はてなキーワード: 心象風景とは
冬のライダー映画は、現行のライダーと前作のライダーがクロスオーバーするのが定番になっています。
前作のライダー「リバイス」は、悪魔をモチーフにしたライダーでした。ただ、この「悪魔」というのが厄介なんです。
最初、「リバイス」における悪魔は、人間の中にある抑圧された側面だと思って観ていました。己を顧みず人助けをする主人公の一輝くんは、その反面お節介=エゴイストであることが仄めかされ、彼の悪魔であるバイスとの交流を通じて、それを自覚し受け入れる物語になっていくのだろうと思いました。
しかし、中盤で悪魔の始祖「ギフ様」が地球外生命体だということが明かされました。え?
しかも、悪魔は外科手術で移植することができるようです。なぜ?
悪魔といえば「契約」です。一輝くんは、記憶と引き換えにバイスの力を借りる契約をしており、これが終盤、戦えば戦うほど記憶が失われていき、守るべき家族のことも忘れていくという悲劇的な展開に繋がっていきます。
しかし、一緒に戦う兄弟たちは、特に対価を払っている様子もない。あとバイスは人間を喰おうとしてたけど、他の悪魔はカレーとかを食べたがってた。何?
とにかく設定というか、ルールがわからないなというのが「リバイス」というライダーの感想だった。だからTV最終回で、バイスの存在と記憶を引き換えに家族の記憶を取り戻す展開もイマイチのりきれなかった。
とはいえ、一年通して平和のために戦う姿を観ていたのでスクリーンで久しぶりに戦う姿を観れてなんとなく嬉しくなった。
序盤、悪魔の始祖ギフ様に文明を滅ぼされた宇宙人との戦いで、一輝くんが必死の重症を負った。
(なぜ人間から生み出される悪魔を必要とするギフ様が文明を滅ぼしたかは謎だけど、気にしないことにしよう。ギフ様が宇宙にいたのは少なくとも数千年前の話だったと思うけど、宇宙人と地球人の時間感覚は違うだろうし、それもいいや)
重症を負った一輝くんは、自分の記憶が燃えまくっている地獄みたいな場所に行った。たぶん心象風景だろう。
途中で別れ道に立った一輝くん。右は光差す道、左は地獄の業火が燃え盛っている。右に進もうとする一輝くんに、謎の声が「それでいい」というようなことを言う。たぶん、この声はバイスの声なんだろうと思った。一輝くんがこれ以上戦いで傷つかなくてもいいように、そう言ったに違いない。
しかし、途中で「家族を守る力が欲しい」と思った一輝くんは方向転換して地獄の道へ。そこでバイスと再会し、バイスは復活した。やったぜ。
復活したバイスはそのことを喜び、「ファンのみんな〜お待たせ!」などとはしゃいでいる。じゃああの謎の声はなんだったんだ?
「リバイス」の復活を描いたところで、映画はクロスオーバーのターンに突入した。
現行のライダー「ギーツ」は、ライダー同士がサバイバルゲームへの参加を通じて地球を守るというストーリーだ。ゲームの勝者は自分の望みを叶えることができる。
今回のゲームは、マラソン。前半で攫われた一輝くんの弟である赤ちゃんから取り出された悪魔を42.195km運んだらクリアだ。なぜ攫った悪魔を一度ライダーに預けて運ばせるかは謎だ。目的の場所にはライダーしか辿り着けないとかでもない、普通にゴールで黒幕が待ってた。
その後、2ndステージとしてライダー同士が最後のひとりになるまで戦う「絶滅ゲーム」が始まった。シードとして政治家の息子で格闘技のチャンピオンという新しいライダーが急に参加してきた。こいつは格闘技のチャンピオンなのにハンマーを使って塔を建てるのが目的というヤバいやつだ。「絶滅ゲーム」を開催した理由がわからない。黙って塔を建てれば誰も邪魔しなかったんじゃないか?
一方でこの新しいライダーは、ゲームに勝利して父親を独裁者にしたいらしい。何がしたいか本気でわからない。塔なの?党なの?ハッキリしてよ。
最終的に、盤外でゲームマスターが変わったために、「絶滅ゲーム」は「シカゲーム」に変更された。格闘技チャンピオンのライダーが鹿モチーフなので、そいつを倒したライダーが今回の勝者となるらしい。ボクシングやってたら決着が将棋に変わったくらいの衝撃だ。参加者はたまったもんじゃない。「シカゲーム」って言いたかっただけだろ。少し古いぞ。
一輝くんとギーツがゲームの勝者となったが、どちらかの願いしか叶えられないとのこと。一輝くんは、家族が無事ならいいので、ギーツに権利を譲った。ちなみに、隣りで復活したバイスが消えそうになっている。バイスも家族だって散々言ってたじゃないか。どうした?ま、まさか、また記憶が?
そういうわけでバイスは消えてしまったが、ギーツが一輝くんの記憶が消えないように願ってくれたおかけで、バイスのことを忘れないで済みました。ありがとうバイス、お前のことは忘れないよ。一回、バイスが消えないように願ったうえで、「それは無理」って断られてたら印象違ったと思うけどね。
こうして、今回の事件は幕を閉じたのであった。
エンドロールの後、ゲームマスターが「今回のことでギーツの強さの理由がわかった。あいつは、この時代の人間ではない」って言ってたけど、この映画を観ていてギーツが未来人or過去から来た人だってわかる描写ありました?わからなかったなー。
まぁ他にも、20年前のライダー「龍騎」の面々がオリジナルキャストで登場したことに、言いたいこともなくはないのですが、全体的に面白い映画でした。
ただ、スシローに行くシーンが2回もあったのに、ギーツが稲荷寿司を注文しなかったのが唯一の不満点です。(ギーツは狐モチーフなので)
マンガ家がアシスタントを使うように、アシ使って書く小説家っているのだろうか(ビジネス書の作家なら本人が書いていることのほうが少ないくらいだろうけど)。
シナリオだと登場人物同士の日常会話の気の利いたセリフだけ書くライターがいると聞く。小説だとどうだろうか。
短編連作のようなつくりで一篇をまるまる別の人間が書くというのはありそうだけれど、そういう切り離したカタチではなくて、たとえば登場人物が新幹線で東京から広島まで移動する。乗車から下車までの車中の様子はアシが書く。作家はそのなかに心象風景的部分だけ書き加えていく、みたいな書き方している人はいるのだろうか。
「序」は多分「破」公開前にやってた金曜ロードショーか何かで見た。シンジ君がウジウジしててなんだこいつと思った。
(その後ネットで「中学生に突然命懸けさす奴らの方が頭がおかしい」という意見を見て確かにそうだと思い直す)
「破」は多分彼氏と映画館で見た。「破」はシンジ君が成長して見てて楽しかった覚えがある。
「Q」も多分彼氏と映画館で見た。ど、どゆこと…??と思った気がする。リリンって何??
というか、3つ全部見てるけどほぼ意味分からず見終えている。人類補完計画って何?使徒って何?な状態だし内容もほぼ覚えていない。
しかし今回復習もせずにアマプラで夫(上記のかつての彼氏)と「シン」を見たので以下感想。
パリだーてかエヴァパイロットのピチピチの格好が恥ずかしいと言及されたぞ?あれ絶対恥ずかしいと私も思ってたよ。
戦闘と同時になんかパソコンカチャカチャやってるけどなんで地べたに座ってる感じなん?腰大丈夫?何やってるんだか全然わからんけども。
え〜街赤かったのが元に戻った〜!戻るんや?てかそもそもなんで赤いんだっけ??
なんか元クラスメイトの人達大人になって子供までおるやん。なんでシンジ達は浦島太郎状態なんだっけ??前回そんな終わり方したっけ?分からん。
シンジ君相変わらずめっちゃ落ち込んでるけど。確かシンジ君のせいで世界が終わる的なことになったんだよねー、そりゃ落ち込むよ、しょうがないよ。
この人の関西弁絶対おかしい。私は関西人じゃないけどおかしいと思う。関ジャニの村上がマツコにビジネス関西弁とイジられてたのを彷彿とさせるような関西弁だなー。
つばめちゃん可愛い。赤ちゃんの描き方がちゃんと赤ちゃんの可愛さを表現できている。
綾波そっくりさん「おはようって、何?」「仕事って、何?」なんでも質問してくる幼児みたい。
シンジ君結局立ち直った、よかった。
と思ったらそっくりさんが溶けちゃったよー!せっかく楽しそうに暮らしていたのに残念だ。またシンジ君のトラウマにならない??
ピンクの髪の子がブチ切れている。今時の若者みたいなキャラだけど昔から続いてるアニメだから喋り方がなんかちょっと古い。現代の若者ではない。でもそれは仕方がない。
アスカが眼帯取って目からなんか取り出した〜!びっくりした〜!
シンジ君エヴァに乗るって言い出してまた変な関西弁と古い若者がブチ切れたけど結局乗ることに〜
父と息子で戦うけどシンジ君の心象風景を背景にお送り〜多分ファンには堪らないのでしょう、ファンサービス的な?
ゲンドウさんが解決するのは暴力じゃない?みたいなことを言い出してなんか話し合いを始める。
ゲンドウさんは孤独が好きで、知識が好きだったのに、唯と恋に落ちた。このゲンドウ君と恋仲になってゲンドウ君の世界を変えた唯すげーよ、どんな女だったんだ。
からの唯が死んじゃって、そりゃ悲しいわな、辛いわな。
からの、綾波がいっぱい!なぜ?!おかしいやろ。こんな男のどこが好きだったの?唯さんは。唯さんもおかしな女だったのかしら。
「唯はそこにいたのか」とかシンジ君を見て言うゲンドウさん。そうだよ、普通奥さんが死んじゃったら子供を頑張って育てるんだよ。普通じゃないからこんなことになっちゃったんだもんね、しょうがないね。
てか、ゲンドウさんてなんか暗いところで輪になって会議みたいなことよくやってたよね?あの人達は何が目的だったの?ゲンドウ君に騙されてたの?
てか、最愛の奥さんが死んじゃってまた会いたくて頑張っちゃうマッドサイエンティスト、みたいなやつありがちだよね?なんか話としては普通じゃない?
槍がどうのって前回から言ってるけどなんなん?意味がわからん。キリスト教的な話なの?分からん。
なんか下書きみたいなのになったーなんでか分からんけど。アニメって描くの大変そうですね〜お疲れ様です。
これまでのエヴァを振り返ってお別れみたいなシーン、ファンには堪らないんでしょうね〜
マリとシンジ君が大人になってる〜これは心象風景?実際の話?この2人いい感じなの?
なんか実写映像にすんなり変わってすげ〜 終わり
全体的によく分からなかったが、そもそも自分レベルの人間が見る作品ではないのだ。
以上、感想でした。
全てはタイトルに集約されている。振り返るとそこには二人の思い出があり、しかし振り返ったところで藤野は京本を救い出し、かつ知り合うことなどできず、京本は藤野のマンガをやめるというあやふやな決意を振り返らせてくれている。振り返ることがすべての起点になっており、かつ振り返れば君がいるという演出上の意味も含んでいる。実際に藤野はことあるごとに京本を振り返っており、フラッシュバックの折にも背中に京本のことを感じている。ところが藤野の背中をより感じていたのは京本の方であり、彼女は美大受験後も藤野の漫画を買い続けてサイン入りのはんてんを部屋に飾っていた。
ルックバックは振り返るという意味の他に、背中を追いかけるという意味も含まれている。京本は藤野に背中へのサインを書かせ、藤野を追いかけたいあまりに、せめて画力では随一になりたいと美大受験を決意する。この思いはすれ違って藤本に伝わり、藤本は一度は美大受験をやめるように進言する。この背後には藤野の京本よりも自立していない内面が潜んでいるが、それは前項の通り藤野のメンタリティにつながってくる。つまり藤野は常に過去思考型で未来を見ずに下を見て過去を見るタイプだったが、京本は上に憧れて未来を見るタイプだったということだ。
京本が常に未来を向いていた理由は、京本のメンタルが常に引きこもっていて外の世界を知らなかったからであり、拡大思考しか存在し得なかったためだ。一方で藤野は冒頭の豊富な人間関係から一度はマンガすら諦め、空手(手に何ももってない、という比喩)に逃げて失う方向へと舵を切っている。この一見した外面とは裏腹な藤野の内向性は、ラスト付近まで京本との「もしもの未来」を連想させる。マンガのコマをよく見ると、京本が全く何事も連想できない人間であることに対し、藤野はすべてを戯画化できる想像力を持つ人間であることがわかる(この発想は作家は不幸なときでも不謹慎なときでも作品のネタにしてしまえるのではと考える、といった問題だけでなく、藤野自体がいかに京本に憧れられたか、という内面的裏付けを付与している)。
美大を境にして二対の関係は消失し、孤独な部屋の風景のみが描かれる。そこには十分に背中を映した背景が使用されており、京本の姿はやはりない。しかしこの情景は実は(おそらく)藤野が思い出している孤独な執筆作業風景であり、実は自分は自分自身と常に戦って今に至ったのではないか、という思いがあった。実際にクラスメイトから無視され始めた彼女はほぼ一人で漫画家への道を成立させた。もちろん、この際述べた背景は他のアシでも描ける、という台詞は強がりに過ぎない。こうしたいきさつから彼女の部屋には微妙な変化が見られる。最初はクラスメイトに囲まれているのに孤独な藤野の姿、後に京本と一緒に執筆する姿、後にまた一人に戻る姿だ。最大の変化は初心の頃に書いた4コマだろう。京本の部屋に投げ込まれた4コマを藤野は死後回収して自室に飾る。このことは京本がライバル関係であったと同時に仲間であり、しかし同時に合否を決める編集でもあったという現れに見える。ともあれ彼女は孤独な小学生から友情を知る中学生へと移り変わり、社会人で死を知って再び孤独でないことを知る。この描写を読者目線に変換すると、常に藤野の背中を見る、という意味でルックバックという意味を成立させている。
自分を罵倒する声が他人の絵から聞こえた、という下りは二人の微妙な関係に適切ではあるが、実は藤野の心象風景である「実は自分が殺したようなものだ(家から出さなければよかった)」とリンクしている。よってあの話はデウス・エクス・マキナ的な殺しではなく、実質藤野の心象風景が京本を殺したと解釈したほうがスムーズに読める。ちなみに京本の部屋から最後に出てきた4コマは、藤野が京本を助けるというものであった。つまりここで京本は彼女を救うという妄想が受け入れられており、自分を救ったのはむしろ京本であったという逆説的な心境に至って立ち直るのである。
※並行世界説を否定しているわけではなく、当作はどちらかといえばその読み方が自然にできるようにしている。ただし現実は入れ替わらないことから、そのままちぎったマンガが京本の部屋に入り、救助するマンガが今の藤野の元に降りてくる、という演出ではないかと個人的には感じている(※『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』のオマージュだとしても)。最後の漫画は藤野がつるはしを背中に受けているマンガであり、彼女の代わりにつるはしを背負い続け、その重荷を目の前に飾っている。
マンガは極めて戯画的な分野であり、絵画ないし背景美術は(デフォルメも含んでいるが)写実の分野だ。現実性と写実性は漫画の重要なファクターであると同時に、写実が戯画を殺し、戯画が写実を陳腐化させることも往々にしてありえる。そしてこの関係は補完関係でありながらも潰し会う関係であり、二人の関係はまさに一つの漫画だった。そうして我々が彼女たちの背中を見る時に、マンガそのものをその背後に見るのである。
また、以上の事実から藤野が主役であり、京本が「背景」であるという関係性から京本が主役になりたいと切に願い、藤野の背中を追いかけていた経緯も明らかとなる。故に彼女の死後の部屋にはたくさんの藤野の連載作品が放置されている。
※京アニ解釈は他の方が遥かに詳しく、こちらが書く意味はないと判断してのこと。
※誤字指摘ありがとうございました。
※Background、良い解釈だと思いました。
映画を撮るのは金がかかる。かといって小説として書くのにもある種の困難が伴う。
だって同じ文に対して同じような反応がいくつも得られたとしても、その反応を示したそれぞれ読み手の頭に浮かんだ心象風景はだいぶ異なっているかもしれない。
漫画でいうならそれこそ絵で読者の反応を操作させるようなことが、小説だと文から心象風景(漫画でいうなら絵に当たる)を媒介してしか反応を操作できない。
しかもその心象風景さえ読者の頭の中のブラックボックスになってしまっていて、その好感触や悪い反応がどういう心象風景に基づくものかもわかりようがない。
ある文を書けば万人が唯一の心象風景を思い浮かぶということだったら、しかもそれが書き手の目に見えるものだったら、反応に多少のばらつきがあったとしても、文と心象風景が連動しているのだからフィードバックさせられる。そうやっていけばいずれ心象風景とともに反応を理想のものへと収斂させることもできる。そういう意味では漫画は書き手と読者で同じ絵を共有しているわけだから随分やりやすい。
だけど小説は文も心象風景もそれに対する感想も何一つ一対一に対応しない。しかもブラックボックスなのである。
映画なら「迫力がない」と言われればとりあえずエキストラを増やしてみればいいかなと見当のつきそうなことも、小説では読者がそもそも心の中において何を見ているかが分からないから立つ方策も立たないのである。
だからといって映画は資金(調達)力がないとだめだし、小説のような長編化もスターウォーズ並に売れないと無理って意味でハードルが高いわけだけど。
今期あみめいくつか見た。以下、所感。いずれも原作ノータッチ。
導入の動機からスムーズで、中盤に家を捨ててアイドルになり、母への憎悪と愛の独占欲の動機まで中盤に出し切ってる。そのあとで妹の歪みを一挙に表出させてゆくわけだけど、その際の妹の演出が上手。事故死直後の葬式の際に「久しぶり」のコマで妹になにか黒い部分があるのではないか、と思わせる一コマを挿入している。一コマで状況説明できるのは力量がある証拠。しかも前後関係からして妹が事故をわざと起こしたのではないか、というミスリードにも繋がっている(後述)。独占欲と妹の心象風景をもって、自分自身に一心に憎悪を向ける妹に独占欲の充足を知る。また、妹は自分と似た独占欲にまつわる憎悪を抱いていて、姉は妹に自分自身を見る。姉の心象風景は自己愛に集中しているので、もうひとりの歪んだ自分(妹)に最大の自己愛を注げるという内容。すべての伏線回収を綺麗に行っている。
ただしエピソードの割に母の死付近の演出が凄惨すぎて、上記のように殺人事件を連想させたのはわざとなのかどうかが気になる。これがわざとならサブシナリオや連載も考えてのことなんだろう。もしそうなら動機から考えて妹は姉へ愛を注ぎ続ける憎悪から母を殺したという話になる。
惜しむらくは押見修造先生のように繊細な心情を語りなくして語り切る手法がないことだけど、これはページ数が足りないか。ちょっとモノローグ説明が多い気がする。初っ端からにじみ出るベテラン感。作者はもともと研究熱心だと思う。
エヴァの元ネタはウルトラマンだとよく言われている。ウルトラマンは巨大で強く、強い自己の化身でもあり、男の憧れる父親そのものでもあり、自分を包み込んでくれる母親でもある。
庵野秀明にとって、エヴァンゲリオンという「作品」は外界と自分を繋げる唯一のものであり、庵野秀明は監督としてそれを操作していた。同時に、エヴァという機体は自分自身の才能でもあった。
同時にその「巨大で強い自己の化身」は、自分のコンプレックスの表れでもある。シンジの持つエヴァの搭乗への葛藤は、創作の才能一つで生きてきた庵野にとっての葛藤そのモノであったのだろう。
エヴァを作るころには周囲には才能を認められていた。宮崎駿やその他の監督、自分の親からの期待、「逃げちゃダメだ」という言葉は、まさに当時の庵野秀明の感情でもあったのではないか。
同時に、当時エヴァの最終話での制作の難航と、それに伴うネットからのバッシング。そして思った以上の膨大な反響、オタクたちはエヴァ作品にのめり込み、数々の作品がエヴァに影響を受け始め世界の潮流を変えた事。
自分の人格を込めたエヴァへの批判は、シンクロすればシンクロする程思い通りに動く作品の代償として、そのまま彼の精神自体に傷をつけただろう。心を無にして、ダミープラグを使いたいと思ったのではないか。
これはエヴァの暴走そのもので、彼自身にとっての作品の勝手な暴走、庵野にとっての一番大きな原体験となっただろう。同時に作品にそれらを「重ねる」という事もまごころを君にでやり始める。
エヴァに頼るな、現実を生きろ。そういうオタクへの批判は同時に、自分自身への批判でもあったんじゃないだろうか。
新劇場版はそういった「エヴァンゲリヲンという作品の制作」を通じて感じたことを再度「エヴァと言う作品」に落とし込む作業だったんだろう。新エヴァでは特に、「エヴァへの搭乗に対するシンジの心の変化」について重点的に視点がある。これは庵野のエヴァ作品への向かい合い方を落とし込んだに違いない。
やれと言われてやった(作った)→批判された(バッシング)→自分に選択肢はない(拗ねる)→他人に任せる。批判されて辞める(エヴァから手を引く)→やっぱり調子に乗って自分の為に乗る(つくる)→失敗……そこから先は庵野の「エヴァと言う作品の向き合い方」そのものなんじゃないだろうか。「エヴァと言う作品」を作った事により、他人を虚構へ誘った罪の意識から同時に、「ニアサーも悪い事ばかりじゃなかった」という言葉は自己への客観視と許しにも思える。ニアサーが起きた後の世界は、エヴァのテレビシリーズが出てからの彼から見えた世界。自分が引き起こした破片があちらこちらに浮かぶ。シンゴジラと言う作品は彼にとって第三村のようなものだったのではないか。
おそらく新劇の時から欝の兆候があったんだろう。周囲に「エヴァを作るな」と言われたことは、そのまま脚本へ落とし込まれていると思う。それでも乗り、精神を壊し、作品を狂わせてしまった。
その作品の中で、異色の存在が出てくる。エヴァを難なく乗りこなし、明るく自分に接してくれた存在。これって妻である「安野モヨコ」そのものなんじゃないかと。いろいろな「エヴァ」つまり「作品」を吸収し、精神も病まず自由に乗りこなす彼女。友達に紹介されたそうなので、パラシュートで降りてきたような物だろう。今まで他人に拒否される事に恐れていた庵野にとっての救済だったのではないか。
庵野にとっての「人類補完」へのあこがれはこの結婚によって無くなったんじゃないかと思う。この時点で多分、「妻にもう一度会いたいゲンドウ」にしか感情移入できなくなってる。
世界を変えてしまった庵野にとって、ニアサーの後の世界は、新劇を作り始めた時の世界そのモノだったんだろう。やっぱり彼は止められても新劇を作り、自分を傷つけた。そしてギリギリ自殺しそうになったのをニアサーで表現したんじゃないか。自分を、他人を変えたいと思い始めた創作、エヴァ化しそこなった首の無い人はファンたちの事だろう。
ミサト率いるヴィレは自殺を止める自分の理性であり、シンエヴァの幻想的な戦いは彼の心象風景そのものだったんじゃないか。
・エヴァの居ない世界は、そのまま庵野にとって「エヴァを作る必要のない世界」の事
作中の突如現れる空白の14年は、庵野にとってエヴァを作らなかった数年の事だろう。当時の声優も、アニメーターもファンも大人になってしまった。
第三村で、嘗て殴ってきた友達も、カメラ片手にちょこまかしてたアホガキも、かたや医者になり子供を作り、かたや一人で生き抜く一人前の男になっていた。
色に乱れてた赤城リツコも「煩悩」を髪の毛と一緒に切り、ミサトは母になった。その中で、エヴァを作り続けて悩んで苦しんでる庵野は自分自身を「何も変わってない少年」だと思っただろう。
庵野にとってそんな自分に優しく手を差し伸べる周囲の人間は、なお一層コンプレックスを掻きたてたに違いない。しかし一方で、「エヴァで皆を助けただけでも偉い」という自己肯定の言葉もちらほらみられる。
シンゴジラも成功したし、安野モヨコの夫婦漫画でありのままの自分を受け入れてもらえるし、庵野は社会的地位を手に入れて金もある。尊敬もある。
彼は自分自身を知ってもらうために「エヴァ」を作る必要などないのだ。エヴァに乗る必要なんかない。エヴァを作らなくても、エヴァに乗らなくても自分を認めてくれる人が沢山いるから。
もう他人の血も、友達を殴った手の感触も、やけどする程の熱さも、自慰で流した精子も、彼の右手には必要ない。だってもう彼の右手には握ってくれるもう一つの手があるのだから。
・雑感
無責任。これに尽きる。最近の監督は無責任だ。新宿を綺麗に描くのが得意な監督は、今まで自分が作ってきた、願った世界を子供に押し付けて「大丈夫だ」なんて言わせるし
庵野秀明は勝手に悩んで、勝手に大人になって、ずっと自分しか見えていない癖に、子供のままの俺たちを置いて去ってしまった。
世の中にはな、世界を作れなかった人間、人を気にして何も動けず下敷きになってしまった人、大人になれない髭の生えた子供たちが沢山いるんだ
そういう人に寄り添ってくれる作品を作ってくれる人はおらんのかね。若者に厳しい世の中になってしまった。
そんな複雑な話じゃないような。
具体的な自分好みの可愛い彼女像がわからないけど、理想や現実など関係なく自分にあった人、一緒にいて楽な人が全ての人間にとって実は理想だったりはするけど。
ただ人っていうのは基本的に社会性があって、その見栄の中で生きてる。
だからどうしたって理想的って言うと世間的に理想形の外見と性格を持った人を選んでしまうというか。
俺はこの人が必要だ、と思えるかどうかであって、そこに過分な要素を付け加えるわけでもなし。
多分「理想の彼女ができない自己が許せない」、という心象風景とこの過分な見栄の部分は相当関連性がある。
自分にも他人にも実は何かを要求しながらコミュニケーションを取ろうとしてる。
つまりは自分のイメージが完ぺきじゃないから対人恐怖してしまったり、水準に見合わないからいらない人が寄ってきたという感性が働く。
競争原理が内面に働いてるのに気づかないと、なんか人とうまくゆかない、というぼんやりとした印象を抱えることになる。
例えばキャリアやスキルならそれに見合った仲間ができないのは不満だろう。
それはよく分かる。
でも単純な人間関係の場合大多数は自分のやりたいこと、知りたいこととは無関係なので、普通に暮らす分には自分が望んだような人間関係なんて形成されないと思う。
ケンスケがシンジに第三村を案内する場面。首無しインフィニティを指して「最近徘徊するようになった」と言う。これはシン・エヴァの公開が待ちきれず、そわそわしているエヴァの呪縛に囚われた哀れな人間の末路。
劇中の首無しインフィニティが心待ちにしてるのは4thインパクトである。
首無しインフィニティはエヴァの呪縛に囚われれた哀れな人間の末路である。
エヴァの呪縛に囚われれた哀れな人間が心待ちにしているのは新劇エヴァである
自動的に、3rdインパクトは旧劇エヴァ(まごころエヴァ)、ニアサーは新世紀エヴァとなる。
新劇では「破」のラスト予告枠で3rdインパクトが起きた。ならば、新劇Q以降のコア化した世界は旧劇エヴァ(=3rdインパクト)を観た者の心象風景に他ならない。
なお、2ndインパクトは機動戦士ガンダムである。なぜなら、新劇エヴァの世界では2ndインパクトは「15年前」に起きたとされている(新世紀エヴァでは西暦2000年)。
ニアサー=新世紀エヴァが放映されたのは1995年であり、その15年前は1980年。すなわち、機動戦士ガンダムが放映された年である。
使徒は福音(evangel)を非信者に伝えるものである。エヴァの福音を配偶者や同僚へ伝えるエヴァ信者。
エヴァンゲリオンに興味を持たない、あなたの隣人。使徒による布教やコア化を心から恐れている。
ケンスケがシンジに第三村を案内する場面。首無しインフィニティを指して「最近徘徊するようになった」と言う。これはシン・エヴァの公開が待ちきれず、そわそわしているエヴァの呪縛に囚われた哀れな人間の末路。
劇中の首無しインフィニティが心待ちにしてるのは4thインパクトである。
首無しインフィニティはエヴァの呪縛に囚われれた哀れな人間の末路である。
エヴァの呪縛に囚われれた哀れな人間が心待ちにしているのは新劇エヴァである
自動的に、3rdインパクトは旧劇エヴァ(まごころエヴァ)、ニアサーは新世紀エヴァとなる。
新劇では「破」のラスト予告枠で3rdインパクトが起きた。ならば、新劇Q以降のコア化した世界は旧劇エヴァ(=3rdインパクト)を観た者の心象風景に他ならない。
なお、2ndインパクトは機動戦士ガンダムである。なぜなら、新劇エヴァの世界では2ndインパクトは「15年前」に起きたとされている(新世紀エヴァでは西暦2000年)。
ニアサー=新世紀エヴァが放映されたのは1995年であり、その15年前は1980年。すなわち、機動戦士ガンダムが放映された年である。
使徒は福音(evangel)を非信者に伝えるものである。エヴァの福音を配偶者や同僚へ伝えるエヴァ信者。
人間らしい生活を送る、あなたの隣人。使徒による布教やコア化を心から恐れている。
遅ればせながら『シン・エヴァ』観ました。個人的な感想メモ(ネタバレあり)。ちなみにTV版から観ている39歳男です。
・旧劇場版でシンジとアスカがお互い傷つけあったのは「二人は他者だから、触れ合えば傷つくのは必然なんだ」と受け止めてた。それに対する『シン・エヴァ』の回答は「あれは二人の相性が悪かったせい。それぞれ別の人とくっつけば幸せになれるよ」ってことだと理解した。マジか、と思いましたね。あまりに身も蓋もなさすぎて。しかし言われてみれば確かにそう。こうなってみると、もうこの終わり方しか考えられない。
・旧劇場版のアスカって、エヴァの全編を通してみてもトップクラスに酷い目にあってたと思う。肉体的にも精神的にも。見ていて居たたまれなかった。なので、浜辺のシーンで惣流のほうのアスカも救済してくれて嬉しかった。
・それにしても、まさか渚カヲルがゲンドウの分身(別人格)だとは思ってもみなかった。これが一番衝撃的だったかも。
・でもよく考えると、TV版の時点でカヲルはレイに「君は僕と同じだね」って言ってるんだよね。レイがユイのクローンだとして、じゃあカヲルは誰の分身なのかと考えれば、論理的にはゲンドウしかありえない。なんで俺は25年間その可能性に気づかなかったのか、ということのほうが今となっては不思議。
・カヲル君の「歌はいいねえ」という台詞とシンジ君のウォークマンが、25年の時を経てゲンドウというキーワードでひとつに結びつけられる展開は震えた。
・あそこに置かれていた鉄道車両は、庵野さんの故郷の山口あたりで昭和時代に走っていたやつが多かったと思う(あとは天竜浜名湖鉄道?)。あの村が箱根のそばに2029年ごろに存在しているとすると、明らかに時空が歪んでいる。この時点ですでに庵野さんの心象風景に片足を突っ込んでいると理解した。あの村全てが仮想空間とも受け取れる。
・作画もあの村の場面の一部だけ、なんか質感が違いましたよね?
・TV版から存在していた夕闇の電車の中での自分との対話シーン。あれはあの旧型国電の中でやってたのか。あの車両は庵野さんの地元の宇部線で長く走ってた形式。なので単に懐古趣味で旧い電車を出してたのではなく、自分の故郷の、おそらく青春時代によく乗っていた電車の中でずっと自問自答していたわけね。なんというか、本当にエヴァって私小説だ。
・村の人がレイを「そっくりさん」と呼び続けるの、普通に気持ち悪いよ! 初日だけならともかく、その後もずっと。同僚に対してその扱いは酷くないか。レイ視点だから悪意がないように受け取れるけど、実際にはあれは村社会の新人イビリなんじゃないの。エヴァは「誰が誰をどういう名前で呼ぶか」について極めて意識的な作品なので、こういう「気持ち悪さ」も織り込み済みでやってそう。
・レイはやっぱり個体によってかなり人格が違う。にしてもTV版の「ばーさんは用済み」のあの子だけは極端に性格悪かったな。あれは何だったのか。
・ミサトさんは「自分は大人じゃないけど、それでも大人の役をきちんと果たすんだ」と決めた人。TV版と旧劇場版ではそういうちゃんとした大人はミサトと加持ぐらいだったけど、新劇場版ではリツコとヴンダーのクルー達も付いてきてくれていて、そこが良かった。
・にしても生命種の種を満載した船で最終決戦に突っ込むのは、リスク管理としてやばすぎ。そいつらはどっか安全な場所に厳重保管しておくべき。
・ミサトさんが息子とずっと会わないと決めたこと。それってユイやゲンドウと同じ過ちを繰り返してるんじゃないの、と思えて複雑だった。ユイも「自分の選択を息子はわかってくれる」みたいなことを言って死んだけど、息子の側からしたら親に捨てられたと思っただろうし、その葛藤を描いてきたのがまさにエヴァという物語なので。これは「シンジの物語が終わっても全てが解決するわけじゃない。親子の葛藤は次の世代にも続いていく」というメッセージだと受け止めた。
・新劇場版の全体を通して、リツコさんの物語はほぼカットされちゃった。新劇から見た人にとっては、あの人はミサトさんの有能な副官というだけの存在になるのかな。まあ尺もあるし仕方ないか。
・新劇場版での冬月が何をしたかったのか全然わからない。旧劇場版まではユイとの再会だよね? 今回は違うの? あんた何なの?
・ゲンドウとシンジの取っ組み合いのケンカは笑った。庵野さんって、映画の前半で綿密にリアリティーを積み上げておきながら後半で暴走するよね。『シン・ゴジラ』の無人在来線爆弾のときも思ったけど。
・「ユイ、お前はずっとシンジの中にいたのか」って、そんなの当っったり前だろうがー!! そんな凡庸な結論に至るまでに人類を3回も滅亡の淵に追いやるんじゃねえよ。
・庵野さんはエンディングの巨匠だと思っている。「全ての子供達に、おめでとう」と「気持ち悪い」。観た人の記憶に刻み込まれるエンディングを2つも作ったのは神業。
・そして今回のエンディングも後世に語り継がれる素晴らしい出来だと思った。俺は泣きました。
・大人になったシンジ君、イケメンだなあ。声は神木君だしパートナーは素敵な人だし。この話って結局「ただしイケメンに限る」ってやつじゃねーの、という思いもよぎる。
・チョーカーを現実世界でもずっとつけてたのは、思春期の呪縛はそれだけ強いものなんだという意味合いかな。それとも単にマリがチョーカーを外す場面が撮りたかっただけ?
・マリは鶴巻和哉の色が濃いっていう評を見たけど、確かに『フリクリ』から飛び出てきたみたいなキャラ。『フリクリ』も大好きなので嬉しかった。鶴巻さんもありがとう。
・でもこの結末って言ってみれば「夢オチ」だよね。それでも自分も含めて肯定的な感想が多いってことは、要するにたいがいの人は登場人物の人間関係に決着がつくことを何より重視していて、そこに整理がつけば夢オチでも構わないと思ってるってこと…?
・「One Last Kiss」最高。天才の曲。宇多田ヒカルのエヴァ関連の仕事は全て文句のつけようがない。こんな荒唐無稽な物語にかっちりハマりつつ、なおかつ宇多田ヒカルらしさを失わない曲をよくぞ3曲も作ったものだと思う。宇多田ヒカルさんもありがとう。
・で、『Q』で出てきたトウジの制服は何だったの? とかそういうことを考えだすとキリがないので、もう考えない。
劇場で自分の前の席に高校生の集団が座っていて、終わった後で「どうだった?」「わかんねー(笑)」と、まさに自分が高校生で旧劇場版を観た時と同じような会話を繰り広げていた。そのことに何だか感動してしまった。
今日の帰り道、長い塀とその中にある高い木々に囲まれた屋敷を見かけました。随分昔からあるような雰囲気でした。大きな門のところにはぴかぴかの監視カメラがあって、そこだけちぐはぐな感じがしました。
私は散歩が好きで、気がつくと三時間くらい歩いていたりします。この街はくまなく歩き回ったと思っていたのですが、まだ知らない場所があったみたいです。こういうことがあると、物語の中に入ったようで少し楽しい気分になります。ここはそんなに大きな街ではないので、もう何ヶ月かしたらきっと、本当に行ったことがない場所などなくなってしまうでしょう。そう思うと少し残念でした。その時が訪れたら、人に迷惑にならない程度に少しばかり酒に酔って散歩するのも良いなと思いました。そうして、意識がはっきりしていない状態で歩き回ると、「猫町」に出てくるような遊びができるかもしれないと考えました。
小説といえば、昔に村上春樹の小説を夢中になって読んでいたことがありました。近頃はあまり読まなくなってしまったのだけど、日常から非日常へとシームレスに暗転していく感じが好きで、今でも地下鉄に乗っている時や、古いホテルの長い廊下を歩いている時などに小説の情景を思い出します。
どうして村上春樹のことが頭に浮かんだかというと、今横を歩いているこの立派な屋敷は「1Q84」に出てくる篤志家の老婦人が住む家の描写に似ていたからだと思います。塀の中にはほうれん草が好きなドーベルマンや、隙なく鍛え上げられた肉体を持つガードマン・タマル氏がいそうでした。思わず空を見上げましたが、月は一つしかありませんでした。
小説の内容は断片的にしか思い出せませんでした。ただ、タマル氏が語った木彫りのネズミを作る少年の話ははっきりと記憶しています。その少年はタマル氏が育った児童養護施設にいて、ネズミを彫ることの他に何もしませんでした。少年がネズミを彫る情景は、何故かわからないが心に残っていて、それは自分にとって大切なもののように思える、というようなことをタマル氏は言っていました。それが彼の心象風景なのだと。
1Q84を初めて読んだときのことはよく覚えています。お金がなかったので本は買えず、図書館はずっと予約待ちでいつ読めるかわからず、でもどうしても読みたかったので、きっと責められるのでしょうが、隣町の図書館に行った帰りに本屋で立ち読みをして少しずつ読み進めたものでした。
その当時の私は、失意のどん底にいました。大学受験に2回も失敗したのです。高校を卒業して就職し、少し経って色々なことが見えてきて、大学に行きたくなって、仕事をしながら受験勉強をしました。そして失敗しました。頑張って溜めたお金もどんどんなくなって、やっぱり自分は馬鹿なんだ、甘かった、叶わない夢を見ていたのだと思い知らされて、本当に惨めでした。それでも諦められなくて、図書館の自習室に通って勉強を続けていました。
そんな折にウッカリ病気になり、入院して手術を受けなくてはならなくなりました。高額医療なんとかという制度でかなりの額が戻ってきたのですが、それでもやはりお金は減るし、大部屋だったので周りの病人になんやかんや干渉されるし、古い病院なので暑くて臭いし、とにかく最悪でした。
その日も最悪な気分でした。手術で受けた傷が痛みました。術後から数日間しか経っておらず、しばらくは風呂に入れないでいたので、自分が臭いのがわかって辛かったものです。
気分転換でもと思って院内を散歩しているうちに、見知らぬ病棟に入り込んでしまったようでした。エレベーターで一番上まで上がると、屋上に続くドアを見つけました。
屋上には誰もいませんでした。洗濯されたシーツがはためく耳障りな音と、やかましい蝉の声だけが聴こえました。季節は夏で、真っ青な空と真っ白な雲のコントラストが憎たらしいと思いました。しかしながら病院の屋上というのはなかなか絵になるもので、まるで自分が小説の中に入り込んだような心持ちがして少し気が晴れました。ですが、そんな雰囲気で柵に凭れたら、熱された金属が肌を焼いて飛び上がり、格好が付きませんでした。ため息をついてふと見下ろすと、ある病棟の窓から内部が見えて、目をこらすと病室から廊下に棺が運び出されているのが目に飛び込んできました。
私はますます憂鬱になりました。それで、とぼとぼと病室に戻ると、点滴を引きずりながら歩いたせいで血が逆流してしまったらしく、看護師さんに怒られました。
落ち込みながら、歩き回って汗をかいたので着替えて、脱いだTシャツを流しで洗濯していると、明らかに大掛かりな手術をしたと思われる包帯ぐるぐる巻きの人がやって来ました。その人は壺のようなものを重たそうに持ってよろよろと歩いていて、とても怪しい人物のように見えました。それを流し台に置いて居なくなったかと思うと、しばらくして綺麗な花束を持って戻ってきました。壺ではなく花瓶だったのかと私は思いました。
その人にとって、かがみこんで花を花瓶に入れることも、蛇口をひねることも、そしてその後に運ぶことも難しい状態に思えました。普段は、困っている人に親切な行為をするのに随分勇気が要るのですが、その時は反射的に声をかけることができました。
病室のテーブルに花瓶を置くと、その人は小さな板(何回でも書いて消すことができる子供用のお絵かきボードがありますが、それに似ているものです)のようなものを取り出し「ありがとう、とても助かりました」と書きました。そして、手術をしてもう喋ることができないのだと続けました。私はその時初めて、その人が今まで一言も発していなかったことに気が付きました。
私は何故かその瞬間、自分を恥じました。しかし、そう思ったこと自体もその人に失礼で、恥ずかしく思いました。
視線を落とすと美しい紫色の花が目に飛び込んできて、見たことがない花でした。とても綺麗な花ですねと私は言いました。
その人は花の名前を教えてくれました。名前は聞いたことがありましたが、こういう見た目の花ということは知りませんでした。
そう言うと、好きな花なんです。母が持ってきてくれた。と答えました。
それからもう10年が経ちました。あの夏を過ごした翌年に、私は何とか滑り止めの大学に合格しました。その後、機会にめぐまれて、大学院にまで進学することもできました。いわゆるロンダリングです。恥を忍んで正直に言うと、大学に入るまで大学院を存在することを知らなかったので、それを初めて知った時はなんだか謎めいた機関のように思えました。周りに院を出ている人などいなかったし、そもそも大学を出ている人も多くはありませんでした。今では、本の奥付に書かれた著者のプロフィールにX大学大学院X課程修了などと書いているのが目に入るようになりました。昔から色々な本をたくさん読んでいたはずなのに、きっと見えていなかったのでしょう。
20代前半で初めて東京に出てきて、育った環境の違いに打ちのめされたものでした。中高一貫の学校出身の人々に囲まれて、私が初めからこういう場所で育ったならどうなっていたかなと考えましたし、今でも考えます。奨学金の残りの返済額に憂鬱になることもしょっちゅうで、そういう心配がない人はいいなと思います。進学してから変な経歴を笑われたこともありましたし、ロンダだと陰口を言われたこともあって、そうした時は悲しくなりました。
でも、いつからか、自分で自分の人生をある程度コントロールできているのだという充足感があって、これは昔にはなかったものでした。ただ、これは、大学受験を乗り越えて「分断」を渡った(かもしれない)ことだけが原因ではないように思えます。
何かがあって落ち込んだり、何かなくてもふと悲しくなったとき、あるいはただ呆けているだけのときに、あの夏の病院で出会った包帯の人との出来事が、鮮やかな紫色の美しい花のイメージとともに浮かび上がることがあります。普段は忘れていて、そのとき見たものや匂いや状況などがトリガーになって出てくるのでしょう。この情景はとても印象的ではあるのですが、別に感動的ではないし、大きく感情を動かされることもなく、さして貴重な体験だったという訳でもないように思えます。
ただ、思い出したときに何となく心が凪いで、これは私だけが持っているものだと言う気持ちになります。多分ですが、自分にとって大事なものであるような気がするのです。そう思うと、タマル氏が言っていたことが理解できるような気がしました。
「俺が言いたいことのひとつは、今でもよくそいつのことを思い出すってことだよ」とタマルは言った。「もう一度会いたいとかそういうんじゃない。べつに会いたくなんかないさ。今さら会っても話すことなんてないしな。ただね、そいつが脇目わきめもふらずネズミを木の塊の中から『取り出している』光景は、俺の頭の中にまだとても鮮やかに残っていて、それは俺にとっての大事な風景のひとつになっている。それは俺に何かを教えてくれる。あるいは何かを教えようとしてくれる。人が生きていくためにはそういうものが必要なんだ。言葉ではうまく説明はつかないが意味を持つ風景。俺たちはその何かにうまく説明をつけるために生きているという節がある。俺はそう考える」