はてなキーワード: 頼朝とは
家制度の大事さを論ずる人がいますが、これってもうほぼ崩壊してますよねって話。
家ってなんで成立するかと言うと、家と結びついた職業や生産手段があってこそだ。
例えば古代でいうと、摂政や関白になれる家、大臣までなれる家、大納言までの家、などがある。
親から子へ、親のついた地位や経済的要因(荘園など)が継承される。だから家が生まれる。
その土地や、その土地から生まれる利益の継承者を明確に定める必要がある。
芸事でもそうで、親の芸を継承しうる芸術であれば家元となりうる。
商家も同様で、百貨店でも呉服屋でも、親が築いた商売上の生産手段を継承する場合、家制度と相性が良い。
政治家も同じだ。親が築いた信用や政治基盤を継承するのであれば、家が生まれ、結果二世三世議員が生まれる余地を生む。
皆さんは親が引退したら、親の職業や親の地位につけるだろうか。
もちろんそうなる人もいるだろうけれども、多くの人は親の社会的地位を継承しないだろう。
私の親が副市長を引退したら、私が副市長になるだろうか? そんなことは許されない。
一方で、会社の社長が息子に移り先代社長は会長になるだとか、芸事で何代目だれそれを襲名した、とかは違和感が薄いと思う。
二つの事例を見たが現代社会ではどちらの職業のパターンが多いだろうか。
圧倒的に前者ではないだろうか。
もちろん、後者のシステムを否定することに直結しないことも重要だ。
ということで現代では、家産や家職の関係から、家制度はほぼ質的要因を失っていると結論づけられる。
個人的には(といっても見田宗介あたりの受け売りなのだが)、1961年の農業基本法が重要と思う。
人口の多くが農業をしていた日本において農業を機械化し、余剰人員を2次産業3次産業に従事させる動きを生んだ。
明治時代以降、第二次大戦後でも解体できなかった江戸時代以降の家制度はこの法律によりついに解体された。
日本人の多くが農民だったから、田畑という家産で生活していた関係上、多くの人々が家制度の中にあった。
サラリーマンになった農家の子孫たちは、もうその地位を子孫に継承できない。
親の地位を継承できない子孫たちはやがてマイナビ・リクナビを頼ることになるだろう。
高度経済成長は経済成長だけが起こったわけではない。家族の観点からしても革新的政策だったのだ。
だから家職や家産を継承しないところに生まれ育った場合では、気軽に別姓にしたり、あるいは現段階だと妻の姓をなのってもいいんじゃないかな、って思う。
頼朝みたいに皆にそう言ってたりしてな
殺してしまったら上から下まで総スカンやで。天皇自体に権威があった (古来からの儀式とかの継承者) からというのはそうだけど、洋の東西を問わず権力掌握のために主君殺すってなかなかない気が...「主君すら簡単に殺す奴が他の勢力ならもっと簡単に潰しに来る」みたいに思わるので相当な根回しが必要やと思う。
臣下に殺されたっていうので思いつくのは三国魏の高貴郷公やけど、これは高貴郷公自らが兵を率いて司馬昭を始末しに行って逆襲されて殺されたから 、後白河が直接平家にぶつかれば殺されるかも?高貴郷公の件は名ばかり皇帝に落ちぶれた東晋の皇帝がこのことを知ったときにそら(皇帝殺して皇帝になったら)そう(権威なんてなくなって名ばかりになる)よ...orz ってなってたので、主君殺すってなかなかできないんちゃうか。
あと、後白河と平家が決定的にこじれたのって鹿ケ谷の陰謀のさらに後の重盛の死後処理で後白河がやらかしたからで、その先は後白河がいようがいまいが戦乱になってたんちゃうか?源平合戦に火をつけたのは後白河じゃなくて八条院周辺だし。後白河にしても平家にしても自分ところの利益だけを場当たり的に追及するところがあって、それがgdgdの源泉だと思う。
なんで天皇がここまで尊くなったかは不明なんだけどやる夫スレでよければ やる夫が大海皇子になるそうです というのを読むといいかも。長いけど。この作者の前作が やる夫が鎌倉幕府の成立を見るそうです でちょうどこの時代やな。こっちも長いけど。
以仁王のことか?そりゃ天皇でもなければ自分で反乱起こして戦場に出ちゃったからね。後白河も後鳥羽も戦場に兵を率いて出てはいないのに注意。どちらも合戦は部下に戦わせて自分のところまで敵が来たら素直に従っている (法住寺合戦、承久の乱等)。ここで抵抗したらなにかのはずみで殺されていても不思議ではない、が天皇とはそういうものではない。また当然ながら尊さにも位があって 天皇・上皇 >> 皇太子 >> 親王 >> ただの王 で、天皇家に連なっていても親王宣下されなきゃたいしてえらくはないで。
このころの上皇とか法皇とかは事実上の最高権力者やで。平安中期は摂関家が自分の甥である天皇の後見をすることで権力を握ったが、平安後期では天皇の直系尊属である上皇、法皇が天皇家の家父長権でもって天皇の後見をすることで権力を握った。最高の権門である天皇家の家長として荘園も集積しているので財産も持っている。まあ後白河は中継ぎって見られてたから前任の白河とか鳥羽とかみたいな盤石の権力ってないけど。ついでに父の鳥羽から財産を受け継いでないし。
頼朝は蔵人を務めていた上西門院(統子内親王・後白河の姉にして准母)と母親の実家である熱田大神宮家が助命に動いて助命されたんやで。これらの貴人達の反対を押し切って殺すのは政治コストが高すぎる。そもそも平治の乱時点での清盛は財力武力はあっても正四位大宰大弐にすぎないわけで政権の中枢にいたわけでもないし、反乱鎮圧の立役者ではあっても処刑にどこまで関与できたというと疑問な気がする。平家政権ができあがるのはこのあと後白河法皇と二条天皇の間を上手に泳ぎ回った(平時の乱もその上手に泳ぎ回ったの一部だが)上で1165ごろに二条天皇と政界の大物複数名が相次いで死んだ結果なので、このときの清盛に平家政権全盛期の公卿殿上人数多という未来を言っても信じなかったんではないか?
そもそも天皇家は神道の権威だろうに、後白河法皇は何で出家してるんだろう。
昔は仏教と神道密着してたのか?神の子孫の天皇家がバンバン出家していた頃って、どんな宗教観なんだろう。
仏が神より高い位置にいたとか?
日本古来の伝統がたった150年ほどで忘れさられるとは嘆かわしい。明治政府のなんと罪深いことよ。仏教は日本に受け入れられる際に神道を取り込んでこのころには不可分になってるで。そのあたりの理屈をつけたのが本地垂迹説やな。出家すると神道の儀式を主催するのは不適切という概念はあったらしいので、神道の儀式は現役の天皇にまかせて退位したら出家して仏教の儀式に専念する、というのはありかもしれない。神道も仏教もどちらも国を護るには重要やしな。
アニメの底本になった古川日出男訳読んだ程度の理解だけど(以下ネタバレもくそもないけどネタバレかもしれない)
邪魔者はどんどん殺そうという感じでは意外とないんだよな。禍根が残るし宗教もあるから
たとえば源頼朝・義経の父親は平治の乱を起こして平家に追討されたけど、平家は頼朝・義経までは殺さなかった
そのせいで後年追い詰められることになる
平家は徳子を天皇家に輿入れさせて息子を産ませる。これが安徳天皇になると、平清盛は天皇の祖父だってことになってますます権力を持つ
権力の源泉はもう一人の祖父、つまり後白河上皇からの血縁だからこれを処刑したりするのは都合が悪い(平家物語だと清盛は討ちたがっていたけど)
一方で以仁王は無理に担ぎ上げられた後白河の子で、平家にとってはもちろん朝廷からしても後白河-高倉-安徳と続いたラインを乱すものとして白眼視され、
挙兵をきっかけに平家の圧力で皇族としての地位を奪ったので殺してヨシ!となった。朝廷への反逆は大義名分として掲げやすいので、とにかくこのロジックを立てようとする
後鳥羽天皇(安徳天皇の異母弟)は、もっともっと話がこじれてからの話で、
力を失った平家が絶対死守したい安徳天皇と三種の神器を持ってトンズラこくという最終手段をとったので、「じゃあもうこっちで天皇立てるわ」って神器なしで朝廷側が立てた
その後に頼朝の身を案ずるあまり現夫の江間次郎をアゴで使ってるのを見て、
八重にこの先どういう役回りを担わせようと知ているのかピンときた。
八重が義時と再婚して嫡男である泰時を産んだという説を推しているらしいので、
だからこそ最初からガッキーはいつも2番めにクレジットされている。
八重は義時にとって叔母にあたるが、叔母上ではなく八重さんと呼ばせて、
八重と義時が血縁であることをなるべく視聴者に意識させないように配慮しているのも、
一方で、泰時が頼朝のお気に入りだったことは史実上よく知られており、
泰時は歴史上では知勇兼備の完全無欠の名将名執権として知られており、
執権職のときに歴史で必ず習う御成敗式目を制定したのも泰時だ。
父の伊東祐親を失った八重は、頼朝による庇護を希望するものの、
政子の目が恐ろしい頼朝は八重の世話を義時に押し付け、二人は外面的には夫婦となる。
しかし、義時を見下している八重は(そもそも叔母であるから)義時に指一本触れさせない一方、
しかし頼朝死後、忌まわしい記憶を払拭したい義時は泰時と改名させる。
そして成長するに連れ頼朝譲りの名将の片鱗を現す泰時に悩まされるのだ。
そんな流れになるのではなかろうか。
このたびはツッコミをくらいまくるようなことを、増田にうっかり書き込んでしまい大変申し訳ありません
源氏の内輪もめとしては頼朝が源平合戦中にも範頼や義経の足を引っ張るような口出しをしたこと
(という記憶があるのだが検索してもいまいち出せない。範頼の九州仕置に掣肘は加えたみたい)
戦後二人を殺したことが念頭にあり、ブコメでも出ていた足利氏の兄弟喧嘩、戦争中ではないが三代将軍実朝が甥の公暁に斬殺されたこと
など、ある本で平氏覇権時代よりも鎌倉時代初期の方が内乱が激しく朝廷が苦労させられたという記述があったことを意識して書きました
一致団結した平氏側の範囲としては清盛が優遇した親族連中で考えており
(考えているうちに本人たちが自分を平氏と意識していたのかアイデンティティの置き方は気になってきましたが)
ブコメで指摘されている重盛のことは知りませんでした
平平合戦って北条氏が政権をとったことから逆算的に言われているだけなんじゃないですか?それって と思ってしまった
勉強不足でした