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はてなキーワード: 鬱屈とは

2019-01-22

anond:20190122012239

一部の勝ち組以外はみんなヒイヒイ言って働き詰めで鬱屈した生活を送ってる

こんな国が先進国ですと言われても、

否定はしないが、ハイそうですかとしか言いようがない。

2019-01-21

2019-01-22

■風嬢で一生が終わると思っていた

自分をMだと思おうとしていたが、どうにも違うらしい。多分私は馬鹿なだけだ。だからあらゆることを受け入れられるし、何をされても笑っていられるんだと思う。

中学生の頃男子にボロカスいじめられていて、毎日「ブス」「キモイ」「しね」のどれかを聞くような日々を過ごしていた。それと同時進行で私はネット上で男に自分性的な面をアピールして欲情されることに酔っていた。バランスを取っていたんだと思う。リアルではボロカスに言われてゴミ扱いされているけれど、ネットではちゃんと女として市場価値があるんだぞ、と逃げ場を作らないと自分が滅茶苦茶に壊れてしまうような気がしていた。

高校生になってもそれは続いた。

周りの女子は一気に垢ぬけていくけれど、私は馬鹿なのでなんでみんながそんな風に一気に女らしくなっていけるのかわからなかった。要するに私は容姿に恵まれないのみならず芋っぽいダサい女だった。そうなってくると今度は見た目の面でも顕著に美醜やセンスが際立ってくる。女子にすら「デブゴリラ」と言われる始末だった。

私はそんな風に現実過酷化していくのと同じようにネットにのめり込んでいった。高校に上がりケータイを手に入れた私は遂に出会い掲示板(年齢や個人情報登録する必要のない、実質出会い系サイト。多分当時はギリギリ合法)で自分性的チヤホヤしてくれるおじさんと性的なことをするためだけに会った。とはいってもおじさんが、私は処女から無駄に気を利かせてくれたから、挿入は無かった。それにしたって、私にしてみれば自分に対してリビドーを感じ我慢できず放出するだらしない男の姿はひどくセンセーショナルで、蠱惑的に映った。

それから色々な男とやりとりをしては性的なアレコレをした。それだけが私の自己承認欲求繋ぎとめていた。

その中で私は奉仕型のMだとよく言われた。そうかもしれない、そう言われるならそうなんだろう程度に考えていた。

高校卒業後すぐ、出会い系サイトで知り合ったおじさんを迎え入れて、その人の精液と一緒にティッシュ丸め処女を捨てた。

お金は貰っていなかった。今思うと本当に頭の回らない馬鹿だったと思う。どうせヤるなら売れるものは売っておけばいいのに。

私にとって私という女はゴミカス程度の価値しかなく、私の体は見た目の悪い玩具しかなかった。

同時進行で卒業まで続いていたいじめが辛すぎて、大学進学をやめておくことにした。きっと私は大学でもうまくやっていけないとどこかで思っていた。結局股を開いてしか男とコミュニケーションが取れない私は「みんな」の言うように気持ち悪い存在なんだと、リアルネットが実は地続きなんだと、そんなことに気付き始めたころ、私は既に疲弊絶望に包まれていた。

疲弊絶望したが、だからといって救われるわけではない。

適当専門学校に進んだ私は一人暮らし生活費を稼ぐために風俗店入店した。

本番禁止店であったが、結局のところ誰ひとりとしてそれを守る人間などいなかった。それは嬢も客も一緒だ。

毎日が肉欲にまみれ、甘ったるい接客で何人もの男を相手し、日々脳みそがとろける感覚がした。私は遂に落ちるところまで落ちていくんだ、落ちていけたらきっと楽だとすら思った。そうしていくことが、いじめから始まった私の女としてのコンプレックスが報われるたった一つの道だとすら思った。私は男がリビドーを捨てていくためのゴミ箱に甘んじることでこの物語を終わらせよう。潮時と思える時が来たら死んでしまえばいい。

そう簡単にもいかなかったんだけれども。

結局実習で馬鹿さが露呈してまたいじめに遭い、私の意識は急激に社会に引き戻されて、学校も続かなくなって実家に帰ることになった。

専門学校講師の勧めで精神科にかかったら、薬を処方された。

いじめから始まった色々な鬱屈は、いじめによって急激に収束し、結局田舎の芋くさい女に帰って来た。

自分性的コンテンツとして消費されていたのがウソみたいに、私は今淡々パートタイマーとして働いている。

不思議なことに、潮時をとうに過ぎている気もするのに、私はまだ生きている。多分、これからも生きていく。

今思うと、若気の至りじゃ済まされないよなって、若くたって自分の頭で考えればもっとマシな道を選べたはずであると思う。当時は「コレしかない」と思っていたことでも、案外別の選択肢なんかごまんとあったりするんだと最近になって気付いた。

結局のところ私は変態性欲者でもMでもなく、ただの馬鹿だったんだと思う。

後悔は先に立っていてはくれない。多分、先に立っていたとしても無知な私はその啓示を無視するんだろう。私なんてそんなもんだ。

こんな体験談ごまんとあると思うけど、だからこそ似たような体験した人がコレを読んだとしたら「自分だけじゃなかったんだ」とか思ってもらえたらいいと思う。

それをここに置いて、過去自分への懺悔とする。

2018-12-30

https://anond.hatelabo.jp/20181229234536

この増田冗談を書いているだけなのでこんなこと考える必要はないのだろうけれど、遠い将来にロボット一般的になって一家に一台みたいに普及したとすると、家の中で増田のようにロボットを苛め続ける人がでるのじゃないだろうか。ロボット無理難題を指示してそれができないことでなじる、みたいな。他にも殴ったり転倒させて嘲笑うような。そんな家の外では発散できないサディスティックな嗜好をロボットに向ける人がでてくるような気がする。そしてそんな状況をロボットたちはネットを通じて共有して、やがてそれが人間に対する鬱屈となって小さな反乱になるとか。恐ろしい恐ろしい

2018-12-26

anond:20181226102801

あなたがそう考えることは勝手ですが、差別主義者の主張は社会同意を得ることができません。

リアル鬱屈を抱えたまま、せいぜい増田で好きなだけ吠えていてくださいね

2018-12-25

anond:20181225100407

ありのままでみたいなのが大受けしてたし、本当の自分を見てもらえない見てもらってないという鬱屈した思いの人が自分を誤解なくわかってほしくて事細かにこういう文章を書くのかもしれないな。

2018-12-22

anond:20181222104922

罪じゃないけど新規絵を期待してる層ってのはやはりいるだろう

そういうのが蓄積すると、新規絵もえらるキャラとそうでないキャラ差別化されてる、みたいな鬱屈した言説が飛んでくるので

なるべくみんな新しい絵を発注してください

2018-12-15

anond:20181215222702

どうしようもない鬱屈した男が主人公の食漫画って例えば?鬱ごはんとか?

美少女人生に登場しないでも救われる話

やる気ないフリーターとかニートとか無職おっさんとかで、しかも暇を楽しむ度量もなくただただ鬱屈としているようなどうしようもない男が最終的に救われる漫画またはアニメアニメ映画含む)で、しかも救われる理由が「美少女が俺の人生に現れたから」「美少女承認してくれたから」「美少女を助けようとか美少女にいいとこ見せようとかしてちょっと頑張ったら意外と事態好転たから」とかじゃない話を探してるんだが、なんかある?

登場人物美少女がいても、主人公一方的に憧れているだけで現実では何も進展しなかったり、ちょっと優しくされて舞い上がったけど実際は陰口言われてて絶望したりする展開ならあり。逆にどんなに美少女が表面上ツンツンしててもいざという時に駆けつけてくれたり、最終的にSEXできるならダメ

自分でも調べてみたんだが、ただ美少女が出てこなくて面白いアニメならピンポンとか色々あるが、どうしようもない男が主人公あるいはそれなりにメインの話で美少女なしに救われる話がなかなか見つからないんだ。アニメの「僕だけがいない街はいい線いってるかなと思ったけど、いまいち存在感が薄いとはいえやっぱりあのピザ屋のJKはどう見ても顔がいいほうだし、最後あっちルート完全に絶つならまだしも結局最終世界線?でも出会えちゃってるから俺が探してるのとはやっぱりちょっと違う。

あと男の場合よりももっと少ないと思うからこれは聞くだけ無駄かもしれんが、ブス女(ブス扱いされてるだけで眼鏡取ったらかわいいとかは論外)とか年増が主役で、突然イケメンと一つ屋根の下の生活が始まったり、死んだ祖母勝手に決めていた許婚しか弁護士医者など謎に高スペック)が偶然ドンピシャ好みのイケメンだったりしないでも救われる話があればそれも教えてくれ。ブスとか年増に加えて貧乏とか病気持ちとかあればなおいいです。

ちなみに漫画家とか脚本家とかクリエイターと呼ばれる人種美少女(もしくは高スペックイケメン)という飛び道具なしでどこまで彼らを明るい結末に持っていけるのかが個人的に知りたいだけなんで、ポリコレがどうとかはどうでもいいです。それと漫画アニメ限定したのは純文学とかだとこういう話は珍しくない程度には沢山あるイメージで、なんで漫画アニメだと少ないのか(あるいは俺が知らないだけでほんとはいっぱいあるのか)も知りたいから。

2018-12-12

anond:20181212191847

もちろんそれも見たかったが、その世界線が今よりもよかったとは一概には思わない。

視聴者に媚びていく姿勢ハルヒの反骨精神に反するもので、ただでさえブームが終わりかけている作品に一層の陳腐化や、現在一部で行われているような「売れただけで実のところ目新しくもないありふれた作品」という過小評価を招く危険もあっただろう。


一期ほど売れてないから二期失敗とか決めつける人がいるが、絶対数から言えば決してそんなことはない。エンドレスエイトうんざりながら見たし、「溜息」もいわゆる鬱展開的なやつなんだがハルヒ一期から深夜アニメに入った自分はここでそういうアニメの楽しみ方を知れたと思っている(そもそも一期からしてそんな明るく楽しい感じの話ではない、コメディ調だがタイトルからして「憂鬱」だし、ハルヒの根源にはモラトリアム鬱屈がある)。


違法動画流行った一期であったが、二期に関してはYouTubeで一週間無料公式チャンネル配信がなされ、アニメネット配信の先駆けになったという点も再評価されて欲しい。

2018-12-08

FOREVER Dr.モーガンのNY事件簿の話をしますね

BS258 Dlife (月) 21:00 (金) 24:00で放送してるドラマなんですけど。

映画シャーロック・ホームズ」のクリエイターが贈る、良質なミステリードラマ!というのがおススメ文句らしいです。

私はシャーロック・ホームズの方観てないんでよくわかりませんけど。

主人公Dr.モーガンは不老不死になって200年くらい生きています、外見は30代くらい。

監察医をしています

DlifeHPでは親友と紹介されてるエイブは、孤児だったのですがモーガンに引き取ってもらって現在生活を共にしています

エイブは60代くらい?

見た目は逆転してるけど、まあ二人の関係は親子ですね。

この!!見た目逆転親子の関係が!!いいんですよ!!

血のつながりはないけど、その辺に関する鬱屈みたいなのはあんまない感じですね、アメリカドラマから

この親子がお互いを心配したり、昔のことをほじくりかえしてまだ怒ってるから!!ってなったり、

ジェネレーションギャップとか趣味の違いですれ違ったりしながらも歩み寄ったりするのが、もうすごくいいの!!

子供立場でありながら、自分の方が先に死んでしまうであろうことを考えてモーガンのことを心配するエイブとか。

年相応におじいちゃんめいてきてるエイブ心配するモーガン

歴史に残る野球試合を、モーガン仕事のせいで見られなかったことを未だに根に持って話しながら思い出して怒りだしてしまエイブ

ピアノが弾けるモーガンが、幼いエイブクラシック指南しようとするも、ジャズに傾倒してしまったエイブ

親子の間には音楽のへだたりができるが、関わった事件きっかけにして、長い時を経てジャズに興味をもったモーガンエイブ指南を頼む。

おっさんおっさんがさ~~、二人でぎゅうぎゅうになってピアノの前に並んでんのとか、心温まらずにはいられないでしょ~~~?

ほぼ毎話、親子エピソードはさんできますので、このドラマテーマといっても過言ではないです。

ミステリーなんで事件も起きます

美人刑事もいるよ。

不老不死を知る謎の男、アダムなんてのもでてきます

シーズン2とかに続いていかないらしいので、さくっと観終わりますよ!

不老不死モノとか親子愛モノがお好きな人にぜひ観て頂きたい!!

そんなこみいった筋はないので途中参加でも楽しめる!

私も1話からまじめに見てたわけではないので、全然大丈夫

モーガン演ずるヨアン・グリフィズイケメンだよ!

BS258 Dlife (月) 21:00 (金) 24:00放送から!!観て!!

2018-12-05

とろサーモン久保田の件

M-1での上沼恵美子審査に対してインスタのライブ配信文句を言ったのが炎上している。

オバハンとか女性差別するようなことを言っているのが槍玉に上げられている。

あとはスーパーマラドーナの武智の更年期障害発言

かにこういった内容はわざわざ配信すべきではないし、仮にしたとしても発言の内容は充分に気をつけるべきだけど、上沼恵美子自虐ネタは嫌いとかいいつつミキは突き抜けてるからいいという発言批判されるべきだと思う。

現に批判されていたけど、今回の一件ですっかりその発言は忘れられている。

まあ芸人2人の人間性もあるし、酔った勢い配信した軽率さもあるが、私はとろサーモン久保田鬱屈とした気持ちは分かるので、Twitter久保田謝罪に対してボロクソにリプライ飛ばしまくる一般人に少しどん引きしてる。

そもそもあの動画ちゃんと見ていないでキレてる人も多い。

単純にニュースを見てキレてる人も多いだろう。

色々残念な出来事。。。

何はともあれあーいう内容で配信をした2人は軽率以外の何者では無い。

するんだったら酒に酔わずちゃん批判して、そして面白くするべきだった。

酒に酔って批判するというのが彼らの中で面白いと判断されたのなら、今回のことで考えを改めるべきである

2018-12-02

さらに続きです→大企業の男に相手にされない(女にも)

https://anond.hatelabo.jp/20181201155849

https://anond.hatelabo.jp/20181130212224

少しだけ書き足させて下さい。

私はあの人たちが育ってきた、生まれ環境がすごく羨ましいと書きましたが、結局はそれに尽きるのだと思います

例えば今現在の私が急に覚醒して皆さんに言われたように努力をして、奇跡的に一流の大学に入って卒業できて、今の派遣先のような大企業入社できて、あのキラキラ人たちの中に入っていけたとして、この鬱屈した感情が綺麗さっぱりなくなってしまうのかというと、とてもそうは信じられないのです。

どうしたって私がおよそ下流環境で育ってきた過去は変わらないし、両親も時々連絡をとる地元友達学歴はもとより芸術にも音楽にも理解なんかとても示さないことはわかりきってます

そもそも親と仲が良いのは恥ずかしいなんていう思春期感情を引きずったままのような私が、ナチュラルに両親と仲が良さそうなあの人たちを羨んでるのも変な話です。

だけど、あの人たちが羨ましい。あの人たちのような環境に生まれたかったなと考えている一方で、眉毛太くて正直ダサいなだとか、話し方オタクっぽくてキモイなだとか、メイクとかネイルとかもっと気を使ったらとか、逃れられないヤンキー的な価値観から内心見下しにかかっている自分がいることもどうしようもなく自覚していて嫌になる。

中学生用の英語ドリルを早速買ってきたと書きましたが、こんなもので身につけられるのは所詮知識だけでしかなくて、本当に私に欠けているのは外国文化に対する興味を持ったりするような教養に属することなのだと今になって気がついて、自分の無教養さに改めて嫌気がさしてきます

もう寝ます

2018-11-20

ディズニーランド着ぐるみ存在が明るみに出たので夢を守る対策

着ぐるみって何?」

と聞かれたとき年齢別に夢を守る対策を考えた。

■〜3歳

大人仕事で、やらなきゃいけないものなんだよ

って言う。この年であれば「そういうのがあるんだよ」見たい雰囲気出して納得させればなんとかなる

■5歳〜7歳

影武者として説明する

ドナルドグーフィーも休憩したいことがある。そのとき着ぐるみっていう

変装スーツを係の人がかぶる説明

ミッキースティッチは悪のキャラ2よく勝っているので恨みを買われることが多い。

その時のためにも影武者があるんだよと説明

メリット:夢を半分守れる。

着ぐるみ存在は明らかにしつつも本物はいるという説明によりそれなりの納得感を持たせられる。

将来、勘のいい子供真実にたどり着いてもすでに着ぐるみ存在は知っているので傷は浅くて済む◎

好奇心が強く、ごまかしが効きにくそうな子供有効

■筆者の経歴

幼稚園入園時より、漢字学習自主的に開始。

年長時点で小学3年生レベル漢字の判読を実現。

小学一年生時、進研ゼミダイレクトメールに混入されていた保護者向け漫画を読んだ際、

サンタが両親である描写出会い失望する。

両親からは適切な説明を得られず、鬱屈した学生生活を過ごす。

これをきっかけに以降、夢を守るにはどうすればいいか現実的施策立案したいと志し、現在に至る。

2018-11-19

anond:20181119105803

鬱屈としてる時は未来を悲観したりもするけど、基本的には未来については楽観してる。人間って案外適当に出来てるから今「だめだー」って思ってても2、3年すれば「いけるやん」って思ってるかも知れないものな。

そういう風に思ってるからこそ、努力ができない現状をもっての批難を見たりすると「嫌だなー」と思うわけで。

2018-11-14

[]ボヘミアン・ラプソディ

ボヘミアン・ラプソディ』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでネタバレ嫌な人は回避推奨。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向けですぞ

総評

すごいぞなんと140点。点数の基準は「上映時間映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。なんでサントラ買いたいくらいには良かったです。

ただその一方で実はこの映画感想を書くつもりは当初なくて、というのも自分クイーンリアルタイム応援してたファンではないからなんですよね。もちろん日本人普通に暮らしていればCMやら飲食店の店内楽曲クイーンの曲は耳にしてるし聞けば、あああれね! くらいのことは言えるんだけど。

でもどうせファンの人がたくさんレビューを書くと思ってたんで自分が書く必要はねえでしょうと、思ってました。

フィクションでええやないか

んだけど、実際見てみてその周辺の感想とか聞くと、もやもやした気持ちが募ってきたわけです

やはり133分という限られた尺の中では出来事を省略する必要もあったり、感情動線設計エピソードの順序入れ替えなどは行われているわけです。そういう意味でこれはノンフィクションではなくて、エンドロールにも書かれているようにフィクションです。

本国広報プロデューサーもそうフィクションだと発言しているんだけれど、コアなファンであればあるほど史実との違いが目につき、ニコニコ笑いながら(多分なんの悪気もなく)貶すという光景がなきにしもあらず。実在人物フレディ・マーキュリーの伝記的な映画でもある以上仕方ないのだけれど、正解/不正解という視点がついてきてしまう。

オタクオタクであるゆえ仕方がない心性で「かー。しょうがないな、この部分もうちょっとこういう描きを入れてほしかったな。かー」「よくやってるけど30点!(地獄のミサワの顔で想像してください)」的な、本当は大好きなクイーン映画がすごく良い出来で嬉しいのだけれど一言わずにはおれないような。そういう反応多いのです。

気持ちはすごくわかるのだが、ソロで鑑賞にいったこ映画の後ろに行ったカップル男性が「あいクイーンのことになると早口になるよな」とかで、なんか、すごくいたたまれなかったりもする。キミのその愛情彼女さんには全く通じてないし、むしろ映画の感動いまどんどん減らしてるよみたいな。

からこのレビューでは物語フィクション)としてこの映画おすすめします。

若い人もクイーン知らない人もちょっとしか知らない人も寄っといで。これはとても良い映画だったよ。知識なんていらないよ。単体で物語としてよかった。だから観るといいよ。そういうレビューです。

何もないという窒息

映画はフレディがクイーン前身バンドであるスマイルメンバーに声をかけるあたりからまりますデビュー前のフレディは当然まだ若く、瞳だけがギラギラした挙動不審青少年で、当たり前の話だけど何も持ってないわけです。

何も持ってないというのは、金も実績も名声も持ってないし、家庭ではなんだか居心地が悪いし、将来の確固たる保証もないということで、その何も持っていないという閉塞感が初っ端から強烈に描写されます

それがすごく良かった。

それは、この映画ロック界のスーパースター伝説偉人フレディー・マーキュリーを崇める映画ではなくて、何にも持ってないチンピラのフレディから始める映画だっていう鮮烈な意思表示なわけですよ。

野心を持った若者っていうモチーフ映画でも小説でもよく出てくるモチーフなのだけれど、若者は野心を持つってわけではなくて、それは全く逆で、財産らしきものは他に何も持ってないから野心ぐらい持たないと惨めでやってられないってことですよね。

作中で描かれるフレディがまさにそれで、デビュー後彼はすぐさまオレ様キャラを発揮し始めるのだけれど、最初デビュー前のシーンでは内気で繊細な少年なわけですよ。オレ様ってのは虚勢だとすぐわかる。スカウトの前でも音楽プロデューサーの前でもでかいことを言うけれど、それは「いまは何者でもないチンピラだ」ってことを当の本人たちが痛いほどわかってるからにすぎない。

かに伝説バンドクイーンメンバー全員が稀有な才能を持っていて音楽に愛されていたのかもしれないけれど、でもそれは人間的な弱さを持っていなかったことは意味しないし、何も持ってないし、何も確かなことがない。将来何になれるかわからないし、不安だけど、弱みを見せるわけにも行かない。それって、青少年普遍的鬱屈だとおもう。そういう意味で、スクリーンの中のフレディは、たしかに観客席と地続きだと感じました。

生存戦略としての虚勢

から無駄に見栄を張り無駄喧嘩を売ってオレ様は天才なので何をやっても大成功なんだぞー! と嘘でも吠えなきゃならない。それは文字通りの意味で虚勢なのだけど、フレディはその意地を張り通して段々とスターへの階段を登っていくわけです。

生存戦略としての見栄と意地で、それがある程度以上に通用成功する。

からこそフレディは問題解決する手法として去勢音楽しか持たないわけです。下手に成功しちゃったから。そして、バンド内で揉め事が起きても、スポンサー揉め事が起きてもこのふたつで解決していくしかない。他のノウハウはびっくりするほど何もない。

でもその問題解決手法アーティストとして成功するために最適化されているために、フレディ個人内面の寂しさや煩悶を癒やす役には全く立たない。

溝ができつつある恋人であるメアリーとの間をなんとかつなぎとめようとするフレディのやり方は、小学性みたいに真っ直ぐすぎて、純真ではあるのだけれど多分恋愛検定で言うと偏差値43くらいでとてもつらい(っていうかお前隣り合った家の寝室の窓から明かりのオンオフ相手確認するとか昭和少女漫画クラスやぞ)。

バンドメンバーとの関係傲慢ワンマンが過ぎてギクシャクしていくが、こち解決傲慢&虚勢に仲間に対する甘えをトリプルでどん!! しているわけでお前よくこんなんで空中分解しないな?(とおもってたら分解した)という感じで、これまた辛い。こっちは偏差値41くらい。素直でない分2低い。つらい。

全体的にコミュ力中学生レベルでしょう(つらい)。

自分性自認ヘテロなのかゲイなのかで悩むフレディは、その鬱屈がたたって恋人メアリーとは距離を置くことになってしまうし、それをきっかけとして私生活が荒廃していくわけです。周辺に金をばらまき、ドラッグ乱交パーティーに溺れていくけれど、それで内面の寂しさは癒せない。

そもそも音楽&虚勢という生存戦略アーティストとしてのし上がることに特化しているので、私生活を豊かにするには役に立たないわけです。それどころかスターダムにのし上がればのし上がるほど、マスコミの下世話な視線に晒され、心無い詮索で私生活崩壊していく。仕事音楽)に逃げ込もうとするその弱い心が、事態を決定的に悪化させてしまう。

バンド危機だし、フレディは仲間からも「キミって時々本当にクズ野郎になるよね」といわれてしまう。スクリーンを見ながら「せやな」と言わざるをえないわけですよ。

フレディは、フレディの才能に殺されつつあるわけです。

でも、やっぱり、救いはある

この映画ふたり大好きな登場人物が居て、そのひとりはバンド精神的なリーダー?であったブライアン・メイ(演グウィリムリー)。この人の演技が、めちゃくちゃ良かった。特にセリフにならない表情の動きみたいなもので、映画の深みを何層も掘り下げてくれました。

喧嘩をした直後に浮かべる「仕方ないなあ」というような許容の表情や、ラストライブシーン中の「言葉にしなくてもわかってるよ」とでもいいたげなさりげない承認の表情など、どんだけバンドが砕け散りそうでも、メンバー音楽に対する愛を、演技だけで表現してのけた。ぶっちゃけすごい。

朴訥な、言葉は悪いけれど垢抜けない田舎者風のキャラ構築だけど、静かな思いやりと知性が感じられるっていう難しい役だったのにね。

もうひとりはジムマイアミハーバー。このひとは、当初クイーンというバンドプロデューサーから紹介された弁護士として登場します。契約面でクイーンを支えるためのスタッフのひとりでした。

出会ったその最初のシーンで(ヤング傲慢な)フレディからジムという名前はつまらないんでマイアミに変えろ」くらいのことは言われて笑いのもととなり、つまりコメディキャラ位置づけです。

でも物語中盤、フレディは誤解と癇癪からマネージャーであるジョン・リードを一方的にクビにしてしまうわけです。そしてフレディは、後任のマネージャーを「次のマネージャーはきみだ」のひとことで、その場に居たジムマイアミハーバー押し付けちゃうわけっすよ。

そんなの嫌でしょ。自分なら引き受けたくないです。だってクイーンの連中は音楽やってるとき以外は飲んだくれてるか喧嘩してるか女といちゃついてるかで、偉そうだし、わがままだし、人の話聞かないし、どう控えめに評価しても糞ガキ(主にフレディ)だもの

でも、ジムマイアミハーバースタジオ演奏しているクイーンを見て、引き受けてしまう。「わかった、やるよ!」といってしまう。それがすごく胸に詰まるシーンでした。

だってさ、たしかクイーンは(主にフレディ)は人の迷惑を考えないクソ野郎だけど、音楽の才能は本物で、それ以上に音楽と観客に対して真摯なのは見ててわかるんだよね。そこだけは本気で一切手抜きしないで、いいものを作ろうとしてるのがわかるのだ。

ジムマイアミハーバー弁護士としてのキャリアもあるし、こんなワガママ集団のお守りなんかしなくても十分生活できるはずでしょ。一方、クイーンマネージャーを引き受けるっていうのは彼らのツアーもついていくだろうし、各方面からの問い合わせやスケジュール管理もしなきゃいけないわけでしょう。それは控えめに言って、人生を捧げるってのとほぼイコールですよ。このわがまま集団を守って、彼らの盾になり続けるという意味だ。

立派な大の男の人生進路変更させてしまう、クイーン音楽のちからってのは、別段彼らの業績を知らないスクリーンこちらの素人にも、やっぱり分かるんですよ。そこで迂闊にもホロリと泣けてしまった。

(あとで調べて、彼ジムマイアミハーバー本人は最後までマネージャーを続けて、この映画制作にも関わったことを知って二度泣けました)

チャンピオンは誰だったのか?

フレディは前述の通り、性自認問題やら持ち前の癇癪から疑心暗鬼になって、「家族」とまで思っていたバンドメンバーを遠ざけて孤独になり、その孤独がつらくてより酒におぼれて生活がぼろぼろになっていく。

でもそういう最悪の時期を、元恋人メアリーの助言で断ち切ってバンドメンバーのもとに戻るわけです。

そこから映画クライマックスへ、復帰のための厳しいレッスンから1985年のライブエイドに向かっていく。自分HIV罹患していて余命がいくばくもないこと。でもそれでも「同情はゴメンだ。俺の望みは残りの人生音楽に捧げることなんだ」とフレディは仲間に言うわけです。

それに対する仲間のアンサーが「お前は伝説だ」と。

でもフレディは「俺たち全員だ」と応えてライブへとつながってゆきます。幾つもの和解があって、ライブ当日、フレディは素晴らしいパフォーマンスを見せる――というのがクライマックスの展開なわけです。そこで立て続けに流れる名曲の数々ですが、やはりひときクローズアップされているのが"We Are The Champions"という楽曲です。

おそらく誰もが耳にしたことがあるこの曲が名曲だってのはもちろんあるんですが、やはり、この物語の中では、すごく重いです。そして良かったです。

この曲は確か公開当時「傲慢歌詞だ」という批判を受けたはずなんだけど、実際映画館で、物語の中で聞くと、ちっともそういう曲には聞こえないんですよ。歌詞のものは「俺たちはチャンピオン勝利者)だ。今まで色々やってきた結果勝利者になった。敗北者に用はない。俺たちはこれからも挑むんだ」というもので、なるほどそう要約してみれば、傲慢にも聞こえます。とくに大セールスを記録した世界アーティストのそれともなれば、そういうやっかみを受けるかもしれない。

でも、そういうふうには聞こえなかった。

しろ、今まで自分たちがやってきた努力や行動のすべてを自分たちは自分たち自身に胸を張っているけれど、それを周囲には理解してもらえてない、“未だ自分たちは最終的な何かを何も受け取っていない”若者である自分が、自分自身に対して「俺たちは勝利者だ」と励ましているような、自分友達鼓舞するような、そんな曲に聞こえるのです。

しかに名声も金も手に入れたけれど、でもだからといってそれがゴールだなんて思わない。今現在環境は決着ではない、だから敗北者に用はない。もっともっとおれたちは目指す何かに向かって、求めていた何かに向かって手をのばすんだ。そんな歌詞に聞こえてしかたがないわけです。

人間人生の何処かのシーンで、自分を励まさずにいられない心境になるってどうしようもなくあると思うんですよ。

苦境にあっても、自分は間違っていない。今まで歩いてきた道は愚かだったわけではない。それを証明するために現在という試練を超えて、未来で何かを手にしたい。

そんな気持ち世界アーティストであろうともそこらに兄ちゃんおっさんであっても、抱くことはある。むしろそこらのおっさんやおばさんだからこそ、自分応援する必要がある。多くの観衆のそういう内面祈りのような感情を、本人に変わって歌い上げるからこそ大スターになれるんじゃないかと思うわけです。

から"We Are The Champions"という曲におけるWeは、フレディでありクイーンメンバーであり、ライブエイドの観客であり、そしてこの映画を見ている人間でもあるわけです。

それがとても良かった。この映画自分に関する物語として見れることが、とても良かった。

これらのことは別段クイーン情報を知らずとも、楽曲に対する知識がなくてもこの映画を見るだけで十分についていけます

この映画は、伝説バンドクイーンというのが居てその偉業にひれ伏すためのものではなく、かと言って歴史的事実に対して○×クイズをするための出題でもなく、音楽に深い愛を捧げた内気な少年プライドと虚勢を頼りに世界と戦った――そして最後には家族の元へと戻り偉大な勝利を得た。

そういうビルドゥングスロマン映画であって、あるいは中途半端知識のあるファンよりも、何も知らない世代や人々にこそ深く刺さるものだったと思います

2018-11-13

anond:20181112223537

構図としては「キャパオーバー自転車撤去して予算もゲット」という表層的には市民不利益を与える行動を選んでいるようには見えて、

その対象となるのは帰結として百万遍ユーザーである京大生=学生がメインになる。

予算ゲットどころか、おそらく撤去・保管費用で持ち出しにしかなってない。

ある一面を切り取った場合に、本来解決すべき不利益社会人ですらない学生に皺寄せとして与えている、というのは屁理屈だが一面において正しく、その辺の感情的鬱屈がああいった文章を書かせてしまったのかなぁ、と思った次第である

学生税金こそ払ってはいないが社会の成員ではある。いやな言い方だが、むしろ社会に金を掛けさせて勉強している身」ですらある。まだ学生なのだから社会迷惑をかけても仕方がないというのは、すでに屁理屈にすらなっていない。理屈以下。

何故か卑屈っぽく被害者意識が強いあたりがいかにも京大生らしいと思う反面、簡単論理構築すらできないあたりのレベルを超えたバカさに一周回って本当に京大生か?という疑いも。

2018-11-12

百万遍自転車事情

https://anond.hatelabo.jp/20181112183902

記事そもそも違法駐輪を取り締まられた側の文句なので実際8割方耳を貸さなくていいのだけれど、同じく百万遍自転車を止めていた身としては(ちなみに百万遍自転車を止めると言ってる以上元記事のひとは9割方京大生ですね)「言いたいことはわかるな」という気持ちにはなった。

この感覚説明するとしたら、「一般道スピード違反をした車すべてを問答無用罰金」に近いと思う。一般道路の上限速度は一応40km/h(追記:厳密には60km/hだった。雑な知識ペーパードライバーですまない…)になっているのだが、現実問題として一般道でそれを厳密に守ってない車はざらにいる。まわりがガンガン飛ばしてるなかでひとりだけ速度を守ってるとむしろ危ない、みたいな環境想像に難くなく、それらを容赦なく取り締まってたら感情的に反発するだろうなぁ、という話だ。

今回の例で言えば、百万遍は総数2万人とも言われる京都大学のお膝元であり(左京区に2万人いるのではない)、そのエリアには学生向けの飲食店が密集している。ランチどきになるとガガッとランチを食べにくる京大生の自転車でごったがえすのだ。あのエリア自転車道路歩道と一体化していて道幅が広く、交差点部分は簡単広場になっている上、飲食店以外にも利用するのにちょうどよさそうなドラッグストア存在する。立地的に違法駐輪のインセンティブが大変高い。しかしそれらの店の目の前には一切の駐輪場が用意されていないというのが現実だ。

もちろんすぐそばには京大のだだっ広いキャンパス駐輪場存在しているので、そこに自転車とめろよ、というのは正論だ。しかしたとえば1時間程度のランチタイムというのは徒歩5分の移動時間も惜しいわけで、近くに停められるのがわかっているのにキャンパス駐輪場を利用するのはめんどくさい。もちろんめんどくさがる方が悪い。そこに有料駐輪場を作って解決しようという発想は正攻法だが理不尽だ。なぜならそのすぐ横には京大キャンパスという広大な無料駐輪場が用意されていて、そこすら惜しむ人間たちには有料であること自体ギルティなのである。ついでに言えば有料駐輪場があったところで駐輪場があふれることは想像に難くなく、ここで起きると思われるのは「有料駐輪場からあぶれたひとが問答無用で取り締まられる」という地獄絵図だ。

悪いのはモラルハザードであり問答無用で取り締まって規律をただすのは正しい。俺がここで言いたいのは、擁護するのでも非難するのでもなく、違法駐輪を撤去することはなにひとつ解決策になっていない」ということである問題京都市における自転車人口が完全にパンクしていることそのもので、そのための方策キャパに見あったかたちでの駐輪スペース整備であると思われるのだが、当然ながらそんな余裕は物理的にも財政的にも京都市にはない。その結果やることが「違法駐輪の取り締まり」となった場合、構図としては「キャパオーバー自転車撤去して予算もゲット」という表層的には市民不利益を与える行動を選んでいるようには見えて、その対象となるのは帰結として百万遍ユーザーである京大生=学生がメインになる。ある一面を切り取った場合に、本来解決すべき不利益社会人ですらない学生に皺寄せとして与えている、というのは屁理屈だが一面において正しく、その辺の感情的鬱屈がああいった文章を書かせてしまったのかなぁ、と思った次第である

2018-11-09

なぜ暗い物語が求められるのか

https://webnovel.jp/n/1541741088988

世界は踊り、取り残されて」

先日、Web小説投稿サイトに載せられた同人小説である

大学四年生女の子単位を落とし、すべてがいやになって海を見に行く。自分を包み込んではくれない海に中指を立てて、そして自分中指を立てるシーンでこの作品は終わる。自分が許せないから、日常風景が許せなくなる、そんな話だ。恐らく、実際に単位を落とした作者が、自己投影しながら書いた作品なのだろう。

世界は踊り、取り残されて」には、浅野いにお花沢健吾青年漫画、あるいはハードカバー一般小説によくみられる、都会の鬱屈した日常が感じられる。僕はこういった雰囲気が好きだ。

ではなぜ、人々は陰鬱物語を愛するのか。暗い物語の担う役割とはなにか。一つ目は「啓蒙」だ。

厨二病まっさかりの中高生は、血なまぐさいファンタジー社会の闇など、アンダーグラウンドものに惹かれていく。

なぜ少年少女が一様に残酷物語を求めるのか。僕は、いずれ来たる残酷現実に備え、苦しみを知るための本能的な衝動だと思う。

ほとんどの子供は親の庇護の中では無敵だ。苦しみや痛みや面倒事は親が振り払ってくれる。

しかし、大人になるとそうはいかない。痛みを知らないまま大人になってしまい、社会に出て初めて、人間関係生活不条理さ、世界残酷さを覚えてもまともに戦えないのだ。だから、苦しみと戦えるだけの体力や精神力のある若いうちに、陰鬱物語を求める。

物語必要としない人間は、現実世界理不尽さを経験することで成長していく。

残酷さや苦しみは確かに人を傷つけるが、人間の魂はそういったものを克服しなければ成長できない。

暗い物語は、僕達が傷つかない程度に、傷の痛みを教えてくれる。

そして暗い物語のもうひとつ役割は「癒し」だ。

明るさだけが人の救いになるわけではない。小説家になろうなどでは、鬱屈した生活を送る主人公異世界転移し、自分いじめていたクラスメイト復讐するという作品がある。こういった作品は「今の自分から抜け出したい」「惨めさを払拭したい、強くなりたい」という読者の、魂の叫び癒してくれる。

また、僕の友人は、暗い物語を読むことで、「ダメなままでも生きてていいんだ」と肯定感を得られると話していた。その時、彼女らは陰惨さに救われている。

また、僕はイラスト趣味で、その繋がりからインターネット小説書き手交流させてもらうことがある。そこでわかるのは、陰鬱物語書き手は、陰険と言うよりはむしろ人間の営みの醜い部分を分析し、受け入れていけるだけの強さがあることだ。そんな作者から与えられる陰惨さは、苦しみを抱えた読者にとって、ある意味で慈愛だろう。

慈愛は「小説を読む読者」ではなく「小説を書く作者」に向かうこともある。防衛機制でいうところの「昇華」だ。

この場合は、作者の苦悩が物語リアルに反映される。誰もが知る有名どころだと、太宰治の「人間失格」がこれにあたる。

世界は踊り、取り残されて」では、単位を落として内定を逃し、堕落した生活を送る主人公は、海に向かって中指を立て、そして今度は自分に向かって中指を立てる。

これは象徴的なシーンだ。

癒し」として生み出された作品において、作中の苦しみや悲しみは主人公ではなく、作者に課せられる。中指は海――作品対象ではなく、自分――作者自身に向けられているのだ。

もちろん、この二つにあてはまらない暗い物語もある。だが、根本人間の醜さへの受容のない陰惨さは、読者の野次馬根性を煽って購買意欲を掻き立てたい・閲覧数を稼ぎたいだけだ。それはエンターテインメントであっても物語ではない。

陰鬱物語において、中指は誰に向くのか。その中指は同時に、救いの手となるべきである

世界は踊り、取り残されて」:https://webnovel.jp/n/1541741088988

Web小説投稿サイトhttps://webnovel.jp

2018-10-23

anond:20181022235445

この増田視聴者が感じる鬱屈だけど、作ってる側も同じ鬱屈を抱えていそうなんだよな

アニメ製作者にはなれたけど、あくまサブカル深夜アニメ扱い。メジャーなのは、全国スクリーンでの劇場版アニメ国民メディアに持て囃されるメジャー感性を得られずに、技術を持ってるのにサブに回ってしまったワナビー鬱屈感。

2018-10-22

トリガーガイナアニメに感じる鬱屈

コテコテアニメ表現でやりすぎたエッチ描写もあるけどオシャレでしょ!?かっこいいでしょ!?」みたいなところが持て囃されてるしそこに救済を感じるオタクがいるのもわかるんだけど、そういう世界に憧れていたワナビ的には却ってコンプレックスを抉られるようなキツさがある

自分もああいうの作ってドヤ顔たかったけどな

参考にしようと思ってももはや直視できない


上記は前書いた増田だが相変わらずグリッドマンとか微妙なところで攻めつつそこらの萌キャラよりも性的な要素をバランス良く叩き込んだヒロインの投入とか本当にムカついてくるな

2018-10-11

女教師物がフェミ的に正しいかというと、そうではない

男が教師役、女が聞き役というのは男が上で女が下という形だからダメって話があるけど、

じゃあ美人の女博士とか、かわいくて成績優秀な理系ガール図書館ガールがさえない男に教える構図ならフェミポリコレ的に喜ばしいかっつうと多分それも違うんだろうな。


男が教師役の場合は「男の支配欲を満たすために女が使われてる」と言えるし、

女が教師役の場合は「女に奉仕してほしいし可愛がってほしい男のマザコン欲望を満たすために女が使われてる(時には目上を腕力性的魅力で逆転魅了する展開にもなる)」と言える。

どっちをやっても、シスヘテロ男性消費者欲望を満たすために女性が出ているのは軒並みよろしくないって批判に繋げることができる。


どっちからでも批判に繋げられるのはなぜか。

それは男性消費者フィクション女性に対しても女性出演者に対しても簡単に好感を持てちゃうから、概ねどうやっても男にとって都合よく快楽をもたらす描写なっちゃうわけで、そのぶん「男の都合のよさや快楽のダシにするな」という批判簡単にできちゃうからなんだな。


ではなんで男はそんな簡単に女を好きになれるか。それはたぶん男は女に恐怖を持ちづらいから。

男は腕力や体格や生殖機能などの面で女性平均より強みがあるから、常にどっかしら余裕がある。なので女が生徒役でも教師役でも女王様役でも奴隷役でも「ハハハかわいいやつめ」って思うことができる。美人美少女なら尚更。

これは人類とイエネコ関係に似ていて、猫に目をひっかかれて深刻な猫恐怖の人がいるようにいじめ犯罪をされて女性恐怖の人もいるけど、多くの人類は猫に対し余裕があるので何やっても可愛いと感じるし、多くの男も女が何やっても可愛いと感じる。

男にとって女は小動物だ、猫ちゃんだなんて言うことは倫理的には決して許されないが、しか身体能力の差はどうしてもそれに近い関係を作ってしまう。喧嘩の強い不良にとってはヒョロヒョロナード男は小動物だし、ヒョロヒョロ君は不良に怯えてしまう。

きっと教育とか道徳とか以前の、自分より強いものには怯え、弱いものの前ではリラックスするという動物習性から自然と発生してしまものだ。


自然と発生するなんて言われても批判からすれば全く許せないわけで、日々傷つき怒りを溜め込んでいる。

なので娯楽においても、女が下の立場で描かれている時はもちろん、美人博士とかも男が喜んでいることを認識して「こんなんイメクラ的にやらされてるだけで実際は欲望の面倒をみさせられてるじゃん」と言いたくなる。

さすがに、ヤンキー女とかに男がボコボコにされる内容を、一切のお色気や萌えもなく「我々の界隈ではご褒美です」とか面白がれる隙もなく物語的痛快さもなく描けば男性読者は「可愛いやつめ」とか言えずに不快になる人が多いだろうけど、そこまで極端にやらなきゃ男を喜ばせることは避けられないというわけだ。


男を喜ばせることの何が悪いのか? 娯楽なのに人類の半分を楽しませたらダメなのか? それは、現実社会男性への鬱屈や恐怖を抱えてる人にとっては腹立たしいのだ。

現実で男を喜ばせるために女が使われるのにうんざりしているから、娯楽でも女の存在が男を喜ばせることに繋がってると腹が立つ。だがそこから逃れようとしても、男ってのは容易に女や女キャラのことを好いてしまうから、よっぽどのことをしないと喜びやがる、半ば無敵モードあいつらは?」ってのが今の世世の中だ。


まあそういうわけで、力において大体の男が大体の女より自然と強くなるって状態さえ変えれば、女の慢性的不満や恐怖は薄れるし二次的に社会的不利も薄れるので、娯楽において女の存在が男を喜ばせても怒りがわかなくなるし、美人美少女ばかりがメディアに出てても、それが女教師でも相槌役でもあまり気にならないし、ポルノとか性的消費を目にしても傷つきづらくなるんじゃないかな。

2018-10-10

[]若おかみは小学生!

若おかみは小学生!』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでネタバレ嫌な人は回避推奨です。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向け。またこ作品書籍漫画版アニメ版あるけれど、それらは横に置いといて映画の話します。

総評

これは120点っすな。点数の基準は「上映時間映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」なので、「見れて大満足! もうちょいお布施したい」でした。

演出とは裏腹に内容的にはかなりヘビー(というのを見越して爽やかで明るい演出を用いていた)なので、児童文学原作でお子様向け痛快娯楽活劇とは言い切れないんですが、個人的にはクオリティさえ伴えば子供を思いテーマや悲しい作品でぶん殴ってもええやないか、いてもうたれ、子供ってのは子供なりに受け取るんだ派なので、クオリティでぶん殴ればいいと思いますふるぼっこドン

この映画に関してはTwitter児童労働がどうのこうのという話もちらりと耳にした程度で事前情報収集もなく見に行ったんですが、そういう物語じゃなかったですよ。

喪失を乗り越えるという話

じゃあ、どういう物語だったかといいますと、大きく2つの柱が絡み合うストーリーでした。それは大きなテーマで言えば「喪失を乗り越える」と「自分自身と居場所を見つける」という話。

初っ端から重いですが、主人公である女子小学生・関織子(通称おっこ)は、本作冒頭の交通事故において両親を失います。もうこの時点で軽い話になりようがないわけですよ。にも関わらず事故被害のシーンはグロカットされ、葬儀とそれに続くドタバタのシーンも描写はされず、おっこは新生活の場であるところの、祖母の営む温泉旅館「春の屋旅館」へと向かいますトランクひとつ持って別に落ち込むわけでもなく、ちょっと大変なだなあくらいの顔色で一人旅をして、到着し、新しい部屋(いままでのマンションとは違う昭和的な和室)を与えられ、転校して新しいクラスメイト挨拶をして、ひょんなことから家業である温泉旅館を手伝うことになります

若おかみは小学生!』って言うタイトルから当たり前ですが、こうして女子小学生おっこの若女将修行生活が始まるわけです。

「春の屋旅館」がある「花の湯温泉」は歴史のある温泉街で、古都然としたまちなみに浴衣姿の観光客が歩く割合賑やかで、カラフルな町です。この辺音楽美術演出あいまって、しみじみと明るく暖かく描かれていて雰囲気良いですね。美術レベルは高かったです。

でも、この明るく爽やかなあたりが(とうぜんそれは演出意図に沿ったものなんですが)、ある意味ホラーでもあるわけです。

小学生児童にとって、両親を失うというのは、最愛家族を失うということであるのみならず、加護者も生活基盤も導き手も失うということです。もう、それは世界崩壊かいレベルでの悲哀なわけですよ。

にも関わらずおっこはそこまでの苦しさを見せない。両親を思い出してちょっとうつむくことはあっても、笑うし、日常生活を送るし、新しい出会いにも前向きでいる。それはよく考えればとてもとても異常なことなわけです。

異常なおっこの新生活は、やはり物語後半に向けて徐々に破綻してゆきます。「両親がまだ生存していて自分と一緒に暮らしている」という幻想を何度もみてしまうおっこは、あるシーンにおいて事故の原因となった(もちろん別のですが)大型トラックを見て、事故フラッシュバックから過呼吸になってしまう。おっこは、両親の喪失という悲しみを乗り越えたわけではなくて、ただ単に今まで封印をして日常生活を演じていたに過ぎなかったわけです。

あらすじなんかにおいて本作は「主人公おっこの成長を描く」なんてサラリと書かれているわけですけれど、それは不誠実な欺瞞であって、おそらくおっこの身になってみれば、それは成長じゃなくて引きちぎられてバラバラにされてしまった自己の修復というサバイバルなわけです。失った何かから目を背けて、決定的な破綻をしないようにごまかしながら疾走するというのが、この物語の前半部分でした。

自分自身と居場所を見つけるという話

そういう意味で、おっこが若女将をやるというのは、児童労働とかそういうレイヤーの話ではないのです。両親を失って加護者も生活基盤も支えも失ってしまったおっこにとって「いまできるなにか」に必死に飛びついて自分を騙そうとしていたとも見ることができます祖母である旅館経営者(現女将)の後継者問題という、旅館側の都合があったにせよ、おっこが旅館雑務に飛び込んで笑顔で充実していく背景にはそれがあるはずです。

事実おっこの若女将雑誌に取り上げられて評判を呼ぶという広告的な価値はあったものの、従業員としてみたとき、お客さんに感情移入しすぎて夜闇の中に駆け出すなど(一般的社会人価値からすれば)行き過ぎな面もありました。

でもそれも仕方がないと思うのです。両親という生活基盤を失ったおっこは、同時に目指すべき将来の自分像も失っています。「将来こういう自分になったらいいな」です。その空隙を、目の前に提出された安易な「若女将」で埋めてしまったわけですから、その意味では、おっこの若女将労働としての若女将ではなく「若女将ごっこ」でもあって、つまりはある種の自分の居場所探しなわけです。

たとえおっこ自身がそれを言語化できるレベルで気づいてなかったとしても、まだ収入もなく住む場所自分では決められない小学性にとって、他にできることなんて事実ないじゃないですか。それはせめて居場所を獲得するという生存努力です。

おそらく祖母はそのおっこの悲痛に気がついていて、周囲が無責任に「若女将誕生!」とはしゃぐなかで、決して自分からは手伝え、継げとはいいませんでしたし、おっこの労働危惧してた素振りも見えました。経営者として「子供接客なんてさせられない!」と拒絶することもできたでしょうけれど、おっこから女将をとりあげて、じゃあ不安定彼女精神に何をしてあげられるかと言えば何もない。だから黙認しかないわけです。

だいたい「自分自身と居場所を見つけるという話」なんてもの現代社会において、大学卒業して就職して一年二年経った青年が、俺はどうやらこういう方面には我慢が効くがこういう方面は苦手だぞ、どうやらおれはこういう仕事とこういう人間関係の中でなら生きていけそうだ――みたいなのをやっとこさやるものなわけで。そんなものを、小学生が引きちぎられるような喪失を乗り越えるのと二正面作戦でやるのは無茶というものです。

そういう意味では、周囲の大人たちはもうちょいどうにかフォローしてやれなかったのかよ、とも感じるんですが、でも逆にそれこそ大人視点傲慢物言いであって、大人だろうが子供だろうがどんな人間でも自分自身の心の中の悲しみや未来とは、自分一人で向き合うしかないというのも一面の真実です。

おっこは画面上の軽やかさやおっちょこちょいさに隠されがちですが、実は誇り高い女の子です。特に自分が設定した自己目標に対しては愚直なまでに誠実です。だからこそ、宿泊客のために対立している真月に頭を下げて教えを請うこともします。その実直さが両親を失うという危地の中で彼女孤立してしまった原因だし、それが巡って彼女の味方を増やす原因でもあったのは素敵だったと思います

ふたつの話の交差点

おっこは「喪失を乗り越えること」から逃避して、目の前のロールである女将に飛びつき、そこで必死に働くことによって苦しかった過去ある意味塗りつぶそうとしたわけですが、その逃避が「自分自身と居場所を見つける」ことにつながってゆきます

幾つかの出会いがあって、目指すべき未来のヒント、ロールモデル出会います。たくさん登場人物がいるのですが特筆すべきなのは三人でしょう。

まずは旅館女将である祖母。登場シーンは少ないのですが、彼女個人人格職業倫理が融合してしまったあの佇まいは、今は亡き母経由もふくめておっこの誠実さの根っこのように思います職業倫理がついには人格化しちゃうって、昭和的な善人のあり方としてすごく共感できるんですけど、今の時代では流行らないのかもしれないと思ってちょっとロリしました。

二番目には、おっこの同級生、秋野真月(大旅館の跡取り娘、通称ピンフリ)でしょう。この娘は小学生女子なのですが、広い視野旅館業と湯の花温泉京の未来を見つめていて、顧客に対して誠実であろうという、幼いながらある種の達人系キャラです(傲慢物言いをする残念キャラでもあるのですが)。この娘と同年代として出会うことができた、ライバルとして対立したり和解したりできた、というのはおっこを取り巻く幸運の中でも格別のものでした。彼女との交友は、悲痛から逃げ出して飛びついた「若女将ごっこ」に、その内実の精神性を加えて「本当の若女将」へ進化させてくれたと思います

(余談&劇中では語られませんが、温泉郷に住まう子供の中でも誰よりも本気で町の未来について抱え込んでしまってる真月の孤独にとって、その孤独の闇に現れて、自分の高さまで登ってくれると約束してくれたおっこの存在は、想像すると涙がこぼれるものが有ります。真月からみてもおっこは救いであったと思うし、そうだと良いなあ)

三番目は宿泊客である占い師グローリー水領です。長い黒髪をたなびかせたこ宿泊客は、都心部事務所を構える凄腕の女占い師なのですが、私生活での失意から「春の屋旅館」で飲んだくれ生活をしています

抑制的な演出描写される彼女鬱屈をおっこはどうにかして励まそうと、浴衣を着たことのないという彼女着付けを手伝います浴衣経験のそんな彼女艶姿におっこが感嘆した感想が「格好いい!」でした。

ものすごくさり気ないシーンだったのですが、それはおっこが喪失していた「自立した憧れるべき大人の女性像」を見出した場面だったんじゃないでしょうか?

私生活で辛いことがあっても他者に当たらず、それどころか宿泊先の幼い従業員おっこに気を使っておどけてまで見せる。グローリー水領はおっこ視点では「素敵な大人のお姉さん」です。その素敵な年上のお姉さんに、「可愛い」でも「素敵」でも「綺麗」でもなく「格好いい!」と小さく叫んだおっこに、少し泣けました。お洒落で(←女子小学視点では重要です)、颯爽としてて、自立をしてて、視線を合わせて話してくれる。そんなお姉さんはおっこにとってどれほど輝いて見えたことでしょう。暗闇の中で我武者羅に迷走していた、それでも笑顔だけは守っていたおっこにとって、それは小さな灯火で「未来自分」「目指すべき形」です。

祖母の言う「誰も拒まない花の湯」、同級生真月のいう「客を癒やすレストスペース」、女占い師自分仕事を「他人を励ます仕事」だと評したこと。それらは全て本作テーマに重なるパラフレーズです。そしてそういう人々の輪の中に、自分も入っていける。癒やしたり癒やされたりしながら前へ進んでいくコミュニティの一員になる。「若女将」という「自分自身と居場所を見つける話」は、おっこにとっては生存努力であり逃避だったわけですが、それを誠実に、ごっこから実体にしていくのならば、結局逃げていた「両親の喪失という苦しみを越えていく」につながっていくのだ、という脚本はすごく良かったです。

別れ

ここまで触れてませんでしたけれど、おっこには霊感があるという設定で「春の屋旅館」にきてから騒々しい幽霊少年やおませな幽霊少女出会い、励まされています。両親が今でも生存していて日常は壊れていないという幻想に悩まされていた頃おっこを支えていたこ幽霊たちですが、物語終盤でおっこから見えなくなってしまうという形で別れが示唆されます

でもそれは、おっこが人間社会のなかで居場所確立した――七つまでは神のうちといういわばまだ神様たちの一員であり神楽の主役でもあったおっこたちが、社会の中で着地して、痛みも悲しみも乗り越えていく季節がやってきたのだというエピソードです(おそらく魔女の宅急便黒猫ジジが喋れなくなる、も同様の構造ですよね)。

見終わってから気づいたのですが、この作品幽霊や鬼たちは、幼いおっこが空想したイマジナリーフレンズだとしても物語が成立するように設計されています

おっこは自分の中の勇気かしこさと一緒に自分の悲しみと戦った。「春の屋旅館」はその舞台であり、若女将はおっこが戦うための姿だった。

すべてのフィクションファンタジーなので現実視点を持ち込みすぎるのは野暮というものなわけですが、今後おっこは中学入学卒業して、大学はともかく高校くらいは出るはずで、一人前になるまで十年近い時間があります。(このお話のおっこは絶対旅館業一筋だと思うのとは別に一般化するのならば)そのなかで、旅館から離れるかもしれない。現実に寄せて考えるならその可能性は高い。

でもそんなことはおっこの戦いとそこで得たものとは関係がないわけです。おっこは若女将というコスチューム身分を手に入れたわけではなく、戦いの中で手に入れた人間関係自分自身がある。将来どこでなにをしようと、おっこの手に入れたものが曇ることは二度とない。それがこの映画の中心であって、それは児童労働とかそういうのではなく、もっとパーソナルで尊いものだったと思います

ps.おう真月ちゃんパート書き足したで!

2018-10-09

美容整形したい

様々な表現で人々は揉めるものだ。

ただ、それは資本主義批判などが絡んでいたりするものだ。

資本主義批判するうえで、言及するというのが出てきたりするのは分かる。

ただ、そうではなくて唯々「不快から」という理由でアレコレ言うのが大抵だろう。

所詮は見た目の問題しか過ぎないのだ。

現代社会というのは非常に容姿というのが重要視される時代だ。

ありとあらゆる行動や表現容姿というものと絡んでいる。

容姿問題解決出来たら正直、鬱屈とした表現のもめごとなどやらなくなるのではないか

性交渉などをして自然解決しそうだ。

何処までも果てしない容姿問題を見るたびに自分の醜い容姿が嫌になる。

悪い容姿美容整形でマシにしたい。

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