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はてなキーワード: 礼拝とは

2019-05-07

改宗しようと思って教会行ってきた

この間クリスチャンになろうと思って教会礼拝に行ってきて

聖書の話とか聞いてきた

元々興味あったし自分の専門分野の理解を深めたいって理由もあって

宗教ってつまるところみんな同じ事言ってるけど

より楽な方に改変してくのも同じなんだなって気付いて冷めた

いやむしろ醒めたかもしれない

なんか悟ったわ

我は神なり

2019-05-01

anond:20190501193422

イスラム教信者服装礼拝いくら不気味でも体面を気にすれば表立って不気味とは言わないわけで、まあ所詮数の論理ポリコレパワーゲームの結果に過ぎないんだよなあ

2019-04-11

anond:20190214020120

俺もベトナム人彼女がいるけど京都の寺に行ったら土下座礼拝し始めてビビった。ベトナムはそういうやり方なんだって

あとラーメンを混ぜて食うのが許せない。

でもかわいい

2019-03-29

富士山イスラム礼拝所設置とハラル対応するって?

地元に古くから暮らす民族信仰の形があるのに、それと真っ向から反してるじゃん

同じく多神教民族連携するならまだしも、一神教なんて明らかに矛盾してるよ?

しかイスラム側なんて一神教徒以外との結婚を認めず、日本人との国際結婚改宗強制するんでしょ?

そういうのを止めて、相互契約メッカにも鳥居を置かせてくれるの?

同じ宗教聖地世界遺産であるウルルエアーズロック)がアボリジニ以外の登頂を禁止するようになった中、日本富士山登山資格を見直す時期に来ていると思う。

2019-03-10

オタク文法に詳しくない女性たちに見せて判断を仰ぐくらいの配慮

cleome088cleome088 オタクは笑うかもだけど実はわりと本当に男性女性感覚処理は違うので、本当にお色気目的でなければ、オタク文法に詳しくない女性たちに見せて判断を仰ぐくらいの配慮公的ものだったら必要だと思う。

2019/03/10 リンク Add Starmatchy233mojo_nobu

笑うって言うよりヤバさに震え上がるよ。

こんなコメントが人気1位のはてなってほんとヤバいコミュニティなんだなって。


1.「無垢な瞳が真理を見通す」という信仰

から感じてたけど

左派人達って「世の中には自明の正しさがあり、それはバイアスのない無垢の瞳には一目瞭然」みたいな信仰あるよね。

あるでしょ?

この間の女子中学生騙りも、左派以外の人には「そもそも何で中学生を騙るのが有利だと思った?」って疑問が生じる。

そこで左派以外には左派が何をしたいのか測りかねる部分があった。


でもこの左派ユニコーン信仰みたいなのに気付けてれば不思議は何もない。

政治社会のことは政治社会に染まっていない中学生に聞けばピタッと真理を啓示してくれる。

アニメイラストのことはオタクコンテンツに興味のない女性に聞けばピタッと真理を啓示してくれる。

こういう意味不明信仰が彼らにはある。

ポルポトイズムにも通じるけど。

(まあ根本的に、自分達と意見の違う主体性を持つ存在が嫌いなんだろうね。)


2.ニセ科学的な何かのオンパレード

もう一度冒頭のコメントに戻ろう

オタクは笑うかもだけど実はわりと本当に男性女性感覚処理は違うので、

何これニセ科学

感覚処理は違う」が具体的に何を言ってるのかもわからないし、根拠も当然のようにゼロ

これに突っ込めないのはオタクかそうでないか以前の問題ヤバいと思うんだけど。

本当にお色気目的でなければ、オタク文法に詳しくない女性たちに見せて判断を仰ぐくらいの配慮公的ものだったら必要だと思う。

なんで「無垢女性たち」をそこまで信頼できる?

女性たちって言っても多様だし、君達の期待した結果にならないかもよ。

その時にその結果は受け入れられないんだろうに。

「曇りのない若者の声を聞け」って言っておいて若者自民支持者が多いとわかった途端

「よくわかってないんだから投票行かないでくれ」って言い出した森監督みたいに。

公的もの判断基準”がそんなんでいいのか。


それが自分の話ならどう感じるか考えてみなよ。

自分仕事でも生活でも、「バイアスのない無知な完全門外漢評価・判定してもらいます」で納得できる?

出来ないでしょうに。

イスラム教徒に対して「教えに全く興味ない門外漢意見ではヒジャブ礼拝はナシ”が大勢だったので社会で認めません」て処理できる?

出来ないでしょうに。

でもオタク相手だとわざとそういう暴論を振り回して、そこに快感を覚えるんでしょう。

差別意識だと思うけどねえそういうの。



3.そもそも元のツイートだって滅茶苦茶なんだけど



これがアニメを語って欲しくない」なんてオーソリティヅラをするほどの識者に見えるの?

議論ガバガバだし絵も下手だし、アニメファンとしても雑魚雑魚しか見えないんだけど。

普通アニメ調の絵と萌え絵は一線を画してるし、それを区別できない人にアニメを語って欲しくない。

そもそも普通アニメ調の絵」も「萌え絵」も定義ガバガバ過ぎて何を指してるのかわからないしさ。

よくいる思考ぼんやりした人が恣意的議論の為に作り出すガバ言葉しかないじゃん。

間違い無く言えるのは「客観的に引ける一線など存在しない」ということ。

自分お気持ち客観性との区別をつけような。

人類はこの区別が本当にニガテだから。ニガテさに自覚ない人間が「自明の正しさ」を標榜して人に押し付けから


4.まとめ

自分はあの自衛隊ポスターアニメ、心のそこからごみだと思ってるしキャラも絵もキモいとも思う。

けど「だから規制すべき物。感覚でわかる。」なんて言わない。

気持ちではなく理性で物事を決めたいから。


あのアニメの絵柄と「普通アニメ調の絵」の絵柄に客観的一線を引くのも不可能だと思ってる。


追記

daydollarbotch 真実とか無垢関係なく、「オタ界隈から見るとセーフでも非オタ(の一部)が見るとアウトな表現」というのはあり得るわけで、事前に非オタに見せて炎上リスクを減らすのはアリでは。必ずしも女性である必要はないが

からすごくぼんやりした「現実的対処」としてならそういうのもわかるけどね

っていうか自分オタクだけど「面倒にならなさそうなライン」ぐらいわかるよ

そんなんわからないオタクは少なくともポスターの図案決めるようなとこにはいないと思うけど

彼等は話題性お気持ちラインかいいろはっきり決まってない諸条件勘案して限界を攻めてるだけなんじゃない?

あんたのidアイコン気に入った

かっこいい

2019-02-15

anond:20190215112943

教会イスラーム教徒をも尊重する。彼らは唯一の神、すなわち、自存する生ける神、憐れみ深い全能の神、天地の創造主、人に語りかけた神を礼拝し、イスラーム教の信仰が進んで頼りとしているアブラハムが神に従ったのと同じく、神の隠れた意志にも全力を尽くして従おうと努力している。

(第二バチカン公会議キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』3)

anond:20190214144735

不可解な現象カミサマと呼んで祀ってる人間からすると、不可解な現象奇跡)起こした上で「ぼく唯一神」とか言われてもそりゃあんたが一番不可解だからトップオフカミサマですわとしか言えんしそのうち宗派に沿った立派な礼拝所が出来るだろう。

存在証明の話なら心の中にいるのは確実として、神が物理的にいることを直接証明したいのか、神が起こした奇跡残滓をもって奇跡が起こせるから神だと間接的に証明したいのか。

2018-12-24

世はクリスマスだけどモスクにいって来た。

世の中クリスマスですよね。

この時期、街のイルミネーションを見たり、ネット非モテ男女の孤独慟哭を見るものいとをかしという感じだが、みなさん一つの文化に振り回され過ぎじゃないですかね。

年々国際化する日本で、ここに住む人々が年末のこの時期をどのように過ごすのかに興味があって、神社教会、寺などを写真に収めてみたかった(別に上手くはない。思い通りの光を撮る方法も知らない)。

なのでクリスマスイブ前日の23日に、前から興味はあったが、なんか門前払いされるんじゃないかと思っていけなかったモスクにいってみた。


代々木上原モスク東京ジャーミー。

予報は曇りだったので傘をもたずに出たが、小雨が降ってきて、肌寒かった。

薄明るい雨天の代々木上原モスクは建っていた。

東京ジャーミーは1階がトルコ文化交流会館、2階がモスクだった。

写真撮影OKとのネット情報を得ていたが、「商業撮影美術などで撮影する方はひと声かけて欲しい」との注意書きがある。

気になったものを気になったタイミング写真を撮っていくつもりだったが、ここは宗教施設であって、信徒にとって神聖場所であるので、指示に従う事にした。


1階の交流会館でヒジャブをかけた女性に「美術の興味があるので写真が撮りたい」旨をつたえると、すこし逡巡した様な感じで、責任者っぽい人を呼びにいった。

しばらくしてヒゲを蓄えた壮年ムスリム日本人男性が現れて「写真を撮るなら、イスラムの正しい知識を得てからにしてほしい。しばらくすると、館内を案内するツアーが始まるので、それに参加するのを期待する。」という様なことをいわれた。

美術に興味があって写真が撮りたい、というところが引っかかったようで、広告美術イスラム文脈無視してイスラム的なビジュアルを使われるケースを懸念しているようだった。

なるほど、その懸念は分かるし、もし自分イスラム的な美的要素で何かを作ろうとしたときに、精神関係なくビジュアルだけを抽出するのも「志が低い話だ」と思ったので、館内のイスラム解説書籍を読みながら待つ事にした。

サラッと読むと

ムハンマドは元々商業をいそしんでいた時期があるので、商業取り引きの話が結構出てくる

ムハンマドは既婚者で、姉さん女房、もともとムハンマド雇用していたが、彼の機智に感じ入る所があり結婚した

受難闘争の話が多い

・超常的な奇跡の話はあまり出て来ない

・非ムスリム地獄に堕ちるとはっきり書いており「イスラムが正しいのは自明」という前提だが、同時にムスリムへの改宗は決して強制してはならないとも明言している

という感じだった。


しばらくすると、ツアーが始まった。

会館にあつまった見学者の前でイスラムトルコについて熱弁する先ほどの先生

自分と話すときちょっとめしい感じだったが、終止笑顔

日本イスラムムスリムについてあまりにも知られていないという事で、とにかく「知ってもらおう」という熱意がこもっており、しばしば時間オーバーした。

モスク受難する人の全てを受け入れるシェルターである

・なのでモスクにはしばしば象徴として鳥の巣が設置される

・貧しい人との分かちあいを大切にしており、食事の振る舞いはイスラムにとって大切な行為である

イスラム世界では神と人(その他)には明確な上下関係があるが、それ以外は全て平等

との事だった。


しばらくして礼拝の始まりをしめす館内放送がながれ(言葉は分からない)、2階のモスクに上がる事にした。

モスクは土足厳禁。

靴を脱いで館内に入り、見上げると、白亜ドームの頂点にアラビア文字シンボルがあり、その周囲を赤やシアンの繊細な文様が踊っていた。

ドームの周囲、建物を支える無数の柱。

館内は白、赤、シアン、紺、黒、ゴールド、緑で、文様アラビア文字があしらわれた色鮮やかな空間を形作っていた。

教会におけるマリア象のような人間の様を象徴したシンボルはなく、偶像崇拝への禁忌をかなりストレートに守っている。

そういった具体的、象徴的なものがないので、装飾はアラビア文字であったり、植物単純化したパターンであったり、幾何学文様であったりする。

モスクの中は照明が押さえられて薄明るい程の感じで、正面のゴールド燭台が輝いていた。


先生モスクについて解説している最中にも、在日トルコ人や、たぶんアジアムスリム礼拝をしている。

ややあって先生解説中座して礼拝に参加した。

中国から来たムスリムも参加していたという。

中国ムスリムはその受難が凄そうだ、なんて思った。


荘厳で華麗なモスク写真におさめて、ツアー解散

先生にお礼をいい、ちょっと疑問に思った事を聞いた。

イエス・キリストイスラムにとっては予言者の一人ではあるが、クリスマスムスリムにとって大きな意味はもたない

ムハンマド誕生日を祝う日はある

基本的太陰暦なので、生活習慣としての1年の区切りがちがう

幾何学文様イスラム宇宙の姿を表したものということであり、つまりユダヤ教カバラ密教曼荼羅のような方向性のモノ(この例えは自分解釈)。当初先生懸念を示したように、たしかにこういったモノを文脈無視で使うと変な表現にはなるように思う

ということだった。


教会などは撮影不可のケースが多いけど、モスク撮影OK

これから日本マレーシアインドネシアの人も来るだろうし、年末のお休みモスク見学をして、多様な日本社会に思いを馳せるのもいいのではないでしょうか。

以上、現場からでした。

ちなみにモスクを出る時に、脱いだ靴にくしゃくしゃのペーパータオルを捨てられていて、「宗教施設に来てるのに志が低いのがいるなあ」とはちょっと思った。

キリスト教家庭(?)に生まれたわけだけども

クリスマスからどうしろとかは今までなかったのね。子供の頃に何回か教会はいってみたけど、まあ退屈だしええわって感じで、普通にご馳走とサンタクロースの日だった。

そもそも、うちがキリスト教なのはお婆ちゃんからで、洗礼とか礼拝(?)とか聖書読み込んでるのはお婆ちゃんくらい。親はまあ仏教は違うかな〜くらいで、無宗派寄りのキリスト教レベル。私は神様はいるんだろうね〜って感じ。徐々に薄まってはいるんだろうな。

最近、そのお婆ちゃんが亡くなりまして。これが喉仏です〜言われて、仏でもないんだがなあと思いながら、火葬しました。

でまあ、生誕祭というか、キリスト〜!って感じの日が近いですね。宗教観が固まってるわけじゃないけど、なんかお婆ちゃんだなあって思い出すところはありまして。ああ、やっぱりキリスト教の家に生まれたんだなって思います

天国で愛に包まれてね。初めて祈るけど、神様、お願いします。メリークリスマス

2018-10-18

なんでイスラム教だけ特別扱いしないといけないの?

宗教自由はわかる。でも他の宗教と比べてあまりにも規制多すぎ。

仕事中でも日中何回も礼拝させろとか

認証とってないものは食べられないか給食を変えてほしいとか

女性は被り物がいるか柔道ルール変えてほしいとか

なんか要求多くね?

他の宗教無宗教の人と共存するのに一方的にこっちに合わせるよう求めてくるよね?

それ、絶対のるルールなのか

ルールに縛られてない?

ぶっちゃけなんで自分関係ない神様のためにこっちが手間も暇もかけてルール変えないといけないのか納得できねーわ。

宗教自由だよ 

何を信じても。

だけど他の人の生活社会ルールにまで影響及ぼすようなゴリ押しをしないで自分の家だけやっててほしい。

2018-09-30

日本師弟関係がなぜ理不尽暴力的になるのかについての覚え書き

身毒丸』について検索していた時に見つけた、

折口信夫への旅 第1部 ~小説身毒丸」をめぐって(歌舞伎批評家山本吉之助)

http://www.kabukisk.com/geitohito33.htm

という折口信夫身毒丸解説文の中に、日本師弟関係がなぜ理不尽暴力的になるのかについての興味深い示唆があったので、

もしかして既によく知られていることかもしれないが、自分は初めて知ったので、覚え書きとして残しておこうと思う。


日本師弟関係

最近ではそういうことはだんだんなくなって行きましたが、日本師弟関係はしきたりがやかましく、厳しい躾(しつけ)をしたものでした。まるで敵同士であるかのような気持ちで、また弟子や後輩の進歩を妬みでもしているかのようにさえ思われるほど厳しく躾していました。

例えば最も古い感情を残している文楽座人形遣いなど、少しの手落ちを咎めて、弟子を蹴飛ばしたり、三味線弾きは撥で殴りつけたりした。

そういうことは以前はよくあった。そうした躾を経ないでは一人前になれないと考えられてきたのです。

なぜ、そうした、今日の人には無理だなと思われるような教育法が行なわれてきたかということが問題になります。(中略)

それはある年齢に達した時に通らねばならない関門なのです。(中略)

子供または弟子能力を出来るだけ発揮させるための道ゆきなのです。それに耐えられなければ死んでしまえという位の厳しさでした。』

折口信夫座談会日本文化の流れ」・昭和24年12月)


■例えば…

七月に入り一座は泉州のある村の盆踊りに迎えられますが、源内法師は身毒丸の踊りに若い女たちの面貌がチラついていることを認めて、その晩、師匠身毒丸自分の部屋に引きずっていって「龍女成仏品」に一巻を渡し「芸道のため、御仏のため、心を断つ斧だと思って、血書するのだ」と厳しく命じます

しかし、出来上がったものを持っていく度に師匠はこれを引き裂きます

「人を恨むじゃないぞ。危ない傘飛びの場合を考えてみろ。もし女の姿がちょっとでもそちの目に浮かんだが最後、真っさかさまだ」と師匠は言います

身毒丸は血を流しながら一心不乱に写経を続けますが、身毒丸脳裏には彼の踊りに熱狂する若い女たちの面貌がなかなか離れません。

一心不乱に写経を続ける身毒丸の姿を見ているうちに師匠の頬にも涙が流れてきて、五度目の写経を見た時には師匠にも怒る気力は失なわれていました。


春琴の教え方は 非常に厳しく、

あかんかかん、弾けるまで夜通しかたかて遣りや」と佐助を激しく叱咤し、

時には「阿呆、何で覚えられんねん」と罵りながら撥で頭を殴り、佐助がしくしく泣き出すこともしばしばであったと云います


芸道小説としての「春琴抄」~谷崎潤一郎・「春琴抄」論

http://www.kabukisk.com/geitohito72.htm


『昔は遊芸を仕込むにも火の出るような凄じい稽古をつけ往々弟子に体刑を加えることがあったのは人のよく知る通りである

本年〔昭和八年〕二月十二日の大阪朝日新聞日曜のページに「人形浄瑠璃の血まみれ修業」と題して小倉敬二君が書いている記事を見るに、


摂津大掾亡き後の名人三代目越路太夫の眉間には大きな傷痕が三日月型に残っていた

それは師匠豊沢団七から「いつになったら覚えるのか」と撥で突き倒された記念であるという


また文楽座人形使い吉田玉次郎の後頭部にも同じような傷痕がある

玉次郎若かりし頃「阿波鳴門」で彼の師匠大名人吉玉造が捕り物の場の十郎兵衛を使い玉次郎がその人形の足を使った、

その時キット極まるべき十郎兵衛の足がいかにしても師匠玉造の気に入るように使えない

阿呆め」というなり立廻りに使っていた本身の刀でいきなり後頭部をガンとやられたその刀痕が今も消えずにいるのである


しかも玉次郎を殴った玉造もかつて師匠金四のために十郎兵衛の人形をもって頭を叩き割られ人形が血で真赤に染まった。

彼はその血だらけになって砕け飛んだ人形の足を師匠に請うて貰い受け真綿にくるみ白木の箱に収めて、時々取り出しては慈母の霊前に額ずくがごとく礼拝した

「この人形折檻がなかったら自分は一生凡々たる芸人の末で終ったかも知れない」としばしば泣いて人に語った。』

谷崎潤一郎:「春琴抄」)


日本古代の、理不尽に怒る神と無辜民衆との関係

自分にはこのような仕打ちを受ける謂われはない」という強い思いです。その場合・何に対して彼は意地を張るのかということが問題になります

世間に対して意地を張る場合もあると思いますが、あるいは神に対してという場合があるかも知れません。


ここで神に対して意地を張るということは、神に反抗するという意味ではないのです。

そのように考えるのは近代人の捉え方でして、古代人の場合には絶対者である神に対して反抗するという発想は考えられ ません。

自分に対する神の仕打ちが不当であると感じた時に、古代人は自らの清らかさを神に示すように控え入るのです。

「神よ、この清い私を見てくれ」というようにです。

まり表面 上は畏れ入っているのですが、内心には自分に対する神の仕打ちは不当であるという強い思いがあるように思えます

(中略)

神に対して自分が清い(あるいは正しい)ということを示そうという気持ちを失ってしまえばそれは不信仰ということになります

から理不尽な神の仕打ちに耐えて・彼がそれでもひたすらに生き続けることは「神よ、この清い私を見てくれ」ということになるのです。

それは神に対して意地を張るということでもあ ります


折口信夫座談会神道キリスト教」において次のようなことを語っています

折口は憤りを発することが日本の神の本質であるします。

神の憤りとは人間がいけないからその罰として神が発するものではなく、神がその憤りを発する理由がどこまでも分からない。

神がなぜ祟るのかその理由が分からない。

このことが重要である折口は言うのです。


神が憤るのは人間がいけないからだ・人間が何か悪いことをしたから神が怒ったに違いないと考えるのは、道徳倫理が完成した後の時代の人々の感じ方なのです。

既成の道徳基準があれば、人々はそれに照らし合わせて・神がこれほど怒ったのにはこんな理由があったに違いないと後で納得できる説明を付けようとします。

しかし、道徳がまだ成立していなかった古代人には照らし合わせるべき倫理基準などまだなかったのですから、人々には神が怒る理由など全然想像が付きませんでした。

古代人にとって神の怒りは唐突で・理不尽で、ただただ無慈悲ものに思えたのです。


『神の怒りに当たることと言う怖れが古代人の心を美しくした』(折口信夫・「道徳研究」・昭和29年)


古代人にとって神の怒りはただただ理不尽ものでした。

そのような理不尽な怒りを神はしばしば・しか唐突に発しました。

例えば地震台風洪水旱魃・冷害などの自然災害がそのようなものです。


このような時に古代人は神の怒りをみずからの憤りで以って受け止めたのです。

みずからの憤りを自分の内部に封じ込めて黙りました。ただひたすらに耐えたのです。

そうすることで古代の人々はみずからの心を倫理的に研ぎ澄ましていったのです。

「神よ、この清い私を見てくれ」と言うかのように。


古代人の 生活というものは、風雪災害飢饉病気など、現代人が想像するよりもずっと過酷で・辛く厳しいものであったということなのです。

そのような時に古代人は神の理不尽かつ無慈悲な怒りを強く感じたのですが、そこをグッと持ち耐えて自己を深い内省と滅却に置くことはまこと殉教者以上の経験したことになるのです。

折口はそのような過程から道徳のようなものが生まれて来ると考えました。


貴種流離譚というもの民衆に与えた印象というものは「身分の高い人が落ちぶれて哀れな姿になって・・」というものでは決してないのです。

民衆貴種流離譚に見たものは神の与えた理不尽かつ過酷な試練に従順に耐える殉教者の姿なのであり、それは過酷な生のなかに生きる民衆自身の姿と も自然に重なって来るわけです。

民衆貴種流離譚を愛したのはそれゆえなのです。


神は別に何もするわけではないのです。

しかし、神がたまらなさを感じて涙を流してくれるならば無辜贖罪者は何かしら救われることになる・ 実はそのことだけで十分なのです。

これが古代人が神に対する時の態度です。


源内法師は身毒丸無慈悲折檻を強いながら、それに抵抗することなく・懸命に師の言いつけを実行しようとする身毒丸の健気さ・ひたむきさのなかに無辜殉教者の姿を見たのです。


最近ではそういうことはだんだんなくなって行きましたが、日本師弟関係はしきたりがやかましく、厳しい躾(しつけ)をしたものでした。

まるで敵同士であるかのような気持ちで、また弟子や後輩の進歩を妬みでもしているかのようにさえ思われるほど厳しく躾していました。(中略)

子供または弟子能力を出来るだけ発揮させるための道ゆきなのです。

それに耐えられなければ死んでしまえという位の厳しさでした。』

折口信夫座談会日本文化の流れ」・昭和24年12月)


折口がこのように語る時、折口日本伝来の師弟関係なかに理不尽に怒る神と・神を信じてその仕打ちに黙々と耐える無辜民衆絶対的関係をそこに重ねて見ているのです。


神はしばしば理不尽な怒りを発して、我々に謂れのないひどい仕打ちします。

我々には神の意図することがまったく理解できません。それはただただ理不尽ものに思えます

しかし、それでも神をひたすら信じ・神の指し示す道を黙々と歩むということことです。

過酷仕打ちを受けてもなお神を信じて神に従う人を見る時、神はそのような人々に対して賜らない愛おしさを覚えるであろう。慈悲の涙を流してくれるであろう。願わくば我々を悲嘆のなかから救い上げてくれるであろうということです。

折口はそのような気持ちから道徳のようなものが生まれてくるというのです。


そこには正しいとか・間違っているという倫理基準など存在しません。

善とか悪というのは道徳が成立した以後にある基準なのです。

あるとするならばそれは「清い」とか・「清くない」という感覚的(あるいは生理的な)基準です。


源内法師と身毒丸理不尽に怒る神と無辜民衆との関係無意識のうちになぞっていることになります


まり


神の理不尽な怒り(地震台風洪水旱魃・冷害や飢饉病気など)

→「自分にはこのような仕打ちを受ける謂われはない」と思う

→それでも神をひたすら信じ・神の指し示す道を黙々と歩む

 「神よ、この清い私を見てくれ」


これが、古代の神と民衆関係であり、師弟関係はこれをなぞっていると。


なるほど、自分がそういう目にあうのはいやだけど、ドラマ物語で接するとなんとなく納得してしまうのは、そういう古代から宗教的感覚が今も心の中にあるからなのかもしれない。

2018-09-22

新興宗教の子供だった

承認欲求ちょっと強めに出たせいでなんだか怪しげなタイトルになったが、残念ながらそんなに波乱万丈な人生を送ってきたわけではない。これは特に何を訴えようというでもなく、しかし書きたい気持ちがあり、それに際して家族以外に自分名前を出して伝えることについて自分の中で非常に大きな抵抗があるため、匿名で書くものである。ぼくはといえば、普通に公立の小中高校と通い、ふつう私立文系学部に進学し、うっかり留年などするものボンボンクラクラとしてのうのうと生き延びている。経済的不自由もなかったし、就職活動で不利になることもなかった。

しかし家のリビングには立派に新興宗教エライ人の格言が額に入れて飾ってあったことも確かだし、実家帰省してみても父は毎週教会に通っている。具体的にどの程度信心しているのかはよくわからないが、おじいちゃんおばあちゃんばかりの信徒のなかで若手(もう還暦が近いが、若手である)として教団支部運営にはそこそこ尽力しているようである

これを書いてしまうとおそらくもうどの宗教かは特定できるが、父の実家宗教江戸時代末期にできた神道の一派であるらしく、新興といえどそこそこ歴史はある。宗教の名を冠した教育機関もいくつかあり、そういえばいつかの甲子園にもでていた気がする。

子供の頃はよく教会に連れて行かれた。僕と同じくらい年齢の子供が数人おり、両親やおじいちゃんおばあちゃん先生のありがたいお説教を聴いている間、僕はゲームを買ってもらえない子供だったので他の子ゲームをしている様子をずっと眺めていた記憶がある。たまにお菓子をもらえたりもした。当然お説教一言も聴いていないので現在に至るまで全く信心する気持ちはない。大変な親不孝者である

普通のこどもは教会に行かない」ということを知ったのは小学3年生のときだった。当時気の迷いで野球スポーツ少年団に入っていた僕は、あんまり土日の練習が嫌になったので「明日教会に行くので練習休みます」とコーチに言った。周りの目が一気に怪訝そうになったのを覚えているし、言ってしまった直後自分自身も「どうやらこれは間違ったことを言ってしまったらしいぞ」ということをすぐ認識したので、それ以来人前で教会の話はひとこともしていない。おかげで土日に遊べない理由適当捏造するのがうまくなったものである

地下鉄サリン事件というのが生まれる少し前にあったらしい、ということを知った時、どうやら自分は少し言動に気を遣わねばならないらしい、と思った。ネットで噂になっているエホバの証人や某学会信者による迷惑行為が、日本における「新興宗教」のイメージであり、先述したように信仰心ほとんどない僕も「宗教ときくとやっぱりちょっときな臭い言葉であるように思ってしまうところがある。ところが同時に僕は新興宗教当事者であるとも言える立場なので、あんまり無邪気な感じにもなっていられないのだ。

ニューヨークに突っ込んだ飛行機映像を見て宗教歴史のいたるところで戦争を起こしてきたということを知った時にも、子供心に教会の中に入り込んでいってしまってはいけないのかも、と思った。科学の子であった僕は、やっぱり母の言う「天国で死んだおじいちゃんが見守っている」だとか、神様を信じれば助けてくれる、ということに「ウッソだぁ〜」という気持ちを持っていた。お空の星は核融合炉であり、太陽系があり、銀河があり、宇宙インフレーションビッグバンからまれていた。神の祟りよりプレート・テクトニクス隕石のほうが怖かった。

ところで、僕はカトリック教会にも行ったことがある。祖母カトリックだったので、クリスマス礼拝に連れて行かれたのだ。洗礼は受けていないので、目の前で配られるパンワインをただただ眺めるばかりであった。眼の前の人がワインを飲むなり激しく咳き込みトイレに走っていったのを覚えている。たいへん敬虔信者であったのだろう。僕は激しい修行はおろか正座でありがたいお説教を聴いて足を痺れさせたことすらないので苦しみをもって神に尊敬の念を示すということを全くしたことはないが、もしかしたらそれが心の支えになって、拠り所になって、日々を生きることができている人もいるのかもしれないと思う。なお家には未だに聖書がある。

母は教育の人である教育を学び仕事にするプロフェッショナルである。親は誰しも自分の子供には人生における様々の試練に負けず強く生きてほしいと願うものであると思うが、カトリック祖母の影響でミッション系の学校に行っていたこともあるのだろう、心の何処かで神を信じるように幼少期の僕に教えてきたように思う。神は想像を絶する試練を課せられた人々の心をたびたび救ってきたからだ。新興宗教教会あんまりもつまらないお説教のせいで全く僕に信仰心が芽生えることはなかったが、大学宗教学の授業をとってみたりした今になって、「宗教ってこういう役割があったわけだね」という話をすることがある。流石に現代に生まれ中世のように「本当に」神を信じることはないが、しかし母は未だに「でもなんだか、どこかで信じている」というようなことを言う。

僕はお寺や神社を見て回るのが結構好きで、今年の夏も(オタク聖地巡礼を兼ねて)下鴨神社に行ったりしている。猛暑京都盆地の中、糺の森木々直射日光を遮り、薄暗くなっている参道はアホほど暑かった。今年は割と苦労した就職活動がどうにかうまく行ったため、賽銭箱に五円玉を投げ「いいご縁がありました、神様ありがとうございます」とお礼を言ってきた。下鴨神社神様も「縁結びってお前そういうことじゃねえよ馬鹿野郎」とお怒りのことと思う。

2018-09-20

anond:20180920102914

サービス [1] 【service】

( 名 ) スル

相手のために気を配って尽くすこと。 「家庭-」 「 -精神

② 品物を売るとき、値引きをしたり景品をつけたりして、客の便宜を図ること。 「少し-しましょう」 「出血大-」 「アフター--」

サーブに同じ。

④ 〘経〙 物質的財貨を生産する労働以外の労働。具体的には運輸・通信教育などにかかわる労働で、第三次産業に属する。用役役務

英国国教会における礼拝およびそのための曲。

2018-08-22

anond:20180822142810

差別主義者以外は言わねえだろ

ってか日本各地に礼拝所できはじめてるじゃねえか

2018-07-19

anond:20180719130836

あー把握しました、遺伝子ミームを崇拝するソーシャルダーウィニズム一種みたいな感じですかね。

ちょうど昨日↓の記事一言でまとめると「科学者アンチ創造論イズム(ダーウィンへの冒涜blasphemyを許すな!)はほとんど宗教だ」ってやつ読んでたので納得です。

中盤くらいにあるカリカチュアの"Evolution is a Fact"って偶像に"I will not question evolution!"って礼拝してる様子が目に浮かびます

増田ちゃん宗教根拠あるんじゃん、最初からそう言ってくれればいいのに

Big Science Condemns Blasphemy Against Darwin | CEH

2018-07-17

[] スヴァーハー

四女も一応ホーリーネームはあって、アジタナーター・スヴァーハーという。

 

スヴァーハー (स्वाहा [svāhā])は、密教於いて真言の末尾に多く使われる言葉一般には漢訳の薩婆訶(ソワカ)として知られる。

この言葉本来バラモン教儀式において、天上の全ての神々に捧げられた供物の事を指していた。またそれ自体神格化され、祭火の神アグニの妻の女神とも考えられている。

儀式の際には、供物を祭火に投じる時の掛け声としてこの言葉が唱えられた。この為、後には「スヴァーハー」は、願いが神々に届く事を祈る聖句とされた。

 

インドで崇められる幾多の女神の中に、スヴァーハーという女神がいます

スヴァーハーはヤジュニャなどの火の儀式において、火へ供物を捧げる際に繰り返し唱えられる言葉でもあります

供物と共に捧げられるスヴァーハーという言葉は、「奉納」を意味し、私たちの祈りや捧げ物を神々のもとへ届ける重要存在であると言われ、女神として崇められています

 

スヴァーハー女神は、火神アグニの妻として伝えられますが、女神崇拝の中で中心的に礼拝される存在ではありません。

しかし、スヴァーハーの言葉がなければ、神々は私たちの祈りを受け取らないとも言われるほど、儀式においてはとても重要存在です。

 

スヴァーハーは精霊でありながらも、恋に落ちたアグニ神の愛を勝ち取るために、自分自身を捧げるほどの大変な努力をし、女神になったと伝えられます

アグニ神とのさまざまな神話も伝えられ、カールティケーヤ神(シヴァ神の息子であり、ムルガン神とも)の母であると伝えられることもあります

 

祈りと共に、火に捧げられ灰になるスヴァーハー。

私たちが祈りにおいて捧げるものも、自分自身に他ありません。

そうして自身の内が浄化される時、私たちは大きな至福と平安を手にすることができます

 

スヴァーハー女神は、夫である火神アグニが火として燃えるための力でもあります

スヴァーハー女神がいなければ、アグニ神も炎を上げることはできません。

私たちがこうして生きる日々の中にも、そこには常に力が存在し、さまざまな形で私たちを育むその力は、ここで女神として崇められています

 

スヴァーハー

サンスクリット語の「svāhā」(スヴァーハー)という単語には、神々への供物、奉納、火神アグニの妻、などという意味があるらしい。

火葬された遺骨を天上へ奉納する女神が、四女さん(アジタナーター・スヴァーハー?)という意味だったのだろうか?(謎)

2018-07-09

日本人宗教に寛容!

「毎週日曜日教会礼拝にいってるんだ」

「うわっキモっw」


何故なのか

2018-05-08

統一教会二世信者に生まれた話


結論から言うとめちゃくちゃ精神を病んだ、

という話。

統一教会、というのはご存知の方も多いと思いますがざっくり言うとキリスト教ベースにした新興宗教です。同じキリスト教系でいうとエ〇バとか、仏教系で言うと創〇学会とか、その手の怪しくて迷惑集団の親戚みたいなものですね。統一教会も怪しくて迷惑集団です。

具体的な活動としては、韓国北朝鮮統一のためにデモ運動やビラ配りをしたり、男女数千人が集まって教祖(お父様と呼ばれる)もしくはその代理(数年前に教祖が死んだので組織の偉い人もしくは教祖の子孫)から「祝福」と呼ばれる儀式を受けて合同結婚式をしたりする、そういう集団です。教祖(北朝鮮人)は「イエス・キリストの生まれ変わり」という設定になっています

その辺りをなんとなく踏まえて頂けるとわかりやすいかと思います

私が生まれる十年ほど前、両親が統一教会合同結婚式結婚しました。

両親が何を思ってその時期(信者統一教会から抜けさせるために監禁行為すら行う被害者の会存在した時代)の統一教会に入ったのかは分かりませんが、とにかく、彼らの唱える真実の愛とか何とかに救いを求めたようで、そして「祝福」の儀式を受け、引き合わされて結婚しました。

この場合結婚相手というのは信者が選べるわけではなく、上の人が適当に決める相手になります

両親もその時に初めて出会い結婚しました。

私は生まれた時から信者でした。

毎週日曜日になると「礼拝」と言って、教祖(とその子孫や上位の信者)の出版した本を読み、我々のなすべきことは統一教会による宗教統一教祖を中心に据えた世界平和である、みたいな話を聞くために「教会」に集まります。大抵が古いビルオフィステナントを借りて改装した、怪しい感じの場所です。

私のような二世信者、もしくは親が入信したために一緒に礼拝に連れて来られる子供のために、子供向けの礼拝も行います

教会には教祖を祀る祭壇があり、その方向を向いて礼拝を受けます

まず、神様教祖を讃える歌を歌います

キョンべーと呼ばれる土下座のような韓国式の礼をします(略式の立礼で行う場合もあります)

盟誓を唱えます(私は統一教会人生を捧げます、という内容の定型文です)

君たちはこれから世界統一教会のために変えていくんだという教えを受けます

そして、教会に来ない人はサタン(人間堕落させた悪魔)に支配されている哀れな人だ、などの批判をひとしきり聞いた後、君たちはそういう相手を救う存在にならなければならない、という話を聞きます

お祈りをします。(教えを踏まえ、今後自分がどのように変わっていくか、行動していくかを誓うことが望ましい)

献金します。(収入の1割が望ましいとされる)


子供向けの場合は、聖書の内容を勉強したりもします。多少統一教会風にアレな解釈はされていますが、だいたい創世記からイエス・キリストの復活くらいまではざっくり教わります

それと同時進行で、教祖イエス・キリストの生まれ変わりであり神の子だ、という話と、教祖の生い立ちも勉強します。まあ多大に美化された話ですが。

そういうわけで、我々二世信者ほとんどが、小学校くらいまでは割と素直に統一教会を信じています洗脳ですね。

あと時々、韓国にある総本山的なところまで行ったりもします。儀式バンバン全身を叩かれたり、床で寝起きしたりする過酷な感じですが、行くと「凄いね」「偉いね」と言われるし、あの極限の生活の中で何かを見出す人も多いようで割と皆さんよく行ってます。私も何回か連れていかれました。体調を崩しました。


恐らく統一教会でない人から見れば結構な異様感があると思いますが、私には、教会の教えも礼拝もすべてが普通のことでした。そして、二世信者の大抵がそうであるように、私も「この世」(統一教会でない、世間一般社会のこと)と統一教会とのギャップに戸惑いました。

統一教会では、恋愛、化粧、お洒落服装、遊びに行くこと、世の芸能人に興味を持つこと、教会勉強以外のことに時間を割くことが基本的禁止です。信者以外の子と遊ぶこともあまり良いとされていません。

学校では皆が話している内容についていけず休みの日に遊びに誘っても乗ってこない、そういう子がクラスでどういう扱いを受けるかは考えなくてもわかりますね。私もそうでした。




さて、困った私は、嘘をつくことを学びました。

小学校では恋愛の話になるので、クラスの誰々くんが好きだと言い、家に帰ったら、そんなこと考えたこともない!それはいけないことだって教会で学んだよ!と言いました。

バラエティは見せてもらえませんでしたが、親が許可した子供向けのアニメは見せてもらえました。テレビの話は、中学年頃までそれで乗り越えることができました。

友達が喋っている芸能人の話は一切わかりませんでしたが、たまに見る写真を覚えて「○○かっこいいよね」と言ったり、なんとなく話を合わせていれば、なんとかなりました。

家に帰って、親に「お友達の誰々ちゃん芸能人の○○が好きなんだって!」と言うと嫌な顔をされたので、「今日は誰々ちゃんポケモンごっこをしたよ!」と作り話をしました。

子供向けアニメに出てくるような、些細な恋愛描写にすら母親が冷たい目をするのが怖かったので、知らないふり、わからないふりをしました。

それでいいんだな、これからも両方に嘘をつき続けていけばいいんだなあ、と思っていました。

ですが、嘘ばかりついて他人とまともなコミュニケーションを取ってこなかった私は、中学生になる頃には典型的な「空気が読めない子」になっていました。

中学生になると、空気が読めないということが命取りになりますね。まともに育った子でも修羅経験するような年齢ですし、その時期であっても嫌われる程度で済んだのは本当に幸運だったと思います。結局私は、クラス40人のうち30人には嫌われているが隅のほうにいる3~4人のグループに入り常に固まって行動する、みたいな中学時代を送りました。

あと私の中学ビーバップハイスクールみたいなところだったので、誰も根暗ときに興味を持つ理由がなかったのかも知れません。隅のほうにいる根暗悪口なんかより、校舎内に原チャで乗り込んでくる同級生の話ほうがよっぽど刺激的ですし。

統一教会のほうでは、小学校時代よりも本格的に洗脳教育が強くなりました。

普段礼拝に加えて、STFと呼ばれるエリートコース選抜されるためにハーフマラソンを走らされたり教祖出版物を読んでレポートを書かされたりしました。

また「将来立派な職業につき、高い献金を納め、その地位でたくさんの人を勧誘できるように」という理由で、良い成績を取ることも求められました。

教祖の子孫や、組織幹部来日(基本的朝鮮系なので)した時のために歌やダンスなどの見せ物の練習もするようになり、平日の晩まで教会に行くようになりにました。

このハーフマラソン過酷で、中学生の未発達な体なのでまれに死人が出ます。それでも、それが「神様のため」「教祖のため」だと信じて走るのです。そう信じるように、上が指導します。

断食します。大人になると40日くらいやったりします。これもときどき死人が出ます

また、二世信者には「祝福」を受ける義務があります

恋愛をせず、女は処女で男は童貞のまま、統一教会儀式によって引き合わされた相手結婚をする義務があります純潔教育というやつです。

恋愛沙汰の多くなる年代になったこともあり、純潔教育は一層苛烈になりました。簡単に言うとセックスは罪、セックスすることは堕落、ということですね。セックスに対する罪悪感をめちゃくちゃ植え付けていく感じです。

恋愛は罪、化粧は悪魔を誘惑する悪いものカラオケゲーセンなどの学生の遊び場は悪魔がいる場所、そういってほとんどの娯楽が制限されました。学校の友人から遊びに誘われることは、悪魔の誘惑とされました。

その年代の子供が楽しむこと全般制限されるようになりました。




この辺で、学校統一教会を両立することが辛くなってきました。

学校でも、教会でも、嘘をついて話を合わせることに限界が近くなっていました。日曜日友達の誘いを断る理由説明出来ないし、教祖出版物を読んでも心から信じているわけではないかレポートが書けないし、成績も良い数字を維持できなくなりました。頑張っても頑張っても「もっと頑張れ」と言われることに気が遠くなりました。

このままいけば、「祝福」を受けることになるだろう、ということも嫌になりました。少なくとも両親は統一教会出会って結婚したこと幸せだったようには見えなかったので、両親のようにはなりたくない、と思いました。

統一教会とは世間一般から見て異端で、気味の悪い存在なのだと分かったのもこの頃でした。


中学の終わり頃、景気の悪化父親借金を重ね、ついに首が回らなくなり、昼はサラリーマン、深夜は新聞配達、土日は警備員アルバイトをする三重生活をするようになりました。

統一教会の末端信者は、大抵が低所得層です。私の両親も例に漏れ低所得層で、三重生活になる以前から家賃光熱費を滞納したり、金のことで両親が揉めたり、両親の貧乏コンプレックスを日頃から聞かされるくらいのことはありました。この後、それが霞んで見えるほどの地獄を見ることになりますが。

私が高校に上がった頃には、父親は毎晩深夜2時に起きて真っ暗な中で「神様!!!」と狂ったように叫びながら身支度をして家を出ていき、新聞配達バイトを済ませて朝六時頃に帰宅、仮眠をして昼の仕事をして何かをブツブツ呟きながら青黒い顔で帰宅、夜9時に就寝、という生活をしていました。

母親転職ストレスで、大量に食材を買い込んでは放置して腐らせ、家中異臭をさせていました。

父親が就寝する夜9時前になると、両親は教祖の書いた本を声を合わせて音読し、祈りをささげ、キョンべーをします。(家でも各々で礼拝しましょう、というのが推された時期でした)

真っ暗な中で発狂したように叫ぶいい年の男性と、異臭がして近寄れないリビング想像してください。めちゃくちゃゾッとしますね。それに家の中で礼拝が行われることも加えると、この家に自分の味方は誰もいないのだと絶望した気持ちになります

ついでに言うと両親の暴言も酷かったですね。神を信仰している、平和を願っている、統一教会による真の愛を世界に広めていこうと言ったのと同じ口でまあまあの暴言が飛んできます。そして、それを二世信者相談すると皆「うちもそう」だと言っていました。

何が正しいかからなくなりました。

そういう経緯で、幼少期から洗脳によって培われたはずの私の信仰心はマイナスになりました。

この時期、家が悲惨な状況部活人間関係が合わなかったストレスもあって、精神に不調をきたして胃液を吐くようになりました。

リストカットもするようになりました。常日頃から「お前の体は神様教祖様にもらった大切な体だ、お前が粗末にしていいものではない」というような教えがあったので、自分の体がボロボロになっていくのは最高の仕返し感がありました。ざまあみろ、と本気で思っていました。

私は高校に上がって以降ほとんど礼拝に行っていないので、最近の教えの方向性ほとんど知りません。

ただ伝え聞く限りでは、2005年頃には「2008年には統一教会世界に認められている!」と言い、2008年頃には「2012年には統一教会による平和世界が実現する!」と言い、2012年には「2015年には以下略!」と言っていたそうなので、今もまた同じことを言っているのではないかな、とは思っています。もう2018年ですね。

さて、精神に不調をきたした高校のあたりから、私は「統一教会自体が間違いである、よってその結婚で生まれた私は存在自体が間違いである」と考えるようになりました。

ハンガーストライキのように食事をとらなくなり、やせ細ると、母親は私が食事を食べられるようになるようにと「祈願書」というものに手を出しました。お願いごとを書くと、教祖やその周辺の人が神様に届けてくれる紙だそうです。ン万円します。

まり書くと個人的な憎しみが前面に出そうなので控えますが、マッチポンプとはこのことかと思いました。あくま個人の感想です

そのあたりですべてが嫌になって、男の家に家出し、処女を捨てました。16歳でした。






その後は水商売で働いて一人暮らしをし、夜で稼いだお金短大を出て、今は昼の仕事をしています

両親から統一教会から離れるために、私はたくさん抵抗をしました。

統一教会信者として生きていく気はないことを何年も言葉で伝え続けましたし、分かってくれないなら死んでやるとも脅しましたし、親が泣くまで責めたことも数多くあります。既に純潔でないことも、夜の商売自傷行為で体がボロボロなことも伝えています。生まれてこなければよかった、とも言いました。

それでも伝わらないことに、両親が私に「祝福」を受けさせるのを諦めていないことに、もう疲れました。

今、私は毎朝晩、数種類の精神薬を飲みながら働いて一人暮らしをしています精神調子を崩すと過呼吸を起こしますし、どうしても、普通環境に生まれ普通に育つことができた人に対する劣等感があります。少なくとも統一教会でなければ良かったとずっと思っています

カルトマルチなど、「異様な集団」の気配を察知すると過呼吸を起こします。宗教話題が出ると頭が真っ白になります統一教会育ちであることがバレて周りに軽蔑されないか、ずっとずっと不安です。

そういう後遺症のようなものが、統一教会を離れて何年も経つ今になっても残っています


二世信者には精神を病む人や自殺をする人が多いと聞きます

自分の育った環境が異常であると気づいてしまうこと、

外の社会での生き方を教えてもらえないこと、

若い頃に恋愛、化粧、年相応の娯楽の一切を制限されること、

死ぬまでずっと生まれや育ちに劣等感を抱えて生きていかなければならないこと、

それがどれほど、普通の人の中で生きることを困難にさせているのか、きっと親世代信者は知らないのだと思います。言ったところで伝わることはないのかもしれません。

きっと統一教会信者のすべてが、私の両親のような人ではないのでしょうし、もしかしたらとても人格のできた人もいるでしょう。

教えにしても、もしかしたら本当は間違っていないのかもしれません。教会を離れた私の判断がすべて正しかったと言い切ることもできません。

ですが、幼少の頃から社会と相容れない信仰を植え付け、世間の「普通」と自分の「普通」とのずれを味わわせることを、正しいと言うには疑問があるのです。

それでも統一教会を選んだ二世信者もいます

選べなかった私のような二世信者もいます

せめて、外の世界の人に、私が見てきたものを知って欲しい気がして、当エントリを書きました。

私の意見二世信者代表というわけではありませんが、もしも、共感して頂ける二世信者がいれば嬉しいです。こういう子供がいたのだと、知ってくださる外の世界の方がいればもっと嬉しいです。


普通でない環境で育ってしまった、すべての人に幸あれと願っています

2018-04-26

anond:20180426163911

またまたぁ💝謙遜さらないでも❣

増田さんがオフ会に参加されるときは必ずお呼びくださいね

写真をいただければ、仏壇に飾って朝な夕なに礼拝させていただきます💓

美形は国の宝、近づけばきっとご利益があるんです。

クサい人は、無臭に。

無臭の人は、いい香りに。

貧乏な人は、借金がなくなり、

普通の人は、宝くじが当たる。

増田さんを一目見れば、

施設に入っているご老人たちも滂沱の涙を流しながら

コガネムシの歌を歌いだすのです。

食欲も蘇り、歯が生えてきます

そして立てなかった人はすっくと立ちあがり、

位牌と一緒にダンスをするでしょう。

子供たちは増田さんに触れると、ニコニコ笑顔がこぼれ、

花壇には季節外れの花が咲き乱れ、

増田さんは保母さんと恋に落ちるでしょう。

というくらい(笑)

きっとウルトラスーパー「最&高」に美形の増田さんを私は尊敬していますよ。

2018-04-09

anond:20180409070811

現代ビジネスでも、歴史地理宗教文学とかの人文系知識が「実用的」に必要な場面はある

たとえば、一部では有名な話だが、韓国IT機器メーカー中東で売上を伸ばした理由として、イスラム教徒生活習慣を研究して「いつでもメッカ礼拝するための方角がわかる携帯電話」を売り出したというエピソードがある。

これは当然「中東に多いイスラム教徒は1日に何度もメッカの方角に礼拝する」という、民族宗教への知識がなければ思いつけない。海外商品を売るためにも、売り込み先の国の文化的な習慣、その背景となる歴史を知る必要があるのだ。

http://d.hatena.ne.jp/gaikichi/20150701#p1

無論、こういう知識があっても、商売に役立てられるアタマがなきゃ意味ないけどな

2018-04-08

相撲

女性団体はけっこう公益法人なってるやつがあるので、それを理由相撲のはく奪は難しいと思う。

ただ

宗教団体でありながら公益法人というのは寡聞にして聞き覚えがない。

ひょっとすると宗教系列に連なる社会福祉団体はあるかもしれないが、団体活動として祈祷祭祀礼拝などを許されて公益法人カウントされてるのはあるのだろうか?

神事からノーカン、と言い張るのも下策のように思える。

興行団体相撲なら問題ないんだが。

2018-03-06

私は西園寺世界にはなれなかった

スクールデイズというゲーム、或いはアニメを知っている人は多いと思う。

ドロドロの三角関係の果てにまつバッドエンドが有名だろうし、アニメ最終回については放送されないと言う事態にまで発展した。無論、放送されなくて良かった代物なのは言うまでもない。

当時はその衝撃的なニュースに多くのネットユーザーが関心を寄せたもので、例に漏れず私もその一人だった。

スクールデイズでは、3人のキャラクターが主要登場人物と言える。

まずは、主人公である伊藤誠

彼はどこにでもいるような少年で、後述する桂言葉片思いしている。

性根は優しいものの、優柔不断かつ、面倒臭がりと言う面もある。

因みに性豪だ。

次に桂言葉

内向的大人しい黒髪ロングの美少女だ。そして巨乳言葉遣いも丁寧で、育ちの良さが伺える、まさに正統派ヒロインと言ったところだ。

まあ、アニメにおいてのエンディグがアレだったためヤンデレ四天王の一人となってしまったが。

最後西園寺世界

このスクールデイズにおいては、彼女が一番の立役者であり、一番のヘイト役になる。世界アクションを起こさなければ誠も言葉も上手に進めないのだ。故にこそ、世界一挙一動足が肝要となる。

この3人による愛憎劇が中心となって物語が展開されてゆき、加速し、最終話nice boat.へと駆け抜けていく。

ここで本題に入ろう。

私は西園寺世界にはなれなかった。

私には自覚なき片想い相手がいた。便宜上『誠』とする。

誠は私の友人であり、趣味コミュニティ出会った存在だった。時には愚痴を、時には趣味の話を、時にはぐだぐだした政治語りを共にできるような気楽な関係だった。

そんな誠に彼女が出来た。

当時の私と言えば「やったじゃん!幸せにしてやれよ!」などと宣い上機嫌だった。

彼女さんは趣味コミュニティにいた私の友人でもあり、(便宜上言葉』と呼称する)ブログでも幸せそうな様子が見て取れた。

それが狂ったのはいつだっただろうか。

私が進学して寮生活を始めた頃かもしれない。当時、家の事情で私はミッション系の学校に通い、その付属寮で暮らしていた。

それまで当たり前にやっていたインターネットも、何もかもを絶たれ、スケジュール詰めの毎日、土日も早朝から行われる礼拝、恐らくストレス過多だったのだと思う。

自宅から通う学生に、頼み込んで住所を借りて、宿泊届を出しては、毎週のように夜に遊び歩くようになった。

そんな私を心配してか、誠はよく気にかけてくれていたように思う。時々、他県なのにこちらに出向いてくれたり、私から会いに行くこともあった。

誠は時々、「言葉が重い」と相談する。

かに言葉は、生真面目な性格で、思い込んだら一直線なタイプだった。

から趣味コミュニティでは頭角を顕している程だったし、愛も深かった。

本来ならば、私は誠にはフォローを入れながら言葉との軌道修正を入れるのが正しい対応だった。

だけれど、私はそんな誠を許した。

深まる依存依存だったと思う。初めはそんな感じで私は誠に惹かれていった。

だが、誠には言葉がいる。どちらともの友人である私が壊す訳には、と自制をしようとしたが時既に遅し、私は誠の初めてを食べた。

勿論私だって初めてだった。だから、私はもう死んでも良いと思っていた。

でも誠は違った。極々当たり前の話だ。

誠は正直に言葉告白し、関係を終わらせたのだ。

まあ、誠は誠で3股だったのだが(笑)

そして、誠はコミュニティでもそれを告白し、メンバーにも謝罪したのだ。浮気相手のことは伏せたまま。

私は誠に守られてしまった。

結果、誠はうつ病に、言葉メンヘラになった。なのに私はピンピンしていた。いやまあ、かなりダメージを喰らったが、病まなかったと言うべきかもしれない。

あれから10年近くが経つ。

誠は私の彼氏になり、言葉は私の友人になった。

私は西園寺世界にはなれなかった。

私を断罪する人はもういない。

から、私は一生この後悔を抱えて生きていくのだろうと思う。誠と一緒に。

見る人が見れば、わかるかもしれない。だから書いた。そんなところです。

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