はてなキーワード: クイーンとは
結局昨日はスプラトゥーン3の「サイド・オーダー」周回クリア、
最低限の色々なストーリーに関するものを全て見たり集めたりするための周回クリアに費やしちゃったわ。
でもさ、
言い訳させて、
これが気になって終わらせないと次のゲームが出来ないのよ!って
ゲームなんかーい!って思われちゃいそうだけど、
最後の最後までスプラトゥーン3の「サイド・オーダー」はやり切ったわ!
最初のまだ慣れてないときはこれはクリア出来るんだろうか?って不安に駆られまくりまくりすてぃーだったけど、
もう私ぐらいの立ち回りを披露するぐらいのレヴェルなら
自分から最初恐れていて全然そのチャレンジに挑戦せず逃げてばかりいた「ゲキムズ」のミッションも自らどんどん行くようなものよ。
もう誰も行かなかったら、
私自らが行く!みたいな。
なので、
そのブキの性能にあったカラーチップが運用ゲットできることができたらなおさら、
そんで、
使い慣れていないブキも、
チップとドローン化してついて回ってサポートしてくれるヒメもヒメチップを強化すると、
スペシャル連打できたり、
それこそボムも連打してくれたりこれどうなってんの?って自分でもよく分からないぐらい、
ある程度サポートしてくれるドローン化したヒメがハチの強さを上回ることさえあるから笑っちゃうわ。
もうさ、
あんなに苦戦していた中ボスも中濃ソースを水で薄めなくてもそのままかけて美味しいことを気付いた瞬間が訪れる季節!
何分も倒すのにかかっていた中ボスも
文字通り秒で滅殺できちゃったりして、
ある程度強まったらもうどんなお題でも「ゲキムズ」でも怖くないのよね。
だからある程度立ち回りも上手になったし、
もうこれ「サイド・オーダー」のブキ全部集めるの不可能!とまで私の昨日までの辞書のページに載っていた不可能という項目は削除したわ!
全ブキ集められたんだけど、
最後のハチのパレットをゲットして使えるようになるブキは苦労するかな?
最後苦労しそうかな?ってネタバレクイーンにも怒られそうだけど、
オーケーっ!ライドオンっ!級のマックスまで強化できずに限りがあるの。
終盤最後のボスとかはほぼ実質スペシャル連打でゴリ押し!である程度快適に倒せるんだけど、
ハチのパレットはどれか一つの能力を特化して切り込むしかないのよね。
本当の立ち回りの上手さが必要なのかも。
でも私は今までその周回クリアしてきた修行で危なかったけれど1発でクリア出来たから良かったわ!
もうさー
お師匠様がぜんぜん修行で凄い技を教えてくれなくて洗濯物ばかりさせられてうんざりしていたんだけど
え?これ洗濯物で鍛えられてる干している仕草が修行だったのね!って
知らず知らずのうちに強くなっちゃってた!って
もう進研ゼミでここやった!って言いたいぐらい結構真っ当な私の立ち回りはパレットでカラーチップ強化できなくともなんとか立ち回りで最後切り抜けられたわ!
それにも感動!
初回クリアしたときの「サイド・オーダー」のエンディングでも感動!
1粒で二度美味しい300メートル走れるキャラメルのようなお得感でもあり充実感でもあり
なかなか遊びごたえのあるよい「サイド・オーダー」でした!って言うのが総じて周回何周もクリアしてのさらに感想ね。
でも、
サイド・オーダーの街の中の売店で1日1回ある店主ユメエビの「おとしもの」と称するまた1日1日のノルマ的なお題のお買い物もできちゃったりして
遊んでもらおう!というのに余念がないわよね。
しばらくは適当に「サイド・オーダー」は充分味わったので大人しくしておくわ。
クリアしてしまわないとモヤモヤする謎を解いてしまわないとって感じよね!
都合の良いときだけそう言いがちな私だけど、
「星のカービィディスカバリー」も「スーパーマリオワンダー」もほったらかしよ!
目を背けないで
ちゃんと現実を見据えて途中のものをクリア出来るように頑張るわ。
とりあえず
「サイド・オーダー」は終わらせたので一息つけるわね。
ホッとするわ。
次行くわよ次!
うふふ。
私見つけちゃったんだけど業務スーパーで売ってる1キログラムのタマゴサラダもあれは罪よ。
罪の塊!
人々はそれを退治すべく買って食べて美味しいね!つってニッコリしなくちゃいけない罰を背負うのよ!ってぐらい
1キログラムってすごくない?
人類の叡智が詰まったまさに業務用1キログラムのタマゴサラダはションテンが上がりまくりまくりすてぃーよ!
食パンに大勝利の業務用1キログラムのタマゴサラダをのせて挟めば私もタマゴサンド名人!になれるわ!
そのぐらい感動!
春もうすぐとは言えどもまだまだ春先神戸には行くには寒いこの頃だし
電気ポットよいわー!
良い仕事してるわよ!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
木材が二箱届いた。昨日別れた人と一緒に寝るための、ダブルベッドになるものだ。なるはずのものだった。
別れた原因のうちの一つはこのベッドだ。26と38でどう?と彼は言った。きっかり半分こにするためのあと6000円を、彼は払いたがらなかったのだ。
彼が敬愛する歌手のコンサートのチケットは1万円した。その歌手の歌のタイトルを私はひとつしか知らなかった。コンサートというもの自体がほとんど初めてで楽しめるかどうかから不安だったが、行った。
隣にいる彼が一曲一曲が始まるたびに目を輝かせてちいさく歓声をあげるのが可愛かった。
楽しかった。
時間を共有できることがとても嬉しかった。同じ音に触れて、鼓膜が揺れているのだと思った。一緒の時代に生きることが出来てよかったとしみじみ思った。最後は腕を振って歌った。私が唯一タイトルまで知っていた歌だった。
ついぞ果たされることは無かったが。
木材たちはてんでそっけなくAだの⑧だの上面だのといったシールが貼ってあり、頼みの綱である組み立て方の説明書には「2人以上で組み立ててください」とあった。意地でも一人でやってやろうと思った。
私はもともと片付けが病的に苦手で、一人暮らしをしていた部屋もひどい有様だった。母が定期的に死んでないか確認に来る以外、ほとんど人を呼んだことは無かった。
告白をされた時、自分の部屋が直ぐに脳裏に浮かび、とても悩んだ。障害なのだ。小学校の時に診断を受けて、小児うつの疑いも指摘され、20歳の時には二次障害でがっつりと鬱になり入院し、そこから丸々一年休学した。
その時に四年付き合って一緒に住んでいた人とも散々な別れ方をして、そこからは恋人が出来ても長く続くことは無かった。
もう誰かと時間を共にするのが怖かった。二年ほどぽっかりと恋人のいない時間を過ごしていた矢先の、告白だった。
私は悩んで相手に洗いざらい打ち明けた。障害のこと、病気のこと、寛解はしているが自分に自信が無いこと。
彼は真剣な顔で聞いたあと、それは病気でなくても同じことだよと言った。
僕も片付けが苦手だし、でもできない所を補い合うことはできる。それは病気であってもなくても同じことだと。
嬉しかった。信じてみようと思った。全てかけてみようと。
間に合わなかった。モザイクをかけたくなるようなダンボール箱が最後数箱出来た。自分の部屋にも入り切らず、共用の寝室の片隅に置かせてもらった。
「ずっと片付かないのは嫌だけど、頑張ってくれたらいいよ」「一月を目処に頑張ろう」と言ってもらった。
それからの日々は怒涛だった。仕事、洗濯、食事の支度、お風呂、睡眠のローテーション。自分一人ならどれか欠かしても仕方がないけれど、人と住むからと気を張っていた。
食器洗いに追加して、お米を炊く当番を彼にお願いしたら喧嘩になった。
なにもかも上手くいかないと思った。たった今せっかく組み立てたヘッドボードも、電源コードを穴から出すのを忘れていて全てやり直しになった。どうにでもなれと思った。
それでも彼とたまに出かけるのは本当に楽しかった。水族館に行った。美術館に行った。海に行った。月に一度くらいだったが、本当に楽しみだった。たくさんの写真を撮った。
でもそれ以上の数の喧嘩をした。約束した人数以上を彼が部屋に招いたこと。前日にいきなり一人泊めたいと言ったこと。私の片付けが終わらないこと。私が調味料を片さないこと──その時、彼も皿や鍋を仕舞わないことを指摘したら、湯煎して2日放置されていたお鍋のパックを壁に向かって投げつけた────。
私も感情的な方だが、大きな音を立てたりものに当たったりするのは許せなかった。
「殴りたくなった」と言われたのもショックだった。かつて別の人に殴られた事や殴られかけた事が複数回ある。
付き合うまで彼は温厚な人間だと思っていた。
私には人に殴らせる才能があるのだろうと思った。そうだとしか思えなかった。
そして、やっとのことで取り付けたベッドの横木が、1本まったくの上下逆だった。左半分を一からやり直す羽目になった。
一緒に住むにあたって私は、洗濯機も冷蔵庫も電子レンジも全て譲ってしまった。
彼の持っていたそれらの方が性能が高かったから、そうせざるを得なかった。
「捨てろなんて言ってないよ。ただ置いておきたいなら自分の部屋に入れてね」と彼は言った。
ベッドの話に戻る。彼のシングルベッドで暫くは一緒に寝ていた。しかしさすがに狭く、ベッドのマットレス部を敷布団の2つ折りと合体させるような形で床に敷き、寝た。どちらも、彼の持ち込みの寝具なので、私は敷布団側で寝ていた。何ヶ月もすると身体のあちこちが痛み出した。肩を軽く押しただけで崩れ落ちるような肩こりを起こした。いよいよベッドを買おうと言ったが、彼は頷かなかった。「あなたがシングルをもうひとつ買えば?」
私はシングルベッドふたつがこの寝室に並んでいる姿を想像して頭を抱えた。ほぼクイーンサイズではないか。
何故そんなに自分のシングルベッドを手放したくないのか聞けば、「まだ使えるから」という。
私の家電だって、まだ全部使えた。それでも2人の生活と天秤にかけて手放したのだ。
この人は一つも、私たちの生活のために諦めてくれない。一つも。そして冒頭の発言に繋がる。
それから、こう続いた。
新しくダブルベッドを買ったとして俺はシングルベッドを手放さない。
あなたが買うならすぐに買うんでも、何にしてもいいが、半分ずつ出し合うなら、今はどれを買うか話し合っている時間が無い。
…ダブルベッド買ってあなたひとりで寝るの?俺が金を払わないから?…なら俺が横にシングルベッドを並べて寝る。
もう身体が痛くなければなんだっていいと思った。ダブルベッド丸々私が払って買って、向こうがなあなあで使い始めて、もういっそそれでもいいと思った。
買った。
でも直ぐに許せなくなってしまった。
詳細は省くが、いよいよ私には価値がないのだと思った。礼を言ったり、詫びを伝えたり、たった1行のLINEを打つ価値も私には無いのだと思った。
交際が始まる前にほんの数通ではあるが文通をしていた。読み返す度、私は、彼の言葉が好きだったのだと思い出せた。一緒に住みはじめてから私が手紙を書いても、返事は来なかった。
もう終わっていたんだなと、ふと思った。
ダブルベッドは、最後の釘を締められないままドカンと寝室に居座っている。
同時に注文したマットレスが届くのは少し先になりそうだ。
来月には向こうの忙しさも落ち着いて、引っ越しだの手続きだのを話し合うことになるんだろうと思う。板のまま箱のまま持っておいた方が本当は、引っ越し代も安く済んだに違いない。
手取りは私の方が安かったが、食費も家賃もきちんと半分出してきた。光熱費は在宅のほうが消費する為傾斜をつけたが、そこだけだ。
フェアにやってきた。別れて空っぽになるのはきっと私だけだ。馬鹿みたいだ。だからシングルベッドを取っておいたのだろう。
彼は賢いと思う。
本当の意味では、彼を嫌いになれなかった。
この文章を書いている今ですら、まだ揺れている所がある。
友達に縁切りのお守りを貰っても、いくらやめろと言われても、ずっと別れられなかった。でもここに書いていない一件で、もう諦めなければならないと、ようやく思えた。
終わりにしようと思う。きちんと自分を取り戻さないといけない。
マットレスが届いたら。
まっさらのダブルベッドに1人で寝ながら、新しい生活をどうしていくか、考えようと思う。まだすのこしかないベッドに横たわってみる。
ポケットの中で、余った釘がじゃらじゃらと鳴った。
21世紀現在、商戦はディーゼルエンジン、軍艦はガスタービン+ディーゼルエンジンが主流で蒸気タービンは古い技術とされている。
しかし中国の空母は全て蒸気タービンを採用している。なぜなのか?
原理力空母は原子力によって蒸気タービンを回す。そのため原子力空母には蒸気タービンのノウハウが必須である。
2030年までに建造が予想される004型は原子力空母とされている。
ソ連の技術ツリーを一部引き継いでいるため、蒸気タービンのノウハウが多い。
遼寧(アドミラル・クズネツォフ級航空母艦)はもともと蒸気タービン。
さらに蒸気タービンを搭載しているソブレメンヌイ級、051型、051B型も運用している。
※さすがに新型艦は蒸気タービンを採用していないが。052B型,052C型,052D型はディーゼル+ガスタービン、055型はガスタービン
ディーゼルエンジンには経済性で劣り、ガスタービンには大きさ複雑さで劣る
4 × LM2500ガスタービンエンジン (25.1 MW)
https://www.ihi.co.jp/powersystems/lineup/LM2500/index.html
2 × ロールスロイス MT30ガスタービンエンジン (36 MW)
2 × バルチラ 16V38 ディーゼルエンジン(11.6MW)
2 x バルチラ 12V38 ディーゼルエンジン(8.7MW)
https://www.dieselduck.info/machine/01%20prime%20movers/Wartsila%2038%20project%20guide.pdf
8 × KVG-4重油専燃缶×8基 + 4 × TV12-4蒸気タービン
8 × 改KVG-4重油専燃缶×8基 + 4 × 改TV12-4蒸気タービン
8 × Foster Wheelerボイラー + 4 × Westinghouse蒸気タービン
2 × Westinghouse A4W原子炉 + 4 × Westinghouse蒸気タービン
https://www.youtube.com/@nhk_music/videos
安納芋とかシルキークイーンとかなんか金時とか名前の付いてる芋を買え
にんじんより小さいくらいのやつがイオンで5本か6本ビニール袋に入ってるやつだ
ドロとかひげ根が付いてるからタワシかクシャクシャにしたアルミホイルかラップと水で洗え
洗ったらぬらしたキッチンペーパーで包め
新聞紙でもいい
ビチョビチョの紙で包んだらアルミホイルできっちり包め
オーブンが無いなら買え
かねが無いならジモティとかでもらえ
開いたホイルは自治体によって燃えるゴミか不燃ごみかなんか分からんがちゃんと捨てろ
多分黄色より濃い黄金色までいかないがうまそうな繊維質の芋の断面が現れるから
そのまま食ってもうまいがバターとか胡椒とか付けて食ってもいい
皮のブチッとした心地よい抵抗がわずかにあるがとろけるように甘い芋を味わえ
秋だ
次の文章を眺めてみて欲しい。
『まず第一に、二十世紀に係れたミステリ作品と違って、狂気や妄想を、いわゆる正気の論理で枠囲いされるものではない。第二に、以前の小説作品と大きく違って、可能世界へと分岐する「相対的」な論理を、それが作品内で主題化されないほどに内在的なものとして組み込まれ浸透しているからである。』
インターネットぶつかりおじさんにカンパし、一度ブロックされて解除された後2023年10月の今に至ってもなお彼やその賛同者の多くをX(旧twitter)でフォローし続けている、推理小説作家・評論家小森健太朗の著作「探偵小説の論理学」269ページから引用した文章である。
氏のSNSにおける華々しい戦歴の説明は割愛する。冒頭で引いた氏の文章を眺めることからはじめ、氏のSNS上における無数の陰謀論傾倒の人生、ひいては暇アノン化する文化人やネットユーザたちについてなんらかの理解を得ることができないか見てみたいのである。
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『まず第一に、二十世紀に係れたミステリ作品と違って、狂気や妄想を、いわゆる正気の論理で枠囲いされるものではない。』
主語がないのは先に出ているからである。一つ前の文の「西尾維新の作品」がこの文の主語である。そして、この第一に~第二に~というのは疑問に対する答えの列挙である。
『それではなぜ、なぜことさら西尾維新の作品を様相論理と親和性のあるものとしてとりあげられるべきなのか。』
冒頭の文の一つ前に置かれたこの文がその問いである。なぜ「それでは」なのかというと更に一つ前の文で↓のように認定しているからである。
『様相論理一般が、それらの作品により適合するのではなく、われわれの住む世界にある論理、どの作品にもある論理一般において様相論理は適合性を有している』
つまり、著者はこの箇所で「西尾維新の作品こそ様相論理が合う」と言いたいのである(なお、『様相論理は適合性を有している』だとか『様相論理と親和性のある』とかいう語句の意味は不明)。
それを踏まえた上でも文の後半は日本語がおかしい。いやそもそも『それではなぜ、なぜことさら西尾維新の作品を様相論理と親和性のあるものとしてとりあげられるべきなのか。』の「‥‥作品を~~とりあげられるべきなのか」という文も変なのだが。受動態ならば‥‥作品が~~とりあげられるべきなのかとすべきであろう。とはいえ文意は理解できている(と信じたい)ので無視しよう。
・(西尾維新の作品では)狂気や妄想が、いわゆる正気の論理で枠囲いされるものではない
・(西尾維新の作品は)狂気や妄想を、いわゆる正気の論理で枠囲いされるものとしていない。
引用した文のある段落の一つ前の段落で、彼らの作品における狂気の取り扱い方について『現実の正気の論理が前提として背後にある。狂気や、いわば正気の世界に枠囲いされる形で、際立たせられる』と説明されている。この書き方ならば前世紀に書かれたチェスタトンや泡坂妻夫らのミステリ作品との違いを述べていることが明確である。
なお別の案として、第二に~の述語に繋がっていると見ることもできる。が、そうして読むと能動態・受動態が変になるのである
・『二十世紀に書かれたミステリ作品と違って、狂気や妄想を、いわゆる正気の論理で枠囲いされるものではない』‥‥『ものとして組み込まれ浸透しているからである』
この能動態・受動態が変というのが引用の二文目の問題でもある。
例によって主語だが『‥‥組み込まれ浸透している』の主語はなんだろうか?そもそも『組み込まれ』『浸透している』は同じ主語を持つのだろうか?候補は『西尾維新の作品』と『可能世界へと分岐する「相対的」な論理』の二つである。
『西尾維新の作品』は『組み込まれ』がおかしいのは‥を組み込むという能動態に直せば明らかである。『西尾維新の作品』を目的語とした「西尾維新の作品を組み込んでいる」には意味を見出すことは不可能である。
『西尾維新の作品』は『浸透している』は、意味としてはありえる。だが使えるのは読者の認知度などを述べる文脈などであり、どこに浸透しているとかいった説明の無いこの文では意味を持たないであろう。
すると『西尾維新作品』は、『西尾維新の作品では』という句であり、主語は『可能世界へと分岐する「相対的」な論理』と見るべきである。これならば受動態能動態を変えても意味が通じるであろう。
・(西尾維新の作品では)『可能世界へと分岐する「相対的」な論理』は‥‥組み込まれ浸透している
・(西尾維新の作品には)『可能世界へと分岐する「相対的」な論理』が‥‥組み込まれ浸透している
いけそうである。しかしそう理解すると今度は九段の文の書き方があまりにも奇妙に見えると言わざるを得ないのである。
『(西尾維新の作品では)可能世界へと分岐する「相対的」な論理を、それが……組み込まれ浸透しているからである。』
「を、それが」と書いた理由はなにかあ在るのであろうか‥‥???「‥‥を」とするならば「それが」をそこに付けず「組み込み、そしてそれが浸透している」というようにすべきだし、受動態のまま「組み込まれ」を使いたいならば「を」をなくして「‥‥が~~組み込まれ浸透している」と書くべきであろう。なぜここまでねじくれた、好意的に見て文法違反スレスレで読みにくい書き方をしているのだろうか‥‥???著者も校正者もなにかおかしいと思わなかったのだろうか???
余談だが、様相論理において可能世界ごとに分岐(というか異なる)のは、命題への真偽値の割り当てであったり個体領域である。それらは一般的にいって「論理」と呼ばれるものではない。このあたりも意味不明なのである。ようはポストモダンにおける科学の誤用濫用の仲間である。さておきこれまで氏の華々しい戦歴を目にしてきた者の意見として言うと、氏の癖として、彼がカンパしているインターネットぶつかりおじさんと同様に、勝手に定義した「A」を、他の意味の「A」と気軽につなげて論証をするというものがある。いわゆる「媒概念曖昧の虚偽」と言われたりするやつである。こうした論証上の誤りに無頓着な事も陰謀論にたやすくはまる一因と言えるのかもしれない。
海法紀光や、アレな発言を非難する者がしばしば指摘していることであるが、氏は、理由をあげたり説明したりといったいわゆる論証をする際こういった文章を頻発する傾向がある。特に、自身の立論が苦しくなってくると、文法が崩壊していると感じられる弁明が増えるように見えるのである(quantumspin氏による批判とそれへの応答なども参照せよ)。主語や述語がみつけにくいのもよくあるパターンのひとつである。小説以外の活動に関しては、ずっとそういうやり方で通して来ているのかもしれない。
これは結論に対して必死に理由を拵えているせいというのもあるのかもしれない。そのような、結論にあわせて理屈を拵えることをよしとする姿勢もまた陰謀論への傾倒を片側から支えているようにも思えるのである。
などなどと、かつて新本格のムーブメント到来に歓喜したものとして心苦しい気持ちを抱いていたのであるが、最近大きなヒントを見つけることができた。
https://twitter.com/furukawa1917/status/1708364352540246446
氏にとって人類の進歩は虚構的観念であるらしい。勿論、氏のいう虚構的観念は、非難されればすぐにその中身を適当に入れ換えられるブラックボックスであり、「生活費切り詰めてカンパ」と同じ程度の軽口でしかないのやもしれない。
だが、そういうことかと得心もしたのである。
かつてポストモダン思想が華やかなりしころ、同じ世代にあって「進歩なんて幻想だ」と嘯いた者は多かったのではないだろうか。なにしろ、特に思想や政治について色を出さず、特に「後期クイーン的問題」等の話題に珍説を披露したこともない有栖川有栖氏の作品においても、「ホイッグ史観」「進歩史観」といったかたちで冷めた態度が見られるのである。
311以降かどうかは定かでないが、SNS上では、ミステリ業界の「知の欺瞞」が手ひどく叩かれる時期があった。氏も基礎的な誤解を指摘されてはよくわからない弁明を書き連ね、最終的に相手が呆れて去っていくということがしばしばあった。その後、左翼・リベラルに敵対的な気分をもつひとは自らを「科学的」と自認するようになり、小森もなんとなく菊池誠氏などをRTしたり科学的な雰囲気のある人々の輪に入ることで、これまたなんとなくのうちに過去の知の欺瞞は有耶無耶になった。
しかし上記の発言から察せられるように、頭はポストモダンのままだったのである。この点を傍証する発言はひとつではない。
『紀藤さんは、カルトと宗教の弁別ができる超越的な裁定者であると自認しておられるのでしょうか?』
これは、統一協会が話題になった際、紀藤弁護士の発言に対して、なされた引用RTである。
カルトであるかカルトでないかの区別ができることが『超越的な裁定』だと言うのである。その理由もふるっている。
『カルトと宗教の線引きがわからないのではなく、できないと言っています。』
まさにあの堕落したポストモダン思想にかぶれたあの世代の、あの辟易するような懐疑的態度を思い起こさせるものである!!!認識的な不確実性を理由として判断の正しさを否定する。現実的・実践的な正しさをすっ飛ばして「超越的」なものに基礎づけようとする(そして、その不可能性からお好みの結論を導く)。‥‥ところで、なぜ「分からない」「できない」「不確実だ」という判断だけは正しいと信じられるのか自分にはまったく理解できないのだが‥‥‥笠井潔なら教えてくれるのであろうか‥‥????
結局の話、己の欲する結論のためにいい加減な理由づけを許容する態度、あらゆる価値・論証・実践的合理性等を無効化した気になれる堕落したポストモダン思想、メチャクチャナ言説をまともに文章を読み批判をすることのできない現代ニッポン論壇・批評コミュニティの無力さ、そうしたものが無数に積みあがって悲惨な令和の余.命事件へと通じる道が敷かれたのかもしれないと思うのである。