はてなキーワード: 自責とは
この記事は過去二つの記事を前提としていることを、最初にお断りしておく。
https://anond.hatelabo.jp/20170315161240
https://anond.hatelabo.jp/20180403003916
うつの揺り戻しの勢いで後日談を投稿した後、自分で読み返して「これ書いた人相当病んでるな」と他人事のように引いてしまった。
可哀想な元派遣社員が身も心もすり潰されて不幸のドン底にいる、という筋書きの方が読み物としては面白いのだろうが、実際はそうでもないので、もう一つの後日談を綴っておく。「同情や心配して損した!」と思って頂ければ幸いである。
仕事を辞め、諸々の手続きを終えて少し経った頃、タンポポを堀りに行った。
子供の頃使っていた植物図鑑を見つけたのだ。野草を使った遊びが色々書かれており、ほとんどは試したことがあるのだが、大きな刃物を使うもの、食べるものは母が許してくれなかった。
で、そこに書かれていた「タンポポの根のコーヒー」を大人の力で作ってみようと思い立ち、近所の土手でタンポポを探した。長い根を掘り出して、洗って晒して刻んで炒って煮出す、二日がかりの大仕事である。
手間暇かけてようやく出来上がった飲み物は、格別に美味しいわけではないが、喫茶店で「そういうブレンドです」と言われれば納得するような、中途半端な味がした。いっそまずい方が、ネタ的に美味しかった。
この話を友人にしたところ、「そんなにお金に困ってるの?」と心配された。好奇心ゆえとの主張も空しく、彼女からは誕生日プレゼントとしてコーヒーチケットを頂戴した。
同じ野草を食す行為でも、「山菜狩りに行きました」「自分で摘んできて七草粥を炊きました」はSNSのイイネを集めたというのに。美しい言葉には、現実を捻じ曲げる力がある。
粥に使ったお米は、親戚の田植えを手伝ったお礼として貰ったものだ。
手伝いと言っても、PC仕事にしか携わったことのない私の貢献度は、その辺で虫取り網を振っていた子供たちと大差なかったと思われる。だがお婆ちゃんは「遠いところを来てくれただけで嬉しい」と、後日お米を送ってくれた。
親戚の家の最寄り駅までは、着替えと文庫本を鞄に詰めて、特急料金の掛からない電車を乗り継いで行った。
大学生の頃、そうした小旅行を何度かした。本を読みながら電車に揺られ、行ける所まで行って、適当な店で夜を明かす。知らない街を少し見て回って、また本を読みながら帰ってくる。あれは結構楽しかった。
貧乏旅行は年を取ると辛いというのが一般的見解だろうが、今の私は完全インドアだった学生時代よりも体力がある。
働き始めてすぐの頃、背中が痛むようになった。病院で「体の前面の筋力不足で背面にばかり負担がかかっている」と指摘され、ジム通いとジョギングを始めた。
以前は多くて週二回だった運動が、最近は三回に増えている。体組成計の表示はもちろん、筋肉が補修材を欲するらしく、味覚まで変わってしまった。豆腐や卵がすごく美味しい。こういう時は肉を食べたがるのが普通じゃないか、とは思うのだが、安上りなので助かっている。
先日、桜吹雪の中を走るのは気持ちいいに違いないと思って川沿いのコースを選んだら、花びらと同じくらい大量のトビケラが舞っていて閉口した。文字通り、という納得と、しょうもねぇ、というツッコミが交錯して、一人でフフッと笑ってしまった。
この調子なら仕事も出来そうな気がして、求職活動に挑戦する度に泣いたりゲロ吐いたりするものの、生活自体は概ね楽しい。
あなたの「頑張れば必ず良くなる」は、視野狭窄と思考停止だ。「雇用主はそんなに悪い人じゃない」も同様である。そう考えているのは既に危険な兆候なので、転職先を探すか、休職も視野に入れた方がいい。
嫌だと思ったら、それは表明しておくこと。この人は多少薄暗くても嫌がらない、周囲がうるさくても集中出来る、汚れた場所なら掃除をする。そうした自他からの評価の積み重ねは、あなたの労働環境を改善するどころか、より暗く、うるさく、汚い場所へ連れて行く。
安心して逃げていい。収入はないし夢見は悪いし、揺り戻しで病んだ文章を垂れ流す夜もあるが、一年後も生きている。
逃げるタイミングの判断を誤ったのは自分のくせに悲劇の主人公気取ってバカじゃねーの?とか、そういう自責、全然要らない。ズタボロのメンタルに自分でトドメを刺すのはやめろ。自己憐憫も陶酔も、心の麻酔としてはすごく効くから、痛みが引くまでは好きに使え。中毒や廃人化の危険を伴うのは体の麻酔と同じだから、そこだけは気を付けような。
まだどうにかなりそうなら、上記を参考にして欲しい。
自殺を考えるほど追い詰められている場合、別に死んでもいいと思う。「生きてて良かった」は文字通りの生存バイアスに過ぎない。
ただ、私は「この世から消えたい」という感情のピークに文章を書く作業で手が塞がっていたため、なんとなく死に損なった。結果、なんとなく生きている。
そういう風に、死ぬことは確定だが今は保留にしておく、という選択肢もあることは覚えておいて欲しい。私は近々好きな作家の新刊が出るし、友人の誕生日も祝いたいので、少なくともその間は保留だ。たぶん自ら死ぬより先に、事故か病気か寿命で死ぬ。
当時の私は、「死にたくない」と「消えたい」の間でグラグラしていた。今でもよくする。生き延びて良かったのか怪しいとも思っている。
それでもやり直しの利く方を選び続けて来られたのは、あなたのお陰だ。厚くお礼を申し上げたい。
一週間前の自分へ。
いいから早く寝ろ。もう少し暖かくなったらザリガニ釣りに行くんだろうが。
野草食ったりザリガニ釣ったり、心の病とは別の意味で可哀想で心配されるかも知れないが、私自身は割と楽しい。さすがに用水路で釣ったザリガニを食べる勇気はない。
私は今まで、自分自身のことを冷静な人間であると思っていた。大学は理系学部を修士まで出たし、論理学も好きで趣味として教科書を読んだりしてきた。幼い頃の兄弟喧嘩を除いて、喧嘩なんてしたことなかったし、周囲の人間からの評価も「大人しそう」「キレたら怖いタイプ」といったところだった。キレたことがないのでキレたら怖いのかどうかは分からない。
しかしアラサーになり、自分は冷静な人間ではないのではないかと思い始めた。
最近転職をしたのだけれど、転職先で毎日のように上司から叱咤されている。
もちろん原因は私にあるので、叱咤された内容については反省し次に生かそうと思うのだが、偶に、「それは私に言ってもしようがないのでは」といったことや、「そもそも叱咤されるようなことではないのでは」といったことでも一方的に注意を受ける。例えば、別の上司の方にアドバイスをいただいた後に「あの上司は出来が悪いから、話を聞かないように」と言われたり、要領が悪いと指摘していただいた後に「女なんだから、業務時間内に仕事を終わらせて(ここまでは分かる)、家で料理とかして旦那さんを喜ばせたらどうか(そこまで言われるのはおかしいのでは?)」と言われたり、特に関係のない第三者の批判を聞かされたり(自分のことではないのは分かっていても、何故か私は、他人への批判も自分のことのように感じてしまい冷静に聞くことができない)。
そんな時、心の中ではそれは違う、と思っても、口から出るのは「申し訳ありません、はい、すみませんでした、気をつけます、仰る通りです」といった言葉ばかり。それどころか叱責が続くうちに、無意識のうちに涙が出そうになって、堪えるのに必死になって、余計何も言えなくなる。
落ち着いて冷静にと必死に自分に言い聞かせるが、そのうちにある定点を越えると、パニックに陥ったかのように自責の感情が溢れてどうしようもなくなってしまう。
表面上は神妙な顔なり、相手に合わせるための笑顔なりを作りつつ、その場をやりすごすが、そのあとは変な疲労感でぐったりしてしまう。
早く仕事に慣れたい。
そして、冷静に叱責を受け止め、言うべきことはしっかりと言えるようになりたい。
僕はよくいろんな人に「根性がない」「適当」だとか言われることが多い。
今まではそれでいいと思っていたし、むしろいいところだとすら思っていた。
社会人になって、気づいたがこの僕の特性はもしかすると、致命的なのではないかと思う。仕事をする時、指示を受ける、指示のとおりに行動する。それでいいと思っていた。
自分が考えるより自分より頭がいい人(上司)が考えた指示をそのままこなす。それの方が全体として良い結果が生まれると思っていた。というか、指示をそのまま実行しないやつって頭が悪いとすら、思っていたが、実際は違うらしい。
この考え方はよく考えると小学生の頃に付いた考え方なのかもしれない。ソフトボールをしている時、怖い監督がいた。怒られるのが怖くて、怖くて、ビクビクしながらソフトボールをしていた。だから、怒られないようにするためには、監督の言うとおりにすること。それが一番、穏便に済むし、怒られないようにする方法だった。大人になった今、監督に怒られないようにするという考え方は非常に他人のせいにしてると思う。自分の行動を人のせいにしている。自分の行動に責任を持っていない。
なぜなら、僕の行動は他人が考えたものであって、失敗したら僕のせいではなく、監督のせい。成功しても監督のせい。人のせいばっか。
自責とは何か。自分の責任とはなにか。責任とは失敗した時の批判や避難を受け入れるということ。
じゃ、どうすれば自分の責任として受け入れ、他人のせいにしない、自分の人生を生きることができるのか。それはやはり、自分で考えて、行動する。人の考えを鵜呑みにしない。たとえ、それが上司でも、社長でも、教授でも、ノーベル賞を取ったすごい頭のいい人でも、それはその人の考えであり、自分の考えではない。自分の考えを持とう。あらゆる人からのインプットがあるが、それをアウトプットに変えよう。そうすれば、自分の人生を生きることができるだろう。
虐待を親のせいにするのは良くない。虐待されたあなたに全責任があるのです。
虐めを加害者のせいにしてはいけません。いじめられたあなたが100%悪いのです。
加害者は何も悪くありません。人のせいにしているうちは成長しません。
人に迷惑をかけてはいけません。加害者に迷惑をかけてはいけません。被害者は自分を責めて反省し幸福になりなさい。
恨んでいるのは暇だからです。暇人負け組が加害者を恨んでいるのです。
加害者様は被害者より能力が高いのです。社会では能力の高いものが擁護されるのが常です。
人生で起こることはすべて自分が悪いのです。加害者のせいにしていては幸福になれませんよ。
加害者より幸せになることが最大の復讐です。加害者に迷惑や危害を加えてはいけません。加害者の気持ちを考えなさい。
あなたは昨年末「仮想通貨ビジネスに参入する」と発表してちょっとした話題を呼んだ某芸能人をご存知でしょうか。
ご存知でもご存知でなくてもこの後に続く話を読んでいただくのに特に支障はないかと思います。
私はそこそこ長い間、彼のファンでした。
ソロ活動始めてからしばらく経ってからだったので、古参とかそういう話をするなら
私より長く彼を応援している人だってそれはもうたくさんいるはずですが、
少なくとも15年以上は経ってるはずなのでまあそれなりに長い間と称していいんじゃないかなと思います。
けれどふとしたきっかけで彼の歌を聴いた時、一発で心をわしづかみにされたのです。
なんて綺麗な声で、なんて綺麗な曲を歌うんだろう!
なんて魅力的な歌を書くんだろう!
なんて素敵な世界観を生み出す人なんだろう!
音楽、映像、文章、美術、演劇といったありとあらゆるアプローチを行い、
本人のみならずバンドメンバーやスタッフまでその一部として役割を与えられるものでした。
一度、彼のファンでもなんでもない友人をライブに連れて行ったことがあるのですが
「演出や作り込みがすごいから特に事前情報を仕入れていなくても引き込まれたし楽しめた」
みたいな評価をしてもらえたので、本当に総合芸術としてよく出来ていたんだろうなあと思います。
そんな類いの作品に触れたことさえなかった私はもう夢中でした。
CDも雑誌もメディアもライブも、彼の発信するものは全て見聞きしたかった。
可能な限りそうしていたけれどまるで満足できなかった。
それがもどかしくも嬉しかった。
彼の語る言葉を読むたびに新しい価値観が自分の中に形成されていく気さえしていましたし、
この先どんなことが起ころうとも彼に憧れる自分のこの感情は決して変わることはないだろうと信じ込んでもいました。
そして、そんな彼のソロ活動20周年を間近に控えた2018年最初に齎されたイベント開催告知の内容は、
ファンクラブ会員向けの仮想通貨事業に関するトークイベントでした。
あっ、だめだ、と思ったのはその時でした。
なんか最近曲の系統が全部同じように聞こえるなとか、カバーアルバムとかコピーバンドとかが目立つなとか、
内輪向けイベント多いなとか、昔こういうことはやらないって言ってた内容の活動してるなとか。
だけど私は、彼には夢を見させる力があると知っていたしそれを信じていたかった。
今はたまたま私の好みではない展開を行っているだけで、彼が彼の世界観を表現していることは変わらないのだと。
いずれまた流れが変わって私が夢中になるような夢をまた見せてくれる日もきっと来ると信じていたかった。
事実、心が離れかけて今回で最後にしようかなと思いながら出向いたライブでまたドカンと衝撃受けて
魅了されて大泣きしてやっぱり私はこの人の作品が一生好きだ……と惚れ直させられたことだってありました。
惰性になっているのでは?と自問自答しながらもファンクラブの更新を切る気にもなれなかった。
でも、アーティストでなく実業家を名乗って、年齢も本名も公開して、そんな姿を見たら流石に
「ああ、きっと彼はもう夢を見せる仕事をするつもりがなくなってしまったんだな」
と理解せざるを得ませんでした。
ゼロから何かを創作するということには途方もない労力が必要でしょう。
それをエンターテイメントとして大衆に届けるためには、また更に大きなエネルギーや資本が必要になってくるでしょう。
それをずっと続けるというのはあまりに困難な道でしょう。
その道から逸れて違う歩き方を選ぶ人を責める権利は、この世の誰も持っていません。
まあ綺麗事ばっかり言っても仕方ないというかね。
ぶっちゃけその夢を見させるための土台のところでいろいろ大変なんだろうなあっていうのも
「やりたいのにやれない」みたいなことは絶対にあったと思うし
こっちも展開されたグッズとか毎回必ず買ってたかって言われるとゴメンナサイって感じなので
仮想通貨も私にはちょっと分からないけどある程度勝率とか将来の展開図とか見越したからこそ
あれだけ派手に打って出たんだろうし上手く軌道に乗るといいねえって思ってる。
間違っても彼に対して「裏切られた」みたいな感情を抱いているわけではないんです。
ただ私の神様はもういなくなってしまったんだなぁという実感を覚えてしまったことがひたすらにさみしくてかなしい。
アイドルを追いかけた経験はないけれど、推していたアイドルに「普通の女の子に戻りたい」って言われた時の
ショックや悲しさやそれらに交じる僅かな自責とこの感情は似ているのかもしれないと思う。
生きているあなたに偶像でいてくれなんて願うことがとんでもない傲慢だということは理解しているけれど、
それだけの話でした。ここまでお付き合いくださいましてどうもありがとうございました。
願わくば彼の進む道の先が彼にとって望ましいものでありますように。
でもあのファンミ案内はどこからどう見ても芸能人使った怪しい投資セミナー詐欺の勧誘にしか見えなかったからもうちょっとどうにかした方がいいと思う。
なんなのそりゃって、がっくりくるわ。
ポリティカルコネクトレスって、もともとは差別してる自覚も、差別に苦しむひとの声を聞く耳と理解しようとする姿勢のないひとたちにも分かりやすくと始まった目安じゃないのか?自分の記憶だとツイッターで映画ファンが映画の王道またはありがちパターン、こういうのって差別だよとイラストで連作したやつがネットのニュースで取り上げられていた辺りからだよね?
宝塚はまったくしらないので元増田にききたいんだが、宝塚に出てくる黒人というのは、皆馬鹿にされるためのポジションなのか?笑い者なのか?
黒塗りはNGとか単純じゃないし、申し出をする当事者はそんなワードにだけ反応するひとからしたら、きちがいじみた自問自答自責と自制を繰り返してもの申してると思うよ。
反出生主義とかいうほど大仰なものではないが、私も自分の人生を肯定的に捕らえることができず、生まれない方が良かったと思っているので
子供も作りたいという気持ちがなく、独身のまま婚活などもせずに過ごしてきた
40を超えていよいよ子供を残さないまま人生を終えることがほぼ決定的となった今は、不思議と自由な気持ちになり、人生を少し肯定できはじめている
恐らく、「産むべきではない」という自分の考えに従って行動し、その通りの結果に辿り着きつつあることが、達成感のようなものを与えてくれたのだろう
産むことに対する疑問を抱えたまま子供を持っていたら、きっと自責や後悔に苛まれて、こんな気持ちにはなれていなかったと思う
これはある意味、産まれ得たはずの子供の可能性を奪うことで私は自由を得たのであって、結局のところ産むも産まないも大人の側のエゴなのだな、と感じる
引きこもりの人たちにはある特徴がある
カウンセリングやグループワークの場に来て社会復帰の為の話し合いをすると必ずといっていいほど
この根底にあるのは、現状の不遇は社会や国のせいだという被害者意識だ
しかし、実際は多くの人が学生時代につまづき社会に出たことのない人たちばかりなんだ
なんで社会に出たことのないひとが社会や国の被害者だと思うのかを遠回しに聞くと言葉につまるばかりだ
つまり彼らは単に自責感というものを一切持てないから、自分に何か原因があるということを自覚できないんだよ
突き詰めて話をしていくと結局のところ、社会に出て行きたくない働きたくないというのが本音
それを正当化する為に借りてきた反権力的な正義で攻撃的になるというのがステレオタイプな引きこもり支援の問題だ
はてなでの左巻きの言葉の数々を読むようになって、自分の支援活動と重なってしかない
ちょっとしたらここにいる多くの人が引きこもりとまでは行かないものの
○ゲーム日記アンケート「次にプレイするゲーム!『MS販売なのに未だOneの360互換機能が実装されてないゲームたち!』」
・No1:ナインティナインナイツ(360)
・No2:キングダムアンダーファイア:サークルオブドゥーム(360)
RTSとアクションを混ぜ合わせたようなハイファンタジーな世界観のゲーム。
未来が未来すぎて逆に魔法とか神様っぽい感じになっちゃた的なSFファンタジーな3Dアクションゲー。
RTSとアクションが混ぜ合わせた感じのゲームで、グロいピクミンとか呼ばれてた気がする。
何気にこのゲームは珍しい、日本MSがセカンドパーティー的な関係なしにローカライズしてくれたゲームで、ここ最近のMSスタジオ系列のゲームすらたまに発売されない状況と比べると、あの頃は景気がよかったなあ、としみじみするね。
○アンケートについて
前まで0表枠ってのがあったんですが、よくよく考えるとこのアンケートって期限を切ってるわけじゃないので、0票とはなんぞや? だし、その後またすぐアンケートをするのか? とか運用が意味不明な仕様だったのでなくしました。
あと、お題考えたり中身入れ替えたりがたるいので、基本的に選ばれたゲームが抜けて行くスタイルで行こうと思います。
○朝食:きしめん
○夕食:鶏肉鍋(白菜、えのき、しいたけ、しめじ、人参、ニラ、生姜、鶏肉、つみれ)、きしめん
○調子
はややー。
しかも、午前中寝ていてたら治ったみたいで、午後は普通に元気だった。
2日連続で休むなんてよくない、という自責の気持ちと、このことについて責められることへの恐怖で、憂鬱でしかたない。
仕方ないが、それを気負いすぎて一人でうじうじし始めるのが非常によくないので、気分を切り替えてまた明日から頑張ろう。
頑張るぞ!
4回ぐらいでクリア。
ストーリーは、市長になったとも人助けをし続け、さらにカメばあが第三の救世主を連れてきて、このドタバタはまだまだ終わらない! 的なネバーエンディングな終わり方。
ゲームの総括として、面白いとか面白くないとかじゃなく、後二週しないと実績埋まらないとかそういうのでもなく、
ただただ、終わったことが嬉しくて、もし万が一なにか気が触れて残りの二週もプレイしたとしても「10年後だな」と思える程度には、読後感がすごかった。
●3DS
○ポケとる
日本の就活性は自分の夢すら答えられず快適な制度ばかりを求めてるんだそうだ。
あのさあ、
当たり前だろ。
前者と後者の違いすら分からないとか、どんだけ無能なんだっての。
本当にただ生きて、ただ働いて、ただ自分の周り守ってるだけの人間じゃないと、ここまでの視野の狭い無能にはなれない。
働きたい奴と、働きたくない奴だ。
もちろん、資産家の子供でもない限り、働いて金を稼がなきゃ生きていけない。
その心の底で、働きたいと思っている奴と、働きたないと思っている奴がいる。
やりたいことは、人それぞれあるだろう。
でもそれがナチュラルに、=働きたいと結びついてるとでも思ってんのか。
ただ、それだけの話なんだよ。
だから、本当の本当は働きたくないって奴は、なるべく快適で楽できる職場を望む、
実際の仕事内容なんて、どうでもいいに決まってんだろ。
将来の夢すら持ってないだあ?
どんなに荒唐無稽だろうと、どんなに淡く儚く小さかろうと、人間なら誰だって夢ぐらい持ってるわ。
だから、今の若者にとって重要なのは、いかに義務を最小の労力で流して、自分が本当にやりたいことに注力できるかだっての。
今はそういうことを心の底で思ってる人間の方が、日本人の若者には多い。
それだけだ。
・自殺念慮により自殺するため具体的な行動を行うことが「自殺企図」
漠然と「死んでしまいたい」「消えてしまいたい」と思うのは、希死念慮といって自殺念慮の前の段階です。
なので、
には当てはまりません
についてですが、彼氏は一人暮らしですので親との関係が悪くなければ実家に帰るか、親御さんに来てもらうという手段が考えられます。
(3)病状の急速な進行が想定される場合
これについては元増田に書かれた状況だけでは分かりませんよね。
精神病性の特徴が見られたり、昏迷状態に陥ってるとかならまだしも、抑うつ状態であることしか分かりませんので、今後病状が急速に進行するかどうかは分からないはずです。
なぜあなたはこれに当てはまると思ったのか知りたいくらいですね。
そしてガイドライン15〜16ページ
自殺リスクの評価に際して、最も注意すべき点が、 自殺企図が切迫しているか否か(Holma et al, 2010) の判断である。自殺念慮が強く、自殺企図の切迫しているような場合は、家族に十分注意して見守ることを伝えた上で、入院治療を考慮する必要がある。自殺の計画を具体的に考えている場合は、特に切迫性が高いと考えられるので、非自発的入院も含めて本人の保護に重点を置いた対応をとるべきである。
元増田の記事の内容からは「自殺の計画を具体的に考えている」ようには読み取れません。
よってあなたの言うように、彼氏は非自発的入院(医療保護入院)相当である、という根拠は薄いと思いますが、いかがでしょうか。
任意入院であれば精神保健指定医である必要はありませんし、なんでそんなに精神保健指定医にこだわるのか、私には分かりかねます(必要であれば任意入院から医療保護入院に切り替えることもできますし)。
少なくともガイドラインと元増田の記事を参考にする限りでは、入院が必要であるとも、家族間の信頼関係にヒビが入る可能性が高い非自発的入院を最初から考慮にいれるほど切迫した状況だとも思えません。
私は他科の医師の経験に基づいた意見よりは、最新のガイドラインのほうがよほど信頼できると考えております。
【追記読みました】
ですが病識がないこと、またはうつ病であることの否認、医療機関受診に消極的であることはかなり典型的なうつ病の症状です。
多くのうつ病患者が適切な医療を受けていない (Kessler et al, 2007)という知見の背景には、うつ病に伴う否定的認知によって、「自分の状態を改善させる上で、医療は役に立たない」という発想が生じがちで、それが医療受診に対する消極さにつながっていると考えられる。「医療機関受診に消極的なうつ病患者」 であるが故に、「治療者-患者関係の形成」がうつ病診療において、とりわけ重要といえる(American Psychiatric Association, 2000, 2010)。
だからこそ、うつ病ではそのような考えに陥りやすいんですよ、という心理教育(疾病教育)が重要になってくるんです。
病識がない、病気を否認しているというだけでは入院適応にはなりません。
ガイドライン21ページに書いてあることも元増田の記事に書かれてるまんまですよね。
例えば「仕事へのやる気が失せ、注意も集中できず、業務がはかどらない状態では、『みんなに迷惑をかけている』と自分を責めてしまうことも、無理のないことだと思います」といった「承認」である。関係が構築できた上で、「やる気が失せること」、「注意の集中ができないこと」「自責感」もうつ病の症状であることを説明 し、「何が症状か」を伝え、患者がうつ病を客観化してとらえることを促すことも重要である。
抑うつ相では「病気ではなく怠けである」「性格であるから治らない」「どうせ薬なんか効かない」、「こんな状況(例:身体の病気を持っているから、職場の問題があるから)では医療は助けにならない」といった、 否定的認知に傾きがちである(Hirano et al, 2002)。 うつ病の診断が確定した後は、この否定的認知がある ことを念頭に置きながら、治療へ導入する必要がある。
このセミナーに参加させていただいた社長に感謝いたします。そして、今後の会社のため、自分のために活かせる具体的な知恵をいただいた桑島社長に感謝いたします。
社長と同じ考えができるようになる為、もっともっと社長と話をしていきたいと思います。ありがとうございました。
今まで悩んでいましたがセミナーに来て、社長の言うことはすべて正しいと思いました。今日会社に帰って社長の分身となり、率先してリーダーシップを取っていきます。
セミナーで言われた将来の仕事を創らなければ、会社にとって不要な人間になるという話は、今まさに私が感じている危機感でした。将来の仕事が何なのかをじっくり考えて実行します。
目標・目的の設定を常日頃、社長からも言われていたが行動がともなっていなかった。戻ったらすぐに目標を設定し社長に報告します。
他責ではなく自責で考えます。何でも自分で行動してしまうと一番の無責任だとわかったので、今後は上司・部下に働きかけたいと思います。