はてなキーワード: 終点とは
定期的に北海道の広さを舐めんなって話題が上がってるけど、鉄道で旅をすると無茶をしながら北海道を回れるから、舐めた北海道旅行ができるからオススメ。なにせ、鉄道の強みは寝てれば着くことと、時間が正確であること、そして特急なら割とスペースに余裕があること。移動中に北海道グルメが楽しめるのも強いぞ。
ちょうど「HOKKAIDO LOVE!6日間周遊パス」というJR北海道のフリーパスが安価でまた発売されてることだし、2年前にこれを使って北海道旅行したときの工程を書くから、まあ参考にしてくれ。
Peachで関空から釧路空港への便があるから、それを使って初日はまず釧路へ。前述のフリーパスは買った当日は使えない注意。
釧路湿原の観光がこの日の目的。昼は和商市場で勝手丼を食い、夜はスパカツを食う。
ノロッコ号はまあまあ混むから、釧路湿原は細岡展望台で観光するんじゃなくて、バスで釧路湿原展望台へ行ったほうが良かったかも。
釧路駅前の寂れ具合はガチのマジでやばくて、駅前で時間を潰すのが結構大変だった。
花咲線に載って根室へ。電車に乗ってる人はほぼ釧路から根室まで通しで乗る人ばっかりで、途中に本当に何もないことを思い知らされる。
途中、浜中町の駅でルパンのパネルを眺めつつ(時間待ちで数分間止まることも多いので、一旦駅に降りることもできる)、3時間ほどで根室へ。そして1時間バスに乗って、納沙布岬へ。
納沙布岬から北方領土まで一番近いところでは3.7キロほど。普通に肉眼で見えるし、国境の最前線であることを思い知らされる。
あとは最東端の駅の東根室駅を見たり、エスカロップを食べたり、タイヨーで焼き鳥弁当を買ったり、街中をうろついて明らかに生えてる雑草の種類が関西とは違うなと思うなど、五感で根室を満喫して、花咲線で釧路へ戻る。
なんとか座れたが、結構混んでる。立つ人も出るほど。間違いなくフリーパスのせいなんだろうけど。よく晴れていたから車窓から見る釧路湿原や、網走の手前のオホーツク海が本当に綺麗だった。
網走といえば、監獄ということで、監獄の博物館、本物の監獄、あとオホーツク流氷館に行く。
監獄の博物館は広く、見どころも多いので最後に回したほうがいい。出るタイミングがわからなくなる。
駅のそばのコンビニが潰れてて、晩御飯の確保に困った。前もって準備しておいたほうがいいかも。駅前にはすき家もあるので、北海道らしくない晩飯を食って、特急に乗って旭川へ。
旭川から特急宗谷に乗って稚内へ。そして稚内からバスに乗って、宗谷岬へ。
その後はノシャップ岬の方に行っても良かったが、南稚内駅辺りで市街地を練り歩く方を選ぶ。歩いてると思ったが、意外と稚内って栄えてる。ゲームセンターや、大きめのスーパーもあったし。稚内駅には映画館も併設されてるから、娯楽は案外充実してそう。
富良野線に乗って、ファーム富田へ。ラベンダーの時期とは微妙にズレていたので、臨時駅のラベンダー畑駅がなかった。だから、中富良野駅で降りて歩く羽目になるんだけど、何せ旭川へ折り返すの電車が1時間10分後、そして中富良野駅からファーム富田まで1.7km。その電車を逃すと2時間後まで来ない。
だから、駅からファーム富田までひたすら早足、ファーム富田でも早足、帰りも早足。まあファーム富田では20分は楽しめたと思う。ラベンダーの時期じゃないから、ラベンダーはほとんどなかったけど、それ以外の花も多いから、見どころは多い。
昼からは有名な旭山動物園へ。有名なだけあって、見ごたえがあり、夕方まで4時間くらい入り浸ってた。頭上をペンギンが泳ぐ、展示が凄い。
あと、園内が広いこともあって、動物の臭いをあまり感じさせないようになってると思う。
特急北斗の始発に乗って札幌から函館へ。札幌⇔函館って、札幌⇔旭川くらいの距離感と思ってたけど、倍以上かかる。直線距離で結ばれてるわけでもないからね。
まずはラッキーピエロを昼めしを食って、ハセガワストアで焼き鳥弁当を買う。根室で買ったタイヨーの焼き鳥弁当と違いがあるのかはわからない。
五稜郭やトラピスチヌ修道院なんかを観光して、「函館どつく」という関西人なら「え?」も思うような駅を見つつ、夜は函館山で夜景を見る。
朝は函館朝市で食べて、土産に海産物を買う。土産屋よりは安かった。
再び特急に乗り、最後の目的地の室蘭へ。最終日は函館と新千歳空港の間ならどこで良くて、登別や旅行中に宣伝を散々見た白老のウポポイ辺りと迷ったけど、地球岬の景色がキレイと聞いたので室蘭へ。
地球岬行きのバスは無くて、坂の下にある地球岬団地までしかバスが通ってない。そこから坂道を15分も歩くのはかなりキツかったけど、景色がたぶん旅行中に見た中で素晴らしくキレイだったから大満足。
室蘭には母恋という駅があり、そこの駅弁が旨いと聞いていたけど、売り切れで買えず……。室蘭駅の近くにあるスーパーで遅めの昼めしを買って、再び特急へ。そして新千歳空港からPeachに乗って関空へ帰る。
英語なら"first ~"と"last ~"でわかりやすいのに、日本語だと多岐に渡っててイライラするわ。
正しい。
正しいけど上と被ってね?殆どの場合「一部始終」の形で使われてると思う。
正しい
は?ルールを守れ。「始点」を使え。
初ってなんだよ。どっからきた?「最始」でいいだろ。
「後」。そっちも変えるならまあ許すか、とはならないからな?「初後」なんて単語も無いし。
新キャラ「序」。
新キャラ「晩」。
初旬があるのに終旬が無いのおかしくね?下旬は上旬の対だしさあ。
そっちは統一しろよ。「始電」でいいだろ。知り合いの外国人も覚えづらいって嘆いてたわ。
ブコメにも「都市計画決定後の公園や道路区域の私有地に建築を許さなかったら、都市計画道路は数十年かかったりするし大都市圏は謎の空き地だらけになってそう 例の公園も30年はかけていく事業のようだし即座の立ち退きでもない」と言ってる人いるけど、計画から実施まで何十年も私有地を使わせないのは過度な制限になるし無駄な空き地だらけになるから、実際に計画を実行するまでは活用できるようにしてるんじゃないかな。知らんけど。
実際空き地だらけでは。
新宿の富久町の外苑西通り終点から東京女子医大までの辺りとか、外苑東通りの二車線区間沿線とか、目黒郵便局の辺りとか、反対運動がまだ続いてたと思うけど、淡島通りの環七越えた先のところとか、去年開通したけど世田谷の桜木トンネルの辺りとかもそうだったし。
私有地のままならいつまでも公共インフラができないだろうし、土地を買い上げて徐々に公有地を増やしているんじゃないかな。知らんけど。
ICカードを使ってバスに乗った。そのバスは6の字型に循環して出発停留所に戻る路線のバスだった。途中停留所で降りて、用事を済ませて、また同じ停留所に戻り、またバスに乗る。降りる時、ICカードをタッチすると「処理済みカードです」との表示が出てエラー。何度タッチしてもエラー。運転士さんも「そのまま降りていただいていいですよ」と諦める。
Wikipedia曰く「1回ICカードをリーダ/ライタに触れて運賃精算が完結すると、誤タッチで二重に運賃が引き落とされないように、そのバスが終点に到着するまで運賃が差し引かれないようになっているところもある」らしい。ということは、最初に乗ったバスがぐるっと循環して戻ってきたところで乗ってしまって、エラーを吐いたのか。
なぜ、みんな黙って従っていられるんだろう。寒くないのか?
高い家賃が払えない底辺社畜な俺は、1時間以上かけて郊外の始発駅から都心の終点まで通勤している。
空調装置がばっちりなリッチな路線と違って、貧民な俺ごときが使っている路線は窓を5cm~10cm程あけて換気するというアナログな方法をとっている。
これがもう本当に寒い。なんせ、電車の速度で風が吹き込んできやがる。
風速があがれば、体感温度は著しく下がるっていうアレだ。
ダウンを着込んで、車内でもマフラー手袋をしてできる限りの対策をしているが、
ここ数日の寒波でもう限界だった。怒りのあまり、こうして増田に怨嗟を書き散らしている。
寒いっていうのは人の精神を著しく破壊するということを実感している。
冬になっても窓開けを強要するのはやめてほしい。
コロナにかからなくても別の病気になりそうだ。というか体温を犠牲にするのはコロナ対策の観点からもあんまりよくないんじゃないかと思うのだが。絶対に免疫機能が落ちてる。
そもそも、電車は数分に1回、快速や急行でも数十分に1回はドアが開くわけで、
窓を開けて常時換気する必要が一体どれほどあるのかと。
少し前、途中駅からのってきたおっさんが、5cm程度開いていた窓をぐっと限界まで下げたあげく
定期で行ける区間はかかっても30分で着くので多分そのうち電車の会社から怒られるかもしれん。
毎日8時に予備校行くふりして家を出て9時半に電車に乗って13時に終点に着いて折り返して16時半ぐらいに定期内の適当な駅に降りてぶらぶらして18時くらいに電車乗って19時くらいに家に帰ってる。家に着くと親がお帰り〜おつかれ〜って言って飯食べて20時から6時間ぐらい5ch見て3時くらいに寝てる。こんな生活を2年間続けてる。
今年でなんとか浪人をやめて一人暮らしか親友の家に住んで仕事を始めて精神を治そうと思ってるけど浪人をやめれるかわからない。残念だったね今年も挑戦しなよお金なら出すよ大学行かないと将来大変だよって感じで今年も3浪目もこんな感じかもしれん。
文章もまともに書けないし何も深く物事を考えられないし何も積み重ねてないので苦しい。
何か考えると苦しいのでなんも考えずに逃げて寝て延命してたらこんなに終わってた。
予備校に行っても時間内に絵が描き終わらないしなんも悲しく無くても涙出てくるし
面談でもただ話してるだけなのに涙出てきてうまく話せないし
というか自分の考えとかないし
貸家だから吊れないし
迷惑かけまくってるのに刺されないし
今年はなんとか大丈夫になりたいです
といっても事故にあったわけではない。
事故を聞いたのは授業前、担任が「なんか福知山で脱線事故があったらしいよ」と言いながら教室に入ってきて、少し教室がざわついたものの、いつも通り授業が始まった。私は今朝も「福知山行き」と書かれた電車に乗って学校に来ていたので、なんとなく落ち着かない気持ちで授業を受けていた記憶がある。
事故後も私は学研都市線を使って大阪と京都を往復する生活だった。学研都市線は福知山線に繋がっているので、時々事故のご遺族の方や、被害者の方を見かけた。
帰りの電車の中、ぎゅうぎゅうに詰まった電車の中で骨壺を抱いていた喪服の男性。最初気づいた時には驚いたが、男性は背筋をピンと伸ばして一点を見つめていた。その横顔がとても険しかったことをよく覚えている。その表情を見て、周りの人も脱線事故のご遺族の方だとわかったのだと思う。途中で中年の女性の方が男性に声をかけていた。何を話していたかはわからないが、男性は少し頷いて、女性は手を合わせていた。
いつかの昼過ぎ。
その日は学校が早く終わり、帰りの電車の人はまだまばらだった。私の近くでカップルが静かに笑い合っていた。
途中、男性二人が電車に乗って来た。大柄の男性と、小柄な男性。二人は私の正面に座った。
大柄の男性は、見た目通りの大きな声で豪快に笑い、小柄な男性はそれを聞いたり突っ込んだりしていて朗らかな雰囲気だった。私はうるさいなと思いつつ漫画か何かを読んでいた。
しばらくして、走っていた電車がゆっくりと速度を落とし止まった。車内アナウンスでは路線に障害物が何とかと言っていた気がするが、田舎の路線なのでこういう事はよくあった。すぐに動くだろうなと思っていたら、さっきまで目の前で豪快に笑っていた男性が、だんだんと顔色を変えて慌て出した。
最初は「勘弁してくれ」「なにがあったんや」と話してていたが、だんだんそれが早口になっていって「やめてくれ!」「なんで今やねん!」という風に、声を荒げてパニックになっている様に見えた。
隣の小柄な男性がまあまあすぐ動くからと落ち着かせている様だったが、男性は背中が座席の背もたれに張り付いた様になって、硬直している様にも見えた。そこから男性は早口で吐き出すように話し続けた。
福知山線の事故にあったこと。ずっと入院してて、今日やっと電車に乗れたこと。一緒に電車に乗った友達は人の形をしていなかったこと。
私は怖くなって下を向いていたが、そこから動くことも出来ず、ただ男性が吐き出す言葉を聞いていた。隣にいた小柄の男性も、なにも言えずに男性に寄り添っていた気がする。時々「大丈夫ですから」と周りに伝えている様な声がしたが、同じ車両にいた人はみんなただただ男性の言葉に耳を傾けるしかなかった。
しばらくして電車が動き、男性は次の駅で降りていた。土のようになった男性の顔色をよく覚えている。さっきまで笑い合っていたカップルが「凄かったね…」と声をこぼしていた。事故から数年が経っていた頃だった。
あれからもうすぐ18年目が経つ。
https://www.jreast.co.jp/railway/joyful/slgunma.html
高崎から水上まで土休日・祝日に限定して運行されているSLみなかみ号なんだけど、運行日には多くの鉄道ファンが訪れる。
SL自体に乗車する乗り鉄はもちろんのこと、終点の水上駅には車でやってくる撮り鉄も多い。
水上駅構内にはターンテーブルがあり、折り返し運行のために蒸気機関車の向きを変えるシーンが人気になっているんだよね。
ところで、このSLみなかみ号は終点・水上温泉や上越線沿線の活性化のために運行されている。
つまり今話題の温泉娘達と同じ存在であるといっても過言ではないだろう。
群馬県の水上温泉は、谷川岳に程近い場所にあり、利根川上流沿いの静かな雰囲気の温泉街でそれが売りになっているんだけど、その温泉街に撮り鉄が大挙して押し寄せているわけよ。
その撮り鉄たちが温泉街にお金を落としているかというと、かなり怪しい。
沢山書いたやで
・実名主義
80年代末まで偽名でも銀行口座が開けた。だから複数の社会的人格を持って経済活動する事ができた。
職場で旧姓を使い続けても問題無かった。1986年に米国でマネロン規制法、その後1990年までに国際的取決め、日本もそれに倣い口座の実名証明必須になり社会でも実名主義が当然になった。
MDMAが非合法化されたのは1991年頃(うろおぼえ)。クラブシーンやレイブパーティでは当たり前に使用されていた。
心臓発作を惹起する為に規制。m.o.v.e.のmotsuが所属していたMORE DEEPの曲には「エクスタシーをキメていた頃」というフレーズがある。
90年代のクラブではマリファナは普通に喫われており、自分は使わなくても中に居ると副流煙で景色がとろけてくる、肉体遊離感が起きるというのは当たり前だった。また自衛隊員も米兵経由で入手する者がおり、除隊後に北海道野生パカロロツアーとかアムステルダム飛びツアーなどを企てる人もいた。
・式場での結婚式
1970年代からブライダル産業が隆盛し一般化した。これ以前は神前式、キリスト教教会一般的。
団塊世代のロマンチックラブイデオロギーのため。この以前、地方では婚姻の自由は憲法上の絵に描いた餅であり、親が決めた相手と結婚して神前式を挙げるのが当たり前で共同体から排除されないための義務だった。
団塊世代はそこからの逃避の為にフォークソング等でキリスト教式を称揚し、そのニーズに答える産業が発展して定着した。
古い評論を読むと戦中派、戦前派が式場での披露宴に憤っている文章がよく出てくる。
1990年頃まで日本人の公共空間でのマナーは先進国ぶっちぎりで最低であり、酔って吐く、道にゴミや噛んだガムを捨てる、タンを吐くなど当たり前であった。終点近くの長距離列車車内はぶん投げたゴミだらけだった。
・外国で旅の恥をかき捨てない
かつて旅の恥はかき捨てで、特に海外での不行跡が酷く日本人旅行者(特に団体)は眉を顰められる存在だった。
遺跡に名前を彫ったり、腹巻で目抜き通りを歩いたり、コンダクターに痴漢行為をしたり、名跡で立ち小便したり、売春ツアーをしたり、現地女性に「ハウマッチ」と聞いたりもの凄かった。
これを西洋は宗教倫理の文化で日本は恥の文化、共同体の外では恥の羈束力は働かないからだ、と説明されていた。
電話には加入権というものがあり、契約時に設備負担金を払う必要があった。金額は7万円と高い。
この為に電話加入権を売買したり、質に入れるという商売があった。2003年頃から段階的に廃止された。
森内閣の「IT革命」まで自治体や省庁のホームページは夜には繋がらなかった。これは庁舎内のドメインコントローラWindowsNTサーバのIIS(インターネットインフォメーションサーバー)サービスでHPを提供していたため。
終業時間になるとサーバとルータの電源を落として帰っていた。サイトの作成は役人の趣味みたいな感じで作っていた。
1998年ごろまでLANを構築していないオフィスというのが結構あった。プリンタはパラレルポートで繋がれていたので、このパラレルケーブルを切り替える「プリンター切り替え器」というKVMのような装置が使われていた。
駅のトイレにはトイレットペーパーが無く、入口に100円の紙販売機があるのでそれを買っていた。
民営化したJRが紙の常置を始め、1990年代前半に他社も倣った。
90年代中頃まで路上駐車は当たり前に見逃されており、国道などの最左端は駐車車両で埋まっていた。駅近くでは駐車車両とタクシーの客待ちで二重駐車になっていた。
2000年頃から増える。警察が路上駐車取締強化してから10年ほど、駐車場が無いのに路上にとめると必ず検挙という無茶な状態が続いていた。
和室は必ず設定されており、末期には3畳の納戸だけが和室なんてケースもみられた。1990年代前半に無くなった風習。
家電量販店が増えて競合で出来るようになると消耗品以外の商品価格は隠され、店員と交渉で決めるという風になった。この為に店員は電卓を持ち歩き、電卓を叩いて値段を表示した。
客足が減る悪習なので1990年代頃に取りやめられた。
バブル後の都の財政難の打破を喧伝して都知事になった石原慎太郎(1999年~)は増収策として無断で道路にはみ出し設置されていた自販機と建物袖看板の道路使用料徴収を持ち出した。これまで自販機は当たり前に道路にはみ出して置かれていた。
これに対応して既存機の撤去とスリムタイプへの交換が進み、他県でもはみ出し設置にならないスリムタイプが標準となった。
以前は富士通系の親指シフト配列を好む人が居たり、電源のオンオフ、リセットなどの余計なキーが付いている配列があった(誤爆シャットダウン頻出)。
2006年ころに一世を風靡したネットブックでSSDが一般化したが、最初の数年の製品は数秒に一度ごと動作が止まるなど酷いものだった。
嘗ては電気電話水道など公共料金というのは各社の窓口か郵便局、銀行で「公共料金振込用紙」に書いて振り込むものだった。
当然平日3時までしかやっていない銀行に会社員が行けるわけがない。
そこで振り込みの為に仕事を中抜けするというのが黙認されていた。自動引落設定、コンビニ払いが一般化した1990年代後半頃に消滅。
18才は未成年で飲酒できないはずだが、大学生は成人したものと見做され飲酒は黙認されていた。
ゼミの飲み会で普通に教授も参加して飲んでいた。警察も何も言わなかった。
・線路を歩かない
都電やローカル線などでは近道の為に線路を歩いていく人が普通にいた。電車進来時に警笛を鳴らされるが線路わきに避けていればそれ以上の事は何も言われない。トンネルや鉄橋で出くわすと流石に怒鳴られるがそれだけ。ストの時は皆線路を歩いて行く。家の玄関が線路に向いている家も普通にあった。引っ越し作業は大変。
90年代中頃に写真撮影する鉄オタの事故が連続し、その後厳しくなっていった。
初代のスーパーカブの取扱説明書などには「ビールコップ一杯程度なら良いが、ウイスキーは酩酊するからダメ」と書かれている。
・小銭を所持しないで外出
1000円札の読み取り装置が一般化したのは1980年代中頃。それまでは鉄道の券売機でもバスでも小銭しか使えなかった。
この為、小銭の所持数が足りないとお金が払えないというのが当たり前だった。売店でガムなどを買って両替するのが必要だった。万券を両替する為に少額商品を買うのは喧嘩を売るのに等しく勇気が居る行為だった。常に所持している券種と小銭額の把握は必要だった。
1989年の消費税導入まで物の価格は全て10円刻みになっていて1円玉は公共料金以外殆ど使われていなかった。
・個室
和風の家の部屋割りは個室という概念が無い為、都会を除いて1960年代までの日本人はプライバシー空間というものが無い生活をしていた。個人あての手紙は親が勝手に開けて読んでいた。
・個人
家にプライバシーが無く、また会社もイエが準用される社会だった為に「社員のプライバシーに踏み込む」という感覚が余りなかった。
「会社以外の自分」も大事だと言い始めた団塊世代は「個人主義」と罵倒され、80年代世代は「新人類」と宇宙人扱いされた。
ウオークマンは街で個人的空間に浸るものだとして批判の対象になった。個人主義はそれ自体が罵倒文句だった。
全共闘運動はあらゆる権威を攻撃し、大学の知の権威というものも破壊した。この為その後大学教授というのは学生に対して尊敬されない状態が継続。やがて学生は脱政治化したが大学や学問には敬意が持たれず、特に文系では学生が誰も勉強せずレジャーランド化した。
90年前後の大学改革でICUや上智の比較文化など厳しいカリキュラムに注目が集まり、学生が勉強するという当たり前の状態が復活した。
この為に卒業年1994年頃を境に知識やモノの考え方で極端な程の違いがある。
・様々な塩製品
塩は国家専売品だったので専売公社の製造する塩以外の岩塩、ミネラル入り塩、胡椒入り塩などは製造販売禁止だった。塩の小売りには国の許可と標識の掲出が必要だった。
・「メイド喫茶」などの語
「メイド」は放送禁止用語だった。基本住込みで働く為、身分制や階級制の象徴のような職業であって、戦後の身分平等にそぐわないと見做された為。メイドは家政婦と言い換えられ、住込みでなく通勤が一般的な「雇用」となった。
一周回ってメイドの構造が過去帳入りした為に「メイド喫茶」などで使うのが問題視される事が無くなった。2005年頃。
・キャノーラ油
キャノーラ油の原料は菜種。
米国では菜種油を食用販売することが禁止されている。この菜種油の成分を調整して販売を認めさせたのがキャノーラ油。
米国で生産量が増加した後に日本に入ってきたので、一般化したのは1990年代。
過払い金などの広告が出来るようになったのは弁護士法が改正された2000年から。それまでは屋号や執務時間などの表示のみ。
1991年に大店法が改正されるまではデパートの閉店時間はPM6時、スーパーの閉店時間はPM7~8時というのが相場だった。更に定休日もあった。
基本的に地元の商工会の意見で決められていた(大店法の定めによる)。これの改正が商店街の全滅に繋がった。
・生ビール
ビールは酵母菌により発酵するが、発酵が進みすぎて飲み頃を過ぎると酸っぱくなってしまう。飲み頃に提供するのが生の地ビール。
この為ビン缶詰では熱で酵母を全て殺してから詰める必要がある。
1970年代末にサントリーがフィルターで酵母を除去する製法を開発。飲み屋への営業力を活かしてジョッキ生を広めた。この為初期は生=サントリーだった。後に各社が参入して生戦争が勃発。
だから地ビールの生はずっと昔からあったが、全国流通製品の生ビールはサントリー生が1970年代末、その他の各社は1984年ごろから。因みにサントリー生より生じゃないキリンラガーの方がずっと美味い。
バブル期の好景気期に端緒。残業上限規制が導入され36協定があっても残業上限40(80かも)時間/月の行政指導が主に大手企業に行われた。
それまで残業代はフルチャージだったが計算上打ち切るという慣行が発生。それらの会社はタダ働きしてると奇異の目で見られた。
これが平成不況時に残業代は基本支払われずに長時間労働という慣行に変化していく。当初の指導の対象外だった中小企業ではずっと残業代フルチャージだったがこれらにも悪習が伝播していった。
1990年から。1970年代にも導入が試行されたことがあるが全く普及せず直ぐに撤去された。例えば地下鉄では1974年開業の有楽町線池袋駅だけに自動改札機があり、同駅の入場だけにしか使われていなかった。これも後の1986年頃に一度撤去。札幌地下鉄などでは当初より継続して使われていたのと対照的。
1995年以降。それまでササニシキが絶大な人気だったが、冷害に弱く1993年冷夏で全国的な米の不作が発生、大騒動になった。
冷害に強いコシヒカリ系の後継種、あきたこまち、ひとめぼれが席巻するようになった。
駐車違反にバイクと車の別はないが、バイクの駐車違反は2006年まで摘発されていなかった。摘発を民間に委託してインセンティブを付加し原付まで摘発するようになると店舗に駐輪場が無い都心ではバイク移動が不可能になり、バイク市場が干上がる効果となった。
・大学生の専攻無し
学部でも一部以外では専攻は必ず取るものだったが、1990年代初頭の教育学部ゼロ免課程の流行や福祉大などの開学で専攻無しの学生が増加。1990年代後半から。
そのとおりだ。
一日16時間拘束、休みは"4週6休"という代物で土日祝なんて当然ない。休日出勤は「廃休(【はいきゅう】字のごとく、休みが廃れてなくなること。代休などという概念は、無い)」で通常出勤扱い、手当なんてものは、ない。そんな廃休が月に2~3度ある。
しかし真のブラックぶりを表すのは、運転手が事故を起こした時だ。
支払保険料が増えると、営業所長は本部から完膚なきまでに吊るし上げられる。
それを何としてでも阻止したい営業所長はどうするかというと、保険を使わせない手段をとる。
俺は以前、転回所(終点からUターンする場所のこと)でバックしているときに隣接する民家のブロック塀に接触して損壊させたことがある。
その修理費用、99,800円を、自腹で払わされた。
営業課長が手書きでメモした謎の銀行口座に振り込む形で払わされた。
仮にもうちの会社は(バス会社なんてどこもそうだろうけど)地場大手。
なのにこのド・ブラックぶり。
あーアタマにくる。
エスカレーターに対して歩き移動を抑制する根拠はほとんどがデザインの失敗の問題であり、利用者に求める方がおかしい話だから
・メーカーは立ち乗りを推奨している
エスカレーターが利用されて何十年経ってると思ってんだ?
歩いて移動してる人が当たり前にいる現実がある中で必要な耐久性を確保してないメーカー側の無責任のツケをユーザーが払う必要がどこにある?
・片側立ちは効率が悪い
部分的には事実だが、実態とは異なってると体感では思っている。
歩行のトラフィックが半端に多い時(エスカレーター片側の運搬量より若干多い)は片側にトラフィックが集中して無駄な行列が発生しているのは事実だが、
通勤ラッシュなどの確実に混雑する状況では片側立ち+歩きの列が自然に発生しており、利用者の心理状況に応じて最適化が行われている。
片側立ちで待つのがイヤな人は待ってない。
・事故が多い
物理的には始点と終点以外は慣性が働くだけの階段だ。それでエスカレーター歩行で事故が多くなると言われても不思議なことで、
日本エレベーター協会は事故原因に占める割合が多い項目として下記の原因を挙げている。
1)手すりを持たず転倒する(両手に荷物など)。
3)踏段上を歩行し、つまずき転倒する。
5)逆走して駆け上がり(又は駆け下り)、転倒する。
3)踏段上を歩行し、つまずき転倒する。 はエスカレーター歩行が明確な原因だが、階段歩行より有意に危険なのか検討されたかを見ていない。
おそらく降順なので第三位の原因なのだろうが、大問題といえるかどうかは微妙なところだ。
めちゃくちゃ雑に類推して原因の20%だとしても、2018年調査の608件中の120件だ。
日本中の69,907台のエスカレーターで1年中利用して120件。現状でもめちゃくちゃ安全な乗り物じゃないだろうか。