はてなキーワード: 愉悦とは
その「正義」を「愛国」に変えて、より苛烈なイジメをしているのが保守右翼なので、並んだウンコの中からより良いウンコを選ぶと言う民主主義の観点からは結局、リベラルが唯一にして最善の選択肢であることは微塵も揺らがないのよ…。
おっっっっっっっっっ(愉悦)
3つに共通
・親しみを感じるが唯一無二でもあるビジュアル
2作に共通
・協力要素あり
なるほど。
今のゲームはネット環境が前提であるとでもほざくつもりだったが、よく考えたらブルアカもパルワールドもソロクリア可能なんだよな。
ぶっちゃけパルワールドもマルチがメインってほどではなく、ソロの延長としてマルチがある感じだな(ARKと比べてサクサクだから皆で協力しないと何も始まらんって状態じゃないのがデカイ)。
ビジュアルでまずプレイヤーを惹きつけられないと何も始まらないってのは間違いない要素だろうな。
どこかで見たことがあるようなビジュアルでは似たようなゲームに埋もれて終わりだ。
ゼルダが毎回チマチマちょっとずつデザインを変えるのもユーザーに飽きられたら終わりだと思っているのだろう。
変にビジュアルが毎回一緒だとユーザーに新しい体験をさせようとしているうちに変な方向にズレてくか、ユーザーがガチで飽きて終わりだからなあ。
映画が3作目ぐらいからおかしなことになりがちなのも、ユーザーを飽きさせない工夫が迷走した結果だろうな。
だからといって全く真新しいものが来るとユーザーの警戒心が高まりすぎるので、どこか既存の物に近い感じにする。
そうすることで個々人の頭の中にあるクラウド的な所に保存されたイメージでどういうゲームなのかがキャプ画像を見るだけで想像もできて相乗効果だ。
たとえば、パルワールドはコミカルな雰囲気でえぐいことをするというゲーム性と絵柄はマッチしている。
全部アクションRPGってのも見逃せないな。
コマンドポチポチ型のRPGはいい加減飽きられてきてるんだろう。
客を熱中させたいなら画面にずっと釘付けにさせた方がいいってことだ。
プレイヤースキルの要求が低いゲームは段々とダレてくるのもあるな。
だからといって難易度が高すぎるとプレイヤーが絞られすぎるのでアクションオンリーではなくRPGにする。
遊ぶ側が自然と自分のレベルに合わせた進行度で遊べるように勝手に調整されていくのがアクションRPGの魅力なんだろうな。
上手くなれば早解きが出来るし、下手くそでもいつかはクリア出来る。
でもこれをちゃんとやるならゲームバランスの調整は難しくなる。
正直この辺は運も絡むかな。
これは実にシンプルで爽快だ。
敵を全部倒せ。はい終わり。
何よりこれは現代人に未だに組み込まれっぱなしの狩猟本能を適度に解消してくれる。
敵を殺して問題解決というシンプルな世界を現代人は求めているんだなあ。
一見すると暴力が支配する世界に見えるが、やってみると意外と牧歌的な部分もある。
だけどやっぱこの世界は暴力が全てを解決するんやっていう割り切りがある。
その割り切りの元でエグいことが色々起きていて、そのエグさを眺めてプレイヤーは安全の愉悦に浸ったり可愛そうな被害者を笑ってたりするわけだな。
そうしてリセットされた意識に再び暴力を叩き込むことで新鮮な脳内物質が出てくるわけだ。
なにより重要だと思うのが、結局のところソロでクリア出来るのかってことだ。
ゼルダはほぼ完全にソロゲーだが、ブルアカはソーシャルなゲームだし、パルはオンラインなゲームだ。
もしここで「このゲームは4人用なんだ。でもネットで友達が見つかるから大丈夫だよ^^」と言われたら、ビビって遊ばない引きこもりが日本には大勢いる。
ネットで出会う仲間たちはクソの役にも立たない初心者だったり、説明を聞かない文盲、挙げ句99999ダメージを無限に出し続けるチーターだったりの可能性がワンサカだ。
こんな状態ではクリアしたときにあるのは達成感よりもクソ味方を引かなかったことへの安堵感だろう。
まあそれはそれで独特の快感があるが、万人向けじゃない。
自分のペースで、自分の手で、ラスボスを手に掛けるっていう体験がやっぱ求められているんだろうな。
こうしてアレコレ言ってみたが、なんかこうマジで「売れているものにありがちな要素」って感じだな。
振り返ってしまうと売れるべくしてく売れているものが売れたって感じは強い。
そりゃそうだ。
刺さる人にはめっちゃ刺さるとしても、その刺さる範囲が狭いほどに売れなくなる。
スレスパはあのジャンルにおいて売れる要素の塊だが、それでもあのジャンル自体が刺さらない人が大勢いる。
アクション要素がないなら遊ばないとか、やるたびにリセットじゃ嫌だとか、そもそもカードゲームはルールがごちゃごちゃしてて嫌だとか、ストーリーが重厚じゃないと嫌だとか、売れなくなる要素が目白押しだ。
ストーリー的なゲームをアーケード的にぶつ切りで遊ぶのは不可能ではないが、アーケード的なゲームをストーリー的に遊ぶのはそもそもが無理という構造上の代替不可能性なんかもこの辺に絡んでくる。
たとえば、ブルアカはエッチな見た目だから皆の前では遊べないけど、スマホゲーだから一人でこっそりは遊べるし、人前に見せて自慢したいならスクショを裏垢で公開すればいいわけで、ユーザー側の自由裁量で好きな遊び方が選べるゲームほど最大公約数的な条件下で有利って話だ。
こっからが、この話のオチなんだが、そもそもゲームの良し悪しを売れた売れてないで測るのはやっぱ無理なんじゃねえかな。
狭い範囲にしか刺さらないけど、俺には滅茶苦茶刺さったから神ゲーだって作品が皆にもいくつかあると思うわけだ。
それこそ、outer wildsやLoLを人類全員が遊ぶべきだって主張するやつがいたら、そいつが今後変なイデオロギーに染まる前に人格矯正されて欲しいと願ってしまうだろ?
レビューの点数でさえそれぞれの好き嫌いが延々と喧嘩してるわけだ。
まあでも強いて言うなら「一見してイメージした内容から少しでもズレがないゲームであって欲しい」と思ってしまうよ。
そういう意味じゃ、ゼルダの最新作も、透明感のある学園銃撃スマホゲームも、ポ◯モンっぽい見た目のマイクラ風ARKも、ちゃんと見た目や看板やPVや広告通りのゲームになってる。
性加害うんねんは当事者たちが法廷で決着を付ければいいと思うが、気になるのは松本人志の笑いがいじめを肯定する笑いだという意見だ。
正直、理解ができない。自分の知っている松本人志とは別の誰かの話しているかとすら思った。
まったく逆だろう。
ダウンタウンの笑いとは、いじめられている人間の放つ蟷螂の斧である。
個人的には、笑いを「いじめる側の愉悦」から「いじめられる側の反撃」に変えたのが松本人志の最大の功績だと思っているぐらいなのに。
おそらく、ダウンタウンをいじめの笑いと思っている人は若い人が多いのだと思われる。その人たちにとって、ダウンタウンは物心ついたときから大御所で、昔のダウンタウンを知らないんだろうなと思う。
私が若いころ、とんねるずは嫌いだったがダウンタウンは好きだった。それはとんねるずの笑いが「いじめる人間・人生の勝者」の笑いだったのに対して、ダウンタウンのそれは「いじめられる人間・世界に居場所のない人間」の笑いだったからだ。
ダウンタウンの笑いを構成する元素は「根暗、貧乏、田舎者、友達がいない、喧嘩が弱い、勉強ができない、ブランド品を知らない、ダサい、舌馬鹿」等である。これはとんねるずとは真逆の属性であった。
ダウンタウンの笑いは、虐げられた人、世間に馴染めない人間が世間を下から見ることによって生じる笑いである。
これは言い換えればオタクの笑いである。今でこそオタク系の笑いは珍しくないが、当時は画期的だったのである(それこそダウンタウンの影響で普通になった)。
ダウンタウンがあっという間に天下を取ったのはいじめ系の笑いに対するアンチテーゼとして世間を馴染めない人間に圧倒的な支持を受けたからだった。これは若い人には信じられないかもしれないが、当時の空気感を知っている人、特にダウンタウンが東京進出してきたころに学生だった人であれば首肯いただけるかと思う。
(「笑っていいとも」レギュラーだったころの松本は、東京に馴染めず、友達がいなくて、髪はズラ、というキャラだったのを不意に思い出した)
当時はとんねるずに限らず、「おれたちひょうきん族」や山田邦子、森脇健児など陽キャの笑い、いじめの笑いが普通だった。
「明るくノリのいい奴こそ偉い、正しい。いじめる側に回れる奴が成功者」という風潮への反抗の旗手がダウンタウンであった。
松本は「俺は根暗」「根暗のほうがお笑いに向いている」と言い続けた。
松本だけではない。浜田の傍若無人もただの暴力キャラではなく、あくまで「何も持っていない若者が権威に噛みつく」キャラだった。
甲本ヒロトのように「ダウンタウンに救われた」という人がいるのは、こういう背景によるものである。
甲本に限らず、現在40代~50代ぐらいの人の中には、ダウンタウンのおかげで勇気づけられた、元気が出たと言っている人間は多い。
ここらへんのことは若い世代にも、もうちょっと知られていいことだと思う。
実際、当時のダウンタウンの影響というのはすごいもんで、全国の男子学生が松本や浜田のノリを真似していた。
もちろん、そいつらのほとんどはただの劣化品で、ダウンタウンのエレジーは理解していなかったため、ダウンタウンへの誤解が生じる原因にもなっているのであるが、なにはともあれ凄いブームであった。
今や陰キャ系の笑いは芸能界に限らずエンタメ全般に進出している。M-1などを見ても間漫才コンビのネタ作り担当は根暗そうな人間が多い。こういった一連の流れに大きな影響を与えたのがダウンタウンであることは間違いない。
もし、ダウンタウンがいなかったら、今のお笑い界の形も、エンタメもまったく違ったものになっていただろう。
いじめ・いじり、内輪受け、体育会系の部活ノリ、のひょうきん族、とんねるず系統の笑いからの脱却は、むしろダウンタウンよってもたらされたものである。
そして、「世間を下から見る」松本のスタンスは年取ってからも、そんなに大きくは変わっていないと私は思う。
ただ、ダウンタウンというネームは大きくなりすぎた。松本も『遺書』で書いているが、権威を笑う側が権威になってしまった。正直、こうなってしまってはダウンタウンが何をやってもいじめに見えるという人が出てくるのも仕方ないところである。
松本も芸能界に長く居すぎたのかもしれない。彼自身が若いころに言っていたとおり、老いる前に引退すべきだったのかもしれない。そうすれば、「ダウンタウンの笑いはいじめの笑い」などという真逆の受け取り方をされることもなかっただろう。退き時というものは難しい。
さて、長々と松本人志の笑いについて書いてきたが、私の文章を読んでも若い人にはいまいち伝わらないと思うので、実際にダウンタウンの笑いを見てみてほしい。
違法視聴なので大っぴらには言えないけれど、Youtubeで「ごっつええ感じ」「松本人志 コント」などで検索してみるといろいろ出てくる。
お見舞い、思春期、ストリッパー物語、トムとマイク、おかんとマー君、ガタンゴトン、西日本番長地図、記者会見、挑戦者、豆、日本の匠を訪ねて、悪魔、あざみ、くさや団子虫、しょうた、いかがです、ザ・バイオハンター、サラリーマンツアーズなどがおすすめだ。
これらを見ているとうすた京介をはじめとする00年代に出てきたギャグ漫画家がダウンタウンから非常に大きな影響を受けていることがわかる。
また、ピー助というコントは島袋光年がもっともお気に入りのコントだと述べているものなので、見てほしい。
Youtubeにはないもので一例をあげると「荒城の月」というコントがある。
便所の底に住む夫婦の話である。便所の底から上にある便器の穴を見上げると、便器の形に切り取られて蛍光灯の光が月のように見えるという話。「世間を下から見る」松本の世界観がよく表れている。
これらを見れば、ダウンタウンの笑いがいじめの笑いというの違うというのはわかるだろう。ここにあるのは弱者のペーソスである。
正直、ジャニーズ崩壊を見ていると愉悦部になってまうのはワイだけか?
前提としてジャニーズが嫌いなわけじゃない、むしろみんな好青年ばっかりでいい子達なんだろうなと思う部分の方が多い。あと純粋に顔が好き。
だから辛い思いをしてほしくないなぁと思う反面、あれだけ時代を作った大きな事務所が次々スポンサーから梯子を外されマスコミも今までの忖度や感謝を忘れ一気に手のひら返しでまさにジャニーズ神話崩壊。こんな面白すぎる事なかなかない!!
おまけにジャニオタは発狂し怒り狂い必死に擁護したり、不買運動をしたり、セカンドレイプまがいのことを繰り返してるが焼け石に水、何の意味もない。(なんなら外れたスポンサーの商品不買してたら日本じゃ生活できなくなりそう。そこまで多くはないのか?)
正直面白い、面白すぎる。金も権力も名誉もあるあんな大きな事務所が崩壊していく様を見るのは愉悦部になってしまわざる得ない。