はてなキーワード: 両津勘吉とは
「今まで出来なかったことをやれ」←いきなり言われても対応しきれない
「とにかく物を沢山買え」←サプライチェーン崩壊で納期がマシマシなので『今年度に使い切る必要のある予算』が全然使えないし1年納期は2年納期に比べると圧倒的に単価が低い
「施設や装備の修理がしたかったのでは?」←緊縮財政に合わせて受注者側が口減らしを繰り返してきたので人間が対応しきれない
「分かってたなら準備をしておけよ」←割当が正式に決まったあとでもどこかが全然足りないと言い出すかもと皆おっかなびっくりしてたら時間だけが過ぎていった
はい。
典型的な「お金の使い方を知らない人達に急にお金を上げても正しく使えない」ですね。
国が見事にやらかしました。
限界の限界まで飢餓状態に追い込んでから、突然ガバガバ飯を食わせて上手くいくはずがないってことが分かってないんですよね。
いつものことですね。
他所の官公庁も同じような目に何度もあってるだろうし、むしろ民間のいろんな所をこういった目に合わせては「やっぱ金渡してもお前らごときじゃ使いこなせないね^^」を繰り返してきたと思います。
因果応報?
そう言われましてもね。
いやまさか本当に「とにかく使え」を自分が聞くことになるとは思いませんでした。
ビックリですよ。
去年まで「ここの部分って毎年整備する必要があるってなってるじゃないですか……でも2年に1回とかでもなんとかなったりしません?え?マニュアルに書いてない使い方をしたら保証外?それなら、マニュアルを改定するというのはどうですか?」みたいなみみっち~~~話をしてたのに突然これですか。
ニワカ成金にも程があるでしょう。
そもそもお金を使おうにもサイクルが全く出来てないんですよね。
防衛産業なんてベンチャーとは対局の「儲かるわけじゃないけど、食いっぱぐれはしない」みたいな業界なわけで、そこに付き合う最大のメリットは受注量の安定なんですよ。
そこが突然ドカーンって沢山受注してくださいって言われても、そもそも儲からねえ仕事に対していきなり人を動かせって言われても特急費用請求も出来ねえんだからどうしろってんだとなりますよね。
こうなるに決まってるのはうすうす分かってましたがマジでなったか~~。
でもなんか使い切れるんだろうな~~ってほんわか考えてたんですよ。
つーかね、この状況で欲しいのは長い時間をかけてじっくり使えるお金なんですよ。
「今年度中に使ってね!もしも使い切れなかったら来年はそれを基準にするよ!あと10ヶ月!契約手続きにじっくり時間をかけたい?それならその分減らすよ!うわ!あと半年しかない!まだそれしか使えてないの?お金がないって嘘だったんだ~~ふ~~ん」
とか言われても困るんですよね。
まあ我が組織が虚栄と建前に彩られた嘘つきの楽園なのは事実なんですが、それでもその嘘を守るために乱立されたハリボテを後ろから支えるために必要なお金が足りなすぎて現場が発狂寸前なのは事実なんすよ。
飢餓の発狂から飽食の発狂に今は移っていますが、これ本当に頭がおかしくなりそうですね。
自分たちも疑心暗鬼だし会社も疑心暗鬼、その上「こんだけあるなら俺めっちゃ使いたいから沢山くれよ」って誰かがいきなり言い出すんじゃないかっていつもビクビクですよ。
うちの職場って偉い人がやれといえば権力パンチでワンチャン簡単に通るせいで事前の下調整下手くそなんですよ本当に。
いきなり鶴がそこらじゅうからギャーギャー喚きだしてそれぞれの矛盾の間で全部のちゃぶ台がひっくり返る。
そんなときに「金が多すぎる!」ならまだ救いはある。
でも「支払いができない!」になったら完全に終わり。
国家が会社に対して不当な契約を結ばせたってことになるわけですよ。
この仕事って口先で言ってることはともかく人権や文書や道理や正当性や整合性や善意や倫理やらは、手段と目的を入れ替え続けて蔑ろにし放題なんですが、金だけは厳しい。
何故なら金は誤魔化せないから。
親方日の丸パワーで鉛筆を舐められる数字にはめっぽう強いんですが、そうして数字を舐め腐ってきたツケが回ってきてるのかとにかく手も足も出ない。
なにより困るのが最終的にその判断をするのが国の他の機関ってことですね。
ずっ友な警察とかは結構優しくしてくれるんですけど、金絡みの連中はそりゃもう「自衛隊流の話」が通じねえんですわ(そりゃ通じねえよ。「自衛隊流の話」の方が道理を無視してるだけなんだから)。
だからねーやっぱ「金を使い切れ!」って言われてもなかなか踏み切れないんだよね。
それでもいよいよ時間切れが見えてきて始まったのが丸投げですよ。
「とにかくお金を使いたいんです!だから何か考えてください!」
マジで。
いやもうお前それやっちゃったら調達関係職員の存在価値もはやねーだろ。
やっちまったな~~~~~。
マジでもう無理っす。
プライドが完全に粉になりましたわ。
今は一周回って「うっひょ~~~テッキトーに他人の金使えるのたのし~~~~自分の財布傷まない散財ってこんな楽しいんだ~~~~両津勘吉みたいな気分~~~~」で凄くハイになってきてます。
楽しい……本当に楽しい……他人の金だと割り切って無駄遣いするとなんか脳から変な汁が出てくる。
まあこれって多分、リスカとかしてる人がスパってやったときに出てきてるアドレナリンとかと同じなんだろうなって思うます。
自分のプライドに自分でボディーブロー叩き込んでその痛みと引き換えに脳内麻薬貰ってる病人ですよ。
マジでアホくさい……こんな仕事して給料もらおうとか浅ましすぎるわ。
でもね、私も給料貰わないとだめなの。
子供もいるしね。
子供が暮らす日本の未来を作るはずだったお金をゴミ箱なのかどっかの会社の営業の財布になのか分からない場所にボンボコ投げ込んでるけどね。
辞めたいけどねこんな無駄なことして税金からお給金もらうのなんて。
でもね。
子育てや生きることそのものにお金がかかりすぎるから、今更バイトとかで暮らすとか無理なの。
そういうわけでごめんなさいね。
「どうせ無駄遣いされるだけ」と予想してた人達おめでとうございます大正解。
「流石にそれはないだろ。使い道があるだろ……トイレットペーパー代とか……」と言ってた皆さん、逆張りお疲れ様でしたそんなんじゃ使いきれません。
なによりも大きいのは「隊員増やしてその分の給料として使う」が完全に妄想で終わったことじゃねと個人的に思ってたり。
日本人のラッパーの中でもトップクラスにキャラが立ってる人で、面白いから嫌いではない
そんなD.Oだが、クスリ関係で逮捕されていたのが最近出所してきた
出所後にメディアからインタビューを受けたのだが、それをみた日本語ラップファンの反応があまりにも頭が悪すぎてアホかと思ったという話だ
何でもD.Oには娘がいて、娘の学芸会だがなんだかイベントごとが観たくて、刑期中は模倣囚として振る舞って刑期を短くしたそうな
日本語ラップファンは頭が悪いヤンキー気質の人間が多いらしく、何やらそれが感動的な良い話として受け止められているらしい
俺はてっきり日本語ラッパーというのは自分らしく(ラッパー用語で言えばリアルに)生きていて結果として反社会的にも行動してしまう人間で、
その結果として生じる社会との軋轢も腹括って引き受ける。そういう人種なんだと思っていたら、
何だ、自分の損得勘定で社会に協調的にも振る舞うことができるんかと思って白けてしまった
そんなら普段から模倣囚的に社会と強調するように努力せーや。そんな話自慢になるかと思うのだが、
答え:「ある」 ただし、間接的に
『企業vtuberは女性による自己実現ではない』のは当たり前です。企業Vtuberは企業が創作した架空のキャラクターなので、自己も自我もありません。なのでキャラクターが男性だろうが女性だろうが自己実現のしようがありません。まずは現実と創作の区別をつけましょう。それとも、架空のキャラクターにも人権があって〜みたいな電波な話をしたいのかな。君、ワクチンを打つと5Gに繋がるとか信じてそうね
当たり前のことですが、架空のキャラクター、浦島太郎とかかぐや姫には人権はありませんし、自己も自我もありません。しかし、十全な人格・人権を有する自然人とキャラクターの間というのは、そんなにはっきり見分けられるのでしょうか?
たとえば、架空のキャラクターであっても、竈門炭治郎や両津勘吉になると、著作権者の著作人格権があるので、取り扱い方によっては著作者の人格を害する可能性はあります。これらのキャラクターの画像を勝手に修正したり、風俗店の看板に使えば、著作人格権の侵害になるでしょう。
次に、芸能人について考えましょう。例えば、所ジョージはある種のキャラクターであり、芳賀隆之氏ではありません。しかし、「所ジョージは実は犯罪者だ!」と公言すれば、間違いなく名誉棄損になり、民事では芳賀隆之氏(またはその代理人)から訴状が届くことになります。
もう少し考えてみましょう。NHK教育で放送されていた「つくってあそぼ」の主役の「ワクワクさん」というキャラクターのことは皆さんもご存知でしょう。タレントの久保田雅人氏が演じるワクワクさんは、明らかに番組のために創作されたキャラクターです。しかし、実際のところ、久保田雅人氏のタレント活動は「ワクワクさん」としてのものがほとんどであり、「タレント久保田雅人」と「ワクワクさん」に対して、どこまで別の存在だと言い切ることができるのかは判然としません。
別の例を見てみましょう、パペットマペットという芸人、あるいはコンビがいます。これは、実際に操作しているのは、後ろの黒子ですが、表に出ているキャラクターは「うし」と「かえる」です。この、本名も顔もわからない黒子にとって「うし」と「かえる」は単なるキャラクターなのでしょうか? 黒子と「うし」や「かえる」は人格的に密接な繋がりがあり、「うし」や「かえる」を否定することは、黒子の人格を否定していると判断される可能性は十分にあります。
ここで、VTuberを見てみましょう。多くのVTuberは中の人とキャラクターの間に密接な人格的つながりがあります。VTuberは、セリフのあるお芝居ではなく、シナリオの無いトークライブやゲーム実況といった、本人の人格が反映されたタレントとしての活動が中心であり、キャラクターと言うよりは、3Dの着ぐるみを着たタレントと言うべき存在です。
このように考えると、自己も自我も人権もある中の人の人格を反映させたVTuberというのは、間接的に自己も自我も人権もあると言えるのです。
いわゆる「男が思う男らしさのある男」的なポジションとしてのキャラって、性欲丸出しみたいなのは全然流行んねーじゃん
あの両津勘吉ですら初期は普通にクズっぽいスケベだったのに、両津自身のキャラとしての魅力的な側面が描かれるようになってからはすっかりそういう側面はなりを潜めて女に興味なさそうなオッサンになった
シティーハンターの冴羽獠みたいなカッコイイスケベ主人公も今はもう全然見ないし
常時オッパイマンコで頭いっぱいなハズの今のキモオタ文化のトレンドなんか、セックスとか別に…な男主人公に発情した美少女が群がる系で、完全に自分の性欲を美少女に押し付けて誤魔化してるし
男性巡査長 信号無視、借金、勤務中に馬券購入で分限免職「両津勘吉みたいなやつだ」の声も https://news.livedoor.com/article/detail/19945368/
「オレはナニを見せられたんだ…」と思って映画館から出て来た。
ネット上の反応を見てると、絶賛している人が多くて不思議なので、自分の感想を書きたい。
そもそも、原作の漫画「映画大好きポンポさん」のテーマは何か。
ディーン監督、ミスティアさん、フランちゃん…の「ものを作りたい」「何者かになりたい」という「エゴ」がこの作品の肝だと。
「2」でポンポさんが披露した創作術を使って、「舞台×感情」で考えるなら、「映画界×エゴ」が、原作「ポンポさん」の「土台」だろう。
その「創作者のエゴ」を一番象徴するシーンが、ラストの「90分というところですかね」だったはず。
「大作感を出すため序盤はたっぷり…」と編集を始めたディーン監督は、「いや…」と思いとどまり、先輩監督の「その映画を見てもらいたい誰かのため作れば良いんだ」という言葉を思い出す。
そして、最後のシーンに繋がる。ディーン監督は、「大作感」を出すのを止めて、「ポンポさんただ一人のために作る」という「エゴ」で映画を作った。
にもかかわらず、そこの意味を完全に消してしまったのが、映画のオリジナルパート。
本来のテーマと正反対の「観客のために作る」なんてものを入れ込んで来やがった。
先輩監督の「誰か1人のために作る」の回想シーンすらなくして、「90分」の意味も希薄化させてしまった。
なんだったんだ、あれは。
さて。話は変わって。
「映画界×エゴ」が土台である原作の中で、ポンポさんという人物はどういう存在であるか。
彼女には、創作者としての「エゴ」はない。そういう意味で、主人公ではない。
この作品は、デフォルメした絵柄や、「ニャリウッド」というふざけた名前に反して、リアリティラインは、極めて現実に近い側にある。
そんな中で、唯一、現実から解離しているのが、"ポンポさん"の存在。
創作の王道として「大きな嘘は一つだけ」というのがある。自分は、この作品では、それが、”ポンポさん”だと思う。
「現実的に描かれた映画界に舞い降りた大きな嘘」、それが、"ポンポさん"。
ディーン監督らの「才能とエゴを持った創作者」が、"ポンポさん"="映画を作る環境のすべてを与えてくれる無敵超人"に出会ったときに、何が生まれるか。
だから、ポンポさんには不可能はあってはいけない。いや、何らかの壁にぶちあたるのは良いが、それなりに納得感のある理由を付けないとだめ。
ドラえもんだって、大長編では行き詰まることはあったけど、理由が付いていたはず。
たかが(!)、追加撮影ごときで、壁にぶち当たるのは、「大きな嘘」である彼女にはふさわしくない。
そう思うと、映画版のオリジナルパートは、ポンポさんのリアリティライン(無敵超人という「大きな嘘」)と作品自体のリアリティライン(極めて現実より)のどっちつかずの変な話になってる。
アラン君の解決策は、作品全体のリアリティラインを満たすほど現実的では無いし、ポンポさんほど超人的ではない。
「ドラえもんが、なぜか簡単に銀行強盗の人質に取られる。そこへ両津勘吉が乱入して銃を撃って解決」みたいな話になってしまっている。
なんだったんだ、あれは。
あ、あと、
両津勘吉「・・・そうだろ、これが都会の無関心てヤツよ」テキトー