はてなキーワード: 死の恐怖とは
増田は卑怯なメメント・モリというタイトルの童話を知っているかな。
昔々、ある小さな村にピエールという青年が住んでいました。彼は何よりも死を恐れる臆病者でした。村では、「メメント・モリ」という言葉がよく語られ、生を大切にする教えとして親しまれていました。しかし、ピエールはこの教えを単に恐ろしいものとして捉え、どんなことをしても死を避けたいと考えました。
ピエールは、自らの恐怖心を克服するため、村の賢者を訪ねました。賢者は彼に、「本当の勇気とは死を受け入れることにある」と言いましたが、ピエールはその言葉に耳を貸しませんでした。代わりに、彼はある謎めいた魔女のもとへ出かけ、死を避ける魔法を求めました。
魔女は、ピエールに不死の薬を授けることを承諾しましたが、その代わりに彼にこう告げました。「卑怯な行いには代償がある。この薬を飲むと、あなたは誰にも愛されなくなるでしょう」と。しかし、ピエールは恐怖に駆られ、魔女の警告にもかかわらず薬を飲んでしまいました。
不死となったピエールは、確かに死の恐怖から解放されましたが、徐々に人々の記憶から存在を消し去られるようになりました。彼は友も家族も失い、やがて誰にも見られず、知られることのない存在になってしまいました。孤独に苛まれる中、彼は初めて「本当の意味での死」を理解するようになったのです。
最後にピエールは、再び賢者を訪れ、全てを告白しました。賢者は静かに微笑み、「人は卑怯な手段によって、本当の生を得ることはできないのだよ」と告げました。ピエールはその日から、自らの命をかけがえのないものとして、他者と分かち合うことを決意しました。
新卒で挫折して休職中、全部自分のせいにしたら頭がおかしくなりそうだったから、毎日8時間他責をしていた。
小さい頃に虐待を受けて、義務教育も不登校で、なんとか資格をとって社会に出ても、求められる仕事はできなかった。
人一倍早く出勤した、残業した、家でも勉強をした、でもその場でパニックになり水の泡。
最初は親切にしてくれていた同僚からも、あの人は障害者じゃないかと噂をされた。
噂が広まってからは問題なく出来ていた業務も疑いの目で見られ始め、見張られていると感じて緊張でさらにミスが増えた。
こんな育ちで障害かもしれない自分が何を言っても信用がないだろうと自分が一番分かっていたので、何も言えずただ謝り、次からはこうこうして気をつけます…!と反省までした。
大人なのに、ありがとうとごめんなさいくらいしか出来る事がない。
努力しても要領の悪さと一度抱かれた不信感は埋められず、周りに迷惑をかけてしまった。
一年半で辞めた。
障害の事を調べる内に、自分を虐待して出て行った母親も発達障害だったんじゃないかと疑った。(あらゆる特徴が一致していた為)
その時に、堰き止めていた思いが一気に崩れた。
母親自身も両親に虐待を受けていたから、繰り返してしまっても仕方ない。
人より出来る事が少ないのも全部自分のせいだ。
親の事は関係ない、自分がとにかく頑張れば、普通の人生になるはずだーーーと思って
信じて生きてきたのに。
今まで困ってきた事は全部親のせいだったのか。
生まれた時から頭が変だったんだ、だから頑張っても上手くいかなかったんだ…今からどうやっても、障害だったら治らないじゃん…
絶望。
産むな!!!!
学もない貧乏が、被虐待児が、障害者が、責任とれない奴が、産むなよ。
中出しセックスして、結婚出産を自分が何者かになるための道具にして。
子どもに障害なすりつけて、虐待連鎖で自己肯定感までめちゃくちゃにして。
まともに1人育てられないのに兄弟がいないと将来可哀想〜!って偽善で兄弟ポンポン産んで結局逃げて。
自分の人生を彩るために産んだり、病気や障害の可能性を深く考えずに産む人間が全員、気持ち悪くなった。
だんだん自分の事を飛び越えて、虐待やヤングケアラーの問題、遺伝する病気や障害、兄弟児の苦悩、いじめ、貧困、戦争、性犯罪がある世界に産む人間達、ニュースやSNSで話題を見るたびに心がぐちゃぐちゃに掻き乱されて全て許せなくなった。
どんどん自他の境界がなくなって、もう人間自体が居なきゃいいとすら思った。もっと少子化になって滅亡したらいい。優生保護法が続いていれば自分は生まれずに済んだのかもしれない。安楽死の制度が出来て辛い人がどんどんいなくなったらいい。
死のうとしても直前で怖くて死ねなくて、失敗して余計に苦しむのも怖かった。
こっちは産んでくれと頼んでない、親が勝手に産んだのに、自分で本能的な死の恐怖に打ち勝たないと死ねない。
産みたい人が産む自由は尊重され賞賛され、自殺は非難される、楽に死ぬ手段もない。
怒りの行き場がなくSNSで毒親を叩き、レスバに時間をついやした、同じ思想の人からいいねをされて一瞬スッキリした。
自分の主張は正しいと思って、スッキリしたはずなのに、それを繰り返すたびにさらに自分の存在が気持ち悪くなって自分以外も全員気持ち悪くなって、苦しくて苦しくてたまらなかった。
それでも街中で知らない人とちょっと話したりお礼を言い合ったり、そんな事が不思議とうれしかった。
バイトして仕事覚えようと悩んでいる方がまだましだし、たまに感謝されたら普通にうれしかった。
(まぁスキルなしの障害者でも出来る仕事ってなったら毎日ゲロとかマナーおかしい人糞掃除するしかなくて、よく変な人にも話しかけられてキツくてやめてしまったけど。そんな仕事に同性の若者1人もいないし、たしかにもし健常者だったらこの仕事しないわ!ガハハ!ってまた落ち込んだ)
脱線したけど、結局あんなに社会が許せなかったのに実際に顔が見える人と会った時には、今生きてるみんなが幸せだったらいいなと思ってしまった。
親子を見ても文句を言いたくはならず、障害者やホームレスの様な社会貢献度が低そうな人を見ても、この人も死にたいだろうなーと勝手に決めつけたり、その人を産んだ人を責め立てようとは思えなかった、もし目の前で死のうとしてる人がいたら普通に心配になるとも思う。
結局は他人が許せないんじゃなくて、自分が自分の存在を許せなくて苦しかった。
人に傷つけられても、相手がそうした背景を思うと文句を言えない、その人なりにそうした理由があったと思うと責められない。
だからしばらくして親に会った時も、何も怒れなかったよ。
絶対許さないし、心を傷つけてやる!と思っていたのに、泣いて謝られてたら不思議と笑って許してしまった。
母親が受けた虐待を話されても、ただひたすら酷いね、辛かったねと聴いていた。
こっちの方が泣きたかったけど。
でも自分自身の存在を許したいから、形だけでも親を許す事にした。許さずに傷付ける事を言っても、またスッキリするのは一瞬だろう。
自分が追い詰められて苦しかったのに人を追い詰めるなんて、もっと自分が嫌いになりそうだった。
思えば親にも社会にも認められなかったけど、優しい人だとか真面目だとか褒められた事だけはあった。それがあったからこそ、人に優しく真面目に頑張れば大丈夫!と根拠のない希望を持てていたんだと思う。
自分の中で唯一認められた長所を捨ててまで親や他人を責めても、考え方を変えさせるなんて出来やしない。誰に理解されたって苦しさは消えないし、自分が生まれなかった世界線になんて行けない。
どうせ死ぬ勇気もないなら、せめて人に好かれる行動だけとってた方がお得だと決めた。
たとえ社会に不必要でも、そのマイナスを優しいとか良い人だとかで0.1でも誤魔化せるならそうするしかない。捻くれ障害者なのに最低限のマナーや愛嬌まで捨てたら最悪のまま終わりだ。
自分の為に生きれなくても、現実にいる目の前の人に喜ばれる事があるならやっていこう。
弱者の立場や優しさを都合良く搾取されるかもしれないけど、単に褒められたら気持ちがいいから、人生気持ち悪くならないで済むわ。
シンプルに目の前の人にありがたがられたいよねー!生きる意味あるじゃんって一瞬錯覚できるから!偽善最高ー!
※他責を辞めようという内容では無いです。
自分も苦しかった時はそうしないと生きれなかった。今も気にしない様にした気でいても、具合が悪い時は心の中で他責に逆戻りしているから。人はそう簡単に変わらない。
※産み育てる事に様々な懸念や責任が伴うという意見を訴える事は意味ある事なので、正しく反出生を訴えている方の非難ではありません。
https://anond.hatelabo.jp/20240821144508
5~6歳の頃、親といっしょにNHK特集でガンの番組を見ていた時に、フツフツと死への恐怖心が湧き上がってきた。
親に「死んだら僕はどうなるの?」と泣きながら訴え困らせた記憶がある。
今でも覚えているけれども、これは死というわからないことへの闇雲な恐怖ではなく、芽生えてきた自己の喪失というしっかりとした形ある恐怖であった。
以来、忘れたふりをしているけれども死への恐怖はヒタヒタと自分の背後をつけてきており、50近くになっても死は怖いという思いは変わらない。 ※関係ないがヒタヒタに死が隠れてるのおもろいね
しかしブコメなどを見ると死の恐怖は忘れるものなのか、受け入れて当然なのか、大人が死を怖いというのは恥ずかしいみたいな空気になっていて草。
タナトフォビアはマイノリティなのか、そうかそうか。
本当に???
忘れたふりしたり怖くないふりしているだけでしょ?本当は怖いでしょ???
まあ僕は言いますよ、死ぬのは怖い。アイデンティティの喪失は未だに怖い。
話は変わるんだけど、若い頃、性欲が無くなるのは全く想像がつかなかった。
年を取ると、性欲があってもちんちんが立たなくてショック、という事になるのかと思ったのだが(もちろんそういう人もたくさんいるとは思う)加齢による性欲の減退はもっと違った形でもやってくるようで。
つまり性欲ギラギラの状態が空腹状態だとすると、年と取ると腹6分みたいな状態の時期が結構多くなってくる。
時々はめっちゃ空腹になるけれども、まあ食わなくても大丈夫かみたいな時期が増えてきて、この先どんどんとそういう時間が増えてくるんだろうなと想像している。
以前は毎日のように性欲に振り回されていたのだけれども、そういう昔を振り返るとアラアラどうしたのそんなにという感じで、
同じように若い頃と比べて、死を怖がり方もまあ変わっては来ていて、仕方ないのかなという諦めに近い気持ちにはなっている。
この先年を取るに連れ、性欲と同じく生に執着する気持ちもなだらかに減退していくのでは?という淡い期待はある。 ※関係ないが執着するものが生と性なのおもろいね
運良く80、90と年を重ね、それでもまだ生に執着する気持ちがあるとしたら、ソレはそれだけこの世が素晴らしかったので名残惜しいという気持ちで納得するしか無いなぁ。
https://anond.hatelabo.jp/20240821144508
5~6歳の頃、親といっしょにNHK特集でガンの番組を見ていた時に、フツフツと死への恐怖心が湧き上がってきた。
親に「死んだら僕はどうなるの?」と泣きながら訴え困らせた記憶がある。
今でも覚えているけれども、これは死というわからないことへの闇雲な恐怖ではなく、芽生えてきた自己の喪失というしっかりとした形ある恐怖であった。
以来、忘れたふりをしているけれども死への恐怖はヒタヒタと自分の背後をつけてきており、50近くになっても死は怖いという思いは変わらない。 ※関係ないがヒタヒタに死が隠れてるのおもろいね
しかしブコメなどを見ると死の恐怖は忘れるものなのか、受け入れて当然なのか、大人が死を怖いというのは恥ずかしいみたいな空気になっていて草。
タナトフォビアはマイノリティなのか、そうかそうか。
本当に???
忘れたふりしたり怖くないふりしているだけでしょ?本当は怖いでしょ???
まあ僕は言いますよ、死ぬのは怖い。アイデンティティの喪失は未だに怖い。
話は変わるんだけど、若い頃、性欲が無くなるのは全く想像がつかなかった。
年を取ると、性欲があってもちんちんが立たなくてショック、という事になるのかと思ったのだが(もちろんそういう人もたくさんいるとは思う)加齢による性欲の減退はもっと違った形でもやってくるようで。
つまり性欲ギラギラの状態が空腹状態だとすると、年と取ると腹6分みたいな状態の時期が結構多くなってくる。
時々はめっちゃ空腹になるけれども、まあ食わなくても大丈夫かみたいな時期が増えてきて、この先どんどんとそういう時間が増えてくるんだろうなと想像している。
以前は毎日のように性欲に振り回されていたのだけれども、そういう昔を振り返るとアラアラどうしたのそんなにという感じで、
同じように若い頃と比べて、死を怖がり方もまあ変わっては来ていて、仕方ないのかなという諦めに近い気持ちにはなっている。
この先年を取るに連れ、性欲と同じく生に執着する気持ちもなだらかに減退していくのでは?という淡い期待はある。 ※関係ないが執着するものが生と性なのおもろいね
運良く80、90と年を重ね、それでもまだ生に執着する気持ちがあるとしたら、ソレはそれだけこの世が素晴らしかったので名残惜しいという気持ちで納得するしか無いなぁ。
ただ戦ったところでお前は負ける。
それは避けることが出来ない。
野生でコモドドラゴンと素手で戦って勝てる人間などこの世にいない。
そして逃げ出したところで人間の速度ではやすやすと補足される。
というかコモドドラゴンがお前に襲いかかったということは、それは既にコモドドラゴンの間合いなんだ。
走って逃げるとかどうこう出来る段階ではない。
奴らは非常に慎重に獲物に気づかれないように近寄り、必中一撃の間合いになるまでは攻撃しないのだ。
だからお前が逃げようとしても背後からカブリとされて丸呑みにされるだけだ。
そう丸呑みなんだ。
獲物を捉えたら生きたまま丸呑みする。
だから野豚なんかが食われたら、ずーーーーーっと泣き喚いている。
すっぽりとコモドドラゴンの胴体の中に収まっているというのに死の恐怖と苦しみを完全に消化されるまでたっぷりと味わうことになるのだ。
コモドドラゴンに野生で攻撃されたということは、もう食われるという運命からは逃れられない。
なぜなら奴らは絶対に食えるという確信が持てるまで攻撃しないからだ。
絶対に食われる。
生きたまま丸呑みにされて。
徹底的に戦うのだ。
どれだけ恐ろしくてもコモドドラゴンの攻撃で傷つき耐え難い痛みを受けたとしても。
ただ、ただ抵抗して戦うのだ。
するとコモドドラゴンは諦める。
生きたまま丸呑みすることを。
つまりはそういうことだ。
臆病に逃げ出そうとした挙げ句に生きたまま丸呑みにされて泣きわめくよりも、
こいつは戦士だ
と認められて殺されてから食われる方がいいだろ?
そのほうがずっと誇り高いと思わないか?
俺は数限りなくコモドドラゴンが獲物に襲いかかる場面に遭遇した(YouTubeとTikTokで…)。
そして、どれもこれも例外なく共通していたのは獲物が生きたまま丸呑みにされるということだった。
野生のヤギ、それもまだ幼さが残る子ヤギが勇敢にも徹底的にコモドドラゴンと戦っているのだ。
おそらくはコモドドラゴンからしたらイージーな獲物であったはずだ。
それがどうだ。何度ももうここまでか…という場面がやってきても諦めず足蹴りを繰り出してコモドドラゴンの顎から逃れたのだ。
逃れた、、、と書いたが決して逃げようとはしなかった、そのヤギは。
やがてコモドドラゴンは諦めた。
丸呑みを諦めてヤギの首筋をカブリとやって殺すことにしたのだ。
コモドドラゴンに殺される。
丸呑みではなく。
宇宙を創り出した存在を「神」として、その「神」が何らかの意思を持っているとしても、宇宙全体から見たら素粒子レベルの地球の人類に何かの興味や関心を持つとは思えないし、仮に「神」が人類に興味や関心を持っているとしても、自分の近所にある神社・寺・教会・モスクに参って祈ることが「神」に自分の思いや願いを伝えることになるとは思えない。
死後の世界があるともないとも言えないし、多分ないんだと思う。あるとしても「念仏を唱えれば極楽浄土へ往生できる」とか心の底から信じることはできない。信じてないんだけど、もし仮に天国や地獄があるなら自分の大切な人は天国に行ってて欲しいな、くらいの気持ちで墓や仏壇に手を合わせる。
こういう心持ちだと、宗教があってもちっとも死の恐怖も和らげられないし、何の救いにもならない。心の底から神や仏を信じられる方が幸せなんだろう。
考えたこともなかったけど言われてみると死の恐怖が和らぐ気がする。
死の恐怖っていっても身体的な痛みへの不安とか夢が実現できない無念さとか色々あると思うけど、自分が死んでも宇宙が存在し続ける虚しさみたいなものもある気がする。
自分は宇宙の中心じゃなくてあくまでモブの一人ってことを受け入れさせられるような、尊厳が傷つけられる感覚。
この部分は宇宙も死ぬってことにしてしまえば、自分が死んだ後も宇宙は存在し続けたとしても、あくまで有限の時間って思えば早いか遅いかの問題だけで皆んな平等。
そもそも自分が死んでも宇宙は存在し続けるっていう前提が証明できないし、論理が破綻しているかもしれないけど、うっすらと納得感はある。
脳や肝臓など(現時点の理解では)大体不可能や一部の臓器を除いて体内の器官を人工化し悪性新生物のリスクを下げ、人類の寿命を飛躍的に伸ばすことを目標としていた。
最終的に肝臓含めた全ての臓器や器官を人工的なものに置き換えることができれば寿命は飛躍的に伸びる。
脳すら人工物に置き換え、記憶や思考のバックアップに成功すれば我々は死の恐怖を克服することができる。
人生の時間が長くなれば、それだけ人生で体験する幸福の総量は上がる。
加えて、基礎医学、臨床医学、分子生物学、計算機工学、ナノサイエンス…
あらゆる分野の研究者による共同研究が前提となっている新しいテーマであり、学問研究の場の閉鎖性や権威とは縁遠いものであった。
当初は治療と並行しながら研究を続けていたが、治療の負担が大きくなったことから研究を辞めた。
研究に専念できない自分がポストに座り続けることに自分自身で納得できなかった。
虚しい。
100年、200年。
いや、500年でも1000年でも生きたい。
自分が通っていた中学校の体育館に入ると、すでに催しは始まっていた。20人ほどの参加者、PA業者、参加者を世話するスタッフなど。中でも、色とりどりの浴衣を着込み踊りの準備をする女性たちが、無彩色な体育館でひときわ目立っていた。
うろ覚えだが、この催しは難病などで将来を悲観した人びとが集団で安楽死を行うものだったと思う。公的サービスの一環なので、このように公立中学校の施設が使われる。安楽死の手段がどのようなものなのかは分からない。
自分はケーブルテレビの撮影スタッフとしてここに来た筈なのだが、現時点でカメラも三脚も無い。機材バッグは片隅にあるが、その中は空っぽで私のカメラは見当たらない。誰かがすでに持ち出したのだろうか。
会場では参加者が朝礼のような横長3列に並び、スタッフの説明を聞いている。内容は「大丈夫」とか「スケジュール通りに」といった事務的なもので、宗教的なニュアンスは感じられない。聞いている参加者の表情も平静で、これから死という大事を迎えるように見えない。
浴衣の女性たちが会場の端で金魚のように踊っている。これから死ぬ参加者たちの気持ちをせめて安らかにしようとしているのだな、と感じた。
一旦説明が終わり休憩となった。参加者の一部は外の空気を吸うために体育館出口に向かう。私の居る場所はその出口付近なので、彼らとバッティングしないよう、左右に避けようとするのだが、向こうもこちらと同方向に避けるのでぶつかりそうになってしまう。私はこのような不吉な人たちとは接触したくないので、靴を履かないまま出口から校庭に出た。靴下の足裏に濡れた砂の水分がしみて不愉快だ。
近くを歩いている役場職場と話す。この催しは担当する職員の心理的負担が大きいそうで「俺も、これやった後に入ってる会議とか全然集中できなくてさあ」などという。私は内心このような集団自殺が、その程度の負担感で済むとは役場職員は凄いな、と思う。
体育館と校舎をつなぐ渡り廊下に自分の靴を見つけ、ああここに置いたんだな、と安心し会場に戻る。
参加者は俯いてシクシク泣いていたり手で顔を覆ったりと、悲観的な様相だ。自ら死を選び覚悟を決めていても、やはり直前になると動揺するようだ。私の三脚は傍らにあるが、乗せるカメラは無い。そもそもこんなものを撮影しても使えないだろう、と思ったし、人が大量に死ぬ場面を見る勇気もないので、ここを退散することにした。
さっきとは別の小さい扉から出て、両開きの引き戸を閉める。体育館なのに、すりガラスがはまった木製の扉であった。
横のおばさんに「どうして撮影しないの?」と聞かれ「カメラが無いし気味が悪いから」とこたえるが、おばさんはなにやらしつこく話しかけてくる。
おばさんと連れ立って体育館脇の緩い坂道を下っていると、中からたくさんの人間が嘔吐する音が聞こえてきた。音だけではなく、扉の下の隙間から飛沫が私の首に飛んだ。手ぬぐいで拭うと、人参や肉など食物の破片が混じった粘液状の吐瀉物だった。
直前に迫った死の恐怖で参加者が嘔吐したのだ。やはり、誰でも死が怖いのだ。
私はその後、行きつけのバイク屋に行ったがいつのまにか夜になっていたようで、店は既に閉まっていた。
バイク屋が一階に入っているビルから自転車で誰かが出てきた。顔見知りの女性だがなぜ?と声をかけると、「私ここでホステスやってるの」という。確かにバイク屋の二階は「キャバレーロンドン」だ。彼女のバニーガール姿を見たい、と強く思った。
夢なので色々と脈絡も整合性もない。「〜〜はおかしい」→夢なのでそのまま書いている。グロ有り。悪夢の類だと思う。
「敵が来ます、逃げてください」の街頭放送、目の前のものを掴んでポケットに入れて逃げる、何かを取りに帰ろうとしたら「戻らないでください」とアナウンスが入る。
駅。駅ビル。灰色の空。逃げる人々。やがて周囲の景色がSF的に細かいガラス、金属片のように細切れに粉々になって空中に浮かび上がり吸い込まれて?収束して?いく。ああ、巻き込まれる、と感じる。死の恐怖はなかった。巻き込まれながら音が軋みノイズのようになってブラックアウトし、すぐに次のシーンになる。地表、芝、東屋。公園のような広場。逃げてきた人々が炊き出しを貰っていたりする。靴の事は気にしなかった、履いていたのかどうか意識にない。何も履いていなかったかもしれない。保育舎のような施設、あかるい、大勢の保護者と子どもたち、自分の子供をそこで見つけて引き取る。
駅ビルに隣接する巨大なホテルが避難民に解放される。エレベーターは動かず階段、途中から階段も無くなりモルタル製の壁面の装飾、突起にしがみつきながら何故か複数名で上の階に向かっている。「オーナーが逃げたのでチーフが仕切っているらしい」何階かにトイレがあった、タイルの上、仕切りがなく等間隔に並んだ和式便器、蓋がつけられている。清掃婦がひとり佇んでいる。「使ったらダメ」と言われる。蓋のない便器の中には目玉や肉片が浮いていてそれは動いている、敵とはこれか?アメーバーのように蜘蛛の糸のように細く伸びる触手から逃げる、子供とともに逃げている。夫の姿はない。自分の住んでいたマンションに戻ってきたらしい、植物のツタにくくられた籠がするすると降りてきたのでそれに捕まって上がる。喋る蛙、もしくは爬虫類のようなものに助けてもらえたようだ。植物のツタを太いものに結びかえる、隣のベランダに置いてあるカゴについたツタに結びつけようかと思うが、そのツタが固定されていなかったら地表に打ち付けられてアウトだしな…と思っていたら今居るベランダが自分達の部屋のベランダであることに気付く。荒れた室内、テレビの音、付けっぱなしで逃げたのかな、と子供が言う、中にはいっていくと空の浴槽に前のめりになってばたついている人影がある、助けると夫である、大変な目にあった、と言っていた、口の横をぐるりと何十針も縫われていた。
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