後、信茂は嫡男人質として差し出すために信長拝謁しようとしたが、織田信忠から武田氏への不忠を咎められ処刑された。

信長公記』では3月7日条に成敗した「小山田出羽守(信茂)」の名を記し、『甲陽軍鑑』では武田信堯や小山田左衛門らの名も記している。一方、『甲乱記』、『甲斐国志』に拠れば、3月24日甲斐善光寺で嫡男、老母、妻、女子とともに処刑されたという。享年44。長生寺『月日過去帳』・森嶋本『甲斐国志草稿』に記される伝存しない同寺所蔵の位牌によれば戒名は「青雲院殿武山長文居士」。信茂の命日は『甲乱記』、長生寺『月日過去帳』に「24日」と記され、『甲乱記』では3月11日の勝頼自害から13日後としている。

人物

武田家において信玄の「弓矢の御談合七人衆」に両職の山県・馬場重臣と共に名を列ねている。

武田の小男と恐れられた山県昌景に「若手では小山田信茂、文武相調ひたる人物はほかにいない」と評される。

設楽ヶ原の戦いにおいては、早々に撤退して戦線を崩した武田信廉・穴山信君ら一門衆とは反対に、山県昌景隊の後備として最前線で戦い続けている。

鉄道唱歌(作詞福山寿久)には「川を隔てて聳ゆるは 岩殿山の古城蹟 主君に叛きし奸党の 骨また朽ちて風寒し」と詠われており[20]、小山田信茂は「奸党」とまで蔑まれている。

2021-07-08

anond:20210707223409

素人目線の疑問なんだけど、117万の軍勢って言うけど、西暦数百年程度の文明が117万の組織を三日と維持できるのかどうか信じられないんだけど、どうなの?三人でキャンプするのも大変なおっさんの疑問です

2021-06-29

anond:20210629111110

大学生かな?w

この話をつきつめるとバベルの塔みたいな話になってくるからやめるけど、個人とか自宅とかに置き換えてみればいい。

自分の庭に隣人の柿の木の枝がのびてきたり、熟した柿が落ちてきたら抗議する、それがまあ「利害」という概念のプリミティブな例である

簡単にいうと「争いの火種」ってことかな。

企業活動通貨金融経済活動というルール指定されているのでそのルールを逸脱した利害行動はできない。

たとえば暴力だとか、不法占拠だとか。そのかわりに法律と金が動く。

いっぽう国家民族においては、その国家民族を「定義」した時点で利害が発生する、と考えている。

たとえばウイグル人東トルキスタンという国がもともとあったから、中国侵略されても、中の人間が「我々は東トルキスタン人だ」といえば、

その「利害」を消すことができない。だからそれを完全に消そうとして、100万人以上を奴隷労働させて臓器を抜いたりしている。

基本的人間である以上は利害が必ず発生するわけだが、それを国家レベルでやると、間違えた人間が王になると「暴力」「不法占拠」「弾圧」「虐殺」が発生する。

それがエスカレートした有名な例は、呉越戦争きっかけがわかりやすい。

けっきょく、サイズの違いはあれど「人間の争い」が利害であり、国家建国した人間や、その時点でのトップの「人間性」が利害の拡大縮小を左右させるのだと思う。

紀元前519年のあるとき、呉楚国境の村で小さないから国の運命をかけた戦争へと発展する事件が起きた。その村では養蚕(ようさん)が盛んであったため、蚕の餌となる桑の葉を大量に必要としていた。そのため、辺りには桑の木がたくさん生えていたが、呉の村の子供と楚の村の子供がこの桑の葉を争って喧嘩を始めた。それが子供の親同士の喧嘩に発展し、呉の村の親が負けて家を焼かれた。これに村を統治している郡主は警備兵を出して村を攻め立てた。この報を受けた平王は怒り、国軍を出して村を全滅させた。呉の村が滅ぼされたのを聞いた僚は激怒して国境の居巣と鍾離を攻め落とした。さらに州来まで進撃したため、楚も武将の蔿越を派遣してこれを迎え撃った。だが、公子光が「楚に属国はいずれも小国で楚をおそれて従っているだけです。「戦は情けよりも武で、無勢でも勝てる」と聞きます。まずは属国の胡と沈は君主が年若く、陳の大夫の夏齧は年老いて頑固で国政は停滞し、また頓と許と蔡は楚の振る舞いに不満を持っております。同時に楚も統率力がある令尹が亡くなったため、混乱しております。まずは軍を手分けして、胡と沈と陳の軍勢突入すれば、楚はますます混乱に陥り、他の属国軍勢も崩れるでしょう。まず先鋒隊は隙を多くし、敵をおびき寄せて、後詰の本隊で撃ち破ることをお勧めします」と進言した。僚はこの進言を採り上げて、秋7月に鶏父で呉王僚自らが囚人3千人を胡と沈と陳の軍勢攻撃させ、右軍は公子光、左軍は公子掩余が指揮し、胡と沈の若い君主捕虜し、陳の大夫の夏齧も捕らえた。こうして呉は勢いに乗じて楚を撃破した[1]。

2021-06-09

続・夏がくる

里芋ネギは近い区画に植えられたことで、どちらが家族の寵愛を受けるのかで度々論争になった。

里芋は甘く煮付け、すりおろしても美味しく、ふかしても美味しいわれこそ食卓を飾るべきだとまくし立てた。

ネギも負けてはいなかった。薬膳にもなり、薬味にもなり、夏にも活躍し、冬に煮付けてもうまく、漬物の友にもなるわれこそが食卓にふさわしいと里芋を攻め立てた。

畑の主人が寝入ってから議論は続き、ついに朝日が出る頃にはトマトも参加して一発触発の事態となった。

引くに引けなくなった三者軍勢朝日と同時にトランペットをかき鳴らし、それぞれの土地食卓を守るべく進軍を開始した。アリシンを含むネギは強かった。その殺菌効果により里芋土地荒らしてゆく。トマトの根が持つ毒素も強かった。しか里芋にはしぶしかなかった。しかしぬめり成分ムチンはしばしばネギを足止めした。これもネギには有効であったが、トマトにはさほど効かなかった。トマトの実はもともと完熟状態であった。かくしてネギ土地トマトの実でグジュグジュになり、トマト土地はアリシンで辛味あふれる地と化した。里芋の地もアリシントマトの毒素で荒れ果て、遠征に出たそれぞれの根や実はその無残な死体晒すことになった。

翌朝、寝ぼけながら出てきた主人は荒れ果てた農作物を見て、ああ、イノシシが来たな、と思っただけだった。

しかし、その日も暮れて主人が寝静まると、農作物たちはそれぞれの土地の縮小を理由聖地奪還と称して争いを繰り広げた。栄養栄養で洗う戦いは続いてゆくのだ。

anond:20210609144532

2021-06-08

anond:20210607234817

満寵

出典: フリー百科事典ウィキペディアWikipedia)』

満 寵(まん ちょう、? - 242年3月)は、中国後漢末期から三国時代の魏の武将政治家。字は伯寧。兗州山陽郡昌邑県の人。子は満偉・満炳・満氏 (司馬榦の妻)。孫は満長武・満奮。『三国志魏志「満田牽郭伝」に伝がある。

目次

1 生涯

1.1 酷吏として出世

1.2 軍人として活躍

1.3 呉との攻防

2 三国志演義

3 脚注

生涯

酷吏として出世

身長は8尺(約190cm)あったと伝えられる。18歳の時に県の役人(督郵)になった。郡内で私兵を率いて乱暴していた李朔という人物は、二度と乱暴しなくなったという。高平県令を代行した際、督郵張苞張飛の子とは別人)の横暴を見てこれを逮捕し、その場で拷竟(=拷問致死)した上で、そのまま自ら官職を捨てて帰郷したという逸話を持つ。

その後、曹操に仕えた。曹洪配下の将が曹氏の権勢を笠に着て略奪を行った時、満寵は速やかにこれを逮捕した。そして曹洪から曹操への働きかけがあった事を知ると、直ちに処刑した。この行為曹操に大いに賞賛された。

楊彪逮捕された際、荀彧孔融に手心を加えるよう頼まれたが、満寵は規則通り(注によると、笞打ち)に訊問した上で、曹操に「処罰するなら罪を明確にすべきである」と直言した。このため曹操楊彪赦免した。

これらの事からわかるように、満寵は于禁と同様に誰に対しても公明正大で法に厳しかったが、傲慢ではなかったので人からまれることはなかった。

軍人として活躍

官渡の戦いの時期には、袁紹郷里である汝南太守を務め、袁氏与党の軍を滅ぼし、農耕に従事させた。

曹操荊州征伐に従い、曹操が帰還すると奮威将軍兼務し当陽県に駐屯した。

孫権国境に攻め入ると、曹操は満寵を召し還して再び汝南太守とし、関内侯の爵位を与えた。

後に、曹仁参謀として樊城に駐屯した。219年、劉備軍の関羽が攻めて来た時は、救援に来た于禁ら七軍が洪水により壊滅し、樊城も水没して崩壊しつつあった。ある人が曹仁降伏を進言したが、満寵は「山の水は引くのが速く、この状況は長くは続かない」と反対した。曹仁は満寵の意見を良しとした。徐晃の援軍を得て関羽撃退されると、満寵は安昌亭侯に進封された。

呉との攻防

曹丕(文帝)の時代には揚武将軍となり、三方から呉を攻撃したときも、それに従軍した。呉との江陵での戦いで功績を挙げて伏波将軍に任命され、新野に駐屯し仮節鉞となった。半年曹真・夏侯尚・徐晃張郃・文聘らとともに朱然交戦したが、戦死者も数多となり、江陵を攻められなかったので撤退した。また、曹丕の南征に従って、敵の夜襲を見破り散々に打ち破ると、南郷侯に進封されたが、最終的に魏軍は呉に敗れた。224年には前将軍に昇進した。

曹叡(明帝)が即位すると昌邑侯に進封された。

228年、曹休司馬懿・賈逵が揚州荊州豫州雍州涼州の五軍の指揮を執り、石亭・江陵・濡須東関三方から侵攻した。満寵は賈逵の軍に胡質達と共に監軍として従軍し、武昌を目指し進撃していたが、揚州方面の軍の指揮を執っていた曹休孫権の計略にかかり大敗したため、犠牲者も数万人以上となり、敗れている(石亭の戦い・「賈逵伝」[1])。また、司馬懿張郃らも江陵を攻め落れずに退却した。

同年、曹叡は濡須東関に賈逵・満寵らを命じて再び攻めてきたが、陥落させることができずに負けた[2]。

曹叡は呉・蜀漢に対して完全に専守防衛に行い、賈逵の死後に豫州刺史兼任し、曹休の死後に都督揚州軍事となった。揚州への転勤の際、汝南の民や兵士の多くが満寵を慕って勝手についていったため問題になり、詔勅により親衛兵千人を率いていく事が許され、その他一斉が不問とされた。

230年には征東将軍となった。冬に再び孫権合肥に攻め寄せる気配があったため、兗州豫州の軍を召集する事を上奏し侵攻に備えた。孫権撤退する気配を見せたので、こちらも撤退するよう詔勅が下ったが、満寵は孫権撤退偽装と読み、引き続き備えを怠らなかった。孫権10日ほどしてから再び来襲したが、合肥を攻められなかったので無事に撤退した。

231年、呉の孫布という武将投降を申し入れてきた。王淩がこれを出迎えたいと申し出たが、満寵は投降偽装と読んだため、王淩に自重を求めた。偶然入朝する用事ができたため、留府長史には王淩が兵士要求しても与えてはならないと厳命しておいたが、王淩は自らの督将軍に僅かな手勢だけを与えて孫布を出迎えに行かせた。王淩は呉に敗れ、孫布の夜襲により兵の多く失うことになった。

満寵と王淩はこれ以前から対立しており、満寵が召喚されたのも、王淩の息のかかった者が満寵を老いと疲れにより耄碌していると讒言たからであった。満寵と目通りした曹叡は、満寵が壮健なことを確認できたため[3]、任地に返そうとした。しかし満寵はこのまま朝廷に留まることを願った。曹叡は満寵を馬援・廉頗に準え鼓舞した。

232年、呉の陸遜が廬江に侵攻してきた。部下達がすぐに救援に赴くよう勧めたが、満寵は落ち着いて対処すれば良いとした。軍を整え、陽宜口まで赴いたところで呉軍は既に撤退した。

233年、孫権は毎年のように合肥侵攻を企てていた。合肥城は寿春の遠く南にあり、江湖に近接した位置にあったため、過去の攻防戦においては呉の水軍の機動力の有利さが発揮されやすい展開が多くあった。満寵は上表し、合肥城の立地の欠点を指摘した上で、北西に30里の地に新たに城を築くことを進言した。蔣済がこれを弱気作戦であり、味方の士気を削ぐことになると反対したが、満寵は重ねて上奏し、兵法道理を引きながら築城長所を重ねて主張した。尚書の趙咨は満寵の意見を支持し、曹叡の聴許を得た。こうして合肥新城が築かれた。建設に莫大な費用がかかることもあって、合肥城ともども廃れていった。

同年、孫権合肥に攻め寄せたが、合肥新城が岸から遠い場所にあったため、敢えて上陸しようとしなかった。しかし満寵は、孫権武威を振るっているので、必ず陸に上がることに違いないと判断した。伏兵として歩騎兵を6千用意したところ、果たして孫権上陸したため、伏兵により百人の首を斬った。

234年、孫権は十万の軍勢である呼称合肥新城に攻め寄せてきた(「明帝紀」)。蜀漢諸葛亮の北伐(五丈原の戦い)は孫権呼応して(「満寵伝」)、二十万の軍勢である呼称し祁山に攻め寄せてきた。合肥魏軍が苦戦に陥り、これを恐れていた満寵は合肥新城放棄し寿春へ撤退する作戦を願い出たが、曹叡に拒絶されている(「明帝紀」)。満寵は、合肥新城へ救援に赴き、数十人の義勇兵を募り、松と麻の油を用いて風上より火をかけ、呉軍の攻城兵器を焼き払った上、さら曹操孫権の甥孫泰を射殺した。張穎達とともに力を尽くして戦ったが、呉軍は依然として頑強に猛攻した。魏の中央大軍が迫ったので、孫権は大損害を受ける事を避けて、曹叡の援軍が到着する前に撤退した(合肥新城の戦い)。

235年春、孫権江北に兵を送り屯田を始めさせた。満寵は、収穫の時期に屯衛兵達が各地に点在し、陣が伸びきったのを見て、これを襲撃すべきと判断した。また各地の県長に軍を率いて東上させた。さらに各地の屯衛を撃破させ、穀物を焼き払った。詔勅により軍功が称され、鹵獲品は全て将兵恩賞とされた。

曹叡が没し曹芳(斉王)の時代になった238年3月[4]、老年のため中央召喚され太尉となった。家には余財がなかったため、詔勅により特別物資が下賜された。加増による領邑は9600戸になり、子と孫2人が亭侯とされた。

242年3月[5]死去した。景侯の諡号を贈られた。

子孫の満偉(子)・満長武(孫)・満奮(孫)もまた、身長が8尺あったと伝わる。満偉は人品に優れており衛尉まで上り、満長武は満寵の風格を有していたという。しかし、司馬昭に疎まれ殺害され、父の満偉もまた失脚し、平民に落された。満奮は満偉の弟の子であり、やはり満寵の風格があったという(『晋諸公賛』)。西晋時代尚書司隷校尉となった。

また、満寵のもう一人の子満炳は別部司馬となった[6]。

三国志演義

小説三国志演義』では、劉曄の推薦を受けて曹操の家臣となり、楊奉配下だった旧知の徐晃曹操陣営に引き入れることに成功するなど、物語の初期においては弁舌の士という描かれ方がされている。

2021-06-07

その夜は眠れなかった。

四方から軍勢の鳴き声が聞こえてくるのだ。

グンゼッ」

グンゼッ」

グンゼッ」

恐ろしい。

夜に攻撃を仕掛けてくることはないだろうが、逆に言えば明日の朝には一方的蹂躙が始まるのだ。

グンゼッ」

グンゼッ」

グンゼッ」

真夏の夜だというのに冷や汗が伝う。

グンゼッ」

グンゼッ」

グンゼッ」


夜が明けて、我々は拍子抜けした。

軍勢の鳴き声だと思っていたのはグンゼ下着だったのだ。

これ幸いとばかりに冷や汗で塗れた下着を取り換えようと全裸になったのだが……。


グンゼ下着が一気に襲ってきた。

我々は忘れていたのだ。

グンゼ下着の恐ろしさを。

軍勢でなかったことに安心して警戒を怠ってしまった。

死の間際に恋人のことを思い出して、全裸であることの興奮も手伝って全力で勃起したまま二度と目覚めることのない眠りにつくのだった。

2021-05-25

anond:20180309211729

Hearoes of Might and Magicシリーズ

ターン制のストラテジーゲームで、資源を集めて軍勢を編成して戦うながれ。

種族人間なら弓兵やら騎士天使ウィザードならゴーレムやらアーチメイジやらのユニットを使う。

遠距離、近距離、飛行、反撃無効などユニット個性を活かして戦うあたりは今どきのカードゲームと同じ。

Windows98時代バージョンⅡの音楽、素晴らしく美しくて未だによく聴いている。

https://youtu.be/xRHor2L_NQE

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