はてなキーワード: 階層とは
福井はばちばちの家父長制だけど県民が「自分は幸せ」と言い聞かせて幸福度高いことになっててサイコパス
教育熱と競争がすごくて結果として差別や階層化が進むけど我が子だけ良ければいいと管理教育しまくり子供の自由とかなくてサイコパス
嶺南は原発という穢れたものがある穢土だとしか思ってなくて実際差別しまくりでそれが普通だと思ってて罪悪感などなくてサイコパス
医者か弁護士以外の職業は人権などないと思ってて、子供にもそう教え込むので子供に個人の夢など全くなくてサイコパス
上記諸々指摘されても批判だとすら捉えられず逆に意味わからんこというバカだと思うけどそんな時も愛想笑いは絶やさぬサイコパス
タイトルの通り。
現在33歳になって、いよいよ友人との関係が終わりを迎えつつある。
似たような内容の増田を数日前に見かけて、俺も少し書いてみたくなった。
元々高校の同級生で、同じ部活の4人でかなり仲良くしていた友人たちがいた。
仲のいい4人ではあったものの、成績は俺だけが学年でも下位30%程度で、残りの3人は上位10%に入るような成績だった。
結局俺は関関同立に進み、残り2人は京大に2人と国立の医学部に1人が進学した。
ただ、思えばその時点で軽いコンプレックスを抱くようになっていたと思う。
明らかに俺だけ大学のレベルが違ったし、会う都度、彼らの大学生活の話に出てくる同級生や先輩の質みたいなものが、俺の周りとは違うような感覚があって、表現し難い疎外感のようなものがあったと思う。
もう一つ、他の3人と俺との間の隔たりとして、実家の太さの違いがあった。
俺以外の3人はかなり実家が太く、いわゆる高級住宅街に住んでおり、それこそ家の床が大理石だったり、よくわからんけど高そうなステンドグラスがあったりした。
初めて友人の家にお邪魔した時にケーキとコーヒーが出てきて、心底驚いたのを今でも覚えている。友人を家に招く時は、ポテチや煎餅に、ファンタなんかを出すのが俺の中の常識だった。
俺はというと、地元でもあまり平均所得が高くない地域に住んでおり、2LDKで築年数もかなり経過したボロマンション住まいだった。家には呼べなかった。
そんなことを気にする様子もなく、3人とも本当にフラットに接してくれたが、その邪気の無さがかえって妙な居心地の悪さに繋がっていたような気がする。
卑屈なだけと言われればそうなんだろうが、それでもなんとなく恥ずかしいような情けないような気持ちは心のどこかにあったと思う。
大学に入学して以来も定期的に会っていた。卒業後の進路として、俺は公務員を目指しており、大学4年の夏に試験に合格し、無事公務員として就職した。
俺以外の3人だが、1人が司法試験の受験勉強に励み、1人はそのまま院進し、1人は医学部のため卒業時期が違うといった形で、俺だけが少し早く社会人になった。
定期的に飲みに行ってはいたが、やはり俺以外の3人の方が学生で時間が取りやすく、俺だけが参加できない会も増えていった。
参加しても、俺だけが仕事の話をしている中でみんなはまだ学生として話しているので、なんとなく噛み合わない感覚も抱いていたと思う。
それでも一緒に過ごした時間も長い大切な友人たちだったので、話を合わせながらみんなで学生レベルの安居酒屋でワイワイ楽しんでいた。と思う。
なんか当時は本当に楽しかったはずなのに、今思い返せばそうじゃなかったような気がしてきてしまうのが本当に悲しい。
俺と3人の差が顕著に現れ始めたのは、25歳になったあたりだと思う。
みんなそれぞれ社会人になり、それぞれ医師・弁護士・一流企業勤めと、同い年だというのに、俺が40代になってようやく辿り着けるかどうかというレベルの金を稼ぐようになっていた。
もちろんみんな良い友人ではあったので、年収の話になることは少なかったが、最近した買い物の話や住んでいる場所の話でなんとなく、経済的な格差を感じることが増えたように思う。みんなで行く店も、俺にとってはけっこう背伸びしたお店へといつの間にか変わっていた。
思えば年収の話なんかは、明らかに俺だけ水準が違うことを気遣って、あえて避けてくれていたのかもしれないな。なんかそうやって、友人同士なのに、薄ら弱者として気遣いを受けている状況が本当に耐えられないと感じてしまった。
年に数回会うような関係がずっと続いていたが、最近になって、旅行に行かないか?という話題が出た。
普通に近場の温泉なんかに行くイメージでいたが、話を聞くとシンガポールに行くとかいう話になっていた(たまたま2人で話していたらしい)。
旅費なんかも密に調べてくれていた。言っても目玉が飛び出るような金額ではないものの、妻子もいる中で、正直シンガポールに行くだけの金銭的な余裕は全くない。
が、妻子持ちなのは俺以外の3人も同じだし、おそらくお金のことを気にしているのは俺だけなんだろうなと思う。
なんとなくだが、今回の旅行を断ってしまったら、いよいよ3人と俺との関係はもう終わってしまうような気がする。
もう明らかに属している社会の階層が違うということは気づいているのに、それでも背伸びしてしがみつくべきなのか、正直言ってわからなくなっている。
ただただ一緒にいて楽しかったはずの4人なのに、どこで間違えたんだろうな。
劣等感の強い層って
自分はハイスペで性格が良くて結婚するなら絶対増田にしたいと男女にモテてる美人というよりは可愛い系の女
その知見から言うと、性格も外見も美人のハイスペは男女ともに人類から常に信頼敬愛されているため、孤独になる暇がない
友人や家族や恋人にいつも囲われてて、仕事頑張って勉強して、もう人間の時間は限られてるからそれ以上の時間がない
ミソジニー抱えて人間関係破壊してるようなおかしい奴の負のオーラを1mmでも感じるとみんなサラッと上手に謙遜しながら蜘蛛の子散らしたみたいに逃げてくから、今関わる相手があなたと釣り合ってる人間だということを直視した方がいいよ
階層が違う人と関わるの無理だと思う
・依頼した仕事
↓
・頭を使うのがきらい
↓
↓
ひっじょーに分かりやすいよね
解像度高く紹介とソレを語るわけ
でも実際には
と言い出すんだよ
あれれ?
話違くない?
話の階層が違うんだ
ブコメでもそれを読み取れない(日本語が読めてない)人たちがいる
それが出来るのは今も昔も「貴重な人材」だよ
そういうのを「社会的な話」と主語を大きくするの、頓珍漢だよね
多分この記事は狙ってやっているのだろうが
狙ってるとしたらばより醜悪
で、今後はそっち側に居ないと大変だぞー、がおーって話だから
サロンとかでするには向いてるんだけど
「お、おぅ」みたいになる奴よ
ちなみに、これがオカシク運用されると
「年に2件特許を取れ」とかそういう風に歪むのね
「依頼した仕事」と言ってる奴は、多分そんな風に歪んだ奴なのよ
広告代理店とかはさ、そういう風に価値創造()しなくっちゃいけないんだろうし
コンサル業とかも、古い事をまとめてさも新しいことかのように話すのが仕事だから
そう言うの要るんだろうけれど
その小説の中では増田が登場する。彼はメタ的な自己認識を持っていた。
小説の登場人物である増田はキャラクターと対話し、物語の進行をコントロールしていく。
すると、小説の中の登場人物たちは次第に自己意識を持ち、彼らもまた小説の中に小説を書くことを始める。
増田の創り出した登場人物たちが、それぞれが複雑なメタ的な世界を構築していく中、物語の中の登場人物は増田の存在に気づき、増田にコミュニケーションを試みる。
一方で、小説の中の中の小説を書く登場人物たちもまた同様にメタ的な自己認識を発展させ、小説の中の中の中にさらなる階層を築いていく。
これによって小説の中では複雑で抽象的なメタ的な構造が形成され、登場人物たちは自らが物語の中に存在することに疑問を抱き始める。
物語の終盤、小説の中の中の中の中の人が、現実の増田の存在に気づく瞬間が訪れる。
小説の中の中の中の中から現実の増田に向けて手紙が届き、メタ的な世界と現実の間に生まれた独特のつながりが明らかに。
小説はこうして、メタ的な人物とその中の人物が、どんどん階層を重ね、それぞれが異なる視点で物語を構築していく。
現実と虚構、作者と登場人物、読者と物語といった複数の次元が交錯し、
物語は次第に複雑に入り組んでいき、メタ的な構造がさらに深まっていく。
物語の中の増田と現実の増田が手紙でやりとりをしている中、物語の登場人物として現れた「編集長」もまたメタ的な存在として自己認識を示し始めた。
編集長は物語の中で増田と対話し、「君たちはただの登場人物じゃない。実はもっと奥の次元から見下ろしている存在がいるんだ」と告げる。
増田と編集長が手を取り合うと、次元を越えた力が解き放たれた。物語の登場人物である編集長が現実の増田の前に姿を現し、「これが真実だ。君たちが生まれたのは私の筆からだ」と語りかける
その小説の中で、増田自身が登場することになり、彼はメタ的な自己認識を持っていた。
小説の登場人物である彼は、小説の中で他のキャラクターと対話し、物語の進行をコントロールしていく。
すると、小説の中の登場人物たちは次第に自己意識を持ち、彼らもまた小説の中に小説を書くことを始めた。
増田の創り出した登場人物たちが、それぞれが複雑なメタ的な世界を構築していく中で、物語の中の登場人物は増田の存在に気づき、彼にコミュニケーションを試みる。
一方で、小説の中の中の小説を書く登場人物たちもまた同様にメタ的な自己認識を発展させ、小説の中の中の中にさらなる階層を築いていく。
これにより、小説の中で次第に複雑で抽象的なメタ的な構造が形成され、登場人物たちは自らが物語の中に存在することに疑問を抱き始める。
物語の最終的な落ちとして、小説の中の中の中の中の登場人物が、現実の増田の存在に気づく瞬間が訪れる。
その瞬間、小説の中の中の中の中から現実の増田に向けて手紙が届き、メタ的な世界と現実の間に生まれた独特のつながりが明らかになる。
小説はこうして、メタ的な人物とその中の人物が、どんどん階層を重ね、それぞれが異なる視点で物語を構築する中で、
現実と虚構、作者と登場人物、読者と物語といった複数の次元が交錯し、
物語は次第に複雑に入り組んでいき、メタ的な構造がさらに深まる。
物語の中での増田と現実の増田が手紙のやりとりをしている中、物語の登場人物として現れた「編集長」もまたメタ的な存在として自己認識を示し始めた。
編集長は物語の中での増田と対話し、「君たちはただの登場人物じゃない。実はもっと奥の次元から見下ろしている存在がいるんだ」と告げる。その言葉に驚く増田と現実の増田。
すると、物語の中での増田と編集長が手を取り合うと、次元を越えた力が解き放たれた。物語の登場人物である編集長が現実の増田の前に姿を現し、「これが真実だ。君たちが生まれたのは私の筆からだ」と語りかける
増田と編集長は手を繋ぎながら、物語の外に広がる現実の風景を見つめ、物語と現実が交錯する幻想的な瞬間が訪れる。物語の世界が現実と溶け合い、読者もまたその中に取り込まれたような錯覚を感じながら。
教養のある皆さんにもよく考えてほしいんだが、教養のある奴が、教養のある故に幸福になっているところを見たことがあるか?
無いよな。
教養があって幸福なやつは、持ち前の向学心によって身についた職業に関する専門的な知識と、持ち前のハピネスパワーゆえに幸福になっているのであって、教養そのもののおかげで幸福になっているわけではない
違うんだよ。そういうことじゃないんだよ。
なぜ教養を求めるか?それは文化を求めることと同義だと言っていい。
お前みたいに生まれ育ちに恵まれてデフォルトで文化教養を持っている人間には分からないんだろう。
親族一同みんな高卒やらで、家に百科事典(笑)どころか新書の一冊もなく、テレビでバラエティ番組を垂れ流すしかない食卓で生まれ育った人間が、お前らみたいな文化と教養に溢れ家族みんながそれぞれのフィールドで自分たちなりに活躍しているようなそんな環境を心の底から渇望してるだけなんだよ。
それがどうしても欲しかったの。その為だったら幸福とかどうでもよかったの。お前らみたいな階層の人間がデフォルトで持ってて、こんなもん大して意味ねーだろと思ってるようなものを、ほんの少しでも、そのために人生の幸福を投げ打ってでも手に入れたかったんだよ。
クソボン共が手遊びでマイルドヤンキーを礼賛して俺たちなんて全然幸せじゃないのにとかほざいてるのは本当に何もわかっていない典型的な貴族仕草だと感じるわ。マジでこいつら自分がどれ程のものをデフォルトで持っているのか全く自覚してねえんだなと思うわ。