「出雲」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 出雲とは

2019-10-08

anond:20191008080414

今の時期だと、神道政治連盟から神社本庁電話が行き、神社本庁から出雲大社に連絡がいく。

結果的に、出雲に集まっている神々が工作員によい縁組をする。

2019-09-15

これ取引所通報やろ…

2019-09-11

こういうやつ逮捕されないのはなぜ?

2019-09-09

これはひどい

有名投資家()の出雲サン

アイコンモデルさんの画像を加工して無断転用

2019-08-27

これはインサイダーじゃないの?

2019/8/27 13:50

新都ホールディングス(2776)が急騰

2019-07-07

anond:20190706202951

米子中心に反映する県になり、出雲より西は山口県に、鳥取砂丘あたりは兵庫に吸われるんじゃね。鳥取から舞鶴小浜あたりは一つの県でいいんじゃないのとおもったことがある。

2019-06-06

anond:20190605112239

遠出するなら出雲とか。四国もアリ。箱根とか水戸時間かかる割りに……って感じなので、

そっちに行くくらいならもうちょい金出してバリとかハワイとか。意外と安いよ。

2019-05-13

anond:20190513201115

日本国代表 と 日本人代表 の違い。

日本国籍を有していれば、人種民族関係なく「日本代表」の選手になれる。

種目によっては、日本在住であればよいとか、日本国のチームに所属してればよいとかあったんでないかな。

日本国籍を有していたり、日本国在住であっても、人種民族が違うと「日本人代表」とは名乗れないであろう。

たとえば……ハーフクォーター、何分の一まで血統書付き大和民族なら日本人

蝦夷とか隼人とか出雲とか、琉球とか。地方ルーツを持ってると日本人

もうね、「天然遺伝子ドーピング」だと思うの。遺伝子別に階級制にしたらいいんじゃないかな?

2019-05-02

先生

僕にも夢ができました。必死こいて勉強して資格を取って、うんと金を稼いで、優しい奥さん結婚して、可愛い子どもを作って、温かい家庭を築いて幸せになることです。こんなことを言ったら先生はどんな反応をするでしょうか。笑わないで聞いてもらいたい。出雲を出てもうすぐ十年が経とうとしていますが、僕はあの頃のことをどう整理をつけていいのか未だにわからずにいます。あの頃の僕は明日のことを考える力すら持っていませんでした。毎日毎日頭がおかしくなりそうだった。まともっていうものがこれっぽっちもわからなかったんです。そして今でもやっぱりいまいちわかりません。しかし、こんな頭の悪い僕でも今では多少の知恵はついたんです。だって今じゃ就職して毎日会社に行って社会人かいう狂った連中と一緒働いて、そうやって今でも生きているんですから。(社会人という人種のがさつさには気が触れそうになります。まるで寝室に土足で上がり込んで箪笥を荒らされるかのような不快さです。)僕はどんなことがあっても幸せになりたい、そう思います。どんなことがあろうと、どんな手を使おうとも、です。それはあなたを含め僕の人生に影を落としてきたすべてのものへの復讐でもあるんです。実を言うと僕はあなたを殺してやりたいとまで思っていました。どうかこの世をさるその時は地獄に堕ちて欲しい。僕のせめてもの願いです。

2019-01-26

anond:20190125103708

神無月出雲では神在月と逆になる様に鬼ヶ島では人を外に追い出そうとするのでは

2018-12-25

仙台から出雲まで飛行機で行けるようだ

知らなかったが直行便があるようなので行きたくなった。

来年行ってみようかな。

最近島根鳥取増田でよく見るし興味がわいてきたし。

2018-10-12

anond:20181012094032

方言はいくつかの要素が挙げられるが、重要な要素の一つが発音だと思う

ズーズー弁」などはその代表例だ。鼻にかかった発音フランス語のように聞こえなくもない。

最近お笑い番組和歌山のご婦人が「ダ」行だかなんだかを、

「ダ、ディ、ドゥ、デ、ド」としかいえないというのを見たが、

50音を教科書通り発音しない人は結構多かったはずだ

上野発の夜行列車内で車掌が「つぎはメト、メトに停まります」と放送したのを聞いたとき

軽い衝撃を受けたが、行った先ではもっとひどかった

東北の人の会話がまったく聞き取れないし、語彙も未知なものばかりだった

1980年代でこうなのだからテレビラジオ以前の活字メディア時代はなおさらだろう

幕末維新期の志士たちが「ばい」とか「ぜよ」とか語尾につけるだけで、

方言いっちょ上がり」みたいな感覚なのだろうが、安直な発想だ

小説なら発音イントネーションは隠せるが

映像や音声になるとうそくさい

実際には、おそらく互いに「は~、こいつ何しゃべってんだ、全然わかんねぇ」とか思っていたのではないかな?

松本清張砂の器」により、東北弁に似た発音出雲地方の一部でも見られることが知られるようになったと思うが、

21世紀の、発音平準化した現代ではむしろその意味するところはわかりにくいだろう。

同じひらがな、かたかなで書かれているからといって、日本語話者全員が同じように発音するわけではないのは、

同じラテン文字を使っているからといって、同じように発音するわけでないのと似ている

2018-09-30

知る食うロードが終わってしまった…

BSジャパン放送していた「知る食うロード発見!食の景観~」が終わってしまった…

http://www.bs-j.co.jp/official/shirukuuroad/

最初から見てたわけじゃないけど好奇心に溢れていてマニアックで、でもわかりやすくて

喩えれば笑いの要素を除いたDPZみたいなコンパクト面白い番組だった

芸能人が出てきて騒ぎ立てるわけでも口に入れた途端おいしーい!と言うわけでも

大げさな喩え話で食べものを褒め讃えるわけでもこの県民は全員がこれを愛していますよー!と言うわけでも

スタジオで大試食会が行われるでもゲームの結果誰かが食べたり食べられなかったりするわけでもなんでもなく、

ただただ淡々と一人の案内人地域食文化ピックアップして紹介するすごく静かで

でも時々ものすごくマニアックもの出会った時のその案内人の脳が痺れるような興奮度合いというもの

画面のこちらにも伝わってきて(出雲の釜あげ蕎麦の回など顕著でこちらもおおっとなった)、

これを食べてみたいという気持ち知的好奇心旅行に行きたくなる心も同時に煽られてしま番組ですごく好きだった

孤独のグルメ」を見てるとき気持ちにもちょっと近くて飽くまでその食べ物食文化に焦点があたっていて

もしこの番組DVD化されたら一人で食事をするときに観ながら食べたい そんな感じの番組だった

2018-05-17

部署の人が土産出雲の縁結に効果ある的なお菓子を持ってきた。

独身は2個ね!ってこのご時世それを言う勇気は俺にはない。

でもそこまで踏み込めるコミュニケーション能力は羨ましい。

2018-03-28

anond:20180328111448

水無月の「無」は神無月の「無」と同じく「の」にあたる連体助詞「な」で「水の月」という意味である

出雲大社に全国の神が集まって一年の事を話し合うため、出雲以外には神がいなくなるという説は、中世以降の後付けで、出雲大社御師が全国に広めた語源俗解である

ようするに神有月っていうのは神無月を「神のいない月」と間違って解釈した結果生まれ俗語っちゅうこっちゃな。

まあWikipediaによると平安時代からある由緒正しい俗説みたいやけどな。

2018-01-03

箱根駅伝出場を目標にする選手って

本当にいるの?

しろ出雲の全国選抜優勝とかを目標にしないかな?

2017-12-26

神奈川大 エース鈴木健吾以外がどこまで踏ん張れるか。

東海大  往路優勝の可能性は高いが総合優勝は難しいか。狙うなら往路優勝した上で青山とどこまで差を付けられるかがポイント

青山学院 復路が圧倒的戦力。総合優勝筆頭候補

東洋大学 選手の配置がカギ。昨年の復路メンバ+出雲活躍した選手が走れれば可能性あり。(現状は全員出場できるか微妙なところ)

帝京中央学院と駒澤と早稲田 シードは安泰だが優勝争いに食い込める戦力もないため、目立たず5~8位のフィニッシュ。今年の瀬古さんは静かだと思います。(願望)

國學院城西と大東文化大と中央山梨学院と順天堂と法政日体大拓殖 いつも通りのシード争い

上武と国士舘東京国際 取り敢えず最下位回避目標

結論

総合優勝青山学院を基本線に、東海大がどこまで食らいつけるかが見どころ。

東洋安全に3位、神奈川が4位以下と争う展開になりそう。

往路で青山学院に逃げ切られた場合はほぼ決着とみて良いでしょう。

2017-12-09

真紅なノーズの大人買いさんは出雲ビンタの払い者

ホモ歩くときの苦しみ増すの日忖度のお悲惨は引きました

サムワンな火にはカピカピの手前の漬物星になるのさ

どんぶらこっこどんぶり勘定おんぶにだっこオンブス官僚

2017-10-01

古代[ソース編集]

日本における相撲の記録の最古は、『古事記』の葦原中国平定の件で、建御雷神(タケミカヅチ)の派遣に対して、出雲建御名方神タケミナカタ)が、「然欲爲力競」と言った後タケミカヅチの腕を摑んで投げようとした描写がある。その際タケミカヅチが手を氷柱へ、また氷柱から剣(つるぎ)に変えたため掴めなかった。逆にタケミカヅチタケミナカタの手を葦のように握り潰してしまい、勝負にならなかったとあり、これが相撲起源とされている。

人間同士の相撲で最古のものとして、垂仁天皇7年(紀元前23年)7月7日 (旧暦)にある野見宿禰と「當麻蹶速」(当麻蹴速)の「捔力」(「すまいとらしむ・スマヰ」または「すまい・スマヰ」と訓す)での戦いがある(これは柔道起源ともされている)。この中で「朕聞 當麻蹶速者天下之力士也」「各擧足相蹶則蹶折當麻蹶速之脇骨亦蹈折其腰而殺之」とあり、試合展開は主に蹴り技の応酬であり、最後宿禰が蹴速の脇骨を蹴り折り、更に倒れた蹴速に踏み付けで加撃して腰骨を踏み折り、絶命させたとされる。これらの記述から、当時の相撲は打撃を主とする格闘技であり、既に勝敗が決した相手トドメの一撃を加えて命までをも奪った上、しかもそれが賞賛される出来事であった事から見ても、少なくとも現代相撲とはルール意識も異なるもので、武芸武術であったことは明確である[2]。宿禰・蹶速は相撲の始祖として祭られている[3]。

さらに『古事記』の垂仁記には、

ここをもちて軍士の中の力士の軽く捷きを選り聚めて、宣りたまひしく、その御子を取らむ時、すなわちその母王をも掠取れ。髪にもあれ手にもあれ、取り穫む隨に、掬みて控き出すべし。とのりたまひき。ここにその后、かねてかその情を知らしめして、悉にその髪を剃り、髪もちてその頭を覆ひ、また玉の緒を腐して、三重に手に纏かし、また酒もちてその御衣を腐し、全き衣の如服しき。かく設け備へて、その御子を抱きて、城の外にさし出したまひき。ここにもの力士等、その御子を取りて、すなはちその御祖を握りき。ここにその御髪を握れば、御髪自ら落ち、その御手を握れば、玉の緒また絶え、その御衣を握れば、御衣すなはち破れつ。

とあり、初めて「力士」(ちからひと・すまひひと と訓す)の文字が現れる。以降の記紀六国史においても、相撲に関する記述散見される。

相撲節会」を参照

奈良時代から平安時代にかけて、宮中行事の一つとして相撲節会が毎年7月頃に行われるようになる。毎年40人ほどの強者近衛府により選抜され、宮中で天覧相撲をとった。最初の記録は天平6年(734年)のものであるが[4]、節会を統括する相撲司の初見養老3年(719年)であることから8世紀初頭に定着したものと思われる。相撲節会は当初は七夕宮中行事の余興としての位置づけであったが、後に健児の制が始まると宮中警護人の選抜意味を持つようになる[5]。時代が下るにしたがって相撲節会重要宮中行事となり、先例が積み重なるとともに華やかさを増した。然し同時に、健児選抜という本来趣旨は次第に忘れられていった。12世紀に入ると律令制の衰退、都の政情不安定とともに相撲節会は滞るようになり、承安4年(1174年)を最後に廃絶となる[6][7]。

神事相撲」を参照

一方、神社における祭事として相撲をとる風習が生まれた。これを神事相撲という。農作物の豊凶を占い、五穀豊穣を祈り、神々の加護感謝するための農耕儀礼であり、これは一貫して現代にまで続いている[8]。

中世[ソース編集]

武家相撲」を参照

相撲節会に求められていた実践的な意味での相撲は、組み打ちの鍛錬として、封建制を成立させた武士の下で広まった。これを武家相撲という。武士棟梁となった源頼朝特に相撲を好み、鎌倉を中心に相撲が盛んに行われた[9]。

日本礼儀と習慣のスケッチ』より、1867年

土地相撲」を参照

続く足利幕府は、相撲奨励には消極的であったが、戦国大名は熱心に相撲人の養成に力を注いだ。また、応仁の乱以降都落ちをした貴族とともに京都相撲文化地方に伝わり、民衆の間に相撲が定着、相撲生業とするものが現れる。これを土地相撲、または「草相撲」という。[10]。

近世[ソース編集]

「勧進相撲」を参照

江戸時代に入ると武家相撲はその存在意義を失い、土地相撲興行化して民衆一般に広がる。興行主はこれを神事相撲の「勧進」にことよせて勧進相撲と称し、また武家相撲力士大名の抱えとすることでその名残をとどめた[11]。

近代[ソース編集]

相撲を取る皇太子時代昭和天皇

大相撲」を参照

明治文明開化相撲をはじめとする伝統芸能は軒並み危機に陥るが、明治天皇の天覧相撲が繰り返されるなどによりその命脈を保つ。大正14年1925年)には幕内最高優勝者に授与される天皇賜杯が下賜され、また東京相撲大阪相撲合併することにより日本相撲協会誕生、勧進相撲大相撲に一本化された。

平成に入って、日本ビーチ相撲連盟というアマチュア組織が結成された。また、義務教育武道必修化の必修科目として、相撲剣道柔道の三種を基本として加味された。

https://ja.wikipedia.org/wiki/相撲

兎に角臭そうなので相撲は撲滅するべき

殺人競技ルーツにする相撲人権違反で即刻廃止するべき

そう言う事を言いだしたらオリンピック競技殺人競技ルーツにする種目がたくさんあるのでオリンピックを即刻廃止するべき

2017-07-26

なんで、伊勢出雲も遠いんだよ!

近辺の新幹線駅、空港から特急で二時間もかかるんだ! 

2017-05-19

竹添 進一郎(たけぞえ しんいちろう、1842年4月25日天保13年3月15日) - 1917年大正6年)3月31日)[1]は、日本外交官漢学者。名は漸、字は光鴻(こうこう、みつあき)、号は井井(せいせい)と称した[2]。 甲申政変時の朝鮮弁理公使であり、後に漢学者として活躍した。日本学士院賞受賞。熊本県近代文化功労者[3]。

目次 [非表示]

1 来歴

2 主な著作

3 栄典

4 脚注

5 参考文献

来歴[編集]

肥後国天草(現・熊本県上天草市大矢野町)生まれ。父である小田左衛門(竹添筍園)は、肥前国島原出身医者で、天草大矢野島に移り住み、上八幡宮宮司二上出雲の娘である美加と結婚した[3]。順左衛門儒学者広瀬淡窓門下十八傑の一人でもあり、進一郎が幼い頃より儒学を教えた[1]。

1855年(安政2年)15才の時、天草より熊本に出て儒学者木下韡村の門下生となった。学業は極めて優秀で、木下門下では、井上毅木村弦雄と三才子と称され、さらに古荘嘉門を加えて四天王といわれる[3]。藩校時習館の居寮生となり、木下のはからいで士分に取り立てられ、藩命により京都江戸奥州を訪れる。江戸では勝海舟の知遇を得る[1]。

1871年(明治4年)、廃藩置県で失職し熊本市玉名市私塾を営んだ後、1875年明治8年)に上京する[3]。勝海舟の紹介で森有礼全権公使随行し、清国へ渡った。同郷の津田静一と共に清国を旅し「桟雲峡雨日記」を記した[1]。天津領事北京公使館書記官などを経て、1882年明治15年)、花房義質の後任として朝鮮弁理公使となるが、甲申政変に深く関わり辞任した[4]。

1893年明治26年)、東京帝国大学教授就任漢文学を講じた[1]。退官後、小田原暮らし、76才で没した。1914年大正3年)、日本学士院賞受賞(第4回)。文学博士従三位勲三等。熊本県近代文化功労者。次女の須磨子は、講道館柔道創始者である嘉納治五郎結婚した。媒酌人は、木下韡村の次男で後に京都帝国大学総長となった木下広次が務めている[1]。

アーカイブ ヘルプ
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん