はてなキーワード: シュールとは
たぶん映画とかの良さを語るときって「全体」で語ろうとしていて、悪いところを挙げるときは自動的に「部分」で語ってるんじゃないか、と思っている。
そして人間は「部分」で語る方が楽なんだと思う。
少し前にマリオの映画見てきたんだけど、全体でいえば「ストーリー的にもありがちでCGがよくできてるだけ」って話になる
でも部分でいえば「あの青い星がシュールだったから思わず調べちゃった、知らなかった」とか「マリオカートのレインボーロードが出てきた、懐かしい」とか「ピーチって元々あんなはっちゃけた性格だったっけ?w」とか「ピアノ弾いてるクッパの口がプリプリでかわいくてワロタ」とか色々思っていてなんだかんだ評価が高いんだ
逆に言えば、良い映画のポジティブな感想を書くときは細部を語る、と思えば書きやすくなる…かも(ただの俺の持論なので違ったらごめんね)
それでは、あまり一般的には知られていない興味深い知識をいくつかご紹介します。
量子もつれ: 量子力学には「量子もつれ」という現象があります。これは、2つの粒子が一度関連付けられると、それらがどれだけ離れていても、一方の状態を変更すると、即座にもう一方の状態も変更されるという現象です。アルバート・アインシュタインはこの現象を「スポーキーな遠隔作用」と呼んでいました。この現象は、量子コンピュータや量子通信の基礎をなす重要な概念です。
オクトパスの遺伝子: オクトパスは、その遺伝子構造が他の生物と大きく異なることで知られています。通常、生物の遺伝子はその種が進化する過程で徐々に変化していきますが、オクトパスの遺伝子は突然大きく変化することがあります。これは「エピジェネティックな進化」と呼ばれ、オクトパスがその特異な生態と高度な知能を持つ原因とも考えられています。
"The Room"という映画: 2003年に公開された"The Room"は、その稀有なプロット、不自然な対話、そして技術的な問題から、「史上最も悪い映画」とも評されることがあります。しかし、そのユニークさが反面、カルト的な人気を博し、今では多くの映画祭やイベントで上映されています。
デザート・ガラス: 約2900万年前、エジプトの砂漠に巨大な隕石が落下し、その衝撃で周囲の砂が一瞬で融解し、ガラス状に固まったものがデザート・ガラスです。古代エジプト人はこのガラスを宝石として利用していました。キング・ツタンカーメンの墓から出土したネックレスにも、デザート・ガラスが使用されていました。
"Noby Noby Boy"というゲーム: "Noby Noby Boy"は、その非常にユニークなゲームプレイで知られています。プレイヤーは伸び縮みするキャラクター、"BOY"を操作し、オブジェクトや建物、動物などを食べて長さを伸ばしていくというゲームです。プレイヤーが伸ばした長さは、他のプレイヤーと共有され、全員で「GIRL」というキャラクターの長さを伸ばすことが目的となっています。このゲームは、ユニークなアイデアとシュールな世界観でカルト的な人気を持っています。
タータグリア語の存在: タータグリア語は、実在する言語ですが、その言語が持つ音声と文法構造が非常に複雑であるため、話者が非常に少ないとされています。これは、カフカス山脈地域のダゲスタン共和国で話されている言語の1つです。タータグリア語は、多くの子音と複雑な子音クラスター、さらに複雑な文法を持っており、その独特の特徴から言語学者たちの興味を引いています。
ホヤの眼球: ホヤは、海の無脊椎動物であり、その中でも特に興味深いものが、ホヤの眼球です。ホヤの眼球は、進化の過程で退化し、非常に単純化された形状をしていますが、それでも光を感知する能力を持っています。この珍しい眼球は、動物の視覚システムの研究において、非常に興味深い対象となっています。
"Cory in the House"というアニメ: "Cory in the House"は、アメリカのテレビドラマシリーズであり、実写で制作されていますが、インターネット上のジョークとして「最高のアニメ」と称されることがあります。このジョークは、インターネットミームとして広まり、一部のアニメファンから愛されるようになりました。
このように、普通の生活ではなかなか知ることが難しい情報やトリビアがたくさん存在します。これらの知識が、日常生活に彩りを与え、さまざまな話題について学ぶきっかけとなることを願っています。
商業書き手の側の視点で説明すると、「そのほうが完成できる可能性が高いから」ってのはかなり大きいです。
映画制作はそこまで詳しくないけれど、小説だのシナリオだのを一本設計して書くって結構なボリュームがあって、そのボリュームの構造体を作るってのはノープランだと途中で失敗したり完成しなかったりコスパ悪いわけです。物語も設計する以上、建築なんかと同じく、間取り決めて柱を立てて梁めぐらせて屋根床壁ってつくってのが効率いいし楽だしスケジュール見えるんで便利なんですよ。
テーマっていうのは柱や梁に相当するものなわけで、最初にそれを立ててそこに屋根壁床に相当するエピソードをはめ込んでっていう手法で作るのが、安定するし出来が良くなる。こう説明しちゃうと「楽したいだけかよ」って思われるかもしれませんが、そういう設計技術を使ってすら往々にして失敗して空中分解するのが物語設計やら小説執筆なわけで、そういう設計無しで作るって至難なんです。
テーマやメッセージが全く存在しない物語を作れって言われるのは、羅針盤無しで太平洋突破とか、そういうレベルでものすごく難易度が高い。水気が多くてすぐ溶けちゃうドロドロ粘土だけで家建てろってくらいつらい。しかも、そうやって頑張って柱も梁もなしで作り上げた物語ですら、建築後には柱っぽい、つまりテーマっぽいものが見える可能性すらある(誤読含む)わけで、そういう意味では油粘土オンリー建築よりもさらに難易度高いと言えると思います。
キャラ同士の関係とか物語の展開とかを排除して、シュールギャグだけで一本小説書くとかってのが、それに近いものだと思いますけれど、そういうのは本当に難しいです。
fgoの野球のやつめちゃおもしろいやつだった。大学に入ってから友達ができなかった俺は、バイト代がたまったのと、「野球が上手かったら大学でも大企業でもいけるんじゃねえか?」という高望みの思いから、俺は野球サークルに入った。サークルに入ってからは2年くらいになった。サークル内では上辺だけの関係だった奴とは仲良くしていた。ある日、bがいた。「a先輩。君はホームランを打ったよ。でも一塁ランナーだから一塁でタッチ・ツーベースになる」と言われ、俺
講評
・「ある日、bがいた。」ってのがシュールでよい。わかる。増田構文わかる。文脈的にはaの後輩なんだろうなぁ。でもaと元増田とは
・「でも一塁ランナーだから」って一塁に邪魔なランナーがいますよってこと?
・野球サークルってそんな気がるに入れるのかとかうわべだけど仲良しとか
・俺が本当にいいたかったことはFGOのエイプリルフール企画の野球のゲームがちょっと難しい。右端、左端のすみっこにいるキャラを流し打ちだのひっぱりだので狙おうとするのが。むしろアルトリアは邪魔
シンエヴァはあくまで現実を主軸として虚構も悪くないよね、というスタンスの作品だったと思う。対して本作は同じメタフィクションでも、現実を生きるアカネちゃんの姿も写しつつあくまでフィクションをそのものを優しく、熱く肯定してくれる作品だった。落書きのグリッドマンが新フォームになるのは意志の槍ガイウスみたいなだなって思った。
冒頭の前置きのシークエンスで、虚構の世界にも日常はあり、グリッドマンと共に戦った後に帰る大切な場所なんだろうと思った。
怪獣出現と新世紀中学生との再開が割とすぐで、話が早い作品だと思った。ダイナゼノンメンバーの出し方も良かった。
文化祭の準備の辺りから、劇中劇についての話でメタフィクションとしての主題が提示され始める。設定盛り過ぎじゃない?リアルじゃないよ、とか。六花は人間ドラマを大事にしたいけど周りからは反対されたり、内海のアクションも大事だろ、とかの話もまさに自己言及。
結局台本は書き直されてアカネちゃんが消される話とかも、この作品自体への言及になっている。
ガウマが姫と再開したり、嬉しい要素ではあるけど、ん?と思うような展開に視聴者が違和感を抱く頃、裕太もそれに気が付く。フィクションなんてキャラが多いほど良い。カオスで良いんだよ。だけどなにかヘン。
そこでアレクシスが現れてから物語が展開して加速的に面白くなった。シリアスさは演出しつつ、コミカルさも残すシュールさが良かった。BLEACHの月島さんのアレを思い出してちょっと面白かった。おちゃらけて飄々としたキャラが立っているのは終始一貫していて良かった。
その後の裕太の混乱から怪獣出現、別次元のキャラが消失するシークエンスでアンチくんとグリッドマンのアノシラスが現れた時の安心感といったらね。その辺りのキャラもちゃんと拾ってくれるのかと思った。
アカネちゃんに作られた世界のキャラクターに過ぎない事実を受け入れられるのか、という蓬の言葉は、グリッドマンから続く虚構の是非の話だ。アノシラスの国家とかだってフィクションじゃん、でもそれは別に悪い事じゃないよね、というのはナラティブから離れたマジレスだな……と思った。この辺りからメタフィクションとしての主題がかなりはっきりと提示された気がする。グリッドマンは実体を持たず、人間が云々という辺りも劇中の射程を超えたフィクションそのものへの言及なんだろう。何度か観てもっと咀嚼したい。
グリッドマン自身が宇宙になって云々、というくだりはほぼ理解できなかったし、まあ初見で理解させる気もないんだろうと思った。とんでもない存在と化したグリッドマンと一体化すれば解決するけど、裕太の自我も失われてしまう、という点を押さえればまあヨシと思った。
妙に棒なバイクの兄ちゃんはプールの監視員の人?何故……?と思ったが、調べたら電光超人絡みのファンサービスらしい。
アクセスフラッシュ後の暗転から、オープニングの実写の人間の目の意味が明かされる。現実に帰ったアカネちゃんが、箱庭の中のキャラクターを友達として助けるというのが良かった。真っ当に生きていたんやな。
グリッドマンが裕太の日常を奪ってしまった事に謝罪するけれど、楽しかったよと肯定するのがとても良かった。
アレクシスをドミネーションして敵を探す辺りからもゴチャゴチャしていて、あまり細かく理解させる気はないなと思った。ラスボスの怪獣は現実存在のサムシングのメタファーと受け取ったが、より具体的な事はまたじっくり考えたい。
なんやかんやでインパーフェクトとユニオンが流れて色んな合体を見せる所で同窓会映画、お祭り映画としては既に満点を叩き出していた。TV版ではちょっとユニオン使いすぎじゃね?と思っていたが、2時間映画で満を持して流れた日にはもうね。劇場に来て良かったと思わせてくれるには十分の迫力あるシーンだった。
はこちらがちょっと気恥ずかしかった。立花の太ももはあんまりフィーチャーされないんだなと思っていたが、アカネちゃんのデカパイは露骨だった。
トリガーらしいノリと勢いで大団円を迎えて、お祭り映画に終止しない良い映画だったなあ……と思った。
ラストは二人がくっついて百合のオタクは不満だったかもしれないが、直前にダイナゼノンを履修してヘテロの口になっていたので私は大満足だった。ダイナゼノンのテーマであった、過去を清算した未来に進むという事もしっかり拾われている。
六花が劇で自分の伝えたかった人間ドラマが届いたかは分からないけど、楽しめてもらえたなら良かったと言う所もこの作品を優しく包み込んでくれた。
ガウマの姫の出会いと別れはカオスが引き起こしたアクシデントだったけれど、 彼らが交わした会話は紛れもなく本当にあったもので、だからこそ彼も過去をすっきりと清算して、新しく得た居場所で前に進めるんだと思った。
お祭り映画としてだけでも、こちらが欲しているものを存分に与えてくれた。怪獣優生思想の人らは出なかったが、あくまでグリッドマンユニバースだし、彼らは過去に囚われた過去の人達なのでまあ……と思ったら二回目に観たら一瞬だけ文化祭を楽しむワンカットが挟まれてた。
そして何より、グリッドマンから続く虚構の肯定、ダイナゼノンからの未来を勝ち取るという主題について優しく、熱く、力強く語りかけてけれた作品だった。
おい竹山!お前の何が間違ってるか教えてやる!
公共の電波使って民に何が正しいか教えてんのに民に「間違ってる」と言われて謝るな。「こういう理由で正しいので、謝らないです」と説明しろ。
手間省いて謝ってお辞儀の価値を下げてる。ネットが世論形成してんのに負けるな。メディアの公正さで殴れ。
2. 横を素通りする。予想を裏切って面白い。
笑いの源のひとつに「意外性」がある。どっちか一方のネタを擦ってたら「意外性」は薄れるだろ。
TVが笑いに多様性を持たせなかったのが悪い。身内をバナナ滑り派だけで固めたのも悪い。
前章にある通り、ワイドショー観るような層にもシュールな笑いを教えるべきだった。一時の視聴率低下を我慢して。
配信者には両パターン揃ってるんだよ。リモコンにチャンネルボタンが12個しかないTVと違って、ネットには競争があるから。
動物によってはストレスによって体調崩すぞ。だから施設側は反発してんだよ。そこまでして取る笑いか?
「落ちる落ちる…セーフ」でいいじゃん。実害ない池で落ちりゃいいじゃん。
ペンギンより笑いが重要なら蹴り殺せよ。春日が急にペンギン蹴ったら面白いだろ。なんだ池に落ちるって。おもんな。
取材対象にネゴれよ。仕事の基本だろ。落ちちゃまずいよねってなったらバナナ横素通りに切り替えろよ。
バラエティ番組でめちゃくちゃやってるのと同じチャンネルで真面目なニュースやっててもいまいち真剣に聴けないんだよね。
線引きしよう。バラエティ番組ではめちゃくちゃなフィクションやって謝らない。ニュースならクソくだらないユーモアを廃して徹底的に公平さや道義的価値を追求する。
アホみたいに盛ってるテロップ・ワイプ全部捨てて「真面目」とか「フィクション」とか表示してくれ。
昼のワイドショーでペンギン蹴り殺して夜の報道で悲しいペンギンの死を報じる
か、
上に「バラエティ番組」ってテロップ出してバナナの横を素通りする
か、だよ。
コンプラに触れなきゃ商売できないって反社じゃねーか。今どきヤクザでも腫れ物には触らずに仕事するぞ。
バナナ素通り派を雇え
学生のころ住んでいたアパートで上の部屋に女子が住んでいて、彼氏連れ込んでやってたのを思い出した。
最初のころは何が起きたのかわからなくて、地震が起きたのかとかなりビビっていた。
地震が起きれば簡単に倒壊して死ねそうなところに住んでたもので。
昼も夜もガガガガガガと揺れて、そのときにああああああああ!みたいな声も聞こえてきたから、すべてを察した。
安アパートだったから普通にみんな窓開けてたんだけど、窓開けている状態でも声が聞こえてきて、
そんな時に隣に住む大家の家で子どもの「いただきまーす」みたいな声が聞こえてきてたのがちょっとシュールだった。
多分、上の人は注意されたのか窓開けてはしなくなったっぽかった。
元増田です。さまざまなコメントありがとうございます。ホットエントリーもありがとうございます。
自分が人間ではないでっかい穴になるむなしい感覚をただ共有したかったのですが、別に彼氏に言うことでもないし知り合いのいるSNSでも言いにくいのでこちらに書かせていただきました。
「セックスの際に冷静すぎるのでは」→ほんとうにその通りです。
「お前の膣は貫通しているのか」→アナルセックスでないと貫通しないのは理解しております。しかし非貫通オナホ と自分を形容するのはあまりに苦痛だったのと、他のでかい穴が思いつきませんでしたので「ちくわ」の単語がもつポップさシュールさをお借りしました。ちくわさんありがとうございます。
「やることやってるくせにキモい」→多面体の人間ですので、普通に性欲が高まって普通にやることやる時もあれば、嫌悪感からちくわになるときもあります。自分でもどちらか一方の思想に寄れたら単純でいいのになと思っております。
ヴァギナデンタータのことはブコメで初めて知りました。挿れる側にも恐怖心があるのですね。暗がりを怖がる気持ちと同じでしょうか。その考えを持っているちんちんとは和解できそうです。
よくわかんないままふんわり理解してる!!
違ってたら教えてね!
要するに感想でしょ?昔でいう「つれづれ」に近い?
インターネットは元々自由に感想を垂れ流していいはずだよね???
二郎系のラーメンとかの画像をスタバって言い張って投稿するやつ
オシャレなスタバとゴリゴリの背脂ラーメンという落差がシュールでクスッと笑ってしまうんだけど、「おいおい!違うだろ!」「画像間違えてんぞ!」ってツッコミ待ちってことであってる?不安
あと一周回ってすごい意識高い系のラーメン(具がないやつ)投稿してる人、高度すぎて唸ってしまう
これは意味がわからないというより、元ネタ(誰が言い出したのか)がよくわからないので知ってる人いたら教えてほしい!!
間違えて2回言っちゃってヤベッて思ったときなどにこう言って誤魔化すとなんとなく場がなごんで笑いが生まれる(使い方合ってる?)
なおさほど大事でもない
オタク特有の大袈裟な表現を用いて「このキャラを引けてない連中は基本的人権すら認められないレベル」と煽りたい意図はわかるよーくわかる
例えばメンテナンスが長引いて、「人権の侵害だ!!」のように使うならわかる
このように使います。
漫画に何十万も使ってたけど害悪オタクの女叩き嫌すぎて漫画熱冷めた人が、オタク達から漫画に年間何十万もかけるわけないから嘘松扱いされていた。
そのやりとり見せてくれなきゃ詳細わかんねーけど
要は「はいはいよかったでちゅねー」ってあしらわれただけじゃねーの?
はあ?
バカにされて当然じゃね?
この時点で真面目に相手される値打ちのある主張ではないと思う。
別にまあどんな理由で漫画買うのやめるのもそれ自体は勝手だからいいんだけど
なんかそれで自分の気に入らない奴等が後悔することを期待したわけじゃん?
もうこれが滅茶苦茶気持ち悪いんだよな。
俺自身子供の頃にこういう精神構造持ってたから「わかってしまう」のが嫌。
成人してこんなん言ってる奴どんだけ幼稚なんだ?っていう。
子供の頃にそういう幼稚なスネ坊交渉術が通用することがあったとしたら
相手がおめーのこと掛け替えが無いと思ってくれてる親だったからじゃん。
はったおしたい気持ちと自分の中のかつての幼稚な依頼心への羞恥とが同時にドライブするんだよね。
成人してその(チラッチラッ)をやる奴マジで精神年齢小学校低学年だからな?
そしてなんかその種のアホって女が多くね?
「女だけの村」って言うのがムカつかれてるのもそれで
あれ別に自立と理想を追い求めて真剣に考えてるプロジェクトじゃなくて
(チラッチラッ)って男の方見てるのバレバレじゃん。
真面目に考えてないの。男に心配して欲しー慌てて欲し―って言うのが丸出し。
なのに自分の特別な相手でもない世間の男一般が慌てたり心配したりしてくれてると思ってるわけじゃん。
もうその間抜けさと幼稚性に心底辟易とするしこっちが恥ずかしくなるんよ。
んでそれやってるのの中核はもう「女の子」なんて歳じゃないおばさんじゃん。
お前等一生そうやって男に慌てて欲しい心配してほしいって精神年齢で生きるのか?
「女だけの村」がフェミニズムマターみたいにいうやつらもいるけど
(俺のこれは女叩きか?
女の中のアホだけを叩いてるのは女叩きじゃねーよな。)
俺は韓国の社会全体の雰囲気は嫌いだけどキムチは好きだしスマホはgalaxy。
KPOPでJPOPにマウント取らないと気が済まない人(だいたいいい歳のおっさんおばさん)は嫌いだけどnewjeansは好き。
もし俺がさ、
「韓国の反日無罪の雰囲気が嫌だからキムチ食べません!スマホ替えます!」とか
「日本のKPOPマウントおじさんおばさんがキモいからnewjeansファン辞めます!」とか
そういう滅茶苦茶幼稚な(チラッチラッ)をやり始めたらどう?
あげく塩対応されたらtwitterから増田に移ってきてまで更にギャオるの?
精神年齢8歳ぐらいなのいい加減やめねーか?
こういう奴のオタクがーとか男がーとかって
別に相手がどうこうの話じゃなく要するに”自分が”子供で居続けたい、
一生誰かに心配され慌てられる側でいたいっていう小児精神だろ?
腐った幼心の君も大概にしてくれよ。
あたまファンタージェンか?
それでせめてこういうのがちゃんと「幼稚な奴」って名前で呼ばれてりゃいいんだけど
「フェミニズム」という正反対の概念で呼ばれたり名乗ったりするからおかしくなるんだよな。
あとnewjeansだけど
Tellmeだけはよくないと思う。
ガキの頃藤崎マーケットや小島よしおが流行った。今や何が面白いのかはさっぱり分からないが、ゲラゲラ笑っていた。小学校ではラララライだのそんなの関係ねーだのが流行りまくっていた。ハードゲイは今でもちょっと面白いと思う。
中学の気難しい頃は居間でテレビを見る事も減り、キャッチーなギャグで笑う年でもなかった。友達同士でお笑いが話題になる事もなく、漫画の話が多かったと思う。銀魂とかギャグ漫画日和のユーモアは新鮮で、一周回ってとかではなく逆張らず、順張りのノリで素直に面白いと思っていた。
オタクじみたのが多い男子校だったからか、グループ内ではニコ動を観てネットスラングで会話する事がクールな風潮があった。くだらないMADだかやらないかだかの話をして、PSPに落とした動画を観て盛り上がっていた。
スマホを持ってから家でまとめサイトを見るようにもなった。テレビでは見られないようなブラックでエッジが効いている「尖った」おもしろコピペを読み漁った。友達にネットの受け売りで話したおもしろトークはウケが良かったが、自分の言葉で喋るのが下手になったし、今でも尾を引いている気がする。
総じてテレビやお笑い芸人の「浅い」笑いから、「ディープ」でマニアックな笑いを好むようになった頃だと思う。まあ誰しもムキムキのアンパンマンやドラえもんのような「シュール」さを好むような感性の年頃でしょう。
一度姉に連れられて新宿ルミネの劇場へ行った事もあった。既に芸人への不信感(?)があったので、嫌々。当時の感覚で、退屈というほどではなかったが、フフッと笑える程度の面白さだった。ずっとムスッとしてるのも感じ悪いかなと思いそうはしなかったが、まあ我慢しようと全然耐えられる感じだ。一切笑えないコンビも少なからずいた。偉そうに素人素人言ってプロ面する癖にこんなもんか、というのが感想だった。
高校の頃にはすっかりネットに毒され捻くれまくったガキになったので、順当にテレビのお笑いが嫌いだった。「マスゴミ」が大嫌いで、バラエティ番組を観てるいような人間が低俗に思えた。捻くれた性格がインターネットへ導いたのか、本当にネットに毒されたのか、あるいは相乗効果なのかは分からない。
この表現は嫌いだけれど、高校にもなるとクラスで「陽キャ」と「陰キャ」とがかなりはっきりと分かれる。それについて色々と気にかける事も多い年頃だ。無論自分は後者で、それが「捻くれた自分」をアイデンティティにしようと思わせた部分もあるのかもしれない。
昔よくあったネタ見せ番組は消え、芸人を名乗りながらネタも見せない(劇場での興行が基本という感覚がなく、ネタはテレビで見せるものだと思っていた)。ロケで飯を食ったりスタジオでトークするだけ。こちらは芸人の先輩後輩など知りもしないのに、内輪ノリでくだらないギャグに愛想笑いする彼らに嫌悪感すらも覚えていた。
思春期の焦燥に強く駆られる時期で、「低俗」である笑いを求める事自体が減った気がする。などと言いつつ、学年中で淫夢が流行り、とにかく会話に語録を挟むのがクールだった(最悪)。最初は「は?野獣先輩?114514って何?おもんな……」と心の底から思ったたものだが、無事イキスギィでゲラゲラ笑う身体になった。今思えば凡庸なオタク高校生だが、当時はゲイポルノで笑うヤベー俺ら、みたいな意識があった気がする。
大学生になり、流石に対外的な社会性の大切さに気が付き、斜に構えた態度は内面とSNSで大切に留めておくようになった。
「普通」になりたいとは特に思わなかったが、普通の何たるかは知っておいた方が良いと思い立った。その一環として、人気バラエティの「相席食堂」を観てみた。面白いと言われている回を選んで観たところ、これが中々面白かった。いつしか素直に楽しむようになり、シリーズの最初から通して観ていた。その最中、かまいたちの山内が出た回が強烈につまらず、不快感すら覚えた。つまらない癖にsupremeを着ていたのに余計腹が立った。消えかけていた芸人への嫌悪感が急激に吹き出した。
あまりに不快で、逆に興味が湧き色々と調べてみた。M-1なるお笑い(漫才)界最大の大会の存在と、かまいたちがそこでかなりの結果を残している事を知った。
自分は漫才が特に嫌いだった。コントを面白いと思った事はあるが、漫才で笑った事はそれまで人生で一度も無かった。これはよく言われるエンタの罪なのかもしれない。ジャリの頃好きでよく観てたので。
こんなにつまらない芸人が最大の大会で良い結果を残せるなんてどれだけお笑い界はレベルが低いんだと思い、ネタを観てやろうと思った。2018だか19だかのM-1を観た。
かまいたちのネタを見て、初めて漫才で声を出して笑った。面白かった。優勝したミルクボーイよりも面白かった。この時完全に芸人への嫌悪感が吹き飛んだ。内輪ネタや共有されたミームに頼らない、最大公約数的なお笑いでここまで面白くできるのかと。毎年M-1を観るようになった。良いと思う芸人のバラエティも。
その後数年経ち、やや熱は冷めてきた。テレビ的お笑いをつまみ食いして、自分は芸人やテレビ的笑いが好きというよりは、単にかまいたち他数コンビが好きなだけだったのだろうなと思った。
ただ、得られた事がある。フン、つまんね。これでプロなのか。などと思いながら品定めをするように観るのが間違いだった。笑いを求める人間が、「我慢しようと思えばできる」などと喧嘩腰になるのがおかしい。
あと、内輪感に入り込むという事を知った。確かに大して知りもしない芸人の内輪ノリは、見ていて不快さを覚える事も少なくないだろう。でも、前提となるミームや空気感を知り、彼らのノリに慣れてしまえば中々面白いものだ。たまにくどいなと思う事もあるけれど。ネットのユーモアとて、所見で笑えるようなキレのあるものもあるが、前提となる感覚や風潮を要するものも多いだろう。
漫才コントが下ネタや内輪ネタより高尚な笑いだとは別に思わない。テレビではとても出せないような下品でエッジの効いた笑いも未だ大好きだ。しかし最近、(多分ほぼインターネットだけで)流行っているオモコロ的なユーモアが苦手に感じるようになってきた。マイナーだけど特定層に深く刺さるようなあるあるや、気の利いたシュールさは、つい上手いなあと思ってしまう事もあるものだ。これも今までずっと愛してきた捻くれたユーモアの類だろうに。結局逆張りじみた感性そのものは変わっていないのだろうか。
逆張りがいけないとは思わない。自覚的な逆張りを貫ける人は好きだ。でも自分の価値観や信念に基づくというより、単にミーハーなものへの嫌悪感がそうさせているのなら、少なくともそれに自覚的であった方が良いと思う。芸人がよく言う「批評家気取りの素人」は、そういう素直さの大切さを言っているのではないかと思った。もちろんポジショントーク的なマウンティングもあるのだろうけれど。一度素直に受け止めて、それでも合わないなと思ったらその気持ちは大切にして良いと思う。嫌いは好きと同じくらい大切だ。
画一さや没個性を嫌う気持ちは誰にでもあると思う。その気持ちは大切にして良いものだとも。ただ、単にメジャーの逆張りをした所で、それはメジャーの裏返しでしかない。マイリノティにはなれるかもしれないけれど、それもまた没個性的なものだ。ありきたりだが、個性とは自分の好き嫌いを大切に重んじた先にあるのだと思う。
笑う時くらい小難しい事は考えない方が良いですよ絶対。