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はてなキーワード: 自責とは

2020-05-14

ニートの親はニートを見て何を思うのか

ハズレくじ引いたなと思うのか

自分教育のせいでハズレに育ったと自責するのか

2020-05-13

大家家賃一時引き下げか留保自主的にやれよ。コナミ叩くならこれもだろ。

使用用途は知ってるし業務状況も把握できるよな?

それなら大家も血を流せよ。経営側の自責ならそりゃそうする必要ないけど、完全に今は世の中のせいじゃん。であれば善意とかでなくそリスクは共に背負って然るべきだろ。天災認定せいや保険屋のせいにすんなよ、それなら保険屋と君がケンカしろ。「このご時世大変だなぁ…来週の家賃大丈夫?」って、大丈夫?は君の方だと。

コロナウィルス建物感染するとヒビが入るとかなら良かったんだがな。

2020-05-12

anond:20200512114249

いま、ソフトエンジニアクソ高いから。10人の回エンジニアが、半年 1億ぐらいだと 安く見積もったとして。まぁ3億ぐらいなら、受けてくれるソフト屋が・・・まぁいまはいないだろうな。

その感じだと ハード焼くか、ソフト変えるか?で他社で自責じゃないとなると・・・まぁ。コネで10億からコネでな。

2020-05-05

anond:20200505213756

閉店というくくりで同列に並べていきってるけど、自責他責じゃ全然違うだろ

2020-04-17

藤原啓治が死んだらしい

あのクレヨンしんちゃんの野原ひろしの藤原啓治

なんか渋くて意地悪でカッコイイけど頼りないおじさんの声をやらせたら右に出るものはいないあの藤原啓治

なんでも癌で亡くなったらしい

癌というものは恐ろしい、どれだけ年齢が若かろうとその体力や治癒力の如何にして残酷に命を奪っていく

コロナもそうだがやはりタバコを吸ったりして肺を弱らせてしまう人はあまり体力が持たないようだ

知り合いも癌だったがそれは膵臓癌だった。それでも全身に転移していたし、もしかしたら体力以前の問題かもしれない。

でも医者治療する度に体力がどうのと言っていたのでやっぱり体力は必要なのだ

から「この年齢ならきっと大丈夫でしょ」なんて俗説はどれも頼りないし

多分肉体的に健康でも…みたいなものなんだろう

からどうしても何を言っても頼りない。

何が治癒になるのか、救いになるのか、絶望の苗床から希望の花が一輪咲いてそこから再生の芽が吹きこぼれるか、

悪性細胞の恐ろしき侵食力によって新たに生まれた命が成長しきれずに黒く染まって死ぬようなそんなグロテスク最後を迎えるのかだってからない。

から、恐れる。死を目の前にして恐れる。

理想的な死に様すら迎えられずに惨めに哀れに虚空を掴みながら死ぬのを恐れる。

それでも、そこから抜け出したと思ったから、

なんとかそこから抜け出して新たな命のフェーズに入ったと思ったから、なんだか油断していたところもある。

藤原さんってこの作品にも出るんだ!まだ活躍されるんだ!」と勘違いした部分もある。

から、名優なのだ

最後まで観客を騙し切るなんて俳優の誉じゃないか

いつかまたどこかで彼に逢えると思えるなんて凄まじいじゃないか

から藤原啓治はどこかで生きている、生きていた。

からこそ死んでしまった。途絶してしまった。永遠のうちには無くなってしまった。

これからその亡霊を私は追うことになるのだろうし、その死についても「お前はまつらいさんの時に学ばなかったのか」という自責がまた私を襲うのだろう。

声優という職業不安定さや、病気というものの恐ろしさや、その人達がいる日常の当たり前じゃないことを理解しなきゃいけなかった。

から、ひろしはひろしのまま死んでしまった。

いや、ひろしはひろし以外の姿もいくつか見られて、それをこれから、という時に雲の合間から下界を覗く奴らに持っていかれてしまった。

から私は亡霊を見ることになるのだろう。

俗に言うイケおじだとかいう部類のキャラクターを見た時に、あの色気のある声が蘇るのだろう。

それに、ここまでそれっぽい言葉を使わなかったのは藤原啓治という存在が、その固定概念が、ひろしで止まったりホランドで止まったり、その他のキャラクターで止まったりしてはならないと思うから

これから年齢を経て広がりと深みを見せるはずだった彼の演技がそこで止まったものではなかったはずだから

から

改めて、癌は恐ろしい。

改めて、日常の脆さを痛感した。

改めて、藤原啓治は素晴らしい役者だった。

その想いを胸に秘めて匿名日記を書く増田であった。

2020-04-07

anond:20200401035340

これを書いた人です。

つの間にかたくさん反応をいただいていて驚きました。

あたたかいお言葉をくださった方、ありがとうございます

日増しに厳しくなっていく状況の中、なんとか頑張る勇気をいただいています

生活保護についてアドバイスくださった方もありがとうございます

実は父とは疎遠ながら関わりがあるのですがまだ前職を退職したことも知らせていないので、生活保護となると報せが行ってしまうことがとても怖いのです。

鬱で早期退職後私を養えず高校卒業もさせられなかった強い自責に加え、飼い猫が亡くなってから塞ぎこみがちで、私が上場企業正社員として働いていたことをとても喜んで安心していたので、実は生活苦から風俗業をしていることを知ったら生命保険のために本当に自殺でもしてしまうのではと、踏み切ることができません。

学校から帰ったら母が死んでいるかもしれないと不登校になった6歳の頃から、何も変わってないんだなと情けないような虚しいような気持ちにもなります

しかしどうにもならないことを考えても仕方がありません。

お客様とのご縁を精一杯大切にしながら、なんとかやれるところまで頑張ってみます

anond:20200407221907

きのう

面接受かっても緊急事態宣言理由

なかったことになりそうで怖い

って書いてた人か

ウイルスのせいで社会が変わるから今の時点であまり自責しないように

ここにくると呪われるよ

上のトラバみればわかるとおもうけど

2020-03-03

鬱病だがもう自殺してしまおうかと思う

誰もいないところでひっそりと死にたい

そう思い始めたのは鬱病を患い、自宅で療養する毎日がしんどくなってきた頃だ。

規則正しく生活を送っていても、日々頭の中を支配するのは一度レールから外れてしまたこから二度と元には戻れないという恐怖感。

思えば大きくつまずいたことの無い人生であった。

裕福な家庭に生まれ、当たり前のように私立中高一貫校に進み、東大に進み、世間からまれるような企業入社した。

しか入社したのは良いが次第に終着点が見えないことに気付き、社内の人間関係億劫になっていく。

そして自身がこんな環境にいるのは自分努力が足りないせいだと自責を始め、だんだん精神に異常が起こり始めた。

今まで当たり前に親や周りの人達が敷いてきてくれたレールを歩くことしか能がないのだからそこから外れる勇気もない。

馬鹿正直に同じことを繰り返してきた人間馬鹿正直に同じことを繰り返すことに対して疑問を持ち始めたら脆かっただけなのだろうが、気付くにはあまりにも遅すぎた。

色々と考えた結果、痛いのは嫌なので薬か何かを輸入してオーバードーズ死ねたらいいのではないかと思う。

今まで沢山愛情を注いで育ててくれた両親や親戚の方々には申し訳ないが、苦しいのだ。

ただただ終わりが見えない苦しみの中にいるのがこんなに苦しいとは思わなかった。

楽しく毎日を過ごして当たり前の幸せ人生を送れなくてごめんなさい。

anond:20200303092734

でも最初の一瞬の不安過ぎたらあとは

俺は悪くないのに不快にさせやがって、ってひたすらそいつにむかつくだけだよ

自責って言えるのかなあ

anond:20200303092602

自責

他責は真っ先に「うぜぇ」とか「イライラ」がくる

anond:20200303091922

自責自己選択責任を持つは違います

どこに「自己選択責任を持つ」ことが書いてあるんだろう。

anond:20200303091431

自責自己選択責任を持つは違います

自責は楽チンで自分気持ちいいヤツ

自己選択責任を持つはひたすらシンドイヤツ

2020-03-02

[] 後輩のつぶし方 アドバイスすれば良いき

基本的にみんな自分の好きなやり方がある

C++がすきとかRubyがすきとか

なのでアドバイスするとあいてのよさや、やりたいことを壊してしまうことがある。

そのため

たとえばソートならクイックソートを使えはOK

速くしてほしい場合などは

XXという条件下でXX秒以内になどという言い方をする

個人黒人によって得てふえてがあったりするので

性能条件をいってやりかたはあいてがとくいなものにまかせることがある

 

最悪なのはクックソートはやいなーとか、クックソートクイックソートなどとつぶやくことである

こういう場合クイックソートを使うようになどと指揮命令しなければならない

 

性能で指定するか、方法でしていするのが一般的

まじめにクックソートーとか自責そばでつぶやいたり

クイックソート体操!とかいいはじめるひとがめんどくさいと思った業界

べつだんいってくれればやるのにという

 

ただし、ソート対象がN=16などのように極めて少ない場合

クイックソートよりもバブルソートのほうが良い場合すらあるので

基本的には相手に任せてソート、(少量のデータ対象)とするなど

2020-03-01

永訣の朝

 眠れないし、書いて吐き出すことにした。

 一昨日まではのんびりしていた。大学生活も3年終わり、コロナのおかげで公然と引きこもってゲームが出来る春休み謳歌していた。脳を溶かしてる一方、周りは忙しくしていてなんか会社説明会とかやっているなとのほほんと思っていた。

 進路については特に考えていなかった。自分の将来を考えるのが怖いし、考えてしまったら3年間続いてきたデカダン生活永遠に手放すように思ったからだ。

 怠惰生活は3つの要素で構成されていた。動画ゲーム睡眠だ。だらだらとYouTube動画を見て、飽きたらゲームをして時間を潰し、疲れて寝る。振り返ればこの3年、時間を浪費し続けてきた。真剣に考えるのは面倒くさいし、アホなことは今しか出来ない。時間を浪費する自分カッケーとさえ思っていた。イタいコイツ。もちろん、自分は間違っていた。

 家族には何となく自分公務員志望だと言っていた。勉強もしていると口では言っていた。実際は勉強していないし毎日動画ゲーム睡眠のサイクルを繰り返していた。宣言しておけば何も言ってこないから、ずっと空手形を切ってきたのだ。

 昨日の2月最終日、いよいよ3月を迎えるにあたって急に焦り始めた。このままだとマズいと四季報業界地図を引っ張り出して適当でいいかエントリーしようと思い立った。合説がコロナで延期という報道がつい先日までは対岸の火事だったが1丁目1番地、火災旋風のド真ん中に放り出された。

 日付が変わって3月になった。解禁と共にエントリーしたもののなんてことは無い、会社説明会は概ね延期されていた。採用も進まないだろう。なんだよ。さぁ安心して横になろうと思ったら全然寝られない。不安だ、何もやってこなかった不安が今になって襲ってきた。

 もう自分は今までの能天気なフリで騙せない。いつかこうなると分かっていた。サボっていたツケを払うため、遅ればせながら戦争に参加することしか自分には選択肢が無い。

 他人責任にして逃げてきた。今回の合説全滅だってコロナのせいにしてしまえば自責に苛まれずに済むし、気が楽だろう。しかし、全ては自分責任なのだなと思わされた。事前に選考に参加していれば蜘蛛の糸を切られて窮することも無かっただろう。

 大学モラトリアムになっていないことも、コロナの余波も、責任をそれらに押しつけてしまえればどんなに楽だろうか。ルールを知らずに浪費していた自分はここから立ち上がるしかないのに。

 面倒くさくなって寝込むこともあるだろうから、そんな時はここに書きに来てサッパリと忘れることにする。今までの自分と永訣する意を込めて。

2020-02-25

翳(原民喜

センター試験話題になったけど、全文読めるところが見つからなかったので)

底本:原民喜戦後小説 下(講談社文芸文庫1995年8月10日第1刷発行

     I

 私が魯迅の「孤独者」を読んだのは、一九三六年の夏のことであったが、あのなかの葬いの場面が不思議に心を離れなかった。不思議だといえば、あの本——岩波文庫魯迅選集——に掲載してある作者の肖像が、まだ強く心に蟠(わだかま)るのであった。何ともいい知れぬ暗黒を予想さす年ではあったが、どこからともなく惻々として心に迫るものがあった。その夏がほぼ終ろうとする頃、残暑の火照りが漸く降りはじめた雨でかき消されてゆく、とある夜明け、私は茫とした状態で蚊帳のなかで目が覚めた。茫と目が覚めている私は、その時とらえどころのない、しかし、かなり烈しい自責を感じた。泳ぐような身振りで蚊帳の裾をくぐると、足許に匐っている薄暗い空気を手探りながら、向側に吊してある蚊帳の方へ、何か絶望的な、愬(うった)えごとをもって、私はふらふらと近づいて行った。すると、向側の蚊帳の中には、誰だか、はっきりしない人物が深い沈黙に鎖されたまま横わっている。その誰だか、はっきりしない黒い影は、夢が覚めてから後、私の老い母親のように思えたり、魯迅の姿のように想えたりするのだった。この夢をみた翌日、私の郷里からハハキトクの電報が来た。それから魯迅の死を新聞で知ったのは恰度亡母の四十九忌の頃であった。

 その頃から私はひどく意気銷沈して、落日の巷を行くの概(おもむき)があったし、ふと己の胸中に「孤独者」の嘲笑を見出すこともあったが、激変してゆく周囲のどこかにもっと切実な「孤独者」が潜んでいはすまいかと、窃(ひそ)かに考えるようになった。私に最初孤独者」の話をしかけたのは、岩井繁雄であった。もしかすると、彼もやはり「孤独者」であったのかもしれない。

 彼と最初に出逢ったのは、その前の年の秋で、ある文学研究会の席上はじめてSから紹介されたのである。その夜の研究会は、古びたビルの一室で、しめやかに行われたのだが、まことにそこの空気に応(ふさ)わしいような、それでいて、いかにも研究会などにはあきあきしているような、独特の顔つきの痩形長身青年が、はじめから終りまで、何度も席を離れたり戻って来たりするのであった。それが主催者の長広幸人であるらしいことは、はじめから想像できたが、会が終るとSも岩井繁雄も、その男に対って何か二こと三こと挨拶して引上げて行くのであった。さて、長広幸人の重々しい印象にひきかえて、岩井繁雄はいかにも伸々した、明快卒直な青年であった。長い間、未決にいて漸く執行猶予最近釈放された彼は、娑婆に出て来たことが、何よりもまず愉快でたまらないらしく、それに文学上の抱負も、これから展望されようとする青春とともに大きかった。

 岩井繁雄と私とは年齢は十歳も隔たってはいたが、折からパラつく時雨をついて、自動車を駆り、遅くまでSと三人で巷を呑み歩いたものであった。彼はSと私の両方に、絶えず文学の話を話掛けた。極く初歩的な問題から再出発する気組で——文章が粗雑だと、ある女流作家から注意されたので——今は志賀直哉のものノートし、まず文体研究をしているのだと、そういうことまで卒直に打明けるのであった。その夜の岩井繁雄はとにかく愉快そうな存在だったが、帰りの自動車の中で彼は私の方へ身を屈めながら、魯迅の「孤独者」を読んでいるかと訊ねた。私がまだ読んでいないと答えると話はそれきりになったが、ふとその時「孤独者」という題名で私は何となくその夜はじめて見た長広幸人のことが頭に閃いたのだった。

 それから夜更の客も既に杜絶えたおでん屋の片隅で、あまり酒の飲めない彼は、ただその場の空気に酔っぱらったような、何か溢れるような顔つきで、——やはり何が一番愉しかったといっても、高校時代ほど生き甲斐のあったことはない、と、ひどく感慨にふけりだした。

 私が二度目の岩井繁雄と逢ったのは一九三七年の春で、その時私と私の妻は上京して暫く友人の家に滞在していたが、やはりSを通じて二三度彼と出逢ったのである。彼はその時、新聞記者になったばかりであった。が、相変らず溢れるばかりのもの顔面に湛えて、すくすくと伸び上って行こうとする姿勢で、社会部入社したばかりの岩井繁雄はすっかりその職業が気に入っているらしかった。恰度その頃紙面を賑わした、結婚直前に轢死(れきし)を遂げた花婿の事件があったが、それについて、岩井繁雄は、「あの主人公は実はそのアルマンスだよ」と語り、「それに面白いのは花婿の写真がどうしても手に入らないのだ」と、今もまだその写真を追求しているような顔つきであった。そうして、話の途中で手帳を繰り予定を書込んだり、何か行動に急きたてられているようなところがあった。かと思うと、私の妻に「一たい今頃所帯を持つとしたら、どれ位費用がかかるものでしょうか」と質問し、愛人が出来たことを愉しげに告白するのであった。いや、そればかりではない、もしかすると、その愛人同棲した暁には、染料の会社設立し、重役になるかもしれないと、とりとめもない抱負も語るのであった。二三度逢ったばかりで、私の妻が岩井繁雄の頼もしい人柄に惹きつけられたことは云うまでもない。私の妻はしばしば彼のことを口にし、たとえば、混みあうバスの乗降りにしても、岩井繁雄なら器用に婦人を助けることができるなどというのであった。私もまた時折彼の噂は聞いた。が、私たちはその後岩井繁雄とは遂に逢うことがなかったのである

 日華事変が勃発すると、まず岩井繁雄は巣鴨駅の構内で、筆舌に絶する光景を目撃したという、そんな断片的な噂が私のところにも聞えてきて、それから間もなく彼は召集されたのである。既にその頃、愛人と同居していた岩井繁雄は補充兵として留守隊で訓練されていたが、やがて除隊になると再び愛人の許に戻って来た。ところが、翌年また召集がかかり、その儘前線派遣されたのであった。ある日、私がSの許に立寄ると、Sは新聞第一面、つまり雑誌新刊書の広告が一杯掲載してある面だけを集めて、それを岩井繁雄の処へ送るのだと云って、「家内に何度依頼しても送ってくれないそうだから僕が引うけたのだ」とSは説明した。その説明は何か、しかし、暗然たるものを含んでいた。岩井繁雄が巣鴨駅で目撃した言語に絶する光景とはどんなことなのか私には詳しくは判らなかったが、とにかく、ぞっとするようなものがいたるところに感じられる時節であった。ある日、私の妻は小学校の講堂で傷病兵慰問の会を見に行って来ると、頻りに面白そうに余興のことなど語っていたが、その晩、わあわあと泣きだした。昼間は笑いながら見ものが、夢のなかでは堪らなく悲しいのだという。ある朝も、——それは青葉と雨の鬱陶しい空気が家のうちまで重苦しく立籠っている頃であったが——まだ目の覚めきらない顔にぞっとしたものを浮べて、「岩井さんが還って来た夢をみた。痩せて今にも斃れそうな真青な姿でした」と語る。妻はなおその夢の行衛を追うが如く、脅えた目を見すえていたが、「もしかすると、岩井さんはほんとに死ぬるのではないかしら」と嘆息をついた。それは私の妻が発病する前のことで、病的に鋭敏になった神経の前触れでもあったが、しかしこの夢は正夢であった。それから二三ヵ月して、岩井繁雄の死を私はSからきいた。戦地にやられると間もなく、彼は肺を犯され、一兵卒にすぎない彼は野戦病院殆ど碌に看護も受けないで死に晒されたのであった。

 岩井繁雄の内縁の妻は彼が戦地へ行った頃から新しい愛人をつくっていたそうだが、やがて恩賜金を受取るとさっさと老母を見捨てて岩井のところを立去ったのである。その後、岩井繁雄の知人の間では遺稿集——書簡は非常に面白いそうだ——を出す計画もあった。彼の文章が粗雑だと指摘した女流作家に、岩井繁雄は最初結婚を申込んだことがある。——そういうことも後になって誰かからきかされた。

 たった一度見たばかりの長広幸人の風貌が、何か私に重々しい印象を与えていたことは既に述べた。一九三五年の秋以後、遂に私は彼を見る機会がなかった。が、時に雑誌掲載される短かいものを読んだこともあるし、彼に対するそれとない関心は持続されていた。岩井繁雄が最初召集を受けると、長広幸人は倉皇と満洲へ赴いた。当時は満洲へ行って官吏になりさえすれば、召集免除になるということであった。それから間もなく、長広幸人は新京文化方面役人になっているということをきいた。あの沈鬱なポーズ役人の服を着ても身に着くだろうと私は想像していた。それから暫く彼の消息はきかなかったが、岩井繁雄が戦病死した頃、長広幸人は結婚をしたということであった。それからまた暫く彼の消息はきかなかったが、長広幸人は北支で転地療法をしているということであった。そして、一九四二年、長広幸人は死んだ。

 既に内地にいた頃から長広幸人は呼吸器を犯されていたらしかったが、病気の身で結婚生活飛込んだのだった。ところが、その相手資産目あての結婚であったため、死後彼のものは洗い浚(ざら)い里方に持って行かれたという。一身上のことは努めて隠蔽する癖のある、長広幸人について、私はこれだけしか知らないのである

     II

 私は一九四四年の秋に妻を喪ったが、ごく少数の知己へ送った死亡通知のほかに満洲にいる魚芳へも端書を差出しておいた。妻を喪った私は悔み状が来るたびに、丁寧に読み返し仏壇ほとりに供えておいた。紋切型の悔み状であっても、それにはそれでまた喪にいるものの心を鎮めてくれるものがあった。本土空襲も漸く切迫しかかった頃のことで、出した死亡通知に何の返事も来ないものもあった。出した筈の通知にまだ返信が来ないという些細なことも、私にとっては時折気に掛るのであったが、妻の死を知って、ほんとうに悲しみを頒ってくれるだろうとおもえた川瀬成吉からもどうしたものか、何の返事もなかった。

 私は妻の遺骨を郷里墓地に納めると、再び棲みなれた千葉借家に立帰り、そこで四十九日を迎えた。輸送船の船長をしていた妻の義兄が台湾沖で沈んだということをきいたのもその頃であるサイレンはもう頻々と鳴り唸っていた。そうした、暗い、望みのない明け暮れにも、私は凝と蹲ったまま、妻と一緒にすごした月日を回想することが多かった。その年も暮れようとする、底冷えの重苦しい、曇った朝、一通の封書が私のところに舞込んだ。差出人は新潟県××郡××村×川瀬丈吉となっている。一目見て、魚芳の父親らしいことが分ったが、何気なく封を切ると、内味まで父親の筆跡で、息子の死を通知して来たものであった。私が満洲にいるとばかり思っていた川瀬成吉は、私の妻より五ヵ月前に既にこの世を去っていたのである

 私がはじめて魚芳を見たのは十二年前のことで、私達が千葉借家へ移った時のことである私たちがそこへ越した、その日、彼は早速顔をのぞけ、それから殆ど毎日註文を取りに立寄った。大概朝のうち註文を取ってまわり、夕方自転車で魚を配達するのであったが、どうかすると何かの都合で、日に二三度顔を現わすこともあった。そういう時も彼は気軽に一里あまりの路を自転車で何度も往復した。私の妻は毎日顔を逢わせているので、時々、彼のことを私に語るのであったが、まだ私は何の興味も関心も持たなかったし、殆ど碌に顔も知っていなかった。

 私がほんとうに魚芳の小僧を見たのは、それから一年後のことと云っていい。ある日、私達は隣家の細君と一緒にブラブラ千葉海岸の方へ散歩していた。すると、向の青々とした草原の径をゴム長靴をひきずり、自転車を脇に押しやりながら、ぶらぶらやって来る青年があった。私達の姿を認めると、いかにも懐しげに帽子をとって、挨拶をした。

「魚芳さんはこの辺までやって来るの」と隣家の細君は訊ねた。

「ハア」と彼はこの一寸した逢遭を、いかにも愉しげにニコニコしているのであった。やがて、彼の姿が遠ざかって行くと、隣家の細君は、

「ほんとに、あの人は顔だけ見たら、まるで良家のお坊ちゃんのようですね」と嘆じた。その頃から私はかすかに魚芳に興味を持つようになっていた。

 その頃——と云っても隣家の細君が魚芳をほめた時から、もう一年は隔っていたが、——私の家に宿なし犬が居ついて、表の露次でいつも寝そべっていた。褐色の毛並をした、その懶惰な雌犬は魚芳のゴム靴の音をきくと、のそのそと立上って、鼻さきを持上げながら自転車の後について歩く。何となく魚芳はその犬に対しても愛嬌を示すような身振であった。彼がやって来ると、この露次は急に賑やかになり、細君や子供たちが一頻り陽気に騒ぐのであったが、ふと、その騒ぎも少し鎮まった頃、窓の方から向を見ると、魚芳は木箱の中から魚の頭を取出して犬に与えているのであった。そこへ、もう一人雑魚(ざこ)売りの爺さんが天秤棒を担いでやって来る。魚芳のおとなしい物腰に対して、この爺さんの方は威勢のいい商人であった。そうするとまた露次は賑やかになり、爺さんの忙しげな庖丁の音や、魚芳の滑らかな声が暫くつづくのであった。——こうした、のんびりした情景はほとんど毎日繰返されていたし、ずっと続いてゆくもののようにおもわれた。だが、日華事変の頃から少しずつ変って行くのであった。

 私の家は露次の方から三尺幅の空地を廻ると、台所に行かれるようになっていたが、そして、台所の前にもやはり三尺幅の空地があったが、そこへ毎日八百屋、魚芳をはじめ、いろんな御用聞がやって来る。台所の障子一重を隔てた六畳が私の書斎になっていたので、御用聞と妻との話すことは手にとるように聞える。私はぼんやりと彼等の会話に耳をかたむけることがあった。ある日も、それは南風が吹き荒んでものを考えるには明るすぎる、散漫な午後であったが、米屋小僧と魚芳と妻との三人が台所で賑やかに談笑していた。そのうちに彼等の話題は教練のことに移って行った。二人とも青年訓練所へ通っているらしく、その台所前の狭い空地で、魚芳たちは「になえつつ」の姿勢を実演して興じ合っているのであった。二人とも来年入営する筈であったので、兵隊姿勢を身につけようとして陽気に騒ぎ合っているのだ。その恰好おかしいので私の妻は笑いこけていた。だが、何か笑いきれないものが、目に見えないところに残されているようでもあった。台所へ姿を現していた御用聞のうちでは、八百屋がまず召集され、つづいて雑貨屋小僧が、これは海軍志願兵になって行ってしまった。それから豆腐屋の若衆がある日、赤襷をして、台所に立寄り忙しげに別れを告げて行った。

 目に見えない憂鬱の影はだんだん濃くなっていたようだ。が、魚芳は相変らず元気で小豆(こまめ)に立働いた。妻が私の着古しのシャツなどを与えると、大喜びで彼はそんなものも早速身に着けるのであった。朝は暗いうちから市場へ行き、夜は皆が寝静まる時まで板場で働く、そんな内幕も妻に語るようになった。料理の骨(こつ)が憶えたくて堪らないので、教えを乞うと、親方は庖丁を使いながら彼の方を見やり、「黙って見ていろ」と、ただ、そう呟くのだそうだ。鞠躬如(きっきゅうじょ)として勤勉に立働く魚芳は、もしかすると、そこの家の養子にされるのではあるまいか、と私の妻は臆測もした。ある時も魚芳は私の妻に、——あなたそっくり写真がありますよ。それが主人のかみさんの妹なのですが、と大発見をしたように告げるのであった。

 冬になると、魚芳は鵯(ひよどり)を持って来て呉れた。彼の店の裏に畑があって、そこへ毎朝沢山小鳥が集まるので、釣針に蚯蚓(みみず)を附けたものを木の枝に吊しておくと、小鳥簡単に獲れる。餌は前の晩しつらえておくと、霜の朝、小鳥は木の枝に動かなくなっている——この手柄話を妻はひどく面白がったし、私も好きな小鳥が食べられるので喜んだ。すると、魚芳は殆ど毎日小鳥を獲ってはせっせと私のところへ持って来る。夕方になると台所に彼の弾んだ声がきこえるのだった。——この頃が彼にとっては一番愉しかった時代かもしれない。その後戦地へ赴いた彼に妻が思い出を書いてやると、「帰って来たら又幾羽でも鵯鳥を獲って差上げます」と何かまだ弾む気持をつたえるような返事であった。

 翌年春、魚芳は入営し、やがて満洲の方から便りを寄越すようになった。その年の秋から私の妻は発病し療養生活を送るようになったが、妻は枕頭で女中を指図して慰問の小包を作らせ魚芳に送ったりした。温かそうな毛の帽子を着た軍服姿の写真満洲から送って来た。きっと魚芳はみんなに可愛がられているに違いない。炊事も出来るし、あの気性では誰からも重宝がられるだろう、と妻は時折噂をした。妻の病気は二年三年と長びいていたが、そのうちに、魚芳は北支から便りを寄越すようになった。もう程なく除隊になるから帰ったらよろしくお願いする、とあった。魚芳はまた帰って来て魚屋が出来ると思っているのかしら……と病妻は心細げに嘆息した。一しきり台所を賑わしていた御用聞きたちの和やかな声ももう聞かれなかったし、世の中はいよいよ兇悪な貌を露出している頃であった。千葉名産の蛤の缶詰を送ってやると、大喜びで、千葉へ帰って来る日をたのしみにしている礼状が来た。年の暮、新潟の方から梨の箱が届いた。差出人は川瀬成吉とあった。それから間もなく除隊になった挨拶状が届いた。魚芳が千葉へ訪れて来たのは、その翌年であった。

 その頃女中を傭えなかったので、妻は寝たり起きたりの身体台所をやっていたが、ある日、台所の裏口へ軍服姿の川瀬成吉がふらりと現れたのだった。彼はきちんと立ったまま、ニコニコしていた。久振りではあるし、私も頻りに上ってゆっくりして行けとすすめたのだが、彼はかしこまったまま、台所のところの閾から一歩も内へ這入ろうとしないのであった。「何になったの」と、軍隊のことはよく分らない私達が訊ねると、「兵長になりました」と嬉しげに応え、これからまだ魚芳へ行くのだからと、倉皇として立去ったのである

 そして、それきり彼は訪ねて来なかった。あれほど千葉へ帰る日をたのしみにしていた彼はそれから間もなく満洲の方へ行ってしまった。だが、私は彼が千葉を立去る前に街の歯医者でちらとその姿を見たのであった。恰度私がそこで順番を待っていると、後から入って来た軍服青年歯医者挨拶をした。「ほう、立派になったね」と老人の医者は懐しげに肯いた。やがて、私が治療室の方へ行きそこの椅子に腰を下すと、間もなく、後からやって来たその青年助手の方の椅子に腰を下した。「これは仮りにこうしておきますから、また郷里の方でゆっくりお治しなさい」その青年の手当はすぐ終ったらしく、助手は「川瀬成吉さんでしたね」と、机のところのカードに彼の名を記入する様子であった。それまで何となく重苦しい気分に沈んでいた私はその名をきいて、はっとしたが、その時にはもう彼は階段を降りてゆくところだった。

 それから二三ヵ月して、新京の方から便りが来た。川瀬成吉は満洲吏員就職したらしかった。あれほど内地を恋しがっていた魚芳も、一度帰ってみて、すっかり失望してしまったのであろう。私の妻は日々に募ってゆく生活難を書いてやった。すると満洲から返事が来た。「大根一本が五十銭、内地の暮しは何のことやらわかりません。おそろしいことですね」——こんな一節があった。しかしこれが最後消息であった。その後私の妻の病気悪化し、もう手紙を認(したた)めることも出来なかったが、満洲の方からも音沙汰なかった。

 その文面によれば、彼は死ぬる一週間前に郷里に辿りついているのである。「兼て彼の地に於て病を得、五月一日帰郷、五月八日、永眠仕候」と、その手紙は悲痛を押つぶすような調子ではあるが、それだけに、佗しいものの姿が、一そう大きく浮び上って来る。

 あんな気性では皆から可愛がられるだろうと、よく妻は云っていたが、善良なだけに、彼は周囲から過重な仕事を押つけられ、悪い環境機構の中を堪え忍んで行ったのではあるまいか親方から庖丁の使い方は教えて貰えなくても、辛棒した魚芳、久振りに訪ねて来ても、台所の閾から奥へは遠慮して這入ろうともしない魚芳。郷里から軍服を着て千葉を訪れ、晴れがましく顧客歯医者で手当してもらう青年。そして、遂に病躯をかかえ、とぼとぼと遠国から帰って来る男。……ぎりぎりのところまで堪えて、郷里に死にに還った男。私は何となしに、また魯迅作品の暗い翳を思い浮べるのであった。

 終戦後、私は郷里にただ死にに帰って行くらしい疲れはてた青年の姿を再三、汽車の中で見かけることがあった。……

2020-02-11

anond:20200211040330

かわいそう・・・専門家になれなかったからってそんなに自責しないで

2020-01-11

成人の散文

私は1999年まれだ。

まり成人し、明後日の1/13に成人式が控えている。

しかし、私は参加しない。

当然、参加しないという人たちは多数いるだろう。どれだけの人が参加し、不参加なのだろうか。

私の周りでは参加する事が当たり前のようである。そんな中、参加するのかと聞かれて、正直に答えるのは面倒なので適当お茶を濁すのだ。

参加しない事自体には何も負い目を感じることはないのだが、一つ心に引っかかる事がある。

両親に成人式に行くという事実を伝えられない事だ。晴れ着姿で友達と意気込んで会場に向かう、その姿を見せられないことだ。

こんな息子は親不孝者であろうか、そんな念が頭をよぎってしまう。

高校に行ってない16歳もいる」

私はそうであった。高2の春から不登校になり、年内で中退した。

卒業式も親に見せることが出来なかった。これは私自身大変悔いが残っている。

そんな事もあり自責にも似た念に駆られている。

私は現在大学生であるが、高校中退をしているという事をカミングアウトした人物は2人しかいない。

怖いのだ。

何に恐れを抱いているのかは分からない。これまでに打ち明けた2人には大して気に留めず肯定的に受け入れられた。

実際、気にするような事でもないのかもしれない。

ただ、怖いのだ。

これがいわゆるコンプレックスなのだろう。

世代マイノリティになることへの恐怖として。

マイノリティというものへの潜在的な恐怖が私の頭を蝕んでいる。ただ、それと同時にただのマジョリティサイレントマジョリティにはなりたくない。

そんな中二病じみた自己矛盾を抱えながら成人の日を迎える。

2020-01-05

anond:20200105100330

から条件付きの愛情を受けて育つと、自分自身のことも条件付きでしか認められなくなる。素の自分価値はない、うまく取り繕って初めて価値が生まれる、なにかマイナスの面が一つでも露呈すると全て終わり。そんな綱渡りの様な気持ちで日々を過ごすようになる。人の視線に過剰にアンテナを張って、その人におもねらないとならなくて、うまい返事が見つからないと何も喋れなくなる。

自分場合は同じく20代の終わりになってようやく親から条件付きでしか愛されなかったのでは、と気付いた。きっかけは2ch生活まとめサイトで、幼子を持つ親たちが惜しみない慈しみを我が子に向けるコメントを何度も何度も何度も読むにつけ、あれ?うちの親ちがくね?と。

そのうち、条件付きでしか愛されなかったこと、無条件に愛して欲しかった・話を聞いて欲しかったという気持ちと、失敗してはならない日々のフラストレーションが爆発して、あるとき半ばやけくそ気味に、もう!これはできない自分を認めてやらないと自分不憫で惨めで哀れでしょうがない!と思い立ち、それから不憫だな〜哀れだな〜でもそんなんでも頑張ってるのは知ってる世界中の誰も知らなくても自分だけは知ってる、と一人の時に口に出して言うようになり、言い聞かせてるうちに板についてきて、いつしか他人視線は気にならなくなった(2〜3年くらいかかった)。できない自分自責するのではなく、頑張ったねどんまいヨッシャまた次頑張ろ!と思えるようになった。

恋愛に関しては、いい人でいるとき自分は親から受けるような無償の愛を相手に求め続けてうまくいかなかった。今でも完全に解消されたとは言い難いが加齢もあり落ち着いた関係を過ごせている。自分同性愛者なので結婚は無いが、パートナー同棲し数年平穏に過ごしている。

親とはそのプッツンの時に着拒し一度も連絡していない。対決すべしとか気持ちを話すべしという本も多くあったけど関わらなければ平穏に過ごせるのでそれを優先している。死に目にあえずとも良いかな。産み育ててもらったが、心は通じ合ってない相性の悪い遠い親戚の様な感覚で、とにかく触れないことが(今は)良いことだと思っている。親からは時折手紙が来たが、この頃は音沙汰は無い。これが私と親の良い距離感なのかなと思う。今思えば両親とも外面は良いが人と深い仲になることが下手な人種だったなと思う。昔は激しく憎んだが、今はようやく無風になってきた。ただ今でも実家や親の顔を想像すると鼓動が早くなるし緊張する。実家は常に緊張の場だった。

他人視線が気にならなくなってから人生はとても快適だ。人の気持ちより自分気持ちを優先できるようになり、行きたくない予定に渋々参加することがなくなり、愛想笑い表情筋つらなくなり、素直な心持ちでいたら人間関係が豊かになった。

長くなったが、人から愛されるには自分を無条件に愛する(認める)しかない。これは無条件の愛情で育てなかった人にはとても難しくて、大人になってから身につけるには自分自身の一番認められないところを受け入れる必要がある。増田文章を読む限り、そこまで内面を見つめられたのなら必ず辿り着いてより良い人生が過ごせると思う。あと少し頑張って!

上から目線すみません

2019-12-19

会社がいっしょうけんめいささえてくれて自分でもがんばった

3年の貯金300万

かえせっていいたいけど自責から

 

くるしんでくるしんでくるしみぬいた。

2019-12-01

「人を傷付けた罪業感」が在るのか

道徳に悖る自責感」が在るのか

「周りから見られた時の羞恥心」が在るのか

世間体という名の他者評価についての損得勘定」が在るのか

クズ野郎が、死に晒せ


追記

「あまり自分を責めるなよ」

→これだけが真実だった。ありがとう

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