はてなキーワード: 武勇とは
・わりと面白いですコーエーさんありがとうございます。
・大将はステータスが重要なので無凸でも強SSRが強く、副将・与力は威名が重要なので無凸SSRより凸したSRの方が強いので武将が(今のところは)腐りにくくていい。
・SSR輩出は渋く、凸はなかなか大変。あと一部SSRが弱すぎるのはなんなんだ、毛利輝元お前のことだぞ。
・茶室はまれに強SSRが12000金、弱SSRが8000金で買えるらしいが、茶室600回回して今のところ毛利輝元が1回来ただけなので、確率0.1%くらいなのかな?なお毛利輝元はスルーしました。
・ステータス90以上の武将2名配置すると部隊にバフがかかるので、素で武勇が90あって、中程度の装備で統率or知力が90超える5凸SR本庄繁長さん強すぎでは。
・部隊運用が思ったより工夫できて飽きない。いずれリアルタイム対人も実装されるんだろうけど、期待できる。
・資材を兵糧に変える取引所とかいう謎施設の存在意義はなんなのか。ただし廃プレーヤーには必要な施設なのかもしれない。普通のプレーヤーは兵糧が余り資材が不足するので無用の施設。
・列伝イベントは事実上テキスト読むだけなのはもうちょっと工夫の余地があるのでは。位置ゲーなんだから実際の合戦の動きとかなんらか取り込めないものか。桶狭間とか川中島とか関ヶ原とか動きが重要な戦たくさんあるんだし。
・地図が見づらいのは位置ゲーとしてかなりイマイチなので改善してほしい。制圧した地域を眺めてニヤニヤしたいのに縮尺が中途半端。あと制圧した地域をテキストでも一覧できるようにしてほしい。
・攻城戦はせめて地図に表示されてるところは戦えるようにしてくれ。見えてる城は攻めれないのに参戦ボタンでどこでも攻めれるの意味分からん。直接攻めたときはバフが乗るとかのボーナスもほしいところ。
【これだけは許せない】
・開戦ボタンが邪魔すぎる。敵軍の兵種が隠れて見えないとかふざけてるのか。今すぐなんとかしろ。
1.三 ポンティアック
2.二 リトル・タートル
3.捕 テカムセ
4.遊 オセオラ
8.右 ジョゼフ酋長
五大湖周辺のオタワ族の酋長。元々フランス人と交易を通じ友好な関係を築いていた。しかし、フレンチインディアン戦争でイギリスが勝利すると、情勢は変化する。フランスに変わり台頭したイギリス人は次々に入植し土地を奪う、一方的に交易を制限するなどの横暴に出る。これに脅威を感じたポンティアックはオジブワ族、ポタワトミ族などの諸部族と提携し、イギリスの一斉攻勢をしかける(ポンティアック戦争1763)。イギリス人の完全追放という目的には失敗したものの、大打撃を受けたイギリスは広大なインディアン保護区を制定するなどの大幅な妥協を強いられた。
・リトル・タートル
北東部のマイアミ族の酋長。アメリカ独立戦争ではイギリスと同盟し、フランス軍のオーギュスタン・ド・ラ=バルム大佐を戦死させるなど活躍した。戦後オタワ族、ショーニー族、レナペ族などと共に北西インディアン同盟を結成。イギリスとも結託し、北西インディアン戦争(1785~95)を戦った。1790年ハーマー作戦では250名以上の米兵を戦死させる戦果を挙げ、更に翌年ウォバッシュ川の戦いでは包囲奇襲により米軍の死者600名以上、インディアンの死者20名程度という大勝利を収めた。これはインディアン戦争で最大の勝利である。しかし、フォールンティンバーズの戦いで破れ、イギリスに見捨てられたため降伏、広大な土地を割譲することになった。
・テカムセ
北東部のショーニー族の戦士。北西インディアン戦争でショーニー族は敗れたショーニー族は抵抗の意志を失っていた。しかし、テカムセは弟の預言者テンスクワタワと共に白人への抵抗運動を再開する。土地を守るために全インディアンの団結が必要であると考えた彼は各地を訪問し、インディアン諸部族に連携を呼びかけた。1811年ティッペカヌーの戦いで米軍に敗れたが、その後も抵抗を諦めず、米英戦争ではイギリスと組んで米軍と戦う。デトロイドの戦いで勝利、メイグス砦包囲戦では攻略には失敗するも大損害を与えた。しかし、1813年テムズの戦いで戦死し、彼の壮大な夢は実現することなく幕を閉じた。
・オセオラ
フロリダ半島のセミノール族の戦士。アメリカはフロリダからセミノール族を追放しようと3渡に渡る侵略戦争を仕掛ける。オセオラが活躍したのはその中でも最大規模の第二次セミノール戦争(1835~42)である。彼の指揮する巧みなゲリラ戦に苦しめられた米軍は37年和平交渉の最中にオセオラを捕らえ獄死させた。しかし、セミノール族の怒りは収らず戦争は続いた。第三次セミノール戦争でも米軍は苦戦した。セミノール族の一部はフロリダの奥地エバーグレイズに立て籠もり続け、現在に至るまで降伏していない。そのためセミノール戦争は「インディアンのベトナム戦争」と呼ばれ、フロリダセミノールは征服されざる人々を自称する。
グレートプレーンズのラコタ・スー族オグララの酋長。モンタナ州で鉱山が発掘されると、アメリカはララミー砦から鉱山に至る道路の建設を企む。これに反発したレッド・クラウドはシャイアン族、アラパホ族と連携し、レッドクラウド戦争(1866~68)を戦う。途中のフェッターマン虐殺では陽動に乗せられたウィリアム・フェッターマン大尉指揮下の米軍80名が完全包囲され全滅した。米軍は道路建設を諦め、ララミー砦を放棄したため、レッド・クラウドは唯一アメリカに勝利した偉大なインディアンとして賞賛されることになった。しかし、米軍の強さを実感した彼はそれ以後白人と戦わなくなり、晩年はキリスト教に改宗し居留地に入った。
シッティング・ブルはラコタ・スー族ハンクパパ、クレイジー・ホースはオグララの戦士。本来ならば別個に扱うべきだが、打線に収りきらないのでやむを得ず同じポジションに収めた。二人はレッドクラウド戦争でも活躍し、その知略と武勇を称えられた。その後インディアンの聖地ブラック・ヒルズで鉱産資源が発掘されると、聖地を巡りブラックヒルズ戦争(1876~77)が勃発,ラコタ・スー族は再度シャイアン、アラパホ族と共に戦うことになる。76年リトル・ビッグホーンの戦いではジョージ・カスター大佐指揮下の騎兵連隊250名が完全包囲され全滅した。そのため、シッティング・ブルとクレイジー・ホースの二人は偉大な戦士としてインディアンから賞賛され、白人からは恐れ憎まれるることとなる。しかし、米軍の容赦ない猛攻と兵糧攻めの前にインディアンは敗北、クレイジーホースは捕らえられ刺殺された。シッティングブルはカナダに亡命し、帰国後無実の罪で逮捕されそうになり抵抗したため射殺された。
カリフォルニア溶岩地帯のモードック族の酋長。モードック族は故郷から追放されるが、キャプテンジャックと数十名の戦士はこれに反発し居留地を脱出した。彼らは複雑な地形を利用したゲリラ戦で10倍近い戦力の米軍を1年近く苦戦させた。手を焼いた米軍は和平交渉のためにエドワード・キャンビー少将を派遣するが、交渉が決裂し殺害されたため、インディアン戦争で唯一米軍の将軍が戦死した戦争となった。白人の猛攻の前に降伏したキャプテンジャックは将軍殺しの罪で処刑され遺体は見世物にされた。
・ジョゼフ酋長
アイダホ高原部のネズパース族の酋長。平和主義者であった彼はキリスト教に改宗するなど白人に対して従順であったが、居留地入りを命じられるとこれに反発、部族を率いてカナダへの亡命を目指した逃避行に出る。彼らは兵力と装備で圧倒する米軍の追撃を巧みにかわし続け、遭遇した際にも返り討ちにしたため、白人はジョゼフ酋長を赤いナポレオンと賞賛した。しかし、2000kmにも及ぶ逃避行の末に目的地直前で米軍に敗れ降伏した。故郷を追われ仲間を失った彼は傷心で没することになった
アメリカ南西部国境地帯チリカワ・アパッチ族の戦士。家族を殺された報復にメキシコ軍との戦いに身を投じ武名をはせた。ジェロニモの名は銃弾の雨を無視して襲い来る彼に恐れをなしたメキシコ兵が聖者ヒエロニムスに助けを求めたことが由来である。一旦米軍に降伏し、保留地に入るも、1874年に脱出し、96年に降伏するまで戦い続けた。ゲリラ戦の名手であった彼は米軍を苦戦させ続け、捕らえられても何度も脱出を繰り返した。彼の降伏によりインディアンの大規模な抵抗は終焉を迎えた。彼は見世物にされるなどの屈辱を受けながら虜囚のまま没した。
7歳上のアンケセナーメンと結婚。夫の死後彼女が捧げた花を墓の発掘者カーターは「どんな財宝よりも美しかった」と称えた。未亡人となったアンケセナーメンは後継者アイとの結婚を嫌がった。
・ネロ
7歳年上の美女ポッパエアを寵愛。彼女の死を深く悲しみ、当時の慣習であった火葬ではなく防腐処理をして霊廟に収めた。
・曹丕
3歳年上の文徳皇后を寵愛した。聡明な彼女は夫に助言を与えた。曹丕も群臣の反対を押し切って彼女を皇后に立てた。
・劉駿
・宇文邕
北周の皇帝。7歳年上の李娥姿を寵愛した。北周が滅びると彼女は出家し、常悲に改名した。
・煬帝
占いにより吉とされた2歳年上の蕭皇后と結婚した。聡明な彼女は外遊の度に付き従い、度々煬帝の暴政を諫めた。
25歳の時に15歳年上の未亡人ハディージャと結婚。天啓を受けたムハンマドを励まし予言者としての自覚を与えたのは他ならぬ姉さん女房のハディージャである。
・仁明天皇
初代神聖ローマ皇帝。2歳年上の妃エドギタは美貌と信仰心を兼ね備え、彼女が若くして無くなると深く悲しんだ。
・ルイ4世
西フランク国王。7歳年上のジェルベルジュと結婚した。彼がバイキングに誘拐されたとき彼女は交渉により彼の解放を実現した。夫の死後は摂政として息子ロタールを支えた。
・李克用
後唐の太祖。3歳年上の劉夫人と結婚。武勇に優れた彼女は夫が朱全忠に殺されそうになると、自ら軍を率いて窮地を救った。
・円融天皇
12歳年上の媓子と結婚した。夫婦関係は良好で会ったが、跡継ぎに恵まれず立后後6年で媓子は崩御した
フランス国王。8歳年上のベルトと結婚したが、彼女とは又従姉妹であったため近親相姦に当たるとされ、ローマ教皇に破門と引き換えに離婚させられた。しかし、離婚後もベルトを愛し続け関係は続いた。
・藤原道長
2歳上の正室倫子とは夫婦円満で多くの子宝に恵まれたことが出世に繋がった。
・一条天皇
・三条天皇
2歳年上の綏子、4歳年上の娍子を娶る。綏子は当初は寵愛を受けるも、愛を試すために氷を握らされ、変色した手を見て興ざめされるという理不尽な理由で寵愛を失う。娍子も寵愛を受け6人の子を儲けた。
9歳上の中宮威子以外の妻を娶らなかった。
・堀河天皇
中宮は19歳年上の叔母篤子。夫婦共に教養人であったために仲睦まじかった。天皇が若くして崩御すると篤子は出家した。
・鳥羽天皇
2歳上の中宮璋子の間に7人の子を儲け、彼女の死を看取った際には号泣した。
・二条天皇
病没した近衛天皇の中宮で3歳上の多子を寵愛した。夫の没後多子は出家し、二人の夫の菩提を祈った。
・世宗
遼の皇帝。12歳年上の甄皇后を寵愛した。聡明な妻の助言を聞き入れず、放蕩にふけった彼は従兄弟に暗殺された
・徽宗
北宋の皇帝。側室の顕粛皇后は3歳年上。身分は低かったが、美人で詩才の会った彼女は皇帝の寵愛を受けた。
・高倉天皇
平清盛の娘で13歳年上の徳子と結婚し、安徳天皇を儲けた。同時代に活躍した右京太夫によると夫婦仲は良好であった。
・平宗盛
平清盛の息子。1歳年上の妻清子が亡くなると深く悲しみ、官職を辞した。一方で妻の遺言に従いその遺児を大切に育て上げた
・寧宗
南宋の皇帝。3歳上の温和な韓皇后と6歳上の多芸多才な楊皇后と結婚し、二人は皇帝の寵愛を競った。
1歳上の妻ボルテと結婚した。チンギスが弱小武将であった頃からの妻は特別な存在であったようでチンギスの後継者は皆ボルテの息子である。
・藤原頼経
鎌倉幕府将軍。16歳年上の竹御所と結婚した。夫婦仲は円満だったが、男児を死産し亡くなったため、頼朝の直系は途絶えた
・ビルイェル
スウェーデン国王。3歳年上の王妃マルタと仲が良く、彼女は国政に大きな影響を与えた。一方で弟のエリクとは不仲であったため、妻と共謀して獄死させた。
フランス国王。1,2歳年上の妻ジャンヌが姦通の疑惑で幽閉された際も彼女を信じ続けたため、無事釈放された。
・足利義満
・李芳遠
朝鮮王。妃は2歳年上の元敬王后。当初は夫婦関係が良好で8人の子を儲けた。また、夫を暗殺の危機から救い、李氏朝鮮の建国に貢献した。しかし、夫が即位し後宮を持つようになると、夫婦仲は悪化した。
・世宗
朝鮮王。2歳年上の昭憲王后を深く愛し、10子を儲けた。父王が外戚を警戒し、昭憲王后を廃位しようとした際にも妃を守り抜いた。
・端宗
朝鮮王。妃は1歳年上の定順王后。政治闘争に巻き込まれ、16歳の若さで流刑・処刑された。妻は毎日朝夕、泣き叫んで夫の冥福を祈った。
・睿宗
朝鮮王。正室は1歳年上の恭恵王后。間に子はなかったが、心優しい彼女は後宮にも優しく接っした。正室が病に倒れると王は毎日彼女を見舞った。
・中宗
朝鮮王。正室であった1歳年上の端敬王后は即位後7日で廃位されてしまう。しかし、王は彼女のことを生涯愛し続け、妻の実家のある仁王山を毎日眺めた。それを知った王后は自分が良く来ていた服を山にかけた。
・フアン
アラゴン王。3歳上のマルタは穏やかな性格で短気な夫を度々なだめた。
ブルゴーニュ公。1歳年上の善良な妻ミシェルは夫によく尽くし、領民からも愛された。
・ルネ・ダンジュー
フランスの王族。ロレーヌ公。9歳年上の妻イザベルは聡明で夫と共同で統治に当たった。夫が敵と交戦中には自ら軍を率いて援護に向かう、夫が敵に捕らわれている間も国政や軍事を代わりに行うなどした。
・正統帝
明の皇帝。正妃は1歳年上の銭妃。彼女は夫を深く愛し、皇帝がモンゴル軍の捕虜となった際には宮中の財産を集めて身代金を払おうとするも失敗、悲しみから毎日泣き続け、左目が失明、足が不自由になった。解放された正統帝は軟禁状態になったが、その間銭妃は夫を慰め続けた。その後帝位に返り咲いた皇帝は妻との合葬を遺命したが果たされなかった。
・成化帝
明の皇帝。19歳年上の万皇貴妃を溺愛したが、嫉妬深い彼女は他の妃を悉く堕胎させた。彼女が亡くなった悲しみから皇帝は同年に没した。
神聖ローマ皇帝。2歳上のマリー・ド・ブルゴーニュと結婚しブルゴーニュ公となった。政略結婚であったが仲は良く、共に乗馬や狩猟に興じた。しかし、マリーが落馬事故で亡くなったため、5年で幸福な結婚生活は幕を閉じた。妻の死後マキシミリアンはローマ皇帝となる。
・アフォンソ
ポルトガル皇子。5歳上のイザベルと結婚した。夫婦関係は良好だったが、落馬事故で夭折した。イザベルは再婚しないことを宣言したが、ポルトガル国王マヌエル1世と結婚することとなった
フランスヴァロワ朝の国王。19歳年上の愛人ディアヌ・ポワティエにうつつを抜かし、正妻カトリーヌ・ド・メディシスを冷遇した。厳密には妻ではない。
オーストリア大公。秘密裏に2歳上の豪商の娘フィリッピーネと貴賤結婚した。フィリッピーネは豊富な薬学の知識を持ち、貧民の救済に努めた。
8歳年上の信子を寵愛し、後土御門天皇を儲けた。
5歳年上の朝子を寵愛し、後柏原天皇を儲けた。
・ヨハン3世
スウェーデン国王。兄王エリク14世の許しを得ず、11歳年上のポーランド王女カタジナと結婚したため謀反を疑われ投獄された。加えてロシアのイヴァン4世からも離婚を要求されたが、妻への愛を守り通した。解放され即位した彼の政治にも妻は大きな影響を及ぼした。
・織田信長
6歳年上の側室生駒吉乃を正室なみに優遇し、病に倒れた際には頻繁に見舞ったとされる。吉乃は不明な点が多く実は信長より年下ではないかとされることもある
・直江兼続
3歳上の船と結婚した。側室を持たなかったことから彼女への愛の深さが窺える。
・バッハ
1歳年上のマリア・バルバラと結婚。7人の子を儲けた。夫婦仲は円満であったが、彼女が急死したため再婚した。バッハは前妻と同じく後妻も深く愛し生涯20人の子を儲けた。
・ウィレム4世
オラニエ公、オランダ総督。2歳年上のアンと結婚した。彼女は国民からの人気が無かったが、残された手紙から夫婦仲は良かったことが窺える
・フェルナンド6世
スペイン王。妃のバルバラは2歳年上。不美人であった妻を初めて見たときは落胆したが、音楽を通じて良好な夫婦関係を築き、妻の死を深く悲しんだ
ロシアの軍人。10歳上の女帝エカチョリーナ2世の事実上の夫。二人は深い絆で結ばれ、ポチョムキンは妻を支え続けた。晩年は軽んじられるようになったが、彼が没するとを女帝は深く悲しんだ
神聖ローマ皇帝。2歳年上の妃マリア・ルドヴィカと結婚。美人で親切な彼女は夫に献身的であり、愛人にも優しく接した。貧者の救済も行い、「女性の美徳のモデル」と称された。
・上杉鷹山
1歳年上の未亡人マーサと結婚した。家庭的で穏やかな性格の彼女は夫に献身的に尽くした。独立戦争の最中には夫に同行し傷病兵の看護に当たった。
イギリスハノーバー朝の国王。6歳上の未亡人マリア・フィッツバードに夢中になり、秘密結婚した。正妻キャロラインのことは嫌っており、冷遇したため、国民は彼女に同情した。
イギリス首相。3歳年上のルイザと結婚した。ルイーザは病弱ながらも信心深く献身的で時には秘密文書をコピーするなどして夫の政治活動を支えた。彼女は貧者や病人の援助にも力を注いだ。
・ハンス・アンデルセン
童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンの父親。12歳上のアンネ・マリーと結婚した。
6歳上の美女ジョゼフィーヌと結婚した。ナポレオンが妻に熱烈な愛を向けたのに対し、ジョゼフィーヌは夫のラブレターを晒して笑いものにするなど、当初は良好とは言えない夫婦関係であった。跡継ぎに恵まれなかったため、二人は離婚したが、ジョゼフィーヌは皇后の称号を維持することが許され、二人の間に交流が続いた。ナポレオンは臨終の際に元妻の名を呼んだ。
アメリカ大統領。2歳年上の教師アビゲイルと結婚した。共に読書家であった二人の仲はよく、大統領就任後も妻に政治的アドバイスを求めた。ホワイトハウスに図書館を建設したのもアビゲイルである。
イギリス首相。12歳年上のメアリーと結婚。当初は金目当てで結婚したが、次第に愛し合うようになり、政敵グラッドストンですらその夫婦関係を模範的と称えた。
1歳上のいとこエマ・ウェッジウッドと結婚。エマは絵に描いたような良妻賢母で度重なる子の死に耐え、病弱な夫を支え続けた。
イギリスの首相。父からの激しい反対を押し切って3歳年上のジョージナと結婚したため、仕送りを停止され経済的苦境に陥った。生活費を稼ぐため政治記事の寄稿で稼いだが、聡明な妻は夫の執筆活動を支えた。首相就任後もジョージナは内気な夫に代わって社交界で活躍した。
・マネ
フランス印象派の画家。弟の家庭教師を務めていた2歳年上のピアノ奏者シュザンヌと恋仲になる。結婚に反対した父の死後二人は結ばれ、マネは妻をモデルとした絵を何点か残している。
南北戦争の英雄。2歳上の妻アニーは夫の死後生涯独身を貫いた。
・勝海舟
2歳上の民子と結婚。民子は奔放な夫を懸命に支え続けたが、最後は愛想を尽かしたようで勝のそばに埋めるなと言い残した。
・小松帯刀
維新の十傑の一人。7歳年上の妻近を深く愛した。日本で初めて新婚旅行に行ったのは坂本龍馬とされることが多いが実は小松帯刀である。
・明治天皇
・同治帝
清の皇帝。2歳年上の孝哲毅にうつつを抜かしすぎたため、母の西太后に引き離された。孤独を紛らわせるため、遊郭に通うようになりそこで梅毒に感染し死亡した
・ハリソン
アメリカ大統領。1歳年上のキャロラインと結婚。彼女はホワイトハウスの改修、女性の権利向上に貢献し、ホワイトハウス初の女性スタッフが雇われた。
イギリスの首相。4歳年上のシャーロットと結婚。夫婦は生涯にわたり親密であった。シャーロットは野心に欠ける夫の政治活動を支え、彼女の死後体調が悪化するようになった。
・エルガー
イギリスの作曲家。8歳年上のキャロライン・アリスと結婚。「愛の挨拶」は将来の妻のために捧げられた曲である。聡明なキャロラインはエルガーの音楽活動を生涯にわたって支え続けた。妻の死後彼の音楽活動は低迷した。
・ポワンカレ
・レーニン
1歳上のナデジダと結婚した。彼女はレーニンと共に革命運動に一生を捧げ、夫が病気に倒れた際も献身的に介護した。
・アルカポネ
1歳年上のメアリーと結婚した。彼女は両親の反対を押し切って結婚し、夫が投獄されると何通も手紙を書き頻繁に訪問した。稀代の大悪党だが、伴侶には恵まれたようだ
ドイツ出身の哲学者。4歳上のガードルートと結婚した。彼女がユダヤ人であったため、ナチスドイツから弾圧を受けたが、妻への愛を守り通した。夫婦で家に籠城し、強制収容所に送れられそうになる寸前で連合国軍が来て、夫婦の愛は引き裂かれずに済んだ。
ヒトラーの側近。5歳年上のカリンと結婚。二人は深く愛し合ったが、病弱な彼女は43歳で亡くなった。ゲーリングは彼女に因みカリンハルと命名された別荘を建設、自邸にもカリンの
記念品で埋め尽くされた自室を設置した。一方前妻だけでなく後妻エミーも深く愛した。
信玄もさすがだが、綱成の死去3年後に北条が滅亡したとかんがえると、傑物ですなあ
北条綱成は北条家中随一の猛将として他国にも知られ、戦場において常に勇敢で、特に野戦では大将であるにも関わらずに常に先頭に立って「勝った! 勝った!」と怒号しながら真っ先に敵陣に突入したと言われる。
旗指物は朽葉色(黄色)の練の四隅にそれぞれ「八幡」と墨書きしたもので、その武勇高き北条綱成の姿は「地黄八幡」と呼ばれた。
この地黄八幡の旗指物は現在、長野市松代の真田宝物館に現存する。
1571年、北条綱成が駿河・深沢城を開城した際に城内に残されていたものだ。
武田の兵は置き去りにされた「地黄八幡」の旗を見つけ、北条綱成と玉縄衆の慌てぶりを嘲り笑った。
しかし武田信玄は「左衛門大夫(北条綱成)は、逃げ惑い、旗を捨てたのではない。
あれほどの勇将なれば、次の合戦では必ずや地の利を計りて、必死の戦を仕掛けてこよう、さすれば、その鉾先支え難し。
旗印を捨てたのは、ひとえに旗持ち足軽の罪なり」と語り、真田幸隆の子・真田源次郎(真田昌輝)に「左衛門大夫(北条綱成)の武勇にあやかるように」と旗を与えた。
再投稿です
・タスカルーサ~1540
ミシシッピ先住民の首長。スペイン人征服者エルナンド・デ・ソトと交戦し、戦死した。ミシシッピ先住民はチョクトー、マスコギー族の祖先である。
・オペチャンカノウ1544~1646
ポウハタン族の酋長。ポカホンタスの叔父。1622年と1644年に白人への大襲撃を行った(第二次・第三次ポウハタン戦争)が、捕らえられ処刑された。
・ササカス1560~1637
ピクォート族の酋長。ピクォート族は白人男性を殺害したと濡れ衣を着せられ、襲撃を受ける。1836年から翌年にかけてピクォート戦争を戦うも、敗北、ササカスはモヒガン族に殺された。ピクォート族は数百人が虐殺、奴隷化され、一時期は絶滅認定を受けるまでに激減した。ピクォート戦争で白人に協力したナラガンセット族も後のフィリップ王戦争で白人に虐殺されることとなる。
・ポペ1630~1692
プエブロ族の魔術師。スペインの宗教弾圧に対し、1680年一斉蜂起を起こす。スペイン人を駆逐したプエブロ族は独立国家を築くが、ポペの死後内部分裂しスペインに降伏した。
南部タスカローラ族の酋長。白人の土地侵奪、奴隷狩りに反発し、タスカローラ戦争(1711~15)を起こす。しかし、北部タスカローラに裏切られ、白人に引き渡され処刑された。
アベナキ族の酋長。フランス人神父セバスチャン・ラルと結託し、マサチューセッツ植民地総督へダマー戦争(1722~1725、ラル神父戦争、グレイ・ロック戦争ともいう)を仕掛ける。ラル神父は戦死し、和平が成立した後も散発的に植民地への攻撃を続けた
ワンパノアグ族の酋長。ピリグリム・ファザーズを助けた心優しきマサソイト酋長の息子。白人の貪欲な土地略奪に耐えかね、交戦した(フィリップ王戦争1765~66)。メタカムは戦死、遺体は戦利品としてバラバラにされ、妻子は奴隷として売り飛ばされた。数千人のインディアンが死亡し、白人の勝利に終わった。
・オブアンディヤック1720~69
オタワ族の酋長。英名ポンティアック。交易を制限したイギリス人たちに不満を抱き、オジブワ族、ポタワトミ族などと連合し攻撃をしかけた(ポンティアック戦争1763~65)。白人を追い出すことには失敗したが、イギリス政府は政策変更を余儀なくされ、インディアン保護区を制定した。オブアンディヤックは白人では無く、対立する部族のピオリア族に暗殺された。
ショーニー族の酋長。1774年ダンモア卿の戦争で白人と戦った。アメリカ独立戦争ではショーニー族の中立に努め、ランドルフ砦のアメリカ人を訪問した際に拘束され処刑された。
チェロキー族の戦士。アメリカ独立戦争ではイギリスと組んでアメリカと戦った。独立戦争後は他部族へ同盟を呼びかけながら、アメリカと戦った。チョクトー族、マスコギー族との同盟を祝う最中に心臓発作で亡くなった。
・リトルタートル(1747~1812)
マイアミ族の酋長。アメリカ独立戦争ではイギリスと組んでアメリカと戦い、オーギュスタン・ド・ラ・バルム大佐を戦死させた。独立戦争後はワイアンドット、ショーニー、チェロキー等と北西インディアン同盟を結びアメリカと戦った。(北西インディアン戦争1785~1795)。ハーマー作戦で勝利したほか、アーサー・セントクレア少将を破り、戦死者600名の大損害を与えた。しかし、フォールン・ティンバーズの戦いで敗北し降伏した。
ショーニー族の戦士。アメリカ独立戦争ではイギリスと組んでアメリカと戦った。北西インディアン戦争でも活躍し、ハーマー作戦、セントクレアの敗北で活躍したが、フォールン・ティンバーズの戦いで敗北した。
レナペ族の酋長。アメリカ独立戦争、北西インディアン戦争でアメリカと戦い、セントクレア将軍を破ったが、フォールン・ティンバーズの戦いで敗れた。
・エグシャワ1726~1796
オタワ族の酋長。アメリカ独立戦争、北西インディアン戦争でアメリカと戦い、フォールン・ティンバーズの戦いで負傷した
・テカムセ1768~1813
ショーニー族の酋長。白人の侵略に対し、インディアン全体の団結を広く呼びかけた。ティッペカヌーの戦いで敗れたが、抵抗を諦めず、米英戦争でイギリスと組んでアメリカと交戦した。デトロイド包囲戦で米軍を破り、メグス包囲戦でも攻略には失敗したものの損害を与えた。しかし、テムズの戦いで戦死し、彼の壮大な夢は叶うことが無かった。ちなみにテカムセと米英戦争で敵対したウィリアム・ハリソンは1841年9代目大統領に就任するが、わずか31日で病死した。
マスコギー族の戦士。1811年の大地震を白人と戦えというメッセージと解釈し、交戦派レッド・スティックスを率いクリーク戦争(1813~14)を戦った後に降伏した。ちなみにクリーク戦争で活躍したジャクソン大統領は後に7代目大統領に就任、インディアンへの弾圧・虐殺を行った。
・メナワ1765~40頃
マスコギー族の戦士。レッドスティックスのメンバーとしてクリーク戦争を戦い、戦後も土地割譲に同意した酋長を暗殺するなど強制移住に抵抗し続けた。
マスコギー族の戦士。レッドスティックスのメンバーとしてクリーク戦争で活躍、バーントコーンの戦いで米軍に勝利した。
ウィネベーゴ族の酋長。白人に対して友好的であったが、鉱山労働者の横暴に耐えかね、1827年ウィネベーゴ戦争を起こした。米軍に敗れ、翌年獄死した。
・ブラック・ホーク(1767~1838)
ソーク族の酋長。白人の土地侵略に対し、1832年フォックス族、ポタワミ族と結託してブラックホーク戦争を起こした。しかし、この戦いはインディアンが数百人殺される悲惨な結果に終わり、ブラックホークは降伏し、捕虜となった。
・オセオラ1804~38
セミノール族の戦士。強制移住に反発し、第二次セミノール戦争(1835~42)が勃発した。ゲリラ戦法に苦しめられた米軍は和平交渉を行い、交渉の場に向かったオセオラを捕らえた。彼はその後獄死したが、セミノール族の怒りは収まらず、戦争は続いた。なお、セミノール族の一部はフロリダの奥地に居座り続け、現在に至るまでアメリカに降伏していない
セミノール族の戦士。第二次セミノール戦争で活躍し、デイドの戦いで100人の米兵を戦死させた。
・ビリー・ボウレッグス1810頃~1859
セミノール族の酋長。オセオラが獄死した後も第二次セミノール戦争を継続し、オキチョビー湖の戦いで勝利するなど活躍した。第三次セミノール戦争でも米軍を苦しめたが、強制移住に従った。
セミノール族の戦士。第二次セミノール戦争に加わり、オキチョビー湖の戦い、ロクサハッチーの戦いで米軍に勝利した。
・バッファロー・ハンプ1800頃~1867頃
コマンチ族の戦士。同朋が虐殺された報復に1840年の大襲撃を行った。43年テキサス政府と和平を結び、晩年は農夫として暮らした。
・ワルカラ1808~55
ユート族の戦士。その知恵と武勇から「砂漠のナポレオン」「史上最大の馬泥棒」と呼ばれた。モルモン教徒入植者と対立し、1853年から翌年にかけてワルカラ戦争と呼ばれる一連の襲撃を行った。
・フレチャス・ラヤダス
ヒカリラ・アパッチ族の戦士。シエネギラの戦いでアメリカ軍を破った
・カミアキン1800~1877
ヤキマ族の戦士。白人探鉱者との対立からヤキマ戦争(1855~58)を闘った。降伏を拒否してフラットヘッド族の下に逃れた後に故郷に帰還し、最期まで立ち退きを拒んだ。
・レスキ1808~58
ニスカリー族の酋長。白人の土地侵奪に反発し、ピージェット湾戦争(1855~56)を闘ったが、捕らえられ処刑された。
・テカムタム?~1864
アサバスカ族の酋長。鉱山労働者たちの横暴に反発し、ロングリバーウォー(1855~56)を戦い敗れた。
・カイルーク
モハベ族の酋長。当初は白人に対して友好的だったが、モハベ戦争(1858~59)を戦うようになった。降伏し捕らえられるも、脱走を図ったため射殺された
・ヌマガ1830~71
パイユート族の酋長。白人との平和を望んでいたが、探鉱者たちがパイユート族の食料を奪ったため、1860年パイユート戦争を戦った。敗戦後も白人と部族の平和のために生涯を捧げた。
・マヌエリト1818~93
ナバホ族の戦士。1860~66年までアメリカ政府の土地収奪と強制移住政策に抵抗し続けたが、後に降伏し、移住を受け入れた。
ティンパノゴス族の酋長。モルモン入植者と対立し、1865年ユタ、パイユート、ナバホと結託しブラックホーク戦争を仕掛けた(ソーク族のブラックホーク戦争とは別)。70年にアントンガは結核で亡くなるが、72年まで闘争は続いた
・マンガス・コロラダス1793~1863
アパッチ族の酋長。1830年代家族や同朋をメキシコ人に虐殺されたため、米墨戦争ではアメリカと組んでメキシコと戦った。後に後述のコーチーズと共に米軍と戦った。和平交渉の最中に捕らえられ、処刑された。
・コーチーズ1805~1874
アパッチ族の酋長。マンガスの義理の息子。1861年入植者の息子を誘拐したというあらぬ疑いをかけらたことがきっかけで1872年に和平が成立するまで白人たちと死闘を繰り広げた。
ダコタ・スー族の酋長。白人に対して従順であったが、1862年飢餓に耐えかね一斉蜂起を起こし敗れた。翌年逃亡先で農夫に発見され射殺された。
カイオワ族の酋長。第一次アドビ壁の戦いでアメリカ軍に勝利した。
カイオワ族の戦士。第一次アドビ壁の戦いで活躍したほか、ウォレン・ワゴン・トレインの襲撃も成功させるなど戦果を挙げた。第二次アビド壁の戦いに関与し、1874年に逮捕され、投身自殺した。
カイオワ族の戦士。ウォレン・ワゴン・トレインの襲撃など軍事基地、幌馬車、入植地への襲撃を多数成功させたが、1870年逮捕され、翌年逃亡を図り殺された。
・ローン・ウルフ1820頃~79
カイオワ族の酋長・交渉によりウォーレンワゴン・トレイン襲撃で逮捕されたホワイト・ベア、ビッグ・ツリーの釈放を実現した。1873年息子と甥が白人に殺されたことがきっかけで闘争を開始。クアナ・パーカーと組んでレッド・リバー戦争を戦ったが、降伏した。なお、ビッグ・ツリーは他のカイオワ戦士と違い、レッド・リバー戦争に参加していない
シャイアン族の戦士。強制移住に反発し、スー、アラパホと結託してコロラド戦争(1864~65)を戦う、ジュールズバーグの戦い、プラット橋の戦いで白人に勝利するなど活躍した。和平派が強制移住にしたがった後も白人と戦い続け、1868年ビーチャ島の戦いで戦死した。酋長ではないが、勇猛さとカリスマ性から白人から酋長であると誤解された。
ラコタ・スー族の戦士。ララミー砦からモンタナへの金鉱に向かう道路建設に反発し、シャイアン、アラパホと結託してレッドクラウド戦争を戦った(1866~68)。米軍は道路建設を諦め、砦を放棄したため、和解が成立。レッドクラウドは居留地に入り晩年はキリスト教に改宗した。
ラコタ・スー族の戦士。レッドクラウド戦争に参加した。戦後敵対するショショーニ族と交戦し、戦死した。
・ヤングマン・アフレイド・オブ・ヒズホース(彼のウマを恐れる若者)1836~1893
ラコタ・スー族の戦士。レッドクラウド戦争に参加、ウーンデッドニーの虐殺後はアメリカ政府の平和交渉に当たった。
モードック族の酋長。居留地への強制移住に反発し、複雑な地形を利用して装備、戦力で勝る米軍を苦戦させた。(モードック戦争1872~1873)戦争の途中の和平交渉が決裂し、エドワード・キャンビー少将が殺害されたため、インディアン戦争で米軍将軍が殺された唯一の戦いとなった。降伏し絞首刑に処されたキャプテン・ジャックの遺体は見世物とされた。
モードック族の戦士。モードック戦争に加わり、サンドビュートの戦いで勝利した
コマンチ族の酋長。スペイン人の鎖帷子を身にまとって戦い、勇名をはせた。しかし、彼の防備はリトルローブクリークの戦いではライフル弾を防げず、戦死した。
・ペタ・ノコナ1820頃~1864
コマンチ族の酋長。アイアンジャケットの息子。1836年パーカー砦を襲撃し、白人女性シンシア・パーカーを誘拐、妻とする。1860年ピーズ川の戦いで敗れ妻を連れ戻された悲しみと戦傷から亡くなった。
都市の強みはなんと言っても地形を生かしつつ、
かつてどのような侵略者も一度もこれを破ることは、
叶わなかった。
要塞を出て戦ってはならぬ、
ひたすら塀を厚く高く、堀を深く大きく、
これを食い破ることはできない、、、。
絶峰のように積み上げられ、
日々更に積み上がっていった。
さてモンゴル軍、
反撃を受けると多くの戦死者を残して、
意外にもアッサリ
逃げ始めます。
ロクな装備ではありません。
敵は弱し、逃がしてはならじと追うのですが、
意外にも又攻めてきますが、
3年にわたり、
弱いのに、只々、数万の犠牲を払って
いつからか、狼どころか負け犬、ハイエナ軍団と嘲笑する声も、、。
そんなある日、
城外に討って出ることに一番反対していた、
密告により発見、
それに実は、
軍団の指揮は大いに上がり、
蹴散らし蹴散らし徹底追尾すると、
とんでもないスタミナで逃げ続けます、。
総力戦の興奮で見落としていたのですが、
各騎馬兵は数頭の引き馬まで引き連れて、
走りながら巧みに乗り換えています。
遂に追っ手の馬脚が止まった瞬間から、
遠巻きに囲み矢の嵐を降らせます。
追うと下がり、又矢を浴びせます。
各自数頭の引き馬には、
大量の矢が積まれていました。
押し問答が続くのですが、
追っ手兵士の損傷は極、軽微です。
やはりハイエナども、今日は引き上げようと号令に合わせるように
馬が泡を吹いて倒れ始めました。
馬を狙った毒矢だったのです。
城塞の方を見やると、
夕闇に紛れて蒼い不気味な土煙が、、、。
おや、更に援軍が来たのかとみやると、、
本軍に通知していました。
草原の真っ只中で脚を失った、
殲滅され、
城内の士気は多いに下がる中、
三年間をかけて開発された超大型の攻城機が投入されます。
完成間近です。
近隣では刃向かうものは無くなり、
自分たちが侮った罪を贖うように。
〜〜〜
この創作たとえ話は20年前に、
止めた方が良いのではないかと、
知人にした例えです。
「君のやっていることはこの若き王のように、
自分らしい
それに合った兵の訓練や装備を固めて、
時に備えるべきです。
漸進的な努力を、
平時の今こそ、、と、、。
ある理由があって、
飛行機の中で思い出したので書き留めておきました。
・タスカルーサ~1540
ミシシッピ先住民の首長。スペイン人征服者エルナンド・デ・ソトと交戦し、戦死した。ミシシッピ先住民はチョクトー、マスコギー族の祖先である。
・オペチャンカノウ1544~1646
ポウハタン族の酋長。ポカホンタスの叔父。1622年と1644年に白人への大襲撃を行った(第二次・第三次ポウハタン戦争)が、捕らえられ処刑された。
・ササカス1560~1637
ピクォート族の酋長。ピクォート族は白人男性を殺害したと濡れ衣を着せられ、襲撃を受ける。1836年から翌年にかけてピクォート戦争を戦うも、敗北、ササカスはモヒガン族に殺された。ピクォート族は数百人が虐殺、奴隷化され、一時期は絶滅認定を受けるまでに激減した。ピクォート戦争で白人に協力したナラガンセット族も後のフィリップ王戦争で白人に虐殺されることとなる。
・ポペ1630~1692
プエブロ族の魔術師。スペインの宗教弾圧に対し、1680年一斉蜂起を起こす。スペイン人を駆逐したプエブロ族は独立国家を築くが、ポペの死後内部分裂しスペインに降伏した。
南部タスカローラ族の酋長。白人の土地侵奪、奴隷狩りに反発し、タスカローラ戦争(1711~15)を起こす。しかし、北部タスカローラに裏切られ、白人に引き渡され処刑された。
アベナキ族の酋長。フランス人神父セバスチャン・ラルと結託し、マサチューセッツ植民地総督へダマー戦争(1722~1725、ラル神父戦争、グレイ・ロック戦争ともいう)を仕掛ける。ラル神父は戦死し、和平が成立した後も散発的に植民地への攻撃を続けた
ワンパノアグ族の酋長。ピリグリム・ファザーズを助けた心優しきマサソイト酋長の息子。白人の貪欲な土地略奪に耐えかね、交戦した(フィリップ王戦争1765~66)。白人たちは彼がインディアンの君主であると決めつけ、フィリップ王と呼んだが、実際は調停役に過ぎなかった。メタカムは戦死、遺体は戦利品としてバラバラにされ、妻子は奴隷として売り飛ばされた。数千人のインディアンが死亡し、白人の勝利に終わった。
・オブアンディヤック1720~69
オタワ族の酋長。英名ポンティアック。交易を制限したイギリス人たちに不満を抱き、オジブワ族、ポタワトミ族などと連合し攻撃をしかけた(ポンティアック戦争1763~65)。白人を追い出すことには失敗したが、イギリス政府は政策変更を余儀なくされ、インディアン保護区を制定した。オブアンディヤックは白人では無く、対立する部族のピオリア族に暗殺された。
ショーニー族の酋長。1774年ダンモア卿の戦争で白人と戦った。アメリカ独立戦争ではショーニー族の中立に努め、ランドルフ砦のアメリカ人を訪問した際に拘束され処刑された。
チェロキー族の戦士。アメリカ独立戦争ではイギリスと組んでアメリカと戦った。独立戦争後は他部族へ同盟を呼びかけながら、アメリカと戦った。チョクトー族、マスコギー族との同盟を祝う最中に心臓発作で亡くなった。
・リトルタートル(1747~1812)
マイアミ族の酋長。アメリカ独立戦争ではイギリスと組んでアメリカと戦い、オーギュスタン・ド・ラ・バルム大佐を戦死させた。独立戦争後はワイアンドット、ショーニー、チェロキー等と北西インディアン同盟を結びアメリカと戦った。(北西インディアン戦争1785~1795)。ハーマー作戦で勝利したほか、アーサー・セントクレア少将を破り、600名の大損害を与えた。しかし、フォールン・ティンバーズの戦いで敗北し降伏した。
ショーニー族の戦士。アメリカ独立戦争ではイギリスと組んでアメリカと戦った。北西インディアン戦争でも活躍し、ハーマー作戦、セントクレアの敗北で活躍したが、フォールン・ティンバーズの戦いで敗北した。
レナペ族の酋長。アメリカ独立戦争、北西インディアン戦争でアメリカと戦い、セントクレア将軍を破ったが、フォールン・ティンバーズの戦いで敗れた。
・エグシャワ1726~1796
オタワ族の酋長。アメリカ独立戦争、北西インディアン戦争でアメリカと戦い、フォールン・ティンバーズの戦いで負傷した
・テカムセ1768~1813
ショーニー族の酋長。白人の侵略に対し、インディアン全体の団結を広く呼びかけた。ティッペカヌーの戦いで敗れたが、抵抗を諦めず、米英戦争でイギリスと組んでアメリカと交戦した。デトロイド包囲戦で米軍を破り、メグス包囲戦でも攻略には失敗したものの損害を与えた。しかし、テムズの戦いで戦死し、彼の壮大な夢は叶うことが無かった。ちなみにテカムセと米英戦争で敵対したウィリアム・ハリソンは1841年9代目大統領に就任するが、わずか31日で病死した。
マスコギー族の戦士。1811年の大地震を白人と戦えというメッセージと解釈し、交戦派レッド・スティックスを率いクリーク戦争(1813~14)を戦った後に降伏した。ちなみにクリーク戦争で活躍したジャクソン大統領は後に7代目大統領に就任、インディアンへの弾圧・虐殺を行った。
・メナワ1765~40頃
マスコギー族の戦士。レッドスティックスのメンバーとしてクリーク戦争を戦い、戦後も土地割譲に同意した酋長を暗殺するなど強制移住に抵抗し続けた。
マスコギー族の戦士。レッドスティックスのメンバーとしてクリーク戦争で活躍、バーントコーンの戦いで米軍に勝利した。
ウィネベーゴ族の酋長。白人に対して友好的であったが、鉱山労働者の横暴に耐えかね、1827年ウィネベーゴ戦争を起こした。米軍に敗れ、翌年獄死した。
・ブラック・ホーク(1767~1838)
ソーク族の酋長。白人の土地侵略に対し、1832年フォックス族、ポタワミ族と結託してブラックホーク戦争を起こした。しかし、この戦いはインディアンが数百人殺される悲惨な結果に終わり、ブラックホークは降伏し、捕虜となった。
・オセオラ1804~38
セミノール族の戦士。強制移住に反発し、第二次セミノール戦争(1835~42)が勃発した。ゲリラ戦法に苦しめられた米軍は和平交渉を行い、交渉の場に向かったオセオラを捕らえた。彼はその後獄死したが、セミノール族の怒りは収まらず、戦争は続いた。なお、セミノール族の一部は最期までフロリダの奥地に居座り続け、現在に至るまでアメリカに降伏していない
セミノール族の戦士。第二次セミノール戦争で活躍し、デイドの戦いで100人の米兵を戦死させた。
・ビリー・ボウレッグス1810頃~1859
セミノール族の酋長。オセオラが獄死した後も第二次セミノール戦争を継続し、オキチョビー湖の戦いで勝利するなど活躍した。第三次セミノール戦争でも米軍を苦しめたが、強制移住に従った。
セミノール族の戦士。第二次セミノール戦争に加わり、オキチョビー湖の戦い、ロクサハッチーの戦いで米軍に勝利した。
・バッファロー・ハンプ1800頃~1867頃
コマンチ族の戦士。同朋が虐殺された報復に1840年の大襲撃を行った。43年テキサス政府と和平を結び、晩年は農夫として暮らした。
・ワルカラ1808~55
ユート族の戦士。その知恵と武勇から「砂漠のナポレオン」「史上最大の馬泥棒」と呼ばれた。モルモン教徒入植者と対立し、1853年から翌年にかけてワルカラ戦争と呼ばれる一連の襲撃を行った。
・カミアキン1800~1877
ヤキマ族の戦士。白人探鉱者との対立からヤキマ戦争(1855~58)を闘った。降伏を拒否してフラットヘッド族の下に逃れた後に故郷に帰還し、最期まで立ち退きを拒否した。
・レスキ1808~58
ニスカリー族の酋長。白人の土地侵奪に反発し、ピージェット湾戦争(1855~56)を闘ったが、捕らえられ処刑された。
・テカムタム?~1864
アサバスカ族の酋長。鉱山労働者たちの横暴に反発し、ロングリバーウォー(1855~56)を戦い敗れた。
・カイルーク
モハベ族の酋長。当初は白人に対して友好的だったが、モハベ戦争(1858~59)を戦うようになった。降伏し捕らえられるも、脱走を図ったため射殺された
・ヌマガ1830~71
パイユート族の酋長。白人との平和を望んでいたが、探鉱者たちがパイユート族の食料を奪ったため、1860年パイユート戦争を戦った。敗戦後も白人と部族の平和のために生涯を捧げた。
・マヌエリト1818~93
ナバホ族の戦士。1860~66年までアメリカ政府の土地収奪と強制移住政策に抵抗し続けたが、後に降伏し、移住を受け入れた。
ティンパノゴス族の酋長。モルモン入植者と対立し、1865年ユタ、パイユート、ナバホと結託しブラックホーク戦争を仕掛けた(ソーク族のブラックホーク戦争とは別)。70年にアントンガは結核で亡くなるが、72年まで闘争は続いた
・マンガス・コロラダス1793~1863
アパッチ族の酋長。1830年代家族や同朋をメキシコ人に虐殺されたため、米墨戦争ではアメリカと組んでメキシコと戦った。後に後述のコーチーズと共に米軍と戦った。和平交渉の最中に捕らえられ、処刑された。
・コーチーズ1805~1874
アパッチ族の酋長。マンガスの義理の息子。1861年入植者の息子を誘拐したというあらぬ疑いをかけらたことがきっかけで1872年に和平が成立するまで白人たちと死闘を繰り広げた。
ダコタ・スー族の酋長。白人に対して従順であったが、1862年飢餓に耐えかね一斉蜂起を起こし敗れた。翌年逃亡先で農夫に発見され射殺された。
カイオワ族の酋長。第一次アドビ壁の戦いでアメリカ軍に勝利した。
カイオワ族の戦士。第一次アドビ壁の戦いで活躍したほか、ウォレン・ワゴン・トレインの襲撃も成功させるなど戦果を挙げた。第二次アビド壁の戦いに関与し、1874年に逮捕され、投身自殺した。
カイオワ族の戦士。ウォレン・ワゴン・トレインの襲撃など軍事基地、幌馬車、入植地への襲撃を多数成功させたが、1870年逮捕され、翌年逃亡を図り殺された。
・ローン・ウルフ1820頃~79
カイオワ族の酋長・交渉によりウォーレンワゴン・トレイン襲撃で逮捕されたホワイト・ベア、ビッグ・ツリーの釈放を実現した。1873年息子と甥が白人に殺されたことがきっかけで闘争を開始。クアナ・パーカーと組んでレッド・リバー戦争を戦ったが、降伏した。なお、ビッグ・ツリーは他のカイオワ戦士と違い、レッド・リバー戦争に参加していない
シャイアン族の戦士。強制移住に反発し、スー、アラパホと結託してコロラド戦争(1864~65)を戦う、ジュールズバーグの戦い、プラット橋の戦いで白人に勝利するなど活躍した。和平派が強制移住にしたがった後も白人と戦い続け、1868年ビーチャ島の戦いで戦死した。酋長ではないが、勇猛さとカリスマ性から白人から酋長であると誤解された。
ラコタ・スー族の戦士。ララミー砦からモンタナへの金鉱に向かう道路建設に反発し、シャイアン、アラパホと結託してレッドクラウド戦争を戦った(1866~68)。米軍は道路建設を諦め、砦を放棄したため、和解が成立。レッドクラウドは居留地に入り晩年はキリスト教に改宗した。
ラコタ・スー族の戦士。レッドクラウド戦争に参加した。戦後敵対するショショーニ族と交戦し、戦死した。
・ヤングマン・アフレイド・オブ・ヒズホース(彼のウマを恐れる若者)1836~1893
ラコタ・スー族の戦士。レッドクラウド戦争に参加、ウーンデッドニーの虐殺後はアメリカ政府の平和交渉に当たった。
モードック族の酋長。居留地への強制移住に反発し、複雑な地形を利用して装備、戦力で勝る米軍を苦戦させた。(モードック戦争1872~1873)戦争の途中の和平交渉が決裂し、エドワード・キャンビー少将が殺害されたため、インディアン戦争で米軍将軍が殺された唯一の戦いとなった。降伏し絞首刑に処されたキャプテン・ジャックの遺体は見世物とされた。
モードック族の戦士。モードック戦争に加わり、サンドビュートの戦いで勝利した
コマンチ族の酋長。スペイン人の鎖帷子を身にまとって戦い、勇名をはせた。しかし、彼の防備はリトルローブクリークの戦いではライフル弾を防げず、戦死した。
・ペタ・ノコナ1820頃~1864
コマンチ族の酋長。アイアンジャケットの息子。1836年パーカー砦を襲撃し、白人女性シンシア・パーカーを誘拐、妻とする。1860年ピーズ川の戦いで敗れ妻を連れ戻された悲しみと戦傷から亡くなった。
家康だけでなく秀吉も島津氏を恐れ、その弱体化を図るために義弘を優遇して逆に兄の義久を冷遇する事で兄弟の対立を煽ろうとしたが、島津四兄弟(義久、義弘、歳久、家久)の結束は固く、微塵も互いを疑うことは無かった。この流れで義弘を17代目当主という見方が出来たとされるが、義弘は「予、辱くも義久公の舎弟となりて(『惟新公御自記』)」と義久を敬うこと終生変わらなかった。しかし、『樺山紹劔自記』では「弟・家久の戦功を妬む様は総大将に相応しい振る舞いではない」と人間くさい一面も紹介されている。
敵に対しても情け深く、朝鮮の役の後には敵味方将兵の供養塔を高野山に建設している。
祖父・島津忠良から「雄武英略をもって他に傑出する」と評されるほどの猛将だった。
許三官仕込みの医術や茶の湯、学問にも秀でた才能を持つ文化人でもあった。また、家臣を大切にしていたので多くの家臣から慕われ、死後には殉死禁止令下であったにも関わらず13名の殉死者も出すに至っている。
義弘は主従分け隔てなく、兵卒と一緒になって囲炉裏で暖をとったりもしていた。このような兵卒への気配りもあってか、朝鮮の役では日本軍の凍死者が続出していたが島津軍には一人も出なかった[11]。
義弘は家臣らに子が生まれ、生後30余日を過ぎると父母共々館に招き入れて、その子を自身の膝に抱くと「子は宝なり」とその誕生を祝した[11]。また元服した者の初御目見えの際、その父親が手柄のある者であれば「お主は父に似ているので、父に劣らない働きをするだろう」と言い、父に手柄のない者には「お主の父は運悪く手柄と言えるものはなかったが、お主は父に勝るように見えるから手柄をたてるのだぞ」と一人一人に声を掛けて励ましている[13]。
三ツ山城を攻めたときに重創を負いその湯治場として吉田温泉(えびの市)を利用して以来、島津家の湯治場として度々利用していたが、自身のみならず家臣らにも利用させた。
九州平定後、義弘が秀吉から拝領した播磨国の領地を管理する際、現地で井上惣兵衛尉茂一という人物が検地などで義弘に協力した。そのお礼として、義弘は井上に島津姓と家紋を授けた。この井上が、島津製作所の創始者・初代・島津源蔵の祖先であると島津製作所の歴史に記されている[14]。
秀吉への降伏の際に島津家は本拠である薩摩一国以外の領土を全て奪われることを覚悟していたが、秀吉方の使者として交渉にあたった石田三成の取りなしにより大隅一国と日向の一部が島津領として残った。この事から義弘は三成に対して深く感謝し、その後も深い交誼があったため関ヶ原の戦いにおいて島津家中において東軍参加を主張するものが主流派であったが義弘は自身の三成に対する恩義と親交を理由に西軍に積極的に参加したとも言われており、最初は東軍に参加するつもりで軍を出していたという説は江戸時代に島津家が徳川将軍家に臣従していくにあたって創作されたものであるともいわれる。
愛妻家であり、家庭を大事にする人情味溢れる性格だったといわれている。朝鮮在陣中に妻に送った手紙の中に、「3年も朝鮮の陣中で苦労してきたのも、島津の家や子供たちのためを思えばこそだ。だが、もし自分が死んでしまったら子供たちはどうなるだろうと思うと涙が止まらない。お前には多くの子供がいるのだから、私が死んでも子供たちのためにも強く生きてほしい。そうしてくれることが、1万部のお経を詠んでくれるより嬉しい」という内容のものがあり、義弘の家族を心から愛する人となりが窺える。
武勇と実直な人柄から、福島正則ら武闘派の武将たちに大いに尊敬されていたようである。その為、関ヶ原の撤退戦においても松平忠吉や井伊直政ら徳川譜代のみが追撃を行い直政自身が深手を負う結果に繋がった。
若い時の義弘は特に血気盛んだったようである。弘治3年(1557年)の蒲生城攻めの際、23歳の義弘は真っ先に攻め入って一騎討ちを制したり自らの鎧の5ヶ所に矢を受けて重傷を負ったりしたほどの決死の勇戦を見せたという。また、木崎原の戦いにおいて、日州一の槍突きとうたわれた柚木崎正家を討ち取っている。
慶長4年(1599年)、剃髪・入道し惟新斎と号したがこれは祖父・忠良の号・日新斎にあやかったものである。
木崎原の戦いにおいて伊東祐信、柚木崎正家との戦いの折に愛馬が膝を突き曲げて敵の攻撃をかわし義弘の命を救っている。この馬は後に「膝突栗毛(膝跪騂)」と呼ばれ義弘の主要な合戦にのみ従軍するようになり、人間の年齢にして83歳まで生きた。姶良市に墓と墓碑が建てられている。
慶長の役の際、義弘は正確な時を知るために7匹の猫を戦場に連れて行ったという逸話がある。猫の目の明るい所では細くなり、暗い所では丸くなる特性から、時刻を読みとったとされ7匹のうち2匹が日本に生還した。この2匹を祀った神社が鹿児島の仙厳園にある「猫神神社」である[15]。
晩年は体の衰えが顕著になり、1人で立ち歩き、食事を摂ることも不可能になっていた。それを見かねた家臣が昼食を摂る際、「殿、戦でございます」と告げると城外で兵たちの鬨の声が聞こえてきた。それを聴いた義弘の目は大きく見開き、1人で普段からは考えられないほどの量の食事を平らげたという。
関ヶ原で敵中突破をした後、生き残った家臣らは義弘に薩摩への早期帰還を勧めた。しかし義弘は大坂で人質になっている妻子らを救出するため、「大坂城で人質になっている者を捨て、どの面下げて国に帰ることができようか」と述べ、妻子の救出に向かったという(『惟新公関原御合戦記』)。
義弘の肝の太さを示す逸話がある。義弘の小姓らが主君の不在をいいことに囲炉裏端で火箸を火の中で焼いて遊んでいた。そこに義弘がやってきたので、小姓らは慌てて火箸を灰の中に取り落とした。それを見て義弘は素手で囲炉裏に落ちていた火箸を拾い、顔色一つ変えず静かに灰の中に突き立てた。後で家臣が「大丈夫でございますか?」と尋ねると「大丈夫だ。まったく小姓どもは悪さばかりして手を焼かせおる」と笑って返した。家臣が義弘の手を見ると、その掌が真っ赤に焼きぶくれていたという(『武功雑記』)。なお、同じ内容の逸話が加藤嘉明にも存在するため、島津家か加藤家のどちらかが模倣した可能性が高い。
戦陣医術に詳しく、『上井覚兼日記』によると天正12年(1584年)10月1日から7日までの一週間にかけて、島津忠長と上井覚兼に対して金瘡医術の伝授を行い、秘伝の医書を与えている。金瘡医術とは戦傷全般とこれに付随する病気、およびこれから派生する婦人病を扱った医術のことである[16]。
茶の湯を千利休、古田織部に学んだ茶人でもあり、茶書『惟新様より利休え御尋之条書』や織部から薩摩焼の茶入の指導を受けた書状が残る。
このように、兄の信康や秀康、弟の忠吉などは、武勇や知略に恵まれた名将と評価されている。事実、信康は武勇に優れ、秀康も秀吉にその人物を評価され、忠吉も関ヶ原の本戦で島津豊久を討つという武功を挙げている。それに対して秀忠には、武勇や知略での評価は乏しく、またその評価ができるような合戦も経験していない。ただし、秀忠は2代将軍だったため、後半部分で秀忠は温厚な人物だったと弁護している(「仁孝恭謙」と、儒教倫理上での最高の評価をしている)。しかし、当の徳川家による史書でさえ、秀忠の武将としての評価は低かった。
それでも後継者となったのは、家康が秀忠を「守成の時代」の主君に相応しいと考えていたからだと言われている[17](家康は唐の太宗の治世について記した『貞観政要』を読んでおり、貞観政要には「守成は創業より難し」という一文が存在する)。父の路線を律儀に守り、出来て間もない江戸幕府の基盤を強固にすることを期待されたのであり、結果として秀忠もそれによく応えたと言える。
公家諸法度、武家諸法度などの法を整備・定着させ、江戸幕府の基礎を固めた為政者としての手腕を高く評価する意見もある[注釈 6]。娘の和子を後水尾天皇に嫁がせ皇室を牽制、また紫衣事件では寺社勢力を処断し、武家政権の基礎を確立させた。家康没後は政務に意欲的に取り組んでおり、家康が没した直後の元和2年(1616年)7月、小倉藩主の細川忠興は息子・忠利に「此中、公方様御隙なく色々の御仕置仰せ付けられ候」(最近将軍様は政務に余念がない)と書き送っている[19]。
秀忠に将軍職を譲った後の家康がそうであったように、家光に将軍職を譲った後の秀忠も、大御所として全面的に政務を見ている。作家の海音寺潮五郎は「家康は全て自分で決めた。秀忠はそれには及ばなかったが半分は自分で決めた。家光は全て重臣任せであった。」としている。
江戸上洛の途中、三島宿で鰻を獲ると神罰が当たるという三島明神の池で鰻を数尾獲った小者がいた。そのことを耳にした秀忠は小者を捕えると宿の外れで磔に処した。「神罰を畏れぬ者はいずれ国法をも軽んじて犯すに違いない。それでは天下の政道が成り立たぬ。神罰覿面とはこのことよ」と言った。一罰百戒、厳罰主義の秀忠らしいエピソードである。
大名たちの家族関係には些細なことにも気を配り、それを解決する時には茶目っ気もあった。小倉藩主細川忠興は父・幽斎譲りの脇差「大三原」(『享保名物帳』の同名の刀とは別物)を愛刀としていたが、嫡子忠利が所望しても与えないので、親子関係がぎくしゃくしていた[25]。どういうわけか、この事情は秀忠の耳にも及んでいた[25]。そこで、ある年、細川父子を伴として浅草川に水浴に出かけ、忠興にも一緒に川で水を浴びるように誘った[25]。忠興も、水浴びとなれば、大三原を腰から外さざるを得ない[25]。秀忠は、忠興より先に水浴びを済ませ、川辺に置かれていた大三原を手に取ると、一人川に入らず側に控えていた忠利に気を利かせて、「余がこれを拝借し、取り次いで、そなたに下賜してやろう。(将軍が仲介しているのだから、)越中(忠興)のやつもまさか異議は申すまい」と堂々と宣言して、大三原を忠利に与えてしまった[25](『細川忠興公年譜』[26])。このときのやりとりは実は忠興にも聞こえてはいたのだが、将軍の声には逆らえず、しぶしぶ従ったという[25]。秀忠の大物ぶりに感化されたのか、忠利は後に大三原を気前よく弟の立孝に譲っている[25]
武将が「やあやあ我こそは○○の住人、○○なり!~により~参った」といった感じで自分の名前や出身地、主君の名前などを大音量で名乗って
実は大音量で自分の名前や出身地を名乗ってから戦うことで、戦場で誰が誰を討ち取ったのかを明らかにするという意味がありました。討ち取った相手が大物であるほど多額の恩賞を与えられるため、ちゃんと自分が討ち取った証が必要だったのです。
その証を示すだけなら短くてもいいのですが、長いものでは自分の姓名や出身地、主君、大義名分だけでなく、家系まで長々と語ったのだとか。
証拠づくりだけでなく、自分のこれまでの戦功や武勇を高らかに語って敵に知らしめ挑発したり、味方の士気を上げる役割もありました。
古猪之助のもとを発ち、京へやってきた鹿之助が、たまたま入った居酒屋で狼藉者を退治したところ、
その店の女主人が、実は更科姫が昔に助けたことのある、お菊という娘だった。
お菊の勧めもあり、鹿之助はその菊屋に逗留することになった。
またある日、五条大橋の上で、貴族の輿が何やら武士に襲われているのを助けたところ、
その輿に乗っていたのはまさしく中御門宗教の息女・九重姫であった。
九重姫を中御門邸に送り届けたところ、宗教卿はその人品卑しからぬ鹿之助を気に入り、
さらには宗行の霊夢について語られると大いに喜び、その日のうちに鹿之助と九重姫は内祝言を挙げた。
そして宗教卿は、彼のもう一人の娘婿である播州の尼子義久が、毛利や龍造寺に囲まれて負け続けであるので、
その武勇で助けてもらえないだろうか、と鹿之介に頼んだのであった。
九重姫を宗教卿に預け、お菊から多くの路銀を貰い受けた鹿之助は、ひとり播州へ旅立った。
途中、大兵肥満の男が大きな板を持って、流れの早い川を堰き止めていた。
男は板を動かして川の水を溢れさせ、泳いでいる鮎を次々に川岸に打ち上げている。
そうしておいて川から上がると、男は打ち上がった鮎を残らず捕まえてしまうのである。
なんという怪力だと感嘆した鹿之助が声をかけて素性を聞くと、
七助と名乗るこの男は、先祖が武士であったものの、いまは落ちぶれて漁師をしており、
竿や網を買う金もないので、こうして工夫して漁をしているのだと言った。
信濃の戦国大名・村上義清の家臣である楽巌寺右馬助には更科姫という娘がいた。
彼女は絶世の美女でありながら武勇の誉れ高く、また年頃の十七歳となれば縁談が絶えないが、
「私の夫となるからには剛勇の士でなければ」と全て断っていた。
当年二十一歳、家中随一の美男であり争いを好まず、といって惰弱というわけでもない。
武芸指南役の井上九郎が「彼こそ信州第一の豪傑」と褒め称えるのを聞いた更科姫は、
彼の姿を見るやたちまち惚れ込んで、すぐさま九郎に取り持ちを頼み、めでたく二人は夫婦と相成った。
彼は常から更科姫に懸想しており、彼女の夫となった森之助に恨みを募らせながら、しつこく更科姫を付け狙っていた。
ある日、更科姫の外出を狙って大九郎は二十人ばかりで彼女を襲ったが、更科姫はそれらをことごとく打ち伏せてしまった。
恨み骨髄に徹した大九郎は、かねてより内通していた武田家の長坂長閑・跡部大炊から百名ほどを借りて、
巧みに誘い出した更科姫を取り囲んだが、それでも彼女を取り押さえられない。
それどころか計略を察した森之助まで駆けつけて、武田家の百名は残らず斬り伏せられ、大九郎も討ち取られてしまった。
しかし事情はどうあれ武田家の家臣を斬ってしまったということで、森之助の身柄は武田に送られた。
武田信玄はその武勇豪胆を惜しんだものの、長坂・跡部の讒言もあり、森之助は馬場美濃守の預かりで切腹となった。
俺はずっとマンガ「キングダム」を歴史スペクタクルマンガだと思っていたが、違った。
地元、都道府県、そして全国の高校のやべーやつらと戦って、全国制覇を目指す。キングダムのフォーマットはそれだ。
だからオリキャラ、史実キャラ問わず量産型なやばいやつが途切れることなく出てくる。「秦六将」とか「三大天」とか「魏火竜」とかは「〇〇高校四天王」みたいな感じだし。
と言うわけで自分の中で整理はついた。
それと同時に、寝る前とかに妄想してた「俺のキングダム」が先日無事始皇帝が死に、次世代の英雄たちが顔見せして終わったので、俺の中のキングダムをここに書いて残しておきたい。
いやー、項燕は強敵でしたね…。
この3つだ。
この3つを経糸に、キャラクターを緯糸にしてストーリーが紡がれていく。歴史スペクタクルとしては標準的な形だ。
そして、主人公の信はこの3つの舞台全てにかかわっているという、まさに主人公らしい立ち位置にいる。
そして、それぞれの舞台で魅力的な人物が多数いるので、何をどうやっても面白くならないわけがないのがキングダムの魅力だ。
それを一つずつ解決して、信と政がどんどん力をつけていく。この3つの舞台を上手く使えば、「有名人=とりあえずめっちゃ強い」というヤンキーマンガ的文法から脱することも容易だ。
ヤンキーマンガを揶揄しているわけではなく、歴史を描くのにヤンキーマンガスタイルは合わない、と言うことだ。
さらに、3つの舞台それぞれにラスボスとなる人物が存在することも非常に大きい。
原版の「キングダム」でもこの宮中編は極めて面白い。特に弟の2度の反乱のストーリーは素晴らしい。弟君には生きてほしかったぞ…!壁さんはそんなに…。
後宮のドロドロとした問題が、回りまわって政治の問題となり、そして戦争に至るという、ある意味で「全ての元凶」であることもポイントだ。
そして、そのど真ん中に秦王・政がいるわけで、のちの始皇帝となる彼の胸中にもスポットライトが当たる。ともすれば闇に飲まれる政を救うのが信であり、テンであり、向ちゃん陽ちゃんである。
特に信は様々な事件で後宮に切り込んだことのある人物なので、後宮と言う閉鎖された環境を大きく振り回す役目も持っている。
そして、政治や戦場という表舞台には出てこない、もう見た目からしてヤバい奴らが出てこれるのもこの宮中編だ。
ベルセルクのバーキラカ編がめっちゃ面白かったように、キングダムの宮中編も面白いのだ。ここぞとばかりに妖術!仙術!奇々怪々!な人外どもの共演が魅力だ。
そして、この宮中編で出会ったキョウカイと戦場編、そして政治編を共にしていくという、まさに「裏から表舞台に、闇から光にぐいぐい引っ張り上げていく」信というキャラの魅力も存分に楽しめる。
テンは軍師としてではなく、この後宮における諜報活動をメインの舞台にして、趙高と対決しつつ、対外的には山の民との折衝を、内に対しては暗殺者たちの警戒を、そして信が戦場に行っている間の領地経営などをすれば、「テンにしかできないこと」によって信や政をサポートできる。
キングダム世界の最強の暗殺者として描写される荊軻は、政、信、テン、キョウカイと物理的に対決することができる貴重な存在だし、中国史上最も有名な暗殺者(だと思う)で、しかも人格は高潔。また「傍若無人」の語源にもなった男として(語源は結構いい意味)、知名度もエピソード的にも隙がない。
理想のためには己の手を汚す、歴史に汚名を残しても構わないという政に向かって、「そうはいってもお前がやっていることは中華全土の民を苦しめる行為である」と喝破できる暗殺者。荊軻こそ宮中編ラスボス。
ここに至り、政や信はルァァ!ではなく、筋として、現実的な回答としての「善い国」を目指さねばならなくなる。そして、史実では成功したとは言えない始皇帝の各種改革の意義も、きちんと読者に提示することができよう。
荊軻とキョウカイの戦いはワレブシンなどとは格の違う激戦が展開される。
闇を心に宿す聖王である政と、光を心に宿す暗殺者の荊軻という対比もいい。
荊軻がどのような最期を迎えても、読者に強烈な印象を持たせられるはずだ。
また、結局のところ最後の最後まで残る秦国最悪の毒である趙高のヤバさも存分に描くことができる。趙高と荊軻の対比も面白いかもしれない。人格最悪の宦官と、人格最良の暗殺者とかね。ベタかもしれないけど。
主人公がどんどん成り上がっていく、となれば、それはもうアメリカンドリームの世界なので面白くないわけがない。
クッソボロい小屋から始まって、村、町、郡、県、そして国政にもさんかする秦国の重要人物になっていく様は、政の目線から見ても面白いものになる。
政が初めて信に褒美を手渡したシーンは名シーンだ。家で待ってるテンもかわいい。
最初のうちは昌文君の後ろにくっついて国政や外交を見学するわけだが、そこにキョウカイも連れて行ったりしたのは面白かったな。
賓客として訪れる各国の重要人物との縁もできるし、そこから戦場で対峙するギャップもいい。
テンちゃんには後宮での諜報活動の傍ら、こちらに注力していただいて、戦場でストレスを抱えるよりこちらでほのぼのと領地経営をしていただきたい。たまにキョウカイが飯を食いに来るとか。
そのうち王騎の城をもらえることになったりとかね。
秦は法治主義がかなり浸透してるので、その法治主義の利点、欠点(商鞅の件みたいな)をひきつつ、では信はどういう国を理想とするのか、政はそのためにどういう王でなければならないかが描き出される。
領地経営を通じて、信は大きく成長し、その経験が戦場でも生かされることになるだろう。
なぜ法治国家であった秦が強かったのか。他国との違いは何か、かかすことのできないストーリーになるだろう。
ラスボスはいろいろと考えられる。外交面では斉王だろうが、「国家運営」と言うところまで話が広がれば、丞相・李斯とどういう関係になるかが問題になるだろう。
また、後宮編ともリンクするが、政の二人の息子の問題が大きくクローズアップされる。
信は王子にどうかかわるのか。
そしてここでは蒙恬も大きな役目を果たす。
蒙恬は知略、政治にも優れたイケメンで、最終的に政の長男を奉じて最後まで行動(史記では批判されているが)し、悲劇的な最期を遂げることになるのだが、そこに至る伏線を張り巡らすにはちょうどいいだろう。
この政治編のサブ主人公は蒙恬と言える。李斯、趙高に対抗するにはどうするか、王子をどう教育するか。
個人的に、政の長男扶蘇に「おじさん」と呼ばれてめっちゃなつかれる蒙恬が見たい。
むしろ扶蘇は女の子でもいいぞ。女の子だから継承者から廃された、とかね。
蒙恬はテンちゃんとくっついてもいい。むしろそれだけの材料は十分にある。
宮中編がトリガーとすれば、政治編は撃鉄と言うことになるだろうか。
そして、全ての決着をつける弾丸となる戦場編に舞台は移動する。
誰が至強か!?
誰が至強か!?
汗 明 !
大体このノリでOKだ。文官だった汗明さんがこんな至強に。それがキングダムの戦場である。
宮中編、政治編とはまたベクトルの違った奇人変人のステージとなるこの戦場編では信には思う存分ルァァしてもらって、キョウカイにはスヒンしてもらえばそれでいいと思う。
ここに関してはさほど言うことはない。みんなが思っているような戦場を思い描いてくれればOKだ。
ただ、ぶっちゃけもうちょっと項翼の格は上げてほしいし、何なら戦国最強の項一族とか捏造して項翼のみならず項翔とか項離とか項飛とか「項+飛翔系」の量産型をそろえてもいいかもしれない。ダメか。
それはともかく、李牧さんには政治編でも活躍してもらえるので、戦場での出番はここ一番まで取っておいてもらって、部下のニンジャマスクには退場していただければそれでいいような気がする。ニンジャマスクはなる早でキョウカイに切り捨ててもらえるとありがたい。
上手く描写すれば王賁とキョウカイがいい雰囲気になる寸前のところくらいまで言っても受け入れられると思うんだよね。
ラスボスは当然のごとく項燕。
カリンさんは政治編でも頑張ってもらえばいいので、やはりラスボスはこのオッサンだろう。
後の覇王・項羽のおじいちゃんなので、ぶっちゃけもう項羽として描いてもいいんじゃないって感じはする。歳の問題はあるが。
というのも、信が楚に20万(だっけ)で攻め入った時、蒙恬も一緒にいるのだ。
蒙恬=知将+イケメンなので、蒙恬がいたのにそんな無様なことにはならんだろと言う予測がつく。
そして、歴史系作品の魅力と言えば、「なぜその人物はそんなことをしたのか」に上手い理由をつけるのが醍醐味。
ならば、簡単に「なぜイキリ散らしたのか」に理由がつけられる。
それは、
でOKだ!
楚は国土がでかい。長江もある。ゆえに他国からあまり侵略を受けていないので、楚の内部の城郭がどうなっているのか、兵士はどれくらいいるのかが全く分からない。
なので、だれかが犠牲になってでも強行偵察&戦力を評価をしなければならない。今秦国が動かせるのは80万しかない。いきなり80万で出て行っても、翻弄されて撃破される可能性がある。
ならば、秦王の最も信頼の厚い将軍である信がその「潰れ役」を買って出て、次なる勝利の布石とする!
みたいなことを信の口から言わせれば、信がこれまで経験してきたことで説得力もあるし、王翦ら歴戦の将軍も納得し、一目置かれるだろう。
そうならば、「泥臭い役もこなせる」楽華隊を率い、信の親友である蒙恬がついてきてくれることにも全く違和感がない。
王賁もこのころまでにギスギスをやめて、劇場版ジャイアンみたいな感じで送りだしてくれるだろう。
で、決死の強行偵察であることを悟らせないために(朝廷にもスパイ入ってるだろうし)、公的にも、歴史的にも、「信とかいう若い将軍がイキって20万で楚を攻める」という体にしておく。
「天下の大将軍になる」という目標の信が、「政の目指す国のために、名誉を捨てる」という、劇的な変化を見られるのだ。
そんな内情を、何となく兵士たちは察したとき、キングダム冒頭の「李信将軍!」とついていくのだろう。熱い話である。
歴史を見ると、李信の一族は「優秀だが報われない」一族であることがわかる。
李信の子孫である飛将軍・李広は武勇を誇るも功績を認められる憤死
その李広の孫である李陵は「あいつは寝返った」と勘違いされ、不名誉を着ることになった。
しかし一族は決して衰退することなく繁栄しのちの世にまで子孫を繋いでいる。
つまり、「報われない一族でありながらも、きちんと評価してくれている人がいる」という一族でもある。
その筆頭が、史記を書いた司馬遷だ。先の李陵を弁護したため宮刑を受けてしまった司馬遷は、「自殺よりも歴史書だ!」と熱い情熱を燃やし、史記を書きとおした。
李白が始皇帝について詠んだ詩があるという話は聞いているんだが、それはまだ確認できていないが、ラストシーンは李白に詩を読ませるところでしめてもいいかもしれない。
結局のところ、信が大将軍を目指して走ってきたのは、漂との約束があるからだ。
最初はただの功名心で始まった大将軍の道が、様々な出会いと別れで肉付けされていく。これがキングダムの一番の幹である。
そこで、自分の夢を命を預けられる親友、政にであい、道を同じくする。
そして、「政の目指す国を作るための剣になる」ことに目標がほんの少しスライドするのである。その道の先に、名誉を捨てて理想のために戦うという、信の本来の姿が浮かび上がってくる。
李信の大敗後、だれも責任を追及しないし、処刑もされないし、子孫は漢の時代からそのあとにも反映している。
それは史書には残せずとも、当時の人は本当のことを知っていたということにできる。
王賁あたりに「信、お前がナンバーワンだ」と言ってもらおう。
キングダムがさわやかに終わる可能はどのくらいあるのだろうか。
かなり難しい気はする。
まぁ焚書坑儒については、ある程度行ける。
焚書で焼いたのは、各国の歴史書と、法律の本だ。あと儒教の経典。
これは当時の世相を考えれば、何とか理解できるような気がする。というのも、ぶっちゃけ中華史上初の統一国家を作る、となれば、強引にでも意思は統一しなければならない。
そのために、「俺らの祖先は秦にころされたんだぜ」というような本は廃さねばならなかったろうし、儒教の経典については、はっきり言って法治国家に儒教は邪魔なので、致し方ないといえる。
なんせ、儒教は「徳のある君主が統治するなら、法律など不要」「法律なんてものを作ったら、その法律の穴を利用しようとする小物ばかりになってしまう」というものなので。
その代わり、農業書や実用書は焼かれずに奨励されたというしね。
あくまでも実利、実学、法治思想での近代的な国家運営を目指した、が、それは時代が早すぎた。という感じなのか。
あるいは、「今理解されずともよい。後世に理想を見せるための建国なのだ」と言わせるか。事実、これ以降の中華大陸は「統一しなければならない」という意識がかなり強まった気はする。そして宋の時代に中華思想が完成するわけで。
まず趙高。いうまでもなく裏ボスだ。李斯も裏ボス風味ではある。
そして、裏ボスとしての説得力最高の人物がいる。史上最高の軍師・張良だ。
なんとこの張良、史書にデビューしたのは始皇帝の暗殺だ。始皇帝の乗る車にハンマーを投げ込ませるというエクストリームな暗殺未遂を起こしており、そこで追われる身となってセンプク。その最中に軍学を学び、史上最高の軍師が誕生するわけだが、
割と裏ボスにぴったりなんではないだろうか。
むしろ張良が始皇帝を暗殺しちゃってもいいかもしれん。病気でなくなるよりは劇的だろうし。
後は妖術師徐福だな!
格はだいぶ落ちるが!
まぁいいか!
余命少ない俺には、生きている間にキングダム完結が見られないのでこんなことを書きました。
俺の代わりに最終回まで見届けてほしい。
愛羅武勇👱🏻♂️👧🏼
カッコいいのはわかるんだけど、サムライ的な設定のキャラ、果ては騎士団長的立ち位置のキャラまでみんながみんな推して参るというのはいかがなものか。
ていう話を寿司屋で兄としてたら、
そもそも「推して参る」の語源はスペイン領東インドでオス=テ=マヒル公爵が現地の酋長の娘との結婚をかけてフィリピン相撲で決闘した逸話が宣教師を通じて明治時代に伝わり、その武勇にあやかって突撃の掛け声として広まったものであるから、江戸時代レベルの武士的な世界観で使われるのはそもそもおかしいんだよね、
などと大ボラを吹いてきたので、民明書房かよ、つまんねえよ、とあしらいつつ、うっかり本当だったらどうしようかと思って、スマホで検索した。自身を持ってこれはガセ、と断定できぬ我が身の学のなさが悔しい。