はてなキーワード: モラトリアムとは
シティポップブームがどうのとか80'sが云々とかは知らんし興味もないけど、イントロを1秒聴いた瞬間に「これはハマるやつだな」という確信を得た。
重い腰を上げて新しい音楽を聴き漁ってる時、5秒ほど耐えても中々ハマらない曲は大抵最後まで響かない。そんなんばっかりな中で、時々電撃が走る事があるし、それは聴き始めた瞬間に来る。そんで実際ハマる。
音楽的な知識がなくても、多分誰にでもそういう直感は存在する。
最初はキャッチーなサウンドにとにかく聴き浸ってた。どの辺がキャッチーかはわからないけど、ミーハーなおれがそう思ったんだから多分そうなんだと思う。
そうしてる内に、最初は聞き流してた歌詞も耳に入ってくるようになる。
当時のおれは大学もほぼ行かずに、バイトして小遣いを稼ぎながらひたすらフラフラしてた。一旦先の事を考えるのをやめて、とにかく楽しい事だけをしようとしてた。
好きな服買って、流行りのサウナや気になってた飯屋に行ってみたり、憧れてた都心をアテもなく歩き回ってみたり。
悶々とした夜に寝るのも嫌で、でも家にいるのも嫌だった。終電で出かけて夜中の空いてるバルト9で映画を観てみたり、夜通し海沿いを歩いてみたり。電車もなければ高台の公園まで歩いてボーッと郊外の夜景を眺めたり、多摩川をひたすら歩いたりしてた。
何か漠然とした焦燥感があって、心から納得出来る生き方を探さなきゃ一生それは消えない気がする。そんなものからは目を背けて、今みたいに些細な楽しさを取りこぼさずに拾い集めてればいい気もする。そういう気持ちを一生反復横飛びしながら、今までの退屈な人生に比べればそこそこ楽しいザ・モラトリアムの毎日を生きてた。
そういう日々を送ってたんで、「永遠にしたいこの日々を」って歌詞がそれはもうド直球に、スッと心の中に入り込んできた。心の奥の大事な部分に触れてかき乱されたような気分になった。
「新しい街のこの寂しさいつかは思い出になるはずさ」とかもね。ちょうど一人暮らし始めて、先の不安から目を背け続けたり本当に大事なものを考えてみたりしつつ遊び回ってたし。
「噛み続けてたガムを夜になって吐き捨てた」もいいよね。なんとなく抱え続けてたけどもう味のしなくなった気持ちを、夜というムードの中に捨て去りたくなるような気分はあった。
全体的に割と抽象的だけど明確に指向性のある歌詞だから、おれのしょーもない日々でもその奥にある全てが歌われてるような気がした。ふらつき回る時のBGMはいつもこれだった。
そんな日々も永遠にはならなくて、最近はちょっと聴くのが辛くなったりもしてる。でもたまに聴くとやっぱいいなって思う。ベースソロめっちゃかっこいいし。
「一発屋」という言葉が不適切なんで大喜利化してるけど、AKIRA以降見るべき仕事をしていないとは誰かがはっきり言うべき。
特に、映像作家と称してやったアニメの仕事はみんな並以下のできばえで、だからいつまで経っても「AKIRAの大友」でしかない。
逆に言えばAKIRA以前の、漫画家としてやった仕事はAKIRAや童夢は言うに及ばず、ショート・ピースにハイウェイスターにさよならにっぽんに気分はもう戦争にその他諸々、
どれをとっても傑作揃いだった。あのキレッキレの大友が凡作以下のアニメをたまに作って無理に褒められてるのはやはり見るに堪えない。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4755264594165445344/comment/ffggmm
確かにその通りだと思う。大友の発想や資質には無秩序・無軌道なものに対する憧憬が強くあって、
それは初期の短編群におけるモラトリアムな青年たちの人物造形からAKIRAの健康優良不良少年達に至るまで一貫してるんだけど、
しかも当人は世界的な名声を得てしまっていて、今さらモラトリアム生年の続きを気取ることもできない。
実際、スチームボーイではより明朗な少年漫画的主人公に舵を切ろうとしたが、あまりうまくいっていなかった。
むしろ、迫り来る老いや不能を直視した、短編漫画を読んでみたかった。
正直なところ、数年前に単発で掲載された「気分はもう戦争」の続編を見たときには、(……絵が衰えてない?)と思えて辛かった。
でもそういうところ含め、かつてとんでもない輝きを放った才人の悪あがきをみてみたいんだよ、無責任な読者の一人としては。
文系のことは知らんけど、自分のいた研究室は毎日来るのが当たり前の情報系だったので、そことは大いに違うな。
個人的感覚だと、研究室が課している出席のルールを満たしていてこれはちょっとあり得ない。
過去、卒論をそんな理由で失敗していた学生なら見たことはある。
一つ下の学年の自分から見てもヤバいと思うような発表内容で、回覧に出されていた卒論もほとんど何も書いてない感じのだった。
後で聞いた話だと、その発表をした学生はほとんど研究室に来ていなかったらしい。
...まあ、こういう状況で「これでは修士に値しない」はわかるけれど、それなりに研究室に来ているのにそれをもらうのははっきり言ってブラック研究室。
実際に見たことはないんだけれど、自分のいた学部にかつて卒論発表会で自分の学生にパワハラを始める人がいたらしくて、
その研究室に行くとヤバいってことが知られているところがあったな。
今でいうAIのような流行りもののテーマを扱っている研究室だったので、憧れだけで研究室を選んで地獄を見る場所だったらしい。
文系大学院の常識は知らんけど、自分の感覚だと修了率50%は相当ヤバいと思う。
この研究室で論文を書く場合って、指導教官はauthorに入りますか?
ゼミで指導をしたと言えば言えるのかもしれないけれど、文系の研究室はえらく気が長いんですね。
月1程度(1回1.5時間ほど)以外は研究について話すのNGなんですよね。
研究を進めるうえで研究室で特殊な機械を借りたり、先生の人脈を使ったりしてますか?
自分の感覚だと、その程度の相談時間で、研究室のリソースも使わないとなると、指導教官をauthorに入れていいのか怪しいレベルだと思うんだけど。
ちなみに、自分のいたところは毎日指導教官とテーマについて話してました。
論文を書くときは構想から相談して、添削もしてもらってました。
「増田君が言いたいことはこういうことでしょ」と先生が書き直したことも時々あったので、ぶっちぎりでauthor感があった。
これが1カ月に1回。ほんとに研究室の進捗がslowなんだな。
そして、シン・仮面ライダーのメイキング(NHK制作のドキュメンタリー見てくれ)よりもひどい世界だ。
早いフィードバックで何度も回すのが自分の周りだと普通なので。
もちろん、先生に毎回確認するのは気が引けるので博士などの人が先生に質問をするときに一緒に居たりして、一緒に先生の話を聞いて意図を組んで、その人と壁打ちをすることが大半だと思うけど。それでもって、その博士の人もauthorに含まれる。話しているうちに博士の人のアイディアが入ることもあるし。
は別に正直でいいと思うんだけれど、先生の知り合いでその分野に明るい人を紹介してもらって共同研究できないんだろうかとかは考える。
④ヒステリックになっていると言われる
「先生方は現状をどのようにお考えなのですか」の回答はそんなに問題があるとは思えない。
「お考えですか」だからね。
大学としてこの修了率は普通のことなのか、普通じゃないのか?みたいなところからだな。普通のことだったら、それ以上の会話はないよ。
普通じゃなかったら改善案についての話になるけれど、普通のことだったら改善などないからね。
正直、元増田のお気持ち表明以上の意味がある質問には見えない。
修了率が高い研究室に移れないかを考えてもいいとは思うけれど。
⑤計画性がないと言われる
ここまで読んでいて思うのは先生には学生を育てる動機づけがないってことかな。
先生の問題というよりも、大学やその業界の問題のような気がしてならない。
うちの分野だと自身の研究成果はさておき、育てた学生(特に博士)の数や研究も評価の対象になるので、下を育てることにそれなりの動機付けがある。
多分、指導能力がない(学生を育ててない)人はテニュアトラックに乗れないんじゃないかなと。
あと、先のところでも書いたけれど、もしかして、元増田の通っている大学院は別に修了しない学生が多くても構わないって思ってない?
自分のいたところはその分野の人材を育てるという意味合いもそれなりにあったのか、修了率はかなり高めだったと思う。中途で消えた人は見たことない。
でも、修了率50%でなんとも思わないというのは研究室どころか、その専攻科がそれを良しとしているとしか思えない。
え?先生って定形勤務なの?てっきり裁量労働なのかと思ってた。
働きたかったら何時間でも働いていいけれど、働きたくなかったら別に何もしないでもokみたいな。
ふんわり定時みたいなのがあったほうが自分も学生も働きやすいからそういうのをやっているだけかと思ってた。
でも、この書類もGW直後に見てもらうのだと間に合わなかったんだろうかとも思ったりする。
先生にだって休みの日を休みの日として過ごす時間は必要だと思うので。
家族サービス中にちらちらとメールチェックをするのはokですか?ngですか?
ちょっと研究室にいた時間と自宅にいた時間がかぶってて、なんかおかしいので時間帯はわからんけど、
理系だと追い込みの時期に研究室に住んでいるみたいな人は普通にいる。
ま、事実上研究室に住んでいるような人生を研究に捧げた先生なんかもいるらしいしね。
学位論文書いてた時は研究室から徒歩数分のソバ屋で年越しそば喰って、正月も研究室にいたけれど...
研究に費やす時間についてはこんなものだと思う。修了できなかったら死ぬみたいな気持ちでやってたのは事実で、文字通り命を削って学生してた。
親はモラトリアム楽しんで遊びに行っていると思っていたようで、恥ずかしいからと親戚の集まりに来ないように仕向けられてた。
労働基準法で守られているし、学位を取れなかったら死ぬみたいな謎な緊張感もないしね。
でも、指導教官の対応はなんかおかしいと思う。そもそも、学生を育てようとか卒業させようとかいう意思を全く感じない。
でも、それは個人の問題というよりもシステムの問題なのかもしれないとも思う。
もし、増田の分野が人を育てることを重視していないなら、それは業界の問題であって個人の問題ではないし、
そこは手厚い育成を求める人たちが行ってはいけない分野なんだと思う。
法テラス?
普通に考えると、この手のトラブルは弁護士に話す案件かなーと思った。他の人の状況や客観的な証言を集めたかったら探偵も使うのかもしれないけど。
大学のモラトリアム期間に彼女作って、どっちかのアパートに転がり込んで流れで半同棲初めて、ダラダラゲームしたりセックスしたり勉強したり旅行したり、そういう時期を過ごしたかった
今後どんな人生イベントがあってもそれがないという事実が俺の人生に影を落として、「でも俺は大学時代に同棲してないからゴミ」という気持ちになり自己肯定感が全く上がらない
今後仮に恋愛し結婚が万一あったとしても俺の人生は満足しないだろう。ツライ。助けてくれ。わかる人いないか
(追記)
ちなみに今の俺は女っ気こそないがそれなりに充実した生活を送っている。仕事は楽しいし同性の友達は多いし上司にも可愛がられ余暇も多めだから趣味も充実している
だがそれでも「大学で同棲しなかった」という事実が頭をよぎっては全て無為に思える時がある。これは多分一生抱える病気みたいなものだろう
自分のモラトリアムにセカイ全てを巻き込み、セカイの全てを自分がモラトリアムを卒業するための踏み台にする物語。
自己陶酔、自己憐憫、自己解決、自己完結で突き進むどこまでも俺俺僕僕私私自分自分な物語。
ポップカルチャーとの適当な距離感も取れないまま大きくなった精神年齢中高生の中高年向け雑誌たるアフタヌーンで煩悩の数だけ連載されただけのことはある。
「まだるっこしく小難しく語られ物語世界全てを巻き込み人類の善悪を裁く長大なSF」だが、とどの詰まりは「僕が僕という人間を理解し、等身大の気持ちで世界と向き合った結果、あんなに空回りしてBIGなことを求めていた気持ちの内側が、愛情に飢えた赤ん坊みたいなものでしなかったことを認めるまでの物語」でしかないという。
セカイ系はセカイと愛する誰かを天秤にかけるが、その天秤にかける誰かさえ存在せずただひたすら「いつも苦しくて辛い僕の気持ちを理解してくれないセカイに対して思い知らせてやるぞ」と意気込んでは何もかもを滅茶苦茶に壊し続けるだけという。
挙げ句世界中からそんな自分を見透かされ、いいように役を与えられた役をそのままやりきって、気づいたら全員に置いてけぼりにされてたことに唐突に気づく。
どうしようもないほどに独り善がりで、悲しいぐらいに幼い主人公の物語だ。
世界全てと自分を天秤にかけてアッサリ自分の価値が勝ってしまうほどの強烈な自己愛のせいで、実際の世界を正しく認識できず自分の認識するセカイの像に振り回されるがままに堂々巡る。
世界を正しく捉えることが出来てないから自分の立ち位置も分からず、世界や誰かを鏡とすることで自分を客観視することもずっと出来ないから自分が何を望んでいたのかも最期の最期になるまで理解できない。
終わりのないモラトリアム、周りがとっくに卒業したハシカにずっとずっと悩まされ熱にうなされながら自分の心に映ったセカイの姿に振り回されるままに世界を彷徨い世界を敵に回し世界に利用されてセカイが壊れる。
世界を相手取ってるはずなのにどこまでも完全な独り相撲、だけどそれに皆が付き合ってくれているからさも自然と噛み合わさせていただいていたことに後から気づいて赤面する気も失せていく。
強すぎる自己愛は世界を滅ぼすが、滅ぼされた世界は滅びたいから滅びただけで結局ガキ一人がどうこうしようが世界の行く末なんて何一つ変わっちゃいない。
しんどいな。
世界全部と引き換えにしなきゃ治る機会さえないようなモラトリアム。
フォスは卒業したけど、読者のオタク共に世界と引き換えにモラトリアムを卒業する機会なんてやってこない。
だから読者のオタクはずっとずっと変わらずにモラトリアムのままで生きて、モラトリアムの中で死ぬんだ。
この話はこれでおしまいなんだ。
10秒クリック、年収2年分チャージ。これが完璧に成功すればもう二度と労働に縛られない人生が待っている。手に入れた時間で好きなように人生を生きよう!「俺は実はいつでも辞められるが?」を精神の支えにして普通に働いてもいいし、趣味を仕事にするべく創作活動にのめり込んでもいい。不安から解放され、自由を手にしよう!(ただし勝利者に限る。) 「タイパ」の究極系は「注いだ時間以上の時間を得ること」であることに異論があるものがいるだろうか?(いや、いる。なぜならここは天邪鬼の集まりだから)。
成長型ゲームの根源、本懐、トロ、ミソ、核、爆を超高速で味わえる。数字をインフレさせるだけのゲームのガワを剥がした内側にあるもの、その楽しみ、成長曲線、苦行、カタルシス、味変、ルールチェンジャー、あらゆる要素を駆け抜けていける。そして訪れる静寂の如き、飽き。引き際の悟りと深みへの誘いが波のように交互に打ち寄せる。沼に飛び込みたい気持ちをグッと堪えてデータを削除したとき、きっと君は「何百日とプレイしてしまったソーシャルゲームを手放した直後」のような開放感を味わうだろう。そうだ!盆栽の最大の楽しみはそれを捨てた直後に訪れる!いくつものクローンがあるが、本質は本家が極めているので本家以外を遊ぶ意味はない。人生をドブに捨てたいなら別
この世界で一番楽しいのは可能性を空想することだ。ミロのヴィーナス、サモトラケのニケ、そしてモナリザの謎。現実世界において完全でないものこそが脳内において真に完全へと近づける。βテストや体験版で「このバグ強すぎるー!!」と暴れまわったり、他ゲーの経験を活かして初心者を狩ったり、ないしはそういうスマーフ野郎半チート野郎を囲んで叩く自警団を気取ったり、βの自由な世界にしかないモラトリアムな楽しみが確かに存在する。そしてなにより無料だから人口密度が高く、ネットで皆でワイワイするのも楽しい。「これって製品版ではさ~~~」「いやいやこれは~~~」で無限に語れるぜ!未完成!それは可能性!十で神童、十五で才子、二十過ぎればセンター試験の点数をいつまでも自慢げにSNSに書いてるちょっと可愛そうな人と古事記にも書いてある。
きっと きみたち は もう わすれれて いるだろう。 人差し指だけで 必死な顔をして 一文字ずつ丁寧に キーを叩いていたあの頃を。 タイピングゲームがなければ僕たちは今でも そんな状態で毎日インターネットをやっていたかも知れないんだ。 そしたらブクマで100文字打つのだって 余りにも大変で全く楽しめなかったんじゃないだろうか? コンピューターを使った仕事につくことなんて想像もできないぐらい ただキーをタイプするだけのことがしんどいまま人生を生きていたんじゃないか? マジでちゃんと感謝したほうがいい。タイピングゲームでひたすらキーを叩きまくった時間は決して無駄じゃなかったと俺は信じているぞ。
2画面にして映画やYoutubeを見ながらやれば、運動しつつ動画を見ているので実質時間消費0で運動が出来る。あまりにも圧倒的パフォーマンス。圧倒的すぎて蛇足にならない言葉が思いつかないほどだ。
やってしまえ。どんなゲームなのか気にしてる時間が無駄。やってみれば分かる。体験版でいい。とにかくやれ。脳のリソース管理的にも。
一作だけならガチってもいいっぽい空気があるので一作だけガチらせてくれ。このゲームは本当にタイパがいいんだ。名前の通りちょっと短いハイキングをゲームの中でするだけ。でもそこにはゲームというものの楽しみが詰まっている。箱庭の中で圧縮された個性豊かな人々の営みがあり、世界には相互作用が働いて、それぞれの人物に物語がある。小さな冒険を通して少しずつ成長する主人公。少しずつ操作が熟達するプレイヤー。軽やかで気持ちのよい成長曲線。少年時代を思い出させるスピードで次々に広がっていく世界。刺激される想像力が解法を閃かせ、世界の謎が次々と解き明かされる。挑戦する楽しみ、成長する喜び、小さな友情、時には挫折、そして再挑戦。人生という苦行の中から光り輝くものだけを集め直した生きる喜びの宝石箱。たった2時間程度でたどり着けるエンディングなのに、確かな満足感と高揚感を感じるのは、冒険に求めていたものがこの温かな箱庭の中に詰まっていたから。
生きていれば色々と出来る。何でもは出来ないけど何かは出来る。死んでしまうと何にも出来ない。死後0秒から人間はもう何もできなくなる。生きてさえいれば、空想を広げるぐらいのことは出来る。人生のあらゆる場面が時間消費型のコンテンツなわけだからして、とにかく生きていなければ何も始まらない。一見すれば生きることのタイパがどんなに低くても、死のタイパは0なので相対的には圧倒的に生きることが勝るのだ。生きろ。まずはそこから全てが始まる。
それはマジでそう
でも上でも下手なところになると逆に死ぬレベルでガチャガチャやられる
下でも高望みしなければ飯食って寝て風呂入ってぐらいはできるようになる
それをモラトリアムの中で教えきるってのはなかなかむずいし教える方も教科書の範囲の他に把握した上で動かなければいけなかったりするから無理に近い。
だから送り出す大人が『学校ってそんなもんだけど、だからってお前が彼らの仕事を否定するのは違うからな』って言うでもしない限りは無理。
尊敬だけできて、それで全部の知識を得られるなら誰でもそこに行きたいけど、30超えてもガキ扱いされる大人達が誰かを十全に教育しきるなんて協力が沢山あっても難しい。
ガキに夢見させたいバカとガキに現実教えなきゃいけないバカとガキ放置して生きたいバカと自分にガキがいると思ってないバカと無知なバカのガキとわかっててやってるバカのガキと法律と文字が多いせいで間違いが出てくる教科書とそれらに携わってる自覚のないバカ共と非協力的なエトセトラと関わらなきゃいけないことでモラトリアムは成り立っている。
『これさえ教えてくれたらなー!』は無理、お前らが学生時代に『JPOPを音楽の授業で教えてよー!』って言ってたのと同レベルの戯れで、そんなお前らの要望に従ってJPOPを導入した先が『税金のこと教えて欲しかった』のお前ら。
それを望んで就活してその結果として大学で働いてると思うんだけど、生活保護受給者レベルの異常大学生の相手させられて狂っちゃう人ってなんで出てくるん?
そもそもそういった狂ってる人を救ってあげたいっていうメサイア・コンプレックスを満たすために大学で働くことを選んだんじゃないの?
そうじゃないなら、自分が大学生だった頃の経験から窓口に来る人間が玉石混交と呼ぶのも嫌気が指すほどの核廃棄物混交になってるのは分かりきってるじゃん?
クラスメート・バイト仲間・サークル・他大学の交流先、あちらこちらでキチガイムーブ自慢をしてくる大路全裸ダッシュ族と親睦を深めてきた思い出があるやろ?
そういう経験に照らし合わせれば大学で働くってことは狂気の世界に秩序を生み出そうとする仁術に他ならないことは嫌でもわかるじゃん?
なんなん?
高卒だとしても、高校の頃に学生気分を拗らせ狂いまくっていた同級生達の姿を通して、学校で働くことのヤバみを感じ取れたりしなかったんか?
別にボッチだろうがなんだろうが、むしろボッチの奴らの方がより岡目八目的に、学生という立場を盾にしてくる連中に社会秩序という概念が微塵も存在しないことはよく見えていたのでは?
狂った奴らの相手をしたかったから意外の理由があるなら、そりゃお前仕事を選ぶのが下手くそ過ぎるよ。
レポート出せって言ったら中身が以前はwikiの丸写しで、今は生成AIの丸写し。
いかんのか?
年収500万のクソザコプログラマーやっとるけど、俺の仕事だってそんなもんだぞ。
基本は過去に作ったものの使いまわしだし、わからんところは他人のコードの使いまわしだし
まぁ、丸写ししてレポート出して終わり!じゃなくて最適な形に手直しする必要はあるけど、
いちからアルゴリズムを考えたりすることなんかまったくないわ。
仮に「僕は将来ノーベル賞を取るんです!」とか言うてる奴がそのレベルだったらいかんでしょって感じだけど
大学生なんか就職までのモラトリアムたまこでしかないんだから、別に生成AIに答えさせたらええやん。