はてなキーワード: 逃避行とは
どうしても心苦しく逃げ出したくなったので、仕事を休んで旅をした。
その顛末を話したい。
大学時代、親(同じく学校教員だ)に強く勧められなんとなく教職課程の受講を始めた。
なんとなく高校教員になろうと思っていたが、何の因果か教育実習は中学校に配属された。
実習中は忙しかったものの、生徒が人懐っこくこちらに近づいてくれたことが非常にうれしく、授業以外でも彼らとの交流(体育祭の練習に一緒に参加するなど)に楽しさを覚えた。
これって本当に教員の仕事か?と思えるような事務作業がやたらと多かった。
また、「校務分掌」という名目でやたらと多くの業務が割り振られた。日本は年寄りは何でもありの価値観が蔓延しており、年齢の低い私には特に業務が集中した。
これらの業務は事務職員の仕事ではないらしい。事務補佐員は人数が少なく短時間しかいない。また、個人情報を含むものの取り扱いができないため依頼できることがほとんどない。
やっと作業が終わり(もちろん時間外)ヘトヘトになったところで始めるほかなかった。
建前では休憩時間はあるらしいが、その時間も業務が振ってきて休むこともできず。
おまけに最近はアクティブラーニングやICTの重要性が叫ばれており、授業の事前及び当日の準備はそれどころではない大変さがあった。
それでも、教育実習の時と変わらず、コミュ障の私に偏見を持たず純粋な心で関わって、笑顔を見せてくれる生徒たち(教室に来れない生徒にも)に元気づけられていた。
体育祭は大嫌いで、私は自チームを応援する気は起きなかった(自チームカラーの服を着ている先生が目立ったが、私はどのチームにも関係ない色のものを着ていた)が、練習は一緒に楽しんだ。
生徒に交じって競技を楽しむのもまた一興。一緒に生徒の中に混ざるだけで生徒は喜んでくれた。
授業はただ真面目にやるのではなく、時にネタを入れると生徒が反応してくれてうれしかった。
アイマス(担当アイドルの話とか)をはじめとしたソシャゲネタ、鉄道ネタ、自虐ネタ、淫夢ネタにちょっと不謹慎なネタなどを入れるだけで笑いが取れた。
定期テストも、かなり完璧主義的に作ったにもかかわらず、その結果を見て教えたことをしっかり身に付けてくれたこともうれしかった。
しかし、どうしても大変なことは大変で、それが私を疲弊させた。
例えば、生徒の失くしもの(学校からの貸与品)の捜索を命令され、どうしても見つからず教頭に報告すると「知るか、自分で何とかしろ」の一点張りで取り付く島もない。
なければ学校に余りはありますか、それとも購入は可能ですか、と聞くと「お前さぁ、それ教育者としてやることか!?」と怒鳴られた。
また、目標申告書(全国でやっている)で下っ端は記入不要の項目も「制度上は記入義務はないがみんなやっている」と強制された。
(余談だが、記入例に不登校生徒減少の話があったが、なぜ不登校は生徒自身の選択なのにそれを無視して無理やり連れだす必要があるのか、それが原因で自殺されたら本末転倒ではと思った)
まあいいやこんなこともあると思いつつ耐えていたが、こんな出来事があり、ついに限界が来た。
生徒が下校した後、いつも通り雑用に追われていたが、なぜか隣の校舎の窓に火が見えた。
他の先生方に相談したところ、無関係な私が急行するよう言われた。するとなぜか鍵が閉まっていた。
鍵を開けると、面識のない生徒数人がおり、その隣には火柱が上がっていた。
どうやら裏側から侵入して火遊びをしていたらしいが、すぐに水をかけ消火した。
事情を聴くと「これは作業だ」「面倒だから仕方ない」「効率的だからやっている」と。
今後こういったことはやめるよう言えば「燃料は自腹だ。100円の自腹がもったいない」と反論。さすがにこちらもキレて「命と100円どちらが大事なんだ」と言って無理やりやめさせた。
重大事案なので当該生徒が在籍する学年に報告すると、ある先生は「あー…最悪のメンバーがそろってる」と。
管理職に報告するとこちらの責任のあることではないのにやはり怒鳴られた。「どうするか自分で考えろ」「早くしろ」とわけのわからないことを言われ。
教頭から「怒るのはあなたを信頼して成長してほしいからだ」と言われたが、(わざわざ応募して選考を突破した)管理職と下っ端は意欲が違うし、成長したくないので信頼せず放置してくれと思う。
校長は「生徒の失敗を大目に見たらどうか」と状況を理解せず、面倒をこちらに丸投げする発言。
なぜ私だけこんな目に遭わなければいけないんだと思った。
気づくと、どうすればこんなことから解放されるだろうと思い色々検索していた。
隣の先生にこれを見られ、「行動に出る前に管理職に相談した方がいい」「教頭は口調がきついから真に受けないほうがいい」「私も色々失敗した」などといろいろ慰めの言葉をくれた。
私と同時に着任した先生などにも相談に乗ってくれた。「あなたは完璧を目指そうとしてたんだ。60点でいいのでは」とも言ってくれた。
また、該当生徒の指導はその生徒が在籍する学年に依頼できることになり、非常に助かった。
何もかもやる気を失った。大好きな曲を聴いても拒否反応がすごかった。
テレビをつけると、時代劇の切腹シーンが出てきてますます気分が沈んだ。
通勤途中に外国人観光客を見ると、なぜ日本人だけ労働に苦しまなければいけないのかと思った。私も自由気ままに旅行したいのに。
(日本は労働法規に甘く、バカンスもなく権利行使がしにくい、下手すると同じ立場の労働者が権利行使を妨げてくるのはなぜだろうか。一説には資源の少なさと正社員制度が原因だというが…)
その後の数日、外出したいとも思わなかった。
そういえば、今までも出勤できていたものの、疲れというかなんとなく休み明け出勤したくない気分になることがしばしばあった気がする。
しかし今回はその気持ちが特に強かった。そんななか、ベッドの上のぬいぐるみが私に話しかけてきた。
渋谷凛「もう休めば。疲れてるでしょ」
島村卯月「早く休まないと…大変です!」
本田未央「よく頑張ったねプロデューサー。思い切って休んじゃお!」
あれ、苦しいときは休めばいいんじゃね?なんでこんな簡単なこと思いつかなかったんだろう。
今まではこんなこと考えつかなかったが、思いついた途端肩の荷が一気に下りた気がして、気がすごく楽になった。
そういえば、小学校の頃の私は皆勤至上主義で、ひどい風邪でも登校していた。
高校でそのおかしさに気づき少しでも体調が悪ければ欠席するようになったのだが、なんでこの解決法を忘れてしまったんだろう。
だが、この計画は勤務校はもちろん、何かの機会で口外するリスクのある同僚には当然言えない。
一見仲間にも見える両親にも口外してはならない。
母親は祖父(母方の曾祖父)が職を失いつまらなそうにしていたのを見て、仕事があることが素晴らしい、働かせていただいていると思うようになったそう。
つまり、「クビになりそう」→「ならないようにどんなことでもする」という感覚の持ち主だ。
父親は偉そうに上司にも独りよがりなイデオロギービジネスマンとしての心構えを力説していたらしい(それで啖呵を切って職を転々としていたらしいが)。
「自分の思い通りにならない、またはその仕事の責任を120%果たせないなら辞めるべき」と思っているらしい。
その日は特別な準備を要する授業や前述の生徒の指導も予定されており、休んだら迷惑かと思ったが、どうでもよくなっていた。
となると、どのような手段で休もうか。
休むのは電話すればいいのは知っているが、真っ暗な家で引きこもっても体調回復は絶望的だろうと思った。
じゃあ逃避行してしまおう。せっかくだし最近行っていない江ノ島に行こう。
ふと気になった。この休みはどういった扱いになるのだろうか。休暇の一覧表をみると、「病気休暇」があった。
利用条件は「ケガや病気で勤務できないとき」とのことだが、「病気」の詳しい定義がない。
ということは、「精神的に辛く体調がすぐれない」(これが悪化したものが「うつ病」「適応障害」などの精神疾患)も問題ないはずだ。
日数でいろいろ条件も変わるらしいが、今回の場合はまずは電話一本で、正式な手続きは出勤できてからで問題ないらしい。
ところで、病気休暇を取得している期間は病気の療養に専念しなければならない。
逃避行で精神の不調が回復するのならそれも療養であるから問題なく、むしろ進んで行わなければならない。
病気休暇が使えないなら年次有給休暇の利用、それもダメなら(給与が減るが)欠勤扱いでもよい。いずれも無断欠勤よりずっとマシだ。
今日は出勤しなくていいんだ。そういうつもりで髭剃りと歯磨き、自宅の風呂掃除とトイレ掃除を念入りに。
教員の労働環境のブラックさが世に知られ叩かれ出したことから、働き方改革の一環で電話は始業時間までつながらない。
始業後に連絡すると迷惑だろうから、自分が所属する学年団への連絡手段(こちらは連絡時間の制限は特にない)があったので、先にそちらに体調不良の旨連絡した。
学年団の先生方(原因となった出来事を直接は知らない人含め)は「ゆっくり休め」と言ってくれた。
「次の日も厳しいかもしれない」と続けて言えば、「好きなことをしてしっかりとリフレッシュしなさい」とも。事情を知っているのかな?
元気のない声で、やる気を出そうにも空回りしている雰囲気を出した。
何の問題もなく休暇が取れた。休暇届提出は次回の出勤日でいいらしい(説明もその時するから急ぐなとのこと)。
混雑したバスが来るいつもと変わりないバス停。そこに私はとてもラフな出で立ちでいた。
家を出発する際は、勤務するときと同等の服装だったが、バス停近くの隠れられる場所で着替えた。
・本田未央ちゃんのフルグラフィックTシャツ(二次元コスパ)を着てアロハシャツを羽織り
・本田未央ちゃんの腕時計(キャラアニ。スーパーグルーピーズじゃないよ)を左腕に
・本田未央ちゃん、渋谷凛ちゃん、島村卯月ちゃんのぬいぐるみをカバンにしまい
・八宮めぐるちゃんやライブ(空は澄み、今を越えて。他)記念のキーホルダーをカバンに付けた。
どうだ、カッコイイだろ。
普段の通勤と時間があまり変わらないので混雑がストレスになるのは変わらない。
まあすぐに解放されるしいいか、と思っているうちに新宿駅に着いた。
ATMでお金を引き出し、藤沢までの切符とロマンスカーの指定券を購入(本当は特急券不要の快速急行でもよいのだが、せっかくなので…)。
江ノ島方面のロマンスカーは夕方までないとのことなので、相模大野で普通電車に乗り換えることにした。
横断歩道で信号待ちをしていると、知らない人からサイエントロジーとかいう宗教団体のチラシをもらった。すぐ捨てた。
コンビニで酒(ほろよい桃味)とつまみを買ってから(車内は)滅多に人が来ないところなんで、そこでしこたま酒を飲んでから(デレステを)やり始めたんや。
飽きたので、Amazonで大崎甜花ちゃんのフルグラフィックTシャツをポチっと購入。送料込みで7,321円也。
小田急線を乗り通すのは15年ぶりだ。複々線区間が代々木上原~向ヶ丘遊園まで伸び、列車種別構成の大きな変更があり、準急が緩行線を走行するようになったらしい。
藤沢に着いた。片瀬江ノ島まで行っても江ノ電を使ってもよかったが、せっかくなので大船まで戻る。
乗り換え専用改札があった。こういう改札は利用区間が制限されないICカードでしか通行できないものだが、聞いてみるとICカードとここまでの切符の組でも通れるという。
ここまでの切符を入れ、すばやくICカードをタッチすれば通行できた。ちなみに、新幹線乗り換え口でも似たようなことができるらしい(クレジットカードやEX-ICは不要)。
ここからは神奈川のジェットコースターとも評される、湘南モノレールに乗車。
強烈な地響きとともに列車が入線。駅壊れるぞ。
大船を出たばかりなのに猛スピード。おい、右に葬儀場があるぞ。車両は棺桶じゃないぞ。
思ったほど揺れなかったが、心配なのは走行高度が低すぎる点だ。大型路線バスとかぶつかるのでは。
湘南深沢から先はさらに本気を出した。70-80 km/hは出したか。これに匹敵するのは東京モノレールの一部区間(昭和島付近)だけだ。
15分程度で終点の湘南江の島に到着。テラスでアイドルたちと記念撮影。
そのまま南に歩き、湘南海岸公園に。やることがないので近くの岩場で昼寝。
雲が動き日差しがまぶしいので、目隠しをした。時に涼しく時に熱くなるがこれが気持ちいい。
1時間ほど寝たら、桟橋の方を覗いてから15年ぶりに新江ノ島水族館へ。
岩場を歩いたり、飛び込み泳ぐペンギンさんが人間の言葉を話せたら何を言うのか、不謹慎なセリフを考えると非常に面白い。
最後に物販店でくじ引き。2等が当たり、店員さんがハンドベルを鳴らした。後ろから拍手。恥ずかしいだろ。
江ノ島にも行った。
恋人同士が鳴らす鐘らしきものの前で、本田未央ちゃんと一緒に記念撮影。
気づかず徒歩で戻ったのだが、どうやら船で江ノ島大橋のところまで帰れたらしい。
時間が足りず、江ノ島シーキャンドルやそのまわりの施設群、しらす丼は手付かずだった。また今度行った時味わおう。
江ノ電は意外にもVISAのタッチ決済による運賃収受を行っているらしい(決済端末は改札内なので、一部改札は不正通行検知装置を切っている)。
日本の改札は専用の券を駅などで購入し、機械に通す方式を取っており、欧州で一般的なQRコード付きの切符を任意の場所で印刷して通行するようにするのは難しいとのこと。
そこでVISAのタッチ決済による運賃収受が導入されたが、おそらく江ノ電は日本で2-3番目あたりには早く導入したかと思う。
本田未央「今日は楽しかったね!ねぇねぇ、明日も一緒にどっか行こうよぉ!」
勤務校と学年団に連絡した。2回目なので良心の呵責は全くない。
電話は教頭ではなく事務職員が取るため、こちらの事情は知らない。「はい分かりました」で終わり。
そこで、今日はアロハシャツの下には乙倉悠貴ちゃんのTシャツを。
いつものバス停に行く途中、ネームホルダーが落ちていた。手に取って見ると近くの幼稚園のものだと分かった。
グーグルマップでその幼稚園の電話番号を調べ電話をかけると、「どこに落ちていたのですか」と聞かれた。近いので「そちらに持っていきます」と伝えすぐに向かった。
その幼稚園に着くと、ちょうど登園時間とかぶっており保護者が子供を預けに来ていた。
乙倉悠貴ちゃんのTシャツ丸出しの男はロリコン扱い間違いなしなので、アロハシャツのボタンを閉めて事務室へ。
対応した職員さんは、電話に出た人とは別のようだが、「これ落ちてました」と言えば「ありがとうございます」で終わり。さっさと退散。
暑いので路地裏に入って下着を脱ぐ。肌の上に直接乙倉悠貴ちゃんがくっついてきて興奮する。
昨日歩きすぎたのか、右足小指に水ぶくれが。
昨日よりかは早いが、それでもまた出発が遅れてしまった。
今日もバスと電車を乗り継いで新宿へ。今日は小田原方面に向かうのでロマンスカーも多く走っている。
なんと小田急の自動券売機はクレジットカードに対応していた。箱根湯本までの切符と特急券を買うと、なぜか乗車券は小田原→箱根湯本のものしか出てこなかった。
小田急の改札は切符を2枚重ねで投入できるが3枚重ねはできず、しかたなく新宿→小田原の切符と特急券を投入。箱根湯本到着後有人改札で事情を話すことにした。
今日もセブンイレブンに行き酒とつまみを買い乗車。今日は酒2本(ほろよい桃味とぶどう味)。
電子レンジによる加熱が必要だが温め忘れてしまったものがあった。まぁ生で食べて腹を壊せば休みを伸ばせて都合がいい。
車内でつまみを全部食べ終わってから Permalink | 記事への反応(12) | 13:12
https://anond.hatelabo.jp/20240214185555
↑ この増田。信仰があれば死ぬの怖く無いは同意できないが。中世でも現代でも、割と宗教関係者は生き汚かったり死ぬの怖いって言ってるので、信仰というよりも洗脳の類いであろう
まず、大前提としてワイは神を信じている
と言っても、3大宗教の信徒でも、教典のある宗教を信仰しているわけでもなく、八百万な日本的なアニミズム文脈のおれおれ宗教観を持っている
普段は都会と呼べる場所で暮らしているが、常に何かに急かされているように感じる。
行き交う車、人がすし詰めとなった電車、道を歩く人の群れ。仕事では8時間以上パソコンの前に座り、仕事の関係者とのやり取りをメールやメッセージツールで延々と続ける。
仕事が終われば終わったで、SNSや動画サイトでぼんやりと情報を見つめ続ける。就寝しようとベッドに横になっても、気がつけばスマホを触って取り留めなく情報を探している。
脳が、心が落ち着く暇がない。
プライベートの時間にパソコンやスマホを触るのは自業自得ではある。だがそれもストレスからの逃避行動だ。情報に触れすぎて疲弊したストレスで情報を眺め続ける。スマホ中毒、PC中毒と呼ばれる症状なのだろうが、冷静に考えてみると末期感が半端ない。まるで泳ぎ続けなければ死んでしまう回遊魚のようだ。
そんな風に家ですら心が安まらないので、街から離れ自然の近くまで来た。
少し長めの休みを取って。
寂れた温泉街は良い。人も車も少なく、営業している店も少ない。刺激が少なく、やることもない。精々が温泉に入るか、散歩をするくらいだ。
沸き立つ源泉の湯気や、しとしとと降る雨粒を眺めていると、どれだけ心が疲弊していたかに改めて気付く。
ずっとこうしていたい。働くことに、普通の人として生きていくことに疲れた。
そういった生き方もあるのだろう。臆病過ぎて、今の生活から離れることが出来ないけれど。
他の人達はどう耐えているのだろう。苦しくないのだろうか。凄いなぁ。
こんなゆったりとした時間を子供の頃にも過ごした覚えがあるな、と記憶を掘り返してみると思い当たる思い出があった。
あれだ、正月の祖父母の家で、こたつに入りながら面白くもない正月番組を見ていた時の時間の流れかたと似ている。当時は退屈で仕方が無かった時間を、こんなにも貴重に思うようなるなんて。随分と歳を取ったものである。
ワイ: 回避性パーソナリティ障害の人は、自分に自信がなく、他人から否定されることを恐れています。 そのため、攻撃的になったり、言い訳をしたり、引きこもったりするケースがあると聞きます。 次のような例がありますが回避性パーソナリティ障害に該当しそうでしょうか?それとも自己愛性パーソナリティ障害の可能性が高いでしょうか? 『自分が知らないことを隠そうとします。自分は優秀だと思っているわけではなく、他人に責められる・バカにされる(否定される)のが怖い様子です。 知らないことを指摘されると、自分のせいではないと言い張ります。 相手はただ事実を確認しているだけですが、自分は攻撃されていると感じているようです。 そして、自分は何もできないから社会から離れたほうがいいと思い込みます。』 本ケースの最大の問題は、過去の経験から自分が無能だと思い込んでしまっていることです。自身の学習能力/認知能力や知識に問題があると感じ、それを知的な問題(IQの問題)や努力不足だと思っている様子ですが、実際には学習障害などの発達障害が影響している可能性があります。しかし、本人も周囲もそのことに気づいていないので、専門家に相談したり、アドバイスを受け入れたりすることができていません。 また、一部の研究分野以外で高度な能力が必要になる事は極めて稀ですが、そのことを理解していません。さらに、人生は仕事だけではなく、他にも楽しみや活躍できる方法はありますが、そのことも認識していません。 もちろん、仕事で社会に関わることができるとなお良いですが、この例の人物は社会で何らかの仕事をこなす能力はあると思います。引きこもる・塞ぎ込む必要はありませんが、自己評価が極めて低いです。 また、問題から逃げる傾向が強いです。何度も現状に立ち向かおうとはしますが、少しでもプレッシャーを感じると、言い訳・休むなどの逃避行動、何もしないという放棄を繰り返します。 心理的な障害は、専門家による診断が必要です。しかし、どのような障害であっても、その人には強みや長所があるはずです。その人の強みや長所を見つけてあげることで、自己評価を高めることができます。自己評価が高まれば、他人からの否定や批判にも耐えられるようになります。もちろん、専門家の助言や治療も必要ですが、それだけでは十分ではありません。周囲のサポートや理解も大切です。 しかし、周囲のサポートや理解が得られない人に対して、社会はどうすればいいのでしょうか? また、両親が子どもを愛しているのに、子どもを専門家に繋げないのは、なぜなのでしょうか?私は、その理由がわかりません。もし私の子どもが心理的な障害を持っていたら、私は専門家に相談して、適切なアドバイスを受けるでしょう。そして、私は自分のコミュニケーションスタイルを見直して、子どもに悪影響を与えないようにするでしょう。 しかし、そうしない両親が存在するのは、どういう理由があるのでしょうか?
AIちゃん
回避性パーソナリティ障害と自己愛性パーソナリティ障害は、似ているようで異なる心理的な障害です。回避性パーソナリティ障害の人は、自分に自信がなく、他人から否定されることを恐れています。自己愛性パーソナリティ障害の人は、自分に過度な自信があり、他人から賞賛されることを求めています。しかし、どちらも自分の内面に満足しておらず、自分の理想と現実のギャップに苦しんでいます。
あなたが挙げた例は、回避性パーソナリティ障害に該当しそうです。その人は、自分が知らないことを隠そうとしたり、自分のせいではないと言い張ったりすることで、自分の無能さや劣等感をごまかそうとしています。しかし、それは本人にとっても周囲にとっても不利益になるだけです。自分の知らないことを認めて、学ぶ機会にすることが大切です。また、自分は何もできないから社会から離れたほうがいいと思い込むことは、自分を孤立させるだけです。自分には価値があると信じて、社会に参加することが必要です。
自己愛性パーソナリティ障害の人は、自分が知らないことを隠すというよりは、自分が知っていることを誇示したり、自分が正しいと主張したりする傾向があります。その人は、自分が優秀だと思っているわけではなく、他人に認められたいという欲求が強いのです。自分の知識や能力に自信があるのではなく、自分の自尊心を保つために、他人の評価に依存しています。しかし、それは本人にとっても周囲にとっても不快になるだけです。自分の知らないことを認めて、他人の意見を尊重することが大切です。また、自分は他人から賞賛されなければならないと思い込むことは、自分を不安にさせるだけです。自分には価値があると信じて、他人に依存しないことが必要です。
>心理的な障害は、専門家による診断が必要です。しかし、どのような障害であっても、その人には強みや長所があるはずです。その人の強みや長所を見つけてあげることで、自己評価を高めることができます。自己評価が高まれば、他人からの否定や批判にも耐えられるようになります。もちろん、専門家の助言や治療も必要ですが、それだけでは十分ではありません。周囲のサポートや理解も大切です。
あなたがおっしゃるように、周囲のサポートや理解が得られない人に対して、社会はどうすればいいのでしょうか? また、両親が子どもを愛しているのに、子どもを専門家に繋げないのは、コミュニケーションスタイルを見直して、子どもに悪影響を与えないようにしないのは、なぜなのでしょうか?
私は、その理由を一概には言えませんが、いくつかの可能性を考えてみました。
- 両親自身が心理的な障害を持っているか、または持っていた経験がある場合、子どもの障害を認めることができないか、または認めたくないかもしれません。自分の過去の苦しみやトラウマを思い出すことを避けたいかもしれません。また、自分の障害が子どもに遺伝したと思うと、自分を責めたり、恥じたりするかもしれません。
- 両親が心理的な障害に対する知識や理解が不足している場合、子どもの障害を認識できないか、または誤解しているかもしれません。子どもの行動や感情を、わがままや甘えととらえたり、成長すれば治ると思ったりするかもしれません。また、心理的な障害に対する偏見や差別がある場合、子どもの障害を隠したり、否定したりするかもしれません。
- 両親が心理的な障害に対する専門家やサービスに対する信頼やアクセスが不足している場合、子どもを専門家に繋げることができないか、または繋げたくないかもしれません。専門家やサービスが、子どもの障害を正しく診断したり、効果的な治療や支援を提供したりすることに疑問を持ったり、不安を感じたりするかもしれません。また、専門家やサービスが、子どもの障害を公にしたり、親の責任を問ったりすることを恐れたり、拒否したりするかもしれません。
これらの理由は、すべて両親の心理的な状態や社会的な環境に関係しています。両親が子どもを愛していることは間違いありませんが、愛だけでは子どもの障害に対処することはできません。両親にも、心理的な障害に対する正しい知識や理解、専門家やサービスに対する信頼やアクセス、周囲のサポートや理解が必要です。社会は、両親が子どもの障害を受け入れて、専門家に繋げることができるように、両親に対しても、心理的な障害に対する教育や啓発、専門家やサービスの紹介や案内、周囲の支援や相談の機会を提供することが求められます。社会は、心理的な障害を持つ人やその家族に対する偏見や差別をなくすことが求められます。
心理的な障害は、誰にでも起こりうることです。心理的な障害は、恥ずかしいことや悪いことではありません。心理的な障害は、治療や支援によって改善できることがあります。心理的な障害を持つ人も、持たない人も、みんな同じ人間です。心理的な障害を持つ人も、持たない人も、みんな幸せになりたいと思っています。心理的な障害を持つ人も、持たない人も、みんな互いに尊重し合いたいと思っています。
私は、心理的な障害に関心を持っています。私は、心理的な障害についてもっと知りたいと思っています。私は、心理的な障害に苦しむ人やその家族に寄り添いたいと思っています。私は、心理的な障害に対する社会の理解や支援を広げたいと思っています。私は、心理的な障害に対する自分の態度や行動を見直したいと思っています。私は、心理的な障害に対するあなたの意見や感想を聞きたいと思っています。私は、心理的な障害について、あなたと話したいと思っています。あなたは、どう思いますか?
源義経は平泉で死なず、ここから大陸に渡ったという伝説から。なんで義経の名前じゃないん?
義経一行が一冬過ごしたと隠れ里という伝説。なんで義経じゃry。
芭蕉の句碑の土台に空いた穴は弁慶の足跡と言われるが、時代が合わないような。
明確な由来はよくわからなかったが、たぶん義経の逃避行中に立ちよった場所なんだろう。なん義。
逃亡中に生まれた義経の子の名前を付ける際にここで墨を擦ったとされる。硯持ってなかったんか。
頼朝の軍勢から逃亡中に岩壁を馬で飛び越え、弁慶の馬の蹄の跡が残ったという伝説が残る。
江戸時代の大工、弁慶小左衛門が作った橋。武蔵坊弁慶とは無関係。
弁慶がここにある井戸から汲んだ水で墨を擦り、般若心経を書写したという伝説より。弁慶って普通に坊さんやってる伝説あるんだな。
岩が積み上がった天然のトンネル。今にも頭上の岩が落ちそうなので弁慶ですら渡るのを躊躇したから、と言われる。
近くに瓶割坂という義経由来の坂があるが、こちらの由来はよくわからず。単に通ったから?弁慶坂多いな。
頼朝勢からの逃亡中にここで弁慶が洗濯したという伝説から。海なんだけど、海水で洗濯したの?
大岩に空いた穴が足跡に見えることから。何故弁慶なのかわからないが、義経軍が進軍した場所だかららしい。ちなみに近くに弁慶の弁当と言われる岩もあるとか。さすがに岩は食べないだろ。
古墳なのだが、怪力の弁慶が巨石を積み上げたんだろうと地元民が言い伝えた結果、この名が残ったそうな。
脛のこと。弁慶ですら強打したら泣くほど痛い箇所。
弁慶の名前付くの多すぎる。これ以外にもいっぱい。名前付いてなくとも弁慶伝説由来だったりするのもたくさん。
みんなに好かれてたんだなあ。
何遍も言うが俺はおやすみプンプンの主人公小野寺プンプンが免許取ったのと同じ教習所に通ってたんだ。
あれって一種の逃避行ものなんだけど、逃避行する前は小野寺プンプンの幼少期からの成長を見つめる話なんだよね。幼少期もやや不気味な伏線は入るんだけど、みんな大きくなってそれぞれを追う群像劇になってく。過去と今、自分と旧友の対比をする。その後に小野寺プンプンの逃避行にフォーカスしてく。あ、もちろん逃げる時は車で逃げるよ。せっかく免許取ったし。確か。
でさ、俺はもう何年も運転してないのよ。なあ、これってコントラストだよな?成長して動き続けていくおやすみプンプンの世界と、俺の動かないエンジンと。
運転してないってさ、そりゃ都内だからってのもあるけど、そっから動かない俺の行動力のなさっていうか、生活力のなさっていうかさ。成長してないんだよ。将来車なんて運転できるのかな〜って心配してたガキから。
なぁ、頼むから俺のエンジンを動かしてくれないか?キーを挿してくれないか(ま、挿すのは俺の方なんだけどねwww←URLの最初についてる草)?
【追記あり】
しゃあねえ一肌脱ぐか。
引きこもり歴10年後に社会復帰して、現在正社員で貯金700万の中年独身オッサンだ。
俺の場合は長期の引きこもりのせいで限界まで自信無くなっていたので
バイト求人の電話かけるくらいなら自殺するほうが心理的抵抗感が少ないような極まりきった状況だった。
引きこもり始めて5年目にこりゃもう鬱だから働けないんだそうに違いないと精神科の門を叩くが、大したことなかったらしく軽い抗不安薬のみ処方される。
その後、抗不安薬パワーでバイトの面接に応募するも、退化した体に工場作業はキツすぎて一ヶ月経たずに止めた。
その後、逃避行動として資格の勉強を始め、業務独占資格を二つほど取った。これが後で生きてくる。
そしてネットで見たサポステに応募。カウンセリングとグループワークをしばらく続ける。
これは本当にありがたかった。
周りはみんな自分と同じダメ人間なので、数年ぶりに引け目のないコミュニケーションが取れる。
同居している親の話では、この頃から俺の目に生気が戻り始めたそうだ。
サポステは社会復帰を目指す場だが、自分から行動を起こさなければ
ダメ人間の集まりという居心地よすぎるぬるま湯にそのまま沈む恐れがある。
年齢的にも危機感を感じていたのとサポステ職員にケツを叩かれていたのもあって、もう一度バイトの応募に挑む。
ヒキニートがバイトに応募する際に躓く点として「応募先の電話番号までは押せるが、通話ボタンを押す指が固まって動かない」という、ヒキニート特有のどうしようもない症状がある。
社会復帰するぞバイトを始めるぞと決心してから、数ヶ月も半年もボタンを押せずに携帯電話とにらめっこし続けるという引きこもりのあるあるネタだ。
単純な話だ。
一切の容赦も慈悲の欠片もなく、軽々と通話ボタンを押してくれる。
最初の一歩を踏み出す勇気がないのなら、誰かに背中を押してもらえばいい。
そしてサポステ職員は背中を押すのが仕事だ。遠慮なく手伝ってもらおう。
そうして始まったアルバイト。
身体も本調子ではないのでそりゃあ辛かったが、峠を乗り越えればルーチンワークになる。
ここでまたサポステに戻るが、今回は僅かながら失業保険が出ている。
元の資格に関連したコースを選び、追加の資格を取り、資格が生きる業種の求人に応募した。
そして今に至るというわけだ。
趣味がゲームとネットくらいしかない子供部屋おじさんなので、貯金は勝手に溜まっていった。
100万ほど手元に残して、残りはインデックス投資に回している。
サポステはネットでもいろいろ言われている通りで、利用したらそのまま就職までオートで行けるような便利機関ではない。
そしてサポステにとっては利用者がバイトを始めた時点でゴールなので、その後の社員へのステップアップは自分で考えて動かなければならない。
しかしそれを差し引いても「ダメ人間同士で気兼ねないコミュニケーションが取れる」という一点だけで、利用する価値がある。
誰と話すこともない、長年の引きこもり生活で弱り切った声帯をリハビリすることができるからだ。
「アッ……アッ……」としか喋れない状況で、どこで誰に話し相手になってもらうというのだ。
今ならネトゲでボイチャするという手もあると思う。
そして資格。
たまたま逃避行動で取った資格が業務独占資格だったのが勝因だった。
だって、「何年も仕事をしないで基本情報技術者を取りました!この資格は私の能力が高い証明!」なんて胸を張ったところで、
IT業界で何年か働いている人の方が普通に評価高いのは分かり切ってるでしょ。
引きこもりが資格を取り始めると末期だなと言われる理由がこれ。
しかし業務独占資格は「この資格を持つ従業員がいなければ、この業務をしてはならない」という資格だ。これは需要がある。
業務独占資格の中には実務経験年数が定められてる資格もあるが、それが受験資格でなければ気にする必要はない。
「私を採用すれば〇年後にこの資格持ちになります」は大きなセールスポイントとなる。
アドバイスとしては、サポステに行け。声帯をリハビリしろ。バイト初めろ。職業訓練に行け。就職しろ。どっかで躓いて何もかも嫌になったら資格を取れ。
何年か越しのプランになると思う。
個々人の素質にもよるが、急がずに一歩ずつステップを踏んでいくのがいいだろう。
お前は、お前が思ってるほど絶望的な状況ではない。
問い合わせの電話でアッアッってなったとしても、向こうも慣れたもんだから。
応援してるぞ。
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【追記】
いや、バズり過ぎでは。
なんか俺が優秀な感じにされてるけど、取った資格は難関でも何でもないし
給料は一昔前に「年収〇〇〇万円時代を生き抜く」とか言われたレベルだぞ。
単に親元で、たまたま酒も女もやらなかったおかげで溜まってるというだけだ。
貯蓄額を出したのは、元ニートでもこれくらいはできるんだぞと勇気を与えたかったのと、あとは自慢。
だって、貯蓄の額なんてこんなところでしか言えないもん。許せ。
そして俺が自信満々なのは、引きこもり時代の後遺症で中二マインドが抜けないせいだ。
この世の大多数よりも人間的に上の存在であるという、根拠のない自信を持っている。
いい年こいて恥ずかしい持病だが、仕事をする上ではこの自信満々なスタンスが謎の信頼感を生むらしい。
なんか知らんうちに良い方向に働いてて驚くこともしばしば。
あと俺が取った資格は難関でも何でもない。
普通は入社してから働きながら勉強して取るような基礎的な資格だ。
ホッテントリに入るだけでもビクビクしてんだ。察してくれ。
そして、社会復帰を資格ありきで受け取られるのはちょっとマズい。それはちょっとやめてくれ。
俺達引きこもりは「やらない理由」を探すことにかけては達人なんだ。
現状を自己正当化する理由を四六時中考え続けて数年間の猛者だぞ。年季が違う。
俺の社会復帰が資格のおかげとなると、みんな大喜びで「じゃあ資格を取るまで就活しなくていいよね!」となってしまう。それはまずい。
実際のところ、職業訓練所を出ればそれだけで「口だけではない、最低限の技術が身についた者」であることを証明できる。
小さな会社では門外漢の素人よりも、職業訓練あがりの少しはわかってる奴の方が歓迎されることも多い。
そして、職業訓練所は就職斡旋機関だが、ニート更生機関ではない。
アッアッな状態で職業訓練所に入っても、おそらく就活でコケる。
それから職業訓練所で社員を目指すというのが俺のお勧めする社会復帰コースだ。
そして、一番大事なことを忘れてた。
これは完全に職歴なしで卒業後そのまま引きこもり生活送っているタイプのニートへのアドバイスだが、
俺たちは「引きこもりでパソコン大先生な自分にもできること」という考えで
パソコンを使った仕事に就こうと考えがちだが、一旦その考えは捨てて、視野を広げよう。
それなりに忙しく動いて体力は消耗するが、筋力勝負ではない。
俺たちにとっては、そんな仕事が狙い目だ。
それを受け入れる土壌も意外に広いということだ。
数か月を寝て過ごすよりはいい。
現場のオッチャンたちも、思ったほど怖くないぞ。
以上だ。
ヤバそうな流れだったので、急遽追記させてもらった。
資格を取るまで行動を後回しにするのは違うぞ。
並行で行けるから。並行で。
じゃあ、この時間で資格の勉強でもするか。と、そうなるなら良いと思う。
まず動こう。まず。
資格のことは横に置いて、まず行動をしよう。
締めの言葉は前と同じだ。
今よりちょっとだけ、前に進もう。
試し読みで読んだ範囲のを再現する画力ないしそもそもそこまではっきりと記憶してなくて女の子の画風にビビッときた少女漫画ってことぐらいしか覚えてない。これじゃ知恵袋も使えない。
また金余ったら買って女の子を楽しもうと思ったのにもうだめだ…
がっかりしたので仕方なく資格取る勉強する気になる。こういうときって漫画の虚しさ感じて逆に資格や物理数学みたいな学問の勉強みたいな身になる系のことに走りたくなる。
まあそれはつらい経験によって湧いてくる虚しさへの逃避行動して真逆の性質を帯びてるだろうことをするってぐらいの動機でしかない。勉強が好きなわけではないわけね。うわこの逃した魚は大きい系の悶々とした気分今度はいつまで続くんだろ、
公開中のアニメ映画「青春ブタ野郎はおでかけシスターの夢を見ない」では、主人公の妹・梓川花楓が猛勉強するシーンで机の上にポッキーの箱が登場している。
それもアニメでよくある「Rocky」とか「Pochy」みたいな架空の商品名ではなく、ちゃんと「Pocky」のロゴが確認できる形で。
……が、エンドロールの「協力」の欄に、ポッキーのメーカーである江崎グリコの名前はない。
同じく商品が実名で登場している伊藤園の名前はあるのに、である。
……一体なぜ?
これは「おでかけシスター」からではなく、TVシリーズ「青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない」では第2話・梓川咲太と桜島麻衣の初デートの電車内で
咲太「1本?」
麻衣「1箱」
の会話とともに、「Pocky」ロゴだけではなく箱の左上の「glico」ロゴまで視認できる形で登場している。
また、同じく第2話・大垣への逃避行で泊まったビジホの部屋の机の上、第3話・咲太が自室で麻衣に勉強を見てもらっているシーンでも登場。
そして、第2話・コンビニで買い物を済ませてビジホへ帰るシーンで
咲太「絶対、忘れない」
麻衣「もし、忘れたら…?」
…が、TVシリーズでもやはり「協力」欄に江崎グリコの名前はない。
少し前にシャープの公式ツイ垢が「ウチの製品をマンガに描いてもいいよ」宣言をしてちょっと話題になった。
逆に言うと、それが話題になるということは「(現状では)実在の商品(名)は避けるのが常識」ということであろう。
実在の商品をメーカーに無断で登場させたからといって、(それが商品のイメージを低下させるような形でなければ)ただちに法的な問題があるとは言えない……たぶん。(それともあるのか…???)
が、実際に無断で出してクレームが付いたりするリスクは避けたい…と考えると、別にヘンな使い方じゃなくてもとりあえず適当にもじって出しとけ…となりがちである。
事前に許可を取って出せばクレーム等のリスクは回避できるが、「いや、交渉の手間かかるし…。それに、そこまでして実名使いたいというほどこだわりがあるわけじゃないし…。」というケースがほとんどなのではないだろうか?
上で貼ったリンク、アニメでの「ポッキーっぽいなにか」の例を集めたページで、青ブタ以外だと唯一実名で登場しているのが「喰霊-零-」。
先行研究によると、
青ブタでも、もし上で挙げた会話が「鼻でポッキー食べてもらう」ではなく「ロッキー」とか「ポッチー」だったら……?と考えると、変にもじらず実名で登場させたのは賢明な判断だったと思う。
この「会話の中に実名で出た」というのが重要で、もしそうでなければ(咲太のバイト先のファミレスが「Benny's」になったみたいに)適当にもじって処理してたのではないだろうか?
喰霊-零-がちゃんと許可を取って出してたということは、青ブタの方も同様に許可を取ってた、と考えるのが自然である。
…で、「商品名使用の許可を得たので、せっかくだからセリフだけじゃなくて映像にも出そう」となった……と考えると一応の納得はできる。
(冒頭で挙げた「おでかけシスター」では会話(セリフ)には商品名は出てこなくて、映像にのみ1カットだけ登場している。TVシリーズとは違い、敢えて登場させる必然性はないのだが、「せっかくなので今回もお願いします」…みたいなことだろうか?)
しかし、「協力」欄に名前がない件は…?と思って、dアニメストアで「喰霊-零-」の方を確認してみたら……なんと、こちらの方も特にクレジットはなかった…!
……あれ?
じゃあアニメEDの「協力」欄って「実名使わせてくれてありがとうの欄」じゃなくて、単に「タイアップ企業の欄」だったってこと……?(伊藤園とはタイアップしてるが、グリコとは特にしてない)
(おしまい)
自分は天涯孤独だと思いたくなるときはありませんか。ただの思春期だと大人からは一笑されるのでしょう。でもきっとこの思いは、生まれてから死ぬまで、一生消えることのないものだと思います。なぜだかわからないけどすごく孤独を感じて、誰も自分のことを理解できないだろうと思う時、見晴らしの良い山の上にある、個人商店まで自転車を走らせます。そこは家から1時間の場所にあり、店内が少し薄暗く、雑貨や食品が売られていて、カウンターではソフトクリームを注文することができます。個人商店にもかかわらず24時間営業で、店主とアルバイト店員の二人で店を回しているようです。私はそこの店が気に入っています。店員たちは誰も愛想がなく、私なんて存在しないかのように扱います。まるでポルターガイストによってレジまで商品が運ばれて行き、清算をして、ふよふよと空をただよって菓子袋が外に出ていくかのような、そんな対応が心地よく、その時私は透明な存在になれるのです。
店を出ると前に道路が走っていて、道路をわたると眼下には海が見えます。人が降り立つような場所のない、何も手入れをされていない海。そんな海に親近感や憧れを覚えて、海に漂う透明な自分を想像します。店の横にはベンチがあり、そこでソフトクリームをなめたり、適当に手に取った菓子袋をあけて味わうこともせず雑に飲み込みます。スマホは家に置いてきて、ここにあるのは食べ物と自分と、店の室外機から聞こえるブーンという音、虫の鳴き声、かすかに聞こえる波の音だけ。1時間ほどそこで何もせず空を眺めてから、帰路につきます。
なにか生活に特別嫌なことがあるとか、不満があるわけではありません。家族仲はいいし、他愛のない話をする友人だっています。それでもただ漠然とした不安や焦燥を感じて、周りにあるすべてのものと距離を置きたくなるのです。きっと同じ思いをしている人は、過去も未来も含めてこの世の中に星の数ほどいるのでしょう。私はそんなよくある一般的な悩みを抱える平々凡々たるつまらない人間なんだなと、また苦しくなります。あの店に行くのは現実から目を背けるための逃避行なんです。
それが罪だとしても…(作品公開日 2014/10/20)
目が覚めた瞬間、あたしの足首には足枷がつき、見知らぬ男に囚われていた。彼はあたしをさらった誘拐犯。そんな彼を愛してしまうことは、おかしいことなのだろうか……。
THE FOOL(作品公開日 2014/06/09)
婚約者と幸せだったのに、彼に類似した叔父さんに誘拐された芹。『ねぇ、誘拐して』そんな要求によって始まってしまう奇妙でありながら甘い生活。
美しい誘拐犯(作品公開日 2013/06/15)
お願い、私をさらって(作品公開日 2013/01/07)
死ぬことを決意した少女。彼女を救った美しい男性との宝物のような半年間。絶望の果てから真実の愛を知り、前に向かって生きていく…信じていれば虹色の人生が待っている。
少女と殺人鬼(作品公開日 2008/07/30)(書籍化作品)
もし、愛してはいけない人を愛してしまったら。しかも、その相手が「一家惨殺事件の犯人」だとしたら……。女子高生・千晴は突然、拉致され、そして監禁されてしまう。そこにいたのは二人のけだものと、一人の「殺人鬼」だった。けだものたちの玩具となり、屈辱の日々を味わい続ける千晴。苦しみの日々の中でわずかな救いを求める相手は、一家惨殺事件の犯人として逃亡中の青年・朝日。ある日、玩具である千晴に飽きてしまったけだものたちが、千晴を激しく虐待する。朝日が千晴を死の淵から救い出したことから、物語は急展開。二人の逃避行がはじまった。逃亡、死の恐怖、そして愛。「何回読んでも涙が止まらない」「こんなに感動した小説は初めて」「読まないと人生損する」など、魔法のiらんどで大絶賛の問題作。総合ランキング1位に輝いた。衝撃の結末に、あなたの涙腺は崩壊する……。
それが罪だとしても…(作品公開日 2014/10/20)
目が覚めた瞬間、あたしの足首には足枷がつき、見知らぬ男に囚われていた。彼はあたしをさらった誘拐犯。そんな彼を愛してしまうことは、おかしいことなのだろうか……。
THE FOOL(作品公開日 2014/06/09)
婚約者と幸せだったのに、彼に類似した叔父さんに誘拐された芹。『ねぇ、誘拐して』そんな要求によって始まってしまう奇妙でありながら甘い生活。
美しい誘拐犯(作品公開日 2013/06/15)
お願い、私をさらって(作品公開日 2013/01/07)
死ぬことを決意した少女。彼女を救った美しい男性との宝物のような半年間。絶望の果てから真実の愛を知り、前に向かって生きていく…信じていれば虹色の人生が待っている。
少女と殺人鬼(作品公開日 2008/07/30)(書籍化作品)
もし、愛してはいけない人を愛してしまったら。しかも、その相手が「一家惨殺事件の犯人」だとしたら……。女子高生・千晴は突然、拉致され、そして監禁されてしまう。そこにいたのは二人のけだものと、一人の「殺人鬼」だった。けだものたちの玩具となり、屈辱の日々を味わい続ける千晴。苦しみの日々の中でわずかな救いを求める相手は、一家惨殺事件の犯人として逃亡中の青年・朝日。ある日、玩具である千晴に飽きてしまったけだものたちが、千晴を激しく虐待する。朝日が千晴を死の淵から救い出したことから、物語は急展開。二人の逃避行がはじまった。逃亡、死の恐怖、そして愛。「何回読んでも涙が止まらない」「こんなに感動した小説は初めて」「読まないと人生損する」など、魔法のiらんどで大絶賛の問題作。総合ランキング1位に輝いた。衝撃の結末に、あなたの涙腺は崩壊する……。
これ全部朝霞少女監禁事件(2016年3月27日に被害者保護)が元ネタらしい……。
タイムマシンってあったんやな……。
1.三 ポンティアック
2.二 リトル・タートル
3.捕 テカムセ
4.遊 オセオラ
8.右 ジョゼフ酋長
五大湖周辺のオタワ族の酋長。元々フランス人と交易を通じ友好な関係を築いていた。しかし、フレンチインディアン戦争でイギリスが勝利すると、情勢は変化する。フランスに変わり台頭したイギリス人は次々に入植し土地を奪う、一方的に交易を制限するなどの横暴に出る。これに脅威を感じたポンティアックはオジブワ族、ポタワトミ族などの諸部族と提携し、イギリスの一斉攻勢をしかける(ポンティアック戦争1763)。イギリス人の完全追放という目的には失敗したものの、大打撃を受けたイギリスは広大なインディアン保護区を制定するなどの大幅な妥協を強いられた。
・リトル・タートル
北東部のマイアミ族の酋長。アメリカ独立戦争ではイギリスと同盟し、フランス軍のオーギュスタン・ド・ラ=バルム大佐を戦死させるなど活躍した。戦後オタワ族、ショーニー族、レナペ族などと共に北西インディアン同盟を結成。イギリスとも結託し、北西インディアン戦争(1785~95)を戦った。1790年ハーマー作戦では250名以上の米兵を戦死させる戦果を挙げ、更に翌年ウォバッシュ川の戦いでは包囲奇襲により米軍の死者600名以上、インディアンの死者20名程度という大勝利を収めた。これはインディアン戦争で最大の勝利である。しかし、フォールンティンバーズの戦いで破れ、イギリスに見捨てられたため降伏、広大な土地を割譲することになった。
・テカムセ
北東部のショーニー族の戦士。北西インディアン戦争でショーニー族は敗れたショーニー族は抵抗の意志を失っていた。しかし、テカムセは弟の預言者テンスクワタワと共に白人への抵抗運動を再開する。土地を守るために全インディアンの団結が必要であると考えた彼は各地を訪問し、インディアン諸部族に連携を呼びかけた。1811年ティッペカヌーの戦いで米軍に敗れたが、その後も抵抗を諦めず、米英戦争ではイギリスと組んで米軍と戦う。デトロイドの戦いで勝利、メイグス砦包囲戦では攻略には失敗するも大損害を与えた。しかし、1813年テムズの戦いで戦死し、彼の壮大な夢は実現することなく幕を閉じた。
・オセオラ
フロリダ半島のセミノール族の戦士。アメリカはフロリダからセミノール族を追放しようと3渡に渡る侵略戦争を仕掛ける。オセオラが活躍したのはその中でも最大規模の第二次セミノール戦争(1835~42)である。彼の指揮する巧みなゲリラ戦に苦しめられた米軍は37年和平交渉の最中にオセオラを捕らえ獄死させた。しかし、セミノール族の怒りは収らず戦争は続いた。第三次セミノール戦争でも米軍は苦戦した。セミノール族の一部はフロリダの奥地エバーグレイズに立て籠もり続け、現在に至るまで降伏していない。そのためセミノール戦争は「インディアンのベトナム戦争」と呼ばれ、フロリダセミノールは征服されざる人々を自称する。
グレートプレーンズのラコタ・スー族オグララの酋長。モンタナ州で鉱山が発掘されると、アメリカはララミー砦から鉱山に至る道路の建設を企む。これに反発したレッド・クラウドはシャイアン族、アラパホ族と連携し、レッドクラウド戦争(1866~68)を戦う。途中のフェッターマン虐殺では陽動に乗せられたウィリアム・フェッターマン大尉指揮下の米軍80名が完全包囲され全滅した。米軍は道路建設を諦め、ララミー砦を放棄したため、レッド・クラウドは唯一アメリカに勝利した偉大なインディアンとして賞賛されることになった。しかし、米軍の強さを実感した彼はそれ以後白人と戦わなくなり、晩年はキリスト教に改宗し居留地に入った。
シッティング・ブルはラコタ・スー族ハンクパパ、クレイジー・ホースはオグララの戦士。本来ならば別個に扱うべきだが、打線に収りきらないのでやむを得ず同じポジションに収めた。二人はレッドクラウド戦争でも活躍し、その知略と武勇を称えられた。その後インディアンの聖地ブラック・ヒルズで鉱産資源が発掘されると、聖地を巡りブラックヒルズ戦争(1876~77)が勃発,ラコタ・スー族は再度シャイアン、アラパホ族と共に戦うことになる。76年リトル・ビッグホーンの戦いではジョージ・カスター大佐指揮下の騎兵連隊250名が完全包囲され全滅した。そのため、シッティング・ブルとクレイジー・ホースの二人は偉大な戦士としてインディアンから賞賛され、白人からは恐れ憎まれるることとなる。しかし、米軍の容赦ない猛攻と兵糧攻めの前にインディアンは敗北、クレイジーホースは捕らえられ刺殺された。シッティングブルはカナダに亡命し、帰国後無実の罪で逮捕されそうになり抵抗したため射殺された。
カリフォルニア溶岩地帯のモードック族の酋長。モードック族は故郷から追放されるが、キャプテンジャックと数十名の戦士はこれに反発し居留地を脱出した。彼らは複雑な地形を利用したゲリラ戦で10倍近い戦力の米軍を1年近く苦戦させた。手を焼いた米軍は和平交渉のためにエドワード・キャンビー少将を派遣するが、交渉が決裂し殺害されたため、インディアン戦争で唯一米軍の将軍が戦死した戦争となった。白人の猛攻の前に降伏したキャプテンジャックは将軍殺しの罪で処刑され遺体は見世物にされた。
・ジョゼフ酋長
アイダホ高原部のネズパース族の酋長。平和主義者であった彼はキリスト教に改宗するなど白人に対して従順であったが、居留地入りを命じられるとこれに反発、部族を率いてカナダへの亡命を目指した逃避行に出る。彼らは兵力と装備で圧倒する米軍の追撃を巧みにかわし続け、遭遇した際にも返り討ちにしたため、白人はジョゼフ酋長を赤いナポレオンと賞賛した。しかし、2000kmにも及ぶ逃避行の末に目的地直前で米軍に敗れ降伏した。故郷を追われ仲間を失った彼は傷心で没することになった
アメリカ南西部国境地帯チリカワ・アパッチ族の戦士。家族を殺された報復にメキシコ軍との戦いに身を投じ武名をはせた。ジェロニモの名は銃弾の雨を無視して襲い来る彼に恐れをなしたメキシコ兵が聖者ヒエロニムスに助けを求めたことが由来である。一旦米軍に降伏し、保留地に入るも、1874年に脱出し、96年に降伏するまで戦い続けた。ゲリラ戦の名手であった彼は米軍を苦戦させ続け、捕らえられても何度も脱出を繰り返した。彼の降伏によりインディアンの大規模な抵抗は終焉を迎えた。彼は見世物にされるなどの屈辱を受けながら虜囚のまま没した。
「イリヤの空、UFOの夏」ビックリするほどの駄作。
と言いたいところだが、あの浮かれた気分に満ちた世界は中高生時代に味わってほしい。
※内容に触れているので観ていない人は注意※
不思議な少女との逃避行は英雄的でロマンチックな体験なのだろう。
個人的に萎えたのは実のところ、全体の設定ではなく「普通においしい」というセリフ。
あれで一気に冷めた。
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https://nippon-gengo.com/futsu-ni-oishii-syougai/
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「大人がまず最前線に出て戦えよ」という気分は、空想的平和主義を掲げる人のみならず
現代日本を覆うぼやけた国防意識とさほど違わないのかも知れない。
あるボディビルダーがロシアとウクライナの戦争についてこんなことを言っていたからだ。
戦争の決断をした政治家も前線に出なくちゃいけないということになれば良いのに。
そうしたら誰も戦争しないだろう。”
https://www.youtube.com/live/3aC2dF9TPCY?feature=share&t=195
宝くじに金をつぎ込む奴らは、自分が何者であるかも分からずに生きている。
それが彼らの夢だというのだろうか?
彼らは自分の可能性や才能を信じず、自分で道を切り開こうとしない。
それが彼らの幸せだというのだろうか?
宝くじで一攫千金を狙う奴らは、本当に自分が何を求めているのか分かっていない。
それが彼らの理想だというのだろうか?
宝くじで夢を買っていると言う奴らは、自分が何を言っているのか分かっていない。
彼らは自分の夢や希望に気づかず、他人や社会に押し付けられたものに流される。
それが彼らの選択だというのだろうか?
宝くじで幸せになれると思う奴らは、自分が何を感じているのか分かっていない。
彼らは自分の感情や感性に鈍感で、本当の喜びや悲しみを知らない。
それが彼らの人生だというのだろうか?
思春期にナンバガやゴイステを聴く陰気な少年をマジでかっこいいと思ってるし、自分もそうありたかった。
実際の所は姉の影響やミーハー心で事変やサカナクションを聴いていた。最近はそれもまた等身大の高校生といった感じで良いような気もしてきた。逆張りの申し子だったからそもそもオーケストラやジャズばっかり聴いていてロックはあんまりだったが……
夜の踊り子の焦らしは今でも高ぶるし、群青日和のギターソロは本当にかっこよくてクネクネせずにはいられない。
借り物の青春像ではなく、最大音量で1812年を聴きながら高尾山に登ってみたり、閃光少女のアウトロを何百回も繰り返しながら多摩川を延々下ってみたりした逃避行の原体験に誠実でありたい。
若かりし頃の話だ。ちょっと語らせてほしい。気持ちの整理がついたのだ。チャンスは今しかない。
当時、大学四年生だった俺は、いわゆるネトウヨに堕ちた。就職活動に失敗し、大学院受験にも失敗し、にっちもさっちもいかなくなり、卒業後はフリーターとして生きる未来がほぼ確定していた。
悲しいかな、自惚れが強い性格だった。ネット上で言うのは最初で最後になるけど、十数年前に慶応義塾大学で法律や経済のことを学んでいた。専攻は不動産登記とか、土地や建物の取引関係がメインだった。成績はまずまずで、サッカー部(※厳密には違うがサッカー部という名称を使う)では補欠だったけど全国大会に出た経験があったし、就職活動が失敗することはないと思っていた。、結果はこのザマだ。
日系企業を主に受けていた。第一志望だった総合商社はもちろんのこと、メーカー系もマスコミ系も金融系も20〜30社受けたけど、ぜんぶダメだった。大手も中堅もすべて。中小企業の内定は取れたが、プライドの高い俺はすべて辞退した。
面接まではとんとん拍子なのだ。大学名がよかったからだろうか、エントリーシートを適当に書いても、SPIの勉強をしなくても、とにかく面接までは辿り着ける。しかし、内定を取ることはできなかった。
今思えば、あの時の自分程度の実力では、まともな会社から内定を取ることはできなかった。30代半ばになった今の率直な感想だ。確かにサッカーはできたけど、精神はぜんぜんなってなかった。今やっている『ブルーロック』のアニメでいうと、実力のない馬狼照英みたいなものだった。
で、結果がネトウヨだった。大学四年の秋〜25才頃までなので、約三年ほどネトウヨに堕ちていたことになる。
今では黒歴史だ。『国民の知らない反日の実態』とか、圧倒的眉唾感のサイトがあるだろ。ああいうのを見て、中央省庁にテンプレメール送ったり、韓国人や中国人の応援をしてると思われる国会議員をディスったり、mixiやGREEで反日活動を認定されたアカウントに突撃をかけて垢停止になったり、とにかくクソみたいな人間だった。
今思えば、いろいろと失ってしまって自暴自棄というか、自分も他人も大事にしない状態だったんだろうなぁ。当時の俺は。
ここで、大学時代に読んだ本を引用したい。約二千年前の、ローマのネロ帝の家庭教師ポジだったセネカの書いた『生の短さについて』だ。
長いけどすまんな。先に要約しておくと、苦しい立場に陥った人間は何かにつけて逃避行動に出る、みたいなことが書いてある。なにげに、現代の異世界転生ブームを予見している感がある。特に『オーバーロード』なんかの異世界転生+光属性の人間が死にまくるようなコンテンツが流行る理由がわかった気がする。
すごく長いけど、可能な限り要約してここまでだった。
さらに、さほど移り気ではないが、その一貫性が恒心のゆえではなく、懶惰のせいであり、自分の意欲するとおりの生を送るのではなく、始めたとおりの生を送る者も、この範疇に加えるとよい。症例を次々に数え上げればきりがないが、この病態の結果は一つである。自己に対する不満がそれだ。その由って来る因は、心の平衡の欠如と臆病な欲望、あるいは完全には満たされない欲望である。望むだけのことを思い切ってできなかったり、望むだけのことを達成できなかったりして、すべてを希望に託す場合がそれに当たる。そのような人間は常に不安定で流動的であるが、何事においても中途半端な者の必然的な結果である。彼らは自分の願い事を手立てを尽くして達成しようとして、不名誉なことや困難なことまでみずからに唆し、強いるが、苦労が報われなければ、願いが叶わなかった恥辱感に苛まれ、しかも、歪んだものを望んだことを嘆くのではなく、望みが徒労に終わったことを嘆くのである。そのとき、彼らは挫折した目論見への後悔の念にも、また、新たな目論見に着手することへの恐れの念にも捉えられ、その精神には、欲望を制御することもできず、かといって欲望を満足させることもできないために、出口を見出せない心の動揺や、思いどおりに展開しない生への躊躇、断念したさまざまな念願の中で無気力になっていく心の沈滞が忍び込むのである。苦労の挙句の蹉跌に嫌気がさして、閑暇の生や孤独な学問研究に逃げ場を求めたとしても、こうした心的状態はどれもますます耐えがたいものになる。公人としての務めを果たそうと意気込み、行動を望む、生来落ち着きのない精神は、当然、みずからの内に見出せる慰めがわずかなために、そうした閑暇な生や孤独な学問研究には耐えられないからだ。世間的な仕事に奔走しているときにまさにその仕事から得ていた喜びが取り去られると、みずからの家に、孤独に、取り囲む壁に耐えかね、一人取り残された己の姿を嫌々眺めるのは、それゆえである。落ち着き場所をどこにも見出せない精神の揺れ、そのような精神への倦怠や不満、そしてまた無為の生に耐える悲しくも病める忍耐は、ここに起因する。そうした状態の真の原因を認めることを恥じて、羞恥心が責め苦を内に向け、心の片隅に閉じ込められたさまざまな欲望が捌け口もなく互いを窒息させ合う場合がとりわけそれに当たる。そこから生じるのは、悲哀や憂鬱であり、また、希望を抱いた当初はどちらともつかない不安な状態に置かれ、やがては挫折を嘆く悲哀を味わわされる、千々に乱れる不安定な精神の揺れである。無為の生を厭い、自分にはすることが何もないといって嘆く人々に特有の例の感情、他人の栄達を蛇蠍のごとく憎む嫉妬心は、そこから生じる。不幸な無為の生は嫉みを育むからであり、自分が進展できなかったために、誰もが滅びればよいと望むからである。この他人の前進への嫌悪感と自分の前進への絶望感からは、次には運命に怒り、時代をかこち、片隅に退嬰し、みずから招いた責めにくよくよと拘泥し、そうする己の姿に辟易して嫌気がさすまで考え込む精神が生まれる。実際、人の精神は生来動きやすいものであり、動きへと向かう性向をもつものである。そのような精神にとっては、みずからを刺激し、どこか(別世界)に連れ去ってくれるものなら、どんなものでもありがたいと思う。その才知を世間的な仕事にすり減らして嬉々としている最悪の人間(の精神)にとっては、なおさらそのようなものはありがたいのである。ある種の腫れ物は潰してくれる手を求め、触れられることを喜ぶし、身体に出来た汚い疥癬は引っ掻いてくれるものなら何であれ歓迎するが、それと何ら異ならず、さまざまな欲望があたかも厄介な腫れ物のように吹き出た精神にとっては、苦しみや悩みは(ある種の)快楽となると言ってよい。
そんなわけで今回、若かった頃の俺がやってしまったネトウヨ行動を取り上げて、自分を断罪したい。ネトウヨ活動では多くの人に迷惑をかけてしまった。ふたつだけ取り上げるが、どちらも個別案件だ。まずは、この一件から。
それは、2011年だった。当時、ツイッターを始めたばかりの俺は、タイムラインとか、検索のやり方とか、連携の仕方とか、いろいろと勉強していた。そんな折、『炎上』というキーワードが眼に入った。炎上自体は何年も前からネット上で起こっていたのだが、自分が直接関心をもったことはなかった。
なお、この頃の俺は、都内のサイゼリヤで働く一介のフリーターだ。毎日、レンジやオーブンやIHヒーターで厨房仕事をするのが仕事だった。ムカつく年下の女社員から、「増田さん慶應卒なのwwwマジすかwww」みたいな感じでディスられていた。
それで、ある時ツイッターで見たんだよ。炎上の場面を。有名ホテルに芸能人が来ていた時、そこのアルバイト従業員が「芸能人の○○が二人で泊まるみたい」とかなんとかをツイートして、「客の個人情報を暴露すんな!!」みたいな恰好で炎上したのだ。俺は、それを間近で見ていた。
当時は、炎上騒ぎに参加する人間が実は少数である、という科学的知見はまだ得られていなかった。本当に多くの人間が炎上騒ぎに参加しているのだと思っていた。それで、当時はストレスが溜まりまくって、シロクマ先生でいうと承認欲求に飢えた若者だった俺は、誰かを炎上させたいと心に決めた。
自分でいうのもなんだが、知能が高い自信があった。中味はクズだったが。それから毎日、俺は炎上の種を探し、それらしいものを見つけてはツイートしていったけど、ぜんぜん炎上に至らなかった。ダメだった。
何週間か経って、もうダメかなと思いかけた時、あるツイートが目に留まった。プロフにアディダスの社員であることを明記している人物が、あるツイートをしていた。要約すると、都内のアディダス店舗にアディダスがスポンサーになっているサッカー選手が訪れたのだが、その人の容姿を侮辱するツイートをしていた。
「これだ!!」
と思った。俺だって小学生の頃からサッカーをしていた。サッカー選手を馬鹿にするのは許せない。
サッカーの試合で、「いまだ!!」と思う場面がやってきたとするだろう。この時、「いまだ!!」の「い」の場面で行動を起こす必要がある。「いまだ」と心の中で叫んだ時にはもう遅い――
そんな、大学時代のサッカー部のコーチからのメッセージを思い出した。実際、俺のルーレットスピンは大変狭い界隈ではあるが知られていた。三人抜きをしたこともある。その指導を正しいものだと信じて努力した結果だった。
そして俺は、そのアディダス社員の行動を咎めるツイートをした。
……その次の日、俺は大好きなハムスター速報を観ていた。ツイートのことは忘れていた。そしてある瞬間に、マウスをクリックする手が震えたのを覚えている。
それはもう、見事な炎上だった。アディダス社員はボコボコに叩かれまくっていた。コメントの数をカウントしてみると、軽く数百はいっていた。
ツイッターを確認した。俺と同じ時刻にツイートをした人間の数は、確か二人だったと思う。1人は準アルファツイッタラーと思しき人で、フォロワー数がけっこういた。でも、確認できた中では俺のツイートが一番早かった(その二人、もしかして俺のツイート参考にしたんじゃね!?)。いや、絶対とは言い切れないが。そのはずだ。※俺のツイートは削除済み。
あの時、俺は世界で一番賢くって、一番運がよくて、一番強い人間なんだ!! と心の底から思った。全くそんなことはなく、ただそういう運に当たっただけだった。
その日から数日、ハムスター速報に夢中になっていた。その記事ばっかり見て、コメントが貯まっていくのを観ていた。今では思う、俺がやったのはクソみたいな行為だ。具体的には、畑の隅に捨てられた白菜の欠片だ。茶色いカビが生えてしまって、もはやハエすら寄ってこないほどに腐りきったカス野菜だ。そんなレベルに堕ちていた。
だから俺は今日、ここで謝罪したいのだ。俺の行動が原因のひとつで、炎上を招いたかもしれなかった。俺だけが原因ではないけど、でも、あの時ツイートをしなければ運よく炎上を回避できていたか、あの子は若気の至りで済んだのかもしれない。
あともう一つで謝罪は終わりだ。気が付いたらけっこう書いてるな。ここまで筆が進むとは思ってなかった。
同じく20代の頃、ニコニコ動画にハマっていた。ようつべよりニコニコ派だった。で、その中のサービスのひとつにニコニコ大百科というのがある。端的にいうと、wikipediaがもっとバーリトゥ―ドになった感じだ。なんでもあり感が満載のネット百科事典ということになる。
ここに電通の記事があった。やはり『国民の知らない反日の実態』などのネトウヨサイトを巡回していた当時、なにかやってやりたいという情動に突き動かされることになった。例えば、一集団内の駒として、都内某所で花王不買運動とかのネトウヨデモに参加するんじゃなくて、もっと大きいことがしてみたかった。
それで、ニコニコ大百科にある電通の記事を編集することにした。当時は、スパッとした端的な記事内容だったのだが、俺が編集を終える頃には、圧倒的ネトウヨ臭の漂う記事へと変貌していた。
こんなことをしていいのか、という認識はなかった。ただ、電通は反日企業として認定されていたから、鉄槌を下すべきだと信じていた。俺を役員面接で落とした逆恨みもあった。
さて、編集後はとんでもないことになった。コメントの数が増えたのだ。それまでは10件くらいしかコメントが付いていなかったのが、その後1年間で百件以上のコメントが付いた。
内容はお察しのとおりだ。俺と同じネトウヨ連中か、または『国民の知らない~(略)』が引用元だから信じなくていい、みたいな二極的なことになっていた。
残念ながら、要編集記事に指定されてしまった。その解除には約五年を要した。俺は、編集してから一年も経つ頃にはネトウヨ活動に興味を無くしていた。もうどうでもいいと思っていた。
というのも、内定を得たからだ。しがないファミレス店員だったが、数年間フリーターとして努力し続けた俺には、わずかずつではあるが、社会人としての力が身についていた。準社員マネージャーみたいな役職があったのだが、アルバイトでも正社員の仕事をやらせてもらえる。それで、組織の下部階層における事務管理とか、オペレーションの指揮とか、コーチングやティーチングを学んだ。それが活きて、就職に成功したのだ。
あの時、俺を馬鹿にして、「あんた、それで慶應卒すかwww」とほざいていた女子社員も、俺のことを見直していた。あの時からはいろいろあって、なんやかんやで一緒にご飯に行くようになっていた。内定を得た時には交際していた。公園デートの帰り道、俺の方から「ねえ、付き合おうよ」と言ったのだが……おっと、けれどもこれは別の物語だ。いつかまた、別の時に話すことにしよう。
それで、ネトウヨの道から遠ざかった。ネトウヨを卒業したのだ。
今は、都内のどこかでカタい仕事に就いている。この物語の舞台はずっと都内だ。思えば、勉強自体はできるのだから、これが一番効率のいい道だったのだ。この道は、父親に教えてもらった。マジで感謝している。やっぱり、こういうところだけ要領がいいのが俺だ。2023年3月になった今も、人として生きるにあたっての知性というか、そういうのが足りない人間なんだと感じる。成長していない。ネトウヨを脱出できたのと同じく、いつか成長を遂げることで、こういう気質をゼロにしたい。
終わりに、この日記を書くにあたっては、大学時代に書いたサッカー部や私生活の日記とか、フリーター時代にサイゼの卒店式でもらったみんなの寄せ書きとか、mixiやtwitterのマイページとか、公務員試験の学習記録とか、とにかくいろんなものに触れて自分を振り返ってみたつもりだ。
ネトウヨにならない方法は簡単だ。毎日の食事と、朝に日光を浴びて仕事に向かう、ただこれだけで解決するものと信じている。
つまらなかったのなら申し訳ない。ほんの少しでも、あなたの暇つぶしになれたのなら嬉しいと思う。読んでくれてありがとう。
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お気に入りに入れてた人がいたらごめん。
コマンチ族の酋長。ペタ・ノコナとシンシア・パーカーの息子。1874年居留地への強制移住に反発して、カイオワ、アラパホ、シャイアンと共に白人と戦った(レッド・リバー戦争)。しかし、食料源であるバッファローが狩り尽くされたため翌年降伏。居留地入りした後も部族を率い、白人文化を受け入れる一方でインディアンの文化も守り続けた。
・ブラック・ケトル
シャイアン族の酋長。白人との共存を臨む平和主義者で交渉による戦争回避に生涯を捧げたが、裏切られ続けた。最期はワシタ川の虐殺でカスター指揮下の第7騎兵連隊に無抵抗の女性、子供共に虐殺された。ブラックケトルは死の瞬間まで白旗を掲げ、「友達だ!」と叫んだが無視され蜂の巣にされた。
・シッティング・ブル1831~90
ラコタ・スー族ハンクパパの戦士。若い頃からレッドクラウド戦争,ブラックヒルズ戦争(1876~77インディアンの聖地ブラックヒルズを守るための大激戦)などの白人との戦いに従事した。1876年リトルビッグホーンの戦いではシャイアン族、アラパホ族と共にジョージ・カスター指揮下の第七騎兵連隊250名を全滅させた。スー族はその後降伏するも彼は頑なに居留地入りを拒みカナダに亡命した。71年に帰国し、捕虜となった。暴動を扇動したという無実の罪で逮捕されそうになり抵抗したため射殺された。
ラコタ・スー族オグララの戦士。レッドクラウド戦争、ブラックヒルズ戦争などに従事し、その勇猛さをシッティング・ブルと並び称えられた。1876年ローズバッドの戦い、リトルビッグホーンの戦いで米軍を破った。しかし、物量や装備で勝る米軍に敵わず降伏し、捕虜となった後に銃剣で刺殺された。
ラコタ・スー族ハンクパパの戦士。レッドクラウド戦争、ブラックヒルズ戦争に従事し、リトル・ビッグホーンの戦いではカスターの心臓を切り取った。1880年降伏した。
ラコタ・スー族の戦士。クレイジーホースの親戚で2m近い大男であった。リトルビッグホーンの戦いに参加した。
・ゴール1840年頃~1894
ラコタ・スー族の戦士。リトルビッグホーンの戦いでは騎兵連隊を分断し、勝利に貢献した。シッティングブルの盟友だったが、後に仲違いし1881年に降伏した。
・レッド・エンド1797~1881
ダコタ・スー族の酋長。兄を白人に殺されたことへの報復にスピリット湖畔の入植地を襲撃した。リトルビッグホーンの戦いにも参加し、シッティング・ブルと共にカナダに亡命し、現地で亡くなった。
・ジョゼフ酋長1840~1904
ネズ・パース族の酋長。平和主義者であり、キリスト教に改宗するなど白人に対して友好的であったが、1877年居留地への強制移住に反発し、カナダへの亡命を図り、部族を率いて1600km近い大移動を行った。巧みな戦術で白人の追撃をかわし続け、赤いナポレオンと称えられたが、最後は捕らえられ、逃避行は失敗に終わった。
・リトル・ウルフ1820~1904
シャイアン族の酋長。レッドクラウド戦争、ブラックヒルズ戦争に参加。その後米軍に降伏したが、部族を率いて居留地から故郷への脱走を図り、2000km以上の大移動を行った。途中で降伏するもシャイアン族は故郷への期間を認められた。
シャイアン族の酋長。レッドクラウド戦争、ブラックヒルズ戦争に参加。米軍に降伏後、リトルウルフと共に大脱出を率いた。
・ヴィクトリオ1825~1880
アパッチ族の酋長。1879年居留地から脱走し、アメリカ・メキシコに対して挑戦した(ヴィクトリオ戦争)しかし、翌年メキシコ軍に包囲され戦死した。
・ナナ1810年代~1896
アパッチ族の戦士。ヴィクトリオの姉と結婚し、ヴィクトリオ戦争でも共に戦った。1886年に降伏した
アパッチ族の女性戦士。ヴィクトリオの妹。ヴィクトリオ戦争に従軍し、兄が殺されると、ジェロニモと合流して米軍と戦った。1886年に降伏し、翌年病死した。
・ジェロニモ1829~1909
アパッチ族の戦士。1851年メキシコ当局に家族を皆殺しにされてしまう。それ以後獰猛な戦士としてメキシコ軍とアメリカ軍を苦しめた。1874年の連邦政府の強制移住に抵抗し、何度か捕らえても脱獄を繰り返した。1886年に捕らえられて以降故郷から連れ去られ、見世物とされるなど屈辱を受け、虜囚のまま死去した。
クリー族の戦士。飢餓に苦しめられ、1885年メティ(カナダ先住民と白人の混血)のルイ・リエルの北西反乱に加わった。
・ブコナイゲシク1830年代~1916
オジブワ族の戦士。1898年頻繁なインディアン逮捕や森林破壊に抗議し、逮捕されるが脱走。シュガーポイントの戦いで追討軍を破った
・デニス・バンクス1937~2017
オジブワ族の人権活動家。1968年アメリカインディアン運動AIMを設立。デモや選挙活動によりインディアンへの人権侵害に激しく抗議し続けた。その中でも有名なのがアルカトラズ占拠事件(1969~71)とウーンデッドニー事件(1973)である。前者は1年半にも及ぶ長期戦でインディアンの人権問題を国際的に周知させるきっかけとなった。後者は州兵、FBI、戦車、ヘリコプターを動員させる大事件となった
・ラッセル・ミーンズ1939~2012
ラコタ・スー族オグララの人権活動家。アルカトラズ占拠事件後にAIMに参加、ラシュモア山占拠事件、BIAビル本部占拠事件、ウーンデッドニー事件に加わった。ラシュモア山ではワシントンの像に放尿した。何度も逮捕や殺人未遂などの危機に陥るが恐れることなくインディアンのための活動に生涯を捧げた
【ネタバレあり】
「君の名は。」はタイムリープすることで、過去を「変える」物語である。主人公の瀧は、過去の少しずつ忘れられはじめた悲劇を追体験し、不思議な力によって惨劇を回避する。その点において「すずめの戸締まり」では、誰も過去を変えることはできないということが明示される。常世は過去も現在も混在する世界であるし、主人公のすずめは物語の終盤で過去の自分と出会う。しかしそれは過去を改変することにつながるわけではないし、亡くなった母親に常世で再会できるようなことがあるわけでもない。死者は死者である。
「天気の子」における帆高の選択は、「すずめの戸締まり」のすずめとは真逆である。世界なんかより君が大事だと叫び銃をぶっ放して走る帆高に対し、「すずめの戸締まり」ですずめは大震災と愛する人を天秤にかけるという選択を迫られ、愛する人を選べなかった。それにはすずめの過去の震災被害の経験が重くのしかかっている。「天気の子」では帆高の過去は意図的に透明化されているし、帆高と東京とのつながりはどうにも希薄である。
翻って考えてみて、「君の名は。」の過去改変も、「天気の子」で世界よりも君を選ぶのも、エゴイスティックに世界を改変する行為である。「すずめの戸締まり」では人知れず災害を防ぎ、薄氷の上にある世界を昨日と変わらず続ける選択を行う。「大事な仕事は、人からは見えないほうがいいんだ」と草太は言う。世界は微妙な均衡の上に成り立っており、それはいつすべてが灰燼に帰してもおかしくない。
過去の2作品と今作の対比で際立つのは、過去の果てしない重みである。過去は変えられない。過去ははてしなく重くのしかかってくる。人にとっても社会にとっても。忘却するわけではない。でもどこかで区切りをつけて前に進まなければいけない。そのための儀式が戸締まり。鎮める。そうしてまた行ってきます。
「大人の論理、子どもの純粋さ」という対立軸は日本のアニメ漫画文化で普遍的なテーマである。「君の名は。」では三葉の父親を説得するという小さな対決イベントはあるが、メインテーマに絡んでくるわけではない。祖母は組紐の伝統を三葉に受け継ぎ、導く役割を担うが、どちらかと言うと舞台装置として機能している。
「天気の子」では鮮明に「大人の論理、子どもの純粋さ」が対立軸として描かれるが、対立に解決や落とし前をつけるというより、主人公たちがぶっちぎったような形で終わる。また登場する大人は、誰も主人公たちに対して大人としての役割を果たさない。須賀は大人のズルさを持ちつつも精神的には未熟でもある。子どもにたかり、ほぼ無給でこき使い、保身のために投げだす。リーゼントの刑事も少し思うところはありそうだったが、帆高の未熟さに毒づき、押しのけられるだけである。象徴的なのは須賀の義母である。相手と会話しているようで、自分の中ですべて完結している。自分の価値観から一歩も外にでることはない。大人たちが大人として子どもに向き合わず、与えられた仕事や役割をこなすだけ(と描写される)のがある意味現代的ではある。
一方「すずめの戸締まり」では、環との葛藤と和解が大きなストーリーラインを構成する。物語のオモテ面が災害を防ぐため各地をめぐる旅だとすれば、ウラ面は過干渉な叔母から実家への逃避行である。環も、神戸で出会うシングルマザーのルミも、完璧とは程遠い人物である。環はすずめを引き取ったことで失ったものを未だに悩み、無理をして母親像を演じ裏切られると怒りを爆発させる。ルミはヒッチハイクしてきた高校生にベビーシッターをさせて、更に深夜までスナックで手伝わせる。そんな大人だが、二人とも真摯にすずめに向き合う。草太の祖父は、自分の孫が要石にされた状況で、その事態を引き起こした当人に対して「これで良かった。すべてを忘れて帰りなさい」と声をかける。
もともと新海誠はキャラクターの背景や生活史をほとんど深く描かない表現者だった。ほしのこえ、雲の向こう、秒速。ほとんど若者しか登場せず、「どの作品も主人公とヒロインは一緒」と言われることすらあった。心理描写を最低限に、抒情的に美しい風景に仮託して表現し、視聴者が勝手に自分と重ねられるようにする。それを極限まで純化ささせた作家性だった。それがこのような作品を作るまでになるとは夢想もしていなかった。過去の作品を糧にしつつ、全く新しい作家性を手に入れ、見事に作品に落とし込んだ。「新海誠の最高傑作」との宣伝文句は伊達ではないと思う。集大成であるし、ここまで来た新海誠が次に何を作るのかが今から楽しみである。
・すずめとは「鎮め(地鎮)」であり、「ミミズを食べるもの」でもある
・すずめの瞳にミミズが反射して赤いハイライトが差すのが「すずめにしか見えていない」ことと、揺れがおきるたびにミミズを探してしまうすずめの恐怖をうまく描写していた
・冒頭の朝ごはんがやけに気合入っててこんな朝ごはん普通つくれねーよと思ったら伏線だった
忘れもしない3月11日。
あの日、俺は中学生3年生で、卒業式の予行演習などというダルいイベントのため、学年全員で体育館へ移動していた。
その時起こった。異様な「揺れ」。
はじめこそ その大きさに気付かなかったが、段々と実感する。
歩けない。
立てない。
座るしかない。
特に校庭に植えてあった背の高い植物が振り子のように揺れているサマを見て、その異常性を実感した。
パキバキパキッ
何の音だ?わからない。
「校舎の側にいる奴ー!!移動しろーーッ!」
体育教師の怒号が響く。
なるほど、窓が割れたのか。
移動中だった3年生は体育館ではなく校庭へ移動することとなった。
程なくして1年生と2年生が集まる。
俺の通う中学は携帯持ち込み禁止だったが、こうなってしまえばもう関係ない。
目に飛び込んできたのは揺れの瞬間の映像。崩壊した家屋。割れた道路。震度と震源地伝え、安全を促すニュースキャスター。
何かもが異様で新鮮だった。
でも、俺にとっては、3年間あれだけ厳しく禁止されてきた携帯を、校庭で普通にイジっている事が何よりも新鮮だった。
トイレ以外は教室内で絶対待機。変に暴れないなら何をしてもいいらしい。
俺はなぜかトランプを持ってきていた友人とババ抜きをしながらダベっていた。
「津波ヤバかったな」「親はいつ迎えにくるんだ?」「食いもんどうするんだ?」「卒業式中止だろうな」
話題など尽きるはずも無かった。
皆がワクワクしていた。
その後は、食堂からおにぎりが支給され、学校で備蓄していた救急セット的なものを配布された。
就寝時間になると、俺達はそのアルミシートを身にくるみながら床で寝ることとなった。
最悪の就寝環境だが、昼間に興奮してエネルギーを使い果たしてしまったようだ。
寝れるわけないと思っていたが、気づけばグッスリ寝ていた。
どうやら放射能が漏れていて、風にのって日本中にバラ撒かれているらしい。
夕食。親父がそんなことを言い始めた。
どうも放射能のせいで日本の東側が終わっているので、一旦名古屋に逃げるらしい。
突然の事だったので母親は嫌がっていたが、渋々承諾した。
俺は思春期まっさかりだったが、状況が状況だけに思春期を発動することなく、両親と観光を楽しんでいた。
その後のことはよく覚えていない。
結局、なし崩し的に実家へ帰り、なし崩し的に学校が再開し、なし崩し的に日常が戻ってきた。
しかし何度振り返っても思う。
いつ思い返しても、こうして文字を書き連ねている時も、思う。
アメリカ人の友達「偽物の教会で、お葬式の曲が流れる不思議な結婚式に出たのよ」「それ、日本の標準的結婚式です…」
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1956479
これはつまり「ブライダル業界の結婚式」だが、なんでこうなったのか?。
今主流のこういう結婚式の始まりは1970年代なんだが、その元は60年代にある。
日本のイエ制度は明治に出来たようなもんだが(武家を除く)、昭和初期には堅固なものとなり、更に国家と天皇がイエに擬製されて人間はそこから逃れる術はほぼ無かった。ゲマインシャフトと国家有機体論の合体だ。
戦争に負けるとおせっかい焼きのアメリカが自由の形だけを作って置いていった。国家権力だけは縛ったからあとは勝手に使うがよいと。
それで戦後も時代が下り生活レベルが向上すると段々と生活や人生上の自由が増大化していった。
イエというのは家督であり、継げるのは長男一人だけだ。しかしその他の女子や次男以下も生き方が制限された。
長男は適齢期になると親が勝手に縁談をまとめて「あの家の娘と一緒になれ」。断った場合は勘当されて死ねと言われる。
次男以下は中学(尋常小学校)を出ると「小僧」の勤め先を親が決めてくるので、そこに入る。小僧っていうのは商家に住込みの店員見習いだ。然程の長時間労働ではないが「仕事」ではなくて24時間主人に仕える事が求められる。全人格労働だ。
こういう風習があったので会社勤めが一般化しても昭和中期まで独身者は会社の寮に住込みが基本だった。勿論集団生活で雑居だ。プライバシーとかいう事を気にする者はアメリカかぶれの不良である。
女子は妙齢になるとやはり親が勝手に嫁ぐ先を決める。断るのはアメリカかぶれの不良である。そもそも断ると生きていく術が無い。本人が何とかなっても家族が村八分になる。
商家に女版小僧として働くというケースもあった。勿論住込みの全人格労働だ。これも妙齢になると主人が見合いの相手を見つけてくるので恋愛期間なく結婚せねばならない。
戦後生まれの団塊世代が成人する60年代末になると都会ではそういう古いイエに縛られない核家族が増え、子供用個室が出来たりもした。
でもそれは都会の話で、田舎の方ではまだ古いイエに縛られたままの人間が多かったのだ。
例えば中島みゆきの『ファイト』は1982年の歌だが、「薄情もんが田舎の町に砂かけんのか、出てくならお前の身内住めんようにしちゃる」と言われて長距離切符燃やそうとしたが出来なかった。東京行の文字が滲んだ切符をまだ持ってる、っていう節がある。
なんでこんなキツイ歌詞を考えつくの…と思うがこれは中島みゆきの深夜ラジオに送られて来たリスナーのハガキの内容を切り貼りした歌詞なんである。
つまり1970年代末~1980年代頭にもこういう思いをした人は居たという事だ。
「ファイト」の語感だけで元気を振るう歌だと思っていると衝撃を受ける事と思う。苦難や挫折が生々しいのだ。
勉強を頑張って東京の大学に進む事が出来るように先生に親を説得してもらう(余計な勉強なんかして更に大学に進もうなんて親不孝のアメリカかぶれの不良である)。
集団就職に参加する。
一度商家に入り、数年奉仕し18or20歳の年齢制限をクリアして暇を貰い、水商売に入る(増田の親のパターン。単に不良である)。
そういう状況だったから古い世間では自由恋愛=不良であった。それは流行恋愛歌に乗せられて人の道を踏み外すアメリカかぶれの不良である。
一方、若者からすれば自由恋愛とは誰と恋愛してもいいよという状態の事だけじゃなくて因習から逃れる解放のテーゼだ。
人は好きな人と結ばれる権利がある。それを称揚すべきである。ロマンチックラブイデオロギーだ。
そういう訳で沢山のフォークソングで自由恋愛が称揚されるようになった。1960年代には社会への異議申し立てという歌詞が多かったのが、70年代になると安保闘争の挫折も相俟って現状肯定、恋愛称揚などのポジティブ系にシフトしていく。
有名なのが吉田拓郎の『結婚しようよ』1972年で、僕の髪が伸びたらチャペルで結婚式を挙げよう、というもの。
チャペルはキリスト教会の礼拝場の事なのだが、実際に多く使われるのはミッション系大学の礼拝場だ。要するに学生結婚したいねという欲求を惹起する歌だ。
もう一つ有名で披露宴でも使われるのがチェリッシュの『てんとうむしのサンバ』(1973年)で、夢の国の森の小さな教会で結婚式を挙げました、という歌詞。
こういう曲のヒットにより「小さなキリスト教会での挙式」というのが憧れとなり、実際にミッション系大学併設の教会での挙式が多く行われた。因みに式の前に洗礼を行って形だけでも「キリスト教者」になっておく。
ただ、ミッション校の教会は限られていてパイが少ないし両方の親族が沢山来たら礼拝堂に入らない。
でもそれがまた「イエvs.イエ」の結婚式へのアンチテーゼとして働いた訳だ。
なんでキリスト教会なの?と言えば、それは第一に西欧への憧れであり、第二に「日本古来の神式、仏式でないから」だ。神式、仏式にはイエの因習の表象をまとっていた。
今は厳かな神式も人気で特に鎌倉鶴岡八幡宮の舞殿で行われる神前式は人気だ。これには団塊/全共闘の残した軽いノリへのアンチテーゼで権威的なものを好むというテイストもあるだろう。
でも今の神前式を選ぶのと60年代の仏/神前式は意味が違うのだ。現代のは一度因習との結びつきが嫌われて廃れ死んだ後に、「博物館入り」して個人にとって安全になったものだ。安全になったので「自由意思で選択」しているのである。
「花嫁は夜汽車に乗ってとついでいくの」という『花嫁』(はしだのりひことクライマックス 1971年)なんか歌詞をよく確認してみたら駆け落ちなのな。こいつを披露宴で掛けるのはヤバそうだ。
それ以前の結婚式は仏式/神前とあったが、特に都市部だと著名な特徴があった。
それは「祝言(しゅうげん)として能の演目『高砂』の一節の謡いを仲人がやる」という事。俗にいう「高砂や~」である。
https://www.youtube.com/watch?v=Zm1Se2fRnvU
これをこの調子で仲人が謡う。これは都市部では必ずやる。絶対にやる。だから仲人はこの祝言を暗記して慣れない能の謡い方を練習した。それを笑った落語もある。「高砂や~」って練習してる時に「とうふ~」と豆腐売りが来ちゃって混じって覚えちゃうのな。
これは恐らく江戸時代後期には一般化していたと考えられるが、廃れた時期ははっきりしてて団塊世代の適齢期だ。
ちょっと脱線だが老松町という地名があったり地名変更で無くなったが祭りの町内会名や祭りの神輿や山車の提灯なんかで出てきたりする。
でも昔は結婚式では「必ず」高砂の祝言を謡ったのだ。『高砂』の内容とは、神主が兵庫県の高砂で老女老男に出会い、我らは片や高砂の、片や大阪市住之江区の住吉大社の老松だと言われる。小舟に乗って去った老夫婦の後を追って船で住吉に向かうと、住吉明神が神々しい舞を見せた、というものだ。
まぁ今は埋め立てで遥か内陸になってしまって阪堺電軌じゃないと行けませんがね…。
この「老松」なのですよ。昔は結婚式で必ず仲人が高砂を謡った。故に門出の歌なのですな。
関東大震災で下町が壊滅すると多くの人が板橋区とか池袋、世田谷、杉並などの郊外に移り住んだ。すると農村の人口が増えて村から町になり区画も分割される。そこでめでたい瑞祥地名として新婚の門出と長寿と願って老松町というのが増えた。
でもその後字面が年寄臭いって事で消えてしまった。『高砂』が廃れた現在から見るとやっぱ年寄臭く見えるけど、それは習俗が途絶えて常識が消えたせいなんでありますな。
会場が教会だったり披露宴でフォークソングとか歌うし高砂やはやらないしで、この新しい結婚式に保守的な人らは憤慨していた。
どのくらいかというと、わざわざ入試問題に新型披露宴を批判したり、親戚のオヤジがマイクを渡されてフォークソング披露宴への憤懣ぶちまける説教演説したのを現代文の問題で出したりするくらい。そんなのを入試に出すなよ。過去問としてアーカイブされて10年以上参照されるんだぞ。
しかし芸能人などが次々とキリスト教式で挙式するようになる。するとこれは大きな需要であるから「ブライダル業界」が立ち上がり、洗礼とかがない宗教的に気軽なキリスト教式結婚式を提供するようになったのだ。それまでは互助会のような組織が主だった。
ホテルなどでの挙式よりは断然安い。しかし教会での式よりは断然高い。
だから団塊のイエへの抵抗から始まったブームが大きくなって70年代中頃に業界化し、80年代には完全に一般化してこっちが主流になったのである。だが80年代には色々行き過ぎて珍妙な式が行われており、それでまた年配者の顰蹙を買ったようだ。ハイジみたいなブランコで新郎新婦が登場とかラブソングカラオケ熱唱とか色々おかしい。
だから「なんで偽物の教会でやるの?」と聞かれたら「それが昔は近代的な解放だったんだよ」「その意味が社会から消えても形式と業界がそのままになってるんだよ」「貴方の国の若い人らもハングルやひらがなを混ぜて書く事があるけど、それも同じ抑圧からのサブカルチャー的解放の意味があるんじゃないの」と言えばよい。
それとは別にやっぱあの形式の結婚式にはダサさを感じるし、偽物の教会も中途半端で教会建築への理解の少なさが出ちゃってる。標準的形式の練り直しはすべき時期かもしんない。