はてなキーワード: 心象風景とは
今期あみめいくつか見た。以下、所感。いずれも原作ノータッチ。
導入の動機からスムーズで、中盤に家を捨ててアイドルになり、母への憎悪と愛の独占欲の動機まで中盤に出し切ってる。そのあとで妹の歪みを一挙に表出させてゆくわけだけど、その際の妹の演出が上手。事故死直後の葬式の際に「久しぶり」のコマで妹になにか黒い部分があるのではないか、と思わせる一コマを挿入している。一コマで状況説明できるのは力量がある証拠。しかも前後関係からして妹が事故をわざと起こしたのではないか、というミスリードにも繋がっている(後述)。独占欲と妹の心象風景をもって、自分自身に一心に憎悪を向ける妹に独占欲の充足を知る。また、妹は自分と似た独占欲にまつわる憎悪を抱いていて、姉は妹に自分自身を見る。姉の心象風景は自己愛に集中しているので、もうひとりの歪んだ自分(妹)に最大の自己愛を注げるという内容。すべての伏線回収を綺麗に行っている。
ただしエピソードの割に母の死付近の演出が凄惨すぎて、上記のように殺人事件を連想させたのはわざとなのかどうかが気になる。これがわざとならサブシナリオや連載も考えてのことなんだろう。もしそうなら動機から考えて妹は姉へ愛を注ぎ続ける憎悪から母を殺したという話になる。
惜しむらくは押見修造先生のように繊細な心情を語りなくして語り切る手法がないことだけど、これはページ数が足りないか。ちょっとモノローグ説明が多い気がする。初っ端からにじみ出るベテラン感。作者はもともと研究熱心だと思う。
エヴァの元ネタはウルトラマンだとよく言われている。ウルトラマンは巨大で強く、強い自己の化身でもあり、男の憧れる父親そのものでもあり、自分を包み込んでくれる母親でもある。
庵野秀明にとって、エヴァンゲリオンという「作品」は外界と自分を繋げる唯一のものであり、庵野秀明は監督としてそれを操作していた。同時に、エヴァという機体は自分自身の才能でもあった。
同時にその「巨大で強い自己の化身」は、自分のコンプレックスの表れでもある。シンジの持つエヴァの搭乗への葛藤は、創作の才能一つで生きてきた庵野にとっての葛藤そのモノであったのだろう。
エヴァを作るころには周囲には才能を認められていた。宮崎駿やその他の監督、自分の親からの期待、「逃げちゃダメだ」という言葉は、まさに当時の庵野秀明の感情でもあったのではないか。
同時に、当時エヴァの最終話での制作の難航と、それに伴うネットからのバッシング。そして思った以上の膨大な反響、オタクたちはエヴァ作品にのめり込み、数々の作品がエヴァに影響を受け始め世界の潮流を変えた事。
自分の人格を込めたエヴァへの批判は、シンクロすればシンクロする程思い通りに動く作品の代償として、そのまま彼の精神自体に傷をつけただろう。心を無にして、ダミープラグを使いたいと思ったのではないか。
これはエヴァの暴走そのもので、彼自身にとっての作品の勝手な暴走、庵野にとっての一番大きな原体験となっただろう。同時に作品にそれらを「重ねる」という事もまごころを君にでやり始める。
エヴァに頼るな、現実を生きろ。そういうオタクへの批判は同時に、自分自身への批判でもあったんじゃないだろうか。
新劇場版はそういった「エヴァンゲリヲンという作品の制作」を通じて感じたことを再度「エヴァと言う作品」に落とし込む作業だったんだろう。新エヴァでは特に、「エヴァへの搭乗に対するシンジの心の変化」について重点的に視点がある。これは庵野のエヴァ作品への向かい合い方を落とし込んだに違いない。
やれと言われてやった(作った)→批判された(バッシング)→自分に選択肢はない(拗ねる)→他人に任せる。批判されて辞める(エヴァから手を引く)→やっぱり調子に乗って自分の為に乗る(つくる)→失敗……そこから先は庵野の「エヴァと言う作品の向き合い方」そのものなんじゃないだろうか。「エヴァと言う作品」を作った事により、他人を虚構へ誘った罪の意識から同時に、「ニアサーも悪い事ばかりじゃなかった」という言葉は自己への客観視と許しにも思える。ニアサーが起きた後の世界は、エヴァのテレビシリーズが出てからの彼から見えた世界。自分が引き起こした破片があちらこちらに浮かぶ。シンゴジラと言う作品は彼にとって第三村のようなものだったのではないか。
おそらく新劇の時から欝の兆候があったんだろう。周囲に「エヴァを作るな」と言われたことは、そのまま脚本へ落とし込まれていると思う。それでも乗り、精神を壊し、作品を狂わせてしまった。
その作品の中で、異色の存在が出てくる。エヴァを難なく乗りこなし、明るく自分に接してくれた存在。これって妻である「安野モヨコ」そのものなんじゃないかと。いろいろな「エヴァ」つまり「作品」を吸収し、精神も病まず自由に乗りこなす彼女。友達に紹介されたそうなので、パラシュートで降りてきたような物だろう。今まで他人に拒否される事に恐れていた庵野にとっての救済だったのではないか。
庵野にとっての「人類補完」へのあこがれはこの結婚によって無くなったんじゃないかと思う。この時点で多分、「妻にもう一度会いたいゲンドウ」にしか感情移入できなくなってる。
世界を変えてしまった庵野にとって、ニアサーの後の世界は、新劇を作り始めた時の世界そのモノだったんだろう。やっぱり彼は止められても新劇を作り、自分を傷つけた。そしてギリギリ自殺しそうになったのをニアサーで表現したんじゃないか。自分を、他人を変えたいと思い始めた創作、エヴァ化しそこなった首の無い人はファンたちの事だろう。
ミサト率いるヴィレは自殺を止める自分の理性であり、シンエヴァの幻想的な戦いは彼の心象風景そのものだったんじゃないか。
・エヴァの居ない世界は、そのまま庵野にとって「エヴァを作る必要のない世界」の事
作中の突如現れる空白の14年は、庵野にとってエヴァを作らなかった数年の事だろう。当時の声優も、アニメーターもファンも大人になってしまった。
第三村で、嘗て殴ってきた友達も、カメラ片手にちょこまかしてたアホガキも、かたや医者になり子供を作り、かたや一人で生き抜く一人前の男になっていた。
色に乱れてた赤城リツコも「煩悩」を髪の毛と一緒に切り、ミサトは母になった。その中で、エヴァを作り続けて悩んで苦しんでる庵野は自分自身を「何も変わってない少年」だと思っただろう。
庵野にとってそんな自分に優しく手を差し伸べる周囲の人間は、なお一層コンプレックスを掻きたてたに違いない。しかし一方で、「エヴァで皆を助けただけでも偉い」という自己肯定の言葉もちらほらみられる。
シンゴジラも成功したし、安野モヨコの夫婦漫画でありのままの自分を受け入れてもらえるし、庵野は社会的地位を手に入れて金もある。尊敬もある。
彼は自分自身を知ってもらうために「エヴァ」を作る必要などないのだ。エヴァに乗る必要なんかない。エヴァを作らなくても、エヴァに乗らなくても自分を認めてくれる人が沢山いるから。
もう他人の血も、友達を殴った手の感触も、やけどする程の熱さも、自慰で流した精子も、彼の右手には必要ない。だってもう彼の右手には握ってくれるもう一つの手があるのだから。
・雑感
無責任。これに尽きる。最近の監督は無責任だ。新宿を綺麗に描くのが得意な監督は、今まで自分が作ってきた、願った世界を子供に押し付けて「大丈夫だ」なんて言わせるし
庵野秀明は勝手に悩んで、勝手に大人になって、ずっと自分しか見えていない癖に、子供のままの俺たちを置いて去ってしまった。
世の中にはな、世界を作れなかった人間、人を気にして何も動けず下敷きになってしまった人、大人になれない髭の生えた子供たちが沢山いるんだ
そういう人に寄り添ってくれる作品を作ってくれる人はおらんのかね。若者に厳しい世の中になってしまった。
そんな複雑な話じゃないような。
具体的な自分好みの可愛い彼女像がわからないけど、理想や現実など関係なく自分にあった人、一緒にいて楽な人が全ての人間にとって実は理想だったりはするけど。
ただ人っていうのは基本的に社会性があって、その見栄の中で生きてる。
だからどうしたって理想的って言うと世間的に理想形の外見と性格を持った人を選んでしまうというか。
俺はこの人が必要だ、と思えるかどうかであって、そこに過分な要素を付け加えるわけでもなし。
多分「理想の彼女ができない自己が許せない」、という心象風景とこの過分な見栄の部分は相当関連性がある。
自分にも他人にも実は何かを要求しながらコミュニケーションを取ろうとしてる。
つまりは自分のイメージが完ぺきじゃないから対人恐怖してしまったり、水準に見合わないからいらない人が寄ってきたという感性が働く。
競争原理が内面に働いてるのに気づかないと、なんか人とうまくゆかない、というぼんやりとした印象を抱えることになる。
例えばキャリアやスキルならそれに見合った仲間ができないのは不満だろう。
それはよく分かる。
でも単純な人間関係の場合大多数は自分のやりたいこと、知りたいこととは無関係なので、普通に暮らす分には自分が望んだような人間関係なんて形成されないと思う。
ケンスケがシンジに第三村を案内する場面。首無しインフィニティを指して「最近徘徊するようになった」と言う。これはシン・エヴァの公開が待ちきれず、そわそわしているエヴァの呪縛に囚われた哀れな人間の末路。
劇中の首無しインフィニティが心待ちにしてるのは4thインパクトである。
首無しインフィニティはエヴァの呪縛に囚われれた哀れな人間の末路である。
エヴァの呪縛に囚われれた哀れな人間が心待ちにしているのは新劇エヴァである
自動的に、3rdインパクトは旧劇エヴァ(まごころエヴァ)、ニアサーは新世紀エヴァとなる。
新劇では「破」のラスト予告枠で3rdインパクトが起きた。ならば、新劇Q以降のコア化した世界は旧劇エヴァ(=3rdインパクト)を観た者の心象風景に他ならない。
なお、2ndインパクトは機動戦士ガンダムである。なぜなら、新劇エヴァの世界では2ndインパクトは「15年前」に起きたとされている(新世紀エヴァでは西暦2000年)。
ニアサー=新世紀エヴァが放映されたのは1995年であり、その15年前は1980年。すなわち、機動戦士ガンダムが放映された年である。
使徒は福音(evangel)を非信者に伝えるものである。エヴァの福音を配偶者や同僚へ伝えるエヴァ信者。
エヴァンゲリオンに興味を持たない、あなたの隣人。使徒による布教やコア化を心から恐れている。
ケンスケがシンジに第三村を案内する場面。首無しインフィニティを指して「最近徘徊するようになった」と言う。これはシン・エヴァの公開が待ちきれず、そわそわしているエヴァの呪縛に囚われた哀れな人間の末路。
劇中の首無しインフィニティが心待ちにしてるのは4thインパクトである。
首無しインフィニティはエヴァの呪縛に囚われれた哀れな人間の末路である。
エヴァの呪縛に囚われれた哀れな人間が心待ちにしているのは新劇エヴァである
自動的に、3rdインパクトは旧劇エヴァ(まごころエヴァ)、ニアサーは新世紀エヴァとなる。
新劇では「破」のラスト予告枠で3rdインパクトが起きた。ならば、新劇Q以降のコア化した世界は旧劇エヴァ(=3rdインパクト)を観た者の心象風景に他ならない。
なお、2ndインパクトは機動戦士ガンダムである。なぜなら、新劇エヴァの世界では2ndインパクトは「15年前」に起きたとされている(新世紀エヴァでは西暦2000年)。
ニアサー=新世紀エヴァが放映されたのは1995年であり、その15年前は1980年。すなわち、機動戦士ガンダムが放映された年である。
使徒は福音(evangel)を非信者に伝えるものである。エヴァの福音を配偶者や同僚へ伝えるエヴァ信者。
人間らしい生活を送る、あなたの隣人。使徒による布教やコア化を心から恐れている。
遅ればせながら『シン・エヴァ』観ました。個人的な感想メモ(ネタバレあり)。ちなみにTV版から観ている39歳男です。
・旧劇場版でシンジとアスカがお互い傷つけあったのは「二人は他者だから、触れ合えば傷つくのは必然なんだ」と受け止めてた。それに対する『シン・エヴァ』の回答は「あれは二人の相性が悪かったせい。それぞれ別の人とくっつけば幸せになれるよ」ってことだと理解した。マジか、と思いましたね。あまりに身も蓋もなさすぎて。しかし言われてみれば確かにそう。こうなってみると、もうこの終わり方しか考えられない。
・旧劇場版のアスカって、エヴァの全編を通してみてもトップクラスに酷い目にあってたと思う。肉体的にも精神的にも。見ていて居たたまれなかった。なので、浜辺のシーンで惣流のほうのアスカも救済してくれて嬉しかった。
・それにしても、まさか渚カヲルがゲンドウの分身(別人格)だとは思ってもみなかった。これが一番衝撃的だったかも。
・でもよく考えると、TV版の時点でカヲルはレイに「君は僕と同じだね」って言ってるんだよね。レイがユイのクローンだとして、じゃあカヲルは誰の分身なのかと考えれば、論理的にはゲンドウしかありえない。なんで俺は25年間その可能性に気づかなかったのか、ということのほうが今となっては不思議。
・カヲル君の「歌はいいねえ」という台詞とシンジ君のウォークマンが、25年の時を経てゲンドウというキーワードでひとつに結びつけられる展開は震えた。
・あそこに置かれていた鉄道車両は、庵野さんの故郷の山口あたりで昭和時代に走っていたやつが多かったと思う(あとは天竜浜名湖鉄道?)。あの村が箱根のそばに2029年ごろに存在しているとすると、明らかに時空が歪んでいる。この時点ですでに庵野さんの心象風景に片足を突っ込んでいると理解した。あの村全てが仮想空間とも受け取れる。
・作画もあの村の場面の一部だけ、なんか質感が違いましたよね?
・TV版から存在していた夕闇の電車の中での自分との対話シーン。あれはあの旧型国電の中でやってたのか。あの車両は庵野さんの地元の宇部線で長く走ってた形式。なので単に懐古趣味で旧い電車を出してたのではなく、自分の故郷の、おそらく青春時代によく乗っていた電車の中でずっと自問自答していたわけね。なんというか、本当にエヴァって私小説だ。
・村の人がレイを「そっくりさん」と呼び続けるの、普通に気持ち悪いよ! 初日だけならともかく、その後もずっと。同僚に対してその扱いは酷くないか。レイ視点だから悪意がないように受け取れるけど、実際にはあれは村社会の新人イビリなんじゃないの。エヴァは「誰が誰をどういう名前で呼ぶか」について極めて意識的な作品なので、こういう「気持ち悪さ」も織り込み済みでやってそう。
・レイはやっぱり個体によってかなり人格が違う。にしてもTV版の「ばーさんは用済み」のあの子だけは極端に性格悪かったな。あれは何だったのか。
・ミサトさんは「自分は大人じゃないけど、それでも大人の役をきちんと果たすんだ」と決めた人。TV版と旧劇場版ではそういうちゃんとした大人はミサトと加持ぐらいだったけど、新劇場版ではリツコとヴンダーのクルー達も付いてきてくれていて、そこが良かった。
・にしても生命種の種を満載した船で最終決戦に突っ込むのは、リスク管理としてやばすぎ。そいつらはどっか安全な場所に厳重保管しておくべき。
・ミサトさんが息子とずっと会わないと決めたこと。それってユイやゲンドウと同じ過ちを繰り返してるんじゃないの、と思えて複雑だった。ユイも「自分の選択を息子はわかってくれる」みたいなことを言って死んだけど、息子の側からしたら親に捨てられたと思っただろうし、その葛藤を描いてきたのがまさにエヴァという物語なので。これは「シンジの物語が終わっても全てが解決するわけじゃない。親子の葛藤は次の世代にも続いていく」というメッセージだと受け止めた。
・新劇場版の全体を通して、リツコさんの物語はほぼカットされちゃった。新劇から見た人にとっては、あの人はミサトさんの有能な副官というだけの存在になるのかな。まあ尺もあるし仕方ないか。
・新劇場版での冬月が何をしたかったのか全然わからない。旧劇場版まではユイとの再会だよね? 今回は違うの? あんた何なの?
・ゲンドウとシンジの取っ組み合いのケンカは笑った。庵野さんって、映画の前半で綿密にリアリティーを積み上げておきながら後半で暴走するよね。『シン・ゴジラ』の無人在来線爆弾のときも思ったけど。
・「ユイ、お前はずっとシンジの中にいたのか」って、そんなの当っったり前だろうがー!! そんな凡庸な結論に至るまでに人類を3回も滅亡の淵に追いやるんじゃねえよ。
・庵野さんはエンディングの巨匠だと思っている。「全ての子供達に、おめでとう」と「気持ち悪い」。観た人の記憶に刻み込まれるエンディングを2つも作ったのは神業。
・そして今回のエンディングも後世に語り継がれる素晴らしい出来だと思った。俺は泣きました。
・大人になったシンジ君、イケメンだなあ。声は神木君だしパートナーは素敵な人だし。この話って結局「ただしイケメンに限る」ってやつじゃねーの、という思いもよぎる。
・チョーカーを現実世界でもずっとつけてたのは、思春期の呪縛はそれだけ強いものなんだという意味合いかな。それとも単にマリがチョーカーを外す場面が撮りたかっただけ?
・マリは鶴巻和哉の色が濃いっていう評を見たけど、確かに『フリクリ』から飛び出てきたみたいなキャラ。『フリクリ』も大好きなので嬉しかった。鶴巻さんもありがとう。
・でもこの結末って言ってみれば「夢オチ」だよね。それでも自分も含めて肯定的な感想が多いってことは、要するにたいがいの人は登場人物の人間関係に決着がつくことを何より重視していて、そこに整理がつけば夢オチでも構わないと思ってるってこと…?
・「One Last Kiss」最高。天才の曲。宇多田ヒカルのエヴァ関連の仕事は全て文句のつけようがない。こんな荒唐無稽な物語にかっちりハマりつつ、なおかつ宇多田ヒカルらしさを失わない曲をよくぞ3曲も作ったものだと思う。宇多田ヒカルさんもありがとう。
・で、『Q』で出てきたトウジの制服は何だったの? とかそういうことを考えだすとキリがないので、もう考えない。
劇場で自分の前の席に高校生の集団が座っていて、終わった後で「どうだった?」「わかんねー(笑)」と、まさに自分が高校生で旧劇場版を観た時と同じような会話を繰り広げていた。そのことに何だか感動してしまった。
今日の帰り道、長い塀とその中にある高い木々に囲まれた屋敷を見かけました。随分昔からあるような雰囲気でした。大きな門のところにはぴかぴかの監視カメラがあって、そこだけちぐはぐな感じがしました。
私は散歩が好きで、気がつくと三時間くらい歩いていたりします。この街はくまなく歩き回ったと思っていたのですが、まだ知らない場所があったみたいです。こういうことがあると、物語の中に入ったようで少し楽しい気分になります。ここはそんなに大きな街ではないので、もう何ヶ月かしたらきっと、本当に行ったことがない場所などなくなってしまうでしょう。そう思うと少し残念でした。その時が訪れたら、人に迷惑にならない程度に少しばかり酒に酔って散歩するのも良いなと思いました。そうして、意識がはっきりしていない状態で歩き回ると、「猫町」に出てくるような遊びができるかもしれないと考えました。
小説といえば、昔に村上春樹の小説を夢中になって読んでいたことがありました。近頃はあまり読まなくなってしまったのだけど、日常から非日常へとシームレスに暗転していく感じが好きで、今でも地下鉄に乗っている時や、古いホテルの長い廊下を歩いている時などに小説の情景を思い出します。
どうして村上春樹のことが頭に浮かんだかというと、今横を歩いているこの立派な屋敷は「1Q84」に出てくる篤志家の老婦人が住む家の描写に似ていたからだと思います。塀の中にはほうれん草が好きなドーベルマンや、隙なく鍛え上げられた肉体を持つガードマン・タマル氏がいそうでした。思わず空を見上げましたが、月は一つしかありませんでした。
小説の内容は断片的にしか思い出せませんでした。ただ、タマル氏が語った木彫りのネズミを作る少年の話ははっきりと記憶しています。その少年はタマル氏が育った児童養護施設にいて、ネズミを彫ることの他に何もしませんでした。少年がネズミを彫る情景は、何故かわからないが心に残っていて、それは自分にとって大切なもののように思える、というようなことをタマル氏は言っていました。それが彼の心象風景なのだと。
1Q84を初めて読んだときのことはよく覚えています。お金がなかったので本は買えず、図書館はずっと予約待ちでいつ読めるかわからず、でもどうしても読みたかったので、きっと責められるのでしょうが、隣町の図書館に行った帰りに本屋で立ち読みをして少しずつ読み進めたものでした。
その当時の私は、失意のどん底にいました。大学受験に2回も失敗したのです。高校を卒業して就職し、少し経って色々なことが見えてきて、大学に行きたくなって、仕事をしながら受験勉強をしました。そして失敗しました。頑張って溜めたお金もどんどんなくなって、やっぱり自分は馬鹿なんだ、甘かった、叶わない夢を見ていたのだと思い知らされて、本当に惨めでした。それでも諦められなくて、図書館の自習室に通って勉強を続けていました。
そんな折にウッカリ病気になり、入院して手術を受けなくてはならなくなりました。高額医療なんとかという制度でかなりの額が戻ってきたのですが、それでもやはりお金は減るし、大部屋だったので周りの病人になんやかんや干渉されるし、古い病院なので暑くて臭いし、とにかく最悪でした。
その日も最悪な気分でした。手術で受けた傷が痛みました。術後から数日間しか経っておらず、しばらくは風呂に入れないでいたので、自分が臭いのがわかって辛かったものです。
気分転換でもと思って院内を散歩しているうちに、見知らぬ病棟に入り込んでしまったようでした。エレベーターで一番上まで上がると、屋上に続くドアを見つけました。
屋上には誰もいませんでした。洗濯されたシーツがはためく耳障りな音と、やかましい蝉の声だけが聴こえました。季節は夏で、真っ青な空と真っ白な雲のコントラストが憎たらしいと思いました。しかしながら病院の屋上というのはなかなか絵になるもので、まるで自分が小説の中に入り込んだような心持ちがして少し気が晴れました。ですが、そんな雰囲気で柵に凭れたら、熱された金属が肌を焼いて飛び上がり、格好が付きませんでした。ため息をついてふと見下ろすと、ある病棟の窓から内部が見えて、目をこらすと病室から廊下に棺が運び出されているのが目に飛び込んできました。
私はますます憂鬱になりました。それで、とぼとぼと病室に戻ると、点滴を引きずりながら歩いたせいで血が逆流してしまったらしく、看護師さんに怒られました。
落ち込みながら、歩き回って汗をかいたので着替えて、脱いだTシャツを流しで洗濯していると、明らかに大掛かりな手術をしたと思われる包帯ぐるぐる巻きの人がやって来ました。その人は壺のようなものを重たそうに持ってよろよろと歩いていて、とても怪しい人物のように見えました。それを流し台に置いて居なくなったかと思うと、しばらくして綺麗な花束を持って戻ってきました。壺ではなく花瓶だったのかと私は思いました。
その人にとって、かがみこんで花を花瓶に入れることも、蛇口をひねることも、そしてその後に運ぶことも難しい状態に思えました。普段は、困っている人に親切な行為をするのに随分勇気が要るのですが、その時は反射的に声をかけることができました。
病室のテーブルに花瓶を置くと、その人は小さな板(何回でも書いて消すことができる子供用のお絵かきボードがありますが、それに似ているものです)のようなものを取り出し「ありがとう、とても助かりました」と書きました。そして、手術をしてもう喋ることができないのだと続けました。私はその時初めて、その人が今まで一言も発していなかったことに気が付きました。
私は何故かその瞬間、自分を恥じました。しかし、そう思ったこと自体もその人に失礼で、恥ずかしく思いました。
視線を落とすと美しい紫色の花が目に飛び込んできて、見たことがない花でした。とても綺麗な花ですねと私は言いました。
その人は花の名前を教えてくれました。名前は聞いたことがありましたが、こういう見た目の花ということは知りませんでした。
そう言うと、好きな花なんです。母が持ってきてくれた。と答えました。
それからもう10年が経ちました。あの夏を過ごした翌年に、私は何とか滑り止めの大学に合格しました。その後、機会にめぐまれて、大学院にまで進学することもできました。いわゆるロンダリングです。恥を忍んで正直に言うと、大学に入るまで大学院を存在することを知らなかったので、それを初めて知った時はなんだか謎めいた機関のように思えました。周りに院を出ている人などいなかったし、そもそも大学を出ている人も多くはありませんでした。今では、本の奥付に書かれた著者のプロフィールにX大学大学院X課程修了などと書いているのが目に入るようになりました。昔から色々な本をたくさん読んでいたはずなのに、きっと見えていなかったのでしょう。
20代前半で初めて東京に出てきて、育った環境の違いに打ちのめされたものでした。中高一貫の学校出身の人々に囲まれて、私が初めからこういう場所で育ったならどうなっていたかなと考えましたし、今でも考えます。奨学金の残りの返済額に憂鬱になることもしょっちゅうで、そういう心配がない人はいいなと思います。進学してから変な経歴を笑われたこともありましたし、ロンダだと陰口を言われたこともあって、そうした時は悲しくなりました。
でも、いつからか、自分で自分の人生をある程度コントロールできているのだという充足感があって、これは昔にはなかったものでした。ただ、これは、大学受験を乗り越えて「分断」を渡った(かもしれない)ことだけが原因ではないように思えます。
何かがあって落ち込んだり、何かなくてもふと悲しくなったとき、あるいはただ呆けているだけのときに、あの夏の病院で出会った包帯の人との出来事が、鮮やかな紫色の美しい花のイメージとともに浮かび上がることがあります。普段は忘れていて、そのとき見たものや匂いや状況などがトリガーになって出てくるのでしょう。この情景はとても印象的ではあるのですが、別に感動的ではないし、大きく感情を動かされることもなく、さして貴重な体験だったという訳でもないように思えます。
ただ、思い出したときに何となく心が凪いで、これは私だけが持っているものだと言う気持ちになります。多分ですが、自分にとって大事なものであるような気がするのです。そう思うと、タマル氏が言っていたことが理解できるような気がしました。
「俺が言いたいことのひとつは、今でもよくそいつのことを思い出すってことだよ」とタマルは言った。「もう一度会いたいとかそういうんじゃない。べつに会いたくなんかないさ。今さら会っても話すことなんてないしな。ただね、そいつが脇目わきめもふらずネズミを木の塊の中から『取り出している』光景は、俺の頭の中にまだとても鮮やかに残っていて、それは俺にとっての大事な風景のひとつになっている。それは俺に何かを教えてくれる。あるいは何かを教えようとしてくれる。人が生きていくためにはそういうものが必要なんだ。言葉ではうまく説明はつかないが意味を持つ風景。俺たちはその何かにうまく説明をつけるために生きているという節がある。俺はそう考える」
・美術品ってその時代背景とか、文脈とか、心象風景とか、ノスタルジーとか、知識やら感性やらが合わさって初めて良さがわかる、例えるなら超ニッチジャンルの創作物だと思うんだよね、だから理解できる方がおかしいんじゃねーのかと思ってるんだけどどうなの
俺は逆に背景にあるものを考えないと楽しめないわ。
お、こいつ美術の美の字もわかんねーやつだな?って思われてそう
そのとおりです
・絵がデカかった
・静かで靴の音が響いた
・ヘッドフォンマーク付いてるやつ、あれどうやって聞くのかわからん
・美術品ってその時代背景とか、文脈とか、心象風景とか、ノスタルジーとか、知識やら感性やらが合わさって初めて良さがわかる、例えるなら超ニッチジャンルの創作物だと思うんだよね、だから理解できる方がおかしいんじゃねーのかと思ってるんだけどどうなの
・そういうの関係なしに圧巻とかキレイっていう品は分かりやすくてよかった
いや違うか、細身とか巨乳とかロリとかもありそうだけど展示できないんだな
場所によるのか
親が愛してくれます。
もうとっくに成人して久しく久しいのに。
私がこれまで知っていた「親」という人は、継母で、私の存在を知った時から、私が消滅するようにと日々願っていた。
それで私は、私が自殺したら「家族」が喜ぶのだと、ヒシヒシと感じながら成長した。
私が日々繰り返してきたリスカは、手首を切るとか肉体に分かりやすい傷を付けるなんかじゃなくて。
自分の心を自分で押し潰し押し殺し、自分の魂を殺し、ボロボロで何も無い自分を更に切り取って、何の不自由もない「家族」のために捧げ続けることだった。
そんなんで、生きることなんか、当然、できる訳が無くて。
両親と家族の愛情を一身に浴びて、スクスクと育つ腹違いの兄弟にとっても、両親が嫌がる私の存在は許せないようだった。
同じ「両親」の光と陰を彼らは知らなくて、知る必要もなくて、「両親」の陰を一身に投影した私を殊の外、蔑むのだった。
「兄弟平等にする方針」と「両親」は言うなかで、彼らは同じ家の中にいながら、別世界の生物だった。
心象風景は、室内で団欒する家族の暖かい光を、夜毎、暗い外にある見すぼらしい死ぬ小屋から私は独り眺めている、そんな感じ。
本当に私は生きられなかった。
それは、とりもなおさず、全て私自身が悪いのだ。「誰も」がそう思っていた。「家族」もそう思っている。
きっと紛れもない事実でもあるのだろう。
しかし、そんな私のままで、今は多分、生きかけている。
私を愛している実の親に出会ったから。親が私に「生きて」と思ってくれているから。
それで今や、私は他人を愛すことすらできるようになった。
いや、下手な新米だから、他の人に比べれば、きっと、あんまり愛せて無いけど。
辛く思う時があっても、それは一瞬たまたま雨雲の下に居るだけだと知っている。
闇の中で闇しか知らなかった時、実は私のための光が常にあったのだから。
ただ、私にその光は届いていなかっただけで。在り続けていたから。
この愛を人生の初めからずっと、当然に受け続けてこれる普通の人達を思うと、ああ。
ため息が出る。素晴らしいんだね、人生は。
小学校低学年の頃、温泉旅館のゲームコーナーで遊んだゲームと、つい最近再会した。
当時、私の家族は年に一度、伊豆の温泉旅館に2泊3日で旅行をすることになっていた。
毎年行くその温泉旅館のゲームコーナーに、それは置いてあった。
男がどこかの施設の階段を猛烈な勢いで駆け下りる姿、海が干上がって砂漠となった地球の風景、3Dステージで自機にロックオンされて轟音とともに撃ち落とされていく敵。いつも微妙なゲームしかなかったゲームコーナーにあって、一際目立つシューティングだった。
デモを見ていて心を動かされたのは、私ではなくて当時中学生だった兄のようだった。
普段まったくゲームセンターに出入りしない2人にとって、ゲームそのものはとても難しく、兄の力をもってしても2面までしか進むことができなかった。
兄はなにより曲に感動したようだった。後日、サントラを購入して一緒に聴いた。
数年後、それはセガサターンに移植されることになる。かつての感動をもう一度、と始めたゲームは、「覚えゲー」であり、家庭用シューティングはたくさんプレイしていたので、ラスボスにたどり着くまでに時間はかからなかった。
だが、ラストに衝撃的な演出が待ち構えていた。ラスボスの背景は、宇宙の創生から人類の誕生、戦闘機や戦車、ゴミの山とそこに埋もれる日本人形、こちらを見つめる猫、と目まぐるしく変わり、倒すと地球が真っ二つに割れて終わるーー。
2人ともこれを「真のエンディング」とは思えず、ラスボスの倒し方を巡って話し合い、色々と試してみたが、どうしても地球は滅亡した。
結局なにがなんだか分からないまま、ゲームからは離れていった。
やがて自分が中学生になる頃には、兄は大学生になり、一緒にゲームをすることもなくなった。毎年の家族旅行もなくなった。複雑な事情で父親は最後の数年間は一緒に行くこともなかった。
思い出の旅館も、負債を抱え込んだ挙句、事業再生の名のもと、名前も経営者もコンセプトも変わり、跡形もなくなった。
そのまま忘れ去れるはずだったが、高校生になる頃、ゲームの別の側面を知ることになっていく。
あるとき、何気なくネットでゲームの名前を検索してみると、演出が高く評価されており、カルト的な人気があることを知った。2chでは主人公になりきったマニアの書き込みが人気を博していた。
自分も引きずられてのめり込んでいった。兄が買ったのとは別に出たアレンジのサントラを買い、ライナーノーツに書いてあるストーリーを読み込み、曲を聴き込んだ。
絶望的としかいいようのない世界観、それに比して明るい1面の曲。
人類の侵略者を叩く反撃作戦は停戦交渉を前に永久に凍結された。それを拒否して暴走し、一人立ち向かう主人公。
作戦名には「純然たる自由」とあった。主人公を操るプレイヤーが1面で聴く曲は「born to be free」だ。しかし、自由をもぎとろうと行動した結果、最後に地球は割れる。なにが自由で、なにが不自由なのか。
地球が割れるのが実は心象風景なら、そうならないで済む未来は、どうしたら実現できるのだろうか。何が正しくて、何が正しくないのか。
大学受験に失敗したときも、つきあっていた彼女と別れたときも、サントラを聴いた。
社会人になってしばらく離れていたが、一年ほど前から、なんとかしてまた実機をプレイしたいと思うようになっていた。なにぶん古い上にマニアックで、なかなか見つからない。レトロゲームを扱うゲームセンターが、基板を所持していることも知ったが、同じ会社が作った名作シューティングが稼働していても、このゲームが稼働しているのは見たことがなかった。
と思っていたが、先日ついにゲームセンターで稼働しているのを見つけた。温泉旅館で実機に触れてから、28年ぶりの対面だった。
当時のままのゲームがそこにあった。完全にステージと同調するサウンドも、真っ二つに割れる地球も、そのままだった。サターン版では正確に移植できていなかった部分も、当たり前だがちゃんと表現されていた。
サターン版をやり込んでいた記憶が蘇ってきて、2回目にはワンコインでクリアすることができた。
しかし、懐かしいと感じるのは、2面までだった。
2面終盤の難所で撃墜されながら、自分は何を求めてこのゲームをしているのだろうと自問し、答が出ないので、今日もそのゲームセンターに通っている。
つらーっと上澄みだけ読んだ結果、凄く良くできた秀作だなあと。下の増田が言うように天才ではないけど、まとめる才能がないとあの構成できないから。間違いなく学習型の才能。つまり秀才。
主人公への出題の仕方がいいんだよ。要するに主人公への問題提起とその乗り越え方を演劇の技術論を通しつつ語ってゆく。片方づつではなく同時にやるのがうまい証拠。並の作者の場合技術論と心象風景が分離する。更にこの原作者には余裕があって、銀河鉄道のメタ発言をキャラの思惑に乗せて、作者が言いたいであろう心情を上手にカモフラしつつ物語のメッセージ性へと昇華している点。その中でキャラの相関と化学反応を上乗せして物語の難読化を図っている。たった1~2巻程度しか登場しない演出家兼脚本家大御所と、その男によって人生を台無しにされた女優の凄絶で深い愛憎なんかもよく言葉少なに語れるもんだと思う。大変うまい。圧倒的経験値。
ただ巧み味走りすぎて誰にも寄り添ってない感じがして、自分は揺さぶられないと言うか。まさに表面上のカメラ写りと演技を知り尽くしたサブヒロインの彼女のような、達観した気持ちで原作者が描いてると思うんだよね。だから自分の才に溺れて有頂天になった結果今回の事件かなと。個人的に「強制」じゃなけりゃ性的交渉は単なる商取引に過ぎないので良いと思ってますが、強制はまあなあ……。
投稿する前に音声読み上げで朗読してもらい、引っ掛かりを徹底的に修正する癖をつけたほうが良いか。
基本男女の類型で出来てるので、そっちを軸に評価すればよいのだろうけど。
あと仕掛けとして、剣も魔法も使えない人がこっぴどい扱いを受けて、マッサージをやらされた挙げ句陵辱される方が振り切ってて良くないかな。
自分は陵辱基本的に嫌いだけど、この内容ではジャンルとしては半端な感じ。
この弱いってところが何にも活かされてない。
ちなみに昔からこの接続語を多用する人は上手ではないと言われています。
状況説明と心象風景を混ぜてはいけない。あえてやるなら「視界が悪くなるのは怖かったが、木陰で休みたい"という気持ちが"優先された」といった、状況の一部として説明すべき。
あと助動詞に気を払えば「視界が悪くなるのは怖い(現在形:形容詞止め)、だけど(逆接)木陰で休みたかった(過去形)」でもいいし。
※ネタバレを含むのでまだ観てない方はご注意ください。
もう多分に語り尽くされていると思いますが、
私は世間的にはもういい歳したおっさんであり、登場人物では須賀さんの方が年齢が近く、
10代の若者のボーイミーツガールを観てはたして楽しめるのだろうかと思っていたが、何のことはない、とても楽しめました。
いい加減、仕事に支障をきたすので、ここでまとめて区切りにします
序盤でまさかの野沢雅子さん演じる占い師が現れ、晴れ女と雨女について語るシーンがあり、
悟空をチョイ役に使うわけがないって事で耳の穴かっぽじってラノベ設定を聞いてましたが、
雨女は龍神系、晴れ女は稲荷系ってことで、順当に行くと陽菜さんは晴れ女=稲荷系なのかと思いきやどうにも特徴に合わない。
というのも拳銃ぶっ放したサイコ野郎の帆高くんに救いの手差し伸べ、二人きりで廃墟に逃げ込むほどの胆力があり、
相手が年上と知りつつ、自分の方が年上だと偽る豪胆な見栄っ張り具合を備えており、
またよく見ると陽菜さんの家には2.5リットル級の麦茶?ピッチャーを始め、背景に無数のティーポットが描かれており、
料理も大雑把に目分量で作っていて特徴的に完全に龍神系なんですよね。
作中では帆高くんがひたすら晴れ女とのたまうので、一見晴れ女に見えるもののこれは意図的なミスリード。
晴れが一時的なのは雨女なので雨雲を操作することはできても消すことはできないんでしょうね。
帆高くんは神津島からキャッチャー・イン・ザ・ライという小道具とセットでフェリーで東京に来るわけですが、
なんで東京に来るのか、途中まではっきりとした理由は明示されません。
しかし物語の後半で分かる事ですが、親父に殴られたのか何なのか、心象風景で彼がここじゃないどこかを求めており、
島で光を見つけ、その光の中に入りたいがため、それを追って東京まで来たと言う理由が明かされます。
この光というのは作中で陽菜さんが導かれた光と同じで、恐らくは龍神の導きによるもの。
つまり彼は龍神に導かれてやって来たわけです。では何のために?
冒頭、フェリーのシーンで彼は降り出した雨に喜び、フェリーの甲板でなぜかはしゃぎまわるわけですが(このあたりの考察は足りてません)、
その時突然の大雨が降り、あやうくフェリーから落ちそうになるわけです。
正確には落ちそうになったところを須賀さんに助けられるわけですが、
実は帆高くんはこの時海に投げ出されて死ぬ運命だったんじゃないでしょうか?
彼が人柱にならないので当然雨は止まず、以後、治安のよくない地域を徘徊させたり、拳銃を持たせたり、
チンピラと格闘させたり、警察と取っ組み合いさせたり、老朽化した階段を踏み抜かせたりしてもまだ死なない。
だから龍神の巫子?である陽菜さんを撒き餌に無理やり彼岸に誘ってみたものの、結局人柱とならなかった・・・
と言う風にとらえられないかって気がするんですがどうですかね?割と良い線いってませんか???
これでなぜ帆高くんが彼岸に行けたのかという理由にはなる気がします。
しかしなぜ彼が人柱に選ばれたのかは天の気まぐれ以外に理由が見つかってません。
野田洋次郎さんが歌うわけです。「諦めた者と賢い者だけが勝者の時代」と。
劇中で須賀さんが言うわけです。「もう大人になれよ」と。
ちょっと話は逸れますが少し前に功利主義というものが取り沙汰されました。
よくあるのがトロッコ問題です。多数を助けるために少数を犠牲にするか否かとか言うやつですね。人それぞれ答えが違うやつです。
狂人が考えたんですよ。しかしその狂人を生んだ世界はさらに狂っている。
狂った中で誰もが生きているから狂ってることに気がつかない。
大小違えど狂人なんですよみんな。狂人達がお前の方が狂ってる、いや狂ってるのはお前の方だって言ってんです。
滑稽ですよね。でもみんな本気なんです。
本当は、本当は誰一人として賢いやつなんていないんですよ。
全員が全員狂ってて誰がどうやって賢さなんてものを測れるんですか?
天気の子の登場人物もはっきり言ってまともな奴は一人もいない。
全員が全員みんなどっか狂ってんです。でもそれが何か。
大人になれって言った須賀さんは帆高に触るなって言ってタックルかますんですよ。最高ですよね。
帆高くんも全部わかってて陽菜さんに晴れ女をやらせ、晴れ女なんかやらせてごめんって言ってんですよ。
陽菜さんも諸々わかった上で晴れ女をやって、人の役に立てて嬉しい、ありがとうって言ってんです。
凪くんも女装して登場して今さら全部お前のせいじゃねえかっていって泣くんですよ。
夏美さんも凪くんの彼女ズも(ところで、花澤綾音...新海監督、本当にありがとうございます...!)
みんな分かった上で狂ってる。だがそれがなんだと言うのか。
「青空よりも俺は陽菜がいい! 天気なんて狂ったままでいいんだ!!」
みんな狂っているのであれば、結局それが普通なんですよ。
もし、帆高くんが島から出なかったら、フェリーの甲板ではしゃがなかったら、
須賀さんにビールを奢らなかったら、ネカフェ難民にならなかったら、拳銃をすぐ警察に届けていたら、
陽菜さんを見て見ぬ振りしていたら、陽菜さんの窮状を知って児童相談所に相談していたら、、、
そうやって賢い選択をしたのであれば狂った世界はまともになったのかもしれません。
「今の子はかわいそう。昔は春も夏も素敵な季節だったのに。」
はたしてそうかな?
その後の坂道のシーンで雲の隙間から差す光に帆高くんは感動していましたよ。
それをかわいそうとは私は思いません。
・月姫の琥珀編→『姑獲鳥の夏』+『絡新婦の理』+『狂骨の夢』※盗作レベル
・月姫→『痕』→夢の中で殺人起こして、目覚めたら本当に事件が起きており、主人公は自分がやったと錯覚する。
しかし実際は、殺人鬼と自分は、意識が共有するリンク能力を共に持っていたため、
自分が相手に意識をリンクしていたように、殺人鬼もまた自分の視点を盗み見ていた。
殺人鬼が身内を狙っていることに気が付き、主人公は犯人を止めようとする。
・シエル、ネロ・カオス→『HELLSING』アンデルセン、アーカード
・空の境界→『ブギーポップは笑わない』+『異邦の騎士』
・Fate/stay night→『仮面ライダー龍騎』+『魔界転生』
・士郎→『ブギーポップは笑わない』霧間凪→他が死んで自分だけ生き残ってしまった結果のメサイアコンプレックス
自分の命を救った故人の夢を継いで「正義の味方」を目指して戦う。
・アーチャー→『少女革命ウテナ』鳳暁生→理想を求め多くの人を救おうとして自己を犠牲にしてきた結果
白髪で色黒で紅い服の体躯のいい男になっている、心象風景は無数の剣。
・空想具現化、固有時制御→混淆世界ボルドーから造語をそのまま引用。
・HF→『少女革命ウテナ』→憎悪を受け続けて育ち愛する人に依存し暗黒面に堕ちて魔女となったヒロインと
アーサーの病気のことや家族の関係性、その他いろいろに自分と重なるところがあって、そして終盤に心からアーサーが笑ってる場面をエンドロールで反芻していたらなんだか涙が止まらなかった
アーサーがノートに、「精神を病んだ者にとって最悪なのは世間の目だ。"普通"にしてろといわれる」みたいな感じのことを書き綴るシーンが強烈に頭に残っている
「共感できたから良かった」という感覚とはちょっと違っていて、陰鬱で"重い"内容の映画だとは思うんだけど、鬱でも前向きに頑張っていこうみたいな気持ちになれた
うまく表現できないのがもどかしい...決して底抜けに明るく、晴れやかな気分になれるような映画ではないけど、明日も生きようと思える、そんな映画だった
僕はこの映画が好きなんだと思う