はてなキーワード: 寡聞とは
「生成AIによる民主化」を叫ぶパブコメが公開されて話題を呼び、「それは民主化ではなく共産化」という理解が急速に形成されている。この「民主化」という概念は何も9段の人物が考え出したものではなく、海外の生成AI議論、特にイラスト関連の議論では頻出の概念であり何らかの生成AI推進過激派の共通認識だが、一方で「共産化」は少なくとも増田は寡聞にして知らぬ。では、この「才能」の「民主化」とは何なのか? 恐らく国内で理解されている形では「極一部の『絵師』と呼ばれる特権階級が、生まれながらに持っている、『絵』を生成する技術」を「広く一般が使えるようにする」こと、だろう。
Financialization(金融化)という概念がある。1980年代から汎ゆるものを金銭的価値に換算する動きが加速し、万物が通貨によって交換できるようになる一方で、金融分野に加速度的に富が集中するようになってしまったとか、そんなような話だ。まあ安っぽいネオリベラリズム批判の一種と思って構わないが、このあらゆるものを金銭的価値と拡大の速度、加速度で考えるというプロ倫の延長線上にある思想は米国では広く一般に浸透している。
だから二次元業界も当然この金融化の対象として、森羅万象を四半期指標の伸びとして変換すべしという思想の中で解釈される。このものは素晴らしい、だから儲けを加速しなければならない、という自然な発想がある。二次元イラスト業界を金銭的な側面で発展させようという試みは、2010年代を通じて諸外国で繰り返されてきた。無断転載で客を集めた後、批判を浴びて版権元と交渉しようとした漫画村事件もその一部だし、同人誌の代理購入や転売が行われたり、無断翻訳グループや各種の転載サイトの有料サブスクが販売されたりとか、仮想通貨イラスト作家を巻き込む動きも見られたし、画像ファイルを集めて転売するとか、無料の3Dデータを改造して勝手に売るとか、あるいは無料で転載して名を上げるとか、色々な試みがあった。個々の作家に対してあなたの作品はもっとビッグな儲けに繋がる、価格を上げるべきだ、販売数を増やすべきだ、出版が難しければ顔だって繋ぐ、といったオファーが野放図に撃たれることもあった。
そのいずれにも日本の漫画業界、イラスト作家コミュニティは乗らなかった。日本は強固な「非営利の業界」を維持してきた。
日本人は日本の二次元業界が作り出すソフトパワーをまったく過小評価している。増田はある時、海外のイラストレーターが何だかのソフトの互換性問題で揉めている所を見たことがある。PSDはPhotoshopから出力されるとは限らない、俺はKritaを使っているし現場によってはCSPを使っているとか、どうだかだった。お前らはCSPが何のことか分かるか? Clip Studio Paintだ。増田にとってこれはちょっとした衝撃だった。まったくのサプライズド・ピカチュウだ。分かるか? 国産商用ソフトウェアがイラスト制作ソフトの世界的御三家の一角を固めていて、Adobeが三位なんだぞ。「日本にはジョブズが生まれない」?「日本製のソフトは通用しない」? いや、増田自身、普段はこれを言う方なのだが、それでもだ。かつてはbukkakeが世界一有名な日本語だとか、不名誉で恥ずかしいとか言われたものだが、今では所によってはblack company、mesugaki、menhera moveですら通じる(最後はどこかの初号機の貢献だ)。
そして、この継続的に世界に投射される存在感、その非営利思想(と、その裏でちゃんと行われているアニメやガチャゲー課金としての回収)は、思想的に原理主義的な低位のレイヤーにおいて、世界的に反発と軋轢を生み続けているのだ。
もう一つ説明すべきことがある。共産化とは何なのか? 帝政ロシア末期のそれにしろ、中国のそれにしろ、共産主義革命とは、力を持たない民衆が団結し、腐りきった既存の体制を打破し、特権階級が貪る既得権益を破壊し、人民に還元する、という建前で行われる営為だ。実際にはこの「特権階級」は中流層以下を指し、既得権益とは単に日常生活を指す、ということはまともな人間なら皆知っているだろう。高級な壺を割り水道を破壊し公共施設を打ち壊し電線を鋳潰し、全てを焼き払ってゴミにするのが共産化、共産主義革命である。社会を破壊して所有の概念を、いや「社会」と「モノ」という概念の終了を目指すのが共産主義である。
この「才能の民主化」と「それは共産化である」という批判はこれらを踏まえて解釈されなければならない。
「民主化」による恩恵を得るのはお前らではない。「お前ら」というのはブクマカや増田のような言葉を持つ人間だけに限ったものではない。日本人ではない。ここまで書いてきたように、いま、諸外国には、日本(または中韓台を含む極東アジア)人は二次元イラスト業界で特権的な地位を得、極端なダンピングと異常な反成長主義を敷いている、という怒りがある。その怒りの文脈において、日本人は全て二次元の絵を生成し享受できる特権階級であり、才能の共産主義革命において虐殺される対象である。⑨段のパブコメを書いた「生まれつき手が震えて線が引けない」者など同情に値するわけがない。絵の金融化、イラスト市場の資本主義的成長を阻害してきた旧来体制を賛美する、唾棄すべき特権階級である。ポル・ポト政権の新国家建設の呼びかけに喜び勇んでカンボジアへ舞い戻り人民裁判に掛けられ次々と虐殺された出稼ぎ労働者たちそのものの姿だ。
そしてその方法として、生成AI推進派たちは、Danbooruに(善意で)集積されたイラストを圧縮汎化させ任意に混ぜ合わせ薄めて取り出せるようにする。そのデータを配布し有象無象が使えるようにする。LoRAにより「絵柄」の神秘性を破壊し再現できるようにする。それらすべてはコンピュータの利用を強制して非属人的に実行されることで金銭的価値に還元される。
だからあれは共産化なのだ。だから「生成AIを規制するならば二次創作も規制しろ」なのだ。つまるところ「生成AIによる才能の民主化」の指すものは、金銭的価値への還元を断固として受け入れない二次元イラスト市場の破壊そのものなのだ。文化庁の連中が考えているような「『民主化』による、日本国内の広く一般の者への価値の還元」は発生しない。民主化AIで生産性を飛躍的に向上させたクリエイターの活躍などない。ソ連にまともな戦闘機がなかったようなものだ。仮にこれが「還元」だとするならば、起こるのはちょうど紙を高濃度の過酸化水素水で炎とガスに分解するような「還元」だ。「パブコメの知能が低すぎて困る」とかボヤいている場合ではない。それほどの、あえていえば低知能のもの、が反対一色に染まってパブリックコメントを送ってきているとはどういうことか? 実害を被っているのに他ならないではないか。
この話のオチは、恐らく「生成AIによる才能の民主化」が実際にこのまま進んだとて、著作権法がAIウォッシング無罪を規定したとて、それは絵の価値が下がるという一過性の日本の純損失であって、別に日本的なイラスト創作文化への参入が海外享受者たちに認められるわけではないだろうことだ。Twitter上でも指摘されていたが、AIに点滅するカレットを与えられないから絵が造れないなどという者はいないのだ。完璧な絵をプロンプトで定義できると言うならばしてみるがいい。いや、Twitter上でもなんでもいい、人は文字が読めるのだから、完璧な絵の定義を書けばそれは作品なのだ。件の人物が長々とコメントを書き、そしてバズりを作り出したように。
飽きた。ここで投げる事にする。ナガノのくまを讃えよ。
他の動物に対して、不快だから殺す、食べたいから殺す、ペットにしたいから生かす。人間はこれを当たり前にやっているし、それを問題視する社会を私は寡聞にして知らない。
ジャイナ教徒、仏教徒、菜食主義者の一部等は不殺生主義なのだろうけど、人類全体の中では少数派だ。それにしたって、動物は食べてはダメだけど植物はOKなどと、やはり命を等価とはみなしていない節がある。
「個々の生き物の命は等価ではない。ただし、無駄に自由を奪ったり、無駄に苦痛を与えたり、無駄に殺したりすることは慎みましょう。」一般人としてはこんな規範を持っていれば十分だろう。
子供がペットを飼いたいと言うのなら、その動物に対して無駄に自由を奪ったり、苦痛を与えたり、殺したりすることになってしまわないか?ペットとする動物にとっての自由や苦痛とはどんなものか?を思いやり、それらに配慮しながらその動物が死ぬまで面倒を見られるのか?と子供には問うべきだ。実際にペットを飼った場合は、親は子供が左記の責任を果たせるよう導いていき、万一子供がその責任を放棄した場合は親が代わってその責任を果たすのが子に対する教育だと思う。
ネタバレ注意!
この物語の基本的な原理は次の通りだ。「宇宙の資源は有限である。しかしすべての文明は成長し・生き残りたい。よって、自分が生き残るためには相手を皆殺しにしていい。さもなくば相手に殺される」。そこから出てくる結論は「相手の位置がわかったら即座に抹殺するのが最適解」。「相手と対等の立場に立って交渉するには、いつでも相手の文明の座標を全宇宙に晒す装置を作ればいい」。
これが適用されるのは地球人対エイリアン・三体人だけではない。宇宙戦争ののち、孤立した地球人の宇宙船同士も相互不信に陥り、突然殺し合いを始める。この原理原則に例外はない。
どうしても攻撃したくなければ、相手の脅威にならないと示すため、限定された空間の中に引きこもるしかない。
エイリアンのたった一つの水滴という兵器に、地球の最強の兵器であってもまったく歯が立たない。あるいは、エイリアンが数百年の偽りの平和ののち、地球人を何の共感もなくジェノサイドする・餓死させることを宣告する場面。主要なキャラであっても容赦なく殺してしまう命の軽さ。無意味に死んでいく人々。愛し合うカップルであっても、異なる早さの時間に引き裂かれる。この絶望感こそが本作の醍醐味だ。
さらに、地球人の文明が通りすがりの三体人とは別のエイリアンの作った名刺大の兵器で、三次元から二次元の物理世界に落とされて再起不能になるまで破壊されるシーン、これは最も美しく壮絶な太陽系・人類滅亡の場面だ。これを読むためだけに「三体」を買うだけの値打ちがある。
それだけではない、現在の宇宙が四次元時空で光速が有限なのも、本来は十次元で光速無限だった世界が、宇宙戦争で使われた次元兵器による「堕落」の結果だと示唆される。感動的なまでの悲観主義!
宇宙戦艦、超兵器、エイリアン、コールドスリープ、超構造体(メガストラクチャー)、ネトゲなど、絵になる風景ばかりだ。確かにSF的モチーフを大量に詰め込むと粗削りになりがちなので、作品によっては一つに絞ったほうがいいと思うこともあるんだけど、これはいい。
これは欧米のSFではほとんど見られない。中国が扱われるとしたら古代文明の謎であるとか、悪の共産主義陣営とかで出てくることが多いので、まず中国が舞台であるというのが新鮮だ。始皇帝とか荊軻とかいう名前が出てくるだけでもうれしい。中国から見た日本文化ってのも、なかなか見られないから楽しい(ケン・リュウも書いているけどね。あと、中国人からしても日本と言えばカミカゼと忍者と茶道なのね。あとは雀魂とか)。
関係ないけど、英語版のウィキペディアは概して日本よりも記事が多いし細かいことが書いてあるが、中国の歴史については日本語版のほうに一日の長があることもある。
あと、文化大革命が背景になる中国の小説とか映画とかって、面白いのが多い。
クラークとか小松左京とかじゃないとやらないくらいの発想がぽんぽん出てくるのが素晴らしい。
SFはリアルさを求めて、技術革命とそれによる社会の変化を描くこともあるし、現実の社会問題に肉薄することもある。雑食の僕はそれはそれで面白くて大好きなんだけど、定期的にSFのルーツにある「人類の、そして宇宙の終局的な運命とは」「不可解なるエイリアンとの出会い」みたいなテーマの作品をどうしても読みたくなる。
第一部でエイリアンの軍勢を地球に呼び寄せてしまうのは人類に絶望した女性科学者・葉文潔だ。「いっそ愚かな私たちを滅ぼしてくれ」と宣言してしまう。第二部ではエイリアンに対抗するために地球の資源を使い放題にしていいと許可された「面壁者」羅輯が、どうすればいいかわからずに、かわいいだけの理想の妻を求める(一緒に問題を考えるパートナーではない!)。さらに、第三部ではエイリアンと和解した人類が、数百年の平和を経て穏やかになっており、「日本や韓国のアイドルのように」「女性化」していると描写される(前に「原神」のキャラとか”男らしくない”俳優とか実際に規制されてたよね)。
そして、コールドスリープから目覚めた主人公の女性・程心もエイリアンの文明を破壊するための報復装置を、弱気さから起動し損なう(これがさっき述べたエイリアンによる人類のジェノサイド宣言につながる)。
同時にコールドスリープしていた軍人は「この社会はもっと雄々しくあるべきだ」という趣旨のマッチョなことを述べる。2010年のSFだけどこれでいいのか。このシリーズを普通に面白いと褒めていいのかオバマさん。僕はジェンダー意識がかなり保守的なほうだと自覚してるけど、これはちょっと弁護できないな(というかこれだけ女性の扱いが悪いと、作者には過去につらいことがあったのか? って心配になる ※1)。
さらに、第三部の主人公・程心は、使者として脳だけになってエイリアン文明に入り込んだ恋人・雲天明が、エイリアン文明の中枢から伝えてきた、人類文明を救うための暗号化されたメッセージを解読し損ない、これも人類滅亡の遠因となる。
つまり人類の滅亡の契機は、ほぼすべて女性に起因している(いずれエイリアンに見つかっただろうけれども、直接の契機は女性)。寡聞にして、この点を検討している評論を見かけていないけれど、ググればどっかにあると思う。
三部作全部ドラマ化するとしたら、この辺テコ入れされるんじゃないかな。
※1 同じ心配をしているのが「たんぽぽ娘」のロバート・F・ヤングで、若くてかわいらしい女の子といちゃつく小説がやたらと多い一方で、「ジョナサンと宇宙クジラ」では年上の女性たちや・女性の上司に日常的に暴力を振るわれている描写がある。成熟した女性に対する嫌悪と恐れを読み取ってしまうのは、気のせいだろうか。
エイリアンとの戦争に勝つためにはどうすればいいかと軍人が議論する中で「エイリアンに負けるかもしれないという精神的敗北者を追放する」「エイリアンのシンパ・スパイを排除する」という結論が出てくるの、なんというか現実の中国共産党の発想なんだけど、エイリアンに対してこういう態度を取るのは欧米だと冷戦時代のSFが多い(この前のホーガンとかね。でもホーガンは「未来からのホットライン」が面白いよ。「シン・エヴァ」の元ネタだし)。なんというか、「三体」が悪いというより、中国政府がいまだにスパイ大作戦な冷戦の世界観で世界を見ているという感覚が生々しく伝わってきて幾分げんなりする。マジで共産党が「最善の防御は皆殺し」とか考えていませんよーに。さっきの女性の扱いと含めて、数十年前のSFを読んでいる気分になってしまった。
第一部からエイリアンの超粒子で地球文明が監視されて物理学の発展が阻害されるんだけど、これも敵のスパイに見られているという被害妄想的な感じがする。
深読みすれば、共産党に監視されている国民の恐怖・心象風景なのかもしれないけどね。
SFってのはある程度ブラフが必要で、トンチキな場面も出てくるんだけど(それをどうやって読者に悟らせないかが仮定の文学であるSFのテクニック)、たとえば第一部で地球文明を隅々まで監視できるだけの技術文明を、地球のナノワイヤで倒せるってのは、ちょっと無理があるんじゃないか?(追記。せめて向こうでナノテクが発展していないエクスキューズがほしいよね)
人類に対して敵意を持っている宇宙の中での、人類の行く末について最後まで描き切った蛮勇がとても好き。三部作の壮大さのおかげで、隠せない欠陥にもかかわらずこの作品を気に入ってしまっている。第一部よりも第二部、第三部の順で面白くなっているのもいい。自分の中では★二つから★四つ半くらいまで評価が上がっていった。作家として器が大きくなったって感じたよ。
ラストの逃避にも似た、小さな農園を備えた小宇宙も、中国の伝統的美意識・神仙思想・隠遁に繋がっていていい。美意識が共有できると嬉しいよね。
全体として思ったのは「これって炒飯とラーメンと餃子の特盛セットじゃん」ってことだった。みんながSFと聞いて思いつくネタをがっつり取り込んでいる。読んだSFの冊数が増えると、青椒肉絲とか麻婆豆腐とか黒酢酢豚とか、燕のスープとかフカヒレとかいろいろあるのがわかってくるし、全部乗せを馬鹿にしたくなる気持ちも出てくるけど、なんだかんだで小さい頃に食べた大味な全部セットが無性に食べたい日もある。
時々どうしても受け入れられない価値観に出会うこともあるけれど、なぜそう考えるようになったのか? なぜ自分は不快と感じるのか? と考えると、共感的に理解できるかもしれない。少なくとも自分の価値観があぶり出される。
過去は批判し、そのうえで現代をよりよくしていこうと思うが、だからといって過去を見くだしたいとは思わない。好きなところ、好きになれないところ、両方を検討するのは楽しい作業だ。
本を読んだときはたった一つの気に入った言葉があればいい。映画を観たときは一つでも好きな場面を見つけられたら良しとする。美術展に出かけたら、一枚だけでも気に入った絵があれば外に出た甲斐がある。
こうして欠点もあるけれども面白かった作品について書いてみて、「もういいや」って思ってた外伝にも、手を出したくなってきた。
それではまた。
「三体」人気すごいなあ。久しぶりにバズったよ。
これは外国文学を読むときの鬼門で、自分は三国志にゲームとか小説とかで親しんでたからなんとかなったけど、そうでないとしんどいかも。
おすすめのロシア文学もなかなか読んでもらえないのもこの辺りに理由がある。
基本的にはメモしたり声に出したりしてその国の言葉のリズムに慣れるのがおすすめ。マニアになってくるとジョンとヨハネとイワンが同じ起源だとか気にし出すけど、これが通用するのはアラブ世界までだしね。
SFじゃないのも含むけど、
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あとは、
これはちょっと思った。原初のSFにある奔放な想像力、よくそんなネタ思いついたな! みたいなのがたくさんあるのが「三体」のいいところ。
で、それがモヤモヤする理由でもある。SFが洗練されてくると科学的正確さとか政治性とかを無視するわけにはいかなくなる。自分と異なった属性に対して誤った知識が広まらないよう、表現にルールがあるのは大切だと信じる一方、気持ちの面では想像力が羽ばたくのを少しも邪魔されたくない自分もいる。だから、反発する人の気持ちもわかる。
なので、正確性とかに気をつかったSFに慣れた身からすると「こんな粗削りでもウケるんだ! 売れるんだ!」という意外さと、先を越された悔しさがある。だから、元増田みたいにSFの外にまで広がった作品を「センスがない」とディスりたくなるのかも。
でも、僕も最初はそういう作品から読み始めたわけだし、重箱の隅をつつくような外れ値の古参よりも、作品を買ってくれる新しいファンがどんどん増えたほうがジャンルは育っていくし、若いファンは「にわか」呼ばわりするのを恐れずどしどし読んでほしい。
そういえば第三部でアボリジニのおっちゃんが出てくるけど、欧米の作品だったらもっと白人文化に対して批判的だっただろうし、なんだったら三体人に押さえつけられるときにももっと痛烈な言葉をはかせていただろうな。より強い文明と出会ったことによる悲劇のメタファーとしては扱いが若干雑だ。
以上。
自尊心として使っている例を寡聞にして知らない。見かけるプライドの使い方ってほぼ全部「虚栄心」なんだよ。
よく見る使用例)
・プライドが傷ついた
自分を尊んでいるなら傷云々はないだろ。持つ持たないだろ?内面的心情や評価を表しているんだからさ。
・彼はプライドが高い
自らをどう評価しているか尊いものだと感じているかどうかを外から測れるか?近いのは自己肯定感とか自己評価であって、ちゃんとその意味で使われている例をまず見かけない。
正誤表)
✕「彼はプライドが高いから指摘すると不機嫌になるよ」 → 他人に(無条件に?)尊重されたい。外から見るとある意味みっともない、むしろ悪い意味で使われる。
◯「私はプライドを持っているので、自分の仕事に手を抜かないんだ。」 → 自らに恥ずかしい行いをしたくない。内面的な尊厳を保とうとする心。本来いい意味だ。
結論)
「人からよく見られたい、バカにされたくない下に見られたくない、他人に尊敬されたい願望が強い」=つまり「虚栄心」の意味で使ってる人がほとんどだと思う。
補足)
矜持って言葉が本来のプライドの和訳なんじゃないかと思う。いつの間に自尊心なんて誤訳、なんなら逆の和訳が定着してしまったのか。それとも「自尊心」の日本語に対する自分の理解不足だろうか。「自」分が他人からめっちゃ「尊」いと思われていたい「心」、願望、気持ち。の略だったりするのか?
私はスポーツガチ勢ではないが、夏は毎日スポーツウェアを着用している。
具体的には、上はサッカー用のプラクティスシャツ、下は陸上用のスパッツ+薄い短パンを履いて生活している。
理由としては、それらが吸汗性・速乾性に優れ、ものによっては冷感まで感じることができ、湿気多い夏を少しは快適に過ごせるからだ。
また、単純にかっこいいというのもある。スポーツウェアは原色中心の色彩が強めであり、暑さで凹んだ気分が少しはアガる。
これも夏を乗り切るのに重要なことだ。
でも、スポーツウェアを非スポーツの場面で、特に暑さ対策として着用するという習慣を寡聞にして存じ上げない。
なので、世の中でもっと流行ると良いと思い、増田で提唱してみる。
今は、世の中に定着していないので、この格好で外に出るには、(本当に運動しようとしているとき以外)やや抵抗がある。
でも、本当に快適なので、個人的には普段のお出かけでもスポーツウェアの着用が進んでいけばよいのにと思う。
炎天下で暑い暑いと声をあげる人を見るたびに、夏のスポーツウェアが、ジャージズボンくらい気軽な普段着として定着すればいいのにと思っている。
(神戸増田を受けて追記) あえてケーキ屋のパンということなら、京都のアッサンブラージュカキモトで売っているパンも端正でバランスが取れており良いと思っている (下に主にケーキについての詳細有り、パンについても感想は割と被る)。回想に書いた店はもうパンは出さないだろう……
ここやここやここにパンに詳しい増田たちが集まっていると見込んで質問がある。
色々なところに必死に顔を出して済まない。
マニアックで申し訳ないのだが、こういう食パンはどこで食べられる?
東西どちらにも行けるんで、教えて欲しい。ずっと探している。
外側(みみ部分)も内側(白い部分)も、しっかりとバターの味がすると嬉しい。
出回っている食パンは、高級食パンを含めても、バターの香りが立ってこないものが大多数だと思う。
外側が分厚くてハードだと嬉しい。
ただしフランスパンの外側のようなパリパリ感ではなく、しっかりバターを効かせているためにガリガリの重めの食感の外側が作られているような感じ。
最近の流行りと逆行しているのはわかっているが、こういうのが好みなんだ!
そう、なので自分が求めているのはマニアックな食パンなんだよな。発酵バターの香りが立ち、綺麗な四角に整形されたクラストが硬い食パン。クラスト部分はバターを使っている影響で少しデニッシュ感を感じさせるもののデニッシュよりバター量が少ないため硬くしっかりとしているような。一方であくまで食パンのフォーマットに留まっており、内側の白い部分はきめ細かく滑らかで、典型的なデニッシュのように生地を織り込んだ形跡がない。そういう食パン。
たま木亭
ありがとう、京都ではあそこも美味しい。生地にもフィリングにも相当量の油分を使っている上で小麦粉をしっかり焼き上げている。しかもボリュームに比して安い!日本の惣菜パンの最上位クラスではないかと目している。
ル・ペール、寡聞にして存じ上げなかった。人生の中からあの味が消えてしまったという哀しさ、よくわかる。
この辺は行ってぶらつく楽しみが多くて嬉しい。
それで大丈夫です!
上では綺麗に四角と書いたような気がしたが、金型に蓋を載せず山型に膨らませているようなタイプでも、こういう食パンがあるなら大歓迎です!!
塩パン
すみません、バターを使った塩パンは好きだが、求めているものとは違う。ハード系の店であっても、多くの場合、外側が薄いかふわっとして硬くない(パン外側の皮自体にバターの美味しさを効かせているというより、中の生地に閉じ込めたバターを強調している)ケースが多いように思う。
ただ、複数の方が連想して下さっているようなので敢えて塩パンと関連させて言うならば、よく焼かれて皮が厚いタイプの塩パンの、オーブン天板と接触する面(下側)の、バターが効いてかつガリっと硬い感じを想像して欲しい。そこからさらに食パン向けに洗練された感じの外側(みみ)を持つ、そういった感じの食パンを知っていれば教えてくれると嬉しい。
グリーンサムの「イエローブレッド」か、パンとエスプレッソの「ムー」とか?いずれも皮ガリガリではないので、家でトーストして食べたら希望と近い食感になるかも。かまぱんの食パンもバターのせたら近いかも。
食べに行くか取り寄せる!!!
聞いてみて本当に良かったよ。
https://www.bread-espresso.jp/
皆に紹介されているパン屋の中では、JR京都駅構内のル・プチメックが非常に行きやすいし美味いよ。是非寄って食べ歩いてみて欲しい。
あとは京都のアルチザナルも良かった記憶がある。アルチザナルを紹介した増田はデニッシュ系が好きなようだが、自分はハード系の惣菜パンが好みだった。特にソーセージを使ったパンとチーズのパン。おそらくソーセージとチーズにかなり拘っている。ソーセージは汁と油が溢れて香味が立ち、チーズは惣菜パンにありがちな悪い癖がない味で香ばしい。あれは美味かった。
(追記) 東京のおすすめありがとう。s.igarashiとブーランジェリー セイジアサクラは是非行ってみたい。期待大。
京都繋がりだと、京都のケーキ屋では、パティスリータンドレスとアッサンブラージュカキモトが本当に美味い。皆美味いと思うらしく食べログでも日本で上位。
パティスリータンドレスは上品で優美な味で、特に複数の味を重ねて束ねる系のケーキが非常に美味いと思う。スパイス使いも上手い。寄りづらい立地だが、Twitterでその日のケーキと現在店頭に並んでいる数をアナウンスしている。
アッサンブラージュカキモトはとにかく磨き抜かれた味がする。見た目も格調高く美しい現代のケーキ。シェフがショコラティエでもあるのでチョコレート系が美味いが、それ以外も相当に洗練されている。こちらは比較的寄りやすい立地。
なお、上記の自分の食パンの好みを形作った店は、フランス系の味のケーキ屋で、パンも一時期作っていた。そのパンの一つがこの食パン。その店ではフランス風にパンドゥミと呼んでいた。ただ、この店、おそらく人手不足でパンを出さなくなって久しかったところに、現在、店主のご都合で一時閉店中なので、店名は出さない。もう今後パンを出してくれることは無いだろう。
そこは、生菓子も焼き菓子もバターやクリームをどっしり効かせた硬派な味が特徴で、長く続く人気店だった。いや菓子に硬派も何もあるかよと思うかもしれないが、行った人もネット上のレビューもそう評する。バターをしっかり効かせると菓子の味が重くなるんだけどそういう感じのイメージ。さらに生地の密度がふわふわ柔らかくなくずっしりしている。それでいて"バタ臭い""油っぽい"には陥らず、果物の酸味や、香辛料やお酒や焦がしのフレーバーで、強いバランスを取っていた。
そんな感じだったもので、最近流行りの繊細な菓子という訳ではなかったが。デコレーションも凝っていなかったし。
ああ美味かったなあ……
寡聞にして知らんが、例えば?
黒人女優を起用したリトルマーメイドが性懲りも無く物議を醸している。
米国では某ネズミの会社を筆頭として、数年前から多種多様な人種を起用した映画作品の展開が続いており、しばしばファンの間で話題になっているが、中でも既存キャラクターの人種を変える今回のようなパターンでは特に炎上や揶揄が起きやすい。
しかもそういった取組がその人種から支持を得られているかというとそう単純な話でもないようで、ゼンデイヤの「私は白人ウケの良い黒人」発言にあるように、見た目上で人種の置き換えを行なったところで、民族性は無視されている、ゆえにポリコレとしては片手落ちであるというメンドクサイ議論もあちらでは巻き起こっているらしい。(まぁハリウッド映画で散々コレジャナイ日本人を見ているので気持ちは分からんでもない)
ブラックパンサーが大ヒットしたように、最初からエスニシティを前面に押し出したキャラクターないしヒーローを新たに打ち出せばいいようにも思えるが、どういうわけかアメリカという国はキャラクターコンテンツの新陳代謝が悪く、ディズニーのようなクラシックからアメコミのようなサブカルまで、何十年も同じキャラを擦るという特性がある。(というかブラックパンサーも60年台から擦られ続けている)
加えて、さまざまなインタビューを見るに、どうもあちらの女性には「◯◯姫になれなかった」ルサンチマンがあるらしい。リトルマーメイドで言えば、肌の色ゆえにアリエルになることを諦めた少女達がいるというわけだ。それは確かに良いことではないが、そもそもプリンセスという古い類型に囚われる必要もないのではないか、という方向性の議論は寡聞にして知らない。なぜならアメリカのコンテンツは古典があまりにも強すぎて、新しいキャラクターが生まれてもヒットするのはごく限られた一部しかなく、よって過去に目を向けるしかないわけである。
①古典が強すぎる環境、②プリンセス•ルサンチマンという2つの要素が組み合わさることにより、「じゃあ人気のある既存キャラクターの人種を変えよう!」という判断を下しているのが今のアメリカにおけるエンタメジャイアント達なわけであるが、これは結局のところ古典を別な方向から強化しているだけで、今この時の自分達を肯定するメッセージとは似て非なるモノだ。
ようするに現在主流のポリコレというやつは同じ理想像の再生産をしているだけであり、全ての人種でリトルマーメイドの映画を作れないように持続性がないのである。
そういえば、一日に一冊本を読むを習慣づけている、というのがホットエントリに入っていたよね。
でも、大抵の人は「本を読む行為」にとても高いハードルを設けてしまう。
これは、とても不思議なことだ。
なにが、これほど「本」というものへの抵抗感へとつながるのか?
決して時間がないわけではないと思う。
そりゃ学生時代とかに比べれば、一日の余暇というものは著しく減少している。
それでも「簡単なこと」に費やしている時間はそれなりにあるのだ。
簡単なこと、というのはSNS、web、漫画、ゲーム、TikTokとか人によりけりだけど、
その時間を読書に割り当てれば、それなりの読書量になることは間違いないだろう。
そして重要なのは、今やっている「簡単なこと」というのはジャンクフードのように栄養分が少ないのは自覚しているのだ。
それと比して読書はとても栄養価の高いものだ、と単純に断言してもいいのかどうかはわからないが、
少なくとも読書量が少ないことに引け目を感じる人はそんなふうに感じているのだ。
それでも読書をすることが出来ない。
この人間のやらなければいけない、と感じていることへのハードル感を克服することこそが自己啓発書の存在意義だと思うのだが寡聞にしてそれに成功している書物の存在を知らない。
アラフィフの自分はタイのドラマにハマっている。俳優のファンミーティングなどのイベントに参加すると、ギブアウェイという、ちょっとしたものをファン同士が交換したり、プレゼントをする文化がある。寡聞にして存ぜずK-popから流入した文化らしいのだが、出会うタイドラマファンの年齢層は同世代か少し上であることが多いためか気になることがある。
ギブアウェイはお菓子だったり自作のグッズだったり様々なのだが、貰ったものは全て捨てていることを告白する。
お菓子は、包み紙に俳優の写真が入ったチロルチョコであったり、数種類のお菓子を小分けにラッピングされたりしているのだが、衛生管理してない人が触ったと思うと食べる気がしない。コロナに罹患した時に辛すぎたので、口にいれるものは敏感になりすぎてるせいかもしれないが、飴やチョコなど開けて舐めて戻してもわからない包装のものもあり、より分けるのが面倒で全て捨てている。
自作のグッズは、前述のチロルチョコやポストカードやキーホルダーなど様々なのだが、ほとんどが著作権を考慮していないので所持していたくなくて捨てている。スタイリストが関わった衣装や、デザイナーが関わったロゴや、商標登録している文言を使わず、自分でイラストを描いたポストカードを自宅で印刷するならまだ良いが、より分けるのが面倒で全て捨てている。
他人の権利に抵触しているものを貰うたびに苦々しい気持ちになるが、イベントは楽しむためにお金を払って参加しているので極力面倒を起こさないために断ったり注意はせず頂く時は普通に貰ってはいる。話しかけるきっかけとしてのギブアウェイだと思うが、むしろモラルに欠ける人なのだと判断材料になってしまっているのが本音だ。
このエントリーを読んで自作グッズの境界線に不安を覚える人は、もうギブアウェイは作らない方が会話がはずむ人数は増えるかと思う。これは自戒だが問題があったとしても私たちの年代を相手にその場で丁寧に注意したり教えてくれる人はおらず、曖昧に微笑んで去っていかれるのだ。
斉藤章佳
大船榎本クリニック精神保健福祉部長。1979年生まれ。大学卒業後、アジア最大規模と言われる依存症回復施設の榎本クリニックでソーシャルワーカーとして、長年にわたってアルコール依存症をはじめギャンブル・薬物・性犯罪・DV・窃盗症などさまざまな依存症問題に携わる。専門は加害者臨床で、現在までに2000人以上の性犯罪者の治療に関わる。主な著書に『男が痴漢になる理由』『万引き依存症』(ともにイースト・プレス)、『「小児性愛」という病 それは、愛ではない』(ブックマン社)、『しくじらない飲み方 酒に逃げずに生きるには』(集英社)、『セックス依存症』(幻冬舎新書)、監修に漫画『セックス依存症になりました。』(津島隆太・作、集英社)がある。
https://president.jp/list/author/%E6%96%89%E8%97%A4%20%E7%AB%A0%E4%BD%B3
理由1
肩書からわかるようにソーシャルワーカーで、心理学者でも医者でもない。したがって犯罪者の心理は個人の見解に過ぎない
理由2
彼は論文を書いた形跡がない。男が痴漢になる理由も査読を経ておらず、マスコミやフェミが取り上げること自体がおかしい。
理由3
そもそも500人の性犯罪者に接したエビデンスが全くない。統計もなにもない。不自然。
https://twitter.com/stella_portman/status/1615969513975214081
koh.mayama
@stella_portman
こんな方が日本にいらしたとは!
日本では、医師でも学者でもない斉藤章佳氏が500人の性犯罪者と臨床現場で接して抱いた感想を元に「ポルノが性犯罪を招く」と主張した本が幅を利かせてます。
これがポルノや表現規制者のバイブルとして扱われており頭を抱えてます。
原田隆之
@tk_harada_tk
8時間
私はオクスフォード大学から出ているAddiction Medicineという依存症の専門書の強迫的性行動症とポルノの章を執筆していますが、ポルノが強迫的性行動症を招くという説、寡聞にして聞いたことがありません。 twitter.com/fujitatakanori…
理由3
彼が言っているのは偏見で印象論。
@Koiramako
斉藤章佳さんインタビューから《日本は、性売買の買い手が優遇されている社会です。買い手側のことを研究している人は、ほとんど私は知りません。なぜ、男は女を買うのか、を考えるとき、買い手は加害者、売り手は被害者という新しい捉え方ができます》→
原田隆之
@tk_harada_tk
私はオクスフォード大学から出ているAddiction Medicineという依存症の専門書の強迫的性行動症とポルノの章を執筆していますが、ポルノが強迫的性行動症を招くという説、寡聞にして聞いたことがありません。
@fujitatakanori
@fujitatakanori
ポルノは強迫的性行動症や様々な精神疾患を招き、害悪性が指摘されています。
本人がやりたいからやらせろ、という時代ではなく、社会問題として縮小する議論をしたらいいと思います。
産業規制、総需要が減少したら、過去の炭鉱労働者同様に、職業訓練、生業支援、生活保護を受ければいいのです。
あおちゃんぺ🐯🍼
@aochanp
繋がりたくないしAVがしたいんだよと。
なんでお前に人生のレール敷かれなきゃ行けないんだよww
hacci
@hacci98753072
·
救おうとしてその業界ごと潰して、職を失った女性を福祉に繋げるらしいです。 twitter.com/aochanp/status…
東京都立大学の宮台真司教授が何者かに襲われたという衝撃的な事件が起きた。言論を暴力によって封じることは当然許されない。強い憤りを覚える。
さて、大学構内で大学教員が襲われたという事件で有名なものは中大の事件、そして筑波大学の「悪魔の詩」訳者殺人事件だろう。
サルマン・ラシュディの『悪魔の詩』に対してホメイニ師が反イスラーム的とし、関係者に死刑を宣告するファトワーを発令し、日本語訳の訳者であった筑波大学の助教授が何者かに殺害されたという衝撃的な事件だ。最終的に迷宮入りで犯人が捕まっていない。
ラシュディも近年アメリカで襲われたりといまだに尾を引いている事件である。なおインドのムスリムとして生まれたラシュディの『真夜中の子供たち』は最近岩波文庫入りして読みやすくなり、とても面白いので是非読んでみることをお勧めする。
中大の事件が個人的な怨恨であるのに対し、本事件は明確な言論の自由、学問の自由への挑戦であるし、多くの人の印象に残っている事件だろう。
当然、学問の自由・言論の自由を守るべき大学としては語り継いでいき、定期的なセレモニーなどを通して大学として言論の自由、学問の自由を再度確認すべきメモリアルな事件である。
筑波大学は歴史が浅い大学でブランド力の弱さを気にしているらしく、前身校である東京高等師範学校、東京教育大学の権威を借りようといろいろと嘉納治五郎(師範学校教授)の銅像を建てたり、朝永振一郎を顕彰したりしている。そんなに東京教育大学が素晴らしかったというなら潰すなよ。
それはともかく、その最たるものが筑波大学ギャラリーなのだが、ここには筑波大学の「悪魔の詩」訳者殺人事件の展示・記述は一切ない。誰もが認める大学史、言論史上に残る大事件であるにもかかわらずだ。
https://www.tsukuba.ac.jp/about/campus-gallery/
秋野豊博士というタジキスタンで国連政務官として平和維持活動中に凶弾に倒れた先生の展示はある。
寡聞にしてこの秋野先生という方は存じ上げないが大事な方だったろうとは思うが、ニュースバリュー・事件の重要性を考えればここに並んで悪魔の詩訳者殺害事件で倒れた五十嵐助教授の展示がないのはかなり解せない。
遺族側と仲悪いのか?とも考えられるが、近年出た記事では遺族側は事件の風化を気にされており、大学側の顕彰を拒むとは思えない。
では、何故筑波大学の歴史からこんな重要な事件が葬り去られているのか。その答えは、近年の大学(ひいては文科省)の方針にある。
筑波大学は指定国立大学として、国から高い目標を掲げさせられている。その中で重要なKPIとして設定されているのが留学生数だ。
留学元は大抵の大学がそうである通り、アジア圏が多い。中国・韓国はもちろんだが、筑波大学は中央アジアやアラブ圏とのつながりも強く、学内でもイスラーム圏の留学生を観ることは多い。
これで答えが出ただろう。イスラーム圏からの留学生を受け入れ大学として数値目標を達成するためには、殺された五十嵐助教授は闇に葬られなければならないのだ。
本来であれば、大学として許されざるテロであることをイスラーム圏からの留学生にも理解してもらう努力をすべきだと思うのだが、その努力を放棄し大学の言論の自由と学問の自由を犠牲にして大学としての達成目標をとったということだ。
学生運動渦巻く東京教育大学を潰して、文科省肝いりで作ったトップダウンの大学である以上、仕方ないかもしれない。だけれども、五十嵐助教授が大学の短期的な利益のため大学からも葬られていることに強い憤りを覚える。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20201210074954
このブコメをご覧ください!
grdgs 「あいつらは動物。関わり合うべきでない」←しょっぱなから捏造・改竄だな。単に治安が悪いという意味でしか無い。そのうち「治安いい場所に住みたがるのは差別。治安傾向を判断するのも差別」と言い出すな。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4695410445082205538/comment/grdgs
kamorou 動物園って表現しているだけなのに、「関わりを避けるべき動物」の集まりって勝手に捻じ曲げた解釈して、そこから批判されてもねぇ。自分も公立中だったけど、動物園って言われて確かにそうだなって思ったよ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4695410445082205538/comment/kamorou
RRDさん がスターを付けました。
公立小学校を動物園と呼ぶのは「単に治安が悪い」という意味でしかなく差別にはあたりません!
はてなリベラルの代表的存在grdgsさんとquick_pastさん、今はなきRRDさんが認定してるのでこれは間違いないです!
私のような知性の足りない人間は動物園で犯罪が多発してるなどとは寡聞にして聞かず、「動物園」=「治安が悪い」がまったく理解できないので
「そういう含意を持たせているのならやはり公立小学校の子供を危険な動物に例えてしまっているのでは・・?」と疑問に思ってしまうのですがアップデートが足りないせいだと思います!
yas-mal 「(公立動物園)」が、本当に書いたのか、予測変換でのタップミスなのか、判断に困る。/追記。前者らしい。 b:id:entry:4728407656880626052