はてなキーワード: 善行とは
昨日、AV新法のことで当事者の方々からヒアリングしたことで、党内の国会議員の方から「AV人権倫理機構からしっかりヒアリングしているのに、栗下がごく一部の変な事業者から話を聴いて適正AV事業者の方々から顰蹙を買っている」という滅茶苦茶な認識を伝えられた(続— くりした善行 🌰 参議院全国比例 / 立憲民主党 (@zkurishi) June 30, 2022
立憲民主党の課題について語ろうとすると、文句言うなら立候補辞退しなさいという方もいますが、立憲が支持低迷ループから抜け出せない大きな理由の一つが「内部からの問題提起・議論が見えない」ことだと私は確信しています。AV新法の件もその一例。野党には与党以上の透明性と説明力が求められる(続— くりした善行 🌰 参議院全国比例 / 立憲民主党 (@zkurishi) June 28, 2022
立候補辞退しろとは思わないが、そもそも民主党は政権時代以降にぐっちゃぐちゃな「内部からの問題提起・議論」が見えまくった結果、内ゲバだなんだと言われつつ何年もかけて分裂していった歴史をどう思ってんのかとかは思う。
国会議員なら『で、その問題提起どうオチをつけるんですか』みたいなところまで考えろってのも、散々言われたことで。
(根回し不足とかも言われますわな)
結局今回も課題を表に出して、じゃあそれをどう解決するのかって、話で。
そこで貴方に任せりゃ課題解決できそうだ、と信用できる論や党への信頼がなさそうだから、ただ文句言って党に不利益をもたらすだけと認識されてしまう。
(下手すると選挙活動といいつつ党の課題・問題点を対外的に宣伝しただけにしかならないわけで)
そもそも、山田太郎ばかり褒めて、山田太郎に褒めた部分をリツイートされて感嘆して、そんなに山田太郎山田太郎言うなら、山田太郎のフォロワーとして自民党で山田太郎サポートすりゃいいんじゃないの?って。
立憲民主党なんて、単にコネやらなんやらで入り込めたから利用してるだけで、どうでもいいんでしょ?って。
だから、どうせ当選しても、党内で孤立しただかなんだかで課題解決できず、都民ファーストのときみたいに、失望して離党して生き残ることを選ぶんでしょ?って。
栗下氏は良くも悪くも野党らしく、場を荒らし引っ掻き回すことが得意に結果的になるタイプなんだろうけど、それを自党にばかり発揮してどうすんですかね。
(石原慎太郎に改めて「歪んだ性愛を描いて金を設けている人間は卑しい」と言わせたときのように、へんな法律や政治家を目立たせて潰すにはそういう才能も重要なんだけど。)
政党に分配された議席で当選する議員が、はなから『いざとなったら政党に反します』宣言してるの、こんなの公認する政党も情けなければ、党の方針を守らない宣言した上で党の議席にしがみつく比例当選狙う人間も人間で、どちらもアホタレ。(政治業界の常識を超える民意で国会に送って頂けたなら、堂々とそれができるなんて、言い訳にすぎない。それならそもそもお前だけで出馬しろ。)
党の方針よりも「表現の自由」を最優先した投票行動をする事を約束します。今回、政治業界の常識を超える民意で国会に送って頂けたなら、堂々とそれができる(同時にそうしなくてはいけない)立場になる。
但し、理想は党の方を変えることだと思います。 https://t.co/Tj04WjhCcK— くりした善行 🌰 参議院全国比例 / 立憲民主党 (@zkurishi) June 27, 2022
赤松健さんは「表現の自由」というよりも、マンガ図書館Zでデジタル周りの知財だか著作権だかそっち方面の功績が豊富なので、普通に政治家として応援してるんだけども、まあ別に叩きたきゃいくらでも叩けばいいと思うよ。
しかし、赤松叩きの10分の1でいいから、立憲民主党から出馬する栗下善行さんや要友紀子さんを応援したり、共産党が
私からしたら、別に現状も冷笑やニヒリズムが過剰だとは全然思わないんだけど、現状を「冷笑が多すぎる」って問題視する人たちが見てきた時代は、今より少なかったんでしょ?
真面目にやったら報われる、善行をすると幸福になる、他人を思いやると満足感がある、虚構ではなく真理としての正しさがある、とかって本気で信じてたの?
それとも、何らメリットはないけどそれでも真面目に熱くやろう!っていうモチベがあったの?
どっちにしても、洗脳や教化された狭い集団ならともかく、日本や世界でそのように考える人間が多数派になることなんてちょっと想像しづらいんだわ。
どんな世界だったんだろうか?
僕の人生は基本的に悪夢によって規定されていると言ってもいい。そのような悪夢が初めて自分を襲ったのは四歳だか五歳だかの未就学児だった時期である。
この悪夢について僕は詳細を語るつもりはない。
それは明確に僕にとっての呪いであり、そして僕の人生を根本的に規定している夢だからである。
このような夢を安易に語ることによって、これまで僕が人生を運営していく上で必要としてきたシステム――要するに倫理――に悪影響が出ないとも限らない。僕はこの悪夢を基本的に墓場まで持っていくつもりである。もし、僕がこの悪夢を誰かに語るとすれば、それは僕が誰かに呪いを移し替えたいという、純粋な悪意によって衝き動かされる時に限られるだろう。
そのようにして、四歳だか五歳だかの時に、記憶に残る上では人生で初めての悪夢に見舞われ、僕の人生はある種決定付けられた。
悪夢とは――端的に落とし穴である。それは闇夜の落とし穴であり、夜になれば我々は必ず眠りに就かなくてはならず、つまり、闇夜の中を目印無しに歩かなくてはならなくなる。無事に夜明けまで辿り着ける場合もあれば、真っ逆さまに穴の中に転落することもある。それが我々にとっての――少なくとも僕が五歳だの六歳だった時の――悪夢だった。そのような悪夢を避けることは、基本的にはできない。偶発的に穴には落ちる。歩く限りで、そしてそこが闇夜である限りで、また、その闇夜の道に無数の穴が掘られている限りで――必ず我々は穴に落ちることになるのである。すなわち、悪夢を見ることになるのである。マーフィーの法則を持ち出すまでもなく、それが僕にとっての悪夢というものの在り方だった。
いかにしてこの悪夢を避けるべきか――という思考が芽生えたのはいつのことだったか、それは流石に未就学児の時ではなかったと思う。僕はその後も順調に、人生の岐路において悪夢に見舞われ続けた。つまり、積極的にこの悪夢を退けようとする姿勢――僕にとっての倫理的姿勢――を身に着けるのは、もう少し後のこととなる。
六歳だか七歳だかの時には、ランドセルほどのサイズの大きな蛾が、背中にしがみついた状態で、闇夜を歩く夢を見た。そして、その夢の中で僕の手には鎖と鉄球が結ばれており、それを引きずっていた。
以前その夢について増田に書いた時があったのだけれど、それは僕にとっての「カフカ的な重み」であったと増田には記させてもらった。六歳だか七歳だかにして、過負荷(当時のブコメからの引用)を背負うことは、はっきり言えばそれなりにハードなことだった。何でまた僕はこんな幼少期からこんな重みを引きずって歩かなくてはならないのだ? 僕はまともに歩くことさえ困難な状態におかれてしまっているじゃないか、と。
◇
時に美しい夢を見ることもあった。意中の女性を抱き締め、愛を語らう夢。そんな夢から覚めた直後には、朝の静かな空気の中で僕は幸せを噛み締めていた。
とは言え、そのような美しい夢に比して、同数以上の悪夢を見ることに、青年期の僕はうんざりとしていた。その殆どは、僕が所謂゛カフカ的重み”――つまりは゛過負荷”を背負っていることを突き付けようとする悪夢であった。
荷物が重すぎるのである。それを何度となく、僕は僕自身の悪夢によって示されることになった。゛お前はここから逃げられない”と。゛荷物を下ろそうとしたところで、それは無駄なのだ”と。゛お前の背負っている重みを常に直視し続けろ”と。
さて、僕はどうするべきだったのだろう。
勿論、僕のやるべきことは一つだけだった。つまり、荷物が何であるかを見定め、それをできる限りパージしていく――円満に背中から下ろしていく――ということそれだけだった。
僕は自分の重みから解放されなければならなかった。その手順を、一つ一つ確実に踏まなければならなかった。間違ったやり方をしてしまえば、その重みが加速度的に増して、自分の背中を押し潰すことは、僕にとって殆ど自明のことだった。
そう、゛間違えてはならない”のである。
正しいことをし続けなくてはいけなかったのである。何故なら、そこで間違った選択をすれば、僕は更に゛過負荷”に晒されることとなったであろうからである。
この場合の゛正しいこと”とは、繰り返すように、゛過負荷”について正しく理解し、目を逸らさず、誠実にその重みを扱っていくことである。幸か不幸か、僕は自分にとってのおぞましい重みが眼前に提示された際、その重みを瞬き一つせずに眺めてしまうという性向を持っていた。そのような性向はある意味では僕の青年期の情景に影を滲ませることになったが、同時に、その時の僕にとってこの上なく必要な事柄をもたらしたのである。
僕はそこから目を逸らしてはならなかったのだ。
僕が正しいことをしなくてはならない、そのために、全力を注がなくてはならない、そう決意したのは、悪夢の影響だった。自分にとって正しいことをし続けること、自分の素直な気持ちを大切にし、本当に大切なものだけを搔き集め、そうでないものに囚われないようにすること――かかる方法のみを以てしてしか、自分の重みを取り除くことができないことは、僕にとって明らかだったのである。シンプルに言えば、僕は正しいことをし続けなければ死んでしまっていたのである。僕自身の過負荷によって。
◇
僕自身にとっての倫理とはかかるものである。つまり、『死にたくなければ(悪夢の過負荷に押しつぶされたくなければ)、正しいことをし続けろ』というシンプルな命題。それが、僕にとっての倫理だった。
僕は、そのような倫理を個人的な格率として保持し続けた。僕が人生を生き切るためには、自分の夢を敵に回すのではなく、自分の夢に味方になってもらうことが、必要不可欠だったのである。
その後、僕は様々な人生のトラブルに見舞われることとなった。最も最近のトラブルは今年の初めくらいから生起しており、正直なところ正気を保つのに随分苦労しているのだが、しかし、ここまでやってきた努力の成果もあってか、夢だけは常に味方になってくれていた。
朝目覚め、少しだけ悲しい気分になるのだけど、でも、少なくともそれは悪夢の目覚めに比べれば、五千倍はマシなのだ。
◇
法輪功の特徴は、たんなる健康法にとどまらず、「真・善・忍」を中心とする「宇宙大法」を身に着けることにより、より高い次元に修煉できると説いている[19]。「真」は真なる言動をなし、虚偽の言動をなさず、将来「返本帰真」に達すること、「善」は慈悲心をもち、人を苛めず、弱者を思いやり、人を助け善行をなすこと、「忍」は困難や屈辱に際しても、受け流し耐え、恨みや憎しみをもたず、仇を討たないこととされる[20][21][22]。「返本帰真」とは、世俗の慾望を捨て、人間本来の自然な姿と理念の境地に達することを意味する[23]。莫 (1999, pp. 59–60) はこれらの教えについて、世俗の栄達に対する批判的な眼差しによるものであり、"中国の一般民衆が慣れ親しんでいる仏教、道教、儒教などの伝統的な価値観をうまくミックスしたもので、市場経済の変化についていけない信奉者たちの悩みをわかりやすい表現を用いて効果的に取り除こうとした"ものであると評している。
今 (1999, p. 35) は、「忍」こそが在家主義をとる法輪功の教えの核心である、なぜなら山中の出家生活でなく世俗の中の在家生活でこそ修練が捗ることを意味するからだと述べている。例えば李は、「徳という物質は、われわれが苦しみに耐えたり、打撃を受けたり、良いことをしたりして得るもの」であり「業力という黒い物質は悪事を働いたり、良くないことをしたり、人をいじめたりして得るものです。[……]人を罵ったり、いじめたりすると、その人は自分の得を相手に投げ与えることになります。一方、相手はいじめられ、苦しめられ、失った側なのでそれをもらえるのです」と述べている[24][25][註 1]。
法輪功では内面の向上に重点が置かれているため、他の多くの気功法同様、金銭や利益が絡む活動はいっさい許されていない[要出典]。そのため、現在[いつ?]は各地のボランティアの手によって、無償で気功動作の指導が行われている[要出典][註 3]。『転法輪』は市場相場より安価で提供され、お布施の類も一切ない[18][註 4]。一方で今 (1999, p. 35) は、執着しないかぎりにおいては利益を得ることを拒んではおらず、「いわば『社会主義市場経済』をある意味で肯定している」と指摘している[註 5]。
こんな素晴らしい教えが7000万人にも影響したらそりゃ恐れるだろうな政府は
今度の参院選、コンテンツ系の表現の自由保護に関して勢力的に活動してくれている候補者が多くて嬉しい。
この分野では知名度トップクラスの赤松健と、同じく自民から藤末健三。
表現の自由イシューに関してはマイナスイメージが広まっている立民からも栗下善行が出馬。
俺はよく知らんが、維新の松浦大悟って人もそっち系に強いらしい。
(敬称略)
こうやってコンテンツを守ることをメインイシューに置いた政治家が何人も出てきてくれるとは、良い世の中になったもんだ。
政治全体で見たら目くそ鼻くそを比べ合うような悲しい選挙になりそうだし、あくまで限定的なジャンルの話ではあるけれど、ともあれ。
唯一の懸念は投票先がバラけることで一人一人の票が伸び悩んで共倒れになることだけど、そのリスクはまあ民主主義なら仕方ないことか。
表現の自由問題は54万票獲得で山田太郎議員が有名になった時よりもさらに加熱していて、所謂"オタク票"はもっと伸びると思うし、一人でも多くの表現の自由系議員が国会に立ってくれると良いなぁ。
実はCLANNADは、ゲームもアニメもモロに増田の直撃世代。
ゲーム版については、オタク男子がエロゲに最も興味を示す学生時代に自分がLinux一辺倒で、就職後はWindowsを入手したもののゲームを遊ぶ時間がなく…という流れによる。
(CLANNADがエロゲじゃないのは知っててPCゲーに手を出すきっかけがなかったという意味)
アニメの方は、ストーリーのペースが当時の自分にはダルかったこともあり、1期の3話くらいで切ってしまっていた。
とはいえ「CLANNADは人生」というミームが長らく語られてきたこともあり、ずっと気になってはいたんだよね。
(今となってはインターネット老人会でしか通じなくなりつつあるけど)
そこへ、今年になって某人気VTuberが同時視聴するというではないか。
このVTuberは陽キャでしかもお育ち良さそうというか普通にいいとこのお嬢様っぽい上に、実家とのつながりを活用して役者の道を志していた模様。
それもあってか、アニメやゲームのシナリオに対する考察やキャラの解釈における、頭の冴えが半端ない人だったりする。
つまり、アニメやゲームを並走する相手としては適役すぎて申し分ないので、これは乗ってみるかということで、本放送から実に15年くらい経ってから、ようやくきちんとチェックできた。
「確かに紛れもなく名作で、面白さも感動ポイントもいっぱいあったけど、自分には合わないかな」
という感じ。
ゲーム未プレイなうえにアニメのまとめ方が端折りすぎなきらいもあって、今でも正直なにがなにやらではあるんだけど、要するにこれって
「主人公の岡崎が周りの人物との交流を通じて善行を重ね、関わった人達の人生を好転させた結果、バッドエンドからタイムリープして救われる」
ってことでしょ?
まあ、シナリオとか作者の思想としては否定しないけど、正直個人的に全然感動しなかったというか…。
なので、ここまでおよそ4クール50話近くもあって、しかも「トゥルーエンド」に入るのが2期14話からというのに「なげーよ!」と脱力したのも事実。
途中メインの登場人物たちのエピソードで感動したときは「ここまでじっくり話を積み重ねてきたからこその感動なんだろうな」と思ってたけど。
一応、総集編のラストシーンのお陰で、なんとも余情あふれる幕切れになったので、終わりよければということで名作みたいな。
2期のOPとEDが、最後まで見ると感動的な歌に化けるのも良かった。
あと、ゲームではアニメと比較してもっと主体的に動かざるをえないというか、プレイヤーとしてここに至るまで何度もいろんなキャラでエンディングを迎えた後でのトゥルーエンドだろうから、感じ方は相当違うんだろうけど。
でもそのためだけに今から100時間以上かけてゲームをフルコンプするかというと、ちょっと躊躇する。
ちなみに「途中メインの登場人物たちのエピソードで感動した」と書いたけど、一番のお気に入りはことみ。
最後は感動を通り越して美しさすら味わってしまったし、この美しさはおそらくアニメじゃないと表現できないと感じた次第。
あとは1期で、ただテニスを観戦しているだけなのに、智代・杏・椋が朋也を諦めるシーンも、わずか4分で各キャラの心情が、語らずして手にとるように分かるのがあまりにも凄すぎて痺れた。
そういうの含め、流石は在りし日の京アニ作品だけあって、全体的にシナリオも絵も安定していたのはgood。
そのうえで異常に作画が優れていた回がいくつかあって作監・作画スタッフを確認したら、後年けいおん!で名を馳せた堀口悠紀子氏の名前があり、ちょっと感動してしまった。
あと、ロケハンもこの頃からしっかりしていたようで、主人公たちが通う学校の施設、学校までのアプローチ、駅、公園、橋と、印象的な場所がいくつも実在するのは流石。
ということで、京アニの復活を祈って筆を置くことにする。
絵にもテキストにも一切描いてないことを、何なら作者が否定していることを読み取る表現規制派が存在することはおそらくこの話題に興味ある人達は認知していると思うけど、表現規制派はこの超解釈能力者をどうにかしようっていう気にはならないのだろうか?
いやだって表現規制とか言論弾圧とかそういうレベルじゃなく、表現していないことを表現していると主張して規制しようとしてるわけだぞ?
あんまりこういうことを言いたくないけど、そういう心の障害を抱えているんですか?と言わざる得ないでしょ存在しないものが見えてるんだから。
百歩譲って表現規制派へ理があると仮定しても、なぜそのような存在しないものを見ている人たちと協調して動けるのか一切理解できない。
疑わしきは罰せずなんて言うけれど、疑わしいどころか表現すらしてないことで罰しようとしてるわけで、そんな連中が味方であって良いの?どう考えても表現規制運動の足引っ張ってて、表現規制派の信用を失わせることにしかならないはず。
例えば先日、増田に赤松健擁護のエントリが作成されていたけど、ココに付いてるブコメにびっくりだよ。
くりした善行氏「私が来た!」。ああ、赤松氏支持の方々って本人同様「自民党に非ずんば人に非ず」って思ってるクチ??
https://b.hatena.ne.jp/entry/4719697204022343714/comment/rosaline
元増田そんなこと一切書いて無いよね?えっマジで何処からそんなことを読み取ったの?
ほかのブコメにそういうこと言ったやつ居たのか?と思って確認しても居ないし、この人は一体どこからそんな情報を読み取ったんだ?
本人同様って何???ちょっと・・・いやちょっとじゃないな、このエントリに付けるブコメとしては明らかにおかしすぎるだろ。一体何が見えてるんだ・・・。
「これも表現の自由だろ?優しく許してやれよ。自分にもこのブコメ意味不明だが当人にしかわからない苦労が色々あるんだろ」って言われたら何も返せなくなってしまうんだけどさ、世の中広いよねぇ・・・。
代わりに投票できるようなフェミ思想に染まってない表現の自由を担保できる人教えてよ。
赤松に投票しないってなっても国民民主か他の自民のやつ投票するだけだから。
なぜ「フェミ思想に染まってない」が要件なのか、分かりやすく説明して頂けますか? フェミニズム的な言説を封殺することは、「表現の自由」の侵害に直結すると思われますが。
#マジレス
別に自由に表現してればいいんじゃない?私は投票先には選ばないので除外条件にしてるだけですが。
思想信条の自由も当然尊重しますよ?私は投票先には選びませんが。
まあインターネットフェミニズムを批判するようなちゃんとしたリベラルの方なら支持の対象ですよ。
さんって立憲に居るのね。Twitterで見かけたことあるわ。良いじゃない。
ネガキャンしてないで「くりした善行」さんを応援しようってポジティブキャンペーンしてくのがいいよね。
最初から「神は自らたすくるものをたすく(西洋)」とか「人事を尽くして天命を待つ(日本)」といわれているとおりなんで、
学校の内申書みたいなものとしての善行を気にしてるならいちいち神のご機嫌を気にすることなく学校でいい人を演じればよい。
子供のうちは「迷惑をかけずに善く生きる」ということを気にするけれども、それは親の保護の下にいればの話。
社会にでてみれば善悪は混とんとしており、ただ助け合い生き抜くことだけが人としての善性であることに気づく。
西洋のキリスト教の神はたとえば巫女としてのアイドルのようなもの。この人にだけは恥じないように生きようという指針である。その後ろ盾になっているのがユダヤ教で、選民思想でいい子ちゃんだけ蘇生させるといわれているがこれは元増田のいうとおり現代ではほぼ破却されている。
日本の神は善悪ない。たとえば神道の総本山は天皇だが、戦争のあと天皇は神ではなく人かつ犯罪者ということになった。
仏教の仏にいたっては、悪人こそ悟れるし、全員100年経ったら骨になっちゃうからどうあがいても同じとまでいう。
つまり、サンタさんのようなご褒美は大人にはないしサンタにご褒美を請求するためのいい子ちゃんな善行も必要ない。
ただ自分がそうしたほうがよいとおもったことをするのが善だ。神はスマホより詳しくお前を監視したりはしない。
カノジョの前でいいかっこしたくてコンビニの箱に釣りを寄付するのは、自分(と、もしかしたらカノジョ)がそうしたほうが気分がいいからする。
それで充分な善なのだ。
いわゆるOA分野とか、コンピューターを主に使用する作業の、自動化が流行っている。
製品で言えば、RPAとか、ノーコード、あるいはSaaSやパッケージソフトとか。
OfficeについてるVBAを使うとか、Pythonでスクレイピングとか、そういうのも併せて。
いわゆるマクロ的な何かで、タスクを自動化する、という考え方だ。これは昔からあったとも言えるし、製品や方法論がここ数年、急激に増えて、環境が激変したとも言える。
さて、個人が、その責任の範囲で、自己のタスクを自動化するのは、組織が禁止しているやり方でなければ、それについてとやかく言うつもりはない。
問題は、組織内部での自動化の推進や、それを補助するコンサル、あるいはソフトウェアのメーカーやベンダーだ。
すべてが駄目というわけではない。
「自動化で単純な作業から解放されて、クリエイティブな作業をすれば良い」
言い換えよう。今挙げたようなことを言う(書く)メーカーやベンダー、あるいはコンサルから個人まで。それらは皆、地雷だ。関わってはいけない人だ。
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何故か。それは彼らが現実を見ていないからだ。そして、その現実を見ていないことが、軋轢を生むからだ。もしかしたら現実を見た上で、しらばっくれてる人も居るかもしれないが、タチの悪さは変わらない。
困ったことに、彼らの言う「単純作業から解放されてクリエイティブな仕事を」は、一見、理想的な環境に見えるのだ。
いや、実際、理想的ではあるのだ。現実的でないという問題さえ目をつむれば。
「世の中には2種類の人間がいる」という、使い古されたレトリックを、労働分野に応用してみよう。
すなわち、言われたことを淡々とやり続けることを好む人と、抽象的な指示や課題に対して、具体的な対応を行うことを好む人だ。
もう少し具体的に書けば、「言われた作業を淡々とやる人」と「創意工夫して結果を出そうとする人」になる。
さて、前者の、言われた作業を淡々とする人にとって。自動化は、己の存在意義と競合する。つまり、自動化されてしまったら、仕事がなくなる。
意識の高い社員や、コンサル、ソフトウェアのメーカーやベンダーの言うような「クリエイティブな仕事」なんて興味がない。
そういう人を「意識が低い」「生産性が低い」と卑下するのは簡単だ。だが、それは何も事態の解決にはつながらない。
単純作業の自動化がなされた時、その人たちに襲いかかるのは、「クリエイティブな仕事」という、安定した手順も方法論もなく、それでいて成否は存在する、という苦痛のような仕事への移行なのだ。
そして少なからぬケースで、単純作業を淡々と行うことこそ仕事、と捉え、そう働いてきた人は、クリエイティブな仕事とやらでは成果が出せない。ただ苦しむだけになる。
おそらく組織としての生産性は上がるだろう。それをもって成果とするなら、それはそれで矛盾はない。
ただし「働き方改革」のような題目を掲げて、自動化を進めていたのであれば。それは善人面をして、人を地獄に蹴り落とす所業だ。本稿のタイトルで「信じるな」と書いたのは、まさにここにある。
この話には、日本の雇用に関する、法律、行政の態度や、判例なども影響してくる。
前述したような、単純作業を奪われ、苦痛に満ちた苦手な仕事にたたき落とされた人は、どうなるか。
第一に、会社を去るという選択肢はある。だが、このご時世だ。今と同等の条件すら見つかるかどうかは怪しい。
それを自業自得と嘲笑するのは簡単だ。改善を肯定し、生産性の向上を是とし、発展を求める価値観からすれば、矛盾はないのだ。それが倫理的に正しいことなのかは、私にはわからないが。
第二に、苦しみながら会社にしがみつくという選択肢もある。正規雇用の場合、これが簡単に成立してしまう。「クリエイティブな仕事」をさせた成果がボロクソに悪くても、本人の意図的な手抜きなどがない限り、会社は簡単には社員を解雇できない。
はて、本人も苦しんでいることが多い、機能不全の社員を雇用し続けることが、生産性の向上や、働き方改革、ワークライフバランスなどにつながるのか、私は甚だ疑問だ。
つまり、業務の自動化、省力化を目的にするのは、それ自体が破綻を招きやすいのだ。それで浮いた人的コストを、どのようにするか。適材適所で別の仕事をあてがえるのか、あるいは解雇して雇用コストを削減するのか。
どうあれ、簡単なことではない。配置転換の教育コストを見積もるのは簡単ではないし、非正規だからと大量に解雇すれば、それだけで負の風評が生まれたりもするのだから。
人は、自分と異質な人に対して、理解が及ばないことがある。これ自体は仕方が無いことと言える。誰しもがわかり合う、なんてのは現実的ではないからこそ、フィクションで度々取り上げられる題材なのだ。
しかしながら、業務の自動化を改善と捉え、自身が単純作業を嫌う人の中には、少なからぬ割合で、単純作業を延々と行い、その労働時間を以て成果となす考え方の人を、理解していない、あるいは想定していないケースが多い。
その不理解や想定不足は何を生むのか。自動化の導入失敗や、同僚からの強い反発だ。決してプラスの結果ではない。その現実から目を背けてはいけない。
だからね。
「単純作業から人を解放したい」とか「空いた時間でクリエイティブな仕事ができるようになる」なんて、手放しで言っていたら。
その人たちを、信じちゃあいけないよ。
蛇足。
筆者は、別に、「単純作業を淡々とやることで鬻ぎたい人」を肯定するつもりはない。
少なくともデスクワーク、パソコンでの仕事等であれば、そういった人は滅びるべくして滅びるだろうと考えている。
だが、彼らに引導を渡すのは、個人や、少人数程度による「カイゼン」的な何かではない。個人や少人数による「カイゼン」が引き起こすのは、せいぜいが内部分裂や、一部の人に苦痛を与えるだけなのは、前述した通りで。
引導を渡す、という次元の話で言うと、おそらくは、そういった非効率的な人員を抱え込んだ組織の崩壊(企業で言えば倒産など)のような、圧倒的かつ、個人で抗うことに意味がない流れになると考えている。
もちろんその場合、多くの社員が路頭に迷うだろう。クリエイティブな仕事がどうとか言っていられる状況ではなくなるのは明白だ。
そういう未来が見えているからこそ、ミクロな視点でしかモノを見ずに、「自動化で業務を改善して~」「クリエイティブな仕事を~」というおためごかしを唱える人には、関わってはいけないと考えているのだ。
「あの山の向こうが宇都宮ですか」と自転車を押す高齢男性、女子高生2人が一緒に警察署へ(読売新聞オンライン) - Yahoo!ニュース
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.yahoo.co.jp/articles/18f5f425bbe88f51146e2656bd3187d40a7a80b8
高校生二人が認知症の老人に声かけて助けたという良いニュースなんだが
あまりに異常なブコメが書き込まれてそこそこ上位になっててビビった。
ponpon_qonqon
宇女高は栃木最上位クラスの女子高(で気風はかなり自由)なのでまあさもありなん。
認知症の身内を抱えているので「高齢者は死ね」とかいうブコメが出るのを警戒してげんなり
2022/05/03
一体何なのこれ?
まして「宇女高は栃木最上位クラスの女子高(で気風はかなり自由)なのでまあさもありなん。」
って一体何?
「この子たちが認知症老人を助けたのは偏差値高い自由な気風の学校の子だったから。
偏差値低い校則厳しい学校のガキだったらわからんかったけど。」
みたいなこと示唆してるんだよね?
それ以外読みようがない。
ponpon_qonqonが嫌悪もしくは見下すタイプの学校像は何となく見えてくるんだけどさ
「そういう学校の奴は認知症老人を助けないんだ」みたいな認識って率直に言って差別意識だよな?
しかもそんなてめえの差別心をわざわざみんなが見てるところに書く意義ある?
それにつけてもこの「まあさもありなん」って
心底気色悪いんだが。
なんだろう、
せっかくのいいニュースに
お手柄学生二人への謎の上から目線とかゲロみたいな偏差値主義とかおっぱじめるやめてもらっていいですか?
「はてなは学生時代ちょっと勉強できたけど社会適応には失敗した元秀才現クスブリの限界集落」
とか言われんだよ。
そんでまた腹立つのがさあ
心温まるニュースにてめえのこの意味不明レベルにキッショい上から目線の偏差値主義のウンコブコメをひり付けておいて、
いやこいつマジですごいだろ。
突然飛び出てきてひとしきりウンコをひり散らかして悪臭振り撒いたあと
「ウンコする奴が現れることを警戒させられてげんなり」とか言ってんの。
いやいやいやいや。
ウンコブコメ書くのが加害であればお前は一方的な加害者サイドだからな?
・謎の目線で女子高生の善行を偏差値面から「まあさもありなん」と評価。
・誰も聞いてないのに唐突に「認知症の家族を抱えている」などと自分語り。
・誰もそんなこと書いてねえのに「高齢者は死ねとかいうブコメが出るのを警戒してげんなり」などと
勝手に自分で差別発言を言い出して勝手に自分でげんなりして被害者ヅラ。
本来ならみんながいい気分で読めるはずのこんな罪のないニュースで
よくまあここまでウンコひり散らかせると感心するわ。
これもう完全に異常者だろ。
こいつは一体どういう了見で日々生活してるのだろうか
ひょっとしてふだんからこうか?
ことあるごとに不要で不快なクソみたいな言動を繰り返しつつ「自分は被害者だ」と固く信じ込んで一人で怒ってる系の
町内に一人くらいいるあのタイプのパーソナリティで日々を暮らしてんのか?
げんなりとか言いたいのはおめーの周りの方だよ。
で、AKBオタの同僚がAKBとHKTについて超早口でなんか言いはじめた。
けども、AKB関係に興味あるのはそいつだけでやや沈黙が流れた。
微妙な雰囲気を変えようと若い女子社員が「乃木坂の曲とか私好きですよ!」と言ったんだ。
にも関わらず、AKBと坂道は違う!と発狂してその子にめっちゃ説教し出した。
ひと通り捲し立てたあと、女子が物知りなんですねとおもっくそ社交辞令テンプレ返をしたんだ。
だが、オタクは「君が知らなさすぎるんだよ、これからもっと教えてあげるから。今度CDあげるから聞いてみて!」とか言ってた。その時の顔は最高にキモかった。心底、他人の誤りを正した善行を積んだと思ってるように見えた。
過去に何度も語ってきた通り、テレビに噛り付いてる連中にとって、CMなんてのは不快な邪魔者に過ぎない。
CMの効果も、あんなふうに繰り返し繰り返し見せればもちろん下がるし、むしろ目障りになり、逆効果になることが、心理学実験で明らかにされている。。
実は、殆どのCMがターゲットにしているのは、奥さんの横でテレビを見ている旦那だ。
それが、20歳から34歳の女性を主要ターゲットにするという、F1層というデタラメの真実であり、女向けのはずなのに、やたらエロいだけの下着CMが垂れ流される理由である。
こうしたエロ下着CMは、実は、男に、下着を、妻やキャバ嬢にプレゼントさせるよう買わせることが狙いなのだ。
だから、マスゴミは、わざと男にとって面白くない、場合によっては不快でさえある番組だけを流し、自分からテレビを見たくないようにして、チャンネル権を妻に渡させるようにする。
その内容は、ひたすら糞女を甘やかし、増長させながら、金持ち権力者以外は恋愛市場から排除し、俺たち権力者にはただ全てを捧げて奉仕し、都合よく捨てられても恨むな、未練なんて抱いたらストーカーとして殺されても仕方ない云々という内容であり、日本の異常な少子化やセックスレス、恋愛恐怖症は、全てこいつらのせいで起こっている。
結局のところ、「テレビは情弱」連呼工作員キャンペーンも、最初は同じことだったのだ。
そもそも、今、結婚できている奴らは、みんな、テレビなんか全く見ないお陰で、恋愛恐怖症など無縁で、金や容姿、特に七割は金のお陰で女に選ばれただけの勝ち組だ。
そういう男が、彼女と同棲したり結婚をしてから、横目でテレビを見て、そのCMの商品を買うせいで、負の連鎖が起こる。
となると、自分たちテレビ信者以外だけが結婚しやすくなるため、連中は、工作員を大量動員して、それ以外のメディア、主にネット上でも、もっと酷い糞フェミプロパガンダを垂れ流すようになった。
これによって、テレビは面白くないけどネットはもっと糞だ、ということになり、わざわざテレビは見ないが、女の横から見るテレビへの好感度を上げよう、というわけだ。
小説も、マスゴミ代理店の工作員が持て囃されるようになってから、同じ工作が行われている。
こいつらの小説の内容は、ひたすらエリート金持ち権力者が、他の男を侮蔑するだけの内容だ。
女は金持ち権力者だけに惚れて当然、金持ち以外は恋愛も結婚もするな、死ね、という内容しか書かれてない。
その内容は、ほぼ全て、代理店のエリート社員やエリート編集者たちが、集合知によって作っている。
それを、メディアミックスで宣伝しまくり、バカ女と、流行りものに飛びつくだけのバカ男に無理やり売れるから、アホ出版社も、自分たちの男性一般への好感度がダダ下がりし、長期的には、誰も本なんか読まなくなって損するだけなのに、こいつらを持て囃した。
というか、大手出版社なんかも、テレビ局と繋がるマスゴミの一角なわけで、そこにいる奴らは、テレビ局の上級国民の血縁者なので、本なんて売れなくても良い、自社がちょっとくらい傾いても良い、自分たちがテレビを中心にマスゴミ支配できれば良い、ということなのだろう。
2000年代前半においては、絶対に恋愛市場から用がないと思われていたオタク男だけは持ち上げられまくった。
なんで、恋愛市場に縁がないかというと、宮崎勤事件などで、ボロクソに貶めて叩いてきたからだ。
それ以降、本当に結婚できないオタクグループができあがり、一気に出生率がダダ下がりした。
なのに、ただ、オタク男子たちが、叩いてから持ち上げられたというだけで、それ以外の男とキモオタ女は、オタク男子にだけ被害妄想と逆恨みを拗らせた。
イギリスが、その植民地で行っていた、分割統治そのままである。
こんだけオタクに都合が良く書かれているんだから、スタッフや著者がどんなエリートイケメンだろうが関係ない、きっとキモオタのゴーストライターが居るに決まっている、と短絡的に考えるわけだ。
繰り返すが、いるのはただ、代理店や編集者の、下劣で、最低で、生きる価値のない、ゴミ犬以下の、こいつらを殺すことが最大の善行となり、こいつらを人間扱いしたり少しでも親切を行えばそれだけで永遠の破滅に定められるようなカスボケエリート社員どもだけだ。
ところが、あまりにも持ち上げすぎたために、オタク男子も恋愛するようになった。
それが、2006年以降の出生率上昇の一因である。(もう一つ原因は、ポルノの過剰供給で、ブスとも結婚できるようになったからだ)
だから、上級国民は、いきなり、そのオタク男子を、手のひらクルーで叩き出すようになった。
それだけで、逆恨みを拗らせていた、それ以外の底辺男たちは大喜び。
突然、オタク男子も異常に貶められるようになっただけで、自分たちも、持ち上げられるどころか、同じ底辺男として一緒に貶され、ブス女なんて、最早ほんの少しの同情の価値もない身も心もただのブスだとバレてしまい、今や彼女らと結婚してやるものなどいないのに、である。
日本の男女は、そんな風に、マスゴミ上級国民の手のひらの上で、簡単に対立煽りされる真正のバカしか居ないから、こんな酷いことになるのである。
もう、日本には、右翼も左翼も在日もないのであり、このマスゴミと、そこにいる上級国民どもだけが、日本国民全ての敵なのであり、こいつらの息の根を完全に止めないと、それ以外の男たちは、まともな生活も出来ないのだと、いい加減気付かないといけない。
特に、現在、テレビの最大のスポンサーである、三菱のようなクソ企業と、三菱グループの安部麻生のような、自民党のクズ政治家どものせいなのだと。
ちなみに、マスゴミが、自分らのコンテンツやニュースを炎上ステマするのは、叩かれている物ほど見たくなる心理・カリギュラ効果だと、下請けの奴隷には説明されているが、本当は、ただ、長期的に男がテレビを見れないようにしたいだけ。
というのも、カリギュラ効果っていうのは、短期的には効果はあっても、その結果見てつまらない、やっぱ不快ってなったら、「やはり叩かれてる映画は叩かれてるなりの理由があるなぁ。見なきゃよかった」となって、どんどん誰も見ないようになるからだ。
大体、語の元になった『カリギュラ』って映画自体、ヒットはしたけど、その後の類似映画は全て大コケして、ハリウッドのエロ映画なんて、もう誰も見なくなった。