はてなキーワード: 共同体とは
今の親と若者はみんなダメ。利害を越えた他人との『まともな』コミュニケーションを養っていた昭和の地域共同体が崩壊してしまった。
親は子供に損得しか教えない虐待も同然の育て方してて、それで育った若者は他人と損得で向き合うからまともな恋愛ができない。
僕は地域の子供に『まともな』コミュニケーションを教えていた昭和のおじさんのように今のダメな親や若者に介入したい。
みたいなこと言ってて驚いた。
保守の立場を取る人の言葉なら、ステロタイプだけど反発するほどではない言説かなと思うけど、円光フィールドワークしていて売春する少女たちを肯定的に捉えていた人がこうなるとは……
私自身は自分を性的マイノリティではないと思っていて、2年前に男性と結婚し、今も夫婦二人暮らしだから、ある意味自分には直接関係のないことなのかもしれない。
でも、やっぱり同じ社会を生きる人のなかで、愛する人と結婚出来る人、結婚出来ない人、と差が生じてしまうことは、全然理解ができない。
自分はたまたま結婚したいと思った人が男性で、自分が女性だったから、手続きが色々と面倒なことはあっても、婚姻届を1枚提出すれば、社会的にも"夫婦"として認められて、何か変わったような、別に何も変わらないような、そんな程度のことであった。
結婚したからといって、彼を想う気持ちが変わったり、自分の心持ちが変わったり、そんな風に劇的な変化は特になかった。
私が姓を変えたから、職場で呼ばれるときに戸惑ったくらいで、婚姻届を提出して"夫婦"になったからといって、別に何も変わらんな、としみじみ思った。
結婚の変化なんてそんなもん。
そんなもんなのに、それが同性同士というだけで何が変わると言うのだろうか?
私と彼が「結婚する」と合意した気持ちと、同性同士が同じように想う気持ちには、きっと何の差もないはずだ。
なのに、一方が認められて、一方が認められない。
なんか、流石に悲しくなってしまった。
今まではこういった話題も「何でダメなの?」と思っても、やはり自分事として捉えてなかったように思える。
でも今回のことがこんなにも悲しく思えるのは、判決の言葉があまりにも気持ち悪かったから。
憲法24条は「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立」すると定める。国側は「両性」は男女を意味し、憲法が同性間の結婚を想定していないと指摘。男女が子どもを産み育てながら共同生活を送る関係の保護が婚姻制度の目的だとして、差別には当たらないと反論していた。
私はそういうつもりで婚姻届を出したわけじゃないんですけど………。
この文がこんなにも悲しく感じたのは、私が少し前に、流産を経験したからだと思う。
子供を産めなかった私は、正しく"婚姻制度"の目的を果たせていないの?
子供を望んだ時点でこの目的を達成しようとしてしまっているのかもしれないけど、子供ってそんな、望んだら簡単に作れるものではない。
初期の流産だったけど、心臓も動いていた一つの命が、色んな可能性を持っていたはずの存在が、自分のお腹の中で突然死んでしまったことの悲しさは、この先一生忘れることはできないです。
あんな辛い経験をしてしまうと、子供作ろうという気持ちすら薄れてしまう。
また同じことになったら、そんなのもう耐えられない。
でも「みんな耐えてるから平気でしょ?」なんて絶対言われたくない。
だから判決のニュースでこの文面を見たときに、あんな辛かったのに、私は子作りをし続けなきゃいけないのか……と吐き気がした。
婚姻関係=子供を育てるための共同体ならば、結婚している私は「子供を産んで育てたいと思っている人」として法のもとに保護されることになる。
なんだそれ…………
確かに子供は欲しいけれど、それが簡単に叶うことだとはもう思えない。
叶わない願いを望み続けることは辛いし、いつか諦めるときに願った分だけ悲しくなってしまうと思う。
一緒にいて心地良い人と、このまま2人で暮らしていければ充分だし、それが生きることの最終目標であってもいいはず。
そういう気持ちでいるのに、同性婚が認められない理由として"子供"の存在を出すのはあまりに悲しい。辛い。
今回認められなかった同性婚について、私がこんな風に辛い気持ちになるのはお門違いかもしれない。
でも同じ法のもとに暮らす同国民として、結婚の解釈おかしくね???と思いました。
私の立場を示したところで、結局はただ自分語りで、誰かの勇気にも慰めにもならないと思うし、誰かを傷つけてしまったかもしれない。ごめんなさい。
結婚という、人と人との出会いの一つのフェーズに、なぜ差が生じてしまうのか、私には理解ができない。
扶養控除とか遺産の相続、手術の同意など、結婚相手じゃないと認められないことをたくさん作ったのは社会なのに、それを望む人には差をつけてしまうのも社会なのが理不尽だと思っている。
ただそれだけのことが、私が提出した紙切れ一枚でできるのに、それを出来ない人がいる。相手への想いは変わりないのに。
なんで?
それらを認めることで、一体何が起こると言うのだろうか?
私が婚姻届を出して特に生活が変わらなかったように、きっと劇的に何か変わったりなどしない。
でも確実に、今まで出来なかったことが出来るようになる。
今まで結びついていなかった人が結びつくことが出来る。
それを喜ぶ人がいる。
それ以上でも、以下でもない。
そんな風に思うのに、なぜいつまでも認められないんだろうか。
37歳男。
35の時マッチングアプリで妻と出会って36で結婚した。子どもももうすぐ産まれる。
結婚して家族ができると気持ちに余裕ができるのか意識がどんどん変わっていく。
独身の頃は彼女がいない時期が長くて友達も少なかった為孤独感が強く「自分対世界」という意識が強かった気がする。
仕事に生きていた為、自分がどうやってのし上がるか、どうやって成功するかしか考えていなかった。
しかし今は「自分は全体の中の一部」という感覚が強い。妻の親族を含めて付き合う人間が増え、会社の人間関係も俯瞰から見える余裕ができ、今まで気づかなかった関係性の中のコミュニケーションの厚みを感じる。
組織の中の1人としてどうやったら自分は貢献できるか、という事を考えるようになった。
正直、独身の頃のオレがオレが!という自意識過剰で一匹狼な感覚が恥ずかしい。ハタから見たら空気の読めない痛々しい奴だったに違いない。
約2か月の間に6人と見合いして、一人に絞り込んでからさらに2か月で成婚退会。この間かかった費用は、あちこちデートで出かけたりした費用(ただし交通費のぞく)も含めて、総額約32万円。
ありゃ、デート代、意外とケチってる...もしかすると計上もれがあるかもしれないけど。
相談所に支払った費用は、入会金・月々の会費・成婚退会費(いわゆる成功報酬ってやつ)。
月会費は約17000円/月でした。
なお、当時のスペックは以下の通り。5年ほど前です。
お見合いの申し込みはほぼ断られませんでした。見合いの結果、断られたケースもなし。
同時並行で複数人との交際をしていた2か月間は正直大変でした....。
「ああ、こんな人、残ってたのかぁ、すごいなぁ」と、思うくらいしっくりきたのが、決め手でした。
時々は喧嘩もしますが、基本的に現在も仲良くやっているつもり....です。2馬力共同体生活は、生活の幅が広がって楽しいですね。
(以下追記)
妻の収入は私の半分くらいですかね。
チームとして考えたときに、一人よりも二人のほうが出来ることが増えるだろう、と思い、お互いを保管するような役割のパートナーを求めたのが始まりです。
独身時代の家事ノウハウをお互い出しあって、快適な生活を営めるよう、日々努力中です。今のところ、良い方向に進んでいると思っています。料理のレパートリーもかなり増えました。また、めんどくさがりな私にとっては、妻の行動力には随分と助けられています。単なるノロケですが、「ありがとう」「ごめんなさい」「いってらっしゃい」「いってきます」「ただいま」「おかえり」を言い合える家族がいるのはそれだけでも大変幸せなことだと思っています。
二人の遺伝子を残すのは生物学的にもはや可能性が低いのはわかっていたので、子供目的というわけではありませんでした。
ただ、妻は子供が欲しいようでしたので、今後どのように折り合いをつけていくか、だと思います。
養子縁組というのも一つの方法かな?とは思っています。一人より二人、二人より三人のチームのほうが、出来ることがさらに増えそうな気もするので。ただし、これはこれで条件が厳しいですが....。
ー最近の不動産価格食料品税金の値上がり見れば年収1000万って一昔前の年収800万くらいだよな
もしかすると、もうちょっとキツイのかも?とは思っています。住宅購入は正直手が出ないですね。年齢的に長期ローンを組むのが難しいというのもありますが、なにより高い。独身時代に購入した中古マンションを賃貸に出し、その家賃収入の助けを得て、少し広めの賃貸マンション住まいです。売買相場と比較して、家賃相場はそれほど動いていないので、なんとかなっている感じです。
あとは、年収の増加だけに関わらず、年齢とともに、いわゆる天引きされていくものも増えていく(介護保険料とか)ので、年収が1000万円を超えたとしても、手取りが増えていっている実感はあまりないです。
また、年収1000万超、といっても、ボーナスが占める割合が4割近く、会社業績が悪化すれば普通にこれを切ってきます。昨今の情勢だと、数年後には1000万は割り込むんだろうな、という状況が見えているので、今のうちに余裕資金をつくって、自らセーフティネットを構築しないと....と思っているような感じです。
以前付き合った人がインセルだった
その人の頬にキスしようとしたら
「髭は物凄く不衛生なんだよ。そこら辺の手摺り舐めてるのと同じ」
「だからマンションの屋外階段の手摺り舐めてよ、嫌だって言うならその理由を論理的に説明してね」
と説明を求められた
「手摺りは野晒しだし色んな人が触るから汚いし不衛生、じゃダメなの?顔は毎日洗ってるし野晒しじゃないでしょ」
と返したら、「髭の不衛生さを否定できてない、早く手摺り舐めなよ、出来ないなら謝って!!」と言われた
「筋力に差があるからじゃない?」と言った途端
「男性全てが女性全ての筋力を上回ってると証明できるの?」と詰め寄られた
ウンザリして別れ話を切り出したら
「女性は政治に興味が無い、つまり共同体を管理しようという意識がない、つまり家畜の様に管理されるのが妥当ぅぅ!!!!」
と言われ、保険証を奪われかけた
もともと人口政策とか疫学的政策とかは、「共同体全体の利益のために、個人の自由を一定程度制約する」っていう全体主義的な性質を内包せざるを得ない。
自由民主主義国家であっても、ここに一切の政策的介入をせず、すべて個人の選択に委ねる、ということはほとんどないけど、とはいえ個人の自由に直接に強力に介入することもできないし、すべきでない。
だから、基本的には国民の自由意志と選択に任せつつ、行政側では色々なインセンティブや逆インセンティブを提示して、国家が考える好ましい状態に国民を誘導する。
人口維持でいえば、育児費用を負担したり、教育費を無償化したり、非課税限度額を調整したりする。
コロナ対策でいえば、強制ではないけど、ワクチン政策を強力に推進したり、マスク着用の要請をしたり、営業停止した飲食店に金銭的な援助をしたりする。
ここで重要なのは、あくまで「第一義には国民自身の福祉のために」「国民自身の選択に任せつつ」やる、という基本姿勢。ここを見誤って「国家のために」を前に出しすぎてしまうと、人口政策や防疫政策はしだいに全体主義的な色合いを帯びていくことになる。だから戦後の日本は、基本的にそういうメッセージは出してこなかった。「個人の自由意志」「個人の利益」「国家・社会の利益」の3つの要素を見極めながら、自由民主主義国家で許されるギリギリのラインを攻めるような慎重さでこうした問題にあたってきたと思う。それが時には少子化対策の不充分さや的外れさ、コロナ対策の煮え切らなさの一因にもつながっていたのかもしれないけど、ともかくそういう原則は大事にしてきた。
吉村知事の表現は、そういう意味では不用意に「国家のために」を前に出しすぎていたと思う。為政者が人口政策について「リターン」「投資」「効果」という言葉を使うとき、国民は国家の維持存続と運営に必要な駒なり投資商品のように見立てられている。国が利害の主体で、国民はそのために操作される客体という構図。この物言いは、先の一線を少し踏み越えてしまっているところがあって、増田が批判してるブコメもそこに違和感を感じたんだろうと思った。
自分は、維新という政党は基本的に「一方では改革と言ってカネをけちり、もう一方では商都としての返り咲きを目指して怪しげな案件にド派手にbetする(IR、大阪発ワクチンなどなど)ことで支持を得てきた」政党だと思っていて、正直、人口や国防といった国政レベルのグランドデザインについてはまだまだ党内の議論が熟成されてないと思っている。出産育児についても、例のケチケチ感覚を敷衍して「貧乏人が子どもをたくさん生んでも意味がない」「育児支援は甘え」とか言いそうだなと思っていたので。